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知覧特攻基地

(2000/11/5up) (2002/3/18写真追加)

 昭和16年12月10日、大東亜戦争勃発直後に知覧飛行場が開かれた。同24日には太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開校された。当時の知覧の人々は彼らを歓迎し、大変好意的に受け入れておられた。3年後には特攻基地となり、特攻隊員たちが毎日出撃していかれたのである。町の人々は知覧飛行場と一緒に大東亜戦争を戦っておられたと言える。この当時の雰囲気を鳥浜とめさんの娘さんの礼子さんが「群青」に書いておられるので引用する。

●知覧特攻基地のこと

 (最初の部分一部略)

 翌(昭和)17年1月30日、第10期陸軍少年飛行兵78名の若人が操縦教育を受けるため、南薩鉄道(現在は廃線)の知覧駅に到着しました。彼らは駅頭を埋めた町民から熱狂的な歓迎を受けました。飛行場までの約二キロの道を完全武装で堂々と行進する少年たちの姿を見て、知覧町民は、このようなたのもしい少年たちがいるかぎり、日本は戦争に必ず勝てると思いました。その時、町民と飛行兵との間に断ちきることのできない心のきずなが結ばれたともいえます。
  早速2月4日から95式練習機(複葉機で通称”赤トンボ”)による訓練が始まりました。練習機が飛んでくると、町の人々は農耕の手を休め、また生徒たちは登下校の途中、空を見上げて手を振り、飛行兵たちが励んでいる猛訓練に限りない声援をおくりました。飛行兵もまた機上から、これに答えてくれました。高高度を飛ぶことのない練習機のことですから、その様子は地上から手にとるようによくわかりました。
  このような町民と飛行兵との友情の交換は絶えることなくつづき、知覧小学校の運動会には飛行学校から多くの隊員も参加し、軍楽隊の演奏会には町民や生徒も加わりました。

(中略)

 17年3月8日の分教所開校式には、知覧町民や周辺の市町村民、学生や生徒、官公庁、軍関係者など5万人余の人々が知覧飛行場に集まり、航空隊は編隊飛行、急降下、反転飛行などの高等飛行を披露して参加者を喜ばせました。しかし、それから3年後、この知覧飛行場が別離と哀切の特攻基地になろうなどとは、町民のだれもが夢にも思わないことでした。

(中略)

三角兵舎の内部(復元)
知覧特攻平和会館に再現された三角兵舎の内部

 本土最南端の知覧飛行場には、各地から特攻隊隊員が続々と集結しました。そのなかには、知覧分教所出身の少年飛行兵や学徒出身の特別操縦見習士官の姿もみられました。そして20年3月27日、軍の要請により、私たち知覧高等女学校3年生も隊員たちの身の回りのお世話をするために動員されました。
  4月6日から7日へかけて第一次総攻撃が行なわれ、同12日第二次総攻撃、同16日第三次総攻撃と第十次まで特攻出撃がくりかえされました。その間にも多くの特攻機が知覧から出撃しました。特攻隊員たちは夕暮れの中を、また朝もやをついて知覧飛行場を次々と飛び立ちました。戦争が終わるまで、434機の特攻機が南の空へ消えていきました。

(後半略)

 (「群青」知覧高女なでしこ会編より引用)