イエズス会司祭・天草四郎時貞・島原天草の乱・日本人奴隷貿易・ドミニコ会のモラーレス神父

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九州歴史発見シリーズ
戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(10)

国内最大の内乱が、西洋史観で百姓一揆にすり返られた?
キリシタン武装勢力、3万7千人の大乱勃発!
ここに、村山等安一族が残した功績を顕彰する
九州歴史発見


東洋医学史研 究会
宇田明男



●天草・島原の反乱は百姓一揆なのか?!
千々石ミゲルの死から6年後、寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原半島の天草を中心にして領民が一斉に蜂起し原城跡(長崎県南有馬町)に籠城した。
いわゆるこれが、定説では日本史上最大の一揆とされる天草・島原の乱である。
天草・島原の乱3万7千人規模の反乱勢に対して、最終的には12万5千人もの幕府側の大軍がこの原城を取り囲み、3ヶ月以上にわたって激戦が続くこととなる。
結果的には、この大乱の戦死者数は反乱勢側、幕府側双方合わせて4万5千人にものぼり、反乱勢側の3万7千人は投降した山田右衛門作一人を残して全滅させられた。
海で隔てられた異なる領国でありながら、天草、島原の双方の領民同士が談合して反乱を企てられたのも同じキリシタン同士であったからである。


このような連携した作戦行動が取られているのに、どうしてこれがそのまま百姓一揆だといえるのであろうか。
この反乱は、どうみてもムシロ旗、竹やりの百姓一揆とは様相が異なるものである。
とにかく勃発直後に鎮圧すべく押し寄せた討伐軍を逆に蹴散らしてしまったわけだから、その戦闘能力からしてここは貧農民の一揆扱いしたのでは不都合であろう。
そう考えると一揆という認識、もしくは歴史的評価そのものは明治以降の歪められた西洋史観そのものであって、実際には天草島原を中心にした未曾有の大乱というべきものであったはずである。
百姓一揆という以上、その主体となるのはどこまでも苛政に虐げられた貧農民であるはずであって、その実態は筵旗に竹槍をもって戦う姿がそこになくてはなるまい。
であるならば、この天草・島原の反乱の規模をして、一揆と言い切ってしまうこと自体笑止千万ということになる。
そもそも百姓一揆であるというのであれば、何故にこの内乱は短時日で武力制圧できなかったのか。
反乱軍の頭目や中心勢力は浪人とはいえ、戦慣れした武士団が率いていた。
しかもその戦闘が容易に鎮圧できずに3箇月間ものあいだ継続したのであれば、もはや百姓一揆の規模や範疇には入らぬのではないのか。


天草はかってイエズス会のルイス・デ・アルメイダ神父が布教した土地であり、元はキリシタン大名・小西行長の領地でもあったが、後に寺沢広高が入部し、次代の堅高の時代までは島原同様の圧政と熾烈なキリシタン弾圧が続いていた土地であった。
島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で、領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封され、その後は松倉重政が入部していた。
重政も同様に厳しいキリシタン弾圧政策を行い、幕府に石高を過大に申告し年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタン領民に対し残忍な拷問・処刑を繰り返していた。
こうした領民への過酷な圧制とキリシタン弾圧が反乱のきっかけであるとされるが、それは後から付けられた建前であって、この反乱そのものは早くから画策されていたように思てならない。
天草や島原は、百年近くキリシタンの宣教活動が続けられてきた歴史的背景を持った特殊な地域であり、村々を単位にしてキリシタン同士の信仰に直結した連携組織が各地域に出来上がっていた。
それはイエズス会によって作られていた特異な組織体でコンフラリヤ(Confraria de Misericordia:信徒集団組織)といわれるものであり、反乱のもっとも重要な役割を果たした。
伝統的コンフラリヤはキリシタンであった旧有馬氏の家臣や小西、加藤の遺臣らにそのまま引継がれ組織化されていた秘密結社ともいうべき連携体であったのだ。
単なるキリシタン教化だけでなく組織的な掟による洗脳工作によって、村落内のキリシタン信徒の連携が益々強化されていった。
反乱勃発時も一斉に蜂起するなど、瞬く間に反乱勢の規模が拡大していった経緯をみてもその実態が窺える。

キリシタンによる当時のコンフラリア組織は、上下関係が厳しく実質軍事的ネットワークを形成していたといっても過言ではなかった。
そのような領国において過酷な宗教弾圧が続くようなことがあれば、いずれこうした騒擾が連鎖的に発生する懸念もあったはずである。
同時にそれを裏で画策する者が確かにいたことになる。
彼らは短期間に事を構えたわけではなく、じっくりと年数を掛けて幾度もそうした綿密な談合を重ねていきながら、用意周到のうちに反乱計画を企てていたといえるだろう。
まさにここにきて、村山等安や千々石ミゲルがもっとも恐れた最悪の事態がついに勃発してしまったというべきかもしれない。
首謀者であった益田甚兵衛・四郎(天草四郎時貞)親子や、彼らと連携する地元の浪人集団は、こうしたキリシタンへの迫害への反感をうまく利用して多くの領民を言葉巧みに彼らの組織に誘っていった。
益田甚兵衛は、息子の四郎を長崎に留学させていたし、そこではもっぱらキリシタンとしての教義を身に付けさせていたわけだ。


●キリシタン武装勢力、3万7千人の大乱勃発!
1616(元和2)年、マニラに追放されたイエズス会マルコス神父(ママコス上人)が日本を離れる際に残していった預言書といわれるものが、コンフラリヤの組親でもあった浪人たちによってこれらの土地では以前より密かに配布されていた。
それは、「当年より26年目(1637年)にあたりて必ず善人一人生まれ出づべし。その子、習はざるに諸学をきわめ、天に印しあらわれ、木にまんぢう(饅頭)なり、野山に白旗を立て、諸人の頭(こうべ)にくるす(十字架)立て申すべく候。東西に雲の焼け必ずあるべし、諸人の住所、皆、焼けはつべし。野も山も草も木も、皆、焼け申すべき由申し候。」というものであった。(山田右衛門作口述書による)(注:1)
さらにキリシタンの住む村々には、次のような檄文も流布されていった。
天草島原の乱天草四郎陣中旗「キリシタンになり申さぬ者は、日本国中の者ども、デウス様(神)より左の御足にてインヘルノ(地獄)へ、御踏みこみなされ候間、その心得あるべく候」
巧妙な陽動作戦が、幾度となく領民らに対して事前に展開されていたということになる。


預言書にあるように、当時は天草・島原はあいつぐ異常気象による凶作が続き、領民は飢えと領主による苛酷な年貢取立てやキリシタン弾圧で悲惨な状況に追い詰められていた。
そこに救世主のごとく、一人の少年が現れる。
16才の天草四郎が聖書を暗記するなどの超人的奇跡を衆人の前で示し、コンフラリヤの浪人たちはその四郎を預言書にある「奇跡を行う神童」であるとキリシタン信徒の間にふれまわり、彼を約束された救世主として祭り上げていった。(画像は、現存する天草四郎陣中旗・山田右衛門作による作画:本渡市立天草切支丹館所蔵)
この時代、10年に1度といわず必ず天候不良や凶作の年が巡って来て、領民らの間に飢饉の不安が高まってくる。
浪人集団は、こうした絶好のタイミングを狙っていたし、この地域の潜在的戦闘力の規模をしっかりと値踏みし掌握していたわけである。
領民らは田畑を荒らす害獣狩りと称して、集団でイノシシやシカを鉄砲で撃ち取ったりして、ことあるごとに組織的な軍事訓練も行っていた。
もとよりこの地の内乱は、突発的なものではなく、このように綿密に準備され計画実行されていった経緯があったといえる。


イエズス会はキリスト教の布教事業を展開すると同時に、長崎全体を順次要塞化し、そこにスペイン兵を招致して教会の守りとするという戦略的な侵略計画を持っていた。
長崎の土地を手にしたイエズス会は、港内を囲むように砲台を置いた要塞を構築しつつあった。
だがこれは秀吉の九州征圧後の軍事的介入によってすべて破壊され、計画そのものが途中で頓挫してしまっていた。
天草島原の反乱武装勢力も、当初の計画では日見峠を越え長崎を襲撃し占拠する作戦で進攻していたが、幕府の討伐軍が背後に迫っているとの急報によって、やむを得ずこの計画を断念することとなった。
長崎のイエズス会勢力との戦略的連携を狙ったものだったが、これ自体は実現しなかった。
肝心の長崎近隣の浪人武装集団そのものは、長崎代官村山等安の台湾遠征の際にその多くが駆出されたかたちで、すでに4000人規模で削減された状態であった。
結局、反乱勢の蜂起に呼応してくる長崎周辺の武装勢力そのものが、すっかり削がれてしまっていたのである。
これによって少なくとも長崎を基点にした、組織的な反乱拡大の計画そのものは未然に回避されたということになる。
ここらを事前に察知して対処していた等安には、まさに先見の明があったというべきであろう。


島原での反乱勢は進攻しながら勢力拡大を狙って各地の村々を襲撃し、戦いに強制的に加担させようとしていた。
彼らの誘いに乗らず加担しない領民は、たとえキリシタンであっても殺戮し家々を焼き払っていった。
このとき家族を人質に取られ、やむを得ず参加したキリシタン領民も少なくなかった。
このように島原全域の領民やキリシタンがこの反乱に加担したのではなく、反乱勢に激しく抵抗して追い払った村落も少なからずあった。
それは島原の領国内には多くのキリシタン信徒がいたが、そのすべてがイエズス会という一つの教派にまとまっていたいたわけではなかったからである。
それでも天草、島原から集結してきた領民は3万7千人規模にも膨れ上がっていた。
その中には老人や女性・子供らも多数含まれていたが、彼らの動きはただの農民集団ではなかったのだ。
その中心勢力の実態は、意外にも当初より指揮系統の整った武装集団の様相を呈していた。


●キリシタン村山等安一族の足跡
島原半島は、当時北目地区、南目地区、西目地区の三地区に分けられていたが、島原半島の島原湾岸を二分して、島原の水無川より北を北目、水無川より南を南目と呼称されていた。
天草・島原の乱と原城 西目は、千々石・小浜・北串山・南串山・加津佐・口之津・南有馬の7村があった。
南目と西目地区に反乱の主体であったイエズス会系のキリシタン集落群が多かったという。
北目地区は、後から布教活動を始めた「托鉢修道会」といわれるドミニコ会とイエズス会とが布教活動でもっとも激しく競合した地区でもあった。(注:2)
現在の島原市周辺の北部地域を含むことになる。


1609年、鹿児島から逃れて長崎で布教し始めたドミニコ会のモラーレス神父らは、当初より長崎代官村山等安による手厚い支援を受けることが出来た。
まずその活動拠点となる教会(サント・ドミンゴ教会)の建設用地を長崎勝山(現崎市勝山町30-1・桜町小学校内)に提供されたのであった。(注:3)
これはドミニコ会にとって最大の恩恵であった。
このときの様子をモラーレス神父は次のように書き残している。
「よい土地を手に入れ、直ちにそこで薩摩から持ってきた教会を組み立てました。これは日本ではたびたび行われることで、家が組み立て式になっていますから、大きくはあるけれどもこれを取り壊してどこへでも運び、それを再び極めて容易に組み立てます。わずかの間に一つの修道院が出来上がり、小さいけれども都合よく、すべて事務室・寝室・中庭があり、その中庭で修道院と同じように祈りの行列が行われました」。(MORALES, El principio, fol.89v.)


迫害され追放された直後ということもあって、当時のドミニコ会は経済的にも困窮していた。
長崎の地で宣教事業に取り組むにもそれ相応の活動資金が必要であったが、そうした余裕はまったくなかった。
経済的にも困難を極めた状況で長崎周辺の強固なイエズス会教区で布教していくにしても、始めての土地ということもあってまず宗教的摩擦や妨害が大いに懸念されるところであった。
だが幸運なことに、ここにきてドミニコ会は村山一族の全面的な庇護と多くの経済的支援とを得られることとなった。
これには村山等安の妻で、キリシタンであったジェスタ・村山や息子達の働きかけが大きかったのだという。
おそらくそれは事前に千々石ミゲルによってドミニコ会に関しての何らかの宗教上の情報がもたらされていたからではないだろうか。
後から宣教活動を始めたドミニコ会はイエズス会とは異なり、平民階層や貧民の間に彼らの教義を広めていくのと同時に、慈善的事業にも積極的に力をいれていった。
これをジェスタ・村山が全面的に協力した。
村山等安の長男のアンドレス(徳安)・村山は、新しいサント・ドミンゴ教会に対して多くのことを気遣い、「教会にぜひご聖体を置いていただきたい。なぜなら長崎には数多の教会があるけれども、そのうちのひとつ(イエズス会の教会)を除いてはご聖体がない」(MORALES, De Andres Toquan...)として、それらを喜んで用意したという。

村山一族によるドミニコ会に対する援助そのものは、それほどに周到に準備されていたし、他と比較しても破格のものであったのだ。
記録によると、このとき教会に必要な立派な聖具(聖櫃と銀製の聖体顕示器、ランプ)、燈火を燃やし続けるための費用や教会番人の手当てに至るまで、その費用一切を等安がことごとく負担したとある。
村山等安がこれほど熱心にドミニコ会の教会を支援した理由は、ジェスタ・村山からの要望に応えたということもあるが、布教活動においてドミニコ会がイエズス会とは激しく敵対していたことも無関係ではなかったであろう。
等安は、常に宗教的な迫害を嫌ったし、行政官としても当初より慈善活動には関心があった。
当時の長崎には、孤児や食い詰めた浪人や多くの難民が流入してきていた。
それにも等安は目を向けていたということになる。
彼とてかっては浪人の身でこの長崎に流れ込んできていたのだから、彼らの境涯は十分知り尽くしていたはずである。
それだけにキリシタン信徒として、村山一族は穏健な托鉢修道会のドミニコ会の活動姿勢と教義に深い共感と信仰の拠り所を得たということになる。
その一方で等安は、従来より近隣のキリシタン勢力の武装化を懸念していただけでなく、そうした不穏な動きの背後にイエズス会が深く関わっていると見ていたのだ。
そこにはイエズス会のアジア戦略ともいうべき日本侵略の野望が隠されていることを等安は目敏く見抜いていた。
等安は、以前より彼らを一種の軍事組織と見なしていた。
そうしたイエズス会勢力の影響力を削ぐためにも、彼らに対抗する托鉢修道会のドミニコ会の存在は重要であったのだ。


長崎市西坂・殉教地村山一族による十分な支援もあって、瞬く間にドミニコ会は本格的な布教活動が展開できる体制が整っていった。
長崎における有力者村山等安の絶大なる人気と財力が背後にあったことはドミニコ会の布教上の力となったことは言うまでもないが、こうした等安の熱心な支援活動が顕著になるにしたがってイエズス会側の反感が徐々に大きくなっていく状況はどうにも避けようがなかった。(右は東京国立博物館蔵品:長崎奉行所由来のヨハン・シドッチ神父所持品・「親指のマリア」)
当然のことであるが、イエズス会の宣教事業を正面から妨害する村山等安は彼らから見れば極悪人であって、早急に排除すべき宗教的反逆者であり続けていた。
ここからイエズス会による村山等安失脚の陰謀が、密かに画策されることとなる。
対する村山等安の狙いは、これらの地から旧来の戦闘的なイエズス会勢力を一掃して穏健志向のドミニコ会の教区に刷新しようと考えていことは確かなことであった。
このとき等安は、キリシタンによる騒擾や内乱の火種をこの地から取り除こうと、二重、三重の対策を講じて最大の努力をしていたのである。
村山等安が見る限り、長崎やかっての大村や有馬のキリシタンが浸透していた領内には不穏な空気がそこここに漂っていた。
すでに幕府による行く度ものキリシタンへの禁令や弾圧は繰り返されていたし、新領主による苛政でも多くの領民は追い詰められていた。
ここでもしもキリシタンが主導する騒擾が一旦発生してしまえば、キリシタンは幕府によって一気に抹殺排除されることは火を見るよりも明らかであった。
何としてでも、それだけは避けたいと等安は一心に考え続けていたことであろう。
長崎の街中に溢れる浪人や武装集団を一気に削減する手立て、あるいは行政上の方便としての台湾遠征計画を持ち出したのは苦肉の策であったかもしれないが、長崎周辺の治安を守る上ではまずは成功したというべきであろう。
長崎を戦乱に巻き込むことは極力避けなくてはならなかった。
だがその危険性は、すべて払拭されるようなものではなかったのだ。
等安は、はっきりと人前でイエズス会を手厳しく批判した。
行政官としての立場から、またキリシタンとしての最後の方向付けを試みたのであろうが、イエズス会との確執から、等安自身はやがて悲劇的な最後をとげてしまう。


●長崎を戦火から守った村山等安一族の功績
等安の経済的支援によって、ドミニコ会の布教活動の方も確実に成果を挙げていった。
宣教事業ということでは、距離的にも近い肥前(佐賀)の浜町にドミニコ会のロザリオの聖母教会とサント・ドミンゴ修道院が建設されていたことも幸いしたことであろう。
ドミニコ会は1613年、肥前の地を追放されるまでは長崎の教会と相互に連携して活動を続け、長崎から肥前地方の浜町、肥前鹿島、佐賀、さらに島原半島へと地道な活動によって各地に同会派の信者数を拡大させていった。
最終的には、それは少なくとも2万人規模にまで増えていたという。
幕府による禁止令が出た直後より、各教会では信者たちに迫害に備える準備をさせるとともに、信仰を維持するための信徒組織を作ることにした。
このときすでに肥前や長崎に住むキリシタンにも危機的状況が迫りつつあった。
そのときの教会内部の様子について、当時の托鉢修道会のアロンソ・デ・メーナ神父の記録には次のようにある。
「またそれとともに、神父たちはもっとも信心深い人々を長とし、男女それぞれの幾つかの組を作った。・・・それは何軒かの家に祈祷所を残しておいてときどき集まって祈り、あるいは信心の本を読んで説教の替わりとするためである。また同時に断食や苦行の規則を彼らに課し、平和と愛の精神を教え、最後に、いかなる方法でもよいから棄教する前に神のために役立つように死ぬべきことを教えた。キリシタンたちはみな喜んでこれらの教えを受け入れたが、これは彼らのために非常に有益であった」MENA,o.p.(Fr.Alonso de Mena), Breve relacion de algunas cosas, 1614, fol.112v. 113.


長崎市西坂・殉教地 これを受けて、1614年に村山等安の次男(仲安)である教区司祭のフランシスコ村山・神父は迫害されているキリシタンを援助するために、相互援助組織として『十字架の組』を長崎で同志と共に立ち上げた。
この時期すでに村山一族はこうした決死の覚悟をもって、幕府の弾圧政策に対抗したキリシタン救援の行動を開始していたということになる。
宣教師の国外追放の際には、モラーレス神父らを密かに再入国させた後、長男のアンドレス(徳安)・村山の屋敷に長期間匿ったことも一連の救済行動であった。(注:4)
もとより宿主として宣教師を匿ったことが発覚すれば、誰であろうと極刑に処せられることは明白なことであった。(右は国立西洋美術館所蔵:カルロ・ドルチの「悲しみの聖母」(1650年))


彼らはあらゆる対抗策を講じてでも、教会の宣教活動を維持しようと己の命も省みらず必死になって日々奮闘していたわけである。
この結果そのものは後の村山一族の処刑や「元和の大殉教」によって、キリシタンの活動は地下にもぐり、一旦はすべて逼塞してしまったかにみえていた。
しかしながら意外なことに、その一方で長崎の地にも近い島原や天草の地で未曾有のキリシタンの大乱が計画されていたわけで、ついにそれは大規模に勃発してしまったのである。
島原はもともとイエズス会勢力が布教を拡大していた土地であった。
それでも村山等安の死後10年以上経過した1630年代には、ドミニコ会の宣教活動によってそれらの信徒を改宗させたことによて、島原北目地区からイエズス会旧勢力をほぼ一掃することが出来ていた。
一部の土地とはいえ、島原からイエズス会勢力を削いだだけでも大変な成果であったといえる。
これは島原北目地区はもとより、長崎の街にとって、結果的には非常に幸運な展開でもあったのだ。


大乱の際に北目では、進攻して来た反乱勢が強制的に領民を駆り立てながら自軍に加担させようとしたが、同じキリシタンであっても教派の違いからそれに与せず領民らは激しくそれに抵抗し続けた。
これによって島原半島北目地区の多くのキリシタン信徒は、最後まで乱の勢いに巻き込まれずにほぼ全域の領民(数万人規模か)が戦乱の被害を受けることなく生き残ることが出来たという。
この地区でのドミニコ会派への改宗がなかったなら、島原全域の規模で大乱そのものはさらに急拡大していたはずであり、その勢いで進攻していれば長崎まで一気に占領されていた可能性もあったはずである。
もしの長崎に反乱軍が侵入していれば、内乱の規模は2,3倍には拡大していたことであろう。
島原で結集した反乱軍は大きな勢力ではあったが、進攻途中で原城篭城で踏みとどまざるを得なかった。
ここで反乱側は3万7千人の犠牲者を出したが、可能性としてはさらに倍する犠牲者を出す騒乱拡大の危険性があったということになる。
結局のところ、長崎の周辺地域が巻き込まれなかったことによって、その大乱の規模も犠牲者も半分に抑えられたともいえるであろう。


これこそ村山等安によるキリシタン反乱回避のための改宗活動への地道な支援が、まさしく奏功した結果ということになる。
行政官村山等安の事前の対応策が無駄ではなかったのだ。
しかしそうしたキリシタン信徒を救済する活動によって、村山等安は必然的に幕府の禁令に自ら触れる危険を自ら冒すこととなり、その咎で一族が処刑されてしまうとい悲劇を招いてしまったのである。
もとよりこれは、当時の彼らから見て最良の手立てとして選択した決死的決断に起因したものに違いなかったが、ここでこのように多くの尊い人命を救うために、あえて村山一族は犠牲になったといえるのではあるまいか。
そして、村山等安は、彼の力量と智慧とで長崎の街を戦乱の災禍から見事に守り得たということになろう。


江戸幕府による村山等安一族に対する過酷な処罰やその後のキリシタンへの弾圧によって、こうした彼らの事跡は評価されることもなく現代ではほとんどが抹消されれてしまっている。

村山等安の事跡については戦前まではどうにか関連資料が残されていたようであるが、いまとなっては限られたものであって、これらの事実は海外に残されていた史料によってようやくその片鱗を窺い知ることが出来るだけである。


(2010/10/05)


(注:1)「当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずし て諸学を極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクル スを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし」ともいう。
(注:2)ドミニコ会は、1602年、薩摩の甑島で最初の宣教活動を行った。彼らは薩摩本国へも渡り、甑島と川内の京泊で宣教した。1606年には京泊に「ロザリオの聖母聖堂」を建立したが、1609年にはいると迫害が起こり、宣教師は薩摩から追放された。
(注:3)サント・ドミンゴ教会は、日本における江戸時代初期の教会遺跡として評価され、世界遺産暫定リストに掲載された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の文化財の1つとなっている。
(注:4)モラーレス神父は、1619年3月15日徳安の家で逮捕され長崎牢に入牢する。1622年9月10日、長崎の西坂の丘で火刑に処せられる。


参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著





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