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| 九州歴史発見シリーズ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(2) 九州戦国時代に、南蛮の奴隷船がやって来た理由とは! 何故、九州にはキリシタン大名が多いのか?! 戦国九州の奴隷取引の実態を追跡する・その1 ● 東洋医学史研
究会
●九州戦国時代の様相とは
それには当時の戦国時代という過酷な日本国内の状況を観なくてはならない。 千々石ミゲルが生まれ育った当時の九州も、各地に群雄割拠の状態であり、まさに九州三国志ともいうべき戦乱の真っ只中にあった。九州の北東部を大友宗麟が支配し、龍造寺隆信が九州の北西部を支配していたが、双方の勢力拡大とともに北部九州の各地で戦乱が続いていた。 やがて九州の南部で大きな勢力となっていた薩摩の島津義久が、そこへ割り込むようにして次々と北部九州の諸国に攻め込んできていた。 千々石ミゲルは肥前のキリシタン大名の大村、有馬両家と縁戚関係があった。 当時大村氏は肥前国の彼杵地方(現在の長崎県大村市周辺)を領していて、一方千々石の主家である有馬氏は大村氏の本家筋にあたり、肥前国高来郡有間庄(現在の長崎県南島原市北有馬町)周辺を領していた。 有馬の家臣、千々石直員の子として生まれたミゲルは、1577年の肥前龍造寺軍の千々石攻略(現・雲仙市千々石周辺)の際に乳母に抱かれ、戦火を免れ大村の地へ逃げた。 この戦いで父は戦死し、母と共に従兄の有馬氏のもとでその後生活するが、有馬と縁故関係があったとはいえ格別恵まれた境遇だったとはいえなかった。 領内は打ち続く戦乱で多くの町や村々が焼かれ田畑も興廃し、治安が悪化して盗賊による略奪行為も横行する状況でもあった。 当然のように、逃げ惑う戦争難民や孤児が巷に満ち溢れていた悲惨な時代背景が、九州の全域に広がっていた。 そうした中で、永禄十年(1567)はじめてポルトガルの南蛮船が島原の口之津港にも入港し、キリスト教の宣教師と鉄砲とをこの地にももたらしたのである。 そもそも1543年、ポルトガル人が新兵器である鉄砲を種子島に伝来したことによって、戦場の様相が一変したのだ。 九州では、まず島津が戦闘にこの鉄砲を使い始め、瞬く間に各地の大名が鉄砲を積極的に装備するようになっていった。 鉄砲の国産化が進むまでは、ポルトガル人商人から高価な鉄砲も購入しなくてはならなかった。
鉄砲には弾薬が必要であるが、その主成分である硝石(塩硝)は国内では入手できず、すべて海外から輸入しなくてはならないものであった。硝石は、硝酸カリウム (KNO3) を主成分とする天然に産する硝酸塩の混合物であり、精製すると白色に結晶化するが、火薬の主原料になる酸化剤(硝薬)として重要な戦略物資だった。 当時、この軍需品の硝石は、インドのポルトガル植民地ゴアで産出され日本まで南蛮船で運ばれてきていた。(インド硝石) そのため、軍事物資として欠かせない硝石や鉛の確保のため九州の諸大名は、ポルトガル人の宣教師や商人との交渉が最大の戦略上の関心事となっていった。 ●何故、九州にはキリシタン大名が多いのか 宣教師から見れば、交易を仲介することによってその領国の大名などの有力者に近づくことが出来るだけでなく、彼らをまずキリスト教徒にすることが可能であった。 しかも商取引の仲介料が、商人からその都度教会に支払われるのであった。 もとより宣教師と商人の関係はきわめて密接であり、相互に支援し合う特別な契約がなされていた。 宣教師がすべての商取引を仲介するという原則の下では、領内の布教に協力的でなければ大名とてポルトガル商人との直接取引に参加できなかった。 キリスト教布教に好意的でない領主であれば、領内に良港があっても彼らは商船をまったく寄港させなかった。 イエズス会の布教活動に理解を示す大名には軍事物資の支援を積極的に行ったし、洗礼を受けた大名には鉄砲弾薬の売買そのものが優先的に担保されることとなった。 そのようなこともあって九州各地の大名は領内に良港を用意し、ポルトガル船を招き入れ武器弾薬を手際よく入手するために、直接取引を一層期待するようになっていった。 九州の大名は、好むと好まざるとにかかわらずキリシタンにならざるを得なかった。 キリシタン大名という表現の裏には、それらの大名がいかに戦国の世を強かに生き抜いてきたかの証であって、最強の軍事力を求めて必死に模索していたことをも意味する。 ゆえに彼らにとって、ここで鉄砲と火薬が手に入らないという事態はまさに滅亡あるのみであったのだ。 イエズス会の宣教事業の狙いは、まず九州全域をキリスト教化することであった。 これはイエズス会が、九州に独立したキリスト教国による軍事的拠点を築くと同時に、さらにはアジア地域の最大目的であった中国への進出を画策していたからである。(これについては本稿最終章で紹介する) そうした戦略的目的があって、九州圏内での軍事的対立には宣教事業と連動して、その背後では深く関わるようになっていった。 たとえば最初のキリシタン大名といわれる大村純忠は、1563年に洗礼を受けた後、領民を強制的にキリスト教に改宗させようとしたり、布教を妨害する寺社仏閣を次々と破壊しただけでなく、1580年、長崎をイエズス会に寄進するほどの強固な関係をもって自らの勢力を拡大しようとした。 もとよりこれもイエズス会から軍事的支援を得るためであった。 また当初はキリシタンを迫害していた有馬晴信も竜造寺軍に攻め込まれ劣勢であったが、イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノによる鉛、硝石などの軍事物資の提供によって敵軍を斥けると、それに感謝して1580年に自ら洗礼を受けて「ドン・プロタジオ」という洗礼名を持ち、それ以後はキリスト教徒を保護するようになった。 大友宗麟はイエズス会との関係を深めるとポルトガルのインド副王に使節を派遣し、その後ポルトガル国王とも親書を交わしている。 さらにはイエズス会宣教師への積極的な援助やキリスト教布教への理解と支援により、教皇グレゴリウス13世からその功績を讃える特別な親書を贈られていたほどであった。 当時大友宗麟は九州最大の軍事力を誇っており、キリスト教国(ムジカ王国)建設の野望を抱いていた。 そうした軍需物資を扱う南蛮貿易を仲介する巧みなイエズス会の宣教活動によって、九州ではキリシタン大名が多く登場することとなった。 それらの大名の領内では宣教師の布教活動が許可されただけでなく、さらには拠点となる教会の建設も積極的に支援されるようになっていった。 同時に異教徒である仏教寺院はキリシタン教徒による焼き討ちにあい、仏教徒や神官は領内から次々に追放されたり殺害されていった。 「あなたがデウス様の御意向にかなってすることができ、またあなたの罪の償いとして考えられることのひとつは、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです」と、イエズス会の司祭・ガスパル・コエリュは、償いを求める大名や信徒にそう指示していたのだ。(ルイス・フロイス「日本史」) 大名はキリシタンとして自ら洗礼を受けることによって、軍事的、戦略的優位性が確保できたわけで、他方イエズス会側では領国全体に布教活動が自由に展開できることとなり急速に領民にもキリシタン信者が広がっていった。 多くの場合、キリシタン大名は家臣や領民にキリシタンになることを強制し、他の異教徒を排除することによって、イエズス会の布教事業を明確に支援してみせたのだった。 キリシタン大名はその見返りとして、火薬などの軍事物資のさらなる供給を要求したわけである。 こうした駆け引きには宣教師は巧みであって、大村においても領内での新たな信者数の増加に応じて鉄砲を供給するといったやり方で布教を進めた。 イエズス会側も協力的な大名との関係を深めることに熱心であり、そうした宣教活動には多大な経費が必要であった。 教会内には大名や有力な布教支援者に贈るための西洋の珍しい品物や必要とされる弾薬が常に貯蔵されており、それらは商人からの商取引の仲介料、あるいは寄付によってどうにか賄われていた。 当初よりイエズス会の宣教事業は王侯貴族といった支配階層や富裕層に焦点を当てたものであって、多分に政略的な駆け引きや取引に関わる便宜などの優遇策が大名に対して頻繁に講じられていた。(注:1) ●九州にも南蛮の奴隷船がやって来た! この南蛮貿易のシステムが確立してくると、取引自体も大きく拡大していき大量の武器弾薬が取引されるようになる。
九州には有力な大名が割拠しているといっても、京、大坂、堺と比較すればその経済的規模はきわめて小さく、海外と対等に交易できるほどに裕福な商業地があったというわけではなかった。しかも、目敏い南蛮の商人が渇望するような特別な産品や商品に恵まれていたわけでもなかった。 それこそ米や干物などのありふれた農産品に、南蛮との通商上の交換需要がどれだけあったかである。 大名とて、貴重な金銀の備蓄量は僅かなものであったろう。 そうした中で、南蛮と交易するのに何らかの取引商品を用意するとなると、この時代は人身売買が最初に浮上してくる。 戦国時代には他国を侵略すれば、そこで大掛かりな乱取り(生捕り・人取り)や牛馬の略奪や家屋への放火、田畠の作荒しが頻繁に行われていた。 人々は戦乱を避けて逃げ惑ったが、そうした戦争難民や捕虜を専門に商う人買い(奴隷商人)がそこここに横行していた時代背景がそこにはある。 ポルトガル商人が、これを見逃すはずはなかった。 特に九州では、人身売買を仲介する商人が各地のキリシタン大名のもとから捕虜などを買い集めポルトガル人に売り渡していたが、結果的には奴隷の集散地であったマカオを中継して東南アジア市場に多くの日本人奴隷が九州から供給されていたことになる。 すでに宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に渡来した直後の1550年代初頭には、アジア地域での奴隷取引が早々と拡大し始めていた。(注:2) このように同じ日本人が、同胞である日本人を海外に売り払っていたのだ。 まさにこの時代、九州の各港には海外から奴隷を買い取る奴隷船が次々と来航していたことになるわけである。 宣教師、迫害者というだけでなく、商人としての一面も持っていたフランシスコ・ザビエルが書き記した「書簡」が残されているが、当時の日本との交易について次のようにある。 「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」書簡・第93、ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てて、1549年11月5日、鹿児島より) 「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(「書簡・第9」)。 「もし、閣下が私を信頼してくださって、この地方に送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は「一」から「百」以上に増やすと断言します。」(「書簡・第94」) この当たりの記述をみれば、ザビエルが聖職者であったというよりは、貿易商人と見間違えるほどの活躍をしていたことが垣間見えてくるはずである。 彼らは綿密な市場調査を基にその経済的規模を掴んでいて、報告書として作成していた。(注:3) 実際にポルトガル商人はこうした宣教師の情報や助言によって、ナウ船に積み込む商品の選定や量を決定していた。 しかも需要の高い商品については輸入量を一定量に制限して、市場での価格の下落を防ぐという巧妙な手法も常に行っていた。 渡来してきたポルトガル人らはもっぱら経済的にも裕福な堺周辺を中心に活動しており、しかも商売に長けていたので多くの場合、商品を高値で売りつけて一度に多額の利潤を手にしていた。 当時大航海時代にポルトガルからインド(ゴア)に、あるいはインドからアジア各地に派遣された船隊の司令官はカピタン・モール(Capitao-mor)と呼称されていた。 そのカピタン・モールの貴重な記録が残されている。 1561年1月16日付けコチン発、司令官レオネル・デ・ソウザの書簡に次のように記述されている。 「私が持って行った商品の値は、余りの利益にうんざりした程の額に上った。そして5万クルザドを持って日本から戻った」(注:4) 同様に当時の東アジアを旅行していたアルフ・フィッチの記録には「彼ら(ポルトガル人)は大きなキャラック船を持っていて、毎年日本に渡航し、毎年日本から大凡60万クルザドを齎す」とある。(注:4) 当時の貨幣価値の基本は金銀であったが、60万クルザドを現在の貨幣価値に換算すると、おそらく6,70億から100億円規模になるのではないかと考えられる。 慣例としてカピタン・モールは、船で運んだ商品の取引額の1割を運賃として取得することができた。 カピタン・モールが受け取った運賃報酬が5万クルザドということは、このときは50万クルザドの商取引があったということになる。 当然、50万クルザドは、現在の貨幣価値では50億円以上の金額となるわけである。 これによって当時の交易の規模が推測できる。 ●戦国九州の奴隷取引の実態を追跡する・その1 九州においては、大名といえどもそうした取引で用意できる資金量には限界があり、ポルトガル商人との決済にもやがて困窮するようになっていった。 そしてそこに、手っ取り早く人身売買が登場してくる。 経済活動やその規模の小さな九州においては、奴隷が南蛮との取引商品として早くに定着していったというわけである。 ポルトガル船はインドのゴアからは硝石や香辛料、中国からは生糸を主に積み込んできていたが、日本で一旦それらの積み荷を降ろしてしまえば船倉は空になるわけで、帰路には彼らの市場が求める商品を積み込むことは当たり前のことであった。(注:5) 特に彼らの扱う奴隷売買は儲けが大きいため、始めからポルトガル商人の狙いはこの取引にあったのである。 結局のところ、経済的基盤そのものの大小などにはまったく関係なく、この九州の地では容易に奴隷が商品として扱えることが彼らにとって非常に好都合なことであった。 当時の九州は全域に戦場が拡大していたから、それだけ火薬や鉛といった軍需物資が南蛮貿易では主要商品として扱われ需要も大きかった。 しかもそこでの取引で、ポルトガル人たちは火薬を元値の50倍、100倍で日本人に売付け、さらには買い付けた日本人奴隷を海外市場で5、6倍で転売するなどして大きな利益を得たのである。 一説によると、火薬一樽は日本人の娘50人で取引されたという。(注:6) 始めて耳にする者にとっては、これはいささか衝撃的な数字であるが当時のアジア地域の交易市場ではそれが通用していたということに他ならない。 おそらくこの数字は当時の相対的な取引相場の伝承口伝であって、火薬一樽が20人とか30人、需要が急増すれば50人でも交換取引されたということになる。 この件についての信頼できるはっきりした記録は、伝承以外に原本史料としてどこかに残されていると思われるが、いまのところその確認を取ることは困難であろう。 ここらには戦後の占領下で、欧米史観一色に塗り替えられた複雑な経緯が絡んでいる。 日本人奴隷についての研究書は戦前はあったが、戦後GHQが出版社や図書館から回収した焚書文献、「総目録・GHQに没収された本」(占領史研究会刊)に紹介されている7,119冊の中にもそれらは大方含まれている。 たとえば「アジア侵掠秘史」桑原三郎著 清水書房(昭和16年)などがあげられるが、西洋の侵略の歴史記述や奴隷貿易にかかわる文献そのものが失われれば我々に為す術はない。 戦前出版された徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版での記述では、その出典がフランス人パゼー(パジェス)が著した『日本耶蘇教史』から引用されているが、そのパジェスが集めた膨大な資料の中にも当時記録された根本史料そのものがあったはずである。(注・7) 同様に、それらはスペインの歴史資料館に記録文書が残されているとか、インドの文献に記録されているとか、あるいはバチカンの文書保管所にあるとかの未確認情報がいくつかあるが、はっきりしない。 イエズス会の文書保管所では、この種の関連史料は現在のところ一切非公開とされている。 要するに、公開には少なからず不都合があるということであろう。 (2010/8/31) (注:1)イエズス会は日本の布教管区を本州・四国で「上」区、豊後は豊前・日向を併せて「豊後」区、その他の九州全体で「下」区とした。 (注:2)「日本切支丹宗門史」、あるいは 「日本耶蘇教史」による。レオン・パジェス著(Leon Pages, Histoire de la Religion Chretienne au Japon. Paris, 1869. Livre II, Chapitre VII) (注:3)「堺は十六世紀中葉、日本の商業の中心地であった。ザヴィエルは1551年、堺に三万クロサド以上の財産がある商人たちは1000人以上いると推定した。80バレルの胡椒は、インドで976クルサドの価であったが、日本に来ると三倍になった。 」小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』より引用 (注:4)高瀬弘一郎著「キリシタン時代の貿易と外交:P3 (注:5)「ポルトガルの東洋貿易の根拠地はインドのゴアで、ポルトガル商人はゴアからマカオにきて、銀貨、油、ぶどう酒などを日本向けの商品である生糸、絹織物、砂糖などに積みかえ、季節風に乗って、6月、7月ころ日本をおとずれた。かれらはこれらの商品を、日本の銀や奴隷と交換し、秋から冬にかけて明に向かい、明で商品を購入してインドからヨーロッパに帰った」 (玉川百科大辞典 / 玉川大学出版部編 ; 第13)日本歴史 / 玉川治三編 P244 誠文堂新光社, 1960) (注:6)鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」自費出版 P249〜257から以下関連部分を引用する。 「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。 数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。(「天皇の回ザリオ」からの引用終り) (注:6補足)朝鮮出兵従軍記者の見聞録とは、秀吉の祐筆だった大村由己が秀吉の言動を記録した『九州御動座記』のこと。 (注:6補足)『近世日本国民史』の二版では、この部分の記述は憲兵命令で削られたという。 (注:6補足)黒人奴隷の場合は、アメリカやカリブ海域に運ばれてそこで売却され、その転売益で現地で砂糖や綿花、香料、鉱石などの原材料を購入してヨーロッパに持ち帰るのであるが、この時の奴隷交換レートは通常、男の場合はラム酒100ガロン(1ガロンは4.5リットル)、女だと80ガロン、子供は100人が一つの単位となり、銃5丁、あるいはナイフ7振り、鉄の地金21個などに交換されたという。 (注・7)「葡萄牙(ポルトガル)の商人は勿論、其の水夫、厨奴(ちゅうど)等の賤しき者迄も、日本人を奴隷として買収し、携へ去つた。而(しか)して其の奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼等を無闇に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に篭居せしめ、而して其の持主等が、一たび病に罹るや――持主の中には、葡萄牙(ポルトガル)人に使役せらるる黒奴も少なくなかつた――此等の奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食料さへも、與(あた)へざることがしばしばあつた爲である。此の水夫等は、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にて其の醜悪の行ひを逞(たくま)しうして、敢て憚(はば)かる所なく、其の澳門(マカオ)歸航(帰航)の船中には、少女等を自個の船室に連れ込む者さへあつた。(徳富蘇峰『近世日本國民史』より再引) (注:7補足)レオン・パジェス(1814-1886)は、パリ生まれの東洋学者で“L'univers”誌の共同編集者であったことや、清国(中国)駐在のフランス公使館に外交官として勤務した経験があり、熱心なカトリック信者であったことから、アジア地域や日本のキリスト教布教の歴史に係わる著作を残したことで知られる。 参考文献 「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月) 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月) 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月) 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月) 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月) 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月) 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月) 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月) 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月) 10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月) 11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月) 12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月) 「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001 「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003 「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年 「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211 「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号 「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著 「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001 「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999 「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002 「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003 「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005 「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005 「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「歴史物語アフリカ系アメリカ人」 猿谷要 朝日新聞社 岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年) 「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
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