ふるさとの四季 信濃の国を歌う 少し昔のアルバム ふるさとの言葉 佐久の語源

中山道の佐久路をたどる    このページでは、江戸から京に向かってゆく

「中山道」で碓氷峠から信濃側の最初の宿場が軽井沢であり、浅間三宿として「軽井沢」「沓掛」「追分」が設けられた。 軽井沢宿は峠の麓のある旧軽井沢だが今の姿は新軽井沢である。

これから「中山道六十九次」のうち、軽井沢宿から芦田宿までの九宿を順を追って少しずつ紹介した行きたいと思っている。

現在「軽井沢宿」「沓掛宿」「追分宿」「小田井宿」
「岩村田宿」を   2008,4,15 追加更新

 軽井沢宿
日本橋からほぼ平坦だった中山道が、碓氷峠で一挙に1000m余の標高差を登る中山道一の難所となる。
頂上には碓氷権現社があるが、それを越えてたどりつくのが信濃最初の宿が軽井沢宿である。

碓氷峠の頂上には、正面に熊野皇大神の額が掲げられた、神社がある。古くから「碓氷権現様」と呼ばれており、日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて霧にまかれた時、八咫烏の道案内により無事嶺に達することが出来、ここに熊野の大神を祀ったと伝えられている。
この神社が信濃の国と上野の国の境界の真上にあるとされ、梁の中央には長野県と群馬県とを分ける線が引かれていた。その左右の神社はそれぞれの国のものとされている。
また碓氷の峰に立った尊は霧に晴れた雲海より海を連想され、往途で海神を鎮めるため入水された弟橘比売命を偲び、「吾嬬者耶」(わが妻は、もはやなし)と嘆かれたといわれている。
ちなみに軽井沢町の隣村は、吾妻郡嬬恋村である。
いま日本武尊が立れたであろう平地までが一望できる位置に 杉浦翠子歌碑がある。

のぼる陽は 浅間の雲をはらいつつ
        天地霊あり あかつきの光
碓氷権現さんの前の中山道を下ると(道は昔と異なるところもあるが)軽井沢宿のはずれにある、軽井沢を広く紹介したイギリス人宣教師ショー氏の記念碑と、氏が宣教師をしていた日本聖公会の前にでる。
道路わきには「馬をさえながむる 雪の朝かな」と刻まれた、芭蕉の句碑があり その情景が目に浮かぶ。
旧軽井沢は新軽井沢になってしまい、昔の面影はほとんどないが、昔は茶屋だったが江戸時代から続く「つるや旅館」が町入口(北端)にある。 街中にも江戸時代には旅籠白木屋だったが、今は写真館として同じ場所で100年の間 営業を続けている土屋写真館がある。ここでは避暑地として変貌してきた、昔の軽井沢を写した貴重な写真が手に入る。
道路は旧軽井沢を過ぎると、軽井沢駅からの三笠通りの広い道路と交差するが、そのまま方向を変えずに進むと、道は別荘のある木立の中を次の沓掛宿へ向う。少し行くと六道の辻があり、右折すると雲場池にでる。 下は江戸時代から300年続いた、上の土屋写真館の前身白木屋の図である。
沓掛宿へ(軽井沢宿概念図) 

 沓掛宿

軽井沢宿と追分宿の中間にある小さな宿場で、草津街道との分岐点でもある。浮世絵にも浅間颪にの中を、雨に打たれて寒そうに行き交う旅人が描かれている。

悲しみのプリンセス和宮様ご降嫁の際の宿所ともなったが、今は中軽井沢と名をかえ、沓掛の名を偲ばせるものは長谷川伸原作の架空の人物「沓掛時次郎」の碑だけとなった。

集落の終り近くに草津への分岐点の道標があり「右くさつ・・」と読める。
正面には旅人の安全を祈ったであろう観世音と思われる仏像が刻まれている、少し行くと旧道は右に入る。
浅間の噴火度重なる大火で、沓掛宿の建造物で残るのは、和宮様が泊まられた本陣の土蔵のみで、上に(本)の字が見える。
  
 追分宿

ここは北国街道と、中山道との分岐点「馬を左右に追い分ける」という意味から地名が生まれたという。

今はその間に、中山道の上を横切る形で国道18号が割って入り、自動車が切れ間なく走り中山道の影は薄い。
沓掛から入った旧道は国道18号に並行しているが、やがて国道に戻るその先に追分の信号機があり、すこし先で右に入ると旧追分宿である。

追分郷土館、芭蕉句碑などがあり、旧脇本陣だった油屋旅館の前に出る、その隣に本陣土屋家があったという。
その旧道が再び合流する地点に、「追分の桝形の茶屋で、ほろりと泣いたがわすらりょか」追分節で歌われた桝形の茶屋津軽屋があり、 桝形とつがるやと塗りこんだ白壁と建物がそのまま残る。

ここには追分宿の京側に入り口に位置するため、江戸側を防備をする街道を直角に2度曲げた枡形が築かれていた。

追分宿に伝わる信濃追分節は追分馬子唄ともいわれ、全国に数多くある追分節や馬子唄の発祥の地と言われている。
ここで中山道は国道と合流、分去れに向かう。
桝形の茶屋をから国道へ出ると、すぐに追分の語源「分去れ」(方言で別れる)にでる。

右は北国街道:善光寺道、左は中山道になるのだが、現在はその分岐点の国道18号が割り込んで、中山道を横切る感じで車が途切れることなく走り、中山道の影は薄くなっている。
中山道は、分去れの碑から上の写真信号機のある道につながる。(自動車の止まっている部分が中山道だった)

上に見える旧中山道と書かれた道標ができた当時、軽井沢にきた女子大生が「一日中山道」と読んだいう話が広がった、面白くするため脚色されたのだと思うが。


 小田井宿
国道と鉄道が通過しなかったため、宿場町の風情が今に残る町並である。
中山道を行き来する大名や旅人たちの大部分は、追分宿に宿泊したが、その混雑と飯盛り女(遊女)が多いのを嫌って、多くの女性が宿泊したため「姫の宿」とも言われた。皇女和宮もここに泊まられた。
小田井宿の入り口には、中山道小田井宿の木柱が立つ。京側から見た入り口で、岩村田宿側にある。 宿場内にはもと旅籠の、旧家大黒屋がある。私の家にも以前あった、大戸とくぐり戸が懐かしい。

旧本陣
安川家住宅 式台、広間、上段の間などが昔のままに残り、本屋の石の屋根棟となだらかな勾配が、笹板葺き屋根だった面影を残す。土蔵の左に立派な門がある。
旧問屋
安川家住宅、問屋には多くの大名などの宿泊も多く、問屋の用心堅固さがうかがわれる作りである。

明治の大合併で御代田村になったが、道路元標が置かれているのは小田井宿が村の中心だったのだろう。今も御代田町で頑張っている。 上の問屋の通用口、昔のままの面影を残している。(左のガスのメーターがなければ江戸時代そのまま)



 皎月原 (こうげつがはら)


皎月原は
小田井宿と岩村田宿の中間のある草原で付近一帯は皎月と呼ばれる。(今は林?)

案内板によると中山道における著名な名勝として知られる。伝説によれば用明天皇(586年)の官女がおとがめを受けて佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は、空へかけ上がり、東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ったそこで官女は「吾は唯人ではない。白山大権現だ」と云って光を放って岩の中へ入ってしまった。その後官女は時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、そのあとにはには草が生えなかったので、其処を皎月の輪と呼ぶ様になったと伝えられている。
 
この伝説を聞いた少年の日の私は、昔の人はそう思ったかしれないが、本当はUHOが着陸したのだ。
巨大なUHOは草原へ着陸し、その推力となる巨大なエネルギーは円盤の外周から放射され、上下左右に移動すると考えるのが妥当だから、馬場に相当するくらいの大きさがあるUHO周辺の土が焼き固められ、草が生えなくなったのだと考えたものだ。
(伝説より現実味がある?また「こーげ」はアイヌ語で草原の意味だという。縄文時代から草原だったのだろう)

今度の政府の大臣の皆さんがUHO談義をされているのを聞いて、少年の日の夢を思い出した。



岩村田宿
大井美濃守により大井城が築かれ、その後兵火にかかり焼失、後に岩村田藩が新設され内藤式部小輔がが藩主となったが、城郭はなく陣屋で執務した。 宿場であるとともに城下町であったため、堅ぐるしい雰囲気が嫌われ泊り客は少なかったという。甲州、善光寺、下仁田にも通じる交通の要所であったが、本陣 脇本陣もなく旅籠屋も八軒と少なかった、しかし鎌倉時代より鼻顔稲荷神社の参詣者が多く、商業地としては繁栄した。

またいつの頃からか鼻顔稲荷の対岸に、遊郭ができており、通ったという古老の話を聞いた、私の中学生の頃にはその雰囲気が残っていたが、今は団地となっている。

渓斎の浮世絵には、岩村田宿と直接関係のない絵が描かれているが、特に見るところもなかったためか。
古図をみると住吉神社の横に枡形が書かれており、そこから道路の中央に宿場には欠くことのできない用水が導入され、宿場の終端(写真の道祖神の並んでいる地点)で落とされている。内藤氏の陣屋は宿場のほぼ中央の東側に入った所に描かれている。

岩村田宿の入口にある住吉神社、樹齢300年といわれるこの大欅は中山道を行き来する旅人を見守ってきた。 少し行くとこれより善光寺道、小諸二里との道標がある。小田井に入らず小諸に向かうと善光寺道と合流する。

道標から岩村田宿の道には、旧道の面影が全くない商店街であるが、この荒町は中山道以前の街道であり、私の中学時代には古い面影を濃く残していたが、今では数軒が残るのみである。 商店街の終わり近く道は直角に右に折れる、少し歩いたここが岩村田宿の終わりで、京側の枡形のあったところだという。この1.5車線の道路が中山道で、塩名田宿に向かう。

岩村田宿のはずれ街道沿いの「相生の松」は一本の松が途中で幹が二本に分かれ、女松には多くの松かさが付き男松の枝には全く付かないという、不思議な松の老樹だったが、今は枯れて新しい松が植えられ、老樹の脇に建てられた天然記念物の標柱が残る。私の中学生の時(60年前)は堂々たる松だったのだが。

岩村田藩ではここに茶屋を立て、旅人に湯茶の接待をし、皇女和宮のご降嫁の際も休息、野点されたという。

「唐崎の松に見せばや かな塚の
    千代ふることの 相生の松」との古歌がある。 

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