郷土・筑後地方の謎に迫る(5)
神籠石って、本当に朝鮮式山城なの? 何故、破壊されていったの?
● 東洋医学史研
究会 宇田明男
●神籠石列石とは一体何か? 福岡県久留米市の東方にある高良山高良大社には有名な古代の神籠石がある。 高良山の南側の約1,500メートルにわたり約1,300個の列石が確認されているが、もとは北側にも同様に列石があったと推定されている。 一部にしか残されていないということは、後世破壊されるような状況が出ていたということである。 破壊されたというより、そこから列石が次々と持ち去られ石材として転用されたということである。何故に破壊されたのであろうか?
神籠石は、福岡県みやま市瀬高町の女山にも同様の大規模な列石が残されている。 神籠石といわれる1m内外のほぼ長方形の石材は、隣の高田町の竹飯の山から切り出され女山の上まで運び上げられたものである。 これらの石材は山の中腹を列石状に取り巻く形で3キロほど整然と並べられており、その規模は九州最大で、これまで列石750個が確認されている。 離れた場所より、大きな石材が人力で延々と運ばれて、このような大規模な列石群が構築された理由とは一体何であろうか。 そしてその背後にある構築のエネルギーとは何なのか?
神籠石列石の起源については、白村江(663年)の戦い以降、大和王権によって急遽構築された防衛目的の山城といわれている。
唐新羅連合軍に大敗した倭国が大慌てで構築したものとされているようだが、そのような取って付けた様な辻褄あわせの定説にたいしてはどうしても腑に落ちない部分がある。
当時の北部九州全体が切迫した臨戦態勢状態にありながら、短期間にこれだけ大規模に、それも石材を1つづつ丁寧に加工してまでして延々と列石を並べたというのはまずもって不可解というべきだろう。 いまにも屈強な敵兵が大挙して攻めてくるという緊迫した状況下にあって、軍事基地の要所とされるその山城の工事現場において悠長に切石を1つづつ加工し形を整える余裕があったというのであろうか? いやむしろおかしいのは、迎え撃つ側が最初からそうした草木の生い茂る山中がその主戦場となるとして決めてかかっていること自体まったくもって不可解というべきであろう。 それこそ防戦一方ということで、始めから貧弱な山城に逃げ込んでの篭城戦をまともに考えていたのかということになる。 そのような想定が定説として大っぴらに通用すること自体、大いに笑える話ではないか。
それだけではない。北部九州各地に点在する神籠石が、列石1段1列という単純な構造では戦闘用の防塁だとしても、これ自体余りにも貧弱で簡略過ぎて話にならない。 それでいて各切石の接合面もぴったりと合うように調整施工されている丁寧さが、どうしても気になって仕方がない。
列石の上部に固めた土を板状に重ねてすっかり土中に埋めて込んでしまう土塁の基礎構造物であれば、個々の切石の形をあれほど丁寧に加工する必要はなかったのではないか。
そのように考えると、当初から外部に露出したままの列石そのものが本来の神籠石の姿ではなかったかと推測されるわけである。
列石の規模を長く延ばし、それも数キロから数百メートルにもわたって山腹を大掛かりに取り巻くといった列石の形状は、いわゆる実戦的な朝鮮式山城の構造とは本質的に異なるのではないか。 防塁や城砦にしては、列石の横方向の規模が余りにも長過ぎる。 自ら防戦ラインを山腹全体にまで平面的に延ばしてしまってどうするのだということだ。 防戦目的の防塁なら、もっと上方向に石組みを積み上げて城壁そのものを構築すべきだろう。
神籠石列石というように、その構造自体は平面的に切石が帯状(横方向)に並べられたものであって、積み重ねられた石垣が主体の立体的な城砦構造物ではないということにより注目すべきであろう。
もっとも、単純に強固な防塁壁、城砦とはいえないところが、いまだに神籠石列石の評価を惑わす理由になっていることは否めないところである。形だけの防塁列石だといえば、一応そのようにもみえる。 何らかの仕切り石、境界線ともとれる単純な構造なのだ。
このあたりを考えていくと、九州の神籠石の機能目的は別のところにあるのかも知れないし、その構築時期についても定説よりはるかに古く、その時期は弥生時代まで遡るのではないかと考えられる。
もっと厳密にいえば、神籠石列石は大和政権下ではなく、古代九州王朝が独自の風水によって構築したものであり、それも軍事的な一種の防衛ラインを想定した構造物ではなかったかと当方は想定している。
●古代風水術の影響
古代中国から伝わった風水自体は人工的構造物を適切に配置して、王城や居住地の地気、龍脈の流れを整える古代の高度な土木技術とされる。
多分に道教的影響があるのであるが、特徴的なことはこの風水術では短期間の突貫工事的発想はまったく通用しないことである。
王朝の命運をも左右するということで、風水術を実際に実施するには相当期間の準備作業が必要とさ、厳密かつ精緻な作業工程があった。 現代人には理解できないであろうが、古代の風水術は国事に直結した重要事項であった。 かって秦の始皇帝の時代、万里の長城を構築する際に誤って防衛ライン上の重要な大地の龍脈を破壊したため処刑された将軍がいたほどである。
大地には地脈ともいうべき龍脈が走っていて、その流れを調整することによって磐石の王都防衛ラインを構築することが出来ると信じられていた。 古代中国の歴代の王都建設には、すべてこの風水術が施されていた。 大陸側と交流を持つ当時の為政者がそうした風水をまったく知らなかったとはいえまい。 むしろ大陸文化の影響下にあった古代九州王朝は逸早くそれを見習ったということなのだ。
風水術の発想からみれば、九州の神籠石列石群は重要な王宮などを守る防衛施設であった可能性が浮かび上がってくる。 それらがすべて軍事的な王都防衛ラインと考えると、神籠石列石の本来の規模は現在残されているものの3,4倍以上はあったのではないかとも考えられる。 白村江の戦い以降、大和王権によって急遽構築された防衛目的の山城といわれている神籠石列石は、その時点を機にしてまったく逆の軍事的理由によって破壊転用され始めたとも考えられるのである。 つまり神籠石列石の転用によって構築されたのが後の朝鮮式山城というわけである。 朝鮮式山城の切石が神籠石列石の転用であれば、混同されても致し方ないというところであろうか。
●神籠石列石は誰が構築したのか? 風水術自体は壮大な古代の都市計画の根幹を支えている、いわゆる軍事的な兵法としての方術でもある。 実際にそれを実施するにも強大な権力がなくてはならない。九州の地においてそれが出来る軍事的統率力を持っていたのは渡来系の物部氏がその筆頭に挙げられる。 神籠石と物部氏に何らかの関連性があるとなると、当然神籠石は軍事的構築物という意味合いが格段に強くなってくるのも事実である。 物部氏族は古代の北部九州において、その発祥の足跡をはっきりと残している。 北部九州の各地にその伝承遺跡がいくつも残されていることからみても、その当時強大な勢力圏を持っていたことがわかる。
物部氏族と神籠石列石との関連性は、実際に九州の神籠石列石の所在地点と古代の物部氏族の根拠地とを重ねて比較検証すれば明白である。(地図上の●は神籠石の所在地・■は新しい山城の所在地、1から16の各番号は古代物部氏族の根拠地を示す)

1.物部郷
2.物部布都神社
3.物部若宮神
4.筑紫聞物部
5.二田物部
6.二田物部
7.物部社
8.馬見物部
9.物部山国社
10.物部首古志売等
11.物部首猪手売
12.物部婢売
13.物部宿奈売
14.物部田中神
15.物部阿志賀野神
16.磯上物部神
神籠石の所在地と物部氏族の分布状況は、地図上で見るとおりそのすべてが見事に合致している。
物部氏族は古代において、はやくに軍事とその祭祀部門全般を司っており、常にその中心に位置していた大きな氏族集団である。 物部氏族と神籠石との関連性は、呪術や祭祀を通してより濃厚なものとなってくる。 むしろ物部氏族特有の軍事と祭祀性が背景にあることから、神籠石列石が構築された理由は軍事上の防衛ラインであり風水術による構造物ではなかったかと確信するところである。
●神籠石列石は何故破壊されたのか
後世、神籠石自体は、いわゆる「軍事的な防御機能」が次第に失われていってしまったであろうことは否定できない。 単純な構造からいえば、始めからその「軍事的な防御機能」が希薄過ぎたとみるべきかも知れない。 これは軍事的、祭祀的な本来の機能目的が変化したことが背景にあるのではないか。
結果的にはある時期になって、神籠石列石は無用の長物となってしまったということである。 言い換えれば、付随していたであろうその祭祀性そのものの変遷によって、神籠石の本来の防御機能が失われるような事態が後世に出来したということである。 現代のわれわれが、神籠石本来の機能目的が一体何なのかという重要な部分が不明なのと同様に、古代においても神籠石列石は過去の遺物とみなされるようになってしまったということではないか。
まず第一に、これだけ大規模な一連の列石構造物構築に関する経緯そのものが、肝心の記紀や史書に直接触れられていないのは不可解というべきだろう。 ここらは、銅鐸信仰と同様である。
それこそ神籠石列石は、大和王権によって一部は山城構築に転用されるか破壊された可能性が高い。 もとより征圧した王権の防衛ライン(風水構造物)を維持する意味などないわけである。 こうした後世の破壊や石材の転用がなかったら、神籠石列石は現存するものをはるかに超える大規模なものであった可能性も当然出てくるはずである。
それでなくても、後世神籠石は寺社建立や戦国時代の築城、河川の治水や土木工事用の石材としてさかんに持ち出され破壊が進んでいった。 もはやどこからみても軍事的に有用なものとは考えられなくなってしまっていたわけだ。
穿った見方をすれば、最初から軍事に活用できるような機能性をもった堅牢な構造物という認識を、後世の為政者はまったく持ち得なかった。 ただ、山中に点在する物部氏族の祭祀用の過去の巨石構造物でしかなかったのだ。
20世紀の戦後でさえ埋蔵文化財保護法制定以前は、開発に伴うこれらの神籠石列石の目に余る盗掘や破壊行為を止める手立てがなかったのは事実である。(地元郷土史家談) 神籠石列石そのものは、本来の姿というか、そのほんの一部分が遺されているとしか言いようがない。 そのように考えると、従来いわれていた神域説の方がむしろ正しい見方ではなかったかと考える。
●神籠石のさらなる祭祀性を問う
神籠石列石は、古代の呪術が信奉されていた時代の遺物であろうことは、容易に察しがつくところである。その主役はもちろん古代北部九州の豪族、物部氏族である。 古代より物部氏が軍事の棟梁として、軍神を祭っていた。 もとより城砦の構築、武具(もののぐ)の調達、武人(もののふ)の練兵や戦時の指揮も司った。 古代九州でもいくつもの戦国時代を経てきている。 神籠石列石を考える上でも、そうした認識がどうやら欠落しているようである。 しかもここから先は文化人類学的考察を取り入れていくと、さらに面白い展開が出てくることになる。
古代の戦には呪術は付きものであった。戦には、戦のための呪術があって、出陣の際の祭祀も行われた。 これは後世の戦国時代であろうと、先の大戦の出陣式とて戦意高揚の手立は同様である。 戦地に赴く覚悟と戦意、大和魂の注入が必須なのである。
まず頭数と武具とがすべて揃ったとしても、すぐに戦士として一撃必殺の戦闘力が備わるわけではない。 「もののふ」には肝心の「もののけ(武の気)」が体に憑かなければ本物の戦士にはならないのである。 勇敢に戦う戦意が、まず必要なのだ。もとより、腑抜けには戦は出来ないということだ。
こうした呪術や古代のシャーマニズムを考えていかないと、単純にはこの古代遺跡の謎は解けてはこない。
戦時には、武人(もものふ)の体に武の気(鬼神)が憑く。武の気が憑いているから、武人には敵対する相手を殺傷するという戦意や勇猛さが戦闘力として備わるわけである。
この辺りの感覚は平和ボケのいまの現代人には分からないであろう。 平常心の人間にはやたら人は殺せないし、いきなり戦闘開始状態にはなれないのである。 異常なアドレナリン充満の状態か、平常心を失うか、狂気のもとでなければ命の遣り取りを強いられる戦場には臨めないであろう。 今風にいえば軍事的、宗教的イニシエーションで洗脳されるか、専門の徹底した軍事教練が必要ということである。
「戦闘中は、兵隊はみな気違いになるとですよ。そげんならんと人は殺せんですよ」と、軍隊で壮絶な白兵戦の経験のある老人から何度も聞かされたことがある。 多くのお年寄りと接する職業柄そうした話を聞くのであるが、まさに鬼気迫る実体験ばかりである。
ここで逆の展開としていえることは、奮い立った武人も一旦その武の気(もののけ)が落ちてしまえば戦意はたちまち消え失せてしまうわけである。
古代においてそうした軍事に付随したシャーマニズム、呪術があったことは否定できない。 もののけを体に取り付かせたり、取り除いたりする戦時のシャーマニズムが古代には存在したわけだ。 取りも直さずそれは、戦士も特定の神域に入れば、ものの気が落ちるという呪術も当たり前の事として信じられていた古代の一時期があったということである。 そうした祭祀性が背景にあったからこそ、大規模な神籠石列石が構築されたのだ。 むしろこうした祭祀性がなければ、大規模に構築されることはなかったのではないか。
神籠石の列石で囲まれた領域は、そうしたおぞましいものの気を落とす特殊な防衛ラインとしての神域なのである。 一旦神域に踏み込めば、武人の体に憑いていたものの気が落ちてしまうという呪術特有の単純すぎる考え方である。 それこそ古代の風水的、祭祀的防衛ラインそのものなのだ。
同じように古代中国では、「兵害を免れる」として、五月五日に五色の糸を肘に結ぶと「兵の鬼気(ものの気)を避ける」という道教的呪術があったことが知られている。
攻め込んでくる敵兵には死神が憑いていて鬼気(ものの気)を帯びていると考えられた。 そのようなとき身を守る呪術があれば敵に殺傷されないと信じられていた。 兵禍を避けるには、前もって決まった時に決まったことを呪術として手順通りにやっておくことが必要とされていたのだ。 これが古代に通用した呪術であり、古代の方術の基本的考え方なのだ。 これを古代の原始的な「呪能」信仰というのである。
つまりこうした呪術が効力を発揮した時代の遺物という認識に立てば、神籠石列石そのものが決して後世7世紀の構造物であるはずもなく、さらには朝鮮式山城と特定してしまうことがいかに早計であるかが理解されるはずである。 古代には古代人の当然の理屈があるということである。 それがいかに単純であり、無意味なことであったとしても現代人が笑うことは出来ない。
(2005/6/26)
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