イエズス会・天草四郎時貞・島原天草の乱と原城・奴隷貿易・コンフラリア

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九州歴史発見シリーズ
戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(11)

最強の天草四郎鉄砲軍団の実態とは
悲劇の主役は、一体誰だったのか?
何故に、ここにきて千々石ミゲルなのか
天草四郎は、本当に千々石ミゲルの息子なのか?


東洋医学史研 究会
宇田明男



●日本最強の天草四郎軍団の実態とは
やがて3万7千人の勢力に膨れ上がった反乱武装勢力は、島原の旧有馬家の居城であった廃城・原城址に集結すると、ここを補修して篭城した。
「一揆の奴原原之城へ取籠事は10月28日頃」(「島原一揆松倉記」)と記されている。
当初は島原や天草の貧農が主力の一揆勢とみられていたが、意外なことに彼らはその装備として鉄砲(2千丁以上)や弾薬といった軍事物資が十分に用意されていただけでなく、彼らの多くは戦場での戦闘員として、また傭兵要員として西洋式の戦闘訓練がなされていた者達であった。
その証拠に、天草での初戦において反乱勢5000人に対して唐津藩は1500人の藩兵を出したが、押し寄せた反乱勢の猛攻に圧倒され次々と敗走するうちに、終には本陣にまで攻め込まれ天草番代であった大将の三宅藤兵衛は討死してしまう事態に追い込まれる。
これに続く天草・本渡城や富岡城の城攻めでも圧倒的な戦闘力を示し、反乱勢はそのまま勢いに乗ったかたちとなった。
同様に蜂起していた島原勢も、最初の深江村での島原藩との戦闘で相手を巧みな作戦と手慣れた鉄砲攻撃で瞬く間に撃破してしまっていた。
こうした猛烈な反乱武装勢力の進攻に対して、島原藩や唐津藩などの弱小大名の常備戦力ではとうてい太刀打ちできず、反乱勃発時の初戦でさえも容易には鎮圧できなかった。


天草の反乱勢1万4千人は、予てより手筈を申し合わせていた通り用意されていた舟で島原半島に渡り、そこで島原城攻撃中の島原勢2万3千人と合流した。
こうした反乱勢の動静や戦力について、当初においては地元の諸藩も幕府側も正確には掌握できておらず、結果的には反乱勢の巧みな作戦に翻弄されるばかりで、緒戦においても鉄砲による狙撃や激しい銃撃戦によって多数の犠牲者を出す不手際が続いていた。
急遽集められた近隣諸藩の討伐軍のあいだには「たかが百姓らの一揆ごときが」という侮った意識が先行していて、緒戦では度々無様な戦闘を繰り返す状態であった。
このとき討伐の兵を出した九州の近隣諸藩にはそれぞれに思惑があって対立しあっており、しかも幕府の定めた厳しい武家諸法度がかえって軍事行動の足枷になって相互に連携した攻撃もとれなかった。
その隙を突かれて討伐軍は反乱勢の組織的な攻撃に翻弄された状況が続き、その結果反乱勢との攻防戦は予想外のこう着状態に陥ってしまった。
その間の討伐軍と幕府上使との作戦や戦略上の連携もうまくいかないまま無理な攻撃に出たことで、最終的には幕府側は8千人以上の犠牲を出すこととなる。


これに対して反乱勢力側は万全の戦闘体制を整えていた。
「松浦拾風土記」に記されている反乱勢のこのときの陣容をみても、とても百姓一揆のものとは思えない強固な布陣の様相を見せていた。
「大将は天草四郎太夫判官時貞、本丸に上着す。
附随の者は芦塚忠左衛門・渡邊傳兵衛・ 赤星主膳・馬場休意・會津宗印・同右京允・毛利平左衛門・林七左衛門・松竹勘右衛門・三宅治郎右衛門・久田七郎右衛門・泰村休次・折田杢之丞
天草四郎と天草・島原の乱 本丸口 山田右衛門佐・大浦四郎兵衛、他二千余人
二の丸 千束善右衛門・上総助右衛門・同三平・戸島総右衛門、他五千二百人
二の丸出丸 岡崎刑部、他五百人
三の丸 大江源右衛門・布津村吉蔵・堂崎対馬頭・有馬久右衛門、他二千五百人
三の丸出丸 有馬掃部、他五百余人
大江口 大矢野三左衛門、他一千四百人
江尻口 蓑村右兵衛・木場作右衛門安徳、他六百余人
田尻口 深江次右衛門、他五百余人
予備 大矢野松右余門・山下善左衛門、他二千余人」



●何故に日本最強の鉄砲軍団といえるのか
反乱勢の中心勢力は、それと分かる戦慣れした武士たちが頭として名を連ねている。
天草四郎と天草・島原の乱 反乱勢に実戦経験豊富な浪人集団がいたことや戦闘員が鉄砲の扱いに手馴れていたことは確かであるが、それにしても何故にこれほどまでに彼らは圧倒的戦力を保持していたのであろうか。
まずその軍勢の規模を考えただけでも不思議ではあるまいか。
しかもこの後に続く城攻めの緒戦だけでなく、海岸沿いの廃城に篭って3ヶ月以上も激しい戦闘を続けるられる弾薬の備蓄量そのものを考えたとき、それが半端ではないことが容易に理解できるはずである。
一体、誰がこのような戦闘能力の高い集団を練兵してきていたのか。
何故に貧農集団に大量の鉄砲弾薬が用意できたのか。
さらに反乱勢は目敏く藩内の武器倉も襲撃して、武器弾薬を強奪していた。
何故に小大名の武器倉に大量の鉄砲があったのか。
これこそ島原・天草の乱の大きな謎ともいえるだろうが、これらの装備の多くはイエズス会が日本を離れるときに残していった遺産ともいうべき戦略物資であり、数千丁の鉄砲弾薬などの大量の軍事物資が各地に秘匿温存されていたからに他ならない。
これらは隠蔽しがたい事実である。
篭城した原城自体が火薬の生成に関連した施設を有していたともいわれ、もとより反乱勢は火薬生成技術にも精通していた。


天草や島原の土地では早くにキリスト教の布教が始まったこともあって、宣教師やポルトガルの商船が頻繁に島原の口之津や天草の港に渡来してきていた。
この地は総じて肥沃ではなかったが、大村や有馬の大名は、南蛮との交易によって莫大な物品輸入税を手にすることとなり財政が潤った時期があったことで、領内では過剰なほどの軍事投資が行われていた。
当然、そこではキリシタン勢力による奴隷を対価にした取引も行われており、その結果として皮肉な展開であるがそうした海外交易によって領内での鉄砲の普及も急速に進んでいった。
海外から火薬の原料である硝石さえ入手できれば、他の硫黄などの原料は近くの雲仙岳周辺からそれこそ無尽蔵に確保できた。
港近くの硝石の集積地では火薬の生成作業も行われていたから、早い時期から領内に実質的な火薬供給の拠点も持っていたことになる。
まさにこの土地特有の地政学的背景として、少なからずそうした軍事技術と軍事物資の蓄積があったということである。
また一方では、有馬氏の転封の際にも改宗して異教徒となった主君に従わず、地元にそのまま浪人として残ったキリシタンの旧家臣団も各地に点在していたのである。
戦国時代を生き残った彼らの中には、当時西洋に留学した者もいて南蛮の兵法や軍制にも通じていた。
この地は九州の僻地というより、逸早く海外に、それも南蛮キリスト教諸国に目を向けていたことをしっかりと認識しておかなくてはならない。


この土地の土豪や農民らは、慣例として日頃から集団で緊密に連携しながら田畑を荒らすイノシシや猿、鹿などを巧みに鉄砲で討ち獲っていた。
田畑を害獣から守るという名目で、領内の農民には鉄砲が貸し出されていたというから驚きである。
それこそ村々には、鉄砲を扱い慣れた射撃名人がぞろぞろいたわけである。
その規模と機動力のある戦闘能力から見れば彼らは鉄砲を装備した当時日本最強の武装集団の様相を呈していたといえる状況にあったはずである。(注:1)
当時もこの事実はほとんど外部には知られていなかったであろうし、現代でもこの九州の一地方に、日本でも最強の鉄砲集団が存在していたという歴史的評価を下す人もまず皆無であろう。
しかもその根底には、キリシタン特有の厳しい掟の基に発生した、いわゆるコンフラリヤを核とした軍事的連携組織が領内各地に構築されていて、そうした命令系統が見事に機能していたという事実があったことがまず挙げられるであろう。(注:2)
興味深いことは、反乱勢そのものが国人衆や土豪、地侍たちの結合した集団ということで、これは従来の紀州の根来衆や雑賀衆といった鉄砲集団と似ている部分があるともいえるわけで、特に集団による鉄砲を駆使した戦闘法を得意とする点ではまったく同じであった。


これは近代に見られるヨーロッパの軍隊組織に近いものか、あるいは傭兵団組織の原型ともいえるものであって、当時の日本でも特異な形態であったであろう。
たとえ身近に大量の鉄砲弾薬があったとしても、それを縦横に駆使して戦うだけの戦闘員が揃っていなければ、反乱行動までには繋がらなかったはずである。
反乱を主導した鉄砲軍団そのものが、この地において短時日に形成されていたとはどうしても思えない。
そうした用意周到な反乱計画そのものが、秘密裏に練られていたことは想像に難くないところである。
もとよりそれ相応の強固な戦闘体勢が備わっていなければ、これだけの規模の反乱を企てることも、広範囲に連携した一斉蜂起も出来なかったことは確かであろう。
まさしく反乱勢は相当な準備期間の下に綿密な内乱計画を決行したわけで、そこに天草四郎を彼らの盟主と仰ぎつつ、九州に独立したキリシタン王国建設を目指した壮大とも思える行動計画があったということになる。
当初より天草四郎本人に大きな野望があったわけではなく、彼の才知に目を付けた浪人集団が巧みに演出して宗教的カリスマ性を創り出していったといえるであろう。
これに領内の迫害されていたキリシタン信徒が、反乱軍の中心勢力である浪人集団によって巧妙に誘い込まれ、次々と加担させられていったというべきものであった。


●鉄砲二千丁による猛攻とその後の悲劇
幕府からは乱鎮圧のためまず上使として御書院番頭の板倉重昌(三河・深溝藩主)を派遣したが、篭城した反乱勢と対峙したまま容易には攻略することが出来ずに1ヶ月以上経過していた。
反乱勢の巧みな鉄砲攻撃に幕府側は攻めあぐねていたのである。
これに号を煮やした幕府は、ついには第二陣として老中・松平伊豆守信綱を援軍として派遣する事態となる。
まさしく、これでは幕府の初動時における差配そのものの失敗であり、幕府の権威丸潰れの様相を呈したのであった。
幕府上使役の板倉重昌は、京都所司代・板倉勝重の次男であるが、父親の勝重はかって村山等安の息子、ジョアン・パブロおよびペドロを京都で処刑しているわけで、役目柄とはいえここでも反キリシタン側としての因縁が絡んでくることになる。
松平信綱が到着する直前の1638年1月1日、立場上窮地に追い込まれた上使板倉重昌は、手勢の兵を率いて決死の城突入作戦を敢行する。
死を覚悟して自ら先頭に立った吶喊攻撃であったが、反乱勢の激しい反撃で忽ち額を打ち抜かれてあえなくその場で討ち死にして敗退してしまう。(注:3)
この時点での幕府側の戦死者は4000人、対する反乱勢側の死者はわずか90人ほどであった。(「徳川実記」)
それまでの力ずくの幕府討伐軍側の攻撃は、ことごとく失敗したのである。
ここでも、反乱勢の巧みな西洋式戦法と2千丁の圧倒的な鉄砲の火力とを見せつけられる結果となったのは言うまでもない。
それこそ討伐軍が槍、刀で攻め寄せ、それを反乱軍が鉄砲で応戦するというおかしな図式である。
この事実を見ても、幕府方が対戦している相手がただの百姓一揆勢などではないことは明白であろう。
相手が討伐軍さえもはるかに凌駕する強力な戦闘力を持っているわけだから、どうみてもこれは大乱であって、彼らが対峙しているのは反乱軍勢力という認識に立つべき状況であったと言わざるを得ない。
ましてや天草・島原の乱を百姓一揆などと決め付けるのは、それこそ姑息な歴史的欺瞞でしかない。


ようやくここに至って、幕府も慌てて九州諸藩より急遽12万5千もの兵力を集めて一気に軍容を拡大し、兵站を大量投入するなど、この戦に費やされた軍事的エネルギーそのものの規模は、かっての関が原の合戦や大坂の陣どころの話ではなくなってくることになる。
それまでの国内で繰り広げられてきた戦闘様式と異なる、まさに西洋式の異国のキリシタン勢力との戦いという認識に立つべき戦いであったはずである。
十数万の軍兵が衝突した大規模な戦闘といっても、その戦死者の数だけを単純に比較するなら関が原合戦は短時間で終結して、その犠牲者数も7000人ほどのものであった。
根底からして、その戦闘規模が異なるわけである。
篭城した原城内の反乱勢の士気はたかく、その中心となる戦闘要員そのものは実質8千人規模であったといい、これに対して実に15倍近い幕府方兵力が原城周辺に続々と攻め寄せていた。
反乱勢は僅か8000人余りの戦闘員で、幕府側討伐軍を迎え撃っだけの力を養っていたということになる。
鎮圧軍には、農民も多数駆り出されているわけで、それこそここでは農民が農民一揆を攻め立てる側に付いたのかということになる。
反乱鎮圧にこれだけの大規模な軍勢を投入した合戦記録がありながら、そこらの一揆扱いとはまったくもって笑える話である。
少なくとも地元九州人の感覚としては、天草島原の乱が単なる百姓一揆であったとは到底思えないところである。


●ついにはオランダ艦船の手を借りる
天草四郎・天草・島原の乱手を拱いた幕府方は1月11日、平戸のオランダ商館に大量の火薬を発注したのであるが、これだけでは足らず、続いて2月15日には破壊力のある大砲の搬送を急遽要請した。
幕府からの急な要請にオランダ商館は陸戦用の大砲は用意できなかったので、仕方なく手元にある艦載砲を搬送することにした。
このときオランダ商館長ニコラス・クーケルバッケルは、「私たちが所有する最も大きい大砲を与えた」とその対応を報告している。
2月19日、巨大な船砲五門(ゴーテリング砲)は2隻のオランダ船で平戸より搬送され、ようやく島原の海岸に陸揚げされた。
このときクーケルバッケルの指揮するオランダ船デ・ライプ号とベッテン号の2隻の艦船は、討伐軍から反乱勢が篭る原城への艦載砲による砲撃を要請された。
この要請が松平伊豆守信綱のとっさの判断であったのかどうかは不明だが、この決断には相当な覚悟がいったことであろう。
オランダ商館長ニコラス・クーケルバッケルはどこまでも沈着冷静な人物であって、彼はこの攻防戦を観戦してその都度適切な助言を幕府方に示していた。(右の画像は、当時のカノン砲とゴーテリング砲)
彼はこの幕府側の攻撃要請を了解すると、その直後の2月24日から3月12日まで15日間に渡って洋上のデ・ライプ号から砲撃し続けた。
そしてこのときデ・ライプ号に装備された全16門の積載砲からは、426発の砲弾が凄まじい轟音と共に次々と反乱勢が篭る原城に向かって打ち込まれたのであった。(注:4)


オランダ商館の艦船がここで攻撃を請け負ったのは当時のオランダ独立戦争(1568〜1648年)と無関係ではなかった。
この時期ヨーロッパでは、ネーデルラントのプロテスタント勢力が、カトリック国スペインの支配から脱するため反乱を起こしていたからである。
松平伊豆守信綱はこの海外情報を幕府重臣として、すでに知っていたわけである。
それこそ篭城している反乱軍がカトリック系のキリシタン信徒であれば、ここは一矢報いるべきとオランダ人クーケルバッケル艦長も判断したことは確かであろう。
天草四郎・天草・島原の乱当初より島原の反乱勢とローマ教皇(もしくはイエズス会)との間には、内乱が起こればカトリック教国(ポルトガル)から援軍を送るとの密約があったという説があり、すでに松平信綱にもこの情報は伝わっていた。
このことが当初より反乱勢は知らされているからこそ篭城戦に持ち込んで激しく抵抗し続けているとして、幕府側は苦肉の策としてオランダ艦船による攻撃を要請したのだともいう。(注:5)
ヨーロッパでのオランダ独立戦争の影響がなかったなら、カトリック教国からの援軍も実際にやって来たかもしれないところである。
しかしながら、ちょうどオランダ独立戦争の最中であったことから、オランダからみれば航海中のポルトガル船は格好の攻撃目標でもあった。
結局のところ、たとえ反乱勢からの援軍要請が事前にあったとしても、この時期にカトリック教国から軍船を派遣できる状況ではなかった。(注:6)
反乱勢の当初の目論見は失敗したことになる。
オランダ艦船による原城攻撃は、そうした援軍が来ないことを篭城し続ける反乱勢にはっきりと見せ付ける意味もあったことになる。


●悲劇の主役は、一体誰だったのか?
デ・ライプ号とベッテン号は原城に向かって全弾を打ち尽くすと平戸へと意気揚々と帰還していったが、反乱勢はこのオランダ艦船による連日の砲撃にもよく耐え抜いた。
篭城している反乱勢から「日本国中にしかるべき武夫の何ほども候わんに、和蘭人の加勢を乞うこと、如何なることに候や」と揶揄した矢文が、幕府側に放たれたのもこの時のことであった。
このように反乱鎮圧に外国の応援を求めること自体恥であったが、対する幕府方はそれほどに無様な戦闘体勢しか取れなかった。
一説によると、このときすでに幕府方の兵力は総勢16万にも達していたのだともいう。
幕府方はそれだけ多くの兵力を投入しても、反乱勢側の鉄砲による猛攻にはどうしても正攻法では落とすことが出来ず、攻めあぐねて結局兵糧攻めということになった。
幕府としても、これ以上の犠牲を諸藩に強いることはできない状況にまで追い詰められていたというべきかも知れない。
それにしても、この間の戦闘に反乱勢が90日も持ちこたえたということは、それだけ彼らの装備する鉄砲の威力が当初から凄まじかったということに他ならない。
何故にこれほどまでに反乱勢が多くの鉄砲を装備しているのか、何故にこれほどまでに鉄砲による戦に手慣れているのかといった疑問を幕府は持ったことであろう。
反乱勢の手強さというものをこの攻防戦では幾度となく討伐軍の陣営は思い知らされたはずである。
この島原での大乱の攻防の様子は遠く京、大坂にも逐一伝わっていて、篭城戦とはいえ反乱勢の巧みな銃撃戦と次々と狙撃され撃ち取られていく幕府方の攻城戦をわざわざ見物に訪れた者も少なくなかったという。
見物人を多く集めた戦闘としても人々の関心を集めたのである。


2月28日に、原城は飢餓状態に陥ってついに落城した。
幕府方寄せ手は満を持して、本城に次々と斬り込んだ。
「悉く火を放ち、賊徒一人も残さず殺害し、午上の剋に凱歌を唱えた」(討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時18歳)の島原天草日記)とある。
天草・島原の乱天草四郎
篭城していた天草四郎もついに討ち取られた。
この最後の激戦での幕府側の戦死者は1100人、負傷者は7000人にものぼったという。
ここで忘れてならないことは、反乱勢と共に篭城していたために巻き添えになって殺戮された中には多くの女、子供がいたことである。
輝綱の日記には「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也(訓読:「剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」)」(意訳:女子供までもが、斬殺されることを喜んで死んでいった。これは普通の人間の心境ではあり得ず、いかに宗門が彼らのうちに浸透していたかが分かろうというものだ)とある。(「島原天草日記」・「続々群書類従」)


さらにここで注目しておきたいことは、篭城した反乱勢は飢餓状態で落城した最後の日まで女、子供を戦闘員、非戦闘員の区別なく遇していたから、落城したとき彼らの多くが城内で餓死せずにどうにか生存していたということである。
厳しい餓死状態の状況の中で最後まで非戦闘員が生存できていたというのは驚きである。
幕府側の総攻撃直前に非戦闘員はその多くが脱出したともいわれるが、夜討ちをもっとも警戒しているはずの包囲網を潜り抜けて逃れられるほど守りが手薄なはずもなく、まずそこからの脱出は不可能であったと思われる。
当然発見されれば、即斬殺されるだけである。
最終的には天草・島原の乱によって反乱勢3万4千人が戦死したが、このとき生き残っていた3千人の女と子供もすべて皆殺しということで、落城の翌日から三日間にわたって次々と斬首されていった。
討ち取られた四郎と反乱勢の首は原城の大手門前で晒された後、四郎と首謀者の首は長崎の出島に運ばれ、南蛮人らに対しての見せしめとして7日間晒された。
このときの幕府の処置は事の外厳しく、散乱した反乱勢の屍は野ざらしのままこの地に10年間放置されたという。
幕府は、天草島原の内乱に呼応して引き起こされる同様のキリシタン信徒による反乱を日本全土で警戒した。
それと同時にキリスト教国が内乱に乗じ侵略することをもっとも恐れた。
それだけに、このときキリシタン信徒へ向けられた幕府側の憎悪そのものには熾烈なものがあった。
九州での未曾有の反乱を鎮圧はしたが、幕府の受けた財政的痛手は大きく、当時の年間歳入の3分の1という巨額の戦費がこの大乱鎮圧には費やされたという。(注:7)
まさしく国内最大の大乱であったことが認識されよう。


●何故に、ここにきて千々石ミゲルなのか
翌1638年、乱が鎮圧されてた後、長崎から伝えられた情報としてマカオのマノエル・ディアス司祭はイエズス会総長あての書簡で、不可解な内容の報告をしている。
「有馬のキリシタンはキリシタンであるがために殿から受ける暴虐に耐えきれず、18歳の青年を長に選んで領主に反乱を起こしました。その青年は昔ローマへ行った4人の日本人の1人ドン・ミゲルの息子であると言われています。彼らは城塞のようなものを造ってそこに立てこもりました」(1638年12月3日付)


千々石ミゲルは妻帯していたので当然家族もいたであろうが、彼の息子がここで唐突に登場するのは意外な展開であろう。
イエズス会がその後のミゲルの消息をどこまで知っていたかはわからないが、だからといって教会から離反した者の動向にまったく無関心であったということにはなるまい。
村山等安一族が一掃された長崎では、今まで以上に奉行所によるキリシタン探索が厳しくなってきていた。
騒然となりつつある長崎から隣接する諌早の地に移ったのは、、やはりイエズス会勢力圏から距離を置くということもあったはずである。
すでに諌早から島原の北目地区では別会派のドミニコ会がすでに台頭してきていたから、ミゲルが移り住むには都合が良かったということだろう。


天草・島原の乱天草四郎諌早から長崎に至る日見峠は、当時の長崎街道上の軍事的要衝であった。
島原の反乱軍も長崎へ入るには、諌早を通って日見峠を越えなくてはならなかった。
だが一気に北上していった反乱軍も、北目以北のキリシタンを自軍に引き入れることに失敗した。
そこでは激しい抵抗にあって、反乱軍は長崎への侵攻計画を断念することになる。
ミゲル本人は、島原が反乱軍の主戦場となる6年前に没していたが、長崎に至る要衝の地に身構えるようにして終の住処を置いていたことの方がむしろここでは関心を持たれるべきところであろう。


細川藩の探索によって、天草四郎(洗礼名ジェロニモもしくはフランシスコ)は肥後国宇土郡江部村の益田甚兵衛(洗礼名ペイトロ)の子であることが判明している。(注:8)
益田甚兵衛は小西行長の遺臣であり浪人であったが、江部村に居住する前はしばらく長崎に滞在していたといい、息子である四郎は生まれつき利発なだけでなく、手先が器用で奇術師まがいの術を使って人々を驚かせていたという。
彼らが小西家由来のキリシタンであって、長崎という場所で宣教師と繋がっていて西洋手品(マジック)などの条件が揃ってくれば、むしろここでは当時もイエズス会との何らかの接点があったことは十分に窺えるであろう。
イエズス会からみればミゲルは異端者であり、背教者でしかないわけで、益田甚兵衛や息子の四郎との関連はなかったはずである。
むしろ、この地のキリシタン勢力はイエズス会が日本に残していった火種の元であり、イエズス会特有の戦略的側面をそのまま受け継いだ戦闘的な勢力であったということになる。
マノエル・ディアス司祭には、ここで千々石ミゲルの息子だと断定するだけの確証が手元にあったとは思えない。
それこそ単なる噂、風聞に過ぎないであろう。(注:9)
それともマノエル・ディアス司祭は何らかの理由で、あえてここでかってのドン・ミゲルとイエズス会とを意図的に関連付けておきたかったのであろうか。実に、不可解な展開である。
イエズス会にしてみれば、教会を離脱して見限っていった憎むべき背教者の名前を、ここで持ち出すだけでも憚れただろうにである。


●キリシタン弾圧から鎖国へ
天草・島原の乱天草四郎あたかもキリシタンが主導、先導しての殉教的反乱のようにここで伝えることによって、また千々石ミゲルというローマにも知られた少年使節の名を持ち出すことによって、イエズス会によるこれまでの宣教活動の大きな成果を自ら掲示しようとしたに過ぎないように思えてならない。
いやむしろその逆に、この大乱の背後にはイエズス会があったとするより、その責をすべて背教者ミゲル独りに転嫁しておく方が後々のことを考え得策であるとしたのかもしれない。(右は、原城址)
天草・島原の乱は、本来その形態からして宗教戦争ではないとされている。


多くのキリシタンは、少なくともキリスト教の旗の下に集まり死んでいったが、意外にもローマ教皇庁は彼らを殉教者としては一切認めていない。
殉教者と認めてしまったら、この大乱の背後にはイエズス会が関与していたことを自ら認めてしまうことになり不都合なのであろう。
この反乱が時の為政者に向けられた戦いであったことや、反乱勢に正式な資格を有する聖職者がいなかったというのがその判定理由だという。
原城の発掘調査では、殉教者の持つ十字架やロザリオの珠、あるいはメダイ(メダイオン・メダル)などが遺骸と共に多数出土している。
資格のある聖職者が一人でも、同時に殉教しておれば、この大乱の死者はすべて殉教者になり得たとでも言うのであろうか。
少なくともイエズス会が一時期画策したかも知れない日本国内の内乱そのものが、こうした形で現実のものとなったことは、この地のキリシタンとっては最大の災禍であり多くの犠牲を強いられる結果となった。
この大乱の後、天草・島原の地は無人に近い状態となり、わずかに生き残ったキリシタン信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。
しかしながらこれに続く徹底したキリシタン弾圧と鎖国政策へと続く幕府の厳しい対応で、キリシタン信徒はもとよりイエズス会にも迫ってくることとなる。
もはやこうなれば、日本での戦略的宣教事業はここで頓挫したも同然であったであろう。
乱が発生する以前から、島原に隣接する細川藩でも次のような「キリシタン訴人懸賞令」を出して、領内全域での取締を強化していた。

  覚
一、ばてれんの訴人    銀子二百枚
一、いるまんの訴人    々 百枚
一、キリシタンの訴人   々 50枚、又は30枚、訴人によるべし
右訴人致し候輩は、仮令同じ宗門たりといふ共、その宗旨を転び申出に於いては、その咎を許し、御褒美御書付の如く可被下之旨、被仰出もの也   寛永十五戌寅九月十三日
乱が終焉した以降も継続して懸賞金を増額している。

幕府は、1639年(寛永16年)の鎖国令により、ポルトガル船の来航を一切禁止した。
これによって、イエズス会は以後二百数十年にわたって日本から締め出されてしまうこととなった。
1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船が来航したが、このときも幕府の対応は厳しく、使者61名を処刑してしまった。

(2010/10/05)


(注:1)(司馬遼太郎「街道をゆく十七」朝日新聞社・より引用――「なにしろ島原という土地は戦国の強豪有馬氏の旧領だけに、百姓でも鉄砲をよくする者が多かった。なかでも三会村(みえむら)の猟師で懸針(さげばり)金作という射撃の名手も籠城していた。さらにいえば鉄砲鍛冶の数も多く、また火薬や火縄をつくることに多くの者が長じていた。その点、戦闘力からいって、江戸期の他の農民一揆とはくらべものにならない。」――引用終わり)
(注:2)コンフラリアの掟:「拷問や侮辱などあらゆる苦難に耐え、強固な信仰を示せば救済される」(ジェロニモ・ロドリゲス作成「組ないしコンフラリアに関する覚書」より引用)
(注:3)乳下を射抜かれて戦死したという説、反乱側が投げ落とした大石に潰されて即死したという説がある。このときの辞世の歌「新玉の 年の始めに 散る花の 名のみ残らば 先駆と知れ」が残されている。
(注:4)このときの積載砲(船砲)はすべて対海戦用のカノン砲であり、攻城戦には不向きであった。幕府に対してクーケバッケル艦長は、陸戦用の臼砲ならば効果的な攻撃は可能だが、艦砲だけでは不可であり、また分厚い土塁に対して実体弾での艦砲射撃は効果が少ないと当初より述べている。
当時のカノン砲はオランダ製であり、ゴーテリング砲はイギリス製であった。
(注:5)後日、オランダ商館長ニコラス・クーケルバッケルは江戸幕府より原城攻撃を賞賛された。
(注:6)島原の乱と同時期に、インドのゴア沖でポルトガル船とオランダ船の間で激しい海戦があったとされる。
(注:7)一揆側戦闘員 - 14,000人以上(推定)、非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)。総計 37,000人。幕府軍:総勢 13万人、戦死者は8000人以上、戦費は約40万両という。
(注:8)四郎の母親 (洗礼名マルタ) と姉福 (レジイナ)ら、親族も肥後宇土の地で捕縛され乱の後で断罪となっている。
(注:9)四郎が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。馬印として豊臣の千成瓢箪が使われたという。


参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り 服部英雄・千田嘉博・宮武正登(編集) (新人物往来社)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「日本」デービッド・マレー著(1894)
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す」丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか −教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか −教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、 先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか






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