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| 九州歴史発見シリーズ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(6-3) 長崎・マードレ・デ・デウス号事件 追い詰められるキリシタン 等安の命運を決定付けた長崎聖行列 ● 東洋医学史研
究会
●長崎・マードレ・デ・デウス号事件 さらにこれに追い討ちを掛けるような決定的な大事件が、長崎の湾内で発生した。 その発端は1608(慶長13年)、元キリシタン大名の有馬晴信の朱印船が、ポルトガル領マカオ(阿媽・あま)に寄港した際に、酒場でマードレ・デ・デウス号(別名ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号)の船員と乱闘事件を起こしたことにあった。 このとき60名近くの日本人水夫が殺害され、その積荷まで奪われるという大事件に発展していたのである。 この海外での屈辱的事件の知らせを朱印船の生き残った乗組員から聞いた有馬晴信は激怒して、証人を伴って幕府にも訴え出ていた。 もとはといえば、有馬の朱印船は将軍家康が香木の伽羅を求めたのに応えて占城(チャンパ=今のベトナム・ホーチミン)方面へ派遣したものであったのだ。 ![]() 本多上野介正純を通じて事件の顛末を家康へ報告すると、家康は激怒してその南蛮船を討つよう有馬晴信に命じた。 そのような経緯があった翌年の慶長14年2月、突如としてこの殺害事件の当事者であったカピタン・モールのアンドレ・ペッソアが、大型船のマードレ・デ・デウス号で商取引のため長崎に来航した。 アンドレ・ペッソアはマカオ総督でもあったが、彼は中国の生糸貿易をポルトガルが独占し続ける立場を主張して日本人がマカオに寄港することを禁止しようとしていた。 それまでにもマカオの商人は、日本への生糸輸出量を一定量以下に制限して商品価格を故意に吊り上げていた。 幕府や日本人貿易商は、そうした処置に以前より強い反感を抱いていたのは言うまでもない。 長崎の港湾を管理する村山等安は、遣手で知られる長崎奉行の長谷川左兵衛と共に直ちに有馬にデウス号入港を急信した。 季節風を待ってのデウス号の出航までには相当期間あったので、この間に幕府との綿密な遣り取りが繰り返され対応が協議された。 アンドレ・ペッソアは、幕府に対して有馬の朱印船に関わる事件の申し開きを望んでいたようであるが、事態の推移は深刻度を増していることもあって、このとき幕府側は当初よりデウス号へは強硬な姿勢で臨むことを決断していた。(右図は当時の大型のガレオン船) おそらく長谷川左兵衛と等安は、この船の積荷と船長とを拿捕することにでもなれば、ポルトガル商人やイエズス会に相当な経済的ダメージが及ぶことも事前に予想していたことであろう。 しかも、カピタン・モールのペッソアは、幕府側の要求には武力を使ってでも抵抗するであろうと考えていた。 有馬と長崎奉行との協議の場でも始めからペッソアに対して武力による強硬策が持ち出されていて、すでに戦闘の準備が着々と進められていた。 幕府は有馬晴信を通じてペッソアに幾度か江戸への召喚命令を出したが、彼は警戒してこれにまったく応じなかった。 次第に緊迫してくる港湾内の状況から自分らに危機が迫って来ていることを察したペッソアは、デウス号の出航を命じるとそのまま帆を揚げて逃げるようにして港外に漕ぎ出し始めていた。 だがここで港外に向かって出航するにしても、デウス号のような大型帆船は風がなければ自由に航行できない。 長崎港周辺では、大抵この時節の風向きは港内へ向かって吹くことが多かった。 しかもデウス号来航時には、カピタン・モールのペッソアと共に300人程が乗船していたというが、出港時には一部の乗員が足止め状態であったから操船自体には相当な無理があったはずである。 通常この規模の船であれば乗員の3割が戦闘員である兵士と小銃の狙撃手で、1割弱が大砲の砲撃手であり、残りが水夫という構成である。 船体の左右には大砲も30門から40門前後搭載されていたが、それらは対戦艦用としてもっとも威力を発揮するカノン砲であった。(注:1) デウス号はそのような状況のまま、戦闘態勢を整えながら脱出を強行したのだった。 このとき長崎湾内に向けての西風がさらに強くなり、デウス号は動けずにそのまま港内方向に吹き戻されてしまった。 デウス号は航行を諦めると、一旦長崎港外に錨をおろし停泊した。 デウス号の動きを見張っていた有馬晴信はこれを好機と捉え、すぐさま1500の兵を出して船を包囲する作戦に出た。 有馬勢は長崎奉行・長谷川左兵衛権六の手勢とともに、30艘余りの小舟を繰り出してデウス号を包囲すると一斉に攻撃を仕掛けた。 だが、相手は商船といっても戦闘能力のある武装船だけに、後方から迫る有馬の攻撃に対して艦載砲で激しく応戦してきた。 ポルトガル船は海賊や敵対するオランダ船からの攻撃にも晒されていたから、訓練された兵員が乗船しておりこうした海戦には手慣れていた。 デウス号に近づいた小舟からは鉄砲がさかんに打掛けられたが、船尾に移された艦載砲で群がるそれらの小舟は次々と狙い撃ちされて、轟音とともに木っ端微塵に吹き飛ばされていった。 海上での火砲による攻撃は圧倒的な威力がある。 近距離で狙い撃ちされる状態であれば、攻め寄せる側の被害が大きくなるのは目に見えていた。 しかもデウス号の防戦は終始巧みであり、そのまま反撃の手を緩めずに徐々に船体は港外に移動していった。 攻め手の有馬勢はデウス号が洋上に出てしまう前に捕らえようと焦っていたが、この戦いはなかなか決着せずに海上での戦闘が三日間も繰広げられるという前代未聞の海戦状態となった。 さらにこの戦いには加勢の兵も舟も続々と増やされて、7000人規模にまで拡大していった。 ところが四日目の戦闘中にデウス号の船上で手投げ火薬弾の誤爆が起きると、瞬く間に火災が甲板上に広がっていった。 ついにはその火が大きな帆に燃え移ってしまった。 ここで帆を失ってしまえば、帆船だけにこれ以上航行し続けることは不可能である。 ペッソアは戦闘からの脱出を諦め、船とともに自爆する決意をする。ペッソアは、総員退避とともに船内の火薬庫に火を付けるよう部下に命令する。 自爆の間際、船上の乗員は次々と海に飛び込んでいった。 ついに船内の大量の火薬に引火すると船体からは巨大な火柱が上がって、大きなデウス号の船体は爆発で真っ二つになった。 そして長崎中の住民が見守る中で、そのままデウス号は海中に沈没していった。 そしてペッソアはデウス号と運命をともにして吹き飛んだのだった。 このときのデウス号の大爆発で、長崎の港街全体が大音響とともに揺れ動いたという。 デウス号の爆発と沈没は、ほんの一瞬の出来事であった。 海岸から戦闘の一部始終を見ていた長崎の住民のあいだから、この直後に歓声と悲鳴とが同時に挙がった。 悲鳴は内町のイエズス会信徒からであり、歓声はそれに対抗する外町のスペイン系修道会の信徒達からのものであった。 すでに長崎の日本教会は分裂状態であって、それぞれの教派に分かれて対立していた。 船を沈めた後、有馬側は海上に散乱したデウス号の積荷を強奪し、海に浮遊する船員を虐殺したというから、それこそ有馬による熾烈な報復劇ともいえる激戦が長崎の港の内外で繰広げられたわけであった。 この事件によって、デウス号船長アンドレ・ベッソアはもとより乗組員全員がすべて殺され、乗船していた司祭11人と修道士2人も命を失った。 デウス号には生糸30万斤、金塊30貫目、銀2600貫目、陶磁器数千個、他にも貴金属類を積載されていたという。 回収された生糸などの積荷のほとんどは、幕府方の長崎奉行長谷川左兵衛の手に渡ったというから、彼の辣腕ぶりはここでも証明されたわけである。 当時の長崎奉行は老中に直属する遠国奉行の一つで、幕府直轄領長崎の支配のほかに長崎での外交交渉、貿易による幕府上納を含む財政運用、西国全域のキリシタン禁圧の施策、さらには長崎警備、抜荷取り締まり、海警の指揮および銅、海産物などの集荷流通などにまでおよび、その管掌は多岐にわたった。 当初は城持ち大名がこの役職に就いていた。 ●追い詰められるキリシタン この撃沈事件に対してイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父らは猛烈に抗議し、幕府の対応をも厳しく批判した。 ロドリゲス神父の排除を狙っていた長谷川左兵衛と村山等安はこの機を捉えて巧妙に画策し、将軍家康の命令をもって対立するロドリゲス神父をマカオに追放することに成功する。 たしかにこのとき、すでに反カトリックであったオランダやイギリスの商人が新たに続々と渡航してきており、平戸や長崎にはそれぞれ商館も開設されてきていたから、ここでポルトガルと断交したとしても西洋との交易自体には支障はなかったわけである。 イエズス会がこれまで独占してきた南蛮貿易の仲介取引は転換の時期を 迎えつつあったのであるが、この事件による彼らの経済的打撃は大きく、その損害発生によってマカオでは訴訟まで引き起こされる厳しい状況に追いやられてしまった。 沈没したマードレ・デ・デウス号には、多くの生糸と取引に必要な金塊112kg、銀9750kgが積まれていたという情報がある。 1610年2月28日付日本初、ルセナのイエズス会総長補佐宛の書簡には、「このナウ船は、3000ピコの生糸と30万クルザドの銀その他の財貨を積んだまま海底に沈んだ」と事件直後に被害の規模が報告されている。(注:2) 同様にこの事件の損失にについて、レオン・パジェスの著書「日本切支丹宗門史」にも次のように触れられている。 「この恐るべき事件の起ったのは、一六一〇年一月七日の事であつた。百萬エクスの価値ある積荷は、殆んど全部波に呑まれてしまつた。ポルトガル人は商品を失ひ、宣教師は二箇年分の補助金を失った。これは宣教師達自身にとり、また教会にとつて大損害であつた」 ここに記されている、「宣教師は二箇年分の補助金を失った」という事実こそが、イエズス会と村山等安との対立をさらに深めただけでなく、その後の両者の命運を決定付けることになる。 マードレ・デ・デウス号事件は、幕府のキリシタン政策の方向性を示した大事件であった。 それもキリシタン勢力が最も強い長崎で引き起こされたことが、それをより強く印象づけた。 カトリック教会からの挑発に耐え続けたウィリアム・アダムス(三浦按針)は、イエズス会に対して反撃する機会を常に窺っていたから、この事件をカトリック勢力排除の絶好の機会と捉えていた。 これ以降も幕府はスペイン船の来航には一段と警戒感を高めたのは言うまでもない。 慶長16年(1611)に来日したスペイン使節が、寄港した沿岸部の水深をしきりに測量していることに幕府は気付いた。 その目的を家康から尋ねられたアダムスは、「エスパーニャ(スペイン)は、まず托鉢修道士たちを派遣し、彼らの後から精鋭の兵士を送り込みます。このようなやり方で外国を侵略し支配下に入れていきます。そのために各港にどの大きさの船が入港できるかを事前に探索する必要があるのです。」と答え、さらにすべてのカトリック宣教師を国外に追放すべきであると進言した。 それを受けて、その直後より徳川政権によるキリシタン勢力への対応は次第に手厳しいものに変わっていった。 1612年4月22日、徳川秀忠はすでに天領(幕府直轄地)内でのキリスト教禁止令を出していたが、さらに1614年1月31日、全国的なキリシタン国外追放令を出した。 「ここに吉利支丹の徒党、たまたま日本に来る。ただに商船を渡して資材を通ずるのみにあらず。みだりに邪法をひろめ正宗を惑わし、以て域中の政号を改め、己の有となさんと欲す。これ大禍の萌(きざし)なり。制せざるあるべからず。 ‥‥彼の伴天連の徒党、皆、件(くだん)の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗(ひぼう)し、義をそこない善を損す。刑人あるを見れば、すなわち欣(よろこ)びすなわち奔(はし)る。自ら拝し自ら礼し、これを以て(キリシタン)宗の本懐となす。邪法にあらずして何ぞや。実に神敵・仏敵なり。急に禁ぜざれば、後世必ず国家の患(うれ)いあらん。ことに号令とつかさどり、これを制せざれば、かえって天譴(てんけん)をこうむらん。」(臨済宗の僧、金地院崇伝による起草) これによって日本にいたスペイン系修道会のドミニコ会宣教師は追放されるとともに、長崎に集合しなければならなかった。 ●等安の命運を決定付けた長崎聖行列 1614年1月末、キリシタン国外追放令を受けて、長崎にも近い佐嘉と浜町において激しいキリシタン迫害が発生するという事態となった。 2月には長崎に九州各地から伴天連が集まり、禁教令への対応策が協議された。 その直後の4月20日には、かってキリシタン大名であった高山右近が加賀から追放されてこの長崎に送られてきた。 5月になると、村山等安は自らが主導して長崎のキリシタン信徒による3000人規模の大規模な聖行列を計画した。 幕府の天領での禁教令を受けて、すでに等安に対しても長崎奉行・長谷川左兵衛からキリシタンを止めるように警告が出されていたにもかかわらず、彼はそれを無視し続けたままであった。 それどころか幕府の禁教令に対抗するかのように、予定通り5月9日の聖金曜日から21日間にわたり長崎で名目托鉢修道会が主催するキリシタンの贖罪の聖行列が実施されたのである。 多くの者が鞭で身体を打ったり、荒縄で身体を縛るなどの苦行しながら長崎中の教会を巡って市内を行進したという。 このとき長崎代官である村山等安は、聖行列の最後の日に自ら十字架を背負って妻と共に先頭を歩き、その後を信徒3千人が続いて巡り歩き、それを数万の長崎市民が沿道に立って祈ったのだという。聖行列に参加した村山等安の様子を直接目にした長崎在住のイスパニアの商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは、次のように記している。 「そして財産をことごとく捨て、信仰のためには生命すら捨てる覚悟で数々の苦行を始め、諸聖人天主堂から最初の行列にかなり重い十字架を背負って参賀した。十字架は彼の肩を傷つけ多量の血が流れた。その他の行列にも彼と妻子達は公然と、あるいはひそかに満ち足りた敬虔な態度で参加した。彼はおとなしく謙虚で、以前とは別人のように見受けられたから、われわれは感嘆し、かくも力強く憐れみ深くましますわれらの主に感謝を捧げた」 等安の妻ジュスタは両手で十字架聖牌をささげ、さらに腕から肩を荒縄で縛ったまま頭に茨の冠を被っていて終始素足で歩き通した。 これによって等安夫妻は、長崎市民に対してキリシタンとしての己の立ち位置をはっきりと示してみせたのであった。 この長崎代官の行動は衝撃的なものとして人々の目に映ったことであろう。 この間、長崎の多くの教会では幕府の禁教令に抗する形で、明るく火を灯した祈りが公然と捧げられた。 当然のことであるが、このキリシタンの祭事自体は幕府を少なからず刺激したであろうし、等安の失脚を狙う側からは冷ややかに受け取られていたことは確かであった。 もとよりイエズス会はそうした状況を考慮して、この聖行列には積極的には加わらなかった。 長崎奉行である長谷川左兵衛も、この大規模なキリシタン信徒集団の行進を直接目にして少なからず驚いたことであろう。 いやこのとき長谷川左兵衛は、否応なく強引にこの聖行列を見せ付けられたと表現すべき屈辱的状況に立たされたはずある。 徳川幕府に対峙する大坂方(豊臣家)は、キリシタン勢力と結託しつつあるとの情報に危機感を募らせていた彼らにとって、等安の行ったデモンストレーションはまさに幕府の神経を逆なでするものであった。 しかもこの時期は、幕府のキリシタン弾圧によって高山右近らの迫害されたキリシタン信徒が続々と長崎に追放されてきていたし、各地からキリシタン難民も流れ込んできていたときとも重なっていた。 当然、高山右近一行も沿道に立って、このキリシタン聖行列を同じように目にしたはずである。 村山等安が陣頭に立って見せたこの長崎のキリシタン信徒らの贖罪の聖行進には、貧民や包帯を巻いたライ病患者も参加していて、沿道には数万人の人々が立ち並び祈りを捧げた。 異教徒の目には不気味な百鬼夜行そのものに見えたというが、長崎奉行・長谷川左兵衛は市中を行進する信徒集団に対して相当な警戒心を抱いたことであろう。 それはこの聖行列で、彼の警告を無視して十字架を背負って先頭に立っていた長崎代官・村山等安に対しても同様であったはずである。 等安がこうした行動に出た背景には、幕府によるキリシタン排斥の動きに対しての明確な意思表示であり、彼の立ち位置を世間にはっきりと知らしめたことになる。 ここで村山等安のその後の命運は決まったともいえよう。 キリシタンとは距離を置くべき代官でありながらこれ見よがしに信徒の先頭に立ってみせた等安という男に対して、長谷川左兵衛は少なからず敵意を抱いたことであろう。 聖行列そのものは、表面的には弾圧され続けるキリシタンの過酷な状況を多くの長崎の住人に見せ付ける行為であると同時に、キリシタンの団結の強さを示す示威運動ともいえるものであった。 少なくともこれは、幕府側に好印象を持たれるような行動ではなかったはずである。 このような形での集団行動をとれば、キリシタン信徒が為政者に対して抵抗を示す示威行為ととられるのは目に見えている。 あえてこうした危険な行動に出たということは逆効果であるようにみえるのであるが、当時のキリシタンはもはやそういう形で行動していかざるを得ない状況にまで追い詰められていたということでもある。 為政者としての幕府側の動きも、等安主催の聖行列も、ここでは必然的な歴史的事象ということができよう。 この1614年 (慶長19年)のこの時点で、等安がこういう行動に出たのは徳川と豊臣との間でいよいよ戦端が開かれるというはっきりした予兆があったからである。 その間合いを計って、村山等安はそうした示威行為をここで決行して見せたのだともいえよう。 すでに彼らにとっては、このことによって身に危険が及ぶなどという安直な駆け引きの話では済まされなかったのである。 実際に、大阪冬の陣はこの年の10月に火ぶたを切るのであるが、ここではいくつもの偶然が重なったというよりは、これは新しい展開としての次なる幕開けに他ならなかった。 (2010/9/25) (注:1)マードレ・デ・デウス号に積載されていたカノン砲は、天理市の天理図書館内に引き上げられた現物が展示されている。 (注:2)高瀬弘一郎著「キリシタン時代の貿易と外交」(p19):八木書店 参考資料: 読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」 「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月) 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月) 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月) 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月) 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月) 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月) 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月) 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月) 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月) 10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月) 11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月) 12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月) 「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳) 「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957 「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎 「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著) 朴 鐘鳴 (翻訳) 「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993 「聖書武将の生々流転・豊臣秀吉の朝鮮出兵と内藤如安」楠戸義明(著) 講談社 2000 「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳) 「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211 「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号 |
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