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僧侶言説とは何か −真逆の世界観−

ニーチェ「現代語訳 アンチクリスト」(amazon)

私はこの本を熱い気持ちを持ち続けながら書き下ろしました。
それを受けとめて頂く為には、皆さんにはまず「精神的」な事柄に
対して、厳しく、正直であってほしいのです。

(ニーチェ「アンチクリスト」)

先日「資本主義の黄昏」と題された内田樹氏の
文章に関して私見を述べさせて頂きましたが…。


その後、祭りの戦士さんのブログを読んで、驚愕――

先の「資本主義の黄昏」ってエントリが、僧侶言説から派生した
ものであったことがはっきり分かるエントリが――

内田樹の研究室「サラリーマンの研究」

………ああああああ!!僧侶言説を「人間的=真理」って…!?

ニーチェが読んだら口を抑えながら

「吐気的、あまりに吐気的!!」

と叫び出しそうな非人間的な言説!!(私は叫びました)

内田樹氏はまさにニーチェが云うところのパウロですね…。

僧侶言説とは何か、それは原因と結果を入れ違え、
論理と非論理を入れ違え、真理と非真理を入れ違え、
自分で考えないこと、認識しないことを手段として
「嘘」によって権力を手に入れようとするタイプの言説です。

先日、ニーチェのアンチクリストが現代語訳されまして、
これが素晴らしい良書!!私は白水社版とちくま版で他の訳を
何度か読んでいましたが、本書は哲学書の難解な部分を丁寧に
平易に直して、誰にでも分かる親しみやすいアンチクリスト
になっている。これは、本当に良い、誠実な本ですよ。

そこから、僧侶言説について引用させて頂きますね――
「真理」と云う言葉は、「普遍性」に読み替えると分かりやすいと思います。

人生をよりよく生きること、優秀であること、権力、美、自分を信じること、
こういった大切なものを否定するために、彼ら(キリスト教徒)は
まったく別の世界(あの世)をでっちあげてゆきました。………

私はイエスを狂信者だとは思いません。
(神学者の)ルナンは愚かにも「(イエスは)命令的」という言葉を使って
いますが、イエスの教えの中にはそんな考え方は存在しません。………

イエスはやはり自由な精神を持った人だったのです。なにしろ、
イエスは全ての決まりごとを一切認めなかったのですから。………

世界を理解する手がかりはキリスト教にあります。
人類は、イエスの教えとは正反対のものに、ひざまずいているのです。
人類は「教会」の名のもとに、イエスが最も
嫌っていたものを、神聖であると語ってきました。
これほど世界的で大掛かりな皮肉を私は知りません。………

(イエスの死後)イエスの弟子たちがだした答えは、
「神はイエスを罪の許しのために犠牲として与えた」
というトンデモないものでした。
イエスがこれを聞いたらブッ飛ぶでしょう。
罪を許すために犠牲になるなんて発想はイエスにありません。
イエスは神と人間との隔絶を認めなかったからです。
イエスは神と人間の一体化を、教えとして生き抜いた人なのです。
しかし、弟子達の仕業によって、教えのなかに「最後の審判」
「犠牲死」「復活」といった変なものが混じってしまった。
そして、本当のイエスの教えは行方をくらましてしまったのです。………

イエスの教えと正反対のものが、
パウロが作り出した現在のキリスト教です。
パウロはイエス(愛と自由の人間)とは正反対のタイプで
「憎しみ(支配)の論理」の天才なのです。パウロはイエスを含めて、
全てを憎しみの犠牲にしてしまいました。………

パウロが作ったキリスト教には、
イエスの大切な教えは何も残ってはいません。………

キリスト教の僧侶達は科学(正しく物事を認識して、自分で物事を
考える技法)の(キリスト教にとっての)危険性に気付いていました。
科学は「原因があって、結果がある」という健康的な考え方だからです。
科学は幸せな世の中でのみ発展します。なぜなら、きちんと物事を
考えるためには、沢山の時間と精神力が必要だからです。
だからこそキリスト教徒の僧侶たちは、科学の発展を
妨害する為に人間を不幸に導こうとするのです。………

キリスト教の教徒たちは、「人間は外の世界をのぞいてはならない。
自分の内面のみをのぞくべきである」と教えました。
人間が物事の本質を学び、研究し、理解することは悪いことである。
人間は分からない事に対して、ただ悩むべきなのだ。
しかも、いつも僧侶(全てを指し示す人)を必要とするように悩むべきなのだ。
医者(物事を自分で科学的に考えて、改善してゆく人)なんていらない。
必要なのは救い主だけである、という訳です。………

人間の(自分で)考える力を壊すのがキリスト教徒であり、
「原因と結果」という科学の基本的な考え方への攻撃なのです。………

くりかえしますが、科学は「原因と結果」です。
原因があるから、それが結果に繋がるのです。
当然のことですよね。

ところが、科学は迷信によって歪められてしまう。
「神」「霊魂」「報い」「罰」「暗示」といったものによって、
キリスト教に都合のいい「道徳的結果」が引き起こされる、
という訳です。

「考える力」を壊すこと。
これは人類に対する最大の犯罪です。

(ニーチェ「アンチクリスト」)

次からのニーチェの文は、「キリスト」と書かれている部分を、
「会社」や「仕事」、「他者からの承認」と読み替えてみて下さい。

要するにこういうことです。
「私はキリストを信じることによって、幸せを受けることを信仰する。
それなので信仰は真(普遍性)である」と。

もうこの時点で、まともな人間だったらついてゆけません。
「それなので」って、いったいどこにどうつながるのでしょうか。
これが彼らの言う「真理」の正体です。
まあ、あくまでたとえ話として、信仰によって幸せになることが
証明されたとしましょう。

しかし、信仰によって幸せになることが、
真理(普遍性)の証明に繋がるのでしょうか。
そんなわけはありません。
こんなムチャクチャな話、ちょっと思いつきもしませんよね。

「真理(普遍性)とは何か」という問題と、
信仰によって受ける幸福の存在は、
全く関係がありません。

そもそも、そんなことを言い出すこと自体が、
「真理」でないことの証拠です。

きちんと物事を考える力のある人や、深く物事を考えた
経験のある人は、これとは正反対のことを教えます。

つまり、「真理」とは人間が長い年月をかけて、
一歩一歩闘いとってきたものなのだと。

そのために人間は沢山のものを犠牲にしました。
立派な魂も必要としました。(普遍的な)真理を追究する
とは、本当に大変なことなのです。

正直に物事を考えることとは、つまり自分の心に
対して決してウソをつかないということ、
そして「美しい感情(感動etc)」などに流されずに、
自分の判断に良心を持つことです。

(ニーチェ「アンチクリスト」)

次の文章では、「殉教者」と「イエス」を
「滅私奉公するサラリーマン」に読み替え、
十字架を「過剰な労働」に読み替えてみて下さい。

殉教者とは、自分が信じている宗教の為に、
自分の命を捨てる人のことです。………

しかし当然のことながら、何かの為に命を
捨てたとしても、その対象になるものの価値が
変化する訳ではありません。………

キリスト教を迫害した人達が犯した間違いは、
迫害された人間は(それにより)名誉を得ると
思いこんでしまったことです。
つまり「殉教」という道具を上手く敵に
使われてしまったのですね。………
今でも誤解しているのです。
なぜなら「誰かがお前の身代わりに十字架に
掛かって死んだのだ」と言い含められているからです。

しかし、論理的に考えれば簡単に分かることですが、
イエスが十字架で死んだことは、「真理」の根拠には
なりえません。こんな当たり前のことさえ、これまで
きちんと指摘する人がいなかったのです。

いや、一人いました。ツァラトゥストラです。

「キリスト教徒は、自分たちの歩んできた道に、血の文字を書いた。
頭の悪い彼らは、血によって真理が証明されると思った。
しかし、血は真理の最悪の証人である。
血は最も純粋な教えも汚してしまい、妄想や憎しみに変えてしまう。
もし、誰かが自分の教えのために火の中に入るとしても、
それによって証明されるのは、自分の身を焼き尽くすことから
生まれる自分自身の教えなのだ。真理ではない」

こうツァラトゥストラは言いました。
偉大な精神はものを疑うのです。
ツァラトゥストラはものを疑いました。
精神力や自由は、疑うところから生まれるのです。

ものごとを信じ込む人は、価値を判断することができません。
ものごとを信じ込むとは、牢屋に入っているのと同じ。
外の世界のことも、そして自分のことさえわからないのです。

もちろん、自分の考えを述べるためには、確信が必要でしょう。
それが自分の発言のバックボーンになるわけですから。

しかしそれでも、偉大な精神は必ずものを疑います。
あらゆる種類の確信から自由になってものを考える強い力を
持っています。(自らのも含めた全ての)確信に対抗するのです。

場合によっては、彼らは確信を手段にもする。
ものを疑う偉大な精神は、確信を利用するのです。
彼らは確信に負けることなく、自分こそがものを
考える中心であることを知っているのです。

ものごとを信じ込む人は、自分がものを考える中心ではありません。
彼は信じる対象に利用されているだけ。そして同時に、
彼は自分を利用する誰かを必要とするのです。
信者は、自分を見失うことを、名誉だと思いこんでいる。………

つまり、自分を失うこと、自分をないがしろにすることが、信仰なのです。
ものごとを信じ込む人は、誠実な人(疑う人)と対立します。
そして、誠実な人を、「真理に反している」と決めつける。

「真理とは何か」という問題をきちんと考えるには、
信仰の問題を別にしなくてはなりません。
そうすれば狂信者(ものごとを信じ込む人)の
立場なんてすぐになくなりますよ。

(ニーチェ「アンチクリスト」)

次の文章は…そうですね、党派を「ゼミ」に
置き替えるとなかなか面白いかも知れません。

私が「ウソ」と名付けるのは、見ているものを見ようとしない
態度のことです。見えるように見ようとしないのは、
党派的な人間の特徴です。党派的とは、
「一つの考えによって利害を持って寄り集まっているグループ」
のことですが、彼らは必ずウソつきになるのです。

たとえばドイツの歴史学会では、「ローマは専制政治だった」
とか、「ゲルマン人は自由の精神を世界にもたらした」とか、
自分達に都合のいいことばかりを「確信」していますが、
こうした「確信」ってウソとどこがどう違うんでしょうか。

こういった党派的な人が必ず口にするのが、道徳です。
あらゆる種類の党派的な人が道徳を必要とするからこそ、
(人々を不幸にするような)道徳がなくならないのですね。

(ニーチェ「アンチクリスト」)

次は私が今回、一番大切に思い、伝えたい部分です。

(地上に生きる全ての)それぞれの人には、
それぞれの特権がある筈です。平凡な人にも特権があります。
そして、最も精神的な人々は、そういった人々が
持っている特権を決して見くびることはありません。
なぜなら、高い場所を目指す生き方というのは、
上に行くに連れて冷気が増し、責任が重くなって行くからです。

要するに、高い文化(良い文化)とはピラミッドのようなもので、
広い地盤の上にのみ築くことが出来るのです。

だから、大勢の平凡な人の存在が大切なのです。

手工業、商業、農業、学問、芸術といった仕事の大部分は、
ほどほどの能力とほどほどの欲望によって成り立っています。
それは貴族主義とも無政府主義とも関係ありません。

人が公共の利益の為に一つの歯車として働くのは、ごく自然なことです。
彼らを歯車として働かせているのは、社会ではありません。単純に
「自分には何かをする能力があると感じる幸福感」
がそうさせているのです。
平凡な人にとって、平凡であることは一つの幸福なのですね。
だから、平凡な人をバカにしてはダメなのです。
例外的な人間が平凡な人間を、思いやりをもって大切に扱うのは、
単なるマナーの問題ではありません。
それは、一言で言えば例外的人間の義務なのです。

(ニーチェ「アンチクリスト」)

内田樹氏の二つのエントリについて私が述べたいことは、
ニーチェの言葉を借りて全て述べてしまいました。

私は、今の社会の最大の問題は、高貴さが失われたこと、
強い人間、支配する人間が高貴さを失い、
ただ、僧侶としてウソによって下から搾取して、
自己の義務は何も果たさず、それだけに
生きていることだと思っていますね。
上が腐れば、下は不幸になるのです。
上の人間が下の人間に、滅私奉公なんて強い義務を
強制的に押しつけて、自分達は本来担うべき強い義務を
負わずに安楽な弱い義務で生きているような社会は、
大勢の人々にとって、とても不幸な社会だと思います…。

私は、私の言葉も、内田樹氏の言葉も、ニーチェの言葉も、
他のあらゆる言葉も、それらを盲目的に信じるのではなく、
常に全てを疑い問い、そして人々がそれぞれ各個人個人で
『自分自身で考える=自由になる』と云う
営みを行ってくれると嬉しいなと思います。

そこに、未来の可能性があると私は思っております――

今日をもとにして。

全ての価値を転換せよ!!

(ニーチェ「アンチクリスト」)

参考図書(amazon)
フリードリヒ・ニーチェ「現代語訳 アンチ・クリスト」

フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」(上巻)

フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」(下巻)

フリードリヒ・ニーチェ「道徳の系譜」

フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」

フリードリヒ・ニーチェ「人間的、あまりに人間的」(上巻)

フリードリヒ・ニーチェ「人間的、あまりに人間的」(下巻)

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