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| 九州歴史発見シリーズ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(5)-2 長崎代官・村山等安との邂逅 千々石ミゲル、長崎へ逃げる! 長崎代官・村山等安とは何者か キリシタン貿易商としての活躍 ● 東洋医学史研
究会 ●長崎代官・村山等安との邂逅 このような身に危険が迫るような状況に追い込まれていって、それでも千々石ミゲルに辛うじて逃がれ得る土地があるとすれば唯一天領であった長崎の町しかなかったであろう。 当時すでに長崎には、南蛮貿易の拠点ということもあって独特のキリシタン社会が出来あがっていた。 もとより住民の大半がキリシタンであったし、一旦この地に逃げ込めば、大村も有馬も幕府の直轄領内では下手に手は出せなかっただろう。 ミゲルを悪質な背教者として異端視するイエズス会とてそれは同様であった。 そしてこの時期、長崎の町で千々石ミゲルのような異端者をあえて庇護する力のある者がいるとすれば、同時期の外町の長崎代官の地位にあった村山等安しか考えられないところである。 村山等安は長崎と隣接する大村や有馬の大名とも親しく交流していたことから、千々石ミゲルのそうした消息はどこかで耳に入っていたことであろう。 ミゲルが大村家に家臣として仕えていたことを考えれば、事件が起こる以前からミゲルと等安とは商取引の現場での面識があった可能性もあることになる。 おそらくミゲルの襲撃事件を知った等安が素早く助けの手を差し伸べて、彼の身柄を長崎の地に受け入れて庇護したのではあるまいか。 村山等安が千々石ミゲルをそのように直接庇護したという記録はないのだが、彼ならキリシタンとしてのミゲルを助けたであろうという状況証拠なら存在する。 千々石ミゲルがイエズス会を脱退した異端者ということであれば、なおのこと村山等安は彼に強い関心を持ったことであろう。 それはこの時期、村山等安自身もキリシタンでありながら長崎内町のイエズス会とは決別しおり、次第に敵対しつつあったからである。 それまでイエズス会には日本におけるキリスト教の独占的布教権があったが、これが一旦解除されたため他の托鉢修道会といわれるフランシスコ会、ドミニコ会、さらにアウグスチノ会がマニラから次々と渡来してきていて、それぞれの教会が競合しながら布教活動を行うという状況が生まれていた。従来、イエズス会は大名などの支配階層に積極的に宣教活動を展開して信徒数を増やしていたが、ここで新たに托鉢修道会が進出してきて貧民階層にも徐々に浸透し始めてきていた。 1580年、ポルトガルはスペインに併合された結果、スペイン系の修道会であるフランシスコ会やドミニコ会は、すでにイエズス会が進出していたアジア地域や日本にも新たに布教するために渡航を図った。 その結果日本での既得権を主張するイエズス会とのあいだでは、それこそ熾烈な布教競争の鬩ぎ合いを繰り広げる展開となってきていたのだ。 当時の長崎在住のそれらの托鉢修道会の教会や教徒は、長崎の代官職にある権力者村山等安によって、何らかの庇護を受けていたといっても過言ではなかった。 むしろ千々石ミゲルのような不安定な立場の者は、このような権力者の庇護なしには生きてはいけなかったともいえるだろう。 ●千々石ミゲル、長崎へ逃げる! 千々石ミゲルが足を踏み入れた長崎の港は、すでに南蛮貿易の拠点として急速な発展を遂げていた。 当時の長崎は東アジアと向かい合った南蛮貿易の一大拠点として、周辺国より多くの人々を受け入れるだけの自由闊達な気風が満ち溢れていた。 長崎が港としての形が整ってきた当初は1500人ほどの人口であったというが、その後は、博多、山口、五島、平戸、島原、天草志岐などの周辺諸国からキリシタンも異教徒も続々とこの活力ある土地に集まってきており、長崎の街は急速に人口が増加していった。それまでは小さな漁村があっただけの寂れた土地であったが、交易上の天然の良港ということで1571年以降ポルトガルの大型の船が次々と渡来するようになって賑わっていったからであった。 南蛮人は素早く長崎と中国のマカオとの間に定期航路を設けていたのであるが、年々その交易量は増大していった。 マカオはアジア地域での南蛮交易の重要な拠点として知られ、同時に奴隷の一大集散地としても発展していたこともあって、この定期航路は日本からの奴隷の輸送路でもあった。 「日本切支丹宗門史」(レオン・パジェス著)によると、1605五年(慶長10年)当時、「長崎の町は、瞬く間に拡大し、住民は挙げてキリシタンで、又世俗の富を求めて来た異教徒と多数の商人達は、金銀なしに贖ひ得る精神的の富を得て、物質的にも精神的にも富裕になって、彼等の故郷に帰って行った。長崎は、司教の常住の地で、イエズス会の主要な学林と大きな駐在所があった。」と書かれている。 長崎では宣教師の渡来とともに各地に教会が次々と建てられていたが、長崎開港の翌年、岬の突端にはフィゲイレド神父によって「岬の教会」とも称されたサン・パウロ教会(外浦町:現:長崎県庁舎)が建立された。 この教会はのちに、当時の長崎で一番大きい「被昇天の聖母教会」に建て直され、イエズス会の日本本部が置かれていた。 イエズス会本部以外にも、司教館、コレジヨ、セミナリヨなどもあったが、後には当時でも珍しい西洋式の時計塔が設置され、決まった時刻に鐘が鳴らされ異国情緒が溢れた風景がみられたという。 村山等安が行政官として活動した時代には、最盛期には人口5万人規模の都市が形成されており、その住民のほとんどがキリシタン信徒であったという。 その長崎へ千々石ミゲルが逃れてきたのが、1606年(慶長11年)前後であったことは確かである。 たとえそのとき村山等安との繋がりがなかったとしても、千々石ミゲルが単身長崎の新興の外町辺りに逃れてきたのであれば、いずれ代官である村山等安の目にもとまるはずである。 イエズス会を退会したミゲルの存在を知る者は、当時の長崎には少なからずいただけに、キリシタンが多く住まう街中で彼の姿が等安の目に止まらぬ方がむしろ不自然な見方といえよう。 ともかくミゲル自身がここで密かに隠れて住むとしても、衆目の集まる街中の状況からみて到底無理な話であったはずである。 村山等安が統治する長崎の外町は、イエズス会よりも托鉢修道会のドミニコ会の信徒が多かったのは確かである。 そうした状況もミゲルにとっては好都合だったのではあるまいか。 1590年、少年使節ミゲルらが8年半ぶりに長崎の港に帰国してきた際には、村山等安はまだ長崎の代官職にはついてはなかったが、キリシタンの一貿易商としてそのときの歓迎の輪の中に姿を見せていたかも知れない。 そこでミゲルの姿も確認しているはずである。 それ以降にも千々石ミゲルが長崎に隣接する大村領に居住して領主の大村喜前にも家臣として仕えていたわけだから、彼が南蛮取引に関わる通詞のような役目に就いておれば両者には取引上での何らかの接点があった可能性はあったということになる。 たとえ主君の元から逃亡せざるを得ないようになった状況が出来したとしても、面倒見のよい村山等安が何らかの支援を千々石ミゲルにも与えていたであろうことは容易に察せられられよう。 それこそ村山等安ほどの目聡い人間が、棄教したとはいえ海外情報に詳しいミゲルをそのまま放置しておくことはなかったであろう。 ●長崎代官・村山等安とは何者か 村山等安は豊臣秀吉によって引き立てられて、長崎直轄領の代官となった人物である。 それまでは長崎の一介の商人に過ぎなかったのだが、いきなりの抜擢であった。 一体、村山等安はどのようにして、その権力の座を手にしたのだろうか。 等安は秀吉の家臣でもなく、以前より戦国の武将として秀吉に仕えていたというわけでもなかった。 彼の出自は伝聞だけではっきりしないが、武士として茶道などの素養を一通り身に付けていた。 等安は長崎の人間ではなくて元は尾張出身の武士であったが、浪人の身となって天正16年(1588)にこの地に流れてきたのだという。 おそらくは彼の父親は織田信長の家臣団の一人であったようだが、織田家が衰退すると共にそのまま浪人となったものと思われる。 彼は、立ち振る舞いも堂々としていて弁舌に優れるなど才知に溢れた人物であったといい、長崎の地でも次第に商人としての頭角をあらわしてきていた。 それまでの等安は、長崎ではアントニオという洗礼名をもつキリシタン商人として知られていただけであったが、時の天下人秀吉に認められて1592年(文禄元年)、いきなり長崎外町を統括する代官となった。 当時の長崎の住民は、この突然の成り行きには皆驚愕したという。 そのとき村山等安は、まだ二十代後半の新進の貿易商の一人でしかなかった。
等安は、長崎に渡来してきていた南蛮人から南蛮菓子のカステラ製法を伝授されて菓子店を市中に構えたという伝聞もあるが、実際のところは彼の本領である貿易商としての台頭こそが真実であって、その分野での活躍が彼の商人としての成功に繋がっていったということであろう。南蛮菓子の制作自体は、本来彼の茶道に関連した余技であったはずで、それで客をもてなしたことがカステラ製法習熟のきっかけであった。 ところがこの目新しい南蛮菓子カステラの製法という余技が、彼に思わぬ幸運をもたらしたのだ。 初代の長崎奉行の唐津領主寺澤志摩守広高は、かって村山等安の父親と面識があったことから肥前名護屋に布陣していた太閤秀吉に、等安は直接拝謁することができた。 このときキリシタン大名であった会津宰相の蒲生氏郷が仲介したともいう。 しかもここで太閤秀吉に献上したカステラ菓子が、新しいもの好きの秀吉の目に止まり間近な席で目通りが叶うのである。 秀吉は等安を気に入り二日間に渡って歓談し、長崎の状況について多くの質問をしたという。 等安は秀吉の細部にわたる長崎についての鋭い下問に対して、そのすべてについて滞ることなく的確に答えたという。 海外交易での長崎の地の利についてはもとより、南蛮人との商取引の様子、日本人の海外進出の様相やキリシタン情報、奴隷売買など秀吉の疑問を次々と解き明かして見せた。 秀吉はこれによって村山等安の統治者としての卓越した才覚を見抜き、長崎直轄領の代官職を彼に与えたのだった。 まさにこの辺りは劇的な展開としかいいようがないわけで、人垂らしの名人秀吉をして、ここでは前代未聞の重要な役職への抜擢人事がなされたのであった。 この辺りの経緯について、村山家文書には次のようにある。 「文禄元年辰年、太閤秀吉公朝鮮征伐として唐津名護屋御在陣の節、度々御前に召 し出され、長崎の様子御尋ねの儀逐一申し上げ、その後長崎御代官を仰せ付けられ、御朱印下し置かれ一統の支配仕り候、その節御大刀並びに器物等、拝領仕り候。大坂落城後翌元和二辰年改易仰せ付けられ候」(「村山等安とその末裔」)
それまで長崎では頭人と呼ばれる実力者が街の政治を与っていたが、秀吉の直轄領となってからは町年寄に改められた。(文禄元年・1592年)それ以降は地租を免じられた内町(23町)を町年寄が治め、それ以外の外町(51町)を長崎代官の村山等安が支配することとなったのだ。 代官村山等安の外町支配とその差配によって、秀吉には一定の地税が納められることとなった。 長崎の町は、港に面した内町の周りを外町の町家が包み込むように囲んでおり、外町は年を経るごとに規模が拡大し人口も増加していった。 さらに長崎の内町・外町の周囲には、長崎代官支配の郷3ヶ村と、その外側の天領長崎7ヶ村があって、当時その全体の総石高は約3000石といわれた。 豊臣の世から徳川の治世に移っても、等安はその巧みな政治力によって長崎代官の地位の継承を許されていた。 江戸幕府の時代になると、1605(慶長10)年に幕府は長崎村13郷をさらに天領として加え、そのすべてを長崎代官の支配下に置いた。 ここから毎年年貢を代官として徴収するわけだから、村山等安は実質大名と同等の権力が長崎領内では行使できる立場にあったと言える。 豊臣から徳川へと、天領の地でありながら行政官がその地位を継承できたということは、彼の政治的力量がそれだけ卓越していたということになる。 徳川政権下でのそうした政治的根回しも行き届いていたわけだが、それが等安の才覚のすべてではなかった。 ●キリシタン貿易商としての活躍
その一方で村山等安自身は、海外との朱印船貿易による商取引に進出してポルトガル語や中国語も自在にあやつり、当初より呂宋壺や生糸・印子・金・鉛・水銀・生薬などを商い大いに成功して瞬く間に財を成した。長崎において比類のない権勢と名声とを同時に手にしたといっても過言ではなかった。 最盛期には九州の鍋島藩や薩摩藩に資金を融通するほどの財力を有していたともいわれ、長崎有数の貿易商として、また熱心なキリシタンとしても海外にまでその名を知られた。 朱印状を手にした貿易商の多くは遠く呂宋(ルソン)のマニラやパタニ、暹羅(シャム)のアユタヤ、カンボジア、マレーまでも交易の船を出していた。(地図参照・東京書籍「図説日本史」より) 村山等安は中国人商人とも親交があり、平戸に住んでいた海商の頭目の李旦とも取引を行なっていた。 中国の海商は大きな船団を持ち、頻繁に海賊としての活動も行なっていただけに侮りがたい勢力を持っていた。 それだけに当時海外に進出する貿易商は、航路上の安全と制海権を己自身で確保する必要があった。 日本からの船や積荷も洋上でいきなり海賊に襲われる危険性が常にあったわけで、そうした戦力も備えた上で交易活動を続けていた。 海洋上では、海賊に襲撃されれば海戦同様の戦闘も避けられない。 朱印状のもとでも、交易もすべてが戦国時代の覇権を求める競争の一端であることに変わりはなく、海洋上でもそうした激しい鍔迫り合いが行われる中で村山等安は長崎の貿易商としても着実に台頭していった一人であった。 そうした武骨な面とは別に、村山等安はバテレン追放令の下でも長崎においてキリシタン教徒や教会を一族で支援し続けたことでも知られていた。 このことはサント・ドミンゴ教会の修道師の当時の記録にも残されている。 「私たちが長崎に入りそこに居ることが出来るようになったのは彼に負うところが大きいのであります。何故ならば、私達は新来者であり大きな反対を受けていましたから、彼の庇護がなかったならば、迫害の始まった後も前も私達は大変な苦労をしたでありましょう」 等安は、長崎の托鉢修道会のドミニコ会を庇護していただけに、最大級の賛辞が当時の文書には書き残されている。 長崎代官、村山等安の人物評について、1603年10月3日付け長崎発、イエズス会日本準管区長フランシスコ・パシオのイエズス会総長宛ての書簡には次のように紹介されている。 「(等安は)非常に善良なキリスト教徒であって神の名誉に対して熱心な、当地でも最も主だった人々の内の一人で高潔なアントニオという名の人物」、そして「非常に思慮深く神と当キリスト教会の名誉に対して熱心な人物である」 また同様の史料として、彼の死後間もない頃に書かれたサント・ドミンゴ教会の修道士の記録には次のようにある。 「等安は良い家系の生まれで、貧しいがイスパニアの貴族に該当するサムライでありました。しかし貧しかったので武士としての職を棄てて商人になりました。それが成功したし、また彼の恵まれた才能のおかげで長崎の代官となるに至り、そこで総ての人々から愛され尊敬され、また皇帝内府様、および前任者太閤様の気に入られました。(中略)また等安は非常に裕福で・・・これらの財産のうちから、多額の寄進をし、また信仰のために追放されて、長崎に来た多数の身分ある人々を、誰にもはばかることなく、自由に扶養し、それぞれの身分に応じて10人、あるいは12人前後の家臣が養えるような援助を受けた人々もいました」 村山等安は秀吉の人身売買禁止の朱印状を特に遵守する立場をとり、積極的に南蛮貿易のマカオ=長崎間の主力商品を生糸に定着させていったり、その生糸貿易の糸割符制度の整備など、等安の長崎に於ける代官職としての功績は特筆すべきものがある。 記録から見る限り村山等安はきわめて有能な行政官であり、長崎の港湾の整備や管理、治安の維持等に勤め、東洋の小ローマといわれるほどに南蛮貿易の拠点としての長崎全体の発展に大きく寄与した人物である。 当時の代官の職掌は、表向きは地役人の筆頭として管轄地の貢物、調租(年貢徴収)を司り、唐、蘭輸入貨物の検査や寺社の管理を専らとした。 商人としての顔と公務としての代官職にあったわけで、彼の日常は繁忙をきわめ 有用な部下が必要であったことであろう。 そのような時に、ミゲルは長崎の街に逃げてきたことになる。 むしろ当時の村山等安からみれば、南蛮との交易に関わる助言者として、このときのミゲルほど得がたい人物は他には居なかったのではあるまいか。 等安は南蛮貿易にあっては、イエズス会や異教徒の商人、さらには為政者側の役人の間に立ってそれぞれの利害関係を考慮しつつバランスの取れた商取引に導いていこうとしたし、それによって南蛮貿易全体の拡大を図っていこうと努力していた。 また隣接する領国との境界線問題などの解決にも見事な交渉力を発揮し、彼に対する大名らの信頼も厚かった。 そうした長崎における行政手腕を高く評価され、秀吉の次の徳川家康にも引き続き長崎の代官となる事を追認されたことによって、20年以上にわたってその要職にあった。 だが等安の最晩年は、その後のキリシタン迫害に繋がっていくような悲劇的な顛末が待ち構えていた。 キリシタンとして、幕府に対してその禁令を犯したとして、また謀反の企てがあったとして罰せられたことによって、彼に関わる多くの事跡や記録が散逸してしまっている。 いまでは長崎での等安の本当の業績そのものは知られることなく忘れ去られているが、そこには江戸時代初期の長崎代官として必死になって多くのキリシタンを迫害や騒擾から守ろうと活躍した驚くべき事実が隠されているわけである。 天草島原の内乱時の犠牲者数を結果的には最小限に留め得たのも、戦禍が長崎の街に波及するのを未然に防いだことも、彼のもっとも大きな功績といえるであろう。 そうした村山等安の波乱の生涯を追っていくと、その背後ではやはり長崎に逃れてきた背教者千々石ミゲルの存在が少なからず影響を与えていたように思えてならない。 (2010/9/18) 参考資料: 読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」 「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211 「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号 「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月) 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月) 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月) 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月) 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月) 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月) 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月) 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月) 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月) 10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月) 11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月) 12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月) 「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳) 「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎 「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993 「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著 クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年 「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳) 「バチカンの暗殺者たち」 エリック・ジョン・フエルプス著(WEB/PDF) |
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