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神風特攻隊はフィリピンで英雄だった

(2001/1/28up)

現地の「神風特別攻撃隊慰霊祭」で目撃した
「日本軍−もうひとつの真実」

ジャーナリスト 井上和彦氏

サピオ紙面

「意外な慰霊祭がフィリピンで執り行われた。『神風特別攻撃隊慰霊祭』。神風特攻隊が初めて飛び立ったフィリピン・パンパンガ州マバラカットを始めとする3カ所で行われた日本兵への慰霊祭で発見した、フィリピン人の意外な日本人観を気鋭のジャーナリストがレポートする。」

ルソン島地図 濛々と立ちあがる砂埃と共に、日章旗とフィリピン国旗を握り締めた子供達の一団が押し寄せてきた。子供達は、バンバン村を去ろうとする、我々日本人一行に大歓声を上げて「日の丸」を振りつづけるのだった・・・。
  平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。私は、その3か所すべてをl日で回って歩いたのだが、フィリビンの子供達が会場を去る我々日本人訪問団に日章旗を振ってくれたのは、そのうちのバンバン村でのことだった。東南アジアの国々から、常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる我々日本人にしてみれぱ、かなり意外で嬉しいハブニングであった・・・。

「なぜ日本が戦争に至ったかよくわかる」

 慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、首都マニラの北方約80kmに位置し、戦時中には、日本の「神風特攻隊」の飛行基地があった。最初の神風特攻隊がマバラカット飛行場から出撃して56年目にあたるこの日の慰霊祭は、鹿児島県・最福寺の住職・池口恵観氏〈63)らによって執り行なわれた。熱帯の強い日差しが照りつける会場には、池口住職の読経が流れ、あたりは厳粛な雰囲気に包まれた。
  この慰霊祭には、特攻隊員の遺族ら日本からの参加者に混じって、フィリピン空軍将校やアメリカ人らも参列し、特攻攻撃で戦死した日本軍人に鎮魂の祈りが捧げられたのである。

慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった
慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった

 慰霊祭の取材にやってきたフィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリグ氏(25)は語る。「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は尊敬すべき”英雄”だと思います。またカミカゼ・アタックを決断した大西瀧治郎中将も本物の”武士”です」
  フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な『軍艦マーチ』が、マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぷった。
  かつて大東亜戦争の”天王山”とまでいわれたフィリピン決戦。
  圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に、反撃を試みる日本軍に残された手段は、もはや250kgの爆弾を抱えて敵艦に体当たりする特攻攻撃しか残されてい なかった。
  昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
  この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、連合軍将兵を震えあがらせた。
  こうした神風特攻隊も戦後の日本では”戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。
  ところが、”カミカゼ”を生んだフィリピンではその捉え方がまっ たく違っていた・・・。
  式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯(70)は静かに語る。「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。・・・こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」
  1974年(昭和49年)、特攻隊の生き様に感動したディゾン画伯は、神風特攻隊慰霊碑の建立を思い立ち、マバラカット市長に進言した。そして画伯が感銘を受けた『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)・猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたのだ。
  しかし、残念ながらこの慰霊碑は、先のピナツボ火山の噴火によって喪失してしまったのである。Kamikaze Memorial Society of Philippines(フィリビン・カミカゼ記念協会)の会長を務めるディゾン画伯の自宅には、自らの手になる「敷島隊」

ディゾン画伯
ピナツボ火山の噴火で埋もれてしまったが、特攻隊飛行場跡の慰霊碑建立に奔走したディゾン画伯(肖像画は画伯の手になる特攻隊員のもの。左上が関行男大尉)

の5人(関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野盤雄一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)の肖像画を掲げた、「カミカゼ・ミュージアム」が設けられている。
  肖像画の前に立ったディゾン画伯は、「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理申も理解できたのです」
  私の方に向きなおった画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう」
  そしてディゾン画伯は、両手を固く結んで私に託すのだった。
 「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
  東南アジア諸国の中でも「反日的」と思われがちなフィリピンで、こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。
  さらに、私にはディゾン画伯の、「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですょ」という言葉が耳について離れない。
  この”疑問符”を取り払ってくれたのは、地元通訳のマリオ・ピネダ氏(73)の証言だった。
 「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ぱせてもらえなかった。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」

「軍艦マーチ」を演奏するフィリピン空軍軍楽隊
慰霊祭でフィリピン空軍軍楽隊が演奏したのは、なんと「軍艦マーチ」だった。

  ”自由””民主主義”というアメリカン・イデオロギーだけでなく、あらゆる”メイド・イン・USA”を世界一と驕るアメリカは、植民地フィリピンに対して愚民化政策を行なっていたというのだ。
  そしてピネダ氏は、「フィリピンは今でもアメリカのパペットレジーン(操り人形)ですよ」と呟き、苦笑いを浮かべた。
  ディゾン画伯と同じく、ピネダ氏もまた”白人対有色人種”という意外な視点で歴史を見つめていたのである。
  アジア人でありながらその多くがスペイン風の名前を持ち、かつては英語を強要されたフィリピン人なればこそ、こうした地球大の尺度を持てるのだろう。
  これまでフィリピンが”親米反日的”と思われてきたのは、大東亜戦争でこの地が日米両軍の決戦場となったからにほかならない。日本軍はこの地で約50万人(全戦没者の約4分のl)の将兵を失ったが、戦場となったフィリピンの人々は一般市民を含むl80万人が犠牲となった。
  ところが、こうしたフィリピン人犠牲者の多くは、アメリカ軍の無差別爆撃や艦砲射撃によるものだったのである。むろん、この事実を地元の人々が知らないわけがない。
  日本人にとってのこうした”初耳”は、数え上げれぱ枚挙にいとまがない。
  例えぱ、米比軍捕虜を約60kmにわたり歩かせたという「バターン死の行進」。これは、一般に日本の「蛮行」といわれている。だが、ある地元民は私にこう語った。「実は、日本軍は、米比軍捕虜をサンフェルナンドからカパスまで汽車で護送しています。捕虜達を虐待するために歩かせたように言 われるが、そんなことはない」

バンバン村の子供達が日章旗を振って見送り
バンバン村の子供達は、村を去る日本人慰霊団を日章旗を振って見送った。

また日米の攻防戦が繰り広げられたサマット山頂の博物館には、 日本軍が地元住民に医療処置を施し、友好的な交流があった事実を物語る写真が堂々と掲げられてもいる。
  在比邦人何けテレビ局「WINSチヤンネル」のキャスターでウインズ・インターナショナルの社長・水島総氏(51)は、このあたりについて次のように説明する。「フィリピン人は日本で伝えられているような”反日”などではなく、むしろ親日的ですよ・・・。フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりも”リアリスト”です。戦争があれぱ多少なりとも悲劇はあると、現実的な考え方をしています。ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません」
  異民族の侵略を受けつづけたフィリピン人の痛覚は、ダイナミックな歴史観と確固たる愛国心を生んだ。そしてそんな土壌にこそ”英雄”を敬う気風が育まれたに違いない。事実、この国の国歌にも「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」という一節がある。だからこそフィリピンの人々は、国を守るために生命をかけた神風特攻隊を”英雄”と称えるのだろう。
  外国人の日本人観に多大な影響を与え、大東亜戦争における日本の精神的象徴ともいえる神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ、そしてその勇気が称賛されている。 我々日本人はこうした現実も、認識する必要がありはしないか。

「カミカゼ・パイロットはヒーローです」

 同じ10月25日、タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。
  この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。そして、冒頭に記したように、帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんぱかりに打ち振って見送ってくれたのである。日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。

神風パイロットはヒーローと言い切る女子学生達
「カミカゼ・パイロットはヒーロー」と言い切る女子学生達

子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。
「Brave!」(勇敢)
その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています・・・・」
  引率の男性教師は、「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と話る。
 私は学生達にもう一度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」
  屈託のない笑顔で皆は答えた。
「もちろんです!だってあの人達はヒーローですもの・・・・」

SAPIO(小学館)2000年12月20日号「PHOTO & REPORT 神風特攻隊はフィリピンで英雄だった/井上和彦氏」より引用
なお、小学館、井上和彦氏より文章・写真の使用許可をいただいております。感謝申し上げます


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