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         丹波佐吉「石仏」編               奈良から発信  Coma-たんさく人
                                              
                                         
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幕末期の日本の石工が到達したぎりぎりの限界の役行者像


丹波佐吉 「石仏」に生涯を捧げる


● 「丹波佐吉石仏」考 Ⅰ ●
    2014、4、8  Coma-たんさく人   M ・ K




 
  江戸時代末期の名石工

     
「丹波佐吉石仏」考 Ⅰ

oma-たんさく人  M・K


●「佐吉の石仏」と「観音山西国
33所観音石仏(三重県亀山市関)」について

◆3点目の「源」銘を、この観音山29番石仏に刻む◆


  丹波の佐吉は、「狛犬を彫る」よりも、「石仏を彫る」ことに生涯を捧げたのではないか。
単純に作数で考えると、石仏計61体(推定を含めると64体以上?)、 狛犬計20体(現存18体)で、3倍以上の数である。


◆幕末期の日本の石工が到達したぎりぎりの限界の役行者像(舎利尊勝寺)◆

― 金森敦子氏 ―


   佐吉の石仏の最高傑作の頂点は、大阪舎利尊勝寺役行者像である。
幕末期の日本の石工が到達したぎりぎりの限界がこの役行者像だといってもよい(―金森氏―)。

しかし、どうしても以前から心にひっかかっていた「大師山石仏19番地蔵像」から「舎利尊勝寺石仏」へと結びつかない不自然さがあった。あまりにも直球しすぎる矛盾?があり、彫る技はそう簡単に習得できる、磨けるものでないことはすぐ判る。

1855年法正寺地蔵完成までは、計24体で、そのうち弘法大師座像の15体が含まれている(精巧な技はあまりみられない)ので、実際は10体ほどで精巧な技を磨いていたにほかならない。それが、舎利尊勝寺石仏(―実数の59・60体目―)へどうしても結びつかなかった。

なぜ?が、今回「観音山石仏」を実見し、詳しく観察した結果、この疑問が解けてきた。この「観音山石仏群」は、安政元年1854年から3年間の歳月をかけて制作されたといわれている(―完成は1862年であろう―)。

中でも「11番上醍醐寺准胝(じゅんてい)観音」と「29番松尾寺馬頭観音」の2石仏は、特に気になる石仏である。

少し概略してみる。

准胝(じゅんてい)観音は、日本では作例が非常に少ない観音菩薩である。その11番石仏は、台座に紀年銘「文久二戊年□作師照信花押」(1862年)と刻まれ、石仏群の中で確認できる年号はこれだけである。これを考えると、石仏群の集大成の記念として、「准胝観音石仏」を多くの時間を費やして彫りあげたのかもしれない。五寸三分の狂気(―金森敦子氏―大師山19番地蔵―)といわれている佐吉の技が、この観音山で石仏を極限近くまで彫るにいたったのであろうと十分推察される。33体中、28体が佐吉の作であり、全てにわたり手を抜いていない。複雑な色々な光背(火炎、舟形、二重円、放射、等々)、台座(蓮華座、岩座、等々)、蓮華(れんげ)、羂索(けんさく)、錫杖(しゃくじょう)等といった持物(じぶつ)に至るまで一つ一つ彫りきっている。様々な観音像(仏像)の基本は熟知しているし、33札所本寺の個々「本尊」「お前立ち像」の特徴も知りつくした上での彫り・造りであることに間違いない。

「16番清水寺千手観音」は、他の千手観音と異なり、42本の手(腕)の中で、2本を頭上にかざして化仏(けぶつ)を支える珍しい形であること知ったうえでそのように石仏を仕上げている。准胝観音像は普通合掌しない観音であるといわれているが、ごく稀にある合掌の形で、「10番三室戸寺観音像」は二臂(腕が2本)でありながら千手観音といわれている通りに、それぞれ彫りあげている。


■次に、「29番松尾寺馬頭観音石仏」である。
  


怒りの形相・火炎光背などで馴染みが深い「不動明王」が、大師山石仏群の中心になる「仏」として、どっしりとした基壇をもつ総供養塔の一段高い石祠に座して周りを見据えて大師山霊場を守っている(総供養塔、全て佐吉一人で彫った)。一方、同じように観音山霊場の中心「仏」として、佐吉は「馬頭明王」と呼ぶこともある「馬頭観音」を特別に選んだ。迫力満点のあの怒りの形相(三面)の造り・手の込んだ火炎などを彫りあげ、佐吉独自のスタイルの脚付台座まで手を抜くことなく正面は牡丹唐草模様を薄肉レリーフでもって丁寧に仕上げている。(模様の実見できる他の石仏台座もそれなりにレリーフは彫ってあるが、丁寧さに差がある・・・・・・)。 佐吉は「傑作石仏」を彫り終えたことでもって、銘「作師 源照信 花押」と刻む。この石仏だけ「源」銘である。特別な「石仏」である。自分の技を極めた観音石仏(群?)であるとの自負がある。だからこそ、佐吉のこれまでの全石造物で、3点目の「源」銘を使った。1・2点目は、あの故郷の丹波・柏原の「石狐像・北山稲荷神社(1858年)」と「狛犬―最高傑作―柏原八幡神社(1861年)」である。「仏を彫る」ことの技の充実感で、この「29番馬頭観音」石仏(あるいは、石仏群全体を指す?)を彫り造り終えた時の佐吉の特別な「心」が読み取れる。


  ところで、「堅く、力に満ちて、そしてあくまでも静かな狛犬・柏原八幡(―金森氏―)」は、文久元年(1861年)に完成し、その後まる三年の間は佐吉の足取りが消えてしまっている(-金森氏著書でー)と書いているが、すぐに故郷をあとにして関(観音山石仏現場)をめざしたのである。まさしくこの八幡神社狛犬完成年前後数年間はほとんど一人黙々と「関・観音山」で石仏を彫り続けていたに違いない。故郷での最高傑作狛犬を完成させたにもかかわらず、その充実感にゆっくりと浸る時間などないくらいに佐吉は忙しかった。その1年後に
「紀年」銘のある11番上醍醐寺観音石仏を造り終えている。

以前の大師山石仏現場で「石仏などのきめ細かい細工が必要になってくると、どうしてもひとつ切れが悪くなる(―金森氏―)」ところがあると一つの不安があった佐吉は、和泉砂岩で「全ての石仏を」との思いを強く持ちながら、日々平井・大師山の地で過ごしていた。その間に色々と石仏を彫り続けている。

 全ての石仏を年表的にまとめてみる。   

※ 詳細石仏制作年表PDF版参考 ※ 改訂版 m51-skchi-kannon-nen01.pdf へのリンク 


  ①「石仏」制作前期(1850年代前半まで)(佐吉――1885年で40才)まで、
    石仏を整理すると以下のようになります。

大師像15体、 地蔵立像、 長谷寺式観音、 ヒナ女人石仏、

総供養塔不動明王(1852年)、 19番地蔵像(1853年)、

大燈寺聖観音(1853年)、 善光寺三尊石仏、 法正寺地蔵(1855年)、 

徳源寺布袋像、

以上計24体を彫っている。 ほとんどが奈良の宇陀平井の地である。佐吉1855年で40才。

「石仏」制作後期(1850年代後半~ )は、奈良各地、三重、大阪である。

   松尾寺境内千手観音(1856年大和郡山市)、 明日香道標4小石仏(1858年)、

   観音山石仏―28体(1862年三重県亀山市関)、 

   役の行者像(奈良・橿原市小槻町 道標)

   舎利尊勝寺役の行者像(大阪市)、

   舎利尊勝寺11番上醍醐寺准胝観音像(1864年大阪市)

   不動明王(―上山家―)(1866年丹波市大新屋)

 計37体である。佐吉、1866年で51才。


  一方、「狛犬」の数と技をみてみると、「石仏制作前期」に、優れた作である川上神社・神楽岡神社・宇太水分神社狛犬を彫り、この「前期」で佐吉独自の狛犬スタイルを確立したと思う。しかし作数は八王子狛犬を含めても4点のみである。

逆に「石仏制作後期」期の狛犬は、久米神社狛犬(1855年)から16点もあるが、大雑把に言えば「技・スタイル」の点からはあまり飛躍していないと思う。(もちろん故郷の八幡狛犬は特別である。又、摩気神社(京都)・天神社(近江)の一味違った独自スタイルもあるが・・・・・?)。


  これらのことから推察するとこの時期は、時間を関・観音山石仏に全精力を傾けなければならなかった時期である。研ぎ澄まされる技(心)の向上は、当然石仏作数にあると直感的に「石仏制作前期」で感じとっただろうから、本格的に一人で全ての西国33所観音像(仏)を、1854年ごろから彫る決心をし、「仏・石と対話」し続けていたに違いない。


あの舎利尊勝寺石仏は、この28体観音山石仏制作の「激しい情熱」が生んだ最後の最後の作であったに違いない。


大師山・不動明王、観音山・馬頭観音の怒りの形相は、「石の尺八」を彫ったプライドからの飛翔であると共に、今までの人間佐吉・石工として、生涯をかけてとりくんできた石造物=石仏の集大成にしたかったと思うし、「激しい情熱」は、「石仏制作後期」に佐吉が最も望んだことかもしれない。

                           2014、04、08    Coma—たんさく人  M・K



  ※金森敦子著「旅の石工 丹波佐吉の生涯」 法政大学出版局 1988、9、20 昭和63年 

  ※主要参考文献・・・・・今までこのHPで掲載した文献です。



◆追記◆


  ※三重県亀山市関--------関宿(せきじゅく)は、江戸時代、東海道五十三次の47番目の宿場として賑わう。

 古代から交通の要衝。、この「宿」から滋賀・京都方面への宿場町へと続きます。また、この「関宿」を分岐点として、京都方面からの伊勢参宮旅人は、南方面への「伊勢別街道(伊勢への短距離道)」を通り参宮する。西方向の大坂・大和からの参宮旅人は、大和街道を通り、この「関宿」へ至り、ここから「伊勢別街道」を通り参宮します。ですから、西・北・東3方面から多くの旅人が集まり大変にぎわっていた町である。


 観音山は、江戸時代初期に、沙門照遍(さもんしょうへん)という僧が浄財を募り山腹に観音堂を建立し、十一面観音像を安置したことにより、この山の名前がつけられたと伝えられている。


 このにぎわっていた「関宿」観音山に、西国
33所観音巡り霊場をその地域の「観音講」の人々の寄進により、石仏の安置が計画された。その石仏の石工に、佐吉が選ばれた。またとない生涯に一度あるかないかの大仕事で喜びもあったが、反面その地域の人々に、あるいは多くの旅人にうけいれられるかどうかの厳しさもあり、不安もあっただろうと思う。平井・大師山四国
88所霊場とは比べものがない程の「仏」を彫る「技・心の厳しさ」が頭に浮かんだと思う。佐吉40才代前半から彫り始め(?)、40才代後半に完成。