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名古屋山三郎(なごや・さんざぶろう)は安土桃山時代の人物であり、因幡守高久(いなばのかみ たかひさ。敦順(あつのり)とも)と織田信長の姪にあたる養雲院殿との間に生まれた。生年は はっきりしない。絶世の美男子であったと言われている。なお、彼の嗣子蔵人は加賀藩士となって 3000石を与えられ、「那古屋」の姓を名乗っていたが、前田綱紀の勧めで子孫は「名越」と改姓した。 蒲生氏郷に小姓として仕え、「氏郷記」によれば彼は15歳で氏郷による陸奥名生(みょう)城攻略 (天正18(1590)年11月)に従い、一番槍の武功を立てた。この頃から山三郎は美男の勇士として 有名になったらしく、 「槍師、槍師は多けれど、名古屋山三は一の槍」 と囃し歌が流行ったほどであった。 氏郷が没した文禄4(1595)年2月以後は京都に浪人して四条辺りに住んでいたという。剃髪して宗円 (そうえん)と称したが慶長の初めに還俗、九右衛門(くえもん)と改名し、慶長5(1600)年に 妹於岩が美濃国兼山城(岐阜県可児郡兼山町)城主森忠政の正室であった縁から忠政に仕えて5000石 を与えられた。 1603年、忠政の移封に伴い美作国院ノ荘(岡山県津山市)に移ったが、同年4月10日築城工事の現場で 同僚の井戸宇右衛門(いど・うえもん)と喧嘩して刃傷に及び、相討ちとなって双方とも死亡した。 「森家先代実録」によればこの時山三郎は32歳、「氏郷記」によれば28歳という。後に京都大徳寺 高桐院(こうとういん)に葬られ、梅林院殿久嶽宗遠居士という法名が付けられた。 この大徳寺高桐院開祖・玉甫(ぎょくほ)の「玉甫録」によると、山三郎は武勇に優れた美男子と いうだけではなく、遊芸にも通じた伊達男だったという。そのためか、彼の周りでは艶事の話が絶えず、 彼の死後出雲阿国が歌舞伎で自分のかつての愛人として脚色したことから2人の関係についての うわさが広まった。例えば「懐橘談(かいきつだん)」では山三郎は阿国歌舞伎の演出者とされて いるし、「雍州府志(ようしゅうふし)」「貞丈雑記(ていじょうざっき)」などには夫婦の共演者と して書かれている。いずれも俗説であるが、こういったことから山三郎は芸能文学の世界で有名に なった。 そしてさらには山三郎は浄瑠璃にも取り上げられるようになる。その最初は延宝年間頃に上演された 江戸の土佐少掾正本(とさのしょうじょうしょうほん)「名古屋山三郎」であり、傾城(けいせい。 遊女を指す)・葛城を巡って不破伴左衛門(ふわ・ばんざえもん)と争うという内容で、後の 不破名古屋物の先蹤となった。この影響下に貞享年間(1684〜88)頃、江戸市村座(いちむらざ)で 歌舞伎「遊女論」が上演され、初代市川団十郎の不破、村山四郎次の山三郎、伊藤小太夫の葛城で 大当たりした。 後にこの話は「不破」(「鞘当」)という歌舞伎にもなったが、これは代々の市川団十郎の荒事芸と して発展し、歌舞伎十八番にも選ばれている。 なお、不破伴左衛門のモデルになったとされる不破万作(伴作)は尾張出身の人物で、豊臣秀次の 小姓として寵愛されたが、「太閤記」巻17によると、1595(文禄4)年7月、高野山での秀次切腹に 先だって殉死したという。享年18歳。上田秋成の「雨月物語」中の「仏法僧」にも、彼は秀次に仕える 美貌の若侍として登場している。 《参考文献》 ◆国史大辞典10巻(吉川弘文館、平成元年) ◆日本歴史大辞典7巻(河出書房新社、昭和50年) ◆日本史大辞典(平凡社、平成5年) ◆信長の野望将星録武将ファイル(シブサワ・コウ編、光栄) |