中野 洋

 

 

1999年 『月刊交流センター』8月号 中野洋

 

新安保ガイドライン体制下の労働運動とは

 1999年5月24日、参議院で新安保ガイドライン関連法が強行成立されましたが、このことは戦後の日本の社会のあり方、すなわち憲法を軸にした社会の仕組みを根本的に転換させる重大な事態です。それは、日本が戦後はじめて戦争を遂行する国家に転換するということを、国内外に、公然と明らかにしたことだ、と認識しなければなりません。
 この前後に、ヨーロッパでは、これまたNATOのありかたを根本的に転換させるようなできごとが起こりました。NATOの場合には「域外」といっていますが、NATO域外のバルカン半島のユーゴスラビアに対して、コソボ問題を口実にアメリカを中心とするNATOの列強が、無慈悲、乱暴、傍若無人きわまりない爆撃を敢行するということが起こりました。さらに日本海では戦後自衛隊がはじめて、「北朝鮮の不審船」を口実に、実弾で対応するというある種の戦闘行為に踏み切りました。このような状況のなかで、5月24日の強行成立をとらえなければなりません。

戦争体制下での労働運動という
目的意識性と自覚が必要

 日本の社会のあり方が全部変わるのですから、労働運動のみならず、当然のことながらそういう体制下のなかで何をしていくのか、とりがけ労働運動の場合にはそのことが鋭く問われています。新安保ガイドライン体制下の戦争体制下での労働運動ということを、目的意識的に貫いていくこと、このことを労働運動のサイドが自覚しなければならない、ということです。
 なぜそうなのかというと、一つには、日本の圧倒的多くの労働者大衆は戦争体験がありません。戦後54年経っているということは、今年54歳の人が敗戦の年に生まれたということですから、ほとんどの圧倒的多くの人たちが戦争体験がありません。戦後のたいへんな混乱期の体験もないし、意識としては「左だ、右だ」とは言っていますが、大きくは日本帝国主義=日本資本主義の戦後の驚異的な高度経済成長、これを前提にした労働運動のなかで育ってきたということです。
 ですから新安保ガイドライン体制下に入るということは、やはり経験したことのない時代に突入するということについて、そうとうの目的意識性を持たないと、たいへんな失敗をしかねないということです。
 新安保ガイドライン体制下の労働運動ということを裏返しにいうと、これまでの55年体制という言葉で象徴されていますが、戦後の資本主義の相対的安定期の時代の労働運動から、ある意味では戦争も含めて、何でもありの労働運動に入っていったということです。そのように構えなおさないと労働運動の前進は望めないし、さまざまな努力も水泡に帰しかねないということを自覚しなければなりません。
 労働運動の歴史的転換期というときに、動労千葉のジェット燃料輸送阻止闘争から教訓を導き出すことができると思います。二十年前のことですが、そういう観点から振り返ってみることが重要だと思います。なぜ動労千葉は組織をかけてジェット燃料貨車輸送阻止闘争を闘ったのか、このなかにひとつの教訓があると思います。

三里塚闘争との関わり内実ある労農連帯

 当時、動労千葉は千葉地本といっていて、動労の傘下、総評の傘下にあって、動労の一地方本部でした。三里塚闘争を千葉地本が闘った理由は、三里塚が千葉県であったということが一番です。反対同盟に所属している組合員や親戚がけっこういました。政府の決定のあり方も、千葉県は保守王国で政府決め、お金を少し余計に与えればいうことをきくという安易な発想があザました。当初は富里に造ろうとしましたが、猛反発がおこり、三里塚に変更されたという経緯もあり、「千葉の人間をなめているのか」という雰囲気もあり、また該当する農民に対しては、一片の説明もなく強権的に決めるということも怒りをかきたてました。これに対する闘いとして三里塚闘争は始まりました。だから千葉地本は、非常な関心を否応なしに持たざるをえなかったものです.
 当初は社会党・総評ブロック、共産党など革新勢力は、こぞって三里塚闘争に支援するという構造ができて、そのなかの一員とし我々も闘いに参加しました。
 その後、10・8羽田闘争を闘った三派全学連、反戦青年委員会が参加しました。動労は反戦青年委員会の有力な組合であって、千葉では僕が県反戦の議長をやっていて、そういう全学連・反戦青年委員会運動も羽田闘争のあと三里塚闘争に加わってきました。
71年の強制代執行がありましたが、このころから現地の農民の政府公団への怒りの深さから、闘いは実力闘争の色彩を強くしてきました。体を張って測量などを阻止するような闘いが繰り返されました。これに対して日本共産党は、実力闘争に参加しない、否定するために、今でいう「過激派キャンペーン」を繰り広げ、共産党と反対同盟の関係に断絶が生まれました。強制代執行のときの現地の激しい実力闘争に、社会党・総評ブロックの労働組合もだんだん手を引いていくという状況が生まれてきていました。
 しかし動労千葉地本は、青年部を中心にして反対同盟の闘いを支援する立場で闘ってきました。現地の闘いが少し騒々しくなったということだけで手を引くというのはおかしいのではないか、いったん闘いを開始した以上最後まで貫くべきだという意見が当時の動労千葉地本青年部のなかにあって、全体は引いていくなかで、千葉地本青年部は反戦青年委員会という形をとりながら三里塚闘争への支援を続けていきました。
 総評労働運動は、「労農連帯」など、労働者以外のさまざまな闘いとも連帯する、市民運動とか住民運動などとともに闘う、そういう考え方がなかったわけではありません。しかし、かれらは自分の都合のいいときにはそう言いますが、あつれきが生まれるとすぐ手を引くような「労農連帯」でしかありませんでした。こういうあり方に疑問を持っていて、三里塚闘争が農民の闘いの本質、つまり反対同盟が持っている農地死守、国家権力と真っ向から闘っていく、ある意味では政府打倒運動のような色彩を非常に色濃く持っていた運動、こういう運動となって発展しており、それは動労千葉地本が労働運動をやっていく場合、そういうレベルで階級的利害が一致するのではないか、という考え方がありました。
 「労農連帯」という言葉を言葉だけではなく、内実のあるものにしていかなければならないという意識が強烈にあって、そのことが他の労働組合はどうであろうと、動労干葉地本青年部だけは闘いを継続するし闘いを止める理由はなにもない、反対同盟が三派全学連と共闘関係を結ぼうが、どこと結ぼうが、それは反対同盟が決めることであって、共産党のようにその選択について、あいつと結託したからけしからんというものではありません。また、現地が少し激しくなると身を引くような、既成の労働組合のあり方に対する批判が強くありました。これが同盟と闘いを継続していく要因としてありました。

支援の立場から自分の闘いとして

 これまでの段階は、まだ千葉地本は反対同盟の闘いを支援するというもので、反対同盟が主催する集会に参加する、あるいは援農に参加するという域を出ませんでした。強制代執行以降、ジェット燃料貨車輸送問題が出てきました。
 成田空港は内陸空港だから、どうしてジェット機の燃料を空港まで輸送するのかということが、71年ごろから重要な問題になりはじめました。成田空港を開港するためには、ジェット燃料を供給しなければ一機のジェット機も飛ばないわけですから。これについては当初からいろいろ矛盾にぶつかり、失敗を重ねていました。76年ごろパイプラインから鉄道による輸送を決定しました。
 このことは動労千葉地本にとっては、国鉄労働者として三里塚闘争へのあり方について、根本的な変革が否応なしに強制されました。これまでの支援の立場から、自分の問題として輸送問題をどうするのかということがっきつけられました。
 当時、「われわれ国鉄労働者は、国鉄それ自身が人と物を運んでなんぼという公共企業体で、労働者はそれに従事することを通して賃金を得るという存在にすぎないから、なにを運ぶかということについては労働者のサイドから注文をつけるのはおかしいのではないか」「では俺たちは何で飯を食っているのか」という考えも、一方の議論でありました。
 そのころ、水俣などの地道な闘いでようやく公害問題が社会問題化していて、千葉でも京葉コンビナートがつくられて公害問題が起こっていました。市原の窒素の工場に地元の市民団体が工場前に抗議にいったら、労働組合が全面にたって市民運動のメンバーに乱暴狼籍を働いたことが新聞で暴露されていました。
 結局労働組合は、そういう時には企業のサイドに立って、これに反対する人々と敵対関係に入るような労働運動でいいのかという疑問だとか、そういう労働運動になっていくと企業のためだったら仕方がない、自分たちが食っていくためには企業を守らなければいけないということになるといった疑問がありました。それはどんどん論理を膨らませていくと、結局、国のためにはなんでもやる、ということになりかねないのではないか、そういう労働運動でいいのかということなどが、組織内で議論されました。
 この過程で50年代前半の内灘の北陸鉄道労組の闘いなどを勉強し、内灘の生き残りの人を呼んで話を聞いたこともありました。いろいろな学習を重ねながら結局、動労千葉として労農連帯の内実が問われているのだから、労農連帯の正しい路線を貫徹しようという決意をしました。
 当時、動労本部内には革マルの勢力が浸透していく過程で、三里塚芝山連合空港反対同盟は、高速道路に油をまいたりして、現地闘争への結集を妨害をした革マルを支援団体から排除するという決定をしていました。
 しかし、千葉地本としてはジェット燃料貨車輸送阻止闘争を闘うためには、一地方本部は指令権を持っていませんから、動労という労働組合の全体の闘いにしなければ闘いを組むことができません。76年12月の動労の中央委員会に千葉地本から緊急動議を出して、これが満場一致の決定になりました。
 また千葉での地元の問題もありました。ジェット燃料の供給ルートをどうするのかということで、パイプラインを千葉港から成田空港まで引くということで、千葉市の住宅密集地の周辺を通るために、周辺住民の反対運動が起こり、裁判にもなるなど、そのつどジェット燃料の輸送問題は頓挫していました。空港公団が、パイプラインがなぜ必要かということを裁判で供述したなかに「タンクローリーや、鉄道の貨車輸送することがいかに危険であるか」と証言していました。パイプラインによる輸送がうまくいかなくなったから貨車輸送ということになったわけで「そんなに危険なものを俺たちになんで運ばせるのだ」ということで、千葉地本にはジェット燃料の貨車輸送への怒りが増していきました。
 また、当時は成田空港反対反対闘争は千葉だけではなく、全国的にも第一級の闘争課題でしたから、パイプラインが通る経路の自治体なども同意しなくて、千葉市が応諾したときも当時の運輸大臣が千葉市長と会見して、そこで千葉市はバーター要求をしました。そのなかで国鉄の千葉気道車区の車両基地も、千葉市の要求どおり千葉市民の避難場所となる公園にすることで千葉市が譲り受けることになりました。こういうなかで、成田空港建設に対して全国の憤りが強かったということも当時の客観的な条件としてあり、闘いを作り上げていく上で有利に働きました。それだけ三里塚闘争は、現地で激しく闘われると同時に広範な共感を持って闘われてきた反映だと思います。そういう状況のなかで、ジェット燃料輪送阻止闘争を闘っていくことを決断していきました。

闘う「四つの視点」を確立する

 その場合、労働組合としてどういう論理で燃料貨車輸送阻止闘争を闘っていくのかということです。全組合員のものとして、具体的な組合の実力闘争として展開していくのかということは、これは単に集会の時に動員指令を出して現地に何百人と動員することとは違うわけです。当時公労法下だから、闘えば必ず処分が出ます。最高は懲戒免職など全参加者が何らかの処分を受けるという状況でしたから、執行部は非常に悩みました。
 しかし、決断をした以上まっしぐらに進んで行こうということで、執行部が確立した「なぜジェット燃料貨車輸送阻止闘争を闘うのか」という路線の一つは、労農連帯の内実を貫いていくということでした。われわれは三里塚空港には反対であり、これに反対している農民との固い連帯は守っていこうということです。
 二つ目は運転保安問題です。列車の安全を守るということが、動労の労働運動の基軸的伝統的な闘いです。このあと千葉地本と本部・革マルとの分離・独立になっていくときの路線的な対立にも、三里塚問題もありましたが、運転保安問題もありました。列車の安全をどう守るのかということについて千葉地本の基本的な考え方としては、労働組合が闘わないかぎり列車の安全は守られないということです。
 資本に対してお願いをしているだけで運転保安など成り立たないという考え方が強くありました。しかもこのジェット燃料貨車輸送は、 空港公団までもが危険だといっているのです。国鉄の場合には安保条約の地位協定に基づいて米軍のジェット燃料を輸送していて、それが67年に新宿駅構内で爆発し、新宿米タン闘争に発展していったことがありました。こういうことも10年前に起こっているのだから、「危険なものは運ばない」と勉強もしました。ジェット燃料とは何か、ジェット燃料の爆発点とか、干葉管内の線路の状態だとか。そうして、運転保安を確立し列車の安全を守るという論理を作り上げていきました。
 もう一つは、合理化反対ということです。ジェット燃料輸送ということは、国鉄内的にいうと業務量の増加です。業務量が増加すれば労働者も増えるのだから、それ自身としては歓迎すべきことです。
 当時、機関士要員が不足していて、毎年ダイヤ改正のたびに機関士職の増員要求が大きな問題となっていました。ジェット燃料貨車輸送が来て、要員は増やさないわけですから、それだけのものを運ぶ要員がますます足らなくなる、現行の要員のなかでは合理化が強制される、これは絶対に許せない、ということでした。
 四点目は当時の政治情勢や、国鉄の情勢からいって、千葉地本の団結の破壊攻撃が激しくなろうとしていました。福田内閣のときで、日本の資本主義が、70年前半の第一次オイルショックを、公共投資という赤字国債のタレ流しやリストラでなんとか立ち直りかけていましたが、世界的には資本主義が駄目になっていくときでした。それでイギリスではサッチャーが登場し、アメリカではレーガンが登場し、その後82年には中曾根と、世界的に新保守主義が出てきました。新保守主義というのは「労働組合の存在を許しているから資本主義がうまく行かない」という考え方です。こういものが台頭してくる状況でした。また安保の旧ガイドラインは78年で、中曽根の「不沈空母」発言だとか、有事の体制をつくるという策動が進行していこうとしていた時代でした。こういう状況のなかだから、労働組合に対する攻撃は強まっていきます。現に80年代の冒頭から、国鉄第二臨調の発足と分割・民営化攻撃へとまつしぐらにいきました。こういう状況における福田や中曾根体制に対する激しい挑戦的な闘争でした。そういう内実をはらみながら、組織破壊を許さない、組合の団結を守るという要素が強くあって、これを四つの視点としてまとめて、半年かけて全組合員の討論を組織していくことをやりました。


反動を打ち破って闘った百日間闘争

 具体的に闘いが始まったのは、77年の11月の暫定貨車輸送の ゴーサインがでたときでこれに対して、動労千葉地本は満を持して12月冒頭からいわゆる百日間闘争に突入しました。冒頭の三日間の順法闘争は、首都圏の総武線、国電区間をガタガタにしました。これに対して当時の瀬戸山法務大臣が「順法闘争にも刑事罰を適用しろ」と発言するとか、警視庁の弾庄だとか、朝日新聞が「労働組合の範疇を著しく逸脱した動労千葉地本の闘い」と社説で載せるとか、「やりすぎ」論を展開しました。このようなたいへんな反動がありました。
 こういう反動があってそのうえ、動労東京や中央本部には革マルがいて、陰に陽に妨害をしかけてきていました。たとえば燃料貨車輸送の機関士が足りません。機関士を全国の動労の組合員を助勤というかたちで送り込んできました。ディーゼル機関車も足らないので全国から配送してきました。これは全国の動労の組織が反対したら出せません。こうした反動とどう闘っていくのかということがありました。したがって燃料貨車輸送阻止闘争順法闘争をやりつづけるということは大変なことでした。
 僕は毎日のように目黒の動労本部に行きました。当時の相手は、前日貨労委員長をやっていた城石ですが、これは革マルです。彼が当時組織部長でしたのでやり合いました。動労は単一組織で指令権は中央本部にしかないので、千葉地本だけでは戦術行使はできません。日参して少しずつ闘争戦術を獲得してきて、それを現場でできるだけ大きく拡大解釈をして闘いを継続するという困難な闘いでした。
 こういうさまざまな反動も我々の読みどおりでしたが、とくに「順法闘争に刑事罰を」と法務大臣がいうということで、これによって、警察権力が直ちに動きました。警視庁が列車を遅らせた組合員、指令した当時の地本執行部を根こそぎ逮捕しようというシフトでした。
しかし、われわれの闘いが巧妙だったことと、三里塚闘争の全国的な盛り上がりという状況が権力の介入を封殺しました。支援共闘会義も結成されました。順法闘争をして、総武線の沿線は列車は、ガタガタになって上尾暴動の寸前までいきました。お客は怒っているわけで、そういう人たちが通る駅前で、順法闘争をしている千葉地本への署名カンパなど支援を要請するのですから、ぶん殴られるのではないか、石をぶつけられるのではないかという状況でした。全学連など支援の人たちがやってくれましたが、そういうことはなくて、あの時のカンパは何百万円と集まり通常の街頭カンパのときより多かったものです。こういう状況では逆に、三里塚闘争、動労千葉のジェット燃料貨車輸送阻止闘争を媒介にして、多くの大衆を獲得するという構造ができました。だから権力の介入もありませんでした。
 もちろんそういうことは先に読んでいて、いろいろな戦術を考え、単に戦術をエスカレーションさせるだけでなく、権力の弾圧を許さないようにしていきました。今から思えばこのような闘い方は、新安保ガイドライン体制下でいろいろな協力拒否をやる場合、政府や警察権力の対応や闘い方は参考になると思います。

「輸送拒否から阻止へ」、
全組合員が納得いくまで論議した戦術転換

 こういう闘いのなかで中間総括と戦術転換を

行ないました。百日間闘争で圧倒しましたから、「ジェット燃料輸送の機関車のハンドルは絶対に握らない」ということが組合員の総意で、握らない闘いをずっとやってきました。これに対して、当局は千葉地本の組合員を外して、職制、つまり助役で機関士を経験してきた助役を全国からかき集めてきて、それに運転させるということで暫定貨車輸送を続けてきていました。
 これを「ざまー見ろ、お前らが運転するのか」と傍観していていいのか、それとも労働者として自分たちの縄張り、鉄路を奴らに渡していいのか、という論議になりました。「ジェット燃料輸送のハンドルを握らなくてよかった」というレベルで終わっていいのかという、労働運動にとって重要な問題に直面しました。
 あわせて革マルが動労本部をだんだん牛耳り始めるということがあって、やつらは一日も早く千葉地本のジェット燃料輸送阻止闘争を止めさせたいし、しかも千葉地本に傷を付けて屈辱的な形で中止させるという策動がどんどん大きくなっていき、この動きを動労内部にいて感じるようになっていました。革マルにとってみれば動労の権力を握っていく過程で、傘下である千葉で動労のこれまでの伝統に踏まえて戦闘的な闘いが展開されていることは、自分の基盤をゆさぶるものとして受け止めていて、当然ながらこれを何とかして傷を付けて止めさせたいということが強くありました。
 この「輸送拒否から阻止へ」の転換は、単純に戦術転換したのではありません。こういう狭間のなかで自分たちの選択すべき道はなんなのかということを考え、今までのハンドルを持たないという闘いのあり方ではいずれにしても限界が来るだろう、そうであるならば主体の側から戦術転換を期すべきであるという判断にたって、「輸送拒否から阻止へ」というスローガンにしました。鉄路のヘゲモニーをわれわれの手に握って、闘いを持続させ発展させようということにしました。
 しかし、それは組織内部では当然のことながら、たいへんな反対意見が出てきました。たとえば成田支部は、三里塚闘争のお膝元だから、反対同盟農民とほとんど一体ですから、ひとり一人の組合員が当該者にしかわからないような複雑な気持ちで闘いをしてきていました。ですから、そこに、具体的にはハンドルを握って、ストライキとかいろいろな戦術を駆使して闘おうという方針ですが、実際にはハンドルを握って燃料を空港に運び込んで開港に備える側に立つわけですから、これは成田支部長以下ガンとして承知しませんでした。なかには涙を流して抗議をする組合員もいました。これを大会で「労働組合の闘い方はこうあるべきなんだ」と苦労して論議しました。有名な話ですが、成田の支部長は手を挙げて立ったトタンに「中野書記長は俺らに分からないような言葉を使ってごまかそうとしている」と言ったきり座ってしまいました。それは僕が書いた運動方針葉のなかに「ヘゲモニー」だとか「イニシアティブを握って」だとかという言葉があったからです。理屈ではかなわないけど腹のなかは納まらないという気持ちの現れで、よく分かるのです。これは健全なあり方であって、執行部も時間をかけてきちんと討論をして、組合の方針がほんとうに正しいのだと組合員全員が理解するところまでやりました。
 78年の4月の臨時大会でこの戦術転換をはかりましたが、この時マスコミは、動労干葉地本はどういう方針を取るのかということで注目していました。これでハンドルを握って新たな闘いに入っていくというふうに、腹に据えかねている人たちも含めて、全組合員がこの方向に大きくシフトしました。ジェット燃料貨車輸送阻止闘争のなかでも一つの大きなエポックです。
 だから、今は病床に付しておられる高島喜久男先生は、動労支援共闘会議の代表をずっとやっていただいていましたが、総評労働運動の調査部長までやった人で、日本の労働運動をつぶさに見てこられた人です。彼はこの事態をハラハラしながら見ておられて、「戦後の労働運動のなかでこういう戦術転換をして成功したためしがない」「右に戦術転換するとか、左に転換するとかありますが、千葉地本め場合はどっちともいえないもので、ああもみごとに戦術転換した動労千葉はみごとな組合だ」といっておられました。

動労本部からの分離・独立へ

 ジェット燃料貨車輸送阻止闘争は千葉地本が闘ったのですが、一応建前としては動労の中央委員会という機関で決定し、マスコミや権力から袋叩きにされながら、しかし動労傘下の千葉地方本部千四百人の組合員が一糸も乱れずに闘い抜いた闘いです。このことは動労本部からほめられこそすれ、非難される覚えのない闘いをやってきたのです。
 ところが78年の津山での動労全国大会では、突如として三里塚闘争と一線を画するという方針が出てきました。合わせて、「貨物安定宣言」といって本質的には動労の従来からの伝統であった反合理化・運転保安闘争を放棄する方針が出ました。そして水本運動の支援がセットで出されてきました。だから運動方針をめぐって津山全国大会は大激論になりました。それで干葉地本の代議員が排除されたり、集団でテロリンチを受けました。
 こういう過程を通して、自分たちが一生懸命に闘った闘いを評価しないで、それと一線を画するといって排除するような労働組合とはいったいどういうものなのだ、という問題がでました。革マルは三里塚農民を「ドン首姓」だとかいったりして農民の闘いを正しく評価できなかったことから、反対同盟から、排除されていました。
 確かに当時の総評傘下の労働組合は三里塚闘争からいつのまにか撤退していましたが、動労革マルのように三里塚闘争は過激だからだめだからとか、一線を画するといった組合は一つもありませんでした。いわないけれど動員はしないとなっただけで、これを全国大会で「三里塚闘争は謀略の渦だ」などという観点を労働組合の運動方針の論理として持ち出すということは、話になりません。千葉地本をはじめ40数%の代義員が猛烈に反対しましたがこれを革マルが強行しました。
 三里塚闘争という、当時では日本の階級闘争の最大の中心課題の一つに対して悪罵を投げつけるということは、権力の側から見ると喜ばしいことです。加えて国鉄の反合理化・運転保安確立の闘争の放棄ということ、水本謀略運動を動労の運動の方針にすえるということが、三者一体となって出てくることに特徴があって、この78年の津山大会を契機に動労千葉地本は革マル派の反動的な意図を全組合員規模で、彼らとは単なる意見の違いというレベルではなく、彼らと席を同じくして闘っていく対象ではないという意見が組合員のなかに出てきました。
 このようななかで、本部が関川千葉地本委員長以下当時の執行部を動労から除名処分にしたことに対して、組合員は「千葉地本の委員長は干葉地本の組合員が選んでいるのだから中央本部が除名処分にすることは許せない、俺たちの委員長は俺たちで選ぶ」といって、関川委員長を委員長として守るためには分離・独立する以外にないと79年3月31日に分離・独立を決行しました。ジェット燃料貨車輸送闘争の過程は、動労内部での路線をめぐる闘いを横軸として進んでいたといえます。
 79年3月に独立したのですが、普通だったら組織を整備したり、財政的な基盤を確立したり色々なことがありますから、組織を分離・独立して直ちに闘いをやるということになりません。だけど情勢は待ってくれませんから、79年の10月には早くもジェット燃料輸送阻止闘争に突入し、僕が解雇攻撃を受けました。その後三里塚闘争の節々にジェット燃料列車の指名ストライキを組み入れながら、闘いを継続しながら81年の3月の2週間にわたる闘いに入っていきます。

戦争協力拒否をいかに闘うか

 マスコミ・権力・動労・革マルなどの反動との闘いは、新安保ガイドライン体制下での闘いにとっては教訓化しなければならないと思っています。特に戦争協力をめぐる労働運動内部での路線をめぐる対立として起こっていきます。

 

ルネクレマンの『鉄路のたたかい』


労働組合全体で、持続的な闘い方を

 さまざまな反動がジェット燃料貨車輸送阻止闘争を直撃しました。革マルは「ジェット燃料貨車輸送反対に反対」とはいえないから機関で決定しながら、妨害を加えて「機関決定を守らない千葉地本」という陰険かつ巧妙な攻撃をやってきました。これに対する闘いは組合の権力を持っているものに対して、柔軟かつ強椒な政治戦をやりながら、一方ではジェット燃料貨車輸送阻止のために順法闘争やストライキを柔軟にやっていくということです。こういう闘争は一部の意識的な労働者だけでやれる闘争ではありません。

やったトタンに解雇されて排除されてしまいます。だから労働組合全体としてどう闘っていくのかということが重要になってきます。
 これからの戦争協力拒否の闘いは鉄道の場合、軍事物資輸送阻止闘争になりますが、戦争協力はできないという闘いが各産別でいろいろな形で問われてくると思いますが、機関全体を掌握し、全体の大衆的な闘いとして、創意工夫をこらした闘いを展開する構造を作りだしていくことが決定的です。線香花火のような闘いではなく、新安保ガイドライン体制下の闘いというのは持続的な闘いが必要です。あるときはハンドルを握うているけれど、いざとなった決定的瞬間にはストライキをして列車を止めるという闘い方です。
 当時、ルネクレマンの『鉄路のたたかい』という映画がありましたが、これはナチス占領下のレジスタンス運動で、鉄道労働者は通常はナチスの命令のもとに列車を動かしているがタイミングを見て、鉄道労働者のもっている技術を駆使して、本来なら本線に行かなければいけない列車を、たとえば東京から東海道に行かなければいけない列車を中央線や総武線にもっていくなどということはポイントの切替えで一つでどうにでもなります。こういう、列車がどこに行くか分からなくするという闘いをしたわけです。当時僕もこの映画を観て、こういう闘いのあり方について勉強もしました。
 また一時的な闘いではなく数ヵ月、一年、二年という単位の闘いになりますから、しぶとく強靭に、かつ粘り強く、一つ一つの成果にまどわされることなく、終極は戦争をやめさせるということですから、そのための闘いを積み団結を固め重ねながら、継続させていくことが重要です。
 
「いざとなった時」=決定的瞬間でのストライキ

 81年3月のストライキは闘いを継続してきてさきほどの「いざとなった」ときでした。最初は三年間という暫定貨車輸送でした。しかし81年3月には、閣議で三年間と決めたにもかかわらずパイプラインができないから継続するということを政府が強行しようとしました。これに対して「ふざけるな、三年という約束だったのだからもう貨車輸送の強行はやめろ、政府は約束は守れ」ということで81年3月の闘いが始まりました。これは全列車を止めるというもので、第一次ジェット燃料貨車輸送阻止闘争の百日間闘争よりも戦術的には一段とエスカレートしたもので、ストライキを行いました。この時にはもう動労千葉になっていましたから動労千葉に指令権がありました。この闘争で4名の解雇者を出しました。
 81年3月のストライキのときには本部派がハンドルを握りました。それに対しては対象列車を特急列車や全列車に拡大して対抗し
ました。そしてこういうスト破り策動は全部粉砕しました。
一方、国労の現場が動労千葉の闘いに合流するということもありました。助役機関士を使おうとしたが国労の列車係、つまり車掌が常務を拒否したので、成田の本線に燃料列車がたまって動かなくなりました。

ジェット燃料貨車輸送阻止闘争を
闘い抜いた力

 労農連帯、革マルとの闘い、そして反合・運転保安闘争のなかで培ってきた「誇り高き労働組合」

 まず、いちばん大きかったことは、68年ごろから三里塚闘争に参加して、反対同盟との付き合いはほかの団体とは比べものにならないほどの親密さがありました。反対同盟農民との人間的な関係も含めて、農民の闘いに組合員は、この闘いは正しい闘いであると認識を強く持っていたことが重要です。三里塚闘争にはほとんどの組合員が参加したのではないでしょうか。
 三里塚闘争のような土地取り上げに反対する闘いは、ある種の「ごね得闘争」というものがあるわけですが、組合員は同盟の農民と接触して、今日でも反対同盟でやっているような人たちは労働者の目から観ても、あの人たちはごね得で、自分の畑を高く売るためにやっているのではなく、本気になって怒って自分の生活を守ろうとして闘っているということを、闘争に参加するなかで感じてきたということがいちばん大きかったと思います。これがなかったらいかに立派なことをいっていても、三里塚で動労千葉がジェット燃料貨車輸送阻止闘争をやることはできなかったでしょう。組合の執行部が上からいうだけではなく、三里塚現地に行って闘争や援農などで闘う農民に接触することで培われてさたものです。
二つ目には、七十年代から動労本部に巣くう革マルとの十年にわたる激しい動労の路線をめぐる闘いがあったことです。当初は中核派と革マル派の党派闘争に労働組合がまきこまれるのは迷惑なことだというこ意見がそうとうありました。現場の労働者からみればそういうことになるでよう。これはいったいなんなのかということについて、長期間にわたって現場で討論をつきつめてやるということを続けてきました。労働組合というのはどうあるべきか、どうあってはいけないのか、ということになります。だから動労千葉の組合員は「労働組合とはなんなのか」ということを、自分で考えざるをえなかったと思います。中核派と革マル派の党派闘争であるから関係ないといっておれない問題でした。つまり内部の路線的対立だから、組織問題に発展していくもので、このことを組合員は肌で感じていて、労働組合とはどうあるべきか、その上で千葉の場合は正しいのか、組織運営はいいのか、あるいは中央本部のやり方は正しいのか、ということについて考えざるをえません。こういうことを職場で討論してきました。
 もうひとつは、国鉄当局の全面的な合理化攻撃、とくに70年に入って合理化がマル生前後から急ピッチで進み、線路が非常に悪くなるなどという現象が出てきていました。これに対する反合理化・運転保安確立の闘いは、動労全体は革マルも含めて壁にぶちあたって何もできなくなるなかで、動労が伝統的に作りだしてきた順法闘争を動労千葉が創意的工夫をこらして、運転保安闘争という形を作り上げてきました。70年代に全国的にも発展したところが千葉です。逆にこの闘いの積み重ねで合理化攻撃を跳ね返すこともできて
組合員の自信にもつながっていました。
 トータルにいろいろなことをやってきましたが、船橋事故闘争を中心とする反合理化・運転保安闘争の重要性は論を持たないし、革マルとの闘いも今日の動労千葉の組織的団結を作りだしたものとして重要な役割を果たしてきました。特に三里塚闘争は、労農連帯の闘いで、地元でもありますが、直接的には利害のかかわらない闘争です。ストのときには組合員の前で僕は「動労千葉は誇り高き労働組合である、ゼニカネのためにも闘うが、ゼニカネに関係ない闘争
もやるのだ」とアジテーションをよくしてきました。一銭の得にもならない闘争をやることができたのも、今いったことが三位一体でやってきことだろうと思います。

指導部は現場組合員を信頼し、依拠すること

 これは指導部サイドの問題といえますが、目的意識的には、民同労働運動をどう乗り越えていくのかということを常に考えていました。.民同労働運動というのは現場労働者不信といえます。労働者は自分の目先のことだけしかやらない、ゼニカネの問題以外ではあまり立ち上がらないと考えています。たとえばベトナム反戦闘争のときにも、「大幅賃上げ」などの経済的職場的要求に関するスローガンが必ずあって、そのなかの一つとして「ベトナム戦争反対」のスローガンを掲げていました。ある意味ではごまかしてやっているという要素があります。労働者がゼニカネのことでしか立ち上がらないというのであれば、ではプロレタリアートというのはいったい何かということになります。それは違う、指導の問題ではないかと思います。
 また企業内組合だから激しく闘えば分裂するという歴史は確かにありました。厳しい攻撃を受けたときには激しく闘うことになりますが、そのときに必ず分裂するという「悪しき神話」というものがありました。これを何としても打破したいという思いがありました。民同労働運動を克服し、乗り越える労働運動を作りだすという目的意識を持っていて、それを作りだすには船橋事故闘争とか、革マルとの闘いのようなレベルの闘いを労働組合のなかで始めたら、晋通は労働組合のなかは目茶苦茶になります。それを組織的に闘いました。三里塚闘争もそうです。労働者、現場の組合員を信頼することです。言葉でいうのは簡単ですが、トコトンここに依拠する以外にほかにありません。今の国労本部のあり方をみていると痛切に感じます。
 なぜ一〇四七名の国労闘争団に依拠しないのか、現場で国労の旗を守って闘いつづけている組合員に依拠しないのか、と思いたくなりますし、僕は徹底してそういうふうにやってきて、闘いを通して実現したいと思ってきました。
 つまり民同労働運動を克服していきたいということです。民同労働運動ではお先が見えているということがありました。これは目的意識性を持ってやってきました。まだまだ不十分性はありますが一つの地平を切り開いたのではないかと思っています。