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前田慶次は安土桃山時代〜江戸時代初期を生きた人物である。生没年は不詳で、また出自も滝川 一益の子であるとする説、あるいは滝川益氏の子であるとする説など諸説あり、さらに彼の事績を記す 史料も少ないため、その生涯には謎の部分が多い。だが、数少ない文献からは、綺羅星のごとく武将が 世に出た戦国時代にあってひときわ異彩を放つ人物像が浮かんでくるのだ。 「ひやうげ人にて何事も人に替り、出家のようなるきやうがいなり」(『桑華字苑』)これだけを読めば、一風変わった奇人といったイメージが連想されるが、一方で次のような記録も ある。 「心たくましく猛将たり」(『考據摘録』)また、慶次の詠んだ俳句・和歌として、次のような作品が残されている。 こほらぬは神やわたりしすはの海つまり、慶次は名の知れた勇将であり、種々の学問・芸事に通じた第一級の教養人であり、 奇妙な行ないを繰り返した「いたずらもの」であったのだ。ミスマッチとも言えるような 彼の多面性には、何か引きつけられるものがある。 慶次は前田利家の兄利久の養子に入った。利久は尾張荒子城主であり、順調に行けばゆくゆくは慶次 もその跡を継いで城主になっていたはずである。だが、主君織田信長の命により荒子城は利家が継ぐ ことになり、利久・慶次らは城を追われることになった。なぜそういうことになったのか、正確なこと は分からないが、利家が(一度クビになった経歴があるにしろ)信長のお気に入りだったこと、利久の 器量について評判があまりよくなかったことが影響しているのだろうか。 14年の放浪の末彼らは当時金沢にいた利家に仕え、慶次は利久からその禄高7000石のうち5000石を 与えられて越中阿尾城を預かったが、利久の死後、天正の末年(1591)頃には禄高も家族も、そして 前田家一族衆の身分をも捨てて出奔し京に上った。このとき慶次は、利家を茶湯に招いてその際彼を 水風呂に入らせ(するとこれは冬頃のことだったのだろう)、彼が悲鳴を上げている隙にまんまと 飛び出していった、という逸話が伝えられている。 上洛後の慶次の足取りははっきりしないところもあるが、この時に上のような様々な教養を磨いて いったものと考えられる。 また、「重輯雑談」には、慶次が天下人・豊臣秀吉から「傾奇御免」を受けた、という記録が ある。利家の甥に傾奇者がいるという評判を聞いた秀吉に召し出された慶次が、珍妙な恰好で罷り出て 秀吉をはじめ諸侯をひとしきり笑わせた。その後、褒美として馬を拝領する段になって一時退出し、 今度はきちんと髪や衣服を改め、作法を守った振る舞いで参上したため、 「太閤の御意に叶ひ、向後何方にて成ども、心儘に衡(かぶ)き候へと御免の御意」(『重輯雑談』)を得た、というものである。上記のとおり、この記録では秀吉の官職が「太閤」と記されているが、 秀吉が太閤となったのは1591年であることから、この出来事もこの頃にあったものと思われる。 そして、上杉景勝の名参謀・直江兼続と知り合い、親交を深めたのもこの頃とされている。 この縁によってか、やがて慶長3(1598)年、慶次は上杉家へ仕官することとなる。 慶長5(1600)年、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こり、慶次ら上杉勢は徳川方の最上義光軍と戦う ことになるのだが、会津若松城を発つときの慶次の出で立ちについて記録が残っている。 「黒具足に猿皮の投頭巾を被り、猩々皮の広袖の羽織に背に金の曳き、両筋の刺高珠子を襟に懸け、珠 子のとめには金の瓢単を後へ下げたりける」(『上杉将士書上』) 「黒糸縅の鎧に、猩々緋の羽織、金のいらたかの珠数に金の瓢を付けたるを襟にかけ、鉄澁の 山伏頭巾の冑、十文字の鎗を提げ、黒の馬の野髪なるに金の山伏頭巾をかぶらせ、唐鞦かけて 乗りたりけり」(『可観小説』)まさに傾奇者・慶次の面目躍如と言うべきであり、きらびやかな勇姿が目に浮かぶようである。 そしてこの時、慶次は「大ふへんもの」と大書した旗指物を背負っていたと言われる。これを 「大武辺者」(武勇絶倫の者の意)と読んで 「上杉は武勇の家なるに、新参の身にて斯く押出したる書付は法外なり」 (『翁草』)と文句をつけてきた腕自慢に対しては、からからと笑って、 「扨(さて)も扨も各は田舎人哉、仮名の清濁(すみにごり)を弁(わきま)え給はぬおかしさよ、 我等浪人にて貧く暮せば、大不弁者と云事なり」 (『翁草』)とやり返したと言う。「大不弁者」とは「大不便者」、すなわち大変な貧乏人の意味である。 慶次一流の諧謔と言うべきだろう。 また、いくさ場における慶次の肝の太さを示すエピソードとして、次のようなものがある。松川合戦 のとき、重傷を負った兵士がいたが、彼に薬を飲ませようにも水がない。代わりに小便を使おうと いうことになったのだが、こんな修羅場で小便を出せる者などなかなか見つからない。そこで慶次の 登場である。 「前田慶次がいはく、かヽる稠敷戦場にて、人の心逆上して小便通じ難きもの也。然共某に於ては 尋常の者に替るべしとて、草摺を引きたぐり、立ながら小便をする。則是を呑汁にして薬を與へける と也」(『雑記』)9月29日、西軍敗北の知らせが会津若松に届き、上杉景勝は軍勢に退却を命じるのだが、 殿軍を務めた兼続たちは激闘を強いられることになる。朝の卯の刻(午前6時) から申の刻(午後4時)までの10時間に、わずか1里半(6キロ)退くうちに28回の戦闘が行なわれたと いう記録(『北越耆談』)から、その過酷さが相当なものだったことが推測される。この戦いで兼続は 自決を覚悟したという。が、それを思いとどまらせたのが慶次であった。 「言語道断。左程の心弱くて、大将のなす事とてなし。心せはしき人かな。少し待、我手に御任せ候へ」 (『上杉将士書上』)こう言い置くと、最上軍に果敢に突撃し、敵の追撃の手を緩めて、上杉軍撤退を成功させる 足がかりを作ったのである。このことについて、次のような記述がある。 「敵兵ヒシト喰ヒトメテ討チ掛カルヲ 前田慶次利貞鎗ヲ取リテ敵兵ヲ突崩ス 水原常陸介モ取合セ 手勢二十余騎駈出テ防戰ス 其ノ間ニ味方ノ兵士長井境マテ引退ク (直江)山城守ハ高峯ノ尾崎ニ備ヲ設ケ 追来ル敵ヲ見下シ矢炮ヲ放ツ 山形勢シトロニ乱レ騒動スレハ 味方ノ軍士ハ切テ掛ル 山形勢二十余丁敗走ス 爰(ここ)ニシテ討トル首百余級 手負ノ者モ若干(そこば)クナリ」 (『上杉家家譜』)このときの戦いの記録は上記のような上杉方の書物だけでなく、敵方の最上家の文書にも 次のように記されている。 「ここかしこの難処へ追ひ詰め追ひ詰め討ち捕りければ、一人も助かるべしとは見えざりけり。然れども 直江は近習三百騎ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取つて返し、追ひ乱れたる 味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い捨て引き返しければ、 直江も虎口を逃れ、敗軍を集めて、心静かに帰陣しけり」(『最上義光記』)歴史が勝者によって恣意的に作られ、事実が闇に葬られるということは往々にしてあるが、この ように敵方も文書に残さざるを得ないようなすさまじい働きぶりを慶次たちは示した、ということ だろうか。 関ヶ原の後、上杉家は120万石から30万石へと減封となり、それに伴って諸将の禄も削られることに なったのだが、慶次は武功に到底見合わないと思われる微禄で上杉家にとどまった。これを 聞きつけた諸大名は競うように彼を家臣に加えようとしているが(中には7000〜1万石の禄高を提示 した者もいたという。そして、慶次の武功はそれほど見事なものだったのだろう)、慶次は次のように 言ってすべての誘いを断った。 「天下に我主は景勝より外になし、其子細は石田治部、一味の大小名、関原口上方負に成と否、 人質を渡し、便を求め、降参して立つ足もなく、浅間敷次第なり、其類を主に取事、堅くいやなり、 又家康公御譜代衆は、近頃迄又者なり、夫を主には猶いやなり、越前黄門様か、尾張の下野様か、 籾は景勝より外になし、関原にて味方敗亡しけれ共、少も弱気を見せず、一言の降参を不乞、 翌年四月迄ひたと合戦せられしを見れば、大剛一の大将は景勝なり。主には上有べからず」 (『翁草』)こうして、慶次は京の住まいを引き払って出羽米沢へ移り、慶長17(1612)年頃隠居先の堂森で 没したと伝えられるが、前田利長によって大和刈布に蟄居させられた後慶長10(1605)年に病没した との説もあり、この辺ははっきりしない。しかし個人的には、慶次の性格からすると、後者の説の 言うようにおとなしく蟄居して過ごしたとはなかなか考えにくいのだが、どうだろうか。 以上が、調べて知った限りの慶次のおおよその経歴である。いかにも現代人的な視点であると いえるが、自分としては家族を捨てたと言う一点が(きちんと誰かに世話を託したにせよ)ちょっと どうか…と思ってしまう。しかし、一個の男としての彼を見てみると、これほど魅力にあふれた人物は そうはいないのではないか。教養・武芸の両方に秀でながら、それをあえて立身出世の武器とはせず、 あくまで自分の信念・美学を貫いて戦国の世を渡っていったのだから。しかも気難しい隠者というわけ ではなく、いたずら心(過激な茶目っ気と言ってもいいかもしれないが)旺盛だったという一面が実に いい味を出しているのだ。もちろん、秀吉のように己の才能を最大限に生かしてハングリー精神で上 までのぼりつめていった武将も嫌いと言うわけではないが、上のような生き方をした慶次には、自分と しては非常に惹かれるのである。そして、「徒者・傾奇者」とは社会秩序・体制に逆らう者の事を指す そうであるが、そんなことは人並みはずれたエネルギー・精神力・能力がなければまずできるものでは ない(ただし、明確な信念も持たずにただ何とはなしに世の中に反発するような人々は論外である)。 個人的武勇に優れていたことは史料から読み取れる(記述のある史料の正確性自体を疑う考え方も あろうが、それだけの記録が仮に誇張にしても残るということは、やはり慶次が名の知れた武芸者で あることを示していると思う)が、一軍を率いる将としての統率力を疑問視する考えが多く、確かに 今回調べた限りではその点は払拭できない。しかし慶次は、それを差し引いてもなお一代の名将と 呼びうる人物ではないかと思うのだ。『日本歴史大辞典』(河出書房、昭和50年)で、慶次に関する 文を書かれた伊東多三郎氏は、「(慶次は)世をすねて一生を終った」と記されているが、僕は、 あくまで慶次は「すね」たのではなく自由気ままに、自分の信念に沿って生きていったと考えたい。 なお、慶次の子は正虎(通称安太夫)と称し、彼に関しては、 「采地二千石を賜ふ。光悦の風を学で書を能す」 (『本藩歴譜』)という記録がある。正虎は『前田家之記』(一名『前田安太夫日記』)を著し、藩の故事を 伝えたという。 また慶次自身も、1601年の10月24日から11月19日の間、京から景勝居城の出羽米沢に向かう途中で 冒頭にも書いた『前田慶次道中日記』を著している。俳句、和歌を詠み、あるいは古典を引用しながら 旅の風景を書きとめており、慶次の教養の高さを窺い知ることのできる作品となっているが、単なる インテリチックなものではなく、しっかりとユーモアも忘れていないところがまた慶次らしい。 《参考文献》 ◆一夢庵風流記(隆慶一郎、集英社文庫) ◆日本歴史大辞典8(河出書房) ◆国史大辞典(吉川弘文館) ◆信長の野望覇王伝武将ファイル・信長の野望天翔記武将ファイル・信長の野望将星録武将ファイル・ 信長の野望烈風伝武将ファイル(以上シブサワ・コウ編、光栄) ◆戦国人物ガイド(後藤敦・松井吉昭・會田康範、新紀元社) ◆戦国武将ものしり事典(奈良本辰也監修、主婦と生活社) ◆前田慶次道中日記(米沢市立図書館) ◆上杉家家譜 ◆日本随筆大成 翁草 ◆米沢市史 ◆加賀藩史料第1編(侯爵前田家編輯部) なお、上記の史料はすべてこれらの文献からの抜粋によります。 そして、「梅の花…」の歌についてモッちゃんさんから情報をいただきました。 ありがとうございます!(ちなみに『剣道日本』に掲載されていた慶次についての記事から 持ってきていただきました) …とまあ、格好つけてみたものの、ほとんど上の文献の記述の寄せ集めのようになってしまいました。 でも、こういうタイプの文を書くのは専門ではないし、またその能力もないので、これで勘弁してくだ さい。(^^; あと、前田慶次について他にいい文献等があるのをご存知の方は、ぜひ教えて下さい。よろしくお願い します。 |