トップ              次項

 


アクロスエヴォルブ       プロローグ

 

(……止めて……お願い……!!)

 何者かの叫びが、耳鳴りのように脳内に木霊した。

 静寂に満ちた虚無の領域。水滴が一粒、落ちる程度の騒音でしかない。

 刹那。

 女の手刀が、稲妻の速さで突進する。神が傍らで支えているかのような、息を呑む正確さで、堅牢に塞がっている分厚い肉の塊を貫通した。

 積み重なった筋肉の下の、格子状に陳列している硬い骨。そこにまで、容易に掌が到達している。

 指の腹で感じられる、激しくもがいている振動―――それは、紛れもなく心臓の発しているものだろう。

 ―――傍らに居る、男の左胸。

 女はそこに手首までめり込ませたていた……肉がひしゃげていく奇怪な音を立てながら。

 唐突に、女の半身に生暖かい感触が広がった。

 一瞥する。

 心臓から濁流のごとく流れ出るそれは、男の血液だった。

 何の躊躇もなく、突き刺さった掌を勢いよく引き抜く。流線型に握られた掌には、半分固体化した、雪の玉のような血液が大量にこびりついていた。

 手を引き抜いたことで、支えを失ったのだろう。

 男の体躯は、音を立てて仰向けにくずおれる。

 それでも怯むことなく―――女は直立した姿勢のままだった。身体を汚した液体をにらめつける。

 残虐で、それでいてどこか後ろめたさが匂うような視線で女が見たもの―――それは紫色の血液が洪水のように男の胸からあふれ出し、凍りついた地面に水溜りを作っている光景だった。

 紫色の血液。

 (……何故……何故死ななくちゃいけないの!?)

 それは身震いが走るほどに異常な色合いをしている。思わず毒液ではないかと後ずさりしてしまうような、原色に近い、不気味な色だった。

 身に盛大にかかっているそれをまったく気にしない様子で、女は滝のような血液の流れから目をそらす。

 そして今度は真正面の、男の表情を確認しようと顔を上げる。

 だが。

 余りに激しい風と氷の粒とが空間を侵食していた。それに阻まれ、倒れ伏した男の顔のほうがはっきり見えない。

 というより、そもそも十センチ先すらまともに視認出来ない状況であった。それもそのはず、辺りには猛烈な吹雪が荒れ狂っている。唯一見えているのは、横たわる男の体躯の輪郭と、漠然とした白色のみだった。

 そういう場所で殺し合いをしたのは、どのように評価するべきか。

 考えなければ―――生きている限り、半永久的に考え続けなければならない。

 殺す側と殺される側。

 それは、お互いにとって愚かなような気さえしたが……。女の思いに皮肉を交えて答えるかのように、寒さはだんだんと増していった。

 徐々に体力を削られていき―――。それに伴って、戦闘による疲弊が突然まともに襲ってくる。

 身体を支えるのが辛くなる程の激しい悪寒が襲い、身体のあちこちが震える。本当に凍り付いてしまうのではないかと、思う。恐怖心が鎌首をもたげ始める。

 真に危険が迫っているなら、すぐに退避する必要がある。

 だが、女はどうしても男の様子を確認したかった。それが何故なのか、自分でも分からない。

 考えても、考えても、考えても、考えても―――分からない。半死人の表情など、何の価値があるのか。

 (本当に……死んでしまった……)

 塞がれそうになる瞼を必死で開きつつ、男の顔があるはずの空間を見続ける。

 ぼやけた像は徐々にピントを合わせていき……現れる。

 「……ラナ…君が……達の…に……」

 何事かを呟いていた。

 耳に残る違和感は、恐らく男が、ずっと声を発し続けていたということを示していた。

 そんなことはどうでもいい―――どうでもいいはずだが。

 女は何かに導かれるように、男の表情を見る。

 横たわるそれは何故か、微笑を浮かべていた。

 それも呪詛や嘆き、怒りなどという、持っていると当然推測されるものが、全く篭っていない。男は本当に、心の底から笑みを浮かべているようだった。

 しかもごく奇妙なことに、男は双眸から透明な涙さえ流していた。それは死への恐怖などという、俗なものからは全く無縁のものだった。

 むしろ、悲壮感を漂わせつつ。完全に女のことだけを気遣い、女の為だけに注意を明け渡していた。男は寒そうに―――痛覚すら薄れ始めているに違いないが―――身体を震わせ、必死に何かを訴えようとしていた。

 その光景を目にした時。

 女は抱いていた冷酷な感情が嘘のように消えていくのを感じた。

 男を突き殺せたほどの凄まじい力が急速に収縮する。

 自分自身が―――自分の意思に戻っていくのが分かる。

 自分を支配していた強制的な力……それが雲散霧消して。代わりに、まるで洗脳から解放されたかのような爽快感が満ちていく。

 我に返る。

 僅かな空白感が心を満たしていたが―――あるいはそれは自分の起こした惨状によるのかもしれない。

 見えたのはやはり、自分が殺害した相手が、自分に対して涙を流し、笑っている光景だった。

 彼女にとってそれは祝福であるように感じられた。

 女は男の呟きを聞き漏らすまいと、あわてて聞き返す。

 「な、何? 聞こえないわ」

 「クラナ、君が……僕たちの…」

 男の物言いは、当然のごとく断絶する。失血に耐え切れなくなったのか。激しく咳き込み、それと共に大量の吐血をした。血液が地面の広範囲を汚していく。

 男はいかにも優男といった端正な顔立ちをしていたが、今では痛々しいほど歪んでおり、苦痛に耐えているようだった。

 それでも、その笑みが薄れることはなかったが。

 女―――クラナは急いで男の近くにしゃがみこんだ。

 その頭を自分の膝枕に寝かせる。男の頭はもちろん生命としての質量が感じられるが……視界が悪い中でもはっきり分かるほど顔が青ざめている。

 「僕たちの……王に……」

 「何言ってるの、イェクトル!? 王って何のことよ!?」

 「僕が居なくなれば……君が、王に成れる……分かっていたことだろう?」

 男―――イェクトルは息も絶え絶えに告げる。その口からは、血液が嫌な音を立てて次から次へと溢れ出していた。

 「何で……そんなこと……そんなこと、望んでないよ! あなたさえ居れば、私は……!」

 クラナは慟哭を隠し切れず、激しくしゃくりあげる。自らを責めるように目をきつく閉じるが、それでも涙が漏れ出ていた。

 イェクトルはそんなクラナを慰めるように、彼女の髪に静かに触れた。最早、痙攣し始めていた手を用いて、長く艶やかな黒髪を撫でる。どれだけ苦痛に苛まれようと、イェクトルはその笑みを崩すことはなかった。

 「違うんだ」

 「……?」

 「これは僕の意思だけど……同時に、神の意思でもある……」

 神の意思。

 それと―――彼の意思。

 何のことを言っているのか、見当すらつかない。この期に及んで、神などという抽象的かつ教条的な言葉を浴びせかけられるなどとは。まったくもって考えていなかった。困惑を隠しきれず―――

 いや、違う。

 首を絞められるような、おぞましく冷えた呟きが、心を満たす。

 結局、分かっていた。自分が死ぬか……それとも相手を殺して、生きるのか。そういう選択をしなければならない。それは絶対に行わなければならない、まるで神が決定したかのようなことだと。

 単に心の隅に追いやり、現実を逃避していたに過ぎない。それは自分の責任である。

 自分は、弱い。あまりにも弱すぎる。 

 無闇に叫ぶ。

 「何で……何でそんなもののために、あなたが……あなたが死ななくちゃいけないの!?」

 イェクトルはクラナの問いに答えない。

 既にクラナが答えを知っていると察したのだろう。無駄な体力を使う―――しゃべることさえ苦痛だった―――のを避けたようだった。

 弱弱しく息を吐く。それは言葉を伴う―――答えになっていなかったが―――と同時に、男がこの世で吐き出す最後の息であった。

 「……全知全能の神、そんなものが、居るとすればね……」

 終に、その顔から笑みが消えていく。

 クラナの髪に触れていた手は、筋肉の支えを失い、地面に落ちる。僅かに上げていた頭も、同様に崩れ落ちた。

 その瞳からは丁度最後の涙が滲んでいた。目からは暖かい光が失われ、代わりに吸い込まれるような虚無がだんだんと満ちていく。

 既に、凄まじい血液の噴出は影を潜め、ただ重力に従い多少失血しつつあるだけだった。

 流れる血液も尽きたか、それとも、心臓の動きが止まったか。

 どちらでも、それほど違いはない。

 単に男が事切れたと言う事実だけが、そこに確固として存在している。クラナが確実に分かるのはそれだけであった―――自分の視界も、徐々に閉ざされつつあることを別にすれば。

 降りしきる氷雪は急激に勢いを増していた。そのせいか眼前の白い靄が拡大し、クラナの視界をほぼ完全に遮る。

 それとも、もしかしたら自分の流した涙。それが、その白い靄を形造っているのかもしれない。

 それすら判別できないほどに、触覚が寒さに痺れている。

 最早、イェクトルの死を悟り。

 クラナはしゃがんだまま呆然と顔をもたげ、天空を見上げた。

 きっとその空は、旋風のヴェールに覆われ白く霞んでいるのだろう。目が見えているのか、そうでないのかも判別できなくなった。

 もう、そんなことはどうでもいい。

 そして、液体が―――体温で溶けた雪か、それとも涙が―――頬を伝う。最後の感触を顎に残して落ちていく。

 それと同時に。

 何かが爆発するような絶対零度の感情が、胸中を突き上げた。

 獣のように、そして稚拙な幼児のようにけたたましい金切り声をあげる。

 「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァッッッッッ!!」

 その咆哮に、残された体力が全て費やされたようだが―――それでも、どこに力が残っていたのか。

 自分でも不思議なことに、両腕を男の遺骸に回していた。その有機物の塊からは、単に何かがそこにあるということしか感じられないはずだ。

 それでも、何かが伝わってきた。

 互いの身体が、溶岩の中に沈んでいるかのように融けあう。それが、新たな何かを合成している。液体―――融けた体。本質的に何の違いもないはずのそれらが共生し―――いや、もしかしたらそれは一方的な搾取、略奪であるのか?

 錯覚と言ったほうがいいのかもしれない。死ぬ前に見るという、下らない、若しくは人によっては有意義な幻覚が現れたのかもしれない。生前の記憶の中で、似たような情景にフラッシュバックしていると言ってもいいだろう。むしろその可能性が高いかもしれない。

 とはいえ、誰が何を思おうと、それは空虚でしかない。

 クラナ自身も、その核心を明かすことは永久に出来ない―――出来ないはずだ―――のだから。

 身体に積もる雪に、急に重量が感じられる。

 分厚い層を形成したそれに耐え切れず―――耐えようともしなかったが―――硬い氷に、土台の崩れた岩石のように倒れ臥す。

 衝撃で地が震え、同時にクラナも事切れる。

 その衝撃が箍を外したのか、二人の横たわる地面に亀裂が走った。もともと海中に浮かんでいる氷である。当然、激しい力が加われば崩れる。

 氷は完全に割れ、地割れは次第に大きくなり―――音もなく。

 二人の遺骸をゆっくりと、冷酷な深遠の中へ引きずり込んでいった。 

 

 

 

 

(2006/8/12掲載)                                 よろしければ作者にご意見・ご感想お願いします

 トップ         次項

 


  

サイトマップ

 

トップページ

 

メールフォーム―――事務連絡、及び加賀けんとに切に訴えたい方はこちら

 

・掲示板―――通常のご感想・ご意見・応援などはこちら

 

・自己紹介―――・・・・・一度見ることをオススメします。加賀けんとの本性。

 

ブログ―――適当に更新中・・・

 

リンク―――友好関係にあるサイト様です!

 

・自作小説―――鋭意執筆中です

 アクロスエヴォルブ

       ↓

    プロローグ

       ↓

第一話:フレッシュ・ハンド

      ↓

第二話:ムーヴィング・フォース

      ↓

第三話:(8/21更新予定!)