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2005年12月24日(土)

クロスマスイブ

 1.

「あの、お客さん」。呼び止められた映里が振り返ると、サンタクロースが福引の抽選券を差し出しているのだった。「これ、1回どうぞ」。プレゼントが抽選券1枚とはなんともセコいサンタクロースだが、もちろん彼は本物のサンタクロースではなく、サンタクロースの扮装をした薬局の店員だ。「メリークリスマス」。サンタクロースは、照れ笑いとも泣き顔とも見分けがつかない表情で、そう言った。

映里は歩きながらため息をついた。クリスマスイブの夕方、若い女がひとり大掃除用の洗剤を買って家に帰るのって、そんなに不憫に見えるのか。お買い上げ千円ごとに1枚。薬局のある商店街で開催されている歳末福引大会の抽選券は、映里が買った洗剤1本では本来もらえないはずだった。薬局の店員に同情される私って…。でも、と映里は思う。他人にどう見えようと、私は別にかわいそうじゃないし、寂しくもない。今日私がひとりでいることは、私が望んだことだから。望んだ?本当にそうだろうか。私が望んだのは、こんな毎日を、こんな気持ちで過ごすことだったんだろうか。

けたたましい鐘の音で映里は我に返った。「やったね、おねえちゃん、特賞だよ!」。はっぴを着た中年の男が鐘を振りながら大声を上げ、周りの買い物客の視線が映里に集中する。わー、いいわね、いいなあ。人々は声をあげ、抽選会場はちょっとした騒ぎである。え、何?映里はわけがわからなかった。はっぴの男が、これは来年のワールドカップの何々で、などと説明するものの動転して事態が飲み込めず、ワールドカップ?え、観戦ツアーが当たっちゃったの?どうしよう、ドイツ?有給取らなきゃ、と慌てる映里に渡されたのは、真新しいサッカーボールった。

特賞がサッカーボール一個って、どういうこと?自宅の床に置かれたサッカーボールと向き合うように座り、映里は考えていた。せいぜい四等か五等くらいじゃないの?はっぴの男や周りの人がなぜあんなに喜びうらやましがっていたのか、さっぱり理解できない。このボールが来年のワールドカップで使われる新しいボールであることは、映里もテレビで見て知っている。だからといって特賞の価値があるだろうか。

「でも」
声に出して言い、ボールを抱えて床にあお向けに寝転がる。映里は少なくともひとり、このサッカーボールをもらって嬉しがるだろう男を知っている。来年のワールドカップを一緒に観に行こうと約束したその人とはしかし、今はもう、会っていない。映里が、そう望んだから。

寝転がったまま両手でボールを持ち上げ、そっとおでこに当ててみる。つるつると冷たい感触が伝わる。そのまま目を閉じてみると、両手とおでこで感じるその丸い物体は、過去のいつかの自分から、今日の自分に突きつけられた問いのようなものに思われた。

私が望んだことって?私が望むことって?

映里は分かった。その答えは、もうずっと前から私の中にあったのだ。ただそれを引き出す問いと向き合うことを、私は今日まで避けていたのだと。

 

 2.

クリスマスイブの前夜、早川家のダイニングでは、息子の駿を寝かしつけた後、父親と母親のふたりによる緊急家族会議が開かれていた。

「ダメだな。今年の練習はもう終わってて会いに行くのは無理だ。チームにも電話してみたけど、そういうのはお断りしてますって。オークションは、どうだ?」
「ダメね、見当たらない。それに今から落札したんじゃ、もう間に合わないわよ」
「そうだよな。困ったな…」

駿が生まれてから去年までの9回、毎年クリスマスイブの夜には早川家にサンタクロースがやってきて、寝ている駿の枕元にプレゼントを置いていった。もちろんその正体は両親なのだが、駿は疑いもせず、サンタクロースのプレゼントに毎年大喜びだった。ただ、そんな駿もここ数年は少しずつサンタクロースの存在を疑いはじめているようだ。小学校には、サンタクロースなどいない、プレゼントをくれるのは両親だと話して聞かせる友だちもいるのだろう。学校から帰るなり、サンタクロースってお父さんなの?と言い出し母親を慌てさせたりもした。その場は母親がうまくごまかしたものの、そのせいか今年は両親に欲しい物をなかなか教えてはくれず、そしてようやくイブの前日に発見されたサンタさんへのお手紙(それは駿の枕の下で発見された)で明らかになったそのリクエストに、両親は悩まされているのだった。
「かじさんのサインをください」

まあとりあえず、と父親はため息まじりに言った。
「明日スポーツショップで代表のユニフォーム買ってくるよ。背中にKAJIって入ったやつ。だからお前、一応、練習しておいてくれ」
「してるわよ。でもね…夢を与えるためとはいえ、嘘をつくのって、どうなのかしら。私が書いたって知ったらきっと、悲しむわよ」
傍らのメモ用紙に筆記体でK、a、j、i、と何度も書きながら、母親は答えた。
「それを言ったらお前、サンタクロースが来たってこと自体嘘なんだからさ…」
それもそうだけど。母親の右手は別の生き物のように動き続け、深夜のダイニングにペンの音を響かせている。
「しかしさ、よりによってなんであこがれの対象が加地なのかね。駿だからシュンスケとか、そうじゃなくても他にいるだろ。学校で流行ってるのか、加地?」
手を止めた母親が顔をあげ、あきれたような表情で首を横に振る。
「駿、学校でもからかわれてるみたいよ、加地なんて下手くそじゃないか、って。それでもなぜか、好きなのよね。加地さん加地さんって夢中だもの。公園じゃドリブルもシュートもしないで、クロスばっかり練習してるわよ」
メモ用紙を埋め尽くしたKajiの文字。
「ふーん。ま、三都主にあこがれて転ぶ演技の練習してるよりはいいけどな…」

「ねえママ、祐くんがね、マンションに煙突がないんだからサンタさんなんか来るわけないって。やっぱりサンタさんいないのかな…」
キッチンで夕食の準備をする母親のエプロンを引っ張り、不安そうに駿が聞く。
「うーん、うちはベランダから入ってくるんじゃないかな、たぶん」
「そっか、じゃあベランダ見張ってる!」
窓に駆け寄ってカーテンを全開にする。
「ダメダメ、もうお外暗いからカーテンは閉めておいて。それに駿が見張ってたらサンタさん来れないよ。ね。」
「そっか、そうだね。あー、サンタさん、ちゃんと加地さんのサインもらってくれたかなあ」
母親はサラダを作りながら考える。おもちゃ屋では売っていない、加地選手のサインをリクエストしたのはもしかして、駿がサンタクロースを、いや、私たちを試しているのかとも思ったけれど、そうではないみたいだ。駿はまだサンタクロースを信じている。少なくとも、信じたいと思っている。できればもう少し大きくなるまで、信じたままでいさせてあげたいけれど…。
「パパ、遅いね。ケーキ、楽しみだね」

 

 3.

三連休のなか日、それもクリスマスイブに出勤する必要はなかった。信吾はただ、アパートにひとりでいたくなかっただけだ。朝から休憩も取らずに仕事にふけり、気がついたら窓の外は真っ暗で、そうやって今日一日をやり過ごした。帰りの電車に乗る自分以外の全員が、なんだか浮かれているように見えた。家族や恋人の待つ家へ帰るのが楽しみでしかたがないというように。都心を離れたこの小さな町の駅前でも、クリスマスのイルミネーションはまぶしかった。信吾はうつむいて足早に行き過ぎた。待つ者が誰もいないアパートへ急いで帰りたいわけではないけれど、イルミネーションを楽しみながら歩くような気分でもなかった。

でももしかしたら今夜こそ…。信吾は自分のアパートの窓に明かりがともっているところを想像した。毎日日課のようにする想像だ。今日こそ彼女がアパートに来ているのではないか。「しばらく離れて考えたい」。一緒にいることのあたり前さに慣れ、仕事とサッカーを優先してばかりの信吾に愛想をつかして、そんな一言を残して夏の終わりに去っていった彼女。彼女はアパートの合鍵を信吾に返していかなかった。だから彼女の言う「しばらく」の時間が経てば、きっと彼女はまた帰って来る。信吾はそう信じたかった。毎日会社から急いで帰り、毎晩ドアチェーンをかけずに眠った。でも彼女は戻って来なかった。信吾には「しばらく」がどのくらいの時間なのか、分からなかった。一日なのか、一週間なのか、一ヶ月なのか。どのくらい待てばいいのか。どのくらい待って戻らなければ、諦めるべきなのか。

いや、あり得ない。きっと今夜も、アパートの窓の中は時間が止まったような暗闇で満たされている。あの日から昨日まで、毎日そうだったように。

「本日開店です。セールやってます」。駅からアパートまでの道の途中に、サンタクロースの扮装をし、顔を隠すほどの白ひげをつけた男が看板を持って立っている。この道の先にオープンした酒屋を宣伝しているらしい。今夜は久しぶりに、アパートでひとりで飲もうか。そして明日は二日酔いで一日じゅう寝ているのもいいだろう。信吾は家への帰り道をそれ、看板が指し示す方へと歩き出した。

サンタクロースの看板が指し示した道をいくら進んでも、酒屋は見えてこなかった。街灯がぽつりぽつりとともる、薄暗い住宅街。そこは信吾の知らない道ではなかった。もうすぐ右手に公園がある。小さなマンションに隣接した小さなこの公園に、信吾が最後に来たのは、もう半年以上も前のことだ。

吸い寄せられるように足を踏み入れた公園に人気はなく、乾いた土を踏む信吾の足音だけが小さく聞こえた。公園の真ん中で立ち止まり見上げると、星のない薄明るい夜空が広がっていた。半年前のあの夜も、ここでこうして、夜空を見上げた。あの時信吾は笑顔で、空にはサッカーボールが浮かび、それがゆっくりと落ちていく放物線の先には、もう一つの笑顔があった。その笑顔はボールめがけてジャンプするのだけれど、目をつぶってしまうのでヘディングを空振りし、二人は声を上げて笑う。目つぶるなよ。つぶってないよ。つぶってるよ。日本代表がワールドカップ出場を決めたあの夜。喜びを押さえきれずに二人でアパートを飛び出し、ここででたらめにドリブルしたり、ボールを思い切り蹴り上げてふんわりクロス、などと言ってはしゃいだ、六月の夜。

冷たい風が、今は十二月だと信吾の頬を刺し、思い出の夜をどこか遠くへ運び去ろうとするように吹き過ぎる。あの笑顔も、あの喜びも、全てを枯葉のように吹き飛ばして。

目を閉じ風の冷たさをやり過ごし、また目を開けた信吾の視界に、夜空からサッカーボールが落ちてきた。記憶の中の夜空から落ちてきたようなそれは、地面で乾いた音をたててバウンドし、信吾から遠ざかるように向こう側へ転がって、ブランコの足元で止まった。公園の街灯の光を受けて冷たく光るそのボールは、間違いなく今、冬の夜の、現実の景色の中にあった。信吾が後ろを振り返ると、あの夜のそれとは少し違う、はにかんだ笑顔を浮かべた彼女が、そこにいた。

「映里…なんで…」
それだけ言うのがやっとだった。信吾の知らないコートを着、髪型も変っているけれど、目の前に立つのは確かに信吾が待ち続けた映里だった。
「うん。なんか、福引で当たっちゃって。ワールドカップのだっていうから…」
信吾の背後に転がったサッカーボールに目をやりながら、映里は言った。
「…あ、うん、チームガイスト」
信吾は映里に背を向けボールのところまで歩き、言葉を探すようにそれを何度か足の裏で転がした。また風が吹き、止んだ。信吾は向き直り、もう一度言ってボールを映里の方へゆるく蹴った。
「なんで、来たんだよ」
ボールはころころと転がり、映里の足元でぴたりと止まった。だって。映里はそのボールに聞かせるように言った。
「だってさ、信吾のふんわりクロスをゴールできるの、私だけでしょ」
下手くそなトウキックでボールを蹴り返す。右にそれて行くそれを、脚を伸ばしてトラップした信吾が顔をあげると、そこにはなつかしいいたずらっぽい笑顔があった。
「へー、怖くて目、つぶっちゃうくせに?」
今度は映里がトラップできないくらい強めに、ボールを転がした。映里はそれを不器用に脚で止め、やり返すようにまた強く蹴った。
「だからつぶってないって言ってるでしょ」
ボールは、信吾ではなく、砂場の方へ向かって勢いよく転がった。走ってボールに追いついた信吾は言った。
「どっちみち、俺の加地さんゆずりのふんわりクロスは、そう簡単には触れないんだって」
夜空めがけて、思いっきりボールを蹴り上げる。信吾はいつかのような笑顔でそれを見上げた。高く舞い上がったボールは一瞬空中で停止し、時間を巻き戻すようにゆっくりと落ちてくる。その先には映里の笑顔があり、ボールめがけてジャンプするのだけれど、目をつぶってしまう。信吾はこの笑顔を、二度と手放したくはないと強く思った。

鈍い音がして、ボールは角度を変え、スピードを上げて飛んで行く。信吾のふんわりクロスはピンポイントで映里の頭に合い、シュートがキーパーの指先をかすめるように公園の植え込みの葉を散らし、一直線に隣接するマンションのベランダに飛び込み、サッシの窓ガラスに激突した。

「ゴール…!」
映里が小さく声を上げて喜び、信吾を見た。信吾はあっけに取られ、立ちすくんでいる。マンションの中でカーテンに近づいてくる人影があった。やばい、逃げろ!信吾は映里の手を取って駆け出した。

公園を抜け、暗い住宅街をふたりは走った。信吾は笑顔だった。映里も笑顔だった。走りながら信吾は、映里の抱えたバッグから聞き覚えのある金属音が聞こえるのに気が付いた。映里が走るのにあわせて鳴るその音は、信吾のアパートの合鍵につけられた、キーホルダーの鈴の音だった。信吾はさらにスピードをあげ、映里の手を強く握って走った。二人は互いの顔を見合わせ、声を上げて笑った。白い息を吐き、頬を赤く染めて。

 

 4.

「サンタさんだ!」
ベランダから何か物音がし、駿は駆け寄ってカーテンを開け、サッシを開けてベランダに飛び出した。冷たい空気が部屋に吹き込む。
「ちょっと、駿、待ちなさい」
あーっ!ベランダで歓声をあげ、部屋に飛び込んできた駿はサッカーボールを手にしている。
「ママ見てこれ、なんか書いてあるよ!」
興奮気味に言う駿から受け取ったボールには、確かに黒いペンのようなもので何か書いてある。母親は息をのんだ。間違いない。そこに書いてあるのは、何度も練習したあのサイン、加地選手のサインだった。
「ねえこれ、英語で加地って書いてあるんでしょ?そうでしょ?」
「そう、みたいね…、うん、加地って書いてあるわ」
母親が困惑しながら答えたその時、ドアが開いて父親が帰ってきた。なんだ、そういうことか。母親は共犯者の微笑みで父親を迎えた。
「お帰りなさい、寒かった?」
「なにごとだ?」
問いには答えず、ボールを抱えて部屋中を走り回っている駿を見て、父親は訪ねた。
「なにごとって、あなたがベランダに投げ込んだんでしょう?」
母親は声をひそめた。
「投げ込んだって何をだ?それよりユニフォーム買ってきたから、あとで頼むぞ」
「あ、パパ、お帰り、見てこれ加地さんのサイン、サンタさんがもらってきてくれたの!」
え、ああ、すごいなあ、よかったじゃないか。あいまいに答えて今度は父親が聞いた。
「お前か?」
「違うのよ、たった今あのボールがベランダに飛び込んできて。私てっきりあなたかと…」

「やっぱりいるんだ、サンタさんはいるんだ!」
はしゃぐ駿の声を背に、夫婦は開け放たれたベランダの窓から肩を並べて外を見た。ベランダにも公園にも通りにも、人の姿はなかった。冷たい空気と静寂があたりを満たしていた。誰のしわざだろう?本物のサンタクロース?まさかね。表情で伝え合い、窓を閉めようとしたとき、ふたりは聞いた。どこか遠くから風に乗ってかすかに届く鈴の音を。それはしばらく鳴り続け、やがて夜空の闇にしみ込むように消えた。ふたりはもう一度顔を見合わせほほえみを交わすと、そっと窓を閉めた。
「駿、ケーキ食べるぞ!」

作成者 kajidaisanji  : 2005年12月24日(土)
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