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最初の特攻
(更新/2003/5/12)

 特攻隊の編成から出撃について、ホームページ開設時から出来るだけ正確な情報をご提供したいと考えていた。不明な点が多く、なかなかしっかりとした情報として掲載できていなかったが、最近、参考文献の突合せもかなり整い、少しずつではあるが充実していけるような状況になった。以前の間違いも訂正しながらこのテーマを充実していくこととする。


●背景
 最初の特攻隊出撃はフィリピンのレイテ湾での戦いであった。ミッドウェー海戦以降の日本軍は大東亜戦争初期の勢いは無く、豊富な物資と強大な工業力をもつ米軍に徐々に追い詰められていった。そんな中昭和19年6月15日、本土防衛の為の重要拠点であったサイパン島が米軍に攻略された。これによりB29による本土爆撃が可能となった。
 米軍はサイパン陥落の後、マッカーサーの約束の地であるフィリピンを攻略し、日本本土攻撃の足がかりにしようとしていた。フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であり、大本営も米軍がここの獲得に動くことを予測していた。
フィリピン地図
フィリピン地図

●捷1号作戦
 昭和19年10月17日、米軍はレイテ湾口のスルアン島に上陸を開始した。 翌18日に大本営はフィリピン防衛の為の作戦「捷1号作戦」を発令した。この作戦ではボルネオ島ブルネイで補給を済ませた栗田艦隊がレイテ湾に突入し、米軍攻略部隊を撃滅するという計画になっていた。他に米艦隊をひきつける囮として小沢艦隊、遊撃隊として西村艦隊、志摩艦隊も参戦。そして、基地航空部隊である第一航空艦隊も作戦を支援するという目的で戦列に加わっていた。
 しかし、第一航空艦隊の当時の戦力は、零戦34、偵察機1、天山3、一式陸攻1、銀河2の合計約40機しかなかった。遊撃隊が米攻略部隊を撃破するためには、なんとしても米機動部隊の動きを抑えるしかなかった。その役目を第一航空艦隊が担っていたのであったが、これだけの戦力では通常の作戦ではどうしようもないということは明らかと思われた。
 実は、この第一航空艦隊こそが最初の神風特別攻撃隊を編成した隊であったのである。そして、第一航空艦隊の司令長官は特攻の生みの親といわれた大西瀧治郎中将であったのである。
 

●神風特別攻撃隊の編成
 大西中将は昭和19年10月17日マニラに赴任した。19日午後にマバラカット飛行場に出向いた。そして、このマバラカット飛行場の第201海軍航空隊本部において歴史的な会議が行われたのである。
 大西中将は遂に、 米軍空母を1週間位使用不能にし、捷1号作戦を成功させるために「零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うがどんなものだろう?」と体当り攻撃を部下達に提案した。
 回答をすべき立場であった201空副長の玉井中佐は、責任者の山本司令が不在のため、自分だけでは決められないと大西中将に話した。しかし、大西中将は既に山本司令からは了解を得ており、そのことを玉井中佐に伝えた。玉井中佐は考える時間が欲しいと指宿大尉と共に会議の席を中座し、二人で話し合いを行った。人一倍温厚謙虚と言われた玉井副長であったが、戦況を考えるに体当り攻撃しか方法はないと決心した。そして、それを大西中将に伝えたのである。
 ここに特別攻撃隊の編成が正式に決定された。
玉井中佐は自らが手塩にかけて教育訓練を行ってきた、第10期甲種飛行予科練習生出身の搭乗員23名に相談した。この時、全員が両手を上げてこの作戦に賛成した。当時の戦況、そして搭乗員の士気というのはそのようなものであった。詳細については別のページで触れたい。
  指揮官には海兵70期の関行男大尉が指名された。深夜、玉井副長から関大尉は呼び出された。関大尉は玉井副長から指揮官について相談された。関大尉は10秒前後、目をつむってうつむき、考えていた。最期に、「是非、私にやらせてください」と言った。ここで、最初の特攻隊である24名が決定した。この隊名を神風特別攻撃隊と命名し、その下に本居宣長の大和魂について詠じた、

「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」
より、4つの部隊にそれぞれ隊名を選択し、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名付けられた。