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『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?

ふじわらのたかふじ みやじのつらこ(たまこ)
藤原高藤 宮道列子 のロマンス



 『源氏物語』において、桐壺帝の皇子として生まれた光源氏と受領階級出身である明石の君は明石(兵庫県)で結ばれ、光源氏が帰京してのち明石の君は明石の姫君を産みます。

 やがて光源氏の手元にひきとられた明石の姫君は東宮(とうぐう=皇太子)の妃として入内し、第一皇子を出産。やがて夫の東宮は帝として即位。明石の姫君が産んだ第一皇子が新たな東宮に立ち、明石の姫君自身は女御から中宮になるのでした。

 このことにより、光源氏は権力が増大します。

 帝と明石の中宮との関係は良好で四人の皇子と一人の皇女に恵まれます。


 光源氏明石の君との身分違いの恋は、『今昔物語集』に描かれている藤原高藤(ふじわらのたかふじ)と宮道列子(みやじのつらこ・たまこ・れっし)の恋がモデルになっているという説があるそうです。

 藤原高藤は、藤原北家の嫡流・藤原冬嗣の孫。
 宮道列子は、山城国宇治郡(ぐん)大領(たいりょう=長官)である宮道弥益(みやじのいやます)の娘でした。

※ふたりのロマンスについては後述します。

 高藤と列子は身分の差が大きいものの山科で結ばれ、高藤が列子と会えない間に胤子(たねこ・いんし)という娘が誕生します。
 胤子宇多天皇の妻となりのちの醍醐天皇をもうけます。

 宇多天皇胤子の間には、のちの醍醐天皇をふくめた四人の皇子と一人の皇女に恵まれました。


 以下の系図をご覧下さい。



『源氏物語』光源氏と明石の君 系図 実在した藤原高藤と宮道列子 系図
『源氏物語』光源氏と明石の君 系図 藤原高藤と宮道列子



『源氏物語』 実在した人物 類似点
光源氏 藤原高藤 上流貴族 天皇(東宮)の外祖父となり出世
明石の君 宮道列子 地方の権力者の娘 天皇(東宮)の外祖母となる
明石の中宮 藤原胤子 母の身分は低いものの天皇のキサキとなる。
次代の天皇となる第一皇子を出産。天皇の母となる。



『今昔物語集』 巻第二十二 本朝
 高藤の内大臣の語(たかふじのないだいじんのかたり)より

【あらすじ】

 藤原冬嗣の孫で良門の子である藤原高藤は「鷹狩」を好んでいました。
 高藤が15〜16歳の頃の秋、京から北山科へ鷹狩に行っていたところ、にわか雨と雷鳴に見舞われました。

 風雨を避けるために一夜の宿をかりたのが、宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅でした。高藤は歓待され、13歳〜14歳くらいの美しく愛らしい少女に出会います。
 高藤は、将来を約束し少女と一夜を共にするのでした。

 朝になり、高藤は腰につけていた太刀を形見として置き、決して少女が他の男と結婚しないよう、後ろ髪をひかれる思いで言い置きます。この少女が宮道弥益の娘・列子でした。

 京に戻った高藤は、父から遠出を禁じられます。列子を恋しく思い、妻をめとらず、北山科を訪ねることができないまま6年ほどが経ちました。

 機会を得て、再び高藤が宮道弥益邸を訪ねてみると、成長した列子と列子のそばに5〜6歳ほどのかわいらしい女の子がいました。それは一夜の契りで授かった高藤と列子の娘だったのでした。

 枕元をみると、高藤が置いた太刀がそのままにありました。

 高藤から見れば、列子ははるか下流階級の者の娘ではありますが、列子との縁は前世の契りが深かったからに違いないと思い、高藤は京に宮道列子と娘の胤子を迎えます。

 胤子は宇多天皇の女御となり、のちの醍醐天皇を産みました。

 醍醐天皇の即位にあたって、祖父である高藤は大納言から内大臣になります。

 高藤と列子が出会った宮道弥益の邸宅は寺に改められました。これが現在の勧修寺です。

 宮道弥益の妻によって勧修寺の東の山側に大宅寺(おおやげでら)が建立されました。

 醍醐天皇は勧修寺<宮道弥益邸宅跡>のあたりに思いを寄せられたことから、近くに陵があるということです。





 上記の“物語”は完全な事実に基づくものではなく、宮道弥益の実際の身分や藤原高藤と宮道列子の婚姻時期など不確かではあります。

 しかしながら、ふたりの娘である藤原胤子が醍醐天皇の生母となったことで、藤原高藤の一族は繁栄しました。
 列子との間に生まれた次男・藤原定方は右大臣に至り「三条右大臣」の名で歌人としても知られます。


 2009年春、勧修寺を中心に藤原高藤と宮道列子ゆかりの地を訪ねました。

 山科のロマンスの地をご案内します。(*^ー^)/


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