アレッサンドロ・ヴァリニャーノ・長崎代官村山等安・天正遣欧少年使節・千々石ミゲルの墓・イエズス会宣教師・日本人奴隷貿易

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九州歴史発見シリーズ
戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(1)

戦国時代に人買い船、奴隷船がやって来た!
火薬一樽は、日本人の娘50人で取引されたというのは事実なのか?!
何故に、日本に鉄砲が持ち込まれたのか?!
鉄砲で始まり鉄砲で終わる、歴史教科書では絶対触れることの出来ない九州戦国時代の真実とは?



東洋医学史研 究会
宇田明男



●はじめに
本論を書き始めたのは、ほんのちょっとしたきっかけからである。
今年の夏ある研究会に参加した折、同席したメンバーの中に村山さんという方と西さんという方が隣り合わせに座っておられた。
このとき瞬間的に、村山等安とジェスタ・西というキリシタンの夫婦のことが頭に想い浮かんだ。
村山等安は、16世紀末から江戸時代にかけて当時の長崎代官として大いに権勢をふるい、南蛮貿易の発展に少なからず寄与した人物である。
彼の事跡を考えたとき、また彼の晩年の非業の死に思いやった時、もし彼が最後まで斬首されずに生き延びていたなら、あの悲劇的な日本史上最大の一揆(内乱)とされる島原・天草の乱はどこかで回避されたかもしれないという内なる思いも同時に湧き上がってきていた。
そこで今回の新しい九州歴史発見シリーズとして、村山等安と同様に異端者、背教者とされたキリシタンの千々石ミゲルとの邂逅についても新たな観点から探求しつつ、本論を書き進めることとなった。
村山等安村山等安は貿易を通じて南蛮や東南アジアとの国際的な交流を持っただけでなく、当時のキリスト教の布教活動にも深く関わった。
千々石ミゲルも同様に、戦国時代の真っ只中にありながら少年使節として渡欧してキリスト教諸国を見聞してきているが、過酷な運命が帰国後の彼を待ち構えていた。
彼は命がけで使命を果たしながら、帰国後に苦渋の選択に直面しついにはキリスト教を棄教してしまうのである。


我々現代人がもっとも関心を抱くのは、彼らを通して17世紀前後のキリシタンとしての信仰と生き様が色濃く鮮烈に示されてくるという、そうした特異な部分ではないかと思う。
だが残念なことに、その真実の姿はそのままの形では現代に伝えられてはいないのも事実である。
時の為政者に受け入れなかった彼らの歴史は、忌まわしいものとしてその殆どすべてが焼き捨てられたのである。
そしてそこから浮かび上がってくる事実はいかにも九州人らしい骨太の生き様であり、人間ドラマと云うことができる。
村山等安皮肉なことであるが、ここで彼らの存在をどうにか再評価できる史料があるとしたら、それは当時の宣教師の手によって記録された海外の報告書や書簡だけである。


●何故に、鉄砲が持ち込まれたのか?!
ここでの表題は「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る」というものであるが、当初よりこのことに的を絞って書き進める予定であったが、この忌わしい歴史的事実に対して当時の日本人自身がまったく無関心であったはずもなく、あえてこれに異議を唱え真正面から対峙したと思えるこの二人をまず筆頭に挙げてみた。
村山等安と千々石ミゲルという人物を中心に据えて考えると、事件の発端につながる起点、原因となる事象が次々とそこには浮かび上がってくる。
村山等安と関係が深い長崎でさえ、かって長崎代官の職にあった彼の事跡を知る人は少ないし、その名を知る人も等安が長崎で初めて南蛮渡来のカステラ菓子を作った菓子屋の初代の親爺さんぐらいの認識しか持たれてはいないようである。
ましてや彼の一族が幕府禁制のキリシタンを庇護した謀反人として悉く処刑されたことなど、その歴史的背景や経緯そのものは記録にさえとどめられてはいない。


日本の歴史というものの捉え方は、欧米中心の考え方、西洋史観で塗り固められていることもあって、アジアの奴隷貿易の様相については現代ではほとんど何の関心を持たれないのだが、拭い去ることの出来ない歴史的真実そのものは地方の片隅に目をやればいくらでも埋もれていることに気付かされということなのだ。
近年では北朝鮮による日本人拉致問題が政治的にも大きくクローズアップされだしたが、過去にあったアジアや日本周辺の奴隷貿易の暗黒史は、これまで無視されるか隠蔽されるかして、その背景もその様相も知られてはこなかった。
現代にあっても不都合な史料は、いつの間にか誰かによって恣意的に隠されてしまう。
まさしくこれも独善的西洋史観による弊害ともいえるであろう。


この稿では、九州に限定して千々石ミゲル(1569-1633年)と村山等安(1561-1619年)の二人の人物を介して、当時のイエズス会との関わり方などについても順次紹介してみたい。
ここでは九州に蔓延っていた奴隷貿易の背景について触れずして二人の存在は語れないし、彼らを抜きにしては奴隷貿易の実情は浮かび上がってはこないともいえる。
まずここで最初に問うてみたいことは、何故にこの九州に鉄砲が持ち込まれたのかということである。
冒頭でのこの問い掛けは、いささか唐突に聞こえるであろうか。
奴隷貿易と鉄砲は同時期に九州に持ち込まれ、それ以降も戦国時代という背景が重なりながら密接に関連づけられるものであった。
いうならば、九州に鉄砲が伝来したから奴隷貿易が登場したともいえるし、奴隷貿易を仕掛けるためにまず鉄砲が海外から持ち込まれたのだともいえる。
これらの謎を正面から解き明かした史料はないのだが、ここに当時のイエズス会が関わった奴隷貿易の隠された実態を持ち出すことによって、歴史の流れに押し流されていった彼ら二人の数奇な運命の糸もどうにかたぐり寄せられてくるのではないかと思う。


●すべてはキリスト教伝来から始まる
千々石ミゲルは、四百年以上前にキリシタンの天正遣欧少年使節として渡航し、ローマ教皇に謁見した4人の内の一人である。
この当時、日本ではキリスト教とその信者はキリシタンと呼ばれていたのである。
村山等安は、ミゲルとほぼ同時代の長崎代官であり、長崎で最初に西洋菓子カステラを作り豊臣秀吉に献上したことでも知られるが、彼もまたキリシタンであった。
ザビエル当時の戦国大名のキリシタン信者といえば、高山右近、小西行長、蒲生氏郷らがいるが、そうした支配者階級として権勢の強大さからみれば村山等安をその一人として挙げることはできよう。
といっても、二人とも歴史上の人物としてはほとんど知られていないのであるが、九州のキリシタンとしてそれぞれ数奇な運命を辿っていった彼らのことを、ここではあらためて再確認してみなくてはならないであろう。


もとより九州は古くより海外との交流が盛んであり、地政学的にも東アジア地域では対外的な拠点として重要な位置にあった。
朝鮮半島や大陸との交易においても、他の地域よりもはるかに早くから交流が行われてきていただけでなく、中世以降は西洋とも頻繁に交流するようになる。
通説によれば、西洋との最初の接触となった出来事は、天文12年8月25日(1543年9月23日)の種子島へのポルトガル人による鉄砲伝来であるという。
(画像は、フランシスコ・ザビエル・神戸市立博物館所蔵)その後、イエズス会の宣教監督であったフランシスコ・ザビエルが、キリスト教の洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にポルトガルの植民地インドのゴアを出発し、1549年8月15日に中国のジャンク船に乗って鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸を果たした。(注:1)


ザビエルは、渡航して来る前にインドのゴアおいて聖職者としてすでに大仕事をやり遂げていた。
火刑当時ゴアには、スペイン・ポルトガルから追放されこの地に逃れてきていた異端者のユダヤ人たちが多く居住していたが、これに対して積極的に異端審問所の設立を提言して彼らをすべて「栄光の火で焼く」(焼き殺す)ように強く主張しそれを忠実に遂行した。
その言葉のとおり多くの異端者は、生きたまま火刑(火炙りの刑)に処せられた。
ワルド派やヴァルド派のように、当時はローマ教皇によって一旦異端者と宣言されれば、背教者として迫害され、あるいはそのまま粛正されてしまうのが当たり前であった。
ザビエルの活躍によってインド地域の多くのユダヤ人が虐殺され一掃されたわけだが、イエズス会の宣教師らは一方ではそうした異端者を抹殺する峻烈な宗教的迫害者でもあった。
当時の日本人とて、この事実は知る由もなかった。
こうした聖職者としての仕事を評価された後、ザビエルは新たな伝導の地として日本を目指して渡来してくる。
ここから、イエズス会による日本での最初のキリスト教布教活動が始まることとなる。


●天正遣欧少年使節
戦国時代の天正10年正月(1582)に、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが帰国する際、彼の発案で当時の島原の有馬セミナリオ在学生の中から13,4歳の優秀な少年が選ばれ、九州のキリシタン大名の名代としてヨーロッパに派遣されることとなった。
天正少年使節肖像
少年使節となったのは、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マチルノ、そして中浦ジュリアンの四名であった。
彼らはポルトガルの大型帆船で長崎を出港してから2年6ヶ月かけてリスボンに到着し、その後マドリードから地中海を渡り、1585年3月23日にようやくローマのヴァティカン宮の「帝王の間」でローマ法王グレゴリウス13世に謁見することができた。
遠隔の地から渡航してきた東洋の少年使節は行く先々で大変な歓迎を受け、ローマ法王からの特別な援助が約束されただけでなくローマの市民権証書を授けられるほどの大きな成果を上げた。(画像は、京都大学附属図書館所蔵:天正少年使節肖像)
ローマ法王庁は、「エクス・パストラリス・オフィシオ」という勅書を発布して、イエズス会に日本における独占的普及権を認めた。
このときの彼らの感激の様子を「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)には、次のように書かれている。
「多量に流された涙は、そこに居合わせた全ての人々がいかに悦びと慈愛の念を持って新しくキリストの子息になった者たちを抱擁したかを証明するものでした」(千々石ミゲルの言葉)「天正遣欧使節記」

現地では、四人の少年使節は大名家の王子という触れ込みであったが、そのような事実はなく、しかも大名からの親書というものもヴァリニャーノが勝手に偽造させた物であった。
厳密に言えば、キリシタン大名は感知しないままヴァリニャーノ主導のもとにすべてが巧妙に演出されたということになる。
滞在中は彼らは使節として大きな成果を上げたのであるが、帰国途中に状況は一転して、マカオに着いたところで全九州を征圧した豊臣秀吉が宣教師追放令を発したとの報に接し足止め状態となった。
帰国できないまましばらくマカオに逗留していたが、そこで彼らは一計を案じ、インド副王の使節という資格でやっと入国申告が許され長崎に入港するという経緯があった。(1590・天正18年6月)
翌年3月(旧暦の閏正月)聚楽第において豊臣秀吉に拝謁が許され、使節としての成果を直接報告する機会が彼らに与えられた。
以上の流れを分かりやすく年譜にすると、以下のようになる。


1582年2月20日・・・ 少年使節は巡察師ヴァリニャーノと共に長崎を出帆する。
1582年3月9日・・・ マカオ到着する。貿易風を待って年末まで同地逗留。
1582年6月21日・・・ 本能寺の変で織田信長が暗殺される。
1583年11月10日・・・ マラッカ・コチンを経てインドのゴアに到着。翌月20日同地を出帆する。
1584年8月11日・・・アフリカの喜望峰を回り、 リスボンに上陸。
1584年11月14日・・・ マドリードでスペイン国王フェリーペ2世に謁見。
1585年3月23日・・・ ローマのヴァティカン宮で、グレコリオ13世に謁見、歓迎される。
1585年6月3日・・・ ローマを出発。以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問、大いに歓迎される。
1586年4月12日・・・ リスボン出帆、帰国の途に就く。
1587年5月29日・・・ インドのゴアに到着。
1587年7月24日・・・豊臣秀吉、博多でバテレン追放令を発布する。一行はマカオでこれを知り、長期間滞在することとなる。
1589年・・・ 秀吉、安土の南蛮寺を破壊する。
1590年7月21日・・・一行は8年半ぶりに帰国、九州長崎に着く。
1591年3月3日(天正19年閏1月8日) ・・・聚楽第において豊臣秀吉に拝謁し、西洋音楽を演奏する。
1591年7月25日・・・使節をつとめた4名は、長崎・天草河内浦の修練院でイエズス会に正式入会し、司祭を目指す。
1601年(慶長6年)・・・伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノは神学を学ぶため、マカオのコレジオに留学。一人千々石ミゲルはイエズス会を脱会し、棄教する。以後、清左衛門と称し、大村喜前(よしあき)に仕える。
1608年・・・ 伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階される以降宗教活動を続ける。


少年使節としてヨーロッパの地を踏んだ者の中で、ただ一人千々石ミゲルは帰国後、修道院に入っていたが突然イエズス会を脱退し、その後棄教した。

●いま何故、千々石ミゲルの存在が問われるのか?
やはりここで気になるのは千々石ミゲルの動向である。
8年以上もの歳月を掛けて、遠くヨーロッパまで使節の大役を命がけの決意の元で遂行したミゲルは、何故にここにきて突然棄教してしまったのであろうか。
さらに驚くべきことは、彼が後に仕えた主君で、キリシタンでもあった大村喜前までも同様に棄教させてしまったのである。(注:2) この展開の根底にあるのは一体何なのか。
千々石ミゲルは棄教しただけではなかった。
その後のイエズス会の布教活動に重大な支障を来たすような言動や妨害活動があって、周囲から背教者としての烙印が押されてしまうのである。
彼について残されている西洋の記録では、特に思慮深く温和な優しい性格であったというから、なおのこと彼の棄教という内面的変化は見過ごせないところである。


千々石ミゲルは少年期から有馬セミナリオ(神学校)で多くを学び、神学やラテン語、地理、音楽、会計学などルネサンス期の西洋の知識を積極的に吸収し、成績も優秀で宣教師からも高い評価を得ていた。
もとより彼自身の弛まぬ努力も信仰心もすべて、イエズス会の活動と共にあったはずである。
セミナリオで学ぶ多くの少年の中から少年使節に選抜され、それこそ大いなる喜びをもって、危険で苦しい航海にも臨んだことであろう。
「天正遣欧使節記」には、出航時の様子が次のように書かれている。
「多くの人が長い航海の危険、困難、疑いのない死を示し、我々の心に強い恐怖を植え付けました。しかし我々日本人はヨーロッパの土地から遠く離れたこの島に住んでいてこれらの人々のことを知りません。ぜひともヨーロッパに行ってみたいのです」(千々石ミゲルの言葉)
「我々はヴァリニャーノ様と互いに涙を流しつつご挨拶を申し上げて船に乗りました。我々の気落ちは非常なものでした」(千々石ミゲルの言葉)
(注:3)

当時の船旅を考えれば常に危険と隣り合わせの長い道筋であり、生きてたどり着ける保証も一切ない過酷なものであったはずだ。
そこで結ばれた少年たちの堅い結束は、何ものにも換えがたく尊い友情として共有しあったことであろう。
そうした試練を耐えたはずの千々石ミゲルをして、終には棄教を決意させた理由があるとすれば、それは一体何なのか。
あれこれ理由は挙げられようが、いまだにその原因は謎とされている。
それこそ人間の内面までも解き明かそうとすれば、それは小説の題材であろうし宗教的な解釈で事足りようが、千々石ミゲルの置かれた状況と時代的背景とを考えると非常にダイナミックな歴史的意味合いがそこには隠れていたのではないかと思えてならない。
部外者の目から見たとき、唯一考えられるミゲルの棄教理由は一つだけあるのだ。
宗教人として、いやむしろ一人の人間としての千々石ミゲルの置かれた境涯を現代という時空から見詰めたとき、それはまさに忽然と眼前に浮かび上がってくるのである。
それについても、今回この稿では順次解き明かしていきたいと考えている。

 (2010/8/31)



(注:1)上陸にあたり、この日がカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるので、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
(注:2)読売新聞:2004年8月21日号・「その後の天正使節C」より以下引用。「『大村家秘録』『大村郷村記』など大村藩の史料によれば、喜前の棄教はミゲル(千々石清左衛門)の進言によるものという。『大村家秘録』は「ばてれん共」が「宗旨の大敵は喜前、其根元は千々石清左衛門也」と恨んだと記している。」(引用終わり)
(注:3)エドゥアルド・デ・サンデ(泉井久之助ほか訳)『デ・サンデ天正遣欧使節記』雄松堂,1969.



参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって−55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
2003年 12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−
2004年 4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)をもたらしたのではないのか
「インド・ユダヤ人の光と闇―ザビエルと異端審問・離散とカースト 」徳永 恂 , 小岸 昭(著) 新曜社 2005

     




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