長崎代官村山等安・千々石ミゲル・イエズス会宣教師・長崎サント・ドミンゴ教会・ジョアン・ロドリゲス神父

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九州歴史発見シリーズ
戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(6-1)

千々石ミゲルと村山等安、そしてカステラ菓子
長崎の教会と村山等安
それでも奴隷貿易は続く・・・

村山等安とイエズス会との関係とは




東洋医学史研 究会
宇田明男



●千々石ミゲルと村山等安、そしてカステラ菓子
村山等安が統治する長崎にミゲルが逃げてきたのが1606年前後であり、その当時村山等安自身もそれまでのイエズス会とは決別して次第に両者の関係が悪化しつつあった時期に当たる。
むしろ等安自身のイエズス会からの離脱は、ミゲルの動向とも重なる部分があって、その原因さえも何らかの関連性があったのではないかとも考えられる。
村山等安・加寿天以羅・長崎カステラ千々石ミゲルが大村家や有馬家にもたらした海外情報は、両家とも親交のある村山等安の耳にも入っていた可能性があるわけで、少なくともこの辺で等安とイエズス会とのそれまでの親密な相互関係も解消されていたようである。
しかも教会から離れただけでなく別会派に改宗までしてしまったということは、イエズス会からみれば明らかに村山等安は裏切り者であり、最悪の背教者に違いなかった。
等安はこれ以降、イエズス会の後から日本に渡ってきたスペイン系の托鉢修道会のフランシスコ会やドミニコ会を積極的に支援するようになる。
フランシスコ会もドミニコ会も南蛮貿易にはまったく関与していなかったから、交易による経済的利得などは期待できないことは誰の目にも明らかであった。
あえてそのような清貧な立場をとるということはキリシタン信徒としての理由意外には考えられないことであった。
この等安の転身には、長崎代官というより彼の武士としての選択が多分に働いていたということがいえるであろう。
この辺の彼の内面的心情は、棄教した千々石ミゲルとどこかしら似ている。
そうした異端者同士としての部分でのお互いの関係が深まっていたともいえるであろう。


もとより村山等安は武家に持て囃された茶道や料理にも精通していただけでなく、長崎に於ける南蛮料理・菓子(カステラ・加寿天以羅)の創意工夫で秀吉や諸大名にも喜ばれていたということでもわかるように、ひろく武家好みの風流にも通じた才人としても知られていた。
村山等安が長崎に広めたカステラ菓子そのものは、一つの食文化として定着して400年以上経た今日でも人々に愛され続けているのであるが、皮肉なことに彼や一族の業績に関心を寄せる人は少ない。
等安は当時、ポルトガルの商船で伝来していたいわゆるスペインのビスコッチョ(BISCOCHO・カスティーリャのパンもしくは菓子、パステル・デ・マンテキージャのようなケーキ菓子)を手本するか、交流のあった南蛮人から調理法を伝授された。
教会でも礼拝の後でもこうした菓子が、度々振る舞われていた。
南蛮の菓子はやや固めであったが、等安はこれに水飴を加えるなどして独自の工夫をして、より口当たりのよい日本人好みのカステラ菓子を創製してみせた。
長崎でも京大坂同様に茶道は盛んであったし、当時の武人にとっては、自ら料理して茶席で客をもてなし馳走するのが当たり前の作法であったのだ。
この時代、茶菓子といっても麩菓子のような簡単なものしか一般には知られてはいなかっただけに、等安の茶会ではこのカステラ菓子が出されて大変な評判を呼んだ。
村山等安・加寿天以羅・カステラそうであればなおのこと、村山等安は長期間のヨーロッパ滞在の経験のあるミゲルからすすんで南蛮の料理情報を得ていたのかもしれない。
そうした機会が実際にあったとすれば、千々石ミゲルが直接目にしたヨーロッパ諸国の交易の様子や商取引の慣習、港湾設備や海運業の状況、流通する商品の種類など、村山等安にはそれこそ得がたい海外情報が語られたのではなかろうか。


それ以上に、長崎の地へ命懸けで逃れてきた千々石ミゲルが、等安に対して自分の立場をどのように話したか興味深いところである。
何故にイエズス会を脱会して、司祭への道を断念したのか。
何故に棄教までしたのか。
何故に大村家に仕えたのか。
そして何故に命まで狙われる事態となったのか。
村山等安の足元に逃避してきている状況からいけば、千々石ミゲルは等安に向かって己の心情の総てを打ち明けたのではないか。
そうなるとむしろ千々石ミゲル自身は、最初から長崎代官・村山等安の元を頼って逃れてきたともいえよう。
当時のミゲルの想いを受け入れる人物がいるとすれば、長崎のキリシタン村山等安であったということであろう。
そしてそこでもやはり、ミゲルが海外で直接目にした日本人奴隷の悲惨な実態も詳しく伝えられたであろうし、等安もそのおぞましい事実を聞かされ少なからず驚愕したことであろう。
等安自身もこの海外との奴隷取引には行政官として関心を持っていたが、ミゲルがもたらした情報によってその全貌を始めて知ったはずである。
この一連の情報は、間違いなく村山等安にも相当な衝撃を与えている。
等安は、このとき間髪を入れずに反イエズス会ともいえる行動を起こしている。
その時期は、長崎へ千々石ミゲルが逃れてきたまさに丁度そのとき、1606年(慶長11年)当時であった。
しかもそれは長崎の行政官としての判断というより、むしろ人間・村山等安としての一貫した単独行動ともいうべき性格のものであった。
等安はある意味、もっとも敵対すべきでない相手であるはずの交易相手のイエズス会を躊躇うことなく敵にまわしたのである。
そしてついに彼はそのイエズス会士から、極悪の背教者としての烙印が押されてしまう。
これ以降、両者の対立は決定的なものとなる。


長崎での取引では、イエズス会がその仲介者としてポルトガル商人に対しても強力な発言権を持っていた。
実際の生糸などの商取引においても、その生糸の分配はイエズス会が重要視する大名やパードレの友人、そして親密な信徒の商人らが最優先されるのが常であった。
そうした取引上の不公平さは、多くの不満や欺瞞を生じていくきっかけとなっていた。
村山等安がもっとも早くイエズス会を見限って離脱したのであるが、彼の胸の内にはすでにポルトガルのイエズス会勢力を長崎から排除するという決意をも秘めていた。
等安が、何故このときイエズス会を敵にまわしてしまったのかがここでは問われるところであるが、それが村山等安の武士としての矜持であり彼の最終的な決断に他ならなかった。
それこそ彼は、ここではいかようにも己の保身を図る立場を選択できる権力と明晰な頭脳とを持った人物に違いなかった。
おそらく幕府行政官としても、この時期でさえイエズス会とは良好な関係を維持したほうが明らかに得策に違いなかった。
まだこの時点では、幕府も明確なキリシタン弾圧を表明してきてはいなかった。
むしろこのとき等安は、貿易商としてさらなる富の蓄財に精力をかたむけられる優位な立ち位置をも自在に選ぶこともできたのである。
事実、彼ほど大きな権限をもって自由に行動できる立場の人間は、長崎には他には居なかった。
それだけに彼が見せたこのときの豹変ぶりには、それまでの等安を知る人々を驚かせずにはおられなかった。


●長崎が奴隷売買の市場だった
長崎の地は、確かに千々石ミゲルにとって住むにはもっとも安全な土地に違いなかったが、彼が長崎に移り住む前の文禄、慶長年間と続いて頻繁してきた町中で目にしていたものは、あまりにも過酷な現実そのものが押し寄せてきていた。
村山等安は長崎代官として、当初より秀吉の日本人売買の禁令に沿って、奴隷取引は厳しく取り締まる立場にあったわけで、徳川の代替わりでも禁令そのものは慣例として破棄されずにそのまま踏襲されていた。
しかしながら、千々石ミゲルがもっとも嫌悪感を持っていた人身売買も奴隷貿易も、九州で限ってみても、彼の帰国後も以前同様にそれは少しも廃れることはなかった。
皮肉なことに、次第に長崎の街はそうした奴隷取引の一大市場を形成していったのである。
それは1592年(文禄元年)以降の秀吉の朝鮮出兵によって突発的に発生したものであった。
その戦乱のあいだに多くの朝鮮人が捕虜として捕らえられ南蛮船に次々と転売されていったからであり、そうした奴隷船が着く博多や平戸、長崎の各港では、相も変わらず人買いや海外の奴隷商人がさかんに暗躍し続けていた。(注:1)


朝鮮出兵・アタケそれ以前の九州の戦国時代の混迷自体は、たしかに秀吉の統治によってどうにか戦乱そのものは終息していたが、再び今度は朝鮮で戦う多くの大名たちは鉄砲、弾薬を買う代価として、また多額の戦費調達のために朝鮮人を拉致してきては奴隷として奴隷商人に売りさばいていた。
朝鮮に兵や兵糧を運んだ輸送船は、九州に戻るときには生け捕った多数の捕虜を積み込んで帰還してきていた。
当時朝鮮から連行されてきた朱子学者・姜(かんはん)は、その著「看羊録」の中で、「賊船が数千艘も海港に充満し、紅白の旗が日に輝いていた。わが国の男女が大半相雑り、両側には屍が乱暴にも山のように積まれていた。哭声は、天に徹り、海潮も嗚咽するかのようであった」、とその悲惨な状況を記述している。


長崎代官村山等安にしてみれば、イエズス会と関係の深い内町や日本人以外の取引ではたとえ奴隷商品が関わった商取引があったとしても、外町の行政官としてそこまで立ち入ることはできず苦々しい思いであったろう。(注:2)
徳川の治世になっても日本人奴隷の売買も廃れることはなかったのだ。
1618年当時もそうした取引が根強く続いていて、東アジア地域の奴隷の集積地マカオでは日本人キリシタンの少年少女の売買を禁止しようとしたほどであった。
これは一体どういうことであろうか。そこにはどのような背景があったというのであろうか。
要は、異教徒よりキリシタン信徒の方が海外に連れ出し易すかったということである。
それは奴隷として海外に売られていくか、あるいは自らの希望で海外のキリシタン国へ渡航する何らかの意思表示があったのかどうかの違いだけである。
当時はまだ、自主的な海外渡航は禁止されてはいなかったから、むしろキリシタンである方が善意の契約ということでここでは容易く海外に渡航できたという背景が隠されていたわけである。
輸出許可書に司祭が署名さえすれば、渡航者であろうと奴隷であろうと船に乗せられるわけで、輸送する側も積荷証明書が揃うことになる。
そのような理由から、日本人の売買は禁止令が出されても実際にはほとんど守られることはなかった。


こうした取引にイエズス会が深く関わり、奴隷の輸出ということで許可書発行(同意書)に関与していたことに千々石ミゲルや等安は気付いていた。
人身売買するにしても、その根幹の所有権はローマ教皇にあるのであって、さらに教皇文書によってキリスト教国の王はその代理人として、関与する一切の権限を教会と商人とに委ねていたわけである。
だからこそ、ここでは日本人を奴隷として仲介取引することについて、イエズス会修道士らは次のような理由でそれを正当化していた。
「ポルトガル国王陛下がそれを命じている以上、われわれは何人をも購入することはないであろう。しかし、日本国民は彼ら自身の子供たちを売却するのを常とするのだ。しかも日本人は彼らと同じ非信徒たちに売却する。つまり、日本国民は日本国民を異教徒たちに売却するのだ。したがってキリスト教徒たちへの売却は、正当であるように思われる。というのは、キリスト教徒は購入した者たちを皆、キリスト教徒にするからである。(1605 年、文書 148)」(大航海時代の日本―ポルトガル公文書に見る―. 高瀬弘一郎訳註)

かってキリシタン大名であった有馬晴信は、宣教師の要求に応じて領民から少年少女を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送った事実があった。
政庁での使用人なのか、衛兵要員なのか、そこにはどのような名目が立てられたのかはわからないが、このとき送られた少年少女はキリシタンであったのではないか。
ここにある宣教師とは、有馬を軍事面で度々支援していたイエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノのことであろう。
そしてこれをヴァリニャーノから直接指示され、実務面で秘密裏に遂行したのがイエズス会の出世頭で実力者でもあった長崎のジョアン・ロドリゲス神父であった。
彼が教会の会計責任者(プロクラドール)の地位に着いた理由も、こうした実務能力を評価されたからであった。
ロドリゲス神父はそうした輸出業務全般に関わっていたが、そこではイエズス会が輸出許可証を発行することによって修道会の財政調達を助けていたことによる。
この背景には、イエズス会内部の急速な財政の悪化があり、経済的にも逼した状況に陥っていたことも関係していた。
それは日本国内の宣教事業だけでなく、長崎に集まってくる各地の迫害されたキリシタン信徒の救済のための出費など、教会はここでも相当な経費負担を強いられてきていたからである。
そのためイエズス会はマカオやゴアの上部組織からも多額の事業資金を借りなくてはならず、その負債が相当に積み上がっていたのである。
その一方で、有馬や大村との交易では取り立てるべき債権が残ったままであった。
相手にその支払い能力がないのであれば、ここは現物商品を受け取るかたちで、有馬やゴアともどうにかして貸借関係を決済しようとしたであろうことが窺えるわけである。
教会の財政を立て直すためにヴァリニャーノは相当な危機感を持っており、日本語に長けたロドリゲス神父に有馬との負債に関わる決済実務の交渉もすべて任せていたということになる。
こうした機密情報を千々石ミゲルは、密かに探り出そうとして動いていたのだ。
そのために彼は、主君や教会からは危険人物として執拗に命を狙われたのである。


教会内部では、宣教師が貿易に従事するのは問題があると考える者もいたが、そうした意見は教会上層部にはまったく受け入れられなかった。
日本布教長をも務めた準管区長フランシスコ・カブラルはその少数派の一人であったが、イエズス会総会長あての書簡で次のように自分の考えを述べている。
「日本の改宗事業のために必要であるとの口実の下にわれわれが少しずつ足を踏み出し、純粋に必要あって、極めて慎重かつ細心に始めたことが、必要というより、無知と貪欲さから行われるようになること、つまり修道士にふさわしい程度をこえて恣に行われるようになるのを非常に恐れる。というのは、すでに今年何人かのバードレが個人でもって、貧者のためとか教会を修繕するためとか言って20ピコ、10ピコと生糸を入手した。この生糸は直ちにその地で転売されたが、このようなことも非常に悪いことだと思われた。また何人かのバードレは、これと同じ口実で、少額ながらこの地で投資するために 金を送ってきた。もしも初期のうちに防いでおかないと、これが嵩じて非常な悪事を働く者も出てこよう。」


カブラルは聖職者が俗事の商取引に深く関わることで、悪事を働く者が出てくることを強く懸念していたが、実際にはあらゆる場でポルトガル商人と共に多くの商取引に宣教師は従来通り関わり続けていた。
カブラルは、なおもイエズス会総会長あての書簡に続けて記している。
「教会の門をくぐつて人々はミサにあずかるが、同時にその傍らの門から生糸や棉放物の梱が運び込まれ、良心問題やその他の霊的な事柄のために来た人々が、中国の財貨や商品が、プロタラドール立会いの下に欄にされているのを目撃するというようなことがたびたび起っているからである。このようなことは、現在の管区長(ヴァリニヤーノ)から多くの許可と権能を得て行われているので、カーザ内に慎みを欠く空気を作り出し、その上少なからず非教化の原因にもなっている」


プロタラドールの神父を操るヴアリニヤーノのそうした貿易推進の姿勢さえも痛烈に批判してみせている。
カブラルとイエズス会東インド管区の巡察師ヴアリニヤーノとは宣教事業でも意見が合わず、遂にカブラルは布教責任者の立場を解任され1582年に日本から退去させてしまった。
当時のイエズス会の方針では、大衆受けするような宗教的清貧さを表に出すことを避けていたし、大名や貴人との交流に多額の経費を要する状況にあった。


●村山等安とイエズス会との関係とは
村山等安はキリシタン貿易商としての立場から、また南蛮貿易の取引の相手として、イエズス会の宣教師らとは当初より良好な関係を維持してきていた。
それこそ等安の優れた才覚であり、商人としてのたゆまぬ努力があったということになる。
長崎での交易の場では新参者である等安に対して教会も彼の存在に注目し、次第に好意的な評価と態度を示すようになる。
ジョアン・ロドリゲス神父、イエズス会イエズス会は、村山等安が弁舌も巧みで商才にも長けた有能な貿易商であることを知ると、彼が長崎の代官になる前後から経済的にも政治的にも機会あるごとに支援するようになっていった。
長崎からの報告書の中でも最大級の人物評価を与えると共に、明確なかたちで商取引の場で等安を優遇したのである。


まさにそうした両者の蜜月の時期に長崎に現れたのが、ジョアン・ロドリゲス神父であった。
ロドリゲス神父は16歳で日本に渡って来たこともあって、日本語を流暢に使いこなし日本人との会話にはまったく不自由しなかった。(注:3)
1580(天正8)年、ロドリゲスはイエズス会に正式に入会した後、1588年には安土から有馬領の八良尾に移転された神学校で日本人学生にラテン語を教えていたが、彼の卓越した語学の才能はイエズス会の日本巡察使ヴァリニャーノによって高く評価されることとなる。
ヴァリニャーノは、天正遣欧少年使節とゴアで合流しマニラを経由して1590年7月日本に再び渡ってきたが、このときより訪問の際の通訳としてロドリゲスが選ばれたのだった。
ヴァリニャーノの通訳として活躍したロドリゲスは権力者の秀吉や家康からの信頼が厚く、終始イエズス会の外交官的役割を果たしていた。
1591年にはすでに通訳としてヴァリニャーノに従って移動していたが、1592年以降は長崎に戻って名護屋に布陣した秀吉の下へも度々訪れていた。


彼はルイス・フロイス同様に、日本で長年にわたって優れた通事として活躍したことでも知られているが、等安と同年齢で社交的で人脈も広いこともあって、商談で顔を合わせた二人はまたたく間に親密になっていった。
これは丁度村山等安が長崎代官になった時期と重なるだけに、ポルトガルとの商取引も含めてロドリゲスとの交流はこのときより一段と深まったと考えられる。
以後、イエズス会の実力者であったジョアン・ロドリゲス神父とは個人的にも相当深い繋がりを持つようになり、等安の屋敷にも度々出入りして彼の家族とも親交を深めていった。
日常会話に不自由しないロドリゲス神父が等安のもとを訪ねてくれば、客人として饗応したことであろう。
その後の十数年は、両者の間にはきわめて良好な関係が続いていたことは確かである。
そのような関係もあって、当時の村山等安というキリシタン貿易商についてのイエズス会内部の報告書には高い評価がされていた。
1603年10月3日付け長崎発、イエズス会日本準管区長フランシスコ・パシオのイエズス会総長宛ての書簡には次のように紹介されている。
「(等安は)非常に善良なキリスト教徒であって神の名誉に対して熱心な、当地でも最も主だった人々の内の一人で高潔なアントニオという名の人物」、そして「非常に思慮深く神と当キリスト教会の名誉に対して熱心な人物である」
ところが、ある日を境にして等安はイエズス会から決然として離反すると、教会だけでなく一転してロドリゲス神父をしきりに誹謗するようになる。


そのような状況が訪れる直前であるが、村山等安は慶長9年(1604年)の正月にイエズス会のロドリゲス神父とともに伏見で徳川家康に謁見し、引き続き長崎の代官となる事を追認されている。
ただこのときはウィリアム・アダムスのリーフデ号事件の後だけに、政治的にはこの時期になると両者の関係はいままでになく微妙なものに変わってきていたのではあるまいか。


ある時期まで、両者は親交を深めた友人同士であったことは間違いないであろう。
等安自身も朱印船貿易商人の筆頭として活躍するとともに、海外情報を積極的に吸収することに日々努めており、ポルトガル語にも相当通じていた。
ロドリゲス神父との間では日本語、ポルトガル語双方が話されたのかもしれない。
等安はポルトガル人とも通詞なしでも直接会話できる能力があったが、彼の場合どのような場面でその語学力をもっとも試していたかは微妙なところであろう。
ルイス・フロイスが記録しているように、当時のイエズス会の宣教師らは当初より日本人を差別的に扱い「ヨーロッパの学問、南蛮人同士の会話が聞き取られぬようにするため、日本人がポルトガル語やスペイン語を学習することを禁じた」のであって、そのような状況下でありながら等安がポルトガル語を身に付けていたとすれば、おそらくそれは彼の才能と努力の賜物であったはずである。
もしも千々石ミゲルにポルトガル語を個人教授されていたとなれば、なおさらである。
むしろここでは、等安はポルトガル人たちの会話に密かに聞き耳を立てていた可能性の方が高いのかもしれない。


さらに等安は、南蛮人らの使う当時最新のイタリア式の複雑な複式帳簿の記帳法も理解して、自分の財産管理や商取引にも応用するようになる。
これもやはり、ミゲルによる会計学の手解きがあったのではないか。
また度々教会に出入りしていると、神父の寝室にまで商人が入り込み商談を進めたり、教会内に商品類が運び込まれる様子も度々目にしたはずで、そこでは神父らが抜け目ない商人同様に真剣な眼差しで銭勘定をしている様子にも頻繁に出くわしたりする。
そのうちにジョアン・ロドリゲス神父が教会のすべての財務を管理し逐一記帳していることも次第に分かってくる。
当時、彼はイエズス会日本管区の会計係 (Procurador) (プロクラドール)として重い責任を担っていた。
推測ではあるが、等安は何らかの形で親しく付き合っている神父が記帳した会計帳簿を密かに垣間見たのではあるまいか。
もし帳簿の中を見たとすれば、彼らの財務内容は等安には一目瞭然である。
当時のポルトガル商人が取引する生糸は仕入れ値の2、3倍の価格で日本の商人に売られていたし、一度の交易で少ない時でも5割もの純利益を彼らにもたらした。
当然彼らは生糸の値段を高く設定して売り捌こうと常に画策していた。


奴隷取引にしてもイエズス会が発行する輸出許可書がなければ、実際の売買も積み出しも出来なかった。
それまでポルトガル商人はその独占的南蛮貿易によって莫大な利ざやともいうべき暴利を貪っていたし、奴隷取引が増大した時期には潤沢な資金が取引仲介の益金として教会にも流れ込んでいた。
それでもなお宣教活動を円滑に遂行していくには、多くの経費が教会には必要であった。
イエズス会にとってこうした商行為自体は教皇から与えられた特権そのものであり彼らの教会が関与することに何ら差し障りはなかったし、そうした宣教事業に関わる財務状況も逐一マニラの上部組織には報告されていた。
1455年、ローマ教皇ニコラウス5世の勅書によって認められたとされる特権は、ローマ教皇の代理人として進出し征服した土地の所有が認められるだけでなく、そこで法律を作り、税金を課し「修道院、教会などの宗教施設を建てることができるものとされた。
さらにその土地の非キリスト教徒・異教徒を永久に奴隷状態におくことができるとして、ここでは彼らが神聖な代理人として植民地支配することを教皇の権威によって正当化されたものとしていたのであった。
この特権のもとでは少なくとも奴隷取引そのものは正当な商取引の範疇にあるとみられ、結果的には教会の財政面に寄与するものとしていた。
そしてこの情報の一端を長崎代官である村山等安は、この時期千々石ミゲルを通じて密かに掴んでいた可能性があるわけである。



(2010/9/25)

(注:1)慶長2年(1597)、イタリア人フランチェスコ・カルレッチは長崎で朝鮮人の奴隷少年5人を12シリング買い取って、4人をインドのゴアで手ばなし、一人だけを連れてイタリアに帰った。(「朝鮮西教史」山口正之 雄山閣、1968)
一人当り2.4シリングの買い値は、銀に換算すると25匁(一匁は3.75g)になり、銀125匁で五人の朝鮮人奴隷を買った計算になる。当時、イギリス海軍の水夫の1箇月分の給与が10シリングであった。
(注:2)「日本人は多数の朝鮮人を捕へて、二束三文に売り、長崎でポルトガル人の輸入する絹と交易に奴隷として輸出し、商人等は占領地の朝鮮に出かけて、朝鮮人を捕へて商品の如くし」
「 一体、太閤様の朝鮮役でつれて来た朝鮮人の中には、幼児が中々多く、加之、戦争後にもポルトガル人に売る目的で、朝鮮から掠奪して来た幼児もあった」(「切支丹伝道の興廃」 姉崎正治 (著) 1930年)
(注:3) ジョアン・ロドリゲスは、1577年に日本に渡航。日本語を習得して、宣教師のために「日本語文典」「日本語小文典」等の日本語の優れた解説書や文法書を著した。また「日本教会史」の著者としても知られる。



参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「通辞ロドリゲス−−南蛮の冒険者と大航海時代の日本・中国」(マイケル・クーパー著 松本たま訳 原書房 1991年
「聖書武将の生々流転・豊臣秀吉の朝鮮出兵と内藤如安」楠戸義明(著) 講談社 2000
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「肥前 有馬一族 」外山 幹夫 (著) 新人物往来社 1997
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか −教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか −教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、 先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか







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