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| 九州歴史発見シリーズ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(8) 村山等安に忍び寄る影 村山等安に対抗する勢力とは 村山等安と末次平蔵との確執 ![]() ● 東洋医学史研
究会
●村山等安の周辺とそこに忍び寄る影 村山等安は長崎において朱印船貿易商として、また有能な行政官として大きな成功を収めていたが、その彼の足元には暗い陰謀の影がいつの間にか忍び寄ってきていた。 等安はスペイン系修道会によるキリシタン布教に傾倒し始めると同時に、イエズス会との対立がより深まってきていた。 それは長崎において、イエズス会と深い繋がりがある内町の主な指導者層(町年寄)との関係や商取引にも絡んで、次第に軋轢が生じるようになる。 有力な一部の貿易商は、従来からの独善的な取引や仲間内での先物買いなどを行なって、思い通りに市場を独占しようと画策していた。村山等安はそうした旧来からの手法を批判するだけでなく、南蛮貿易や大陸との交易を何らかの形で統制のとれた形にすることを当初より考えていた。 これはいわゆる重商主義的考え方であったが、西洋に比較して流通や経済の規模が貧弱な状態のままであれば、南蛮との対等な交易は望めないことであった。 海外からの珍しい物産や商品は京、大坂でも絶大な人気があったが、長崎に集まってくるは異教徒の商人はイエズス会が仕切る仲介取引には自由に参加できなかったし、ポルトガル商人の不正行為もあって次第に不満が高まってきていた時期でもあった。 そうした不満は、やがて幕府の役人にも頻繁に訴えられるようになる。 多くの欲望が渦巻く海外との取引の現場では、大なり小なりそうした不満や摩擦が生ずるわけで、村山等安は当初より行政官としての優れたバランス感覚と新しい発想で的確に対応しようと模索していた。 多くの商人が取引に参加できる公平性の高い糸割符制度の導入などが、まさにそれであったであろう。 その結果、長崎だけではなく、堺、大坂にも同様に制度が導入され、それぞれ相当数の商人が取引に参加できるようになっていった。(右の画像は、南蛮貿易(16-17世紀、狩野内膳画の南蛮屏風より) 当時の海外交易の主力商品は生糸や綿織物、香料であったが、これを日本に持ち込むポルトガルはそれらの直接の生産国ではなかった。 当時の中国(明)は倭寇を嫌って日本との直接取引を拒否していたので、その間に立ってポルトガルは生糸の取引を仲介していたことになる。 中国側は取引に銀による決済を要求したが、その銀をポルトガルは大量に日本から獲得できたので、仲介貿易とはいえ独占的交易事業として相当に利幅の大きな取引であったことになる。 だがそれも16世紀末になるとオランダの勢力がアジア海域でも一気に拡大し、ポルトガル船は海上で攻撃されて商品を略奪される事態も発生しだした。 すでにスペインやイギリスの商船も長崎に渡航してきていた。 このことはイエズス会の宣教事業にも大きな経済的影響を及ぼすようになる。 ●村山等安に対抗する勢力とは 村山等安はそうした西洋諸国の諸般の事情にも通じていたから、それを一つの商機と捉えてそれに即応した新たな交易の展開や市場の拡大を考えていた。 しかしながら、南蛮以外の西洋国との交易によって幅広く商取引を盛んにして、国内の商業をより発展させようとする等安の進歩的な考えを支持する有力な貿易商はそれほど多くはなかった。 長崎の内町に居住する古くからの南蛮貿易商人らから見れば、村山等安は所詮一代で成り上がったよそ者に過ぎなかったし、もとはといえば彼らと同様の商人であり、しかも実績がものをいう朱印船貿易の世界ではまったくの新参者でしかなかった。 その彼が秀吉によって一気に代官に引き立てられたのだ。 長崎の街での自治権を握っていた彼ら(乙名)が、それ以降は長崎代官等安としてあらためて頭を下げなくてはならない立場に置かれたのであるから、裏では少なからずそうした心情的反感はあったはずである。 事実、村山等安が外町の長崎代官の地位に就いたときでさえ、そうした旧来の内町の乙名や町衆は快くは思わなかったのだという。 取引に公平さを求めたり、新しい改革がなされることによって、それまでの既得権益が損なわれることになる旧来の勢力は等安の遣り方に猛烈に反発した。 そうした互いの反目が、やがて敵意に変わっていく成り行き自体はどうにも避けられなかったことであろう。 第一長崎代官の地位そのものは世襲ではなかったし、もとより等安自身も徳川家の直参旗本でもなかった。 その権勢の大きさに比べて、その地位自体はある意味不確かなものであったし、誰かがその地位に取って代わったとしても何ら不都合はないように思われた。 代官職自体が幕府の暫定的な要職の一つと見なされたわけである。 等安とイエズス会との蜜月の関係もすっかり冷えきっていたし、長崎での貿易が盛んになるに従って等安に対する周囲の反発はそうしたことにまで考え及ぶようになっていった。 やがて村山等安一族はキリシタン信徒としてもイエズス会から離れ、別の修道会派に改宗してしまう。 それはまさしくイエズス会とは正面から対峙する立場に立ったことを意味した。 後から日本に渡航してきたスペイン系の托鉢修道会は、すべて等安の統治する外町に教会を設けたこともあって、内町のイエズス会士らは相当な危機感をもった。 フランシスコ会などは、商業活動に傾倒し続けるイエズス会を世俗的として公然と非難し始めていた。 結局のところ、等安の反イエズス会の動きに同調して、長崎の日本教会内部もイエズス会=ポルトガルと托鉢修道会=スペインとに二分されて、互いに足を引っ張り合うような状況になっていったわけである。 そうした中では、村山等安に対する誹謗中傷も後を絶たなかった。 彼に対しての密偵と毒殺未遂事件に関与した妾とその家族への報復行為や部下による不正行為に対する厳しい制裁などが市中でも取りざたされたが、イエズス会にとってこれが格好の攻撃の的となった。 そうした状況の中で、等安は否応なくイエズス会から背教者、大悪人というレッテルが貼られてしまう。 ここで注目されることは、両者間の対立が表面化してくる以前の意外と早い時期に村山等安を殺害しようとする企みがすでにあったということである。 否応なく、等安もこれには素早く身構えたことであろう。 そして力と力で対抗する当時の時代背景もあって、反対勢力は村山等安の生涯の敵であった同じ長崎の内町の有力な商人・末次平蔵(内町乙名=町年寄)のもとに結集するようになる。 ここでイエズス会が末次平蔵側を支援し始めるようになっていったのは、平蔵自身がこの地でももっとも古いキリシタンの家系(木村家)に繋がっていたこととも無関係ではなかったはずである。 反対勢力が次第に台頭してくる状況に至っても、村山等安は行政官としての姿勢は変えなかったし、そうした旧来の既得権益に固執する勢力とはきっぱりと決別することを決断していた。 俗説では、もともと平蔵と等安の間に先代からの金銭がらみの対立があったともいうが、その詳細な部分は判然としない。 1614年当時の最初の訴訟沙汰では、末次平蔵の父興善時代の貸与銀15貫目(貸付元本なのかどうかは不明、450両相当)の不払いを幕府へ訴え出た。 生前末次興善が村山等安に対して貸し付けた金数が完済されていないとする訴えは、結局根拠がないとされ訴えそのものは却下された。 何故に平蔵の代になってから、こうした訴えが突然持ち出されたのだろうか。 このあたりの事情は長崎外町の代官等安と平蔵の内町町年寄勢力との政略的対立という図式で見ることも出来ようが、両者の諍いの背景はそれほど単純ではなかった。 長崎において、すでにこのとき平蔵と等安とは互いに縁戚関係にあっただけでなく、もとはといえば等安自身も長崎に来たとき貿易商であった平蔵の父親の末次興善とは親交があって、彼が若くして家業を起こす際にもその世話になったという。 長崎では、彼らはもっとも関係の深い家柄同士でもあったのだ。 村山等安は興善のもとで一人前の貿易商として薫陶を受けたはずであるから、当然そこでは何らかの資金的な援助も受けたのは事実であっただろう。 ●村山等安と末次平蔵との確執 先代の末次興善についていえば、彼はコスメ・コーゼンという洗礼名を持っていたが、イエズス会に繋がるキリシタンということで長崎や博多での交易で活躍した人物である。 これは村山等安の出自や経歴とも繋がることであるが、彼も末次興善も九州にやってくる前は当時の泉州堺と深い関係があったようである。 興善も等安も同じ貿易商の家系同士というような、堺でも何らかの地縁関係があったのかもしれない。 等安も浪人として長崎に流れてきたとの伝聞があるだけに、両者には堺と九州との間での貿易商という非常に似通った経歴が過去にあったことになる。 村山等安の妻(ジェスタ・村山)も、貿易商であった西次郎平衛重友の娘であった。 西家は堺や瀬戸内海一円で活躍した豪商であったし、ここでも当時の貿易商の多くが一様にキリシタンであったことが大きく関連してくるであろう。 この時代、貿易商として南蛮と交易をするには正式に洗礼を受けたキリシタンであることは、もっとも重要な条件でもあったのだ。 ![]() 村山等安が、いつどこで洗礼を受けキリシタンとなったのかは分からない。 南蛮人との交易に際して、あるいはそうした取引上のパスポートを便宜的に手にしたのかもしれない。 村山等安の長男徳安の妻マリーアは、末次平蔵の姪であり同時に彼は彼女の養父でもあったわけで、両家は同じ長崎の朱印船貿易商としても親密な関係が保たれていたことは確かである。 そうした縁故もある二人が、このように反目し合い対立しだしたのは、やはり南蛮貿易での取引上のトラブル、それもイエズス会がそこに深く関与していたからである。 彼らの立場上からいうと、等安と平蔵との確執はもはや私怨のレベルを超えたものであったということになる。 イエズス会の関わる陰謀が絡まなければ、おそらく両者の凌ぎあいはここまで深刻な状況にはならなかったであろう。 キリシタン信徒としての立場でも、貿易商としても両家は別会派に分かれて対立する関係になっていた。 たとえば前述したマードレ・デ・デウス号撃沈事件の際に積荷の生糸が船と共に失われたが、これによるイエズス会側の損失は莫大な額であったから、内町の教会に肩入れしていた末次平蔵や彼の仲間の貿易商も同様に何らかの契約上の負債を蒙ってしまっていた可能性がある。 イエズス会は、この事件に伴う損失によって宣教事業に必要な資金が欠乏して財政的に追い詰められてしまう状況に陥った。 両者の対立が一気に深刻度を増したのは、まさしくこの大事件であったはずである。 (2010/9/30) 参考資料: 読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」 「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳) 「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月) 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月) 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月) 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月) 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月) 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月) 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月) 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月) 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月) 10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月) 11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月) 12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月) 「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳) 「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957 「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎 「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著) 朴 鐘鳴 (翻訳) 「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993 「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211 「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著 クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年 「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号 教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学 |
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