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| 九州歴史発見シリーズ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(2)ー2 当時は、国際的にも奴隷取引が当たり前だった イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは 当時の奴隷供給の背景と様相 戦国九州の奴隷取引の実態を追跡する・その2・消し去られた歴史が、いま明らかになる ● 東洋医学史研
究会
●奴隷取引を容認したローマ教会
ポルトガル商人はアジア地域を始めとして、日本などの綿密な市場調査・マーケティングの結果、鉄砲や火薬といった軍需物資の輸入や人身売買で大きな転売益を獲得するようになっていった。
ヨーロッパ諸国の商取引ではすでにこうした人身売買が大々的に行われていたわけで、西洋人の参入によってアジア地域全体にも奴隷流通ルートと市場(マーケット)とが瞬く間に形成されていった。奴隷市場では、一般的に男性奴隷より女性の奴隷の需要が高く取引にも反映されていた。 そうした女奴隷は日本人だけでなく、中国や朝鮮半島からも次々と買い取られてきており、その多くは一旦東アジアの集積地マカオに集められ、そこからガレー船で運ばれて東南アジアやインドのゴアなどの植民地を経由して、遠くはポルトガルなどのヨーロッパ市場にまで海路で続々と転売されていった。(右画像は、17世紀初頭の奴隷貿易の拠点マカオ) 当時はイエズス会の神父たちもそうした奴隷を自ら買い取り下僕として所有していたので、商品として扱いなれていたのも事実である。 織田信長は日本に渡来してきたイタリア人のイエズス会宣教師から黒人の奴隷を譲り受け、弥助(ヤスケ)と名付けて武士の身分を与え家来にしていたことはよく知られている。 その詳細は太田牛一がまとめた「信長公記」に記述があるが、それによると巡察師ヴァリニャーノが1581年上洛して信長のもとを訪れたとき、従者として若い黒人奴隷を連れていたのだ。 「きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢26,27と見えたり。その身の黒きこと、牛の如し。かの男、健やかに、器量なり。しかも強力十の人に優れたり」と、そこには記されている。 奴隷であった弥助は武士として信長に仕えて本能寺の変に遭遇したが、そこで負傷した彼は明智光秀によって京都の教会に預けられた。 そこではもとの奴隷に戻されたのかもしれない。 キリスト教の教会がこのように奴隷取引を仲介することを怪訝に思われるであろうが、これは当時聖俗の支配権を持っていたローマ教皇が正式に承認した当たり前の世界的規模の商取引でもあった。 現代風にいえば、西洋様式のスタンダードなビジネスモデルということになる。 奴隷取引は、1455年、ローマ教皇ニコラウス5世が勅書によって認めた教皇の代理人(国王やイエズス会)らの特権であった。 その特権の具体的内容とは、ローマ教皇の代理人として征服した土地の所有を宣教師に認めるだけでなく、そこで法律を作り、税金を課し「修道院、教会などの宗教施設を建てることができ」、「非キリスト教徒・異教徒を永久に奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することをローマ教皇の権威によって正当化したものであった。 これによってキリスト教国ポルトガルは宣教師を介在させた宣教事業として、軍隊や奴隷商人を海外へ送り出し植民地政策を独占的に推し進めていくことができるようになったわけである。
さらに俗悪さで知られたボルジア家出身の教皇アレキサンドル6世らがこれに追随して、神学的に奴隷制度を正当化し容認したこともあって、イエズス会はこれを足掛かりにして海外に布教戦略を展開していった。(注:1) いち早くポルトガルのリスボンには政府機関として奴隷局が創設され、奴隷商人に対して貿易許可書が発行されるとともに奴隷市場が出現した。(右画像は、教皇アレキサンドル6世(1431〜1503)) 聖書にも 「男女の奴隷が周辺の国々から得たものである場合、あなたはそれを奴隷として買うことができる。(中略)財産として受け継がせ、永久に奴隷として働かせることも出来る」(レビ記・25・44〜46)とあるだけに、当時の南蛮諸国の人間には奴隷売買には何の抵抗もなかった。 西洋社会では、奴隷取引そのものは古代より当たり前に行われていたものである。 戦場で捕虜が確保されれば、すべて戦利品として扱われていた。 「そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。 ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主エホバが賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。」(旧約聖書・20章・13節) ●奴隷化される人間、対象となる人間が存在していた 征服した土地、あるいは渡航先で奴隷売買が行われる際には、宣教師らはその仲介取引を行い莫大な転売益が得られることで、教会の宣教事業を資金的にも支えることができると考えた。 宣教師にはそうした売買に参画し、主導する特権があった。 もとより売買される奴隷は、人としての自由が拘束され虐げられるわけだが、日本人の考える奴隷と西洋人が考える奴隷とはまったく異なる扱いがされていた。 日本での人身売買は年季奉公的ニュアンスが強いのであるが、西洋では一生涯にわたって家畜同様か、もしくはそれ以下の扱いを受けることになる。 それこそ、奴隷そのものはまったくの個人の私有物として扱われ、財産として相続もされた。 当時は奴隷化される人間、またその対象となる人間が存在していた。 キリスト教徒からみれば異民族や異教徒は家畜同然の存在であり、彼らの創造神を信じない者はすべて駆逐されるべき邪悪な者たちであって、奴隷として彼らの罪を労働で償うのは当たり前のこととされたわけである。当然、キリスト教徒には、異教徒の人間を奴隷(家畜)扱いすることに何の罪悪感も持たれなかった。 いうならばキリスト教徒にとって異教徒を大量虐殺することも、奴隷にして売買することも神の意志に叶った正当な行為とみなされていたし、実際に征服された新大陸では原住民の熾烈な虐殺が日常的に行われていた。 当時のキリスト教圏や他の植民地と同様に、日本にやって来たイエズス会宣教師も商人たちも九州各地を足掛かりにして、積極的にそうした日本人奴隷の商取引には参加していった。 当時の日本国内は戦国時代であったことで、奴隷売買には好都合な状況が生じていた。 戦国時代では捕らえられた敵兵や捕虜の扱いは、多くの場合なで斬り(皆殺し)が通例であった。 捕虜に与える食料が、それによって手っ取り早く省かれたわけである。 当時の捕虜の過酷な扱いについて1例を挙げれば、天正3年(1575)8月、織田信長が越前の一向一揆を制圧した際、捕らわれた一揆方の男女1万2250人余りは信長のもとに送られすべて斬殺された。 「その外、国々へ奪い取り来る男女、その員(かず)を知らず」、「生捕りと誅(殺された)させられたる分、合わせて3,4万に及ぶべく候か」(信長公記)という状況であったのだ。 いわゆるこれが、戦国時代の捕虜処遇の実態である。 海外から渡来した伴天連がわざわざ捕虜を買い取ってくれるのであれば、戦争捕虜を扱う人買い商人にとってはそれこそ渡りに船であったはずである。 捕虜に今まで以上の価値が生じたことで、またたく間に各地の大名もこうした息のかかった人買い商人を送り込んで取引に参加し出したのである。 ポルトガル商人と同様に、そうした国内の人買い商人はいわゆる奴隷商人であり、またもう一方では武器を仲介売買する武器商人でもあり得た。 彼らは自分たちの専用の輸送船を持っていたし、船主から借りることも可能であった。 多く戦争捕虜が奴隷として売られることで命が助かるのであれば、当時としては、奴隷売買も一つの温情的処遇とでも考えられたことであろう。 ●イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは もとより織田信長は、戦国時代にあって圧倒的な鉄砲装備による軍事力を誇っていたことで知られる。 この当時信長自身が逸早く新兵器の鉄砲に注目したことがその理由として挙げられるであろうが、ただそれだけで大量の鉄砲が一気に揃うわけではない。 これは当初より、信長が宣教事業の大きな後ろ盾になる大名としてイエズス会の宣教師らに目され、特別な戦略上の情報や軍事的支援を受けていたからに他ならない。イエズス会宣教師と接触した信長は、一箇月間に渡って彼らから西洋事情や軍事情報を特別に教授されている。(フロイス日本史) 信長は己の天下布武の大きな野望の達成には、イエズス会宣教師からの情報が不可欠であることにいち早く気付いていたわけで、実際に彼らを最大限活用して見せたのである。 元亀2年9月12日(1571年9月30日)に行われた比叡山焼き討ちでは、信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたといい、その犠牲者数は「信長公記」には数千の死者、ルイス・フロイスの書簡には約1500名の死者とあり、さらに「言継卿記」によると非戦闘員の男女、子供を含めて3,4千人が殺戮されていたと記されている。 天正5年(1577年)、石山本願寺を支援する鉄砲集団雑賀衆の本拠地である秋葉山を十万の大軍勢で急襲したが、織田方の兵士は町に乱入放火すると共に非戦闘員である女子供を始め住民1万人をなで斬りにして惨殺した。 その数年後に信長が手掛けた天正伊賀の乱でも同様であるが、彼の戦闘形態は大規模な軍団を投入して敵方の老若男女の住民すべてを容赦無くなで斬りし、火攻めで滅ぼしたのであった。 イエズス会からみれば、犠牲者の多くは忌まわしい異教徒らであったから、その伽藍共々住居も焼き払うという火炙り同然の見事な掃討作戦には大いに共感したことであろう。 同時に宣教師等からは、ことのほか信長が強大で頼もしい王侯にみえたはずである。 その勇猛果敢さは、かっての教皇アレキサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)をも彷彿とさせたことであろう。 事実イエズス会の宣教師は、こうした信長の果敢な軍事行動を見て「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である。」(イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡)、とまで言い切っている。 心震える想いで、ここではまさに最大級の賛辞を信長に贈っているわけである。 イエズス会は信長の行動を賞賛するだけでなく、積極的に接近すると同時に軍事的にも彼を援護する戦略を一時期とったのである。 信長の勢力が増大していくことは、旧来の宗教勢力を弾圧するなど彼らの宣教事業を進める上でも好都合なことと考えたわけだ。 信長は形式的な因習や宗教的欺瞞を極度に嫌い、斬新さと革新的発想をもって登場した戦国の覇者であった。 西洋史観の浸透した現代の日本人から見ても、こうした非情冷酷な戦国武将の筆頭として、信長は大いに人気を集めているのも無理からぬところではあろう。 それこそ、当時の日本では西洋人らの評価とは逆に信長の破天荒な行動そのものは相当に衝撃的なものとして、既成勢力からは警戒心を持って受け取られていたわけである。 ●当時の奴隷供給の背景と様相 信長の勢力が拡大すれば、一気に邪魔な異教徒を抹殺排除していくことも可能になるわけで、イエズス会は頻繁に信長に接触して高価な南蛮渡来の贈物を贈った。 軍事物資の硝石が搬入される堺の港を逸早く戦略的に掌握できたのも、当時彼らともっとも友好的であった信長の勢力であったことはただの偶然ではなかった。 背後には、イエズス会の周到な戦略があったからである。 このように、もっとも優位にある王族に接近して宣教上の庇護を請うたり、多くの奴隷を狩り集める側に積極的に鉄砲弾薬を供給していく手法はアフリカ方式とまったく同じポルトガル商人の巧妙なやり口であったのだ。ヨーロッパの奴隷商人たちはアフリカでの奴隷狩りの効率を上げるため、一つの手法をすでに考え出していた。 アフリカでも奴隷狩りが進むうちに、沿岸部周辺では黒人が激減して奴隷の確保がしにくくなっていったのであるが、そこで奴隷を狩る側の有力な黒人部族に新兵器の鉄砲を売り付け、一方に圧倒的な戦力を持たせることで、さらに奴隷となる捕虜確保をよりやり易くさせていったのだ。 これによって奴隷市場はアフリカの内陸部まで急速に拡大していったし、鉄砲に必要な火薬の供給も彼らの独占的利益が確保されるという好都合な展開が達成できたのであった。 日本に渡来した際もこの手法(アフリカ方式)が最大限に活用されて信長はもちろんのこと、当初より好戦的な九州地方のキリシタン大名にも使われていった。 特に九州では、その効果が最も発揮されて全域に至るまで奴隷売買の取引は広範囲に拡大していくこととなった。 ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して、巧妙に対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供するなどしてその軍事的バランスをうまく操った。 それによって鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし、商人は奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。 その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートの確保を見事達成したわけである。 ●戦国九州の奴隷取引の実態を追跡する・その2 九州の島津、大友、有馬、天草、大村、さらには高山、小西、黒田、細川といった諸大名も、奴隷貿易には当然関与していた。 彼らに共通することは、軍団の中に鉄砲隊を早くにその戦力として装備していたことであり、それによって熾烈な戦国時代を生き延びていたという事実である。 戦場で殺戮を繰り返す戦国大名らが、奴隷取引には一切関与しなかったというような都合のよい詭弁はここでは通用しまい。 それこそ、彼らが生き残っていくには鉄砲や弾薬は必須の最新の軍事物資であったのだ。 南蛮との交易の場に参加できたとしても、そこで交換できる取引商品が用意できなければ、手っ取り早く奴隷取引に移行していくわけで、日本人が同胞を家畜同様に海外の奴隷商人に転売されていった当時の南蛮貿易の様相がここでははっきりと見えてくるわけだ。 戦国時代に取引された奴隷の人数については諸説があるが、日本人だけでも数十万人はその被害者となったのではないかと考えられる。 戦乱に巻き込まれ収奪された土地や村は無人状態になるほど、当時の奴隷狩りはそのものは過酷なものであった。 キリシタン大名に売られた捕虜が、奴隷としてスペインや遥か南米アルゼンチンまで転売されていった記録もいまでも残されているが、こうした奴隷貿易なしには大名といえども戦国時代を強かに生き延びていくことは不可能であったということになろう。(注:2) こうした戦争捕虜に対する扱いは、九州でも変わりはなかったが、早くから海外との奴隷取引がされていたことでその様相は大きく違っていた。 当然のように、奴隷狩り目的の人狩りや侵略行為が多発していたのだ。 九州の有力な諸大名は矢銭(軍資金)を稼ぐためにそうした侵攻を続けていた。 豊後の大友氏の軍勢は筑前宗像郡の戦場で大勢の民衆の奴隷狩りを行ったし(「宗像市史・史料編中世」)、豊後に侵攻した島津軍は村々を襲って集めた捕虜を肥後天草まで連行してそのまま奴隷商人に売り払っていた。 天草や島原半島での日本人捕虜の海外取引についても、ルイス・フロイスが詳細に記録している。 「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」 「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。」(「完訳フロイス日本史」) ●大量の軍事物資はどう購われたのか 当時天草に隣接する島原・口之津の港には、急速に需要が高まった火薬の原料である硝石が集積され、火薬(煙硝)を求めて多くの各地から交易船が集まってきていた。 この地の港は、そうした軍事物資の取引で活況を呈していて、武器商人はもとより、奴隷商人らが参集していた。 黒色火薬の原材料である硝石・硫黄・木炭のすべてがこの島原の地ですべて揃うということは、この地での火薬生成も盛んに行われたということである。 鉄砲用の火薬ということであれば、戦国時代ということもあって日本各地から交易を求めて続々と商人が集まってくることになる。 南蛮との交易上の対価の基本はここでも銀であったが、奴隷での取引も少なくなかった。 奴隷が取引の対価として金銀の代わりとして扱われたわけで、当然ここでは軍需品の硝石と捕虜(奴隷)との取引が頻繁に行われ、次々と海外へと転売されていった。 結果的には、九州のキリシタン大名らの武器装備の多くは罪もない夥しい奴隷におとされた人々の犠牲によって支えられ、その需要のほとんどが奴隷貿易によって賄われたということは否めないところである。 逆にここで奴隷取引というものがなかったとするなら、一体九州の大名らは大量の鉄砲や弾薬をどのような経済的余裕があって手に入れられたのかが問われなくてはなるまい。 高価な軍事物資が無尽蔵に、南蛮商人から無償のまま提供されていたわけではないのだ。 それでなくとも、当時の九州地方にはその実質的経済規模には不釣合いなほどに多くの鉄砲が行き渡っていたわけであるが、それに対してはどのような好都合な辻褄合わせができるというのであろうか。
一旦、大きな戦ともなれば鉄砲と大量の弾薬が必要である。需要も一気に高まる。島津軍が九州北部まで進攻できたのもこの新兵器鉄砲を縦横に駆使したからであり、国崩しといわれた2門(10門ともいう)の巨大なフランキ砲(大砲)を大友宗麟がポルトガルから入手できたのも、それこそ半端な奴隷売買の代価では到底賄えなかったはずである。 ここでは、現実の事象から目を逸らした歴史観など一切無用のものである。 何故に、ここでこのように戦国時代の奴隷売買を取り上げるかというと、キリシタンであった千々石ミゲルと村山等安の二人が命を賭してイエズス会から離反していった事由と背景がそこには隠されていると考えるからである。 まずはそこから解き明かしていかなくてはならない。 (注:1)455年にポルトガルに授与された勅書に続いて、コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493年)に、教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対して「贈与大勅書Inter Caetera」を発布した。 その内容を「カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)」−西山俊彦)より引用。 「全能なる神よりペトロに授与された権威と、地上において行使するイエス・キリストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王もしくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、その一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を…完全無欠の領主に叙し、任命し、認証する。」 (注:2)ニッケイ新聞(2009年4月9日付け)ブラジル国サンパロ州サンパウロ市発行 「日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人」より以下、引用。 「博覧強記でしられた故中隅哲郎さんの『ブラジル学入門』(無明舎、一九九四年、以下『入門』と略)を読み直して、「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」(百六十四頁)との記述に目が引かれた。 驚くことに、「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)という具体的な内容も記されている。」(引用、終わり) 参考文献 「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月) 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月) 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月) 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月) 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月) 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月) 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月) 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月) 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月) 10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月) 11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月) 12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月) 「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001 「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003 「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年 「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211 「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号 「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著 「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001 「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著) 徳間書店 2008 「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦 12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦 2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦 4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦 「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999 「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002 「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003 「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著 クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年 「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005 「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005 「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年) (2010/8/31)
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