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「なぜ特攻に志願したのか」

西田高光中尉

(2000/7/30UP)

(更新/10/22)


●民族の誇り
 戦争当時、海軍報道班員であった山岡荘八氏は海軍の鹿屋基地に配属された。そこで山岡氏は特攻隊員の「闊達さと自由さに時に傍若無人にさえ見えて、その実、接近するほど離れがたい別の美しさ」を感じていた。この底抜けの明るさがなぜ隊員達にあるのかという疑問をいつか解きたいと考えていた。
  彼はこの質問をすることの出来そうな相手を見つけた。それが西田高光中尉であった。西田中尉は入隊以前、昭和17年4月4日から18年9月まで、19歳の若い教師として郷里の国民学校に奉職。68名の教え子に兄と慕われた。そして、その師弟間の文通は飛行科予備学生として海軍入隊後も続いた。20年5月、古畳の上で胡座して、教え子に最後の返事を書いていた西田中尉に、「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなど・・・・・」と質問した。
  西田中尉は、重い口調で、現在ここに来る人々は皆自分から進んで志願した者であることと、もはや動揺期は克服していることを話した。そして最後に
  「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・・・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・・・」
と言われたそうである。

●西田中尉
 西田中尉の出撃の2日前、死装束となる新しい飛行靴が配給された。すると、彼はすぐに部下の片桐一飛曹を呼び出し、「そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ」と言った。いかにも町のアンチャンという感じの片桐一飛曹は顔色を変えて拒んだ。「頂けません。隊長のくつは底がパクパクであります。隊長は出撃される・・・いりません。」すると「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しいくつで闊歩してみたいのをよく知っているぞ」「命令だ。受取れ。おれはな、くつで戦うのでは無いッ」
  彼がパクパクとつまさきの破れた飛行ぐつをはいて、500キロ爆弾と共に大空へ飛び立っていったとき、山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたそうである。

西田中尉の母
 西田中尉出撃の2日後、中尉の母と兄嫁が基地にたずねてきた。 真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したと告げ休息所に案内したが、そこには「西田高光中尉の霊」が祀られ香華がそなえてあった。あわてた山岡の耳元に兄嫁が「母は字が読めません」とささやく。その場を取りつくろったつもりで2人を控室に伴い、お茶が出された時だった。「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」山岡氏はいきなりこん棒でなぐられた気がした。文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母は、丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去った。
  西田家に6男3女あり、三男まで戦死して、「最後の従軍」が発表された頃、西田家にはまだ3つの遺骨箱が並べられていた。中尉の意志を継いで教師となった四男久光氏は、両親を助け葬式を出した。西田家の戦争は終わった。
  久光氏から特別展に中尉の御遺品が送られてきたが、その中に一冊の日記(昭和20年4月25日〜5月21日)があった。
  特攻隊員に選ばれて必死必中の壮挙に就くを本願とする神鷲の心情と、両親、兄弟姉妹、恩師等銘々に別れを記した日記の最後、出撃間前夜と出撃日の項は次の通りである。

西田少佐「あとをたのむ」

(参考、引用:英霊の言乃葉(2)、いざさらば我はみくにの山桜)


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