戦国乱世の傾奇者-前田慶次について-
アナザーサイド
〜前田慶次についての片手間でやっつけ仕事な考察〜

by緋色


3.君はいつ作られたの?
 前章で前田慶次の実像が朧気ながら見えてきたと思う。慶次の内面だけを考えても、その実像と 一般的なイメージの間には溝があることがわかった。また1章で見たとおり、慶次の外的状況、 つまり彼の事績については確実性のある同時代史料からはほとんど確認できないことも明らかに なった。それにもかかわらず、現在、我々はかなり豊かなイメージやエピソードを慶次について 知っている。これらは近世以降に作られてきた、慶次に対する虚像の集大成であると考えられる (現実をモデルとしているにしてもそこに脚色があることは否めないであろう。)。それでは、この 「前田慶次伝説」はどのようにして形成されたのであろうか。以下に考察してみる。
 一章でも触れたとおり、諸先学に導かれながら、その確実な文献史料を追って行くと、 その実存が確認できるのが『前田慶次道中日記』『会津陣物語』『可観小説』『上杉将士書上』 『翁草』である。『前田慶次道中日記』は、すでに分析したように本人の日記であり、同時代史料で あるから、以下ではそのほかの『会津陣物語』『可観小説』『上杉将士書上』『翁草』の分析を 通して、いかにして「前田慶次伝説」が形成されたかについて考えてみたい。
 まずは、下にこれらの作品についてまとめてみた。

@『上杉将士書上』
   作者:清野助次郎・井上隼人正
   成立:慶長二十年(1615)
   含有説話:景勝に初めて挨拶したとき「穀蔵院ひつと斎」と名乗る。
        関ヶ原合戦の際、直江兼続の切腹を諌めたのち、最上軍と奮戦。
        関ヶ原合戦以降、諸大名を見限り隠遁。
          (どうも、景勝にも従わなかった、と言うニュアンス。)
        詩歌など風雅な人で、一条兼良(関白)、西園寺公朝(右大臣)、三条
        公光(大納言)、千利休などと交友あり。           

A『会津陣物語』
   作者:杉原親清
   成立:延宝八年(1680)
  含有説話:「だいぶへんもの」の話。
        関ヶ原合戦の後、諸大名を見限った話。

B『可観小説』
   作者:青地礼幹
   成立:寛保三年(1715)
   含有説話:確認できず。
        (『加越能叢書』と言うところから活字にされているそうだが、国会図
         書館等にもなかった…。)

C『翁草』
   作者:神沢社口
   成立:寛政三年(1791)
   含有説話:利家に水風呂。
        林泉寺で性格の悪い僧侶にでこピン。
        銭湯で「脇差しを差したままはいるのこそ徒者」と言い、自分だけ竹の
        脇差し。(真似た人は鉄の脇差し=錆びる。)
        「だいぶへんもの」の話。
        武道に優れているとして特に免許された者しか所持できなかった朱塗り
        の槍を強引に所持。
        切腹しようとした兼続を諌めて、最上・伊達と奮戦。
        関ヶ原合戦の後、諸大名を見限った話。
        松風(彼の馬)の話。

 さて、上のようにまとめてみたが、一番新しい『翁草』が、最も内容が豊富なことに気が付く だろう。すなわち、このあたりが「前田慶次伝説」の集大成と考えて良さそうである。しかし、 『翁草』は単に集大成と言うだけではない。最も古い(=最もリアリティが高い)『上杉将士書上』 と比べたとき、同内容のエピソードにおいても、両者の間には、格段の違いがある。例えば、慶次が 関ヶ原合戦の後、諸大名を見限ったと言うエピソードについて、『上杉将士書上』は次のように記す。
 後関ヶ原一戦、景勝、米沢へ移り候節、諸家にて招き候へども、望みなしと申して 妻子も持たず、寺住持の如く、在郷に引込み、
 いたってシンプルなものである。それに対して『翁草』においては、
 関原御陣過、上杉百万石召上げられ、唯三十二万石に成り、米沢へ所替家中大かた隙 出る、慶次は元来覚の者、殊に此の度最上口の槍にて、高名誉天下に聞え、七八千石に て抱度と云人余多有り。慶次曰、天下に我主は景勝より外になし、其子細は石田治部、 一味の大小名、関原口上方負に成と否、人質を渡し、便を求め、降参して立つ足もなく、 浅間敷次第なり、其類を主に取事、堅くいやなり、又家康公御譜代衆は、近頃迄又者な り、夫を主には猶いやなり、越前黄門様か、尾張の下野様か、籾は景勝より外になし、 関原にて味方敗亡しけれ共、少も弱気を見せず、一言の降参を不乞、翌年四月迄ひたと 合戦せられしを見れば、大剛一の大将は景勝なり。主には上有べからずとて、景勝家を 不出、子息弾正大弼忠勝代迄長命にて罷在、米沢にて病死す。
 と、質量ともに、かなり豊富になっている。しかしその内容を検証したとき、『翁草』では、慶次が 諸大名を見限った理由の第一を、諸大名が関ヶ原で負けるととたんに家康に尻尾を振りだしたことに 求めている。これは、いかにも元禄期以降の平和な時代の発想と言わざるをえない。弱肉強食で、 食うか食われるか、力だけが正義の時代に、「忠義」という概念は、おそらくその発想さえなく、 ましてやそれを美学とする考えなどあろうはずがない。生き残ることが最大の美学であり、 そのための手段を言っていたら、それこそ滅亡してしまう。そのような社会だからこそ、慶次の 言ったとされているような発想は、あくまで後世の人間の思い込みに過ぎない。例えば終戦直後の 日本で、「働くことなど間違っている。」という思想が美学として存在しただろうか。 「余暇を持って」なんて言う思想は、高度経済成長を遂げたあとだからこそ生まれたのである。 それと同じで、弱肉強食の自力救済的世界(=中世)が幕を閉じ、絶対的な公権力が自力救済を 禁じた平和な世界(=近世)だからこそ、のほほんと「忠義」なんて言葉遊びが始まったのである (そもそも「忠義」という思想は、儒学的な概念で、それは身分固定を目指す江戸幕府が率先して 初めて啓蒙したものである)。何が言いたいかというと『翁草』の内容は、あくまで近世以降の 風潮の影響を受けており、慶次の実像にまつわるエピソードをそのまま集めたのではなく、近世的 スパイスを加えて、極めて肥大化したものであると言うことである。
 さらにもう一つ『翁草』に難癖を付けるなら、『上杉将士書上』の記事を読む限り、そもそも 慶次は、別に諸大名を見限ってなどいなかったと思われるのである。『上杉将士書上』には「望み なし」とあるだけである。「望みなし」の対象は何であろうか。なにも諸大名のパーソナリティに 望みがないと読む必要はないのである。単にこれ以上世俗の権力に仕えようと言う願望がなかったと いう意味ではないだろうか。だからこそ隠遁したのであろう。要は、くたびれたんでしょう、世俗に。
 さてさて、以上のように「前田慶次伝説」は近世に入って極めて肥大化したことが明らかに なったと思うが、次に、「前田慶次伝説」がメジャーになって行く過程をもう少し、別の観点から 考えてみたい。
 『上杉将士書上』の解題をしてみよう。これに関しては、今回利用した『戦国史料叢書』の解題を 引用する。すなわち
「上杉氏の二十五将として知られた国侍たちを中心にした武将の略伝である。 上杉軍役帳その他に見える武将をとりあげている。奥書によれば、慶長二十年に清野助次郎・ 井上隼人正が書置いたものを、寛文九年五月酒井忠清を通じて幕府に差し上げたとあるから、 『続本朝通鑑』編修の際に作成されたものと考えられる。」
 ちなみに、清野助次郎、井上隼人正と言うのは何者かというと、奥書の署名の所に 「上杉弾正大弼内」とある事から、上杉の家臣であることがわかる。すなわち、『上杉将士書上』は、 上杉領内で造られたことがわかり、当然そこに含まれている内容も、上杉領内及びその付近で 醸成されたものと言えよう。
 さて、同じく『会津陣物語』についても考えてみる。これに関しては『改訂史籍収攬』の解題を 参照する。
「杉原親C選、國枝C軒重訂せり、C軒自序に擬せり、關原軍記數巻あれとも、會津の 事蹟を欠けるを以て、酒井忠勝之を捜索し、杉原常陸介の一族親Cに命して輯めしむ云々とあり、」
 とある。平たく言えば、杉原常陸介の一族の親清が編修したわけだが、では、こいつは誰? 取り敢えず『姓氏家系大辞典』を開く。杉原の項に大阪の陣で活躍し、将軍家から誉められた 杉原常陸介なる人物を発見。そこの小項名は「越後の杉原氏」で、説明には「米澤林泉寺に墓あり。」 とある。確実に上杉の家臣です。このように考えてくると、「前田慶次伝説」の出所は、上杉氏の 周辺であったことが見えてくる。 それでは、次に『可観小説』。これは『史籍解題辞典』を参照。 すなわち
「(著者の青地礼乾が)正徳五年に主君の加賀藩主前田綱紀へ上程した当時の名士の 言行録に、読書の際に得た知識を書き加えたり、世間話の奇怪なものや、愉快なものを書き加えた もの。」
 とある。要は、加賀藩で加賀藩主のために加賀藩士の青地礼乾が記したものである。つまり、 上杉で醸成された「前田慶次伝説」に、いち早く反応したのは加賀、すなわち前田氏であった のである。
 以上のように考えると「前田慶次伝説」は、上杉で生まれて前田で育ったことになる。慶次が、 前田・上杉に縁の深い人物であることが窺われるのである。
 最後に、慶次縁の地で誕生・成長した「前田慶次伝説」がその後どうなったかについて付け加える。 すでに述べたように『翁草』における「前田慶次伝説」は極めて肥大化したものであった。また、 集大成でもあった。そして『翁草』の作者は、神沢社口であり、彼は京都奉行所与力である。 このころ(18世紀末)までには、「前田慶次伝説」は、全国区になり、その内容も豊かなものと なり、ほぼ完成したと言えるのであろう。
 以上のように「前田慶次伝説」は、元和の偃武の元、慶次縁の上杉領近辺でその産声を上げ、 元禄の平和な風に吹かれて、やはり慶次縁の加賀へ流れ着いた。そして化政の円熟を背に、全国に 広がりその完成を見たのである。(更に付け加えるなら、その後隆慶一郎により戦後日本に再び その姿を現し、『少年ジャンプ』によりスターダムにのし上がったのである。)

おわりに
 以上に述べてきたように、前田慶次は一般的に知られているイメージとは裏腹にその実像は ほとんどわからない、謎めいた人物である。しかし、わずかながらも知りうる情報を辿っていくと、 「前田慶次伝説」のモデルとなった前田利益という人物は、前田・上杉に関わりが深く、また 教養豊かな雅人であった姿が浮かび上がってくる。しかし、やはり現在に伝わる「前田慶次伝説」の イメージとその実像には隔たりがあり、それは近世を通じての「前田慶次伝説」の成長、正確に 言えば肥大化の結果であると考えられるのである。
 しかしだからといって「前田慶次伝説」の虚偽性を指弾したいわけではない。「前田慶次伝説」は 忠臣蔵と一緒で、平和と引き替えに手に入れた退廃的な風潮のもと、近世の諸階層の人々が、その 理想像、憧れの象徴として生み出したものであり、そこには多くの人々の祈りや願いがこめられて いるのである。戦国に比べて、江戸の日々は、緩やかで穏やかなものであったであろう。そのような 日々を過ごしながら、当時の人々が何を願ったか、平和ボケが叫ばれて久しい現代社会を考える 上でも、それは多くの示唆を与えてくれるのであろう。
 ホンットに、思いつきでやりだしたこのお遊び、気が付けば現時点で、原稿用紙にして34枚。 もう少し詰めるべきところを詰めれば、卒論になっちゃうよ。たぶん教授一人あたりの学生数の多い 私立大学とかだったら、たぶん通るよ、こんなんでも。誰か買わないかなぁ。一文字10円くらいで。 そうすると34×400×10で、136000、十三万六千円、良い小遣いになるなぁ。
 思いの外疲れた。もうしないぞ、こんな事。愚痴を並べて項を閉じよう、さようなら。

編集者から一言
 …というわけで、緋色もここまで読んでくださった方もお疲れ様でした〜。
 いや、それにしてもシビアに歴史学的手法で調べていくとホンマに夢がなくなっちまいますな(^^;
 歴史を「趣味」の域で止めておいて正解だったかも(笑)
 それはともかく緋色よ、今度は花房職秀と名古屋山三郎のレポートを…(←話を聞いてない)

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