与保呂の里






与保呂とは何

与保呂(よほろ)は東舞鶴の与保呂川を遡った一番奥の地名である。こんな古代地名が残るとはよほどの事情があるに違いない。舞鶴は古い地名の博物館かと思われるような地である、大陸に近く文化の奥が深いようである。時の闇の中に消えかけて簡単には解明できそうにもない、だから面白いのかも知れない。これは日本語なのかと思いながら全国探してもこの地名はない。 『丹後風土記残欠』に、
与保呂里 本字仕丁

与保呂と号くる所以は、古老伝えて曰く、往昔、豊宇気大神之神勅によりて、此地に神人仕丁等を置かせらる。故に与保呂と云う。

与保呂は(よぼろ)が正解だと思う。此の地の豊宇気大神を祀る社の神人仕丁だと残欠はいう。
『加佐郡誌』(大正14年)は、

与保呂村。高橋郷与保呂谷の地である。今は常、木ノ下、与保呂の三字から成っている。参考一、常は後陽成天皇の慶長年間に下与保呂村と云ひ、字木ノ下をも含んでいた。東山天皇の元禄九年(将軍徳川綱吉)木ノ下は分離し、自らは単に常村と称する事となった。
二、与保呂は仕丁の意である。丹後風土記に「与保呂と号くるわけは古老のいひ伝へによると、豊宇気大神の神勅によって此地に神戸仕丁等を置かれたから与保呂といったのである」(後略)慶長年間に上与保呂村と云った。これは下与保呂村(常及木ノ下)を分離した時であった。古城址が所々にある。波賀隠岐及時岡源之丞などが居たといふことである。
 与保呂の周辺図(小さくて見えないかも)

 ヨホロが日本語と考える人はないと思うが、元々は朝鮮語のようで、「そうでしょうな。ヨボハイといいますで」とロシア語の先生に教えて貰ったことがあるが、かの地には今でもこの言葉があるようである。ヨボ輩であろうか。ヨボとは原義としては輩、ともがら、なかま、朋輩のことかも知れない。朝鮮語に由来する:現在では意味不明のずいぶんと古い恐らく奈良期以前の言葉であろう。地名は歴史の化石というが、日本の思いもかけぬ古い歴史を残している。

 戦中は低国臣民が朝鮮人を指して差別した用語でもあるそうなので、「どけ!ヨボハイ」などと怒鳴って車が走ったという。
朝鮮人と呼んでも差別用語とも見られるし、ましてヨボとかヨボハイなどとは使わないほうがいいようである。
憲法「改正」し、アメリカと組んで、というよりもアメリカの強い要求で邪魔な九条を変えてしまい、アメリカの戦争に巻き込まれて、またまたアジア侵略、ネライは中国、とセンソーを始め、まもなくこうした言葉も復活するかも知れないが、そうなっても使わぬでおこう。

『寧楽遺文』に、大宝2年11月豊前国仲津郡丁里戸籍というのがあるそうだが、大宝(701〜04)の頃、奈良時代直前の福岡県下の地名かと思われる。ここのデーターがないのだが、『日本古代氏族辞典』(佐伯有清編・雄山閣・94)は、
(よぼろ)  姓は勝。钁丁(くわよぼろ)と同じ。屯倉で労働力が必要とされる時期に農耕に従事する隷属民の名称に由来する。田部と同じとする説もある。『日本書紀』安閑天皇元年十月条、閏十二月条に钁丁のことがみえる。勝姓の丁氏は、豊前国仲津郡丁里(福岡県行橋市・京都郡付近)を本拠としていた。丁勝氏の一族で知られているのは、丁勝雄万(小麻呂)。雄万は、円仁(慈覚大師)が入唐したとき、従者として行をともにし、また円珍(智証大師)の入唐に際しては、訳語(おさ)として再び唐に渡っている。〔外池〕
春のうららの与保呂川
丁勝(よぼろのすぐり)と呼ばれたというのだから、渡来人だと思われる。勝のスグリは村主(寸主・主寸・主村)とも書かれる、表記漢字そのもの意味である。朝鮮語の村の首長といった地方の小ボスのことである。
村主(スグリ)はスク・ニムのことだそうである。白村江(はくすきのえ)の戦いという古代史の大事件を習われた記憶があろうが、その(スキ)
任那はミマナと読んでいるが、本当は漢字の通りにニムナである。ナは国のことで、ニムは君主・主といった意味である、現在でもこの語は朝鮮語にあるそうで、目上の人につける尊称のように使われるそうである。
任那は古代大和国の朝鮮における植民地のようにガッコーでは教えられたかも知れないが、それは皇国史観のなせる根拠のない話で、地名の意味からすれば、君主の国の意味であり、日本を支配したであろう国になる。まったく関係は逆であり、美しい国側が植民地になる。『ハングルへの旅』(茨木のり子・1989)に、
隣国には何々さんのサンに当たるものがない。強いて言えばニムだが、課長ニム、先生ニムなど役職名につくことが多いし、ハヌニム(神様)アドウニム(お坊ちゃま)とも言うが、かなり奉った言い方で、氏名の後にはつかない。
日本の宿禰(すくね)がスグリなのではないのかと私は考えているが、どうだろうか。
 日本が誇る・世界がうらやむフィギュア・スケートの選手の中に村主(すぐり)といった名の人がいるが、彼女も多くの日本人と同じように渡来人の子孫なのであろうか。
津市には村主小学校がある、伊勢国安濃郡村主郷の地であろうか、紀伊国伊都郡にも村主郷があった。姓氏録にも多くこの姓がみえるが、みな渡来系の人たちである。
仏教の専門的な通訳ができるのだから当時一流の文化人でもある。『帰化人』(関晃・昭41)は、
史・村主などの姓を持つものは、殆ど全部が帰化人と言ってよく、…
村主の語源は、朝鮮語で村の長を意味する言葉から来ているという説が最も有力である…
だから、与保呂は丁勝といった層に率いられるような渡来系の集団が住んだ地とも考えられる。


鳥取県八頭郡八東町用呂(ようろ)。福井県大野市(ようろ)。千葉県佐原市丁子(ようろご)養老(ようろう)という所があちこちにある。宮津市日置の旧養老村は明治22年にできたもので、丁とは関係がないようにも思われるが、意外なもので関係があるかも、しかし未調査なので何とも書けない。丁川(ようろがわ)が広島県にある。近江国浅井郡に丁野郷(訓注・与於乃、与保乃)があるが、私はまだ調べていない。愛媛県西宇和郡三崎町与侈(よぼこり)がある。豊後水道に突き出た細長い佐田岬の先端のほうであるが、ここもまだ未調査である。

ついでに引いておけば、『定本柳田国男集27』に、
「三家分流の古伝」…山に住んだ三神仙の話は、箱根と白山との他に更に白山より程遠からぬ越前大野郡飯降山にもあるが、此は女性である。昔此山に三人の尼あって行をするに、天神の恵を以て毎日飯が降った。之を三人に分つを悋んで二人の尼相語らひて他の一人の尼を谷底に突落した處、それより飯の降ること減ずるに由り更に一人の尼が他の一人を突落したら、終に全く降らなくなった。此谷を比丘尼(びくに)落しと称し第三の尼が飢ゑてよるぼひ下りし里をよぼろの村と云ふ云々(深山木)。
『定本柳田国男集8』
「桃太郎の誕生」…是に因んだ昔話は既に百八十年も前に、遠野古事記巻一の中に載録せられて居る。昔諸国より千人夫とて、三年の丁(よぼろ)を京に上せ、又一国十人の采女を奉りし代に、閉伊の山田の左内といふ男が、役夫に選まれて京に上り、官女清瀧を恋して一首の歌を贈る。…
『定本柳田国男集24』
「平凡と非凡」…今一つの舊式青年教育の長處としては、我々が文字を織る爲に費す時間は現在あまりにも長いが、以前は大體十五歳を以て一人前の境としてゐた。それから二年か三年の見習期間があって、もう結婚を許される状態になる。大宝令などに見えて居る丁男期よりは、ずつと早くから成年になるのが、書巻の教育を受けぬ者の特権であって、諸君等がいつまでも若過ぎるのと、かなり著しい封照をなして居る。「丁」は公役に服する場合には、ヨボロと謂って居たが、普通の生活に在っては日本語で之をセとも調って居た。セは成熟したる男子を意味し、同時に妻を覓めて差支の無い年齢といふことであった。即ち我背子とか妹背のかたらひなどのセである。…
『記紀』にも出てくる言葉である。あまりないが少し拾ってみれば、(訳は小学館本による)
仁徳六十年紀冬十月に、
白鳥陵の陵守どもを徴発して、役丁(えたちよほろ)に充てた。その時、天皇は労役の現場に行かれた。すると陵守の目杵が、突然白鹿になって逃げた。そこで天皇は詔して、「この陵はもともと空である。そのため陵守を廃止しょうと思って、初めて役丁に徴発したのだ。今この不吉な前兆を見ると、はなはだ恐れ多い。陵守を廃止してはならない」と仰せられ、すぐにまた陵守を土師連らの管掌下に置かれた。
雄略十一年紀冬十月に、
鳥官の禽が菟田の人の狗に噛まれて死んだ。天皇はお怒りになり、顔に入墨をして鳥飼部とされた。その時、信濃国の直丁(つかえのよぼろ)と武蔵国の直丁とが、宿直して語り合って、「ああ、我が信濃と武蔵の国にいる鳥を積み上げると、その高さは小さな墓ほどになる。朝夕に食べても、まだ余りある。今、天皇は一羽のために人の顔に入墨をした。はなはだ非道である。悪行の王である」と言った。天皇はこれをお聞きになって、鳥を集め積み上げるよう命じられた。直丁らは急には準備できなかった。そこで詔して、鳥養部とされた。
武烈元紀三年.十一月に、
大伴室屋大連に詔して「信濃国の男丁(よほろ)を徴発して、城の形を水沢邑に作れ」と仰せられた。それで城上という。
安閑紀元年.10月
大伴大連金村は秦上して、「小墾田屯倉と各国の田部とを紗手媛に、桜井屯倉と〔一本に、茅淳山屯倉を加え与えられたという〕各国の田部とを香香有媛に、難波屯倉と各部の钁丁(くわよほろ)とを宅媛に、それぞれ下賜なさいませ。これを後世に示すことで、昔を知らしめましょう」と申しあげた。詔して、「奏上のとおりに施行せよ」と仰せられた。

安閑元年閏十二月
大河内直味張は恐れ悔んで、地に伏して汗を流し、大連に謹んで、「暗愚なる臣の罪は、万死にあたります。伏して願いますには、各郡の钁丁を、春に五百丁、秋に五百丁、天皇に献上し、子孫の代まで絶やしません。どうかこれによって命をお助けください。末長く戒めといたします」と申しあげた。別に狭井田六町を大伴大連に賄賂として贈った。思うに、三島竹村屯倉で河内県の部曲を田部とすることは、ここに始ったのであろう。

『続日本紀』にも出る言葉であるが、だいたいヨボロというものがどんな時代のどんなものかがわかる。あくまでも文献上のものではあるが。今風にいえば正規の社員でなくて臨時雇いのパートさん、派遣さんのようなしっかりした地位がなくて都合のいいように使われている隷属した民の感じがする。
それとこの地の与保呂とがどう結びつくのであろうか。

租庸調(そようちょう)という言葉くらいは誰でも知ってはいるが、一人前の男子にかけられた当時の税金である。
 租というのは田租で田にかけられたもので3%くらいというから、これはないようなものである、美しい国の消費税よりも安い。もっとも後になると出挙というサラ金よりもはるかに高率の利子をかけて無理矢理に貸し出すという悪徳ゼニ貸し屋のような方法もとられるようになったというが、当初はまず無視してよいようなものであった。しかし口分田は二反である(女子はその三分の二)。一人頭二反と計算してもそれでどれだけ米が採れるか。古代の農業技術である。自然災害がなくて平均して一石も採れればよい方と言われる。一石はだいたい142キログラムだそうで、ある。スーパーで買えば7万円くらいだろうか。年収7万円である。来年の種米すら事欠いたといわれる。7万円の年収でも5%の税金をかける国よりはしかしまあ少しはましである。
 調は特産品で、『世界大百科事典』によれば、
646年(大化2)の大化改新詔では〈田之調〉(1町につき絹1丈,制(あしぎぬ)2丈,布4丈)と〈戸別之調〉(1戸につき貲布1丈2尺)を定め,調の副物として塩と贄を貢することとした。贄はしだいに調に吸収されていったが,調にすべて吸収されたのではなく,奈良時代にも調とは別に貢上されていた。調が唐の律令と同じように,成年男子(丁男)を対象として課されるようになるのは飛鳥浄御原令からと推定され,大宝令では正丁1人に絹・制ならば8尺5寸(6丁で1疋。1疋は長さ5丈1尺,広さ2尺2寸),次丁(老丁と残疾)には正丁の2分の1,少丁(中男)には正丁の4分の1を課した。…
現在のお金に換算すればどれくらいになるのであろうか。
 さらに問題は庸であったという。年に十日間の労役である。中央の指示に従って国民の全部が十日間はただ働きをしなければならない。往復の旅費や食料費も自分持ちであった。奈良の都あたりまでいって都作りや寺作りなどに働くのである。近い所ならいいが鹿児島あたりだとどうするのだろう。さらにそれにプラスして郡など地方の役場仕事に60日間働かなければならなかった。
 かわいそうに大変やったんたせな、と思う前に現在はどうか考えてみよう。今も昔もそう変わらぬ奴隷の生活であるが現在の方がさらに厳しいのはだいたい感じることができるのではなかろうか。昔の場合はただ働きする分が現在と比べればよく見えるが、資本主義下では見えにくいし隠して決して言わないし考えさせなくする思想コントロールシステムが発達してよくできている。言ったらアレは共産主義者だ、国賊だといわれるようにできている。金が金を生んだりは決してしない。子供でもわかる話である。ウソだと思うなら机の上にで1万円札でも置いておけばわかる。いつの間にか1万何千円になっているか。勝手に増えたか。金のなる木はない。増えるのは誰かが働いてくれたお陰で増えたのである。
 搾取なんかは決してしてませんよ、そんなことしたらあきませんと経営者は言う。働く場を提供し給与を提供しているでないですか。現在の奴隷の皆さんはどう反撃するのであろうか。
学者の計算によれば、現在だと自分の賃銀分は年に1000時間ばかりで稼ぎ出せるそうで、8時間労働とすれば4ヶ月ほどである。残りの8ヶ月はただ働きという計算になる。搾取率とか剰余価値率といわれるものから計算すればそういうことになる、このあたりがだいたいの現在の数値である、興味のある向きは専門の書でも読まれるとそう書かれていると思う。さてどちらがより本格的な奴隷かを考えてみようではないか。華やかそうな現在社会もとんでもない危機の上に築かれた砂上の虚構の楼閣。
 これはかなわんので、古代人は戸籍をごまかす。成人男子を可能な限り隠すわけである。女子供老人ばかりにする。逃散といって戸籍の地から夜逃げする。これらをせっせとやる。古代国家はこうした消極的ではあるが古代奴隷の抵抗によって滅んだともいわれる。

 そらなあ、イギリスとかな、そうした国が税金上げてくれ言うなら、まあ仕方ないと思うけどな。日本のな。あんな連中がいうたかて誰が払うか。アホくさい。と美しい国の納税者は言っている。政治屋や官僚に対する信用度が格段に違うからヨーロッパの真似をしようにもできないのである。ヨーロッパでは消費税はこれくらいになってますから、日本でもどうか…。アホか。と美しい国の奴隷は当然にも感じる。
このまま行くならば、若い人は本当に年金なんかはないだろうと感じる。借金は後の世代にどんどん回されて、年金は先の世代に全部使われてしまう。そんな方法がなんとかできる内はまだいいが、そのうちに出来なくなる日が必ず来る。いよいよ真剣になって政治を変えるより道はないとも思う。
奴隷生活がいやなら正攻法としては政党などを組織して政権を取り経済改革をすることで奴隷生活でなくする、これは社会主義革命型だろうが、ここまでの力量がなければ、消極的な抵抗運動で、子を産まない、生めないのかも知れないが、あるいは働かない、生活分しか働かない、近頃の若者達の生き方をする。上部層は腐敗して当然に払わなければならない税金も払わない、昔は五位以上は無税だったそうだが、現在も同じようなことで、その上しっかり無駄遣いをしてくれる。下層もこうした方法で払わない。アホくさい誰が払うか、というわけである。お坊ちゃまの超時代遅れの脳髄が夢見た「美しい国」はまもなく滅ぶとも考えられる。アホくさいを通り越したような夢である。

 庸役で働かされている人々もヨボロと呼んだのではなかろうかとも思えるのだが、文献的にはこれ以上は何も出てきそうにもない。
残欠の神戸仕丁はどうだろうか。ここに豊宇気を祀る社があったのだろうか。神戸がいたのであろうか。
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与保呂水源池(与保呂川の源流)

水源池付近(舞鶴市史より) 与保呂といえば水源池と連想されるが、自然の与保呂は水がうまい事で昔から有名であったという。
西舞鶴の真名井の清水と青葉山西麓の杉山の水と、ここ与保呂が舞鶴の三名水と呼ばれたそうである。

 さっそく海軍が目をつける。明治31年に起工されて順次二つのダムを作っている。(右図参照)。現在は市の水道となり、さらに近代化遺産として重文に指定されている。
与保呂桂貯水池
可愛らしいもので、現在では市民の何分の一くらいにしか給水できる能力はない。
私の父が子供の頃に、ここに海軍の水上飛行機が墜落したそうである。プロペラを拾うてきて与保呂校に持って帰ったそうだ、海と間違えてここへ降りたんだろうといっていた。しかし海と間違えるほどの広さはない。よほどに目のよくないパイロットだったのだろうか。与保呂水源池

この水源池あたりの自然と与保呂川の千本桜は見物である。名水与保呂水とセットて売り出せば大儲できるかるかも知れない大切な資源である。

与保呂の水は「東郷源水」とかの名をつけてすでに販売されてもいるという。東郷平八郎元帥をもじったのであろうが、どこがやっているのか知らないが、与保呂に住む者としては、勝手に軍国主義的な名をつけぬでもらいたいと思う。調べてみると犯人は市水道部だという。戦争を知らない市当局ではあるが、これくらいの発想しかできぬかとずくずくと情けなくなる、さすがに品質もよくないらしい。ブログに「東郷原水(・・)をただで貰ったが、臭いので犬にやっといた」と書かれている。
私も買ってみた。0.5L入りで130円。目っ玉が飛び出しそうな値段である。スーパーなどでは自然水はこの4倍入りで100円だぞ。脳天気な殿様商売なのか暴利をむさぼる気なのか、ええかげんにさらさんかい、正気のさたとも思えぬ値がつけられている。クソ役人が作ったような臭いが確かにある。柿の味が少しすると子供はいう。二度と買うまいと思った。こんなものにワシの名を勝手に使うなと、東郷さんも怒るぞ。犬にやろう。

 与保呂の水はそうした水ではない。そんな水道水と変わらぬ品質やおかしな名を付けて高い値段で売らずに「養老の水」とかつけて舞鶴三名水の一つとして高品位なものをできるだけタダに近い値で売るといいのではなかろうか。

↑下の写真の奥が矢代峠で、それを越えると丹波の上林、市志(いちし)という集落である。65歳以上が人口中に占める割合が100パーセントという日本国内に数多く産み出された「限界集落」の中でも代表格の集落になる。
市志(綾部市) ←写真は市志の中央あたり、二階建ての建物は市志公民館。正面の川がたぶん矢代峠から流れ込む支流と思われる。本流の畑口川は右手から流れてくる。
何か落ち着きがあって風格のある集落である。限界集落といわれるからもっと荒れているのかと思っていたが、並以上である。ほったらかしにしてないで行政の目が入っているというのが何か感じられる。空気も水も山も清い。舞鶴あたりと比べてもレベルが違う。
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日尾池姫神社(舞鶴市与保呂堀口)

与保呂の神社と伝説でも探っていくことにしよう。日尾池姫神社(舞鶴市与保呂)
上の地図の大きな赤丸が神社の鎮座地。小さい赤丸は蛇切岩神社のある所である。
与保呂のバスの終点、回転場の所にある神社である。今ではここまではバスも来ないそうである。舞鶴市は物事を簡単に見てつまらぬと見捨てるとても悪いクセがある。そんなことならば市民も市を見捨てようではないか。
『丹後風土記残欠』には、
日尾月尾社

日尾社。祭神、天日尾神、国日尾神、天月尾神、国月尾神四座祭田(以下虫食)
とある。『舞鶴市内神社資料集』(渡辺祐次編)にある、『我が郷土』(与保呂尋常高等小学校・昭和七年二月)には、
村社 日尾神社
一、鎮守地 与保呂村大字与保呂小字堀口
一、祭神 天日尾神天月尾神国日尾神国月尾神
一、由緒
当社創立年代不詳と雖も丹後風土記に曰往昔豊宇気姫命の神勅に依り此地に神人と仕丁とを被置故に此をヨホロと号す。
御祭神は四座と有雖実は御三座に坐復熟々由来を考るに日尾大神月尾大神称奉たるなり此即ち天照大神並に月夜見尊にして二柱神を天と地とに配し四柱の如く称奉たるなり又其一柱は豊宇気姫命に坐須即ち当社の祭神ならん日尾池姫神社

丹後田辺誌にも本社は笶原神社にて祭神は豊宇気比売命なること明確に書載有之依て当社の由緒古跡を取調に現今之鎮座地を小字堀口と言ひ堀口より東方十町余の処を葛原と曰ひ葛原より東方の地を池の谷と曰ひ其の北方に広田あり葦町と曰ふ池の谷の正面には一大高山あり高さ三六〇〇尺絶頂を水の舟と曰ふ、並に霊池あり此所より西方に当りて御殿と曰ふ小字あり茲に本社の旧跡あり、此処に登る道を矢代道と曰ふ、此処より流るる川を矢代川と曰ふ、

又本社より東方一里余の処を竹谷(又はヤツ谷)と言ふ。此処に老樹繁茂したる社跡あり是又本社の旧跡と申伝ふ、此旧跡より二町余隔てる奥は即ち与保呂川の水源にして此処に高さ二丈余り広さ貮間余の石垣遺れり、其の石垣の下より霊泉湧出す清きこと麗鏡の如し、尖旱にも不乾是全く天道日女命天香語山命神籬木を建て豊宇気大神を祭られたる跡の磐境ならんと存、此磐境の傍より四方を跳?すれば実に風光絶佳にして遠くは中郡与謝郡の著名なる山を見近くは舞鶴軍港を眼下に見又字堂奥山口神社を瞰る。周辺地図
字多門院天蔵神社は此旧跡の山裏に当る、此二神社は何れも風土記に掲載の古社にして山口神社祭神は即ち天道日女命、天蔵神社祭神はち天香語山命なり。
又金の著せる天真名井考に曰笶原神社は天照大神一歳余り三月御鎮座ありて後与佐の九志渡湾嶋一遷幸あり亦豊宇気八つ大神月夜見命天裳雲釼と共に云き
此処の小字彼?の旧跡と曰ひ即現存するは畏くも大神等の御鎮座須と認む。
然るに本社に賽物書類等の無之は洪水の際に流失せし為と想像す且又明治三年八月七日夜洪水の為本社の水害に遭遇せし時に祭神は辛くも他に移転せしめたるも其他の書類等流失致故に本社往昔の地形に比すれば沿革度々にして一度致居雖境内地秀抜の古樹多現致風致頗る秀抜にして勝地たり

(太鼓・太刀振・囃子) 鎮守の例祭に行ふ。五年または七年ごとに。文献なし。

日尾池姫神社の故地をのぞむ『万葉集』にも丁が見える。上丁(かみつよぼろ)とか助丁(すけのよぼろ)とか、丁にも何段階かある、これは官職名なのだろうか。官職名に取り入れられた丁しか文献にはないようだが、ヨボロという言葉の本来はそうしたことではなかろう。
 与保呂の里と呼ぶのだから、素直に考えればここは渡来人の里の意味であろうか。
 この神社の現在地より奥地の与保呂川の水源、三国山に池姫神社(あるいは月尾神社とも呼んだか)の元の形として豊宇気大神を祀っていたのではないのか。現在は日尾(いけ)姫神社と呼ぶが、本当は日尾宇気(うけ)姫神社ではなかろうかとも考えられる。
 残欠の
与保呂と号くる所以は、古老伝えて曰く、往昔、豊宇気大神之神勅によりて、此地に神人仕丁等を置かせらる。故に与保呂と云う。
は逆で、与保呂の民は古来豊宇気大神を祀っているということで知られていたのであろう。ここの豊宇気大神が伊去奈子嶽の豊受大神と同じなら、与保呂人はあるいは丹後系の民であったのだろうか。あるいは逆で丹後人とは与保呂人の後裔なのか。
いずれにせよ、外宮の神・丹後の神様・豊受のもう一つの原点がここに見える。丹後全体にとっても大変に重要な神社であり、今以て何も解明されてはいないので将来の郷土史家に残された大きな課題である。

下に引く『丹哥府志』の記事にもあるように豊受を祀る式内社ともされる、それなりの大きな意味が隠れているのではなかろうか。
 矢代峠にあったと思われる日尾神社は金属生産と関係すると私は考えているのだが、そうした資料は伝わらないようである。現在ともなれば不確かな情報からボヤーと復元してもらうより道はない。史家としての実力が問われる場面である。
 右手の山と左手の山にあった日尾神社と池姫神社(たぶん宇気姫神社)を併せたのが、現在の日尾池姫神社と思われる。
 上の文書は『田辺府志』と書いているが『丹哥府志』の間違いで、それには、
◎与保呂上村(以下二村与保呂谷といふ、森村の東)
【笶原神社】蛇切岩神社の奉納品
笶原神社は今池姫大明神と称す。
【養老山報恩寺】(臨済宗)
【波賀隠岐城墟】
【三国ケ嶽】(出図)
 【付録】(時岡源之丞城墟)

池姫神社が式内社・笶原(やはら)神社で、豊受を祀る元伊勢だと言っているようである。どういった資料に基づいてそう言うのかがわからないのであるが、何も根拠もなかくテキトーに思いつきで書いたのでもなかろう。蛇切岩神社重要なことを言っているのだが、他にはこう述べる資料がない。ここだけでなく『丹哥府志』はよく式内社の比定にほかの文献とはまったく異なる神社を当てている。どうした根拠に基づくものなのか知りたいが知る方法もない。
しかし豊受を祀るというのは残欠からも推測はでき、祭神・豊受の性格に関する重要なデーターを提供してくれそうな神社になっている。

 上の写真は本殿の左手である。稲荷さんが二体祀られているが、その左手奥に標繩が張られている。ここから蛇切岩が拝めるといわれる。かつての社地がそこにあったものと思われる。ここはその遥拝所であろうと思われる。初詣のついでにそこまで足を伸ばす人もある。

蛇切岩神社の周辺
 右の写真はその地の蛇切岩神社。このあたりにあるのだろうが、どれが蛇切岩なのか、ご神体がよくわからない、大きな岩などはまったくない。カメラにその有名な蛇切岩を収めてやろうと思い、どれが蛇切岩かと問うと、さあ、それがはっきりはしまへんな、なにせ、伝説ですさかいに。大水で流されてしもたんかもしれまへんな。という。
そうだった伝説の世界であった。なくてもよいか。伝説だから大蛇はいないだろうが、岩はあるはずと考えていたのだが…。大蛇もいない、蛇切岩もない、ただ古い言い伝えが残るだけ。天を仰いでため息をついた。
(あれから幾年月、今はその場所には「蛇切岩」なるものがある。あるいは本当の蛇切岩かも知れない、そう信じてみよう)
ここはかなり広くなった所でかつては日尾池姫神社があったろうと想像できる。与保呂ページの一番上へ




蛇切岩伝説(舞鶴市与保呂)

与保呂に伝わる有名な蛇切岩(じゃきりいわ)伝説、いろいろバリエーションがある。これが与保呂の大蛇じゃ(於・与保呂校)『倉梯村史』(昭8・坂本蜜之助)に、
蛇切岩
 與保呂の奥深く棲みし大蛇あり或る年大洪水のため濁流に流されて巨岩のため三つに切断当れ頭は與保呂に留りて池姫社と祀られ胴の部分は行永上に止りて胴の宮…胴の宮…となり尾は大森に至りて尾森…大森なりとぞ。
与保呂もまた大蛇の村である。伝説のそのほかは下を参照してください。
「蛇切岩伝説」



日尾鉱山の磁鉄鉱日尾は天照大神でなく、それでもいいかも知れないが、その名のとおりに考えれば日尾は火尾(ひお)火男(ひお)でないのかと私は想像している。
火男ならヒヲトコと誰もが知っているヒョットコである。口を尖らせて風を吹く、溶鉱炉に風を送っている、目は両目とも開いているものと片目を閉じているものがあるが、片目を閉じているのが古体だと言われる、片目の、一眼の神である。鍜冶の神である。
 福知山市下佐々木の日尾(ひのお)という村は
この日尾では最近まで銅を掘っていたという話である。
という話である(『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』若尾五雄・1981)。このあたりはあちこち鉱山があった地である。
 福知山市の児童科学館には、その日尾鉱山出土の磁鉄鉱と閃亜鉛鉱が展示してある。日尾鉱山の閃亜鉛鉱
 残念ながら舞鶴にはこうした展示施設はない。市民の多くが本当に必要なのかと考え込むような似たようなハコが莫大な税金をつぎ込んで次々と建設されるが、いずれも中身がない。カラのハコである。そんなものは作っても何も意味がない。土建屋が儲けるだけのことである。大事なのは外見ではなく中身である。中身にゼニをつぎ込むのでなければならない。すぐにやらねばならない中身はごまんとある。これでは当分は舞鶴に鉱山などと言っても誰も信用しないであろう。児童には正しく歴史を伝えたいものである。
あなたなら過去の出来事の何を自分の子や孫達にぜひとも語り伝えたいか、それをようく考えてみよう。実はそれが本当の歴史なのである。それがないのが現在の上のほうの「歴史学」である。それを取り戻す使命を郷土史家たちは背負っている。

蛇伝説の日尾神社の北には天香語山命を祀る天藏(あまくら)神社(多門院材木)、西には天目一箇神(=天御蔭命)を祀る弥加宜(みかげ)神社(行永)、南へ東へと「鉄の山脈」を越すと鬼やクモの大唐内(おがらち)。どっちを向いてもカゴ・カリの金属である。日尾も銅山ではなかろうか。与保呂ページの一番上へ




ヒョットコと臼と杵と餅(夜久野町額田)

日尾がヒョットコであるかどうかは不明であるが、ついでだから、ヒョットコを考えてみよう。
夜久野町額田(ぬかた)の一宮神社の祭礼は奇祭として知られ「額田のダシ(つくりもん)」でことに有名である。ヒョットコ達が餅を搗く(夜久野町額田)
福知山市日尾の谷のもう一つ西側の谷の入口に額田はあたる。奥には居母山というのがあるから、この谷も鉄と思われるのだが、この神社の祭礼行事はとてつもなく古いものが多く残っていそうである。他では見ることができないものがたくさんある。祭礼というものはここから考え直さないとならないような多くものがある。ここは古代史が生きている。古代民俗の生きた博物館である。府の無形民俗文化財に指定されているが、そんなテイドのものではない、国宝級、世界遺産級。すぐこんな事を書くのはどこぞのセンセの悪い影響かも知れないが…。東大の大センセがこれなのだから、日本の教育の頽廃も極に達した感、小手先の弥縫策でなく根本的に見直すべきところにきているナ。「困った世の中になったもんですで。ここらから出ている政治家だけではないんですな。この頃は大学の教授みたいなモンまでが同じように呆けた話をしくさる。」とこれは他県のポリさんの話である。高価な機材、取られぬように気をつけて下さい、とわざわざ言いに来てくれて、そんな話をして帰っていった。舞鶴だけではないのだ。バカが権力を握るというのも、それも半世紀以上にわたって、これも具合が悪いが、そうした権力サイドに阿諛追従するだけしか能はないのだが、いかにも峻険な学問的立場に立ったかのようにして発言し社会をミスリードしがちな「学者・先生・専門家・学識経験者」などなどというのも始末が悪いもののようである。
 それはさておいて、こちら額田はそう言いたくなるくらいに大変なものである。ヒヨットコの餅つき
 さてその祭礼でヒョットコ達が楽しげに嬉しげに目出度げにおお喜びで臼と杵で餅を搗く出し物がある。彼らが搗いた餅は見物人にふるまわれる。「花の山形紅葉の天童…」の花笠音頭がバックミュージックだし、振り付けも滑稽にできていた。そんなことで、この出し物は後の世の挿入による即興のものかと、勝手に甘く見る判断をしたのだった。
しかし写真を持ち帰ってもう一度見直してみるとどうもそうとも言えないでないのでないかと、思えはじめたのである。こんな
 右の写真は祭礼の日、こうして各氏子の各家々の全戸は、御神灯の提燈と共に二つの鏡餅と「これが大変なんです」という生け花が飾られる。どの家も通りに向けて扉を開き、このように飾られている。
写真では美しい生け花は省略してあるのだが、正月でもないのにこの鏡餅、これはたぶんこの日の祭礼のご神体と思われる。ヒョットコはそれを搗いている。
それと上の写真。面のかぶり方が上と同じで独特。何かこの祭礼とヒョットコは深い関係があるのでは、ここはヒョットコの神社かも知れない、とも思われた。
お寺は高野山真言宗月光山東光寺。名刹で信徒範囲は極めて広い。次のような伝説がある。
『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(カットも)
薬師さんの出湯
天田郡夜久野町額田

 雪の多い夜久野の単に冬でもポカポカと湯気の上がる温泉があった。土地の人たちはもちろん、遠くの人たちも、聞きつけて集まってきた。「こんこんとわき出る清らかな温泉で、村人たちは湯を浴び、その湯を持ち帰って炊事にまで役立てていたんじゃ」と古老が語ってくれた〃薬師さんの出湯〃の舞台は、夜久野町額田向嶋。
 額田は京から但馬へ抜ける街道はあったものの山また山の寒村。それだけに「湯は仏の恵み」と温泉に対する村人の信仰の念もひとしお。霊域として、いつしか村人の手で出湯のそばには薬師堂が建立され、その薬師堂を中心とする大伽藍がその昔には威容を誇り、村人たちの信仰と感謝の念に包まれた「薬師さんの出湯」は一日もかかさず清い温泉がわき出ていた。「しかしね、恐ろしいことです。時の流れが薬師さんに対する感謝の念を薄れさせたり、恵みがあまりにも大きかったがため、その恩に気づかなくなってね」 ある日、一人の婦人が何気なくこの霊湯で赤ン坊のおむつを洗った。するとまもなく、すき透った〃出湯〃の中から突如として羽ばたきが起こり、一羽のコウノトリが舞い上がった。そして薬師堂を越えて西北の方へ飛び立っていった。「村人たちは驚きあわててね……。湯煙を上げる温泉がしだいに枯れていったとさ」霊域を汚した天罰なのかついに温泉は出なくなってしまった。これを見ていまさらながら自然やみ仏の恵みの大きさに気づいた村人は、今後自分たちの行いと心がけさえ正しければ、いつの日かコウノトリはこの地に舞い戻り、昔日の美しく清い湯がわくかも知れないと大きな期待を寄せていた。しかし、この薬師さんの出湯は二度とわき出てこなかった。
 その後村人たちの間では、コウノトリの飛びたった先がいまの温泉町、兵庫県・城崎方面だったことから、薬師さんの出湯がコウノトリによって城崎に移されたと語りつがれている。
 出湯の里・額田の人たちは、いま地元の東光寺山門の観音堂にまつられている薬師さんがその伝承の〃恵みの仏さん〃といい「ほんまにあのとき女がオムツさえ洗わなかったら、いまごろ湯で町はにぎわっとるのに、残念なことや……」と過疎のわが町を嘆きながら「感謝の気持ちをなくしたり恩をアダで返すようでは人間はおしまい。自然の恵みもコウノトリならずとも大切にしたいもの」−‐古老はしみじみ話している。
(カット=波多野利幸君=夜久野町明正校)

しるべ=夜久野町額田向嶋は国鉄山陰線下夜久野駅下車、徒歩で南西へ約五分。近くに夜久野町役場などがあり町の中心部。
舞鶴の青井や与保呂の隣の森にも似たような伝説がある。鳥は温泉霊ではなくて、古来より鉄霊である。何かの理由により鉄霊がよそへ移動して鉄が採れなくなったということであろう。
『豊後国風土記』に、餅が白鳥となって飛び去ったという話があるが、餅=白鳥=鉄。神体として各戸に飾られた餅は飛び去ったのである。
もう一度餅が搗きたいものである。
 これで私はヒョットコと臼と杵と餅は全部関係があって、それらはすべて鉄を表していると、理解できたのである。
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ヒョットコがいるならお連れのオカメがいるのでないのかと思われるわけである。お多福とも言われるが、そうするとこのフクは(鉄を)吹くということかも知れない。
オカメは鎌倉権五郎景政を祀る社に彼女も祀られることが多い。オカメはウカメだという人もある。それなら豊受もそうであるから、日尾池姫神社とはヒョットコ・オカメ神社であるのかも知れない。またオカメの膨れた頬はこれも風を吹く顔つきであるともいう。
しかし不勉強につきこれ以上はわかりません。なんぞわかればまた書き足します。



姫路市勝原区朝日谷(よろ)

正史に寄る限りは与保呂については何もわからないのであるが、別に正史だけが歴史を記録していたわけではない。他にあたってようやく与保呂の正体が見えてきた。『播磨風土記』にあった。この地名は以前から気にはしていたのだが、私の持っている小学館本や東洋文庫本には説明がなかったので解明が進まなかったのであった。図書館で借りてきた岩波の日本古典文学大系本には説明があった。
 さっそく読んでみよう。『播磨風土記』の揖保郡
上筥岡(かみはこをか)下筥岡(しもはこをか)魚戸津(なへつ)朸田(あふこだ)
 宇治の天皇のみ世、宇治連等が遠租、兄太加奈志(えたかなし)弟太加奈志(おとたかなし)の二人、大田の村の與富等(よふと)の地を請ひて、田を墾り蒔かむと来る時、廝人(つかひびと)(あふこ)を以ちて、食の具等の物を荷ひき。ここに、朸折れて荷落ちき。この所以に、奈閇(なべ)落ちし處は、即ち魚戸津と(なづ)け、前の筥落ちし處は、即ち上筥岡と名づけ、後の筥落ちし處は、即ち下筥岡といひ、荷の朸落ちし處は、即ち朸田といふ。
風土記の與富等が丁であった。岩波本では「姫路市勝原区の(ようろ)が遺称地。下太田の南の地で大田里の領域内。」の説明がある。「與富等」は諸本にはヨフト、ヨホドといった訓が付けられている。現在の小地名の「丁」はヨウロとかヨロと呼ばれているようである。D音とR音はよく入れ替わるので、ありうることである。或いは與富等は丁人(よぼど)か、丁處(よぼど)かも知れない。こんな所でも(失礼)バスが来る。どこぞの町のよく似た名の村とはだいぶにちがうゾ
 この與富等の地名は現在もある。たとえば兵庫県朝来郡山東町与布土(ようど)。粟鹿神社の西の谷である。『角川日本地名大辞典』は、
…集落南、坂根の笹尾と金山谷に鉱山跡がある。景勝の地として、奥山一帯の渓谷美、さらに双竜の滝はその名が高い。大原神社…
としている。ここは但馬国朝来(あさご)郡朝来郷の中心地である。生野銀山で知られるが、そうしたまったく金属の地であるが、播磨風土記では飾磨郡阿相(あさこ)里(姫路市)はここの人が来て住んだ地とある。舞鶴の朝来(あせく)も同じ字を書く、あるいは何か関係があるかも知れない。朝来市立与布土小学校(立入禁止とは書かれているが鉄製の扉は開かれていた。どこぞの町とは根本から違うゾ)

兵庫県美方郡浜坂町用土(ようど)。ここは与布土とも記された。ここも鉄と思われる。 広島県府中市用土(ようど)町。埼玉県大里郡寄居町用土(ようど)

 姫路市勝原区丁743には勝原小学校がある。何かHPがないかと探すのだが、どうもも一つである。全国各地の小学校は大変重要な歴史情報があるものですから、力を入れて作ってください。全国各地の小学校は政治屋どもや官僚どもがいよいよ壊してどうにもならない荒廃となりはてているようにもHPからは見えるが、その地域の文化の殿堂だということを決して忘れぬように。忘れると自壊あるのみ。若尾五雄氏はまずそこの小学校にハガキを出してその回答を待ってそこの調査に出かけている。大江山麓の山奥の小学校からでも丁重な要を得た返事が返ってきている。中央の亜流史観でなく、その地元の史観で見事に捉えている。さてさてさてさて今の小学校でもそんな力はあるのかどうか。そんな学力の低下がないか、もし失っていればぜひともつけてください。舞鶴あたりでもこのごろは全校に光ケーブルが引かれている。校内にはパソコンはたくさんあるんですが、たった1回線しか外部とは繋がらないもので、と少し以前までは聞いたものだが、ようやくハード面では整備が進んだと見える(今も1回線のままだそうである、が来ている、このあたりがいかにも時代遅れのガッコーを象徴している)。しかしいつも言うが肝心なのは中身のソフトである。書ける人と熱意があるかどうかである。いやそんなことをしてると子供達との接触がお留守になりましてね、とかいいそうに思う。それが荒廃なのだ。

ではその大田の村(『和名抄』の大田郷・揖保郡太子町太田)とはどんな所なのだろう。次に説明がある。
大田(おほた)の里 土は中の上なり。大田と称ふ所以は、昔、(くれ)(すぐり)韓国(からくに)より度り来て、始め、紀伊の国名草の郡の大田の村に到りき。其の後、分れ来て、摂津の国三嶋の賀美の郡の大田の村に移り到りき。其が又、揖保の郡の大田の村に遷り来けり。是は、本の紀伊の国の大田を以ちて名と爲すなり。
韓国からの渡来人の里なのである。さて何が職業なのか。農民だろうか。こうした時には名前を探るのがいい、太加奈志(たかなし)という名に秘密がありそうである。高梨(たかなし)という所は伊根町にもある。現在は舟屋が並ぶ所であるがここの地名もついでに解けてしまいそうである。吉野裕氏はタカナシはタカ穴師だと述べている(『風土記世界と鉄王神話』)。タカの製鉄業者だという。ではタカとは何かとなると氏もあまりはっきり書いていないようだが、私には渡来産鉄系の人々の自称だろうと思われる。天日槍系ではなかろうか。伊根町高梨
 ウロ覚えのいい加減な事でなくもう一度読み返してみると、やはり氏はそう書いている。このタカは播磨風土記を分析して天日槍だと。恐るべきすごい先人。
宇治連の話も書かれていた。これは現在の京都府宇治市の宇治である。紀の「天日槍、菟道(うじ)河より(さかのぼ)り…」の菟道であるが、高浜町にも伊根町にも宇治という所がある。佐伎治神社と宇良神社の地である。
ついでに書けば伊勢神宮の内宮外宮ともにその鎮座地は伊勢国度会郡宇治郷である。
宇治天皇は記紀が記さない天皇である。本当はそんな日槍天皇がいた。のかも知れない。
 タカは変化してタキ・タク・タケ・タコともなるように思われる。ar系の変化でtarkともなるようである。こんなずいぶんと古い名の地名や神社はまず鉄と私は見ている。
舞鶴の与保呂も恐らくタカ族と思われる、ここは高橋郷の地。東は高浜町、木津高向宮があったと海部氏系図は伝える。高向はタカムクではなくタコウと読むのかと思うが、このタカの変化である。海部氏もまたタカ族なのであろうか。西は高野の地、全部タカ族である。日槍族である。
播磨から類推すれば、与保呂の里とは…。もう書く必要もあまりないようである。
吉野裕氏は先に引用した雄略紀の記事にふれて、鳥というのは鉄霊であり、十中八九までは鉄の話とみていい、と述べられている(『風土記世界と…』)。そうだとするなら丁と鉄はずいぶんと関係が深いのではなかろうかと思われる。
より詳しくは拝師郷

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羽賀谷橋(舞鶴市与保呂)
日尾池姫神社の前に与保呂川にかかる橋がある。羽賀谷橋という。神社から北へ入り込む谷が羽賀谷と思われる。羽賀サンというのも与保呂や堂奥あたりにはあるし羽賀田サンは池内谷にある。羽賀谷橋(与保呂)
これも鉄とかかわる地名と思われるのである。
 たちどころに福井県小浜市羽賀(はが)の羽賀寺(高野山真言宗)を思い起こされると思う。国宝だったと思っていたのだが、重文の何とも美しい十一面観音像がある。ずいぶんと両手が長く、この長い手で、庶民を苦界からすくい上げられるという、説明だったと思う。ちょっと写真を写させてほしかったが、あきませんと断られた。
 仏教というものは本来ならそうなのだろうが、誰彼差別無くすくい上げてこそ仏教なのだが、日本の場合は多くは国家仏教と呼ぶか、権力仏教であり、そんな庶民の救いなどはあまりというかほとんど期待はできない。もともとがそうしたものとして伝来したので、もともとから庶民の方は向いてはいない体質なのである。仏教は国家の比護の元に成長してきたものであり、坊主は権力そのものでもあったのである。しかも最近はゼニ儲けだけ、7億円だったか行方不明でわからないという、あそこもかいな、ゼニが腐るほどあるんやなー、腐敗だなーと呆れられていたが、そんな事で庶民を救済するなどはほとんど手がまわらない、そんことなどは期待はできない。せっかくの長い手ではあるが、救うのは権力だけなのではなかろうか。金閣寺であったか、「もいっぺん焼いたろか」の下層僧の気持ちもわからぬではない。
別に坊主だけがそうだというわけではない。日本の場合は権力に虐げられてきた当の一般庶民すらが権力ベッタリである、権力に疑惑すらもたない、喜んで協力、一体化なさるほどの立派なテイノウ児に育てられている。ほとんどのレベルでそうしたことが見られ、逆にいえばひとかどの市民がいないということであり、このツケは大きくて、これが今の日本をこれだけ悪くしている一番の原因と思われる。これは簡単には直せない。この精算はどこかでどこかでしなければならないが、何十年あるいは何百年もとかかることであろう。もし出来れば遅ればせの市民革命である。日本人もようやくチョンマゲが取れて近代市民、国際人となれることになる。国際協力とは本当はそうしたことであって、まず自分が立派な近代市民に成長する、市民社会を構築する能力を持ち、実際に構成していくということであって、石油をやればいいという話なのではない。
 最近人気の小浜であるが、私は不勉強でよく知らない。羽賀の奥が奈胡(なご)という所で阿奈志(あなし)神社がある。昔はずいぶんと狭い道であったが、高速並の道路ができていて、かえってとまどう。
奈胡は奈具などと関係する地名であろう、あるいは南宮(なご)かも知れない、阿奈志は穴師であろうから、どう見ても金属と思われる。そこに羽賀姫神社や羽賀寺がある。

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虫送り行事(舞鶴市与保呂・木ノ下・常)

昔は、というのか戦前までは各地に虫送りという行事が伝わっていた。しかし現在はどこからも消えてしまったようである。アホくさい科学の世じゃ農薬ちゅうもんがあるわい、というわけであろうか。与保呂では現在も見ることができる。復活させたのである。『舞鶴市民新聞』(000714)は、虫送り行事(・各々手作りの松明を持って集まる右手の森は日尾池姫神社)
*与保呂三字*「稲の虫送り」で畦道に光の帯*豊作祈願し松明の行列*
 豊作を祈願する「稲の虫送り」が十一日夜、与保呂、木ノ下、常の三地区であり、地域の子供からお年寄りまでが手に松明を持って田の畦道を歩き、稲の害虫を追い払った。
 「稲の虫送り」は、かつて田園地帯に行われていた伝統行事だが、今ですっかり途絶えているのが現状。与保呂地区では、村おこしの一環として、この行事を昭和六十二年に復活して以降、毎年続けている。三年前からは与保呂三字協議会、グリーンサークル21(常塚正喜代表)の主催で、近隣の木ノ下、常地区も加わった。
 与保呂地区では、日尾池姫神社に、それぞれ自作の松明を持った住民約百人が集合。打ち上げ花火を合図に、松明に火をつけ、鐘と太鼓に合わせて、「稲の虫遂りよ」と、全員で唱和しながら畦道を歩いた。松明の行列は、暗闇の中に光の帯を作り、田園の夏を彩っていた。
『京都新聞』(060712)は、虫送りに使う松明。各自が持参。コンクールがある。
*田園にたいまつの列**舞鶴 豊作願い「稲の虫送り」**夏の夜の闇に長い列となって浮かび上がった「虫送り」の炎(舞鶴市与保呂)*
 美しい田園風景が広がる京都府舞鶴市与保呂地区で11日夜、豊作を願う伝統行事「稲の虫送り」が行われた。地元住民ら約200人がたいまつを手に列を組んで歩き、赤々と燃える炎が夏の夜の闇を温かく照らした。
 虫送りは、農薬のなかった時代に火で稲に付く虫を誘い、駆除したことに由来する伝統行事。同地区では1990年に約40年ぶりに復活させて以来、毎年、子どもから大人まで参加して盛大に催している。
 住民らは午後8時ごろ、約1メートルの竹製のたいまつに火をともし、軽快なかねと太鼓の演奏に先導され、日尾池姫神社から約1キロ先の与保呂小へ向かって出発。田を潤す与保呂川沿いに炎の長い列が浮かび上がり、約30分の道中、練り歩く住民の楽しげな笑い声が集落に響き渡った。
今は失われた各地の虫送り行事について。『舞鶴市史』に、外人部隊も。
虫送り
七月十日すぎ、すなわちズイムシ(吉坂ではゼントクムシという)の最も発生する時期の夕方に、稲の虫送り、虫供養といって、村中あるいは小学校児童がおのおの松明をともし、鉦・大鼓・柏子木・笛などをたたいたり吹いたり、また「なんにもかもがいさらえて、稲の虫送ろやい」(大波下)とか、「稲の虫送れ、オキの島まで送れ」(与保呂)と大声で唱えながら、田圃道を回って村外れまで行進した。
 朝来地区では三日間にわたり、上の村からそれぞれの村境まで次つぎに虫送りし、最後は浜へ送り出した。下漆原では、七月十二日の昼間に、村民は麦藁で造った船を二人でさし合い(担い合い)、他の人たちは虫にやられて株の元が赤くなった稲を抜き取りながら、奥より下がって村端まで行き、集めた稲株は川へ流した。
 なお、吉坂・小倉・田中では六月に個々の家で、大根の葉につく虫の供養として、大根畑で「びっくり虫送ろや」と唱えたという。
『大江町誌』に、松明に点火。
虫送り 農薬のなかった昔の米作にとって、虫害は旱害と共に大きな悩みであった。虫送りは、虫害を悪霊のしわざと考えたところからはじまった風習である。大正中ごろまで行われていたが、古い形を残していたのは、村中氏神に集まり、藁で馬の形をつくり、イナゴをフキの葉で包み馬の中に入れ、竹の先にかざし小太鼓を叩きながら「イナムシおくり、どこまでおくった 京の町までおくった」といいながら村境まで歩いた。(北原・橋谷・仏性寺)このうち仏性寺では、旧暦六月七日が虫送りの日とされ、作法は同じであるが、仏性寺は牝馬をつくり、真井野は牡馬をつくり、太鼓を叩きながら、三ヶ所の橋のたもとで馬をけんかきせ川へおさめたという。ここ仏性寺では、昭和三十年ごろまで虫送りが続いていたという。害虫の霊に祈願し藁人形に人の世界からつれ出してもらおうという発想のようである。
 やや簡略化したものとして、青竹を割って作った大きな松明を手にもって、村中総出で集落を上から下まで太鼓を叩きながら「イナ虫おくるぞ」と叫びながら、下へ下へとねり歩いた。竹の先に馬を下げ、自分の田より下へ流したなどがある。時代が下ると、区長など地域の代表が、元伊勢内宮や氏神へいって、虫送りのお札をもらってきて田のふちに立て、イナムシおくりの日として、その日は休んだといった形になり昭和十年代まで続いていた。
害虫退治に外人部隊も出動だ。農薬があるから、農作物につく害虫は駆除できるようになった。しかし人の世は害虫だけが害をなすのではない。実のところは害虫などは問題にもならない。せっかく丹誠込めてつくりあげた人の世の豊かな作物を食い荒らす「大害虫」が今の世にもも一杯はこびっている。クソ政治屋、クソ官僚、…我々の富はこやつらにどれほど食い荒らされていることだろう。たらふく喰い、血を吸って丸々と醜いばかりに肥え太っている、こやつらを駆除する「農薬」を人はまだまだ発明していない。
 狐狩りという行事も共同体に巣くう害獣を追い払うということでは同じ意味を持つ行事かも知れない。キツネガリはこのあたり丹後・但馬・若狭にしかない行事であるそうだが、『舞鶴市史』は、虫送り。ぐるっと周囲の田んぼを廻ってくる。
狐狩り(狐がえり
 小正月のドンドのあとに続いて狐狩りの行事が行われる。これは昔から害獣を除く目的で行う予祝行事であるが、これも男の子供の行事である。しかし、ところによっては若衆組が主となり、子供が参加するところ(三浜、岸谷など)もある。これも広く行われていた。
 十四日夜から十五日の夜明けにかけて「狐がえり候…」と大声で唱え言をどなりながら村内を回る。丸田では、御幣をつけた青竹を担いで村の上から「狐がえり候、わいらなんじゃ候」と大声でわめきながら下へ送る。一年間使った「なべつかみ」などを竹薮目がけて投げつける。野原では、十五日の夜明けを待って一五歳になった男の子が勢子役になり、コルダ(松によく似たかぶれる木)の木を使い、村の端々で狐を追い回す所作をした。青井では、十四日提灯をつけて村境を回り、平では、村で宿をしてもらい、そこへ薪と正月の残りの餅などを持ち寄り、楽しく語らいながら食べ、午後九時ごろと翌朝四時ごろの二回、全員そろって「あすは地蔵堂の若宮の祭りとて…」と節長くわめきながら村内を一巡した。岡田中では竹の先に蛇形をつけ、火縄を振り回わしながら歩き、時々鉄砲を鳴らした。

『倉梯村史』は、
特に奇習は前夜十四日の狐狩りなり。先づ子を産みし家は酒の粕を水にて解きたる物を近隣知己に配り又組内へは清酒一升に肴一鉢を出す、而して年々順番に宿元を設けて夕方より男女老幼其所に集りて飲食し、子供には菓子果物等を与へて相興じ初夜の頃竹片等を打ち鳴らして一声高く「わかみやのまつりとてきつねがへりやしこ」と唱へて道路を巡廻し宿元に帰り夜更くる迄雑談に耽る。

『舞鶴市民新聞』(071115)によれば、現在も大波上では続けられている。
*子ら厄払いを唱え夜回り*
*大波上地区恒例行事の「狐狩」*

 今年一年の無病息災や豊作を祈る大波上地区の子供たちの恒例行事、狐狩が十二日夜、大波上集会所などで行われた。小学生十三人は暗い山道などを歩く夜回りで厄払いの文句を唱えた。
 災いを村から追い払うために昔から行われている行事。以前は昼間に稲葉で蛇を作って各家を回り、夜は深夜まで遊び、翌日は新婚家庭を訪れお菓子などをもらった。夜回りでは九月一日の悪魔払い行事でいじめられた女子が、道々に隠れて男子を脅かした。
 男子のみだったが、いまでは子供会主催で男女の子供が参加。この日は十三人が大人らと一緒に、青蓮寺の墓地などを懐中電灯を手にして、「地蔵の教えとって狐狩、ヤーイ」と唱えながら歩いた。中には物音に怯えながら前に進む女の子もいた。その後深夜十二時まで集会所で遊んだ。
 朝来小四年の藤村日南子さんは「墓場を歩くのが怖かった」、同区長の藤村泰三さん(43)は「昔の夜回りでは上級生に捕まえられて木に縛られたりしたが、子供たちの間で連帯感が強くなった」と話していた。


美しい国の上は何とか大臣から下は市会議員に至るまで、その醜き害虫ぶりをよく見ておこう。右も左も全部ダメ、全部が大害虫である。
京都市会議員の報酬
下は上は京都市会議員の年間の報酬である。(『京都新聞』(070327))
 月給に換算すれば188万円である。京都府議会議員も同じくらいだが、府議のほうが若干少ない。ムチャクチャでありませんの。アンサンらには人の世の常識というものがありますのか。188万円も取ってそれに見合うほどの仕事ができますの。誰に聞いても議員さんには何もしてもろとらん、といいますで。京都市民の皆さんはこんな連中を議員に選んでいて京都がよくなると、ビンボー人の生活が豊かになると考えておられるのか。オマエらこそが京都の大害虫と呼ばれるのが嫌ならばせめて期末手当も含めて月50万円までに自らの手でカットしなはれ。
費用弁済は議員歳費の二重取り、交通費手当などは本給がたいへんに少ない人に支払われるもの、月給15万円の大部分の安月給取りには必要なものだが、その十倍以上も貰っていてなぜこんな手当が必要なのか。ほうけているのか。ヨクボケという。色にほうけるのも見苦しが、ゼニにほうけるのもいいかげんにさらせよ。見苦しいを通り越している。
会議に出席すれば幾らか支払われるというのもずいぶんとおかしなものである。賃銀は別に支払っていて、本来業務のために会社へ行けばその分、一日幾らかとかさらに支払う会社がどこかにあるか。政務調査費とは名だけで、実際は報酬でしょうがな。政務調査はアンサンらの本職でしょうがな、本給でまかなうのが当然のもの。こんなものものをオール与党の八百長で決めて、受け取れば普通一般には犯罪でしょう。おいおいそんなもの貰って大丈夫かと私なら辞退する。ダニ生活が魂のシンまでしみこんで、まともな判断力も良識も失ったのか。とんでもない歳費についてはオール確かな与党。反対するまともな野党はないのか。もしもアンサンが良識ある市民の代表としての市会議員のつもりならば、こんな金は受け取れるワケないだろうと即時辞退しなはれな。
同紙は、続けて「議員に支給・交付される報酬など」として、
京都府議会、京都市議会とも議員報酬は1人年間1094万4000円、期末手当は459万3600円で同額。報酬は財政難対策で5%カット中。政務調査費は府議会が年間600万円(個人分月額40万円、会派分1人月額10万一円)、市議会が648万円(個人分月額40万円、会派分1人月額14万円)。このほか、本会議や委員会の出席経費として「費用弁償」があり、府議会は1日3000円で交通費は実費支給。市議会は1日1万円が支給される。政務調査費の使途は年1回、府市議とも各議長に報告。府市民は閲覧できる。
としている。大害虫退治が必要なようである。
文官ゼニを愛して国亡ぶ。どうやら議員先生どもは己の歳費をつり上げ私腹を肥やすことにはことのほかご熱心のようである。その万分の一の熱意ででも国と郷土を愛してくれればと思う。議員先生方は税金で喰っているのだから、その本給は納税者の最低所得に留めるべきであろう。税金を払う者の何十倍も貰うのはおかしい。納税者の最低所得とは0円である。収入がなくとも所得がマイナスでも消費税は取られる。だから議員の本給は0円であるべきだ。本給がナシだから何々手当や政務調査費をくれというならわかる。本給はガッポリ、さらに手当などをつけるは税金ドロボーに追い金をやるようなことである。議員はド厚かましいし、納税者は人がよすぎるにもほどがある。美しい国の議員の本給はなくすべきである。
 さるご婦人がどこかの議員に立候補されることになったそうである。小さい子供達は心配して大反対したそうである。「お母さんは、なぜそんな悪い人になるのか。あんなものにはならないでくれ。政治家にはなるな」と。
いやお母さんは悪い政治家になるのではない。よい政治家になって社会で苦しむ人たちの力となって頑張るために立候補するのだと、子供達を「納得」させたという。
当選されたのかどうだかは知らないが、しかしたぶんこのお母さんも、当選されていれば、当初の志もすっかり忘れてしまい、社会苦にあえぐ市民の血を吸うダニになっているのではなかろうか。議員削減とか歳費削減とか、おかしな事をいうヤツもおるけどな、あいつらはアホや、何をいうとるんや、まだまだタランもっともっと上げてもらわなあかん。子供達が心配した通りに…。子供は泣いていることであろう。主権者の勤めとしては全員を次の選挙では落とそうではないか。

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木ノ下の射矢神事(舞鶴市木ノ下)

与保呂は現在は一番川上の村である。その下に木ノ下(きのした)という村がある。元禄年間に与保呂から分村した村である。木ノ下はたぶん()の下、()の下の意味ではなかろうか。旧菅坂峠(舞鶴市木ノ下・右の高速は舞鶴若狭道)
「城」や「柵」はキとは普通は読まないが、茨城(いばらぎ)県とか城崎(きのさき)温泉とか書かれるように城はキとも読まれる。蝦夷の反乱とかで東北には何とかの()というのがいくつもつくられた、これは中国語にはなくて、古代朝鮮語の読み方であるという。朝鮮本国ではもうとっくの昔(7世紀ごろ)にはそう読まなくなっているが、何とかの国では今以てこのように読んでいる。シラギのキ、新羅(しら)をシラギと読むのは新羅城(しらき)のことだそうである。
 史書に坂上田村麻呂の蝦夷征伐とか書かれているものである。もっと古く奈良時代から引き続いたものであるが、別に蝦夷が何か不都合をしでかしたとか言うのではなく、一方的な美しい国側の侵略戦争であったとも言われる。東北は金属資源の豊かな土地であり、奈良大仏の黄金もここでとれたものであった。そうしたものを求めたものでなかったかと指摘する向きも多い。イラク人の反乱と呼ばずテロリストのテロと呼びはするが、平安の時代も現在も同じような皇国史観による「征伐」をしでかしているようである。平安時代は勝ったようだが、しかし前回に続いて今回も侵略者は負ける。勝つ道理がまったくない、絶対に負ける。それが人類史の進歩なのだろう。

この村は菅坂(すがさか)峠の登り口にあたり、峠を越えてくるであろう上林(かんばやし)勢にそなえた山城がここにあっても当然と思われる。現在のところ遺跡調査はされていないようだが、この地名といい、地勢といい、あってもいい所である。
一つ上に与保呂小学校があり、その上が殿村(とのむら)という。殿様がいたのだろうから、城があっていいと思われる。
 現在の菅坂峠は全線改修が終わり、立派な道路に生まれ変わり、昔の菅坂峠の頂上は通らずにトンネルで通り抜けてしまうが、明治大正の頃はこの写真の菅坂を越えたそうである。
この辺りは上林から移住したという一族も住んでいるし、私の同級生の話によれば、彼の母は上林の人だそうで、子供の頃はこの峠を越えた記憶があるという、すごい坂道でな、まっすぐに登って行ったな、まあこの道の方が近いけどな、ということであった。ここには鍾乳洞もあるそうである。上林の人は夫婦ずれで炭を背負い、この峠を越えて舞鶴へやってくる。夫の方は二俵、妻の方は一俵を背負っていた。彼らはその三俵を売り、その金でいくばくかの日用品を買って帰って行ったそうである。
 ここを流れる川を菅坂川とか木ノ下川と呼ぶが、そのスガは金属と関係が深い名である。畑井弘氏によればスガとは銅のことだそうである。『日本の地名』(谷川健一・1997)は、
はスカの宛字と思われる。スカはふつう砂浜とか砂丘をいうが、山砂鉄、浜砂鉄とも砂の中に鉄がまじるから、スカを砂鉄を指す言葉に用いたかも知れない。.
スク・スキ(村)という古代朝鮮語があるいはスカとなったかも知れない。
『まいづる田辺 道しるべ』(安田重晴・平10)は、
「倉梯村史」によると、永延年間(九八七−九八九)花山院の西国御巡幸の経路に池内谷より池部(行永)へ越え与保呂川を遡上し、与保呂小学校前より堂奥青路に越え、小倉に出る道を通られたとあり、後、永くこの道が西国巡拝の順路となったと記されている。
 又、与保呂には丹波へ通じる主要街道があった。木ノ下を流れる菅坂川にそって菅坂峠を越えると、丹波の上林に至る峠道あり、この峠越えの道は往昔より多くの人々が丹波、丹後を往来したであろう古い道標が峠道に今も残っている。
 この菅坂峠は今より二百六十年前与保呂村の百姓達にとって、忘れられない悲劇の場所でもあった。
 享保年間(一七一六〜一七三五)打ち続く飢饉で与保呂の百姓の生活は苦しく、本年の古借(五十二石余)の返済免除を願い出たが、年寄、庄屋、奉行所はこれを認めず、かえって不心得者となじられ、享保十八年(一七三三)一月十六日、当の十四人は家財没収、腰縄付で真倉の国境迄連れていかれ追放。
 一方妻子達三十五人は別に菅坂峠迄連行され、峠で同じく追放された。彼等はこの処罰に対しどんな思いで故郷をあとにしたのであろう。
 当時、十四人が連行された道筋は不明であるが、おそらく与保呂谷道を通り、白鳥峠を越え、田辺城下を引廻わされて真倉の国境まで連れていかれ、追放されたのではなかろうか。
 又、一方妻子達は、木ノ下より菅坂峠まで連れていかれ、峠の頂上で追放されたのではないかと推察される。
この辺りに金属などとは現在では想像もできない話であるが、次のような伝説がある。『舞鶴市内神社資料集』(渡辺祐次編)に、
射矢の神事
 与保呂村字木ノ下の一地点にうっそうたる一小森林がある。そこは昼もなお暗く、内に八幡宮を祭る小祠があり、毎年三月九日に射矢の神事が行われる。これは字の青少年三名が、この日より前一週間身を清めてその式に当る。この式は乙矢、中矢、箭の三態あり、それぞれ一名がその受持ちを定め、一態は九矢三節とし、通計二十七矢を射る。的は鬼面で、最後の一箭は満を張り、射る所作をするだけで、左手で矢を握ったまま放さずに式を終わる。
 この神事の起源は、古老の話によると、今から八、九百年前、与保呂が比叡山延暦寺の所領であったころ、当時は荒涼とした一山野で、野猿が暴ばれ回り開拓者を悩ました。そこで収穫物を害するこうした野獣を退治するために、野中に仮小屋を建て、夜な夜な交代で弓矢を持って守ることになった。
 ある夜、例によって一老爺が弓矢を持ってこの仮小屋を守っていると、夜中にその老妻が遠くから夫の名を呼びながら馳けて来た。何事かと聞くと「いま叡山からお觸れが来たので、その手紙を持って来た」という。その唐突なことといい、姿といい、これは怪しいとにらんで、老婆を目掛けて一矢放った。老婆は手に持った鉄の茶釜の蓋でこれを防ぎ、老爺の放つ矢を全部たくみに受け流した。
 ついに老爺の手元には最後の一箭が残るだけとなった。老爺はこの矢を満と張り大声を張り上げ「残念ながらこれでおしまい」と叫んで、矢は放たずに左手に握った。この時怪獣は鬼面をそば立てて老爺にとびかかって来た。老爺は手に握った一箭をもってこれを刺し、この怪獣を退治した。現在は薬師堂で行っている。
八幡神社と薬師堂は下の常村との堺、常のお寺(福聚寺)の隣で、お互いに10メートルとは離れていない、境内を共有し合っているようである。どちらと言っても同じようなことである。私の住んでいる所からだと200メートルくらいの所にある。八幡神社(舞鶴市木ノ下)
 ここは鬼面であるが、たいていは「鬼」と書かれた的を射る「鬼射」といわれる行事で、あちこちにあるようである。丹後ではきかないが、関西に多いそうである。オブシャ・オビシャと読まれる、破魔弓、年占の正月の行事だそうである。
 木ノ下では三月九日だそうだが、一月遅らせているのではなかろうか。本当は二月九日、このあたりが昔の正月なのだろうか。
写真は3月9日のものである。もしやと思いこの日に出かけてみた。何もなかった。
 神武紀の「辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位す」の記事に基づいて建国記念日が定められている。この正月を2月11日と計算したのであろう。もう一月遅らせるのが本当なのかも知れない。わかりきった話であるが、実在性のない天皇の暦もない時代のあてにもならない記録である。暦が入ってきたのは何時だっただろう。それを現在の科学の時代の建国記念日とする。科学文明の高度に発達した美しい国の超古ぼけた政治屋ども腐りきった頭脳ならではの話であろう。何で天皇が即位した日が建国なのかもわからない。あほくさい記念日である。廃止がよかろう。
 この日は冬型の気圧配置で、寒かった、青空も見えるが時たま雪もちらついた。しかし初春おめでとうございます。といってもいい時期ではある。春やない、これから冬や、何でこの寒いさなかに新春なぞというのか、と問われることがあるが、暦が変わり正月日が変わったのであろう。古い正月はこの時期なのではなかろうか。月と関係があるので、現在の暦の何月何日とは確定できないかも知れない。たぶん新月か満月の日であろう。
「矢で鬼を射る」 「鬼射祭」 「鬼を矢で射る」
問題は、なぜ最後だけは鬼面を射ないのか、ということである。この理由を合理的に説明するために怪獣の話になっているが、もうその本当の理由が忘れられていたのであろう。延暦寺の所領であったこともない。
「鬼は外」といわない村と同じ理由なのではなかろうか。当人たち自身が鬼なのではなかろうか。ここもまた古くは鬼の村ではなかったかと私は想像する。普通のように鬼を射て、めでたしめでたしで終わるようなアホらしいことはできなかったのでなかろうか。ウソーと思われるかも知れないが、八幡神社と金属が深い関係にあることはすでにこのサイトのどこかで書いた通りである。そしてさらに薬師も金属と深くつながる。薬師さんは目が悪いといわれ、「め」と書いた絵馬を奉納するところもある。目の病気によいと言われる。ヒョットコのように片目やあるいは一つ目、目や足が普通でなければ鉄と考えてはずれていない。七仏薬師信仰にしてもそうであるが、これらはすべて土蜘蛛や鬼と関係が深いものであった、七仏薬師とは、恐らく本当は彼ら産鉄民の信仰したものと思われるのである。
「目のお薬師さま」 「なぜ目の薬師か」
 ひとつこの神事を復元されてはいかがであろうか。今ならまだできるかも知れないと思う。与保呂ページの一番上へ
「射矢の神事」



常(舞鶴市)

与保呂の一番下手の集落は(つね)という。木ノ下から幕末あるいは明治の初期に分村したという。村は新しいがツネの地名は古いものと思われる、現在ともなればその意味が皆目見当もつかないからである。与保呂には常塚サンとか野里常サンとかあり、何とかこのツネの意味を知りたいのであるが、私は今のところ正解らしいものにたどりつけない。あるいはツナやツツといった蛇に関係するものでなかろうか、くらいしか言えない。
磯砂山東麓に常吉、大江町在田常津、高浜町中寄の常津寺、どこもみな金属と関係のある所である。
 若狭の常神半島の常神社。ツネカミノヤシロと読むのだが、ト神社とも読まれるようである。常をトと読むのは朝鮮語であろう。時の意味があるようである。常田と書いてトキタと読む所が長野県にかなりある。トコがトキとなったのか、それとも朝鮮語なのだろうか。トキは絶滅した鴇(朱鷲)がいる。トキは朝鮮語で日の出の意味があり、おそらくこの鳥の翼の付け根の朱色が日の出のトキ色をしているからそう名付けられたのでなかろうか。トキ(鴇)は日の出の朱色の意味であろう。誰も言わないようなのでついでに言っておく。
トコと呼んで東光のことかも知れない。薬師の別名のようなことになるが、いずれも未だに確定的な話ができない。

常には福聚寺という臨済宗のお寺がある。与保呂三ヶ村の寺であるが、行永の龍勝寺の末寺であり、我が家はじめこの辺りで葬儀などあれば、龍勝寺のおっさんも出てくる。さてその龍勝寺は天平2年の建立で元は真言宗であったといい、ここの阿弥陀如来および両脇侍立像三躯は市の文化財になっている。市史によれば
寺伝によれば、この三尊はもと与保呂から丹波奥上林の大唐内村に至る胡麻峠の堂に安置されていたもので、体内納入再興札にもあるように恵心僧都の作といわれているものである。
という。祖母谷からあるいは与保呂谷から丹波大唐地へ越える峠は胡麻峠とか護摩峠とか書かれるが、どうもそうした名の真言宗の大寺があったからそう呼ばれるのではないのかと想像できるわけである。ゴマはあるいは高麗でないのかとも想像できるのであるが、この辺りに山一帯には何かいまだ知られていない、かなりの過去がありそうに思われるのである。

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京月(舞鶴市)

与保呂谷の一番口に位置している。現在は新興住宅が建ち並ぶ。キョウゲツは何の意味であろうか。(きよ)ゲツの意味か。ゲツは月尾という神社名が残欠に出ているのでそれではなかろうか。あるいは清槻か。上根からここへ続く峠を見月峠というが、関係あるか。

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-PR-



















































































































































































































































与保呂川の千本桜
日尾池姫神社



































































































































































































































































ヒョットコの描かれた暖簾(於・舞鶴市内)



額田のひょっとこ






額田のダシ(下ダシと呼ばれる。畑や山のもので作られる。半分プロの腕前)









こうして鏡餅が二つ置かれている
































































































































































































































































与保呂の
虫送り
07年7月11日の記録




彼も松明を作って参加



松明というかこれは十字架でないか



可愛らしいのもある



近くの保育園の子たちの十字架軍団



松明と呼ぶかゴミと呼ぶか力作ぞろいのようで審査難航



優秀作品上位10点は表彰してもらえる



私も頂けるのですか、そらおおきに



このカネを叩いて虫送り行事追う



点火



紹介しましょう。与保呂校の英語の先生



そのジャマイカンギャルとスコトランド王子も見学



三連装の松明。虫どもこれでも喰らえ



これは超重装備。子供も唖然。虫もたまらん



打上花火を合図に出発



稲の虫、送れよーと呼びつつ田を歩く



どちらが虫だかよくわからいようなことであった



「オキの島まで送れ」と唱えるかと耳を澄ませていたが、言わなかったようである。
虫送りの思想の原点、虫はどこへ送られるのかを考えさせられる言葉であるが、私は聞いていない。
虫だけでなく、我々人間様も含めて、どこから来てどこへ行くのか。それを知りたい。


平20年は、
「虫送り」アルバム12









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