高い梢から落ちる雨粒は途中で葉にさえぎられ、弾けて消えた。小雨が空を斬るなか、消えた音に耳を傾ける者はいない。
雨を十分吸いこんだ瓦屋根がポツポツとかすかな音をたてたが、水たまりを駆けぬける足音でかき消されてしまう。
瞳を死人のように大きく開くと、
佐原長太郎は刀を抜きはなった。その白眼には紅の筋が無数に走っている。額をつたう雨だれとも汗ともつかない雫が、ときおり視界をゆがませていった。
早足で小道に入ると、ずらりと並んだ格子戸の町並みが板塀に姿をかえた。小道の入り口でふりかえって息を殺す。呼吸を整えて身を低くした。
さきほどから頬に髪がはりついてしようがない。額からすべり落ちた雫が鼻の脇をつたい、あごの先から落ちた。
泥をはねる音が聞こえる。怒号に混ざった足音は、長太郎に追っ手の数を察知させた。
三人。
雨音にまぎれても、足運びはそれぞれ違うものだ。血肉を食らう獣のごとく、風下の獲物を数える。否、獣は雨の中で臭いを嗅げぬ。五感のすべてをとぎすませて、長太郎は柄をにぎりなおした。
まだ、まだだ――。
唇をなめる。雨が舌先をほんのり刺激した。
「佐原ッ、待てッ」
追っ手が小道に入った刹那、長太郎の腰間から白刃がおどりでた。瞬時に追っ手が鉢金をしていることを見てとる。下段から斜め上に銀光が閃き、血煙が上がった。
男はよろめいて板塀に背を預けながら、刀を大上段にかかげた。間髪入れずに長太郎がとどめをさす。鉢金の男は憤怒に瞳をくわと見開き、血を吐いた。最期の一撃を加えようとした手から刀がこぼれ、あふれた鮮血が板塀を見事に染めぬいた。
長太郎はその様子を血走った眼に刻み、一つ息を吐いた。鉢金の男の腹を蹴って刀を抜くと、力を失った身体が地面にひれ伏した。雨をふくんだ地面は血を吸うことを拒んでいる。水たまりに溶けた血が溝に流れていくのも見ず、長太郎は走り出した。あえぐように息を吸う。春先の湿った空気が体の芯に入りこんだ。
朱色の水たまりに浮かんだ同胞を目にして、着物の裾を尻からげにした男が声をかける。すでにこときれていることを知ると、怒りのままに声を発してより早く駆けた。そのあとから羽織の男がやって来て、左手一本で軽く拝んで続く。
雨はいっそう激しさを増した。ぬかるんだ足元によろめきながら長太郎が逃げる。二人の追っ手が迫りくる。
次の小路に出た。
「神妙にせよ!」
長太郎はふりかえると、血走った目を見開いて唇だけで笑った。あまりの禍々しさに尻からげの男があとずさる。瞬時に長太郎が飛びかかり、間合いを詰めた。
男は真正面上段からの一閃を十手で受け止めようと構えるが、長太郎の剣筋に淀みはない。十手で受けきれぬことを悟った尻からげの男は、斜め後ろに跳んで長太郎の刀をかわすと、風圧を感じてすぐ一歩前に踏みこんだ。長太郎は刀を返して受けてみせる。不利な体勢をねじふせるように、十手が目の前に迫る。刀をひいて後ろに跳び退った。
「あッ」
男の得物は拮抗する力をなくし、空を斬った。左半身ががら空きになる。長太郎が一歩踏み出そうと体を縮めた瞬間、背に殺気を感じた。羽織の男をちらと見る。刀を抜いて気を発している。長太郎は迷わず十手の男の胸を狙って突きをくりだした。貫いた手ごたえもそのままに、羽織の男の動きに気を配る。三人目の男はすさまじい勢いでその業を見せた。
かつん。
正眼から斬りつけてきた羽織の男の刀を、鞘ではらった。鞘が途中で斬れ、音をたてて転がる。十手の男の胸に残ったままの刀を右手でひねる。骨がひしぐ音がした。再び長太郎に斬りかかろうとする羽織の男の刀をすんでのところでかわして、すでに絶命した二人目の胸から刀を引き抜く。長太郎は返り血を浴びながら、残った一人に向き直った。
「幕府の犬じゃあねえようだな。てめえを先に斬っておけばよかったか」
血刀を右上段に構えて、長太郎は羽織の男をひとにらみした。相手はほんの少し口元をゆがめて笑う。
「脂で刀が斬れなくなってきたのかい。そいつは好都合ってもんだ」
静かな湖面が一滴の雫を受けて騒ぐ。長太郎の背筋を快感とも恐怖ともつかぬ悪寒が駆けのぼった。強い殺気が放たれる中、目を細めて意識を保つ。
ほんの数瞬、雨音があたりを制した。膠着状態が続く。
やがて刀と刀がぶつかり、高い金属音が鳴った。
――格が違う。こいつは最初からしとめるつもりで剣をふるっている。
羽織の男の殺気は本物だった。取調べのために殺しをしない岡引どもとは根本的に違う。
長太郎が半身をひくと、刀の切っ先が頬をかすめた。
雨や汗とはちがう、暖かい粘性の液が頬をつたう。のったりとあごへと向かう雫は、間合いを詰めろと長太郎を突き動かした。
さきほどの悪寒が再びあらわれて、長太郎の背中を龍のごとく駆け上り、荒れ狂う。それはきっと己の恐怖心だ。膝がふるえるのを気力で押しとどめた。気を抜けば、身体ごと地面に崩れ落ちそうだ。刀の鍔が小さく鳴っている気がした。
怖気づいたわけではない。雨のせいだ。
背中で暴れていた龍が空に向けて飛翔する。瞬間、長太郎の思考から雑念が失せた。湖面から漣が消える。掌に愛刀の重み。皮膚感覚だけは、しっかり残っていた。頬をつたう血が雨で洗い流されていくのがわかる。
気付けば一歩前へ踏みこんでいた。一気に間合いが詰まる。意識せず、刀が右上段から斜め左下に直線を描いた。
三人目の鍔がぱっくり割れて、羽織の男が歯軋りをもらした。拳をかすったらしい。
そのまま次の一撃を加えた。横に薙ぐ。ひゅ、と風が起こると、長太郎の腕から雨の雫が飛んだ。
羽織の男は身をひこうとして目を瞠った。先を板塀に阻まれている。次の瞬間、男は深く刻まれた苦痛に顔をゆがめた。
あばらの下を斬られた羽織の男は、一度大きく体をふるわせると地に倒れた。板塀に赤い花が開く。背の部分だけ残して、両脇に鮮血が散った。
刀の先から滴り落ちた血潮が水たまりの中に落ちる。
地面に広がる血の海をながめながら、長太郎は荒くなった息を整えた。火照った頬を、雨が少しずつ冷ましていく。
長太郎は刀を一ふりして、まとわりついた血を落とした。刀をぼろ布で拭き、刃こぼれを確かめる。わずかに欠けているのに気付いて顔をしかめた。何度も研ぎなおした刀はひどく薄かった。
鞘の欠片は天から降り注ぐ雨を黙って受けていた。手にとってみると、見事なまでに両断されている。ぼろ布で鞘を巻いて固定するが、刀は収まらなかった。
ふと、死体を見下ろした。
地面に転がる死体の口は力なく開いて、雨をためていた。赤い傷口から黄色い脂がのぞいている。指を三つ折ってから、長太郎は歩き出す。この一週間で何人斬ったのかすら思い出せない。
屍の上に、今の己は立っている。以前は一歩進むたびに、自分が目的を達成したのだという喜びを感じた。それが今はどうだ。もう、何も感じない。何も考えられない。ただ己の志したものとちがうことだけは、はっきりしていた。
幽鬼のごとき足取りでいくつかの小道を過ぎる。ぼうとした意識に割りこむ強い香りを見つけた。裏木戸をくぐる。
沈丁花の葉にのった雨粒が落ちて、小さな音をたてた。
「ご苦労さん」
家の女主の声に顔を上げる。仲介屋の関西訛りのその声に低くこたえると、長太郎は縁側に座った。薩摩のお偉方が大坂から呼んだ妾だというが、詳しいことまでは聞いていない。知りたくもない。
女主が新しい着物一式と共に小判を数枚置く。金だけ受け取ると、長太郎はすぐに立ち上がった。
「着物、替えへんの」
「乾けば目立たねえよ」
「臭いは消されへんよ」
長太郎は身をかがめて視線を逸らした。着流しの裾を手ではらうと、血の混じった雫が飛んだ。雫は縁側の上で小さく揺れている。ほんのりとにじむ赤は、沈丁花の色に似ていた。
「また寄ってって。上から知らせがあるやろし」
女主が猫のような目を細めて笑うのを、左手であしらう。沈丁花のそばの裏木戸をくぐって小道に出た。空から光が差しこんでいた。
天をあおいで、長太郎ははじめて雨が落ちてこないことに気付いた。
>>つづく