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| 九州歴史発見シリーズ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(8-3) 村山等安、窮地に陥る 末次平蔵の勝利 裁かれる村山一族 村山等安、ついに斬首される ● 東洋医学史研
究会
●村山等安、窮地に陥る 末次平蔵によるいくつかの訴えに対して、村山等安は一つづつ理路整然と申し開きをして身の潔白を証明していった。 ここまでは、等安の立場はそれほど不利な状況ではなかった。 年貢の取立てにおける不正は見当たらなかったし、長崎でキリシタンとして聖行列に参加した経緯についても適切に答弁して問題はなかった。
村山等安にすれば、これは意外な展開に思われたであろう。この場ではまずキリシタンであることの是非を問われて当然であったし、それを執拗に追求されたとしてもおかしくはなかったのだ。 結局、幕府側の狙いはまったく別のところにあったということになる。 このときの村山等安(アントニオ)と平蔵との争いの核心部分について、ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンによるの報告書には次のように書かれている。 「(末次)平蔵はこの国の重臣たちの前に出頭して、等安に対する数多くの不正を申し立て、長崎、諸聖人、浦上、稲佐、西泊い於いて取り立てている年貢について、彼がそのうちの大きな部分を横領し、百姓やこの市の住民を虐待している、それで彼らはみな等安の専横と残忍さのために彼を憎んでいる、だから長崎の支配権を自分に与えられよ、そうすれば(等安より2千両多く)5千両の年貢を支払うであろうと言った」 この訴えに対して、村山等安は、将軍秀忠に申し開きをしている。 「等安は立派に申し開きをした。年貢の件については、彼は毎年国王に3千両支払っているが、取り立てる年貢はこの額に達しない、だから首都に上がるたびに要する費用や贈物の外に(3千両に足りない分も補うために)我が家の多額の金を出しているのである。だから平蔵は5千両はおろか、3千両といえども甚だしい不正をしなければ支払えないであろう」と。 天領地における年貢増量は、幕府にとってもっとも重要な関心事であったことは頷けるところである。 代官は年貢徴収の差配がその職務であって、それに成果を上げ得るならば代官職自体は誰でも良いはずである。 等安は年貢徴収において、非常な温情を長崎の領民に示してていて無理な取り立てはしなかった。 この時期、近くの天草や島原周辺では苛斂誅求ともいうべき圧政が行われていたが、長崎はそれに比較すればきわめて緩やかなものであった。 幕府自体は、善政ともいうべき差配を代官に求めていたわけではなく、年貢の取り立てが多ければ多いに超したことはなかったわけで、ここで等安を格別評価することもなかった。 末次平蔵自身は、それまでにも運上金名目で多額の金額を将軍の元へ贈っていただけでなく、朱印状貿易商としても幕府重臣に接近して交流があった。 イエズス会側から提供された多額の資金が、買収工作としてここで使われたわけである。 当然のことであるが、末次平蔵については等安同様、幕府側の覚えはそれなりによかったはずである。 幕府として、これ以上の村山等安の権勢拡大を許す理由も無かったのである。 むしろ、ここらで人事を刷新しても幕府には何の問題もなかったということである。 事前に幕閣への根回しがあったのか、あるいはすでに等安失脚の狙いがあったのか、事は筋書き通りに進められていった。 幕府は、ここにきて末次平蔵が申し出た年貢の増額に特別なこだわりをみせた。 幕府重臣らは、平蔵が年貢についてその場で2千両多く申し出たことに目がくらみ、平蔵の申し入れを是として、等安を直ちに罷免して代わりに長崎の支配権を平蔵に与えることに結審し、最後に将軍秀忠の裁可を待つ展開となった。 すべては幕府の筋書き通りに推移していったということになる。 1618年2月7日、村山当安は代官を罷免された。 等安は、直ちに不服の申し立てを幕府にしたが却下されてしまう。 ●末次平蔵の勝利 末次平蔵は狙い通り、ついにここで村山等安に取って代わったのである。 しかし末次平蔵自身は、等安を長崎代官の職から引きずり下ろすだけでは安心できぬと見て最後まで食い下がって、その攻撃の手をゆるめようとはしなかった。 平蔵からみれば、それほどに長崎における等安の力は強大であったのだ。 たしかにこの場での訴追では、村山等安は私腹を肥す悪人として訴えられていたにもかかわらず地元の長崎における彼の人気には絶大なものがあった。 そのことは当の平蔵だけでなく、訴えを裁いた幕府重臣らも十分に承知していたことであった。 もとよりこの訴追そのものは長崎奉行・長谷川権六と末次平蔵との結託によるものであって、村山等安の勢力を削いでおこうとする幕府側のそうした意向が裁きにも強く働いていたことは否定できないであろう。 キリシタンを厳しく取り締まる幕府にとって、禁令のキリシタンに加担する統治者はまずここでは必要ではなかった。 これに前後して、キリシタン勢力と諸大名の結託による謀反が幕府内部では懸念されていた。 キリシタンに関係する者は、いち早く幕府の足下から取り除いておく必要があったのだ。 コックス日記に「上総介忠輝反乱の噂が流れ、伊達政宗がこれを支持しており戦乱の恐れがある」とあるように、1616年7月には、家康の6男である松平忠輝(キリスト教徒であったという)でさえも、武家諸法度による厳しい幕府の処置で改易されていたほどである。 当時の長崎の統治には等安だけでなく彼の有能な息子たちも早くから参画していたし、その優れた行政上の手腕から多くの住民からも信頼され一族の者すべてが人々に尊敬されていた。 彼らは裕福であっただけでなく、人々に対しては寛容で誠実であったことで、キリシタンの庇護者としても周囲からの信望を集めるのにふさわしい立場にあった。 そうした村山一族の圧倒的な権勢と人気に対して真っ向から敵対する末次平蔵にしてみれば、この訴追そのものは始めから命懸けの駆け引きに違いなかった。 いやむしろ幕府側の意向そのものは長崎奉行・長谷川権六からすでに知らされていたはずであるから、今回の訴追だけは勝算のあるものと平蔵は確信していたはずである。 平蔵は、長崎代官職が自分に転がり込むと、ここさらに勢いづいて一気に等安を窮地に追い詰めていった。 結局このとき証言した元イエズス会司祭トマス荒木の登場によって訴追の場の流れは大きく変わり、その後の村山等安一族の命運が決定付けらることとなる。 最後の切り札とも言うべき村山一族による謀反の事実をその場で訴え、末次平蔵は計画通りに一族郎党の抹殺を最後まで執拗に狙うのである。 その経緯は以下の通りである。 ●裁かれる村山一族 国外に追放されたはずの等安の次男仲安は密かに長崎に舞い戻ると、そのまま大量の武器弾薬を船で大坂城に運び込んで大坂方に味方していた。 これは父親の村山等安がすべて主導したものであり、明らかな徳川幕府への謀反の事実として末次平蔵は厳しく責め立てていった。 1618年10月末、この訴追の合間に新たに長崎代官に就任して長崎に舞い戻った末次平蔵と長崎奉行・長谷川権六は、早速その強権を行使して厳しいキリシタン取締を実施していった。 長崎周辺に潜伏していた宣教師が次々と捕まった。 ここでも真の狙いは、村山等安一族の徹底した身辺探索であったのだ。 ここで宣教師一人を密告した者には、銀の棒30本を褒賞として与えるという布告が出された。 長谷川権六は、手元へたぐり寄せるようにしていよいよ網の絞り込みに掛かったのだった。 そこでは捕縛した神父の日本人付き人に拷問を加えて情報を得たし、必要なら度々買収も行われた。 ついに1619年3月15日、捕り方は等安の長男アンドレス徳安の屋敷に匿われていたドミニコ会のモラーレス神父を発見し、その場で捕縛する。(注:1) このとき当主の徳安は不在であったが、妻マリーアは直ちに夫に急を知らせて呼び戻した。 神父を匿っていた徳安もそのまま拘束され奉行所に連行された。(この時点では、徳安の妻マリーアはまだ捕縛はされなかった。) この結果、村山等安同様、禁令を犯した長男の徳安一家も厳しく罪を問われることとなる。 1619年8月10日、さらにはイエズス会司祭トマス荒木が長崎奉行所によって捕縛され、新築されたばかりの鈴田牢に移送されてきた。 拘束されたトマス荒木は直ちにその場で棄教すると、このとき内通者として働くことを自ら長谷川権六に申し出たのである。 平蔵と権六は、翌月すぐさま等安訴追の重要証人として、トマス荒木を江戸表へ連れていった。 彼らが江戸に到着したちょうどそのとき、将軍秀忠も京から江戸城に戻ったばかりのときであった。 村山等安の訴追はこの時点でもいまなお継続しており、平蔵が新たに立てた元司祭のトマス荒木の証言は、今回の裁きの場では決定的な働きをした。 これによってついに村山等安が、大阪方に武器弾薬を運び込み加担したとする謀反の疑いや宣教師を違法に屋敷内に匿ったかどなどが次々と明らかにされる展開となった。 長崎のサント・ドミンゴ会の修道士の記録文書には、次のように記されている。 「等安は皇帝(家康)と秀頼の間に、大坂の役が始まるまでは、皇帝や日本の貴人たる数多くの殿の愛顧を受け、その財力と職によって平穏に十四年間過ごしてきました。彼はこの戦において、皇帝の側に立っていたのでありますが、聖職者である彼の息子フランシスコは、大坂方の軍へ行きました。その理由はこの報告の中のフランシスコの章で述べているように、もし秀頼が勝利を得ればキリシタンを援助するであろう、と考えたからであります。戦いは終わり秀頼は敗北したので、等安の敵はこの機会を利用しました。その敵の中で主たる者は平蔵というキリシタンでありましたが、彼は初めに政治の件で等安を訴えたけれども、この方法では彼を破滅させることができなかったので、自分がキリシタンであることも、キリシタンに害を及ぼすこともかまわずに、等安の息子の一人が聖職者であり、この息子が追放されたにもかかわらず、日本に留まっていて大坂方の軍に加わった、ということを訴えました。」 実際にそれらの禁令を犯したのは彼の息子達であって、たとえ等安自身が直接関与したものではなかったとしても所詮ここではそうした抗弁は通るはずもなく、その場でどうにも申し開きのできない絶体絶命の窮地に等安は陥ってしまった。 等安も、平蔵がこのようなかたちで村山一族の旧悪まで暴きたて、執拗に責め立ててくるとは予想だにしてはいなかった。 ましてやここで、司祭トマス荒木のようなイエズス会の息の掛かった証人がいきなり登場してきたことに少なからず驚愕したに違いあるまい。 おそらくここに至って、等安は始めて今回の訴追の背後にはイエズス会が深く絡んでいたことを思い知らされたはずである。 それでなくとも、村山一族による一連のキリシタン禁令を犯した行為が暴かれた裏には、長崎奉行所や平蔵側に買収されて内通した等安の家の使用人などの密告人が複数いたわけで、ここらは実に用意周到なものであった。 当初、訴えられた年貢取立てに関わる不正という訴追理由ではなく、いきなり村山一族による徳川幕府への謀反やキリシタン禁令に違反した行為が、あらためて厳しく裁かれる展開になったわけである。 これらの事実関係を聞いて将軍秀忠は激怒したというが、ついに末次平蔵の思惑通りに事は進んでいったというべきであろう。 まさしくこのとき、平蔵は棄教者トマス荒木を巧みに使って村山等安に最後の留めを刺したわけである。 まさに末次平蔵の完全勝利であった。 ●村山等安、ついに斬首される 平蔵の訴えと申し出によって、等安自身は将軍秀忠から長崎代官職を罷免されすでに甲斐へ追放されていたのであるが、さらに幕府の天領下でのこれらの法令違反は重罪であるとして、元和5年(1619年)11月16日ついに等安らに厳しい死罪の裁断が下された。 11月19日、はじめに長男の徳安が長崎で火刑に処せられ、三男の長安一家は京都で斬首、12月1日には村山等安本人が江戸で斬首されてしまう。 このように処罰が進められた一方、長崎でも等安の妻や一族が次々と捕縛され、村山等安の屋敷と財産は役人によってすべて没収された。 その結果、一族13人が連座して罪を問われ、下はわずか2、3歳の幼子(等安の孫)までもが刑場に引き出されて処刑されるという痛ましい悲劇が起こる。
ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは、等安の家族について次のように書き残している。「等安は誠実な妻ジュスタと結婚して先ず次郎八(徳安)という名の息子をもうけた。次に現在サン・アントニオ天主堂ミサ司祭主任代行司祭をしているフランシスコ(仲安)をもうけ、やがて長安という三男が生まれ、今はこの妻との間に息子が八人か九人、娘が二人いる。成人した子供達はみな誠実で善良なキリシタンであり、年少の子供達は美しく愛らしい」 また、サント・ドミンゴ会修道師の記録には次のようにある。 「これらの徳の高い兄弟が最も心を配っていたことは、長崎の教会を増大することでありました。教会のあった時代にはたびたび教会に行ったし、教えの組ロザリオの組に顔を出して、総ての人々に立派な模範を示しました。迫害の時に当たっては常に諸パードレを何処に如何に匿うか、過酷な迫害に対して、如何にすればキリシタンが耐えていくことが出来るかということを、彼ら兄弟の間で相談し努力していました。また数多くの問題について父親に協議しましたが、代官としてまた父親として説得に努めたのでしょう。子供達は父親の援助と努力によって数多くの問題、特に聖行列や前述の教えの組の諸事を立派に果たしました」
捕らえられていた等安の長男アンドレス徳安の処刑が決定した直後、11月14日に長崎奉行・長谷川権六と長崎代官・末次平蔵らは長崎に意気揚々と到着した。16日には捕らえられている者たちに刑が申し渡され、19日に火炙りの刑に処せられた。 パードレ・モラーレスの書翰には、アンドレス徳安が役人の取り調べにおいて、「私はキリシタンであり、私自身および人々の霊の救済に努力してきた。それだから人々を救済に導くことを仕事としているパードレを私の家に置いたのである」、と答えたということが記されている。 そして彼は、処刑当日にモラーレス神父に対して次のような手紙を書き送った。 「尊師のことが原因で、いま私が神への奉仕を終わることを深く尊師に感謝致します。マリーア(妻)とパプロ(長男)を尊師(の祈り)におまかせします。神のお恵みにより天国に於いて、尊師のためにキリストと聖母およびドミンゴに祈りましょう。 十月十二日(1619年11月18日) 村山アンドレス・トクアン」
処刑される当日、彼は白装束を身につけ妻のマリーアや兄弟、親族に別れを告げた。徳安と妻マリーアの間には、この年に生まれた長男パプロがいたが、マリーアは幼いパプロを抱いたまま刑場まで付いて行った。(注:2) パードレ・モラーレスのアンドレス・徳安の処刑に関する書翰の最後には、次のように書き遺されている。 「彼の霊は焔によって清められ永遠に神の御恵みを受けるために天国へ昇りました。時に1619年11月18日。 直ちに人々が遺体を引き取りに行きましたが、それが出来ないように、完全に焼かれて灰のみが残っていました。キリシタンはそれを集め、著名な殉教者の聖遺品のようにこれを尊敬の念を以って保存しました。彼の妻マリーアは息子のパプロを抱えて、この聖なる光景の場にずっといましたが、神が見守り給うが如くに聖なる死を夫が遂げるのを見つめていました。心に神の御恵の深きことを喜び、大きな幸を得る希望を抱いてそこを去りました。それから間もなく、彼女は俗世を棄てるため髪を切りました」 (画像は16世紀の宗教異端者の火刑) (2010/9/30) (注:1)モラーレス神父(1567〜1622)1602年、マニラからドミニコ会布教長として薩摩の甑島に渡来し京泊(薩摩)周辺で布教に従事していたが、1609年、迫害によって長崎に逃れた。1614年11月、他の宣教師と共に日本を追放されたが、あらかじめ待機していた小舟で再び長崎に戻ると、長崎代官・村山等安の長男・徳安にかくまわれていたが、1619年3月15日徳安の家で逮捕され、長崎牢に入牢。8月8日大村の鈴田牢に移送。3月25日壱岐島の牢に移送。しかし牢内からも手紙や使いの者を介して使徒職を遂行。1622年9月10日、長崎の西坂の丘で弱い火で焼かれる。1867年7月7日ピオ9世によって列福され、日本205福者殉教者の名簿の筆頭に挙げられた。 (注:2)パプロは母、マリーア・村山の殉教した後、病死したという。 参考資料: 読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」 「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳) 「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月) 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月) 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月) 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月) 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月) 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月) 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月) 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月) 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月) 10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月) 11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月) 12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月) 「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳) 「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957 「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎 「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著) 朴 鐘鳴 (翻訳) 「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993 「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211 「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号 「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著) 岩波書店 1993 「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店 教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学 |
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