夏と秋のまだらな境目におれの世界はあった。小さな空間を飛び回る粒子のごとく、気が向くまま注意力を散漫にさせる。耳にさしたイヤホンから流れてくるのはヴェクサシオンだった。何回繰り返したのか忘れてしまった。汗が滑り落ちて映像を一瞬ゆがめる。おれはまばたきを繰り返して視界を確保した。
さきほどからおれの視線はセミに釘付けになっている。
アパートの二階のベランダはとても薄いコンクリートでできていて、軽く叩く気すら起きない。無数のひびが入っているのだ。いつ崩れてもおかしくないベランダに体を乗り出す気にならない。窓を開けて床に座り込み、おれはずっとセミを見つめていた。灰色のもろい鉄板の上に、セミが体を晒している。セミは時折日光に焦げたような音をたてて、羽をわななかせた。太陽にあぶられたその光景は、夏のにおいがした。
「ねえ、死んだ?」
忘れられた女がそう自己主張する。求めるだけ求めたあと、おれはすっかり女の存在を忘れていた。その点で女の自己主張は成功したと言えるだろう。女への愛情をもってはいたが、今それに煩わされるのは嫌だった。おれは女の問いに「まだ」と簡潔にこたえた。エリック・サティの言いつけ通り、ヴェクサシオンを840回繰り返している。昨夜から聞き続けているこの繰り返しを聞き終えるのとセミが死ぬのは、一体どちらが早いだろう。
「殺してあげたら」
おれは承諾も拒否もせずに女を見た。女は世界のすべてに興味をもたない顔で嘲笑した。他の誰かや世界を笑ったのではない。女は自分を笑っているのだ。
耳元で延々と流れる独特の旋律がおれの忍耐力を削っていたのかもしれない。
おれは女を抱きよせた。耳たぶに唇をよせて、嘆息した。顔をあげた女の唇に触れる。乾いてひび割れた唇は、そのままベランダを思い出させた。女の吐息がおれの指先をかすめていく。
吐息に温められ、わずかに湿った己の指先を女の髪にうずめた。頭皮をまさぐるとひきつった傷痕を見つけた。おれは指を止めて、わずかにためらうふりをし、その傷痕をそっと指の腹で撫でて確かめた。
「暴行のあとなの」
女の声におれは首をかしげる。女は世界のすべてに興味をもたない顔のまま、おれの問いに静かに「父に酒瓶で殴られた痕よ」とこたえた。
指先に感じるわずかな皮膚の隆起は、細胞が断裂したことを思わせた。阿呆のように口を開いたままでいる傷と破れた血管、噴き出す石油のような黒い血液。頭皮が一層青白く感じられた。
傷痕の妄想は貧血のようにおれの意識を遠くさせる。そこから逃れるように、おれは女の鎖骨に舌をはわせた。耳からイヤホンが飛んで、作曲家が嫌がらせと称した曲が遠くへ消える。
ヴェクサシオンが聞こえなくなると、急にセミが気になった。
おれは女の胸から顔を上げて窓の外に視線を投げる。太陽は懲りずに灰色の空間を焦がしていた。
「そういえば私、あなたには殺してって言ってなかったわね」
唐突な女の言葉に、おれは面食らった。女の白い肌は血液を感じさせないから好きだった。おれは血液など好かない。
「いいや。君はさっき、確かに殺してと言った」
「それはセミの話でしょう」
世界のすべてに興味をもたない女はようやくなにかを見つけたように微笑んだ。おれは自分に向けられた女の視線を感じて目を閉じる。視覚を封じた分、毛細血管のうごめく様子が感じられて一層不快になった。
「セミじゃないのか」
「私をよ。つきあった人に、大抵一度は言うんだけれど」
「君を? 頼まれたことがないな」
女の体がおれの体にのしかかる。何かが頬をかすめて、次の瞬間にサティが耳に戻ってきた。ヴェクサシオンは相変わらずやむことなく続いていて、840回にはまだまだ遠そうだった。
「あなたには殺して欲しいと思わないの」
女はおれに体を預けたらしい。胸元に頭の重さを感じた。その重さは問うことをおれに要求していた。
軽く結ばれた唇をゆっくりと開く。上と下の唇は少しの間別れを惜しんだが、すぐに互いを忘れた。おれはそれをあざ笑うように言葉をつむいだ。
「それはなぜ?」
「あなたが私を癒すから」
既に用意されていた答えだったに違いない。けれども女は焦らすことをしなかった。それは好感がもてた。おれは他人の操作する時間につきあわされるのが嫌いだ。
「もし癒されていなければ、君はおれに殺してくれと頼んだ?」
「多分ね。これは逃避だから、最も強い」
黒い血液が、血管の中で踊る。彼らは哄笑する。
「私をすべてから守ることができないのなら、せめて私を逃避させて、ということだから」
「すべてから? 守れる訳がない」
女は少し笑ってから「あなたは癒すからいいのよ」と言った。
ヴェクサシオンの合間でセミの悲鳴が響いた。
「あなたは私の新しいお父さんだから」
女が微笑む様子が目をつぶっていても伝わってきて、おれは恐怖で光を求めた。
踊らされているのは、おれだ。
肉体的な関係なんてもつんじゃなかった。そんなのは性的虐待と同じじゃないか。癒すからいいのだと女が笑っても、おれには納得できなかった。
紅をささない女の唇は、口腔の赤の延長線上にあった。真夏の車に一人取り残されたような息苦しさを覚えて、おれは慌てて視線を外に逸らす。灰色の鉄板であぶられ続けている死にかけのセミが視界に入った。もう動かないそれは、死んでいるのか生きているのか判別がつかなかった。ヴェクサシオンはまだ終わらない。
サティのバカと小さくつぶやいた女の体が急速に色を失う。強い吐き気がした。二度とこの女を抱くまいと思った。
<おわり>