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最初の特攻

関 行男隊長

(2001/11/18追加)

関行男大尉

 関大尉は敷島隊の隊長として神風特別攻撃隊の先駆けとなった。初めての特攻隊の指揮官はぜひ海軍兵学校出をということに添った人選であった。関大尉の苦悩する姿が記録に残っている。


●神風特別攻撃隊の誕生(玉井副長と関大尉の会話より) (「神風特別攻撃隊」より引用)

” やがてコトリコトリとしずかな足取りが降りてきて、長身の関大尉の姿が士官室にあらわれた。急いだのだろう、カーキ色の第三種軍装を引っかけている。玉井副長に近寄って、

「およびですか?」

と聞いた。玉井副長はすぐそばの椅子をかれにすすめ、もの音の絶えた夜気の静けさのなかに、われわれはむかいあった。

 玉井副長は、隣にすわった関大尉の肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、

「関、きょう長官がじきじき当隊にこられたのは、『捷号』作戦を成功させるために、零戦に250キロの爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい、という計画をはかられるためだったのだ。これは貴様もうすうす知っていることだろうとは思うが、・・・・・ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」

 と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でおさえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。−−−−1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・・・・・・・

と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。

「ぜひ、私にやらせてください」

すこしのよどみもない明瞭な口調であった。

玉井中佐も、ただ一言、

「そうか!」と答えて、じっと関大尉の顔を見つめた。 ”

 その後、上記文章の作者である猪口大佐、玉井中佐、関大尉の3人が今後のことを語り合った。この時、猪口大佐は玉井副長に隊の名前を「神風隊(しんぷうたい)というのはどうだろう?」と提案し、「それはいい、これで神風をおこさなくちゃならんからなあ!」と言下に賛成した。

 そして、猪口大佐は大西中将に報告した。その際、大西中将は「うむ」と力強くうなづいた。昭和19年10月20日の午前1時が過ぎていた。こうして「神風特別攻撃隊」が誕生したのであった。

 兵学校出の関大尉は軍人精神をたたき込まれており、特攻隊の隊長を受けることを諒解したものと考える。私はこの関大尉も本当の関大尉であると考えている。しかし、当然ながら関大尉も一人の人間である。一人の人間としては本当はどのように感じていたであろうか。

 当時の関大尉は新婚で、満里子さんという新妻がいた。また、母のサカエさんは四国の西条で一人暮らしていた。この二人のことを考えないはずはない。玉井中佐から話を受けたとき、一瞬にして彼自身の人生と後に残すことになる二人のことを考えたであろう。考えた上で、彼は戦士としてすべての私的立場をなげうち、特攻を自らにやらせて欲しいと申し出たのである。

 しかしながら、関大尉の苦悩は次のように記録されている。

●同盟通信特派員 小野田政と関大尉の会話記録 (「ドキュメント神風」より引用)

 数日間下痢に悩んでいた関は、その日の夕方、マバラカット基地バンバン川の土手で同盟通信特派員の小野田政に会った。関の話しぶりは、特攻攻撃のやり方全般について、それほど気乗りしていない様子であった。関はこう語った。

 「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA[妻のこと、海軍士官の隠語−訳注]のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」

●関大尉の御遺書 (2001/11/18up)

 関大尉に関しては様々な本が出版されている。最近では城山三郎氏の「指揮官達の特攻」という本がベストセラーになっている。ただし、私にはこの本に描かれている関大尉は、本当の関大尉とはかなりかけ離れているように感じられる。「関大尉を知っていますか」という外国人の女性による本の方が実際の関大尉と当時の人々の気持ちを的確に表現している。

 その一端をご覧になっていただくためにも関大尉の御遺書をぜひご覧になっていただきたい。

関大尉の遺書