歴史の町

Rekisi no Mati
 甲賀町は歴史の古い町で、度々中央の歴史にも登場し、重要文化財や民俗行事が数多く伝えられ今日に引き継がれている。

目次

文化財
著名な史実
戦国武将

文化財
 片田舎の町ではあるが、平安時代の仏像、室町時代の建造物など多数の重要文化財が収蔵されている。

(櫟野寺十一面観音)

古琵琶湖層へのリンク
櫟野寺へのリンク
油日神社へのリンク
それ以外の重要文化財のある寺社は、
無形文化財としては
他に県指定有形文化財7件、無形民俗文化財2件
史跡天然記念物には
 
<著名な史実>
壬申の乱と甲賀
Jinsin no Ran
 昭和47年に大甲賀カントリークラブの造成中に早期の土器や石器のかけらが発見されたことから、甲賀の歴史は1万年前までさかのぼることになったが、文献上に表れるのは鹿深臣の帰化(584年)に続いて、この乱の時である。
 壬申とは、十干十二支での年の表し方であり、壬(じん)は「みずのえ」とも言い、申(しん)は「さる年」のことであり、西暦672年にあたる。その2年前までは、大化の改新の中心人物である中大兄皇子(天智天皇)が近江(大津)に都を開いて政治を行っていたが、次の天皇を誰にするかということをきっかけにして勢力争いが起こり、天智天皇の死後(671)、いっきに武力衝突に発展した。
 一方は天智天皇の子どもの大友皇子(弘文天皇)側、他方は大和の勢力に支えられた大海人皇子(後の天武天皇)側である。戦闘は河内(大阪)、大和(奈良)、横河(坂田郡)、倉歴部(くらぶ)、莉萩野(たらの)、安河(野洲郡)、栗田、大津等で戦われ、天武側の勝利に終わり、大友皇子は大津で自殺した。
 この中の倉歴部(くらぶ)は、柘植から甲賀へ抜ける道であり、莉萩野は伊賀上野市あたりといわれている。日本書紀によると、大海人皇子は「おおのおみほむじ」に命じて三千の兵を「たらの」に進め、「たなかのおみたりまろ」をつかわして倉歴の道を守らせたと書かれている。近江方の将「たなべおすみ」は倉歴にいる「たなかのおみたりまろ」の軍を攻撃し、また、莉萩野の陣も襲ったが撃退されている。余野から油日あたりで激しい戦いが行われたと思われる。
源平合戦と甲賀
Gen-pei Kassen
 源氏と平家の戦いは、どこか遠くの出来事のように思いがちであるが、甲賀地方でも両軍が交戦した記録がある。
 寿永3年(1184年)7月、伊賀の平氏である平田四郎家継(貞継としている文書もある)は、何代にもわたる平家の恩に報おうとして、伊賀伊勢二國の兵を平田城に集め、7月19日、甲賀郡に進軍した。
 寿永3年(元暦元年)というと、平家一門の敗色の濃い頃で、既に瀬戸内海に逃れていたし、義仲が頼朝と戦い大津の粟津で死んだのは、この年の1月だった。また、2月には、頼朝は朝廷から平氏追討の命令を受け、義経が一ノ谷の戦いで勝利している。なぜそんなときに平田貞継が源氏と戦おうとしたのか大変疑問であるが、主家が滅びる時じっとしてはいられないとの武士らしい気持ちが、貞継を駆り立てたのかもしれない。
 甲賀でこれを迎え撃ったのは、70才を越えた近江源氏の将佐々木源三秀義で、急いで国中の兵を集めて油日谷に至った。甲賀郡内の諸氏も、これを聞いて馳せ来る者が多かったという。また、その時、大鳥神社に戦勝祈念のため弓と矢を奉納したといわれる。もっともこの大鳥神社は今の場所にあったのでなく、少し北方の磨臼谷(うわばだに)にあった頃である。
 平氏側は貞継と壬生野能盛が中心で、三百余人を率いて柘植から余野を経て田堵野、上野に出て南方の高地に陣どり、秀義は油日川を隔てて北方に陣をしいた。平家側は死に物狂いで矢を射かけ、源氏もまた応戦して多くの死傷者を出した。この時秀義は馬にまたがり陣頭に立って兵を励まし指揮をとった。能盛は、これをのがさず矢を放ったので、秀義は矢に打ち抜かれ落馬して死んだ。秀義の部下は、その首を取られないために切り落としたという。
 将を失った源氏勢は、それでも懸命に応戦したので、平家方の将平田貞継も戦死し、戦意を失った平家勢は伊賀へ逃げ帰った。 秀義の墓は近江八幡の長命寺にある。(説明版に義秀と記されているのは間違いである。)
*源平盛衰記
 寿永3年7月伊賀国山田郡の住人平田四郎貞継法師という者あり。これは平家の士肥後守貞能の弟なり。平家西国に落ち下り安堵し給わずと聞こえければ日比の重恩を忘れず当家に志ある輩伊賀伊勢両国の勇士を催し、平田の城に集会し近江の国をうちしたがえて都に入るべしと聞こえければ、佐々木源三秀義は我が身老体なれば東国西国の軍には子息共を差し遣わし下向せず。近きほどに敵の籠りたるを聞きながら黙止するに非ずとて、国中の兵を催し集めて伊賀国に発向す。
 甲賀上下の郡の輩馳せ集まりで相従いけり。秀義は法勝寺領大原の荘に入り、平家は伊賀の壬生野平田にあり。行程三里を過ぎざりけり。伊賀の国の住人壬生野新源次能盛というもの計いけるは、当國は分内狭し、大勢乱れ入りては国の煩人の歎きなり。近江國へ打ち出て鈴鹿山を背にあてて軍せんに、敵弱らば蒐んとす、敵健ならば山に 引き籠り一戦せざるべしとて、源次能盛貞継法師三百四騎を引率して柘植の郷与野の道芝打ち分けて、近江国甲賀郡上野村渋窪篠鼻田堵野に陣をとりて北に向かいて控えたり。両陣七八段に過ぎざりけり。

風呂屋谷
 大字和田と五反田との境界辺にある岡で、昔ここに鉱泉が湧き出ていて浴客が多数来ていたが保元の乱で敗れた鎮西八郎為朝も入浴したと伝える。しかし、現在はその跡をみることはできない。
<保元物語>
 八郎為朝近江の国和田という所に隠れいて、郎党一人法師になして乞食させて日を送りける。筑紫へ下るべき支度しけるが、平家の侍筑後守家貞大勢にて上がりければ、昼は深山に入りて身を隠し、夜は里に出でて食事を営みけるが、有漏の身なれば病出て灸治など多くして温疾大切の間古き湯屋を借りて常におり湯をぞしける。ここに佐渡兵衛重貞という者宣旨を蒙りて国中を尋ね求めける所に、或る者申しけるは此の程此湯屋に居る者こそ怪しき人なれ。大男の怖しげなるが流石は尋常げなり。歳は二十許りなるが額に創あり、由々しく人に忍ぶと覚えたりと語れば、九月二日(保元元年)湯屋に下りたる時、三十余騎にて押し寄せたり。為朝真裸にて合木お以て多数の者をば打伏せたれども大勢に取籠られていひかひなく搦られけり。

<戦国武将>
和田惟政
 惟政は和田の人で、応和年間(961〜3)甲賀郡の郡司であった源満政17世の孫という。甲賀21家の一つで、他の甲賀武士同様佐々木六角氏に仕え、その縁で足利義輝の供衆となっていたが、永禄8年(1565)5月19日、惟政が和田城に帰っていた時に松永久秀が二条城に義輝を襲って殺し、更にその弟覚慶にもその魔手が及ぼうとした。覚慶は興福寺一乗院の住職をしていたが、松永勢に囲まれているところを細川藤孝らに助け出され春日山を越えて上柘植から和田惟政の屋敷にかくまわれた。その後惟政は六角義賢の助けを得て覚慶を矢島(現守山市)の少林寺境内に建てた館に移した。覚慶はここで名前を義秋と変え還俗したが、義賢の子の義弼が三好方と内通したため危険を避けるため妹婿で若狭の守護大名である武田義統を頼り、更に越前の朝倉義景の庇護を受けた。義秋は義景に上洛を促すがなかなか応じようとしない。そのうちに義栄が将軍に宣下されて義秋の落胆と焦燥は募るばかりであった。名も秋の字は縁起が悪いと「昭」にかえ義昭と名乗った。丁度その頃信長は岐阜の統一に成功したので、側近の藤孝は、その頃義昭に仕えていた明智光秀に密書を持たせて信長の所にやり上洛を促した。信長は渡りに船とばかりに直ちに応諾し、使者を義昭に出してまず岐阜に来るように勧めたが、その使者のなかに和田惟政も入っており、信長とのつながりがこの頃から始まっていることが分かる。
和田氏はそれから信長にしたがい畿内の掃討戦に加わり摂津の芥川城主、更に高槻城主ともなり京都所司代にもなった。しかし、元亀2年摂津の池田氏と荒木村重の連合軍と白井河原で戦い戦死する。享年37歳であった。
滝川一益
 滝川一益は大原中や櫟野の生まれという説(甲賀郡志)があるが審かではない。伴氏系統の大原氏一族と思われるが、紀氏の系図があり紛らわしい。紀氏の系図は氏名等詳しいので歴史事典もこれに依っているものが多い。
この説では、「紀長谷雄の玄孫高安庄司左衛門佐雄致(おむね)五世の孫・八郎貞仲の曾孫八郎貞勝、初めて一宇野城に移り住す。これ滝川氏の祖にして、その子八郎一勝(久助)、その子久助一益(左近将監)なりと。」また、一益の欄には「幼年より鉄砲に長ず。河州において一族高安某を殺し、去りて他邦にゆき、勇名をあらはす」と書いている。しかも殺された同族が叔父にあたることも系図上明らかにしている。 これを真とすれば、次のようになる。 一益の祖父(貞勝)が櫟野に城を築き、その子一勝(滝川三郎)は嫡男範勝に城を譲って、新たに滝城に移り滝川氏を名乗る。その一勝の次男が一益で、父の跡を継いで滝城主となったが叔父を決闘で殺してしまい城主の地位を追われて放浪する。永禄3年(1558)の34歳の時であった。幸いしたのは従兄弟に池田恒興(父一勝の弟滝川三四郎は摂津池田城主池田政秀の養子となり、池田恒利を名乗る。恒利の妻は養徳院で織田信長の乳母であった。その子が恒興。ついでに恒興の子の輝政は後の姫路城主である。)がおり、その世話で織田家に仕えることにことができたことである。鉄砲の射術や政治力にたけていた一益は信長に認められ、それからとんとん拍子に出世する。永禄12年(1569)には尾張蟹江城を与えられ、翌年信長の伊勢征伐にしたがい大河内城を攻め落とし、功によって北勢五郡を賜り、天正2年(1574)長島一揆を平定後長島城主となった。続いて長篠役、摂津伊丹城攻撃、武田氏討滅に大功あり上野国および信濃の佐久・小県二郡を領し厩橋城主、関東管領、左近将監になった。
 信長の死後は北条氏と戦って敗れ、また、柴田勝家と共に秀吉と戦い敗戦した。その後も種々画策したけれど望みを果たせず京都妙心寺で僧となり、越前あたりで死亡したという。晩年は哀れであった。
 他方、伴氏系図を信じると、滝川氏は昔源義家の家臣として後三年の役で活躍した伴四郎けん仗資兼の子孫で甲賀郡大原の住人ということになる。資兼の3代後に資乗(設楽六郎大夫、三河大介、安芸守)がいて、これが江州甲賀郡大原郷へきて大原氏の祖となり、その子盛景(大原三郎)の系統に位置づけることができる。この系図では一益の祖父は資恒(左衛門佐)父は滝川三郎(豊後守)である。
中村一氏
 一氏は多喜氏の出で、弥平治一政の子で、初め滝孫平治と称し、後中村式部少輔と改める。滝川一益と同じ伴家一族である。秀吉に仕えて戦功あり、岸和田城主となり従五位下式部少輔に任ぜられる。天正13年(1585)7月、6万石の水口岡山城主となる。
 この水口を含む甲賀の地は所謂甲賀流忍者の本拠であり、甲賀21家、53家で代表される群小の地侍層が甲賀郡中惣のもとに団結して外敵に対処してきた所である。信長の時代には六角氏と組んで敵対したこともある。畿内のひざ元にどっちへ就くか分からない武力集団を自由にしておけないというのが秀吉の考えだったのだろう。甲賀の中心地にぽっかり聳えた岡山に城を築いて甲賀全域に睨みをきかすこと、そのためには事情に明るいこの土地の出身武将を城主にする必要があると、多喜氏出身の中村一氏に白羽の矢が立ったと思われる。しかし、6万石といってもどこからか取ってこなければならない。甲賀武士は一時は逆らったものの、六角氏が滅びてからは信長につき、その後は秀吉の麾下に属している。領地を取り上げる口実を作らないと目的を達することができない。そこで考え出されたのが、まず第一に「敵に通心した」という濡れ衣を着せることであった。篠山氏はその例で、信長の時代から繋がりのあったことが災いして信雄攻めのときに「通心」の疑いをかけられ領地没収の憂き目をみた。二つ目は「落ち度を作ること」で、雑賀攻めのとき水攻めの土木工事がうまく進まなかったとの落ち度をつくり、領地没収を敢行した。佐治氏はこれに服さず反抗して滅ぼされている。領地はこうして岡山城主に集中された。
 中村氏はその後天正18年(1590)の小田原城攻めに武勇を奮い、封を駿河国府中に転じられ14万石を賜ることになる。あとを継いだのは増田長盛、ついで長束正家である。
 秀吉の死後は徳川家康に属し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには病のため参加できなかったが家臣は美濃大垣で活躍した。同年城中にて没す。