大浦半島、東大浦




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高潮冠水の名所

国道177号(有名な高潮通り)070910

漁連本館前080804

本当は波をはぶる所ではない

静渓川の河口

道路の上を泳ぐ小魚の群れ

国道175号(通称港通)070908



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成生(鳴生・舞鶴市成生)

舞鶴市成生

大浦半島の東側、若狭湾に着き出した成生岬の東側に成生なりゅうなりゅうなりゅう(鳴生)の集落がある。20戸ばかりの半農半漁の集落である。成生の集落
浜辺だけあって、村の入口の道路(?)の上を波が洗っていた、ここを通らないと村へは入れないからやはりこれは道路だと思う、潮が高いと通行できないだろう、泳いで行くのだろうか。

 もっとも舞鶴では町なかの国道でも高潮で冠水する箇所がいくつかある。舞鶴の道は人と車と、タコも一緒に行き来するのである。→右写真。もっと高くなる日もあり、長靴いっぱい、車ではステップいっぱいにまでなることがある。
 昔ここに知り合いがいて、村の仲間集めてソフトボールの練習をしているのだという。どこで練習するのだと問うと、浜だという。浜と言ったって、そんなに広かったか、ボールは海へ向けて打って、あとて舟を出して拾うのだといっていた。それでも強かった。その当時は道路は今のようには良くなかったと記憶しているが、いまはスイスイでここまではこれる。
 下の写真二枚は坂根正喜氏による空撮写真。成生聚落のほぼ全景が写っています。左の写真は自動調整しています、右はそのまま。リバーサルフィルムをフィルムスキャナから読み取っているだけあって色がすごい。こうしたのは「写真」という感じであるが、私のコンパクトデシガメ、けっこう高かったハイエンド機なのだけれども、それでもこれでは「画像」だ。比べてみると色だけでなく、何かいろいろと抜け落ちているような感じに見える。何か足りない、何か欠けている、いいデジカメがずくずくと欲しくなった。

成生(撮影・坂根正喜氏)成生(撮影・坂根正喜氏)









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鳴生神社鳴生葛島神社(舞鶴市成生)

鳴生神社(舞鶴市成生)『丹後風土記』残欠には鳴生葛島社同将軍社の二坐が見える。ちょっと行ってみよう。現在は鳴生神社 がこの集落に鎮座しているが、それがこの二坐の後身である。

左の写真が現在の鳴生神社である。ぶりぶりぶり殿と呼ばれる立派な造りの民家が立ち並ぶ狭い幅2メートルばかりの路地を抜けていくと見えてくる。鰤の大漁のお陰で、大正3年に台湾檜で建てられているそうである。台湾は日清戦争に勝って日本の植民地となっていた。
 この社は明治維新までは、大将軍神宮(祭神・日子坐王)と称していた当時の文献には大将軍社氏神とあるが、宮号を遠慮して改称したという。鳴生葛島神社(鳴生神社境内社)
右手の写真は本殿の右手奥に鎮座する鳴生神社の境内社、鳴生葛島神社である。

 『成生の生ひたち録』(大正七年)に、

  慶応四年四月寺社奉行所へ差出たる其当時の写しに依れば左の如し

   成生葛嶋神社由緒
抑も当所葛嶋神社と申し奉るは古老の伝に事代主命大穴持命の二座を斎き祠る所なり此の嶋に平地もありしに昔大寶元年三月の大地震に東方二丁あまり平地の分ゆり流れ社は黒地(成生の地の名)の漂ひ上り其の處今に宮が崎と号す其より村内に引き移し屋摩の神とあがめ祭るものなりとかや

葛島(風島)(成生)とある。右手のおむすびのような三角形の島は、今は風島かざしまかざしまかざしまと呼ばれるが、かつては葛島かつらじまかつらじまかつらじまと呼ばれていたそうである。現在の成生の村の北2キロばかりの所に突き出る半島(桃崎あるいは勝崎)の先にある。

 田井小学校1969年発行の『田井校区のすがた』によれば、

 かざしま(風島)  以前は"'かつらしま"といったのをなまったらしい。明治26年測図一大正2年改版の地形図(|日陸地測量部一現国土地理院版)までは、この島は「葛島」と記されている。そして、鳴生神社の末社に「葛島(かつらしま)神社」があり、この宮は昔、かざしまにあったと伝えられている。いまでは風島の字をあてることが多い。(なお、大正9年修正測量以後の地形図(同院版)ては、この島を「奈島」と記しているが.これは明らかな誤りであるので今回の調査にあたって国土地理院へその旨を連絡して、訂正方を申請した。

上は閉校記念誌だそうである。小学校といっても地域社会の学問・文化の中心・殿堂であり、しっかりしたものである。こうした役割もあった僻地の小学校は、統廃校されてしまい、現在は大浦半島からすべて姿を消している。ここは確か小学校だったはずだが、と見てみてもそこには子供の姿はない、子供のいない学校、立派な体育館・校舎・校庭がそのまま、いや以前よりもさらに立派になってあるのに、しかし肝心カナメの子供がいない。何ともむなしいかなしい暗い気持ちになる、私たちは何か根本的に間違えたのではなかろうか。こんな事を言っても誰も問題とする意識はないようである、語るもバカらしくなってくる。当分はこの状態は続くであろう。たぶんこれは明日の日本のすべての地域の学校の姿であろう。
 大浦半島と似たような地理的環境にある、西舞鶴の青井小学校も風前の灯火の状態である。大君・吉田・青井・白杉が校区だが、児童数一人の学年がいくつかあるそうである。児童が一人もいない村もある。幾多の苦難に耐えて何百年も生き続けてきた村が消滅しようとしている。05年度から福井校と統合されて廃校となるという。
青井校区に昔の知り合いの青年団員がいたものだから、どうだったんだと尋ねてみた。何か私の口調が詰問調だったのか、何かひどく責任を感じているような様子であった。
どうにもならんわいや、ワシはしゃべるんがヘタやから。ワシ一人の小さい声ではどうにもならん。こんなことは育友会だけの話を聞いて決めるようなことではない。ここがあげて賛成では、どうかやって下さいというのだから。といったことであった。
岡田中小学校(舞鶴市西方寺)は廃校ではなく、休校ということになっている。休校なんて話はここだけだと思う。ここも青年団の理論強かったところであったから、そのS氏の影響で何とかこう持ちこたえているのだろうか。と考えていたのであるが、これは明日のすべての小学校と地域社会が抱える問題であろう。
私たちの明治の先祖は村の真ん中の一等地を提供して小学校を建てた。百姓の子は勉強などせんでもよい、野良仕事の手伝いをしろ、の時代は終わった。村にも学問と文化がなければならない。近世の城下町建設以来、都の文化にひけをとらないほどの高い文化を誇ったこれら村々の伝統的な溌剌とした文化はすべて町に吸収され、村は萎縮し疲弊してしまった。村の再建は小学校からだ。立派な小学校をつくり村作りにはげむのだ。そんな決意はもう受け継がれていないのだろうか。しかしせっかくの村人達の夢を込めた小学校は最初から天皇制国家の権力の機関に取り入れられていた、村々の小学校はそんな国の歴史とも深く結びついている。学校が国家権力の出先となったとき、その結末がどうしたことになったかは歴史がアジア人2000万人の犠牲の上に教える通りである。現在も地域自治と国家権力とのせめぎ合いの中にあるようだ。日の丸君が代愛国心。腐った政治屋どもごときに愛国心などと説かれると片腹痛いが、権力と結びついた学問などは学問ではないし、早くごめんとしたいものである。
「小学校統廃合について」
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葛島社というのだから、この島に昔は鎮座していたのである。成生側から見る限りは社の立てられそうな場所はないようだが、社名から判断してもそう考えねばなるまい。発掘調査でもすれば何か見つかるかも知れない。成生岬

現在の成生集落の北側に黒地湾と呼ばれる広い良港がある。かつての北国航路の要港であり、鰤がとれた時代にも漁師たちでにぎわったという、作業場があり、桟橋があり、飲食店があり、倉庫があったという。
今は誰も住まないが、私は成生や田井の集落は昔はここにあったのではないかと思う。両神社がこの黒地にあったというのだから、間違いなかろう。製塩遺跡があるかも知れないと思う。

 上の図は、カシバード3Dで作成したもので、2000メートル上空から成生岬を見ている。黒地湾は岬の向かって左側Wの形に入り込んだ、最もくびれた所である。南北1091メートル、泊地の水深12メートルだそうである。緑色にしてある所は海抜30メートルまでの準平地である。
スダジイの巨木(成生岬)
写真は成生岬にある巨大なズダジイ。誰が悪さをしかけるかも知れないので場所は秘密になっている、成生の宝物である。
成生岬のスダジイの巨木

海からや陸からは何度も見たことはあるが、成生岬の突端を実際に空から見てみたいなと思っていたのだが、見た人がいた。すごい。城屋に住む坂根正喜氏だ。ヘリコプターを駆って丹後を写しまくっていた。左は借りてきた写真の一枚。化け物のような巨大な悪魔が戦いの合間に一息ついて横たわる岬。日本海の荒海と戦い続ける丹後の岬、両脇腹はまるでノコギリである。ここが京都府最東北端。村なし里なし、田なし畠なし、木もなし草もなし、何もない。花崗岩の山の上に灯台だけがある、だからたぶん道はあるのだろう。このノコギリの海は海藻の宝庫でワカメなどがよく採れるそうである。野原あたりではそのワカメを干して、遠く関東にまでも行商にでた。
 坂根氏には一日も早くすべてを公開をして下さいと頼んでおいた。近々HP上で公開されるそうである。
ここは原発にねらわれるかもしれない。黒地湾を少し埋め立てれば原発4基くらいは作れる場所はある。若狭湾に残された最期の立地予定地ではなかろうかと、私は勝手に推測している。


カシバード作成の図に見られる成生岬の東の島は毛島(けしま)という(↓下画像は成生沖あたりから見た毛島)。
毛島:この海峡はけっこう波高い
 昭和2年3月6日の午後6時20分に、この島の上空に不思議な雲(虹)が出ているのを観測していた人がいた。
椋平廣吉サンとおっしゃる。宮津市江尻の人らしくそこから観測していたのだろうか。これが「椋平雲」「椋平虹」と呼ばれた地震前兆雲であった。
彼はすぐに大地震が発生すると氏独自の計算式を用いて演算をして、一日後の網野町沖合での北丹後地震(昭和2年3月7日18時28分・網野町郷を震源)の発生を予知して、周囲の人々に危機を告げた。
人々は石や雪を投げつけて「気違い、凶人、馬鹿野郎」と叫んだそうである(ご本人がそう書かれている)。しかし彼の計算通りの時刻と場所で日本海側最大とされる大震災が発生し3000の人々の生命を奪ったのであった。
彼は関東大震災も一日前に予知して、東大に通知したそうである、こうした話は「虹のおじさん」という童話にもなってといるそうである。郷村断層(国天然記念物)

右写真は郷村断層の地点(左手のフェンスは郷小学校)。元々はまっすぐな田んぼの中の道であった。線を引いておいたが、このように水平方向に2.6メートル、垂直方向には西側(この写真でいえば向側)が0.6メートル隆起したそうである。この道路に対してはほぼ直角で交わる方向に13キロの断層ができた。

大学者や学識経験者というが本当に中味がそのレッテル通りなのかどうかはかなり怪しい、適任者かどうかもわからぬような者のいうことだけが、正しいとは限らない。ゼニ次第では白を黒といい、這っても黒豆と主張する「学者」や「学識経験者」様は日本国中にゴマンといる。「知識人」の仕事もまた「一つの商品」。ゼニを稼ぐために営業化されてお客様次第ではインチキ商品も平気で製造乱売する。学問本性の高貴な性格はとっくの大昔に喪失していて、もはやたいていが信用できる「商品」といったものではなくなってしまった。
一度たりとも予知に成功していない、そんな者ばかりを有り難がって、二度も予知に成功した民間の研究者を馬鹿者扱いするような傾向は今も大いにある。
大学者様よ、「地震予知できない連絡協議会」だったか様よ、地震を一日前に予知してみよ。未来がほぼ正確に当てられないような者の理論は三流のエセ理論である。観測データーが少ないだと、当たり前だ、満足のいくデーターがあれば誰でも正確に予知できる。同じ所の当時の写真(見てる方向は逆と思われる)

 地震前に網野辺りは地面の隆起が見られたようで、川や海岸の水が不断は決して見られない水準まで引いていたという。
テレビばかりを見てないで周囲の自然を観察していればある程度は大地震は予知できるかも知れないので、注意していただきたい。
「虹のおぢさん・椋平広吉」
「椋平虹」 「虹伝説」 「虹伝説」 「今日のひとこと」 「天地異変の部屋」 


『丹哥府志』は、下の挿図を載せている、雰囲気はあっている、次のように書いている。

大将軍社
 文治年中平氏亡び後其大将遁れて爰に匿るものあり、蓋大将軍社は其礼を祀るなり、今其姓氏を詳にせず村の北に倉内といふ處あり、田井、成生の二村に倉内氏を冒するもの其苗裔なりといふ。

倉内
 成生村の北に湾あり倉内といふ、湾の広サ十六、七町、懸崖左右に聳える、前に島あり所謂毛島なり風波の侵さざる處なり、航海の者此處に入りて風波を凌ぐ、風を見合て発す是を風待といふ。

倉内↓。今の黒地湾。天候悪くいい写真が写せなかった。断崖左右に聳えて、平らな場所がないように見えた。

倉内(今は黒地湾と呼ぶ)

 この地は平家落人・南朝落人伝説が残るが、将軍社は平家の大将を祀るのではない、残欠記事により祭神は日子坐王とされる。もっとも日子坐王とするのも怪しい話であり、これも残欠に付会したものであろう。侵略軍の敵将をなぜ祀らねばならないのか。成生
 古代の日子坐王ばかりではない、地域おこしとかで最近はお祭りまでしているようだが、近世の細川藤孝だって、あるいはもろもろのこの地の支配者はこの地への侵略者でもあったわけで、何百年も後世の我らが何もそれほどにうれしがるほどのものでもないと思うが、半分以上は行政のお仕着せのお祭りでは、彼らが何物であったかなどとそんな立派な分析などはしないようである。侵略者か解放者か、それを不問のままで地域にとって何か内容のあるお祭りになるのであろうか。

 大将軍と呼ばれる神社や地名が各地にある、この近くでは東舞鶴高校やその隣の御霊神社は泉源寺大将軍という地であるし、千歳にも将軍宮が鎮座している。将軍あるいは勝軍などとも書かれるが、これは当字で、本当の意味はほかにあると柳田国男も推測している。塞の神の石神のこととしている(「石神問答」)。朝鮮ではこれはチャンスンと呼ばれるらしいが、村の境に建てられた境を守る石製や木製の神様のことである。トーテムポールではないが、そんなような感じの怖い顔で邪悪なものの侵入を防ぐ神様であった。
「将軍標」

 現在は倉内サンは成生にはないが、田井には何軒がある。倉内という小字地名は現在はない、恐らく倉内→黒地であろう。黒地という小字は『丹哥府志』の記事通りの位置にある。成生の村の北の現在の黒地湾は、江戸期以前は倉内湾と呼ばれたのであったろう。
 黒地湾に面した岬の地名は黒地と呼ばれるが、そこは明治になって国に取られたそうである。軍用地であろう。水上勉氏によれば、水兵があちこちでタコ穴を掘っていたという。黒地の裏山を越えた反対側・野原側が軍用地になっているが、成生岬には昭和18年に砲台が築かれた、この砲台は米艦載機と交戦し、近くで海軍小艦艇が沈没したそうである、ここは戦場の村でもあった。この地に故地があると伝える神社は田井の蛭子神社もそうである。

 成生には76戸あったといわれるが、出漁中に突然の暴風雨に遭い、村の主立ったメンバーはみな海の底に消えてしまったそうである。それ以来小さな村になったという。

 戦争末期に青葉山南麓の高浜町高野の分教場にいたという水上勉氏によれば、当時の学校の壁掛け地図には成生岬も高野も地名は描かれていなかった、写真はもちろんのこと、子供に森や山を写生させたり、地誌のまねごとでも書かせてはならなかったという。
大浦半島全体が舞鶴 軍港を守るための要塞地域だった、火薬の地下倉庫となっており、火がつけば半島すべてが火の玉になって大爆発を起こすと信じられていたという。
 氏はこの青葉山中の山道で、後に述べる、当時中学生だった成生のお寺の息子・林養賢と出会ったそうである。極端な吃音だったという、彼は父親の法事を勤めるため帰郷していたのである。

さて、鳴生葛島社であるが、『田井校区のすがた』は、
  葛島神社(成生)一喝生神社境内

  葛島(風島)は、大宝元年の大地震までは大きい島で、東側の平地にこの神社があった。地震のため200mほども海中に沈み、神殿は黒地の端に流れついたといわれる。そこでその流れについたところを宮ケ崎と呼んでいる。それから小字平の地に移したが、後、また現在地に移築したといわれている。
としている。祭神は大穴持と少彦名、この社は山(屋摩)神社とも呼ばれるそうで、大山祗神も祀る。
 葛島は大宝元年の地震で200メートルも沈んだというからすごい話である。この島に海神を祀っていたのであろうかと思われる。大穴持と少彦名は舞鶴の島々の伝説には必ず顔を見せる国作りし神々である。
 元慶四年(880)十月、丹後国息津嶋神・葛嶋神・坂代神に従五位下を授けられている。『三代実録』に、
元慶四年十月十三日発巳、山城国正六位上石座神、丹後国正六位上息津嶋神・葛嶋神・坂代神並授従五位下
とある。坂代神というのは与謝郡式内社の須代神社だと思われる。朝代神としたり、大川神としたりもする。「室尾山観音寺神名帳」には、従二位葛島明神が見える。たいへんな神社であったと思われる。
 葛島神社は成生の他に小橋にもあって、どちらの葛島神社なのかを決めかねるのであるが、神名帳はともかく国史現在社は鳴生のほうではなかろうか、残欠から見れば鳴生であろう、『神社旧辞録』は、人位なら国司級だとして、鳴生葛島社を当てている。この一年前に竹野郡に異国船が漂着したための昇格であろうかと思われる。

 カツラとは何のことであろうか。葛・桂の木があったからか、小橋葛島については、角川日本地名大辞典は、
…西岸は海崖、周囲には奇岩が多く、付近は「大浦の勝」の好景の1つ
としている。但馬海岸柴山の似たような海に突き出した半島の山をカズラ山と呼んでいた。たぶん急斜面の岩崖の地形をカツとかカズとか呼んだのだと思われる。馬立島(水ケ浦より)
 曲がれる葛のごとし(播磨風土記)という言葉があるが、曲がった所というのか輪になったような地形もカツというのではないかと私は考えている。海面に半円形を描いて浮かぶ島を葛島と呼ぶのかも知れない。
昔は葛のツルで冠をつくり髪飾りにしたそうである。アテネ・オリンピックの勝者に贈られたオリーブや月桂樹の冠のようなものである。あれを売り出したら売れるだろうと思う。役者が変装用に頭にかぶったり、おしゃれのために着けたりするものを鬘というが、その語源はここから出ているのかも知れない。

葛島沈島伝説である。右の写真は水ケ浦から見た馬立島(馬建島)である。葛島より南にある大きな島であるが、この島にも沈島伝説があった。「丹後の伝説」
有名な冠島・沓島の沈島伝説の故地はこちらにあるのかも知れない。『加佐郡誌』は、
田井は往時凡海郷の部内であったといひ伝へられている。
成生は昔志楽郷河辺庄の部内であったといふことである。
としている。

 馬立島は鷹狩り用の鷹の雛の捕獲地でもあったらしい、『丹哥府志』に、馬立島の鷹ノ巣とり(丹哥府志)
鷹の巣
懸崖数千丈其八九分の處に穴あり、穴の内に鷹の巣あり、穀雨の後其下に番船を設け雛の有無を考ふ、立夏後五日其穴に入りて其雛を捕る。始め綱を以て捕る人の両脇に入れ之を手襷に結び、其綱を杭に巻て之を持つ者八九人、捕る者の下るに随ふて其綱を緩む(綱をもつ者は捕る人の親子兄弟の類)、之を捕る者頭巾を蒙り、左に篭を携へ、右に脇索を持ち、綱を力に懸崖を下る、綱を持つ者其脇索を牽くに従ふて緩急を為す、既に穴の傍に至りて岩を蹴る、其綱の反る勢を以て穴の内に入る、雛を捕へて其跡に扇子を置く是礼なりといふ、捕る人の給銀米五斗に銀拾匁なり、一歳誤て綱を急に緩めし事あり、其人膽を冷し一時ら白髪となる、今に其人存す、斯様の事中華の書にも載たれども妄誕なる様に覚えて未だ信ぜざれしが今其人を見て駭然たり。

 鷹を捕らえたのは馬立島だけではないようである。冠島・毛島・成生岬なども知られている。
「丹後の伝説」

残欠には甲岩の記事がある。
甲岩。甲岩ハ古老伝テ曰ク、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠ト曰フ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。故日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲ顕シ忽チニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生ト号ク
甲岩は丹後と若狭の国境の正面崎(江戸期は兜崎と呼んでいる)、内浦湾という高浜原発のある入江の入口の西側の出っ張りであるが、その岬の突端にあるカブトに似た岩という。海からでないと近づけそうにもない所である。正面崎(音海から。島は毛島)
そこを鳴生と号すと書いている。
ここは現在は成生ではないが、昔はここが鳴生であったのかも知れない。北のはての成生岬の先端から、この正面崎まで直線距離にして約5キロばかり、現在の成生・田井・水ケ浦の全域、すなわち大浦半島の東側すべてを鳴生と呼んだのかも知れない。この地は田井の海臨寺の発祥地でもあり、この辺りの集落の故地かも知れない。甲岩(丹哥府志)

『大飯郡誌』は若狭国神名帳記載社を載せて分析しているが、その中に正五位鞍道明神がある。
正五位鞍道明神  或は内浦村 神野浦? に在りしならむ乎
〔若狭郡県志〕未知其處
〔東寺百合文書〕大治元年二月源某所領 田畠山林等 譲輿 丹生二郎隆清 公験状−青郷六ヶ所云々 海一所字鞍道浦
仁平元年三月附属状 隆清が嫡子丹生若丸に其継祖父平某祖母小槻氏が−鞍内浦
(按に鞍道も鞍内もクラノウチにて内浦の名に原づき神野は神社の故地なるに因る名なるべし)
(〔神社私考〕鞍道鞍内共にクラチと唱ひ車持(クラモチ)の役にし下車持の十六所大明神もしくは此鞍道明神にあらぬかとの説あれ如何あるべきなほよく尋ね考え可し矣)



鞍道浦 鞍内浦
 共に(東寺百合文書)崇徳帝大治元年の公験状と近衛帝仁平元年の附属状に見え、此村内の沿海地にて、内浦の名も或は之に原づきし乎。此浦は青郷に近く、丹生氏 之は丹後加佐郡(西大浦村)大丹生の領主ならむ、三方郡にも丹生浦あれど、余りに遠隔せり。丹後のと誌むるが妥当ならむ の所領たりしなり。現今丹後に属する田井浦松尾寺等一帯の地が、本郡に属せしは、〔太田文〕此国の内に田井保を裁せ、且抑領の語あるを據とし、全郡誌沿革章に既に考證せり。.
この百合文書の鞍道浦や鞍内浦は倉内浦であり、現在の黒地湾のことではなかろうか。倉内サンが何軒かあり、製塩土器も出土するとなると、どうも私はそう想像するのである。
大治元年は1126年、仁平元年は1151年である。いずれも平安後期であるが、その時期はこのあたりは大飯郡青郷であったかも知れなくなる。丹後ではなく若狭に含まれたのかも知れない。

丹生や平といった氏名は金属と関係がありそうに思われる。鞍道・鞍内はクラチであり高倉下たかくらじたかくらじたかくらじ命の倉下で、朝鮮語のオロチであろうかと思われる。竹野郡丹後町の宇川の中流あたりにも鞍内というところがある。碇高原の西麓で上山寺の西の院と言われる西光寺があったという。やはり大蛇の民話が残る。
「蛇の息子」
この鞍道明神の後身ではないかと思われる社は『田井校区のすがた』(1969)に、
◎姪子神牡(田井)−ミヤゲ
もとは黒地にあって、田井・成生両区で管理していた。黒地が明治の初めに国有地とにり、後成生区民に払い下げになって、この神社地だけが田井区のものとして残っていたが、昭和35年に田井小字ミヤゲに移した。祭神は、事代主命(ことしろぬしの)、住吉大神、大海津見命(おおわだつみの)で、黒地の守護神である。.

また、式内社・香山かごやまかごやまかごやま神社の鎮座地、高浜町車持はクラモチと読み、車を持った部民のことだろうと一般には考えられている、私は何か合わないと考えてきたが、各地にこの地名はあるが、高浜の、そしてたぶん全国の車持地名や氏族名や車持や車持部も、クラジと読むのが本来だと思われる。天香語山命は亦の名を高倉下命という。この倉下であり、金属の霊、オロチの朝鮮語であり、金属精錬集団の地なのではなかろうかと思われる。
ついでに書いておけば同書記載の馬立明神もたぶん馬立島にあったのでなかろうか。
正五位馬立明神 
〔若狭郡県志〕未知其處
〔神社私考〕今社詳かならず(注)しひて考るに…馬居寺小き…神祠あり…此神名の立の字もしくは居の誤写にて馬居にあらぬかと立と居の草書…混ひもす可きなり(之を據としてか近時馬居寺熊野神社へ此名の神を合祀す)
(按に加斗村飯盛の荒木に小字馬立あり近に権ノ下中ノ森等もあり或は此社名の名残乎)
郡域の変更あるものと仮定すれば尚或は本郡内にありし乎と覚ゆるもの無きにあらず 既に論ぜしもあり
『日本古代氏族辞典』は、車持について、
車持部の伴造氏族で、上毛野氏同祖氏族の一つ。姓は君で、天武天皇十三年(六八四)に朝臣となる。「車以」とも書く(長岡京跡出土木簡)。『新撰姓氏録』左京皇別に「車持公。上毛野朝臣同祖。豊城入彦命八世孫射狭君之後也。雄略天皇御世。供B進乗輿C。仍賜B姓車持公C」とみえ、雄略天皇のときに乗輿を供進したことによって氏族名がつけられた。…

越中国新川郡と上総国長柄郡に車持郷がある。新撰姓氏録説をそのまま信じるわけにもいきそうにない。何か用あれば新幹線で駆けつけたのであろうか。上毛野氏は渡来系なのではなかろうか。藤原不比等は鎌足の次男で,母は車持君国子の娘の与志古である。
若狭には黒駒神社というのがいくらかあり、これはこれはクルマとかクロコマとか呼ばれるという。何か関係があるのかも知れない。大浦半島の赤野には椋森神社がある。たぶんクラモリと読むのが正解だと思うのだが、これはあるいはクラモチの転訛かも知れない。クラというような地は金属と関係が深い。この地も恐らくそうした所と間違いがないと思われる。

難しい話だが、このナリウの地名の意味を考えてみよう。
残欠は甲岩が鳴動したからナリフと言うというのだが、これは地名説話で当てにはならない。海が鳴る所なので鳴るなのか、ナルイ傾斜地のまあまあ平らな所という意味か、あるいは奄美大島のナルコテルコ神のナルかも知れない。ナルコテルコとは何か、今は普通にはナルコは海の神でテルコは山の神と考えられているが、本来はナルコもテルコも同じであろう、同じものを二重に呼んでいるだけである。ナルコのナはニともなって、沖縄ではニライカナイとか呼ばれる。
 テルコというのだから太陽だろうと思う、太陽神を呼ぶ言葉と思う。思うというのは、誰も未だ解明していないのである。
 名(奈)島が二つあり、田井の小字に難波がある。難波江なばえなばえなばえ(高浜町)とか、この近くの東が海になっている場所にはナのつく地名がある。これらと一連の地名ではなかろうかと推測して考えてみようと思う。
丹後半島の西側にも日出(伊根町)とか日ヶ谷(宮津市)とか同じような地名がある。この地にもナルの小字は実にたくさん分布している。籠神社の東側に難波野なんばのなんばのなんばのの地名もある。これについて、『西丹波秘境の旅』は、
難波野。もともと「ナニワノ」である。「ナニワ」の「ナ」とか「ナリ」は古代朝鮮語で太陽のこと。「ニワ」は門とか入口の意。つなりナニワノは太陽を迎える野のこと。入口のことである。そのナニワの東方、若狭湾に面して成生岬がある。その成生のナリは前述の通り太陽のこと。すると「ナリウ」は太陽の、つまり日の出の発生するところとなる
成生とは日の出の発生するところとしている。成生とは太陽の生まれるところ、日の出の所、日ノ本のことだろうと考える。宮津市の難波野の近くには西国28番札所の真言宗世谷山成相寺(なりあいじ)がある。このナリはそれであろうし、アイもそうかも知れない。
大阪の難波とか東生(ひがしなり)郡や西成(にしなり)郡がある。ナニワはナリバにことだとも言われる、ヒガシナリやニシナリのナリも太陽のことである。成生と同じ意味の地名だと思われる。
成生の高浜町側には日置があり、宮津市の方は日置郷の地である。この両地はともに鰤が捕れるというだけでなく、似ているように思われる。

水ケ浦には天照皇太神社が鎮座する。江戸期の文献には名が見えないが、古来からの信仰があったのだろう。成生を太陽の生まれる所と考えても外れてはいないように思われる。鉄と考えてもあっている。 『田井校区のすがた』は、
o天照皇大神社(水ケ浦)
 o祭神 天照大神
  10月11日の例祭には、村人が舟着場から舟に乗り、舟の上でまつりばやしを奏しながら海上を神社の浜まで渡る古くからの習わしがあり、いまもつづけられている。
両墓制がよく残っている地である。水ケ浦は屋敷や近くの畑でよく見える所にあり、変わったお墓だな、上に板状の1メートル弱四方の石を置いた土葬墓のようなものがあり6個ばかり整然と並んでいて、そのすぐ近くに墓石がこれも6個くらいが立っている、一つの家の墓地らしいが、お墓が二つある、ああこれが両墓制なんだ、ずいぶんとくっついてあるんだなと素人でもすぐわかる。古くは真言宗の海臨寺の故地であり、それと関係があるかも知れない。
『舞鶴地方史7』の「舞鶴の両墓制」(井上正一著)に、両墓制を存置する土地として、 
舞鶴市では海岸に近い部落に多く、海岸に遠い土地にはない。まず東舞鶴駅裏の与保呂部落、東北方に廻って多門院、堂奥、松尾寺駅近くの安岡、白屋、杉山、登尾、次に日本海沿岸に飛んで田井、成生、ずつと海岸ずたいに西廻り、野原、三浜、瀬崎、大丹生、千歳、佐波賀、引揚援護局のあった近くの平、次は東舞鶴市街の西方北吸、それより西舞鶴へ向う道路を下ったところが余部上、次は西舞鶴市街地よりやや南方に女布、それから舞鶴湾の西側海岸へ廻って大君、白杉、由良川鉄橋の東詰の油江がある。
調査漏れの地がもう少しあるようである。同氏は『…17』にも書かれている、
【田 井】
 この部落は大浦半島のうち、福井県側に開けて、海に臨む村、戸数六十戸のほとんどが両墓制、第一次墓をミハカといい、部落の東側の山腹に点在している。個人墓である。第二次墓をマイリバカまたはセキドウバカと呼び部落の西北の山護に臨済宗の巨利海臨寺があって、その地つづきの山に部落の共同の石塔墓がある。ここは江戸期のものから、中世末期の宝篋印塔や五輪塔、板碑などが多い。古い立派な石碑群。この見事な景観は丹後地方唯一だと感心した。
 石塔は埋葬後七年忌くらいに建てるが、昔は五十回忌になると、先に枝一本を残したシイの木の塔婆をつくって石塔墓に建て、神さんになったと言ってそれからはミバカに詣らなかったという。石塔墓は家によると余地がなくなってや近年からミバカに石塔を建てる家もあるというから、やがて両墓制の崩れる傾向かと思われる。
【成 生】
 東大浦の日本海に面した二十二戸の部落、全戸両墓制である。宗旨は真言宗。第一次墓をミバカ、第二次墓をセキドウと呼んでいる。何れも個人墓で部落の周辺にあり人家から一五○メートルから五○○メートルの所にある。通常埋葬後三年目くらいに石塔を立てるが、引墓について特別の行事はない。
 何年以後はミバカに詣らぬということはなく、いつまでも両墓に詣るという。区長さんからの回答書によった。
水ケ浦の記載はないが、田井の一部である。両墓制は畿内に発生した中世の墓制らしいが、丹後には54箇所のこり、そのうち46箇所は舞鶴だそうである。こんなに集中するのは、どうしたことなのだろう。若狭からの影響かも知れない、奥上林もほとんどが両墓制だというが、不勉強者で私にはこれ以上はわからない。
「両墓制の分布」

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磯島(舞鶴市成生)

成生の浜から沖側を見ると、入江の出口にかわいい島が浮かんでいる。磯島(イサシマ・射手島)と呼ぶ。
 勘注系図の凡海連磯島を思い起こさせる。その時代ここに成生集落があったかどうかはわからないが、あるいはこの人は成生の人かも知れない。磯島(舞鶴市成生)
 この時代の勘注系図は、海部氏本宗家についてもそうだが、−児aaaa−児bbbb−児cccc−となっていて、父子関係で繋がっているとされている。しかし父子であるはずの彼らの墓所にあり方から考えると、どうもそうばかりではないのでないかと、私には思えて仕方ないのである。
「児」と書かれていれば、現代人のはしくれとしては、実子と判断してしまうわけであるが、:本当は血縁関係のある実際の父子ばかりではないのではなかろうか、どうも擬制の父子関係、義理の父子関係というのか養子のようなものもが含まれているのではなかろうかと思わざるを得ないような墓所のあり方をしている。
系図は権力と呼ぶのか地位のいうのかその継承の順番を記憶しているのであって、必ずしも実際の父子ではなかろうかと思われる。

 丹後海部氏にしても、凡海連氏にしても、(天皇氏も)、その氏上は最初はたぶん同族有力氏の間での持ち回りではなかったかと思われる。どこかの氏に独占的超然的な王家の地位は確立されていない、一代限りの輪番制の王の時代には大和王朝などはありえない、同じように丹後王朝はあやしくなる。では丹後王国はあるだろうか。輪番制の一代王の王家なき王朝なき丹後王国はあり得るのだろうか。そんな事を考えさせられる島である。
 丹後海部氏は、系図からいえば、尾張系・物部系となるし、「沖津鑑」「辺津鑑」の伝世鏡から考えれば、天日槍系でないかと思われる。しかし凡海氏は安曇系であろう。系統が違うので、両者がどう繋がるのか、私は判断を迷っている。

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西徳寺(舞鶴市成生)

西徳寺(成生)鳴生神社の奥隣にお寺がある。明雲山西徳寺という臨済宗東福寺派のお寺であり、田井の海臨寺の末寺である。
山門なし、鐘楼なし、あまりお寺らしい建物ではない、本堂は庫裏と一つなのだろうか、屋根の棟に卍印がついているのでそれだとわかる、よく手入れされ、庭などもきれいに清掃されている、まだ新しいのではないかと思う、しかしだれも住職はおられない様子であった。近づくとゴトゴトと何か中から音がする、風の音か、何かが籠もっているのか。
 お寺ばかりでなく村全体に人の気がない、ここばかりではないが、どこに人は消えたのだろう、ヘンな奴が現れたと山中へ隠れたのだろうか。中世墓もあり、古いお寺と思える。永享年間の創立という。寺蔵の仏涅槃図は鎌倉時代のもので市指定文化財である。
西徳寺(成生)
 ある事件によって、このお寺は全国的によく知られることとなった悲劇のお寺である。(どうか頼むからここを観光名所とかいって売り出したりはするなよ。舞鶴市さん頼みまっせ)。
三島由紀夫の『金閣寺』や水上勉の『五番町夕霧樓』など小説の世界でもよく知られる。何度か映画にもなっているしDVDにもなっているようである。
 『田井校区のすがた』は、

明雲山西徳寺(成生)
 ・本尊  阿弥陀如来
 ・開基  氷享年間(1429〜)
 ・開山  一桂祖芳禅師(文安2年 − 1445− 入滅)
  慶長検地帳には、屋敷1畝10歩、中田8畝と記されている。
  十一面観音像・子安地蔵尊をどの仏像・涅槃像大軸・十六善神像軸(伝兆殿司筆)がある。昭和10年代に無住となった。
 ※ この寺は、金閣寺焼失の林養賢の父が住職であったが、老師が没し養賢も獄中で病死して無住となった。

父親が肺結核で中学二年の秋になくなり、母子家庭で育った林養賢は、金閣寺の徒弟僧であった、その真の動機は何であったかわからないが、一説にはこんなもの(金閣寺)は、禅宗には必要のないものと放火したという。昭和25年7月2日午前3時のことであった。上の引用文ではあまりにそっけないし少し間違いもあるようなので、以下、水上勉氏の『金閣炎上』によりながら、私は会ったことも見たこともないのだが、もう少し書き加えてみようかと思う。

 本当は金閣と一緒に炎の中で死ぬ覚悟であったらしいが、そうできず裏山で服毒したうえ刃物で胸をついて自殺を図たが果たせなかったようである。翌日面会にやってきた母親は拒否されて帰る途中に、山陰線から保津川へ投身自殺した。
父親は舞鶴市安岡の人で、少年期から病弱であった、25歳に成生の西徳寺に赴任、43歳で亡くなっている。赴任の翌年に母親が日笠とトランクだけを持って嫁いできた。大江町尾藤の農家の長女で、12歳で母親を亡くしたので、学校をやめ家事全般を見て弟を育てた人だった。どういった縁だったのかはわからない。成生にも明治期までは産小屋があったそうだが、養賢が生まれたころはなかった。昭和4年に生まれている。生きていれば今は75歳くらいだろうか。このお寺で生まれ、ここで少年時代を過ごしている。
 新しく出来た東舞鶴中学校(現・東舞鶴高校)に入学する。この時から成生を出て、父の実家の安岡の伯父の家に住むようになった。
 彼の父母はよく口喧嘩をし、母子の間も口喧嘩が絶えなかったという。彼がドモルのもこんな家庭環境が原因したかも知れない。
けなげそうに見える母親であるが、意外に人気は悪いのである。真偽不明ながら素行上に不評があったそうである(何事かは想像願いたい)。あれの子なら放火もしかねないだろうとの悪評も聞かれたという。養賢は安岡の伯母さんの縫った着物は着るが、母親の縫った物は着ないといっていた。母親を分析をしたものを見ないのでわからないが、この人もいつかどこかで、心の何かが壊れてしまったままの人だったのかも知れない。
 死を予感した父の懇願で金閣寺の徒弟入が許され、そこで花園中学・大谷大学と進むが、大学3年には成績が極端に低下した、学業をさぼり成績は79人中の79番目という。そして21歳のときこの事件を起こしている。
懲役7年であった。恩赦減刑で昭和30年に釈放されたが、父から貰った肺結核と精神障害が重体であったために、そのまま洛南病院に入院し、翌年身も心もぼろぼろになって死んでいった。収監されていても彼は何か巨大なものと戦い続けていたのだろう。誰も看取る肉親はなかった。墓は母と共に安岡にあるという。

 平成3年に田井小学校は閉校となった。閉校記念誌が発行されているが、その中に歴代の卒業生の名簿と記念写真も載せられている、昭和16年度卒業生の中に彼の名もある、物故者と書かれている、写真の中に彼の姿もあるのだろうが、どれが彼なのだろうか。

 母親は村の批判を買って事件の半年ほど前に成生の西徳寺を村八分で放逐され尾藤に戻っている。養賢が事件を起こす前から、すでに無住であった。「老師」というのは養賢の父親の道源であろう昭和17年に亡くなっていた。正式にはこの年以来無住である。

 丹後の田舎の貧乏寺の一人息子がなぜ鹿苑寺金閣に放火したのか、真の動機は何か。私にはよくわからない。同じ丹後人としてよく考えてみてもいいのではなかろうか。
 地元一部では、いやほとんど全部かも知れないが、この過去に触れることはタブー視されている、誰も取り上げるものはない、話をすれば必ず小さな声になる。何をそんなにタブーとするのか。養賢は人を殺したり傷つけたりはしていない。放火は自分が死ぬためのものであった、それが国宝だからその保存法に触れた、それだけである。
彼に百倍・千倍以上する巨悪どもが大手を振って歩いている。なぜ彼は死のうとしたのか、彼は何を叫んだのだろう、何と戦っていたのだろう。これが問題である。
 司馬遼太郎は一番最初に現地で取材できた記者だったが、3日の昼過ぎ彼は庫裡に「また焼いたるぞ」と落書きされていたのを見ている。どうやら何人も林養賢はいたようである。金閣寺というのか臨済宗というのか仏教界というのか、その胎内には。今もその体質は変わらぬのであろうか。どこかの独占大電力会社の如くに。
学問も宗教も何のためのものか。その本姓の高貴な使命を投げ捨てて、ゼニ儲けのためのものに成り下がってしまったのだろうか。ゼニ儲けはすばらしいぞ、仏様の教えを説き実践する、そんな高貴な使命などもうとっくの大昔に悪魔に売ってしまったワイ。


『金閣炎上』からの孫引になるが、よく引かれるので私も引いておきたい。『京都名園記』(久恒秀次著)に、


事件を起こした少年は、私が庭園の整美を行なった際、伐り落した樹枝などを運搬する作業にも率先参加した純情な少年であった。彼が金閣に放火した心情は小説などに書かれた内容とはまったく違ったものであった。世間知らずの少年の行動は思いがけぬ悲劇にまで発展したが、彼には彼としての筋の通った主張があった。庭園修理中のしばらくの間であったが、彼と朝夕を共にした私には当時の切羽詰まった彼の心情が理解出来る。しかし、ここで彼の行動の是非をのべるつもりはない。それよりも、文化財を抱えた京都の寺院が『金閣炎上』をただの犯罪と見ないで、少年が法律を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受取ってもらいたい。観光、観光と、ただそれのみに明け暮れする京都の寺院は、声の無い少年の抗議に深く耳を傾け、慚愧し、宗教機関としての本来の面目を取戻し、道場としての姿勢に立戻ることを願うのみである。
「金閣焼亡」 「修学旅行」 

この不景気に祇園あたりで飲んでいるのは、坊主と…、ボンさんは多いわ、ホンマに、あの業界だけは不景気は関係がない、とを耳にする。私はそんな所へは一度も行ったことがないので、真偽のほどは不明であるが、もしそんな金があるなら、己だけで富を独り占めにしてないで、将来を担う若い貧乏師弟に小遣いをやってくれ。

一方で資本が勝てば勝つほどに、他方ではテロが増える世情とイメージが重なってくる。社会的富をごくごくごく一部が独占しすぎているのが遠因である。富は社会的なものである、自分一人で稼げるわけがない、富は皆と分け合わねばならない。富を独り占めするということは、その他の者は当然の分け前を不当にも貰っていないということである。怒るのは当然である。格差社会は危険である。
分かたれない富は最悪の貧困とか。生産力の発展で地球上がいかにすばらしい商品が溢れかえり、「繁栄」を誇る「豊かな社会」であったとしても、ゼニを持たぬ者にはまったく何の意味もないおハナシである、ただ目障りだけであろう。逆に商品の売り手側から見れば、ゼニを持たぬ者などは何の意味もない、目障りなだけのものでしかない。本当は人間同士であって、お互いに何の意味もない同士では決してない者同士であるが、お互いの人としての苦痛や願いなどまったく理解できあえない、お互いが意味のない者の仲となっている。
売り手側が何でもテロと決めつけて強大な軍事力で押さえ込もうとする戦略などたてて実行してみても成功する道理はまったくない。彼らは超国家独占資本主義の産み出した己が墓堀人・死刑執行人である。アメリカや日本政府が宣伝するように、誰かが命令扇動したとかいうものでなく、事の必然として矛盾として帝国主義の誕生と共に生まれてくるものである。己が影法師と戦う愚かな実体のようなものである。どうあがいてみても、その実体が生まれた時と同じように血と膿と汚物の中に消え失せる日までは、影も消えることはない。
産業らしい産業はなく国家組織もなく軍隊もなくほとんど丸腰の世界一の超貧困国、草が生えているだけの国、こんな国と戦争する、正気の者には信じられないような馬鹿げた話に思えるような国とも呼べないような国のテロ。それに全世界の超最先端兵器で武装した無敵部隊が莫大な費用と人命を投入して挑んでも勝てないではないか。ベトナムしかりイラクしかりそして次はアフガンしかりであろう。我らは、先進国と自称する国の軍隊と国民はずっと負けている、我らは彼らよりずっと弱い。考え違いをし続けてきた我らには悲劇が敗北が、終末の日が当然にも近づいている。
テロテロと何でもテロとする米国や日本政府の見方には大きな問題がある。テロとは何かをしっかり定義もしないで、テロテロと呼ぶのはおかしい、彼らの用語のテロはずいぶんと怪しげな言葉であり、私は信用する気にはなれないし、あまり使う気がしない。民族の自決は何人も犯すことのできない神聖な権利である。米国だって独立宣言の中にうたっているだろう。もう忘れたのか。現在のような状況の中で民族自決を求めて戦うレジスタンス(抵抗運動)も当然発生しているであろう、他に方法がない場合の抵抗権は当然の権利なのである。テロとレジスタンスはどこが違うのだ、正当なレジスタンスまでもテロと呼んでいるのではないか、イラクやパレスチナやチェチェン等々のレジスタンスについては何も誰も触れないではないか、これらの国々ではテロだけがあってレジスタンスは皆無なのか、そんな馬鹿げたことがあるだろうか。大本営発表分だけでなく提燈メディアと呼ばれたくなければ、しっかりと報道したらどうだ。ガセネタばかりで動いているのは何も××党だけでもない。テロについてのしっかりした定義ができないのは何故か、答えは簡単である、誰もが納得できるような定義をすれば、米国英国こそがテロ国家であり、日本はテロ支援国家になるからだ。だからいいかげんな意味でテロという言葉を使っている。テロとテロと彼らを呼ぶ者は本当は同じ大資本の帝国から生まれた双子の兄弟であろう。どちらもたいへんよく似ている。相互に区別が付きにくくなっている。どちらが実体でどちらが影の分身だろうか。アリカイダやタリバンを育て、フセインを影で援助して育成してきたのは誰でもない米国英国ではないか。彼らは米国英国の秘密の分身なのではなかったのか。
しかしこの影法師を解放者と見るにはまだまだ未熟である。百戦錬磨の巨大なテキをしっかりと見据えて慎重に進めてもらわないと、関係のない子供や国宝金閣まで巻き込んでは支持は得られない。テキを喜ばすだけである。
「テロ反対」。こうした言葉だけで内容を意図的に隠した空疎な政治宣伝文句に近頃は「改革」がある。「改革に賛成か反対か、国民の声を聞こう」などとやり始める。空疎な有権者に向けたスローガンであろう。誰も国政改革に反対する者はない。誠に改革すべき所ばかりである。問題は改革するかしないかではなく、しようと言うその改革の中味である。どこを誰のためにどう改革するかということであろう。改革といってもいろいろ内容と方法はある。そこを論議するのが国会であろう。「憲法改革」というスローガンがそろそろ出てくるのではなかろうか。「憲法改革でテロに反対しよう」。これが恐らく「郵政改革」の次の政治日程であろう。

先だって(09/11)、たいへん嬉しい(♥)メールをいただいた。私の知らない現地の知識が多く書かれた私のHPよりも貴重なメールなので、少し紹介させて下さいと、了承を得ました。「少し」と言っていたのですが、削れそうな部分のない能文で、個人情報のみ削除した、ほぼまるまる全文になってしまいました。(ごめんなさい)
有難う涙が出て止まりません。
初めまして、私の故郷がこんな風にネットで紹介され閲覧できる事に感謝いたします。
【感動T】: 田井村の隣接する成生村の頁
・林ヨウケンの事
・「そごう」社長、水島広雄氏の事
・成生の20数軒の全貌が分かる航空画像 いづれの、紹介も適切で感動です、ただ水島氏だけに関しては郷土の誇り、あそこまで酷評しなくてもいいのではないでしょうか??
◆あなたのおばあさんも「佐波賀」の出身ではないですか、確かに一時期、”大浦です”と云えば舞鶴市内では、馬鹿にされていました。 なので、高校に行っても何処の中学校から来たの????の問いには、・・・ついつい無言になってしまいました。
◆確かに”人の道に外れた”と云えばそれまでかもしれませんが、それ以前に氏も郷土を愛しておられる人として見て欲しいです。
【感動U】:
・田井村の海臨寺の墓地の説明
・多分村の人でも、あそこまで語れる人はいないでしょう。
・それにしても、懐かしく涙のでる画像です。
【感動V】:
・成生岬 ・あんな風に、「怪獣」のようになっていたとは想像だにします。
・小学5年の時、成生村経由の徒歩で山々を歩いて、成生岬の灯台まで歩きました 当然、途中の黒地湾を通りあの秘密のスダジイ木を横にしてたどり着きました。田井を出発して5時間程経過していたのを思い出します。
・いつか機会があれば、もっと美しい(事実美しい)成生岬の紹介をお願いします。日本地図やネットの地図でも、田井や成生は表示されていなくても、「成生岬」だけは表示されます。 それ程、京都府最東北の位置です、怪獣と同じにしないで欲しいのは、私の我がままです、ご容赦下さい。
【感動W】 ・水ケ浦村の紹介
・地元出身でも村から神社までの、船で正式な装束での渡航する風景を見た事はありません。
・戸数7軒は、記事の通りです。なんでも全国で7軒だけの村は、水ケ浦と北海道の、忘れましたが何処かにあるだけと祖父が自慢していました。
・又、7軒で電気、電話と水道があるのは全国でも「水ケ浦」だけかもしれないと、祖父はよく話していました。(昭和20年代後半〜30年代初期の話)
・そもそも、水ケ浦、田井、成生、大山、等々は水ケ浦の南方の山地・・「別所」が発祥の地ではないかと云う考察に感動
・別所なる地名は聞いていますし、大体ですが、方向も分かっていますが、しかし実際に訪ねた事は一度もありませんでした。
・海臨寺も元々は別所にあった事は、前述の祖父からよく聞かされました。 《最後に》 此れほどまでに、小さな村の由来や歴史をひも解いて、まとめて頂いている全てに感謝いたします。 この他、京都府内全域に関しての詳細な記事の数々どれ一つを見ても感動の連続です。早速「お気に入り」に登録し閲覧をしています、ありがとうございました。

それから暫くして、もう一度こんなメールが届きました。
「舞鶴市田井」の頁を数ケ月振りに拝見しました。なんと涙が出る映像と解説文に只々感謝の至りです。 気分はマイカーを走らせ故郷に着いたという気分です。
文中、旧道には石畳の道ありを見つけ、私的な事で申し訳ありませんが、田井から歩いて石畳道の始点に大きな松の木があり 人々はこの松を【一本松】と呼んで、行くも帰るも、隣村(大山)との境と認識していました。
母はこの峠を天秤棒を担いで、魚の行商に毎日出向き、遠くは大波下とか中田まで歩いて行商をして、私を育ててくれました。
迎えには夕方、提灯(懐中電灯は未だ高値の花で大概の家は提灯を使用していた)を灯して、必ず「一本松」まで出向き、そこで帰りを待ちました。
「一本松」より先は隣村となる領域なので 迎えの時間に余裕があっても、それ以上は進まず必ず「一本松」で待機していたのを、昨日のように思い出します。
ここで、啄木の“ふるさとは遠きにありて・・・・”の句が浮かんできます。

♥水島氏についての私の記事などはどうでもよいもの、当HP本来の趣旨とは関係がありません、ナニを難しいことなど述べることなどありましょう、ナニをこだわることなどございましょう、ナニも惜しむことなどございましょう。HPからバッサリときれいさっぱりと完全削除しましょう。そうしましょう、そうしましょう。
−かと思ったのですが、が、氏の名で検索をかけてこられる方もあることでもあるし、背中で水島上等兵が、アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイとささやきますので、少し書き替えて残すことにしました。

ふるさとの喪失に苦しむ近代人、楽園の追放者疎外感に悩む人達に追い打ちかけて、なつかしの家郷の人々を攻撃しようとする気持ちは私はない。もっともその「なつかしいふるさと」「エデンの園」すらも商品化していく営業化の波が侵入進行してここでも近代人は疎外に苦しむはめになってはきている。ゼニ儲けしか頭にはないはずのクソ学者先生やクソ役人がいかに奨めようとも安易に「ふるさと」を売り出すのはもうよい加減にしたいもの。そんなことで「ふるさと」の本当の再生があるはずがない、全世界が強欲の大資本の好き放題のために破滅と混乱の中にある中では「ふるさと」だけを再生することはもうできない。これと戦うより道はないと思われる。
氏はもう過去の人で、今さら書いてみてどれほどの意義があるのか不明だけれども、一時は小売高10位の位置にいたそうであるが、グループ全体で2兆円の債務を抱えて破綻した「そごう」百貨店、その「そごう」のオーナー・元会長の水島廣雄氏は成生の出身。
氏はゼニ儲けの第一線で活躍した。ゼニ儲けは何を犠牲にしても悲壮な覚悟で取り組んでいいほどにすばらしいものかどうかは彼こそが答えてくれよう。
氏は空疎なる帝王とか呼ばれている。少し古手の現代日本人の一典型であろう、こんなタイプは今もゴロゴロといる。多かれ少なかれ氏のように我らも生きてきたわけではある。別に好きこのんでそう生きてきたわけではなく、そうした社会、経済構造であったから、その中でドロップアウトしたくなければ、孤独な異端者「へ、おかしなヤツ」と思われたくなければ好むと好まずにかかわらずそう生ねばならなかった、そう生きているようなフリをしていなければならなかったわけである。
何のためのゼニ儲けかとも問わずに、そうした社会に無批判にのみ込まれて、社会の寵児、大物、成功者、偉い人、「怪物」にでもなったようにおだてられ持ち上げられ自重心も失い銚子にのってしまうと、木に登ったブタですよ、あなたもあなたの周辺の人々も、間もなく高木から落下して破滅ですよ、の好見本かも知れない。
こんなに優秀な能力を持った人ですらもこんな運命が待っていました。現在の社会もその中で生きていかねばならない諸個人も氏と共有する空疎で危険な基本的方向性をもっているのではないですか、「氏以上にあなたも木に登った人間性空疎なブタではないのですか。あなたは人の姿を仮にしているだけのブタではないですか。」の警告的な問いかけのようなものなのかも知れない。
何かすばらしい書物でも読めば人間らしくなるというものでもない、他の人の苦しい状況に現実に関わり合うことによってのみ、倒れた人に手を差し出すときにのみ我らは人間に立ち返ることが可能になる。
コケましたか、私もコケそうです、注意して行きましょうや。
そんな事をいっておれる場合でもない、無数の人がコケていて、手をさしのべてもすぐに立ち直ってくれたりはしない重傷である。私としては「コケるな立て」と大声でどなりつけケツを蹴飛ばす乱暴な手よりない。やさしいことはいっておれない、人としての立場から厳しく糾弾されなければならない性格のものとも考えられる、義務的なものかも知れない。しかし何も氏個人を責めればすむというものでもない、似たような連中は腐るほどもいる。この人はワルイ人で私はヨイ人とかいうのでもない。幸いにもこうはならなかったが私もいつそうなったかも知れないというゾっとする恐怖を胸に持ちながら、人ごとどころではない、我が身があぶないワイと深く反省しながらの話である。
手放しで賛美するのも無関心も許されない。そしそうするなら社会も諸個人ももっと良くなっていけるかも知れない大切な契機を失うのではなかろうか。人ともあろうものが今の程度のデキで終わってしまうことになる。
何とかそうした状態を克服しよう、何とかもう少しはすばらしく人間らしく行きたいものと願っているわけであり、氏の生き方には何か他山の石となるものがあるいはかなりあるかも知れない。
氏だって「あれ、オレおかしいんじゃない」「オレどこかおかしくなってるよ」「オレ何か大事なものが欠けてきてるよ」と何か自分の異常に気が付いた時が何度もあったと思うが、その時にしっかり立ち戻る真剣な努力をしないと、どこまでも際限もなく落ちていく。自由自由などと言うが一つ判断を誤れば罪が問われる社会である、何でも自分で選択できる状態はきわめて罪と近い状況である。本当に自由だったらどうせロクなことは考えないもののようにも思われる。決して自由ではない厳しい社会に我らは生きてる。パソコンのように常時自己チェック、うるさいほどの厳しい自己監視の機能を外せない。
カネなし、権力なし、武力なしで、ただ心込めて誠心誠意の努力に明け暮れる市民としても個人としても、氏の生き方は感心ももてない、面白くも何もない、ただただよその人であり、書きたくもない、のだけれども、そんなことで、ついでだから少し書いてみてもよいと思うようなことである。

田井でも舞鶴でも氏に触れているような文献資料は何も見つからない、「郷土の誇りです。市民も一緒になって誇りましょう」とトンチンカンに誇りたがる舞鶴市ですら無視のようである。
氏は明治45年にこの村で生まれている。先の田井小学校の大正14年の同窓会名簿に氏の名がある。「そごう」は元々は古着商である。大浦半島でも漁師が着る古着を扱う商人が活躍したというが、そうした関係なのか、そごうとは遠戚関係があるという。興銀からここへ移ったという。
私財を平気で隠匿したりするので公務執行妨害で逮捕され、経営責任も問われて何十億円かの支払いを求められている。事件にからんで副社長が二人も自殺している。詳しくは
水島廣雄」「怪物水島そごう会長の虚と実」 など参照して下さい。

氏は、ふるさとを愛したと言われる。カマボコを「そごう」で売ってくれたという話を聞いたことがある。見本市のような会場で「美味しい。いいですね、売らせて下さい、ぜひ私を訪ねて下さい」と名刺をくれた人があった、舞鶴のカマボコ販売員たちは彼の名を見ても知る者はなく誰もキョトンとしていた。それを見ていたよその人が「今のはそごうの会長ですよ」と教えてくれたという。ほかにもいろいろあるのかも知れないが私は知らない。
「誰か故郷を思わざる」ではないが、誰でもそれくらいのことはする。喜び、悲しみにつけ思い出され、励ましてくれる故郷である以上は、よほどの極悪人でもない限りはそう努力はしている。しかしそしたからいって免罪されるものではないと思う。


不景気は関係がないでしょうと問うと、「関係ありますよ、ホンマにダァーダァー閑ですわ、言わんといてよ。」とあるお寺の住職氏はおっしゃる。以前は多かった50年忌とか100年忌の法事がまったくなくなったそうである。

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瑞光山海臨寺(舞鶴市田井大畠)

田井には古刹・海臨寺がある。海臨寺山門
ここが面白い伝承を残している。この辺りの歴史はこのお寺が語ってくれそうである。現在は臨済宗東福寺派、本尊釈迦如来であるが、このお寺はここに移る以前は水ケ浦(みずがうら)にあった。『京都府の地名』に、
寺伝によれば古くは「海林寺」といい、水ケ浦の背後の山腹台地(通称別所)にあった。最初は真言宗であったが、南北朝期に禅宗に改宗、その後、室町時代から江戸時代にかけて末寺二十数ヵ寺を数えたという。江戸初期、現寺名に改称、別所から現在地に移転したと伝える。天和二年(一六八二)の丹後国寺社帳には「東福寺派田井村 海臨寺(割注・末二十一寺有)」とみえ、内浦湾に臨む若狭の村、大浦半島・河辺谷・朝来谷の禅宗寺院のほとんどは当寺の末寺であった。江戸後期の旧語集は「至徳三丙寅年建立」とし、開基曇翁源仙、末寺一二ヵ寺と記す。境内を含めて寺領七・一二六石があった。
水ケ浦は現在は田井の枝村となっているが、本当は母村かも知れない。二一末寺という後の海臨寺の勢力から推測すれば、内浦の若狭の村々、舞鶴側の大浦半島、河辺、朝来の村々の母村だったのかも知れない。
どんな所かといえば写真のような所である。
「水ケ浦」
水ケ浦
周囲はどこも切り立った急斜面で凝灰岩である。ここは古い噴火口なのではなかろうか。円形の水ケ浦湾を底にした擂り鉢のような地形で一歩足を踏み外せば命を失いかねない、とても漁業や農業の地と思えるところではない。
地名が別所。別所はまた後に取り上げたいと考えているが、この地名は別所鉱山(舞鶴鉱山)があるように、金属と関わりがありそうである。
水ケ浦の集落は舟小屋の後の山の斜面にある。別所はその背後の山地である。お寺だけがあったわけもなく、江戸期以前は、どのあたりまでの以前かわからないが、ここに田井の村もあり、そこに真言宗のお寺があった。ことになる。
ミズガウラと呼んでいるが、ミが浦で玖賀耳の地でなかろうかとも想像できる。
この水ケ浦の別所寺や三浜のエゲ寺、麻呂子伝説の多禰寺、杉山の三所権現、朝来中の東光寺、これらの名を見ていると、何か古代の侵略戦争の秘密を秘めていそうに思われるのである。伝説はウソではないかも知れない。

海臨寺は田井の大墓で有名で、『京都府の地名』はつづけて、
境内に二群五基の宝筐印塔があり、「田井大墓」と称される。一群(三基)は花崗岩製で、一は無銘だが鎌倉後期と推定される舞鶴市内で最大のもの。ほかの二基は各々永禄五年(一五六二)、元和四年(一六一八)の年紀が台座にある。二群(二基)は凝灰岩製で、一に「永禄五年壬戌十月吉日」の銘があり、一に「元亀□□」の年紀がみえる。
大墓?(海臨寺)何ともこの辺りの話となると私は無知で、大きさと形からこれだろうと判断したわけで、当たっているかどうかはわからないが、このお寺の墓地にはいろいろな時代のお墓のコレクションのようにたくさん並んでいる。
石龕墓と呼ばれるものが多い。江戸期以前でないのかと思われるが、この時代にこのお寺も移転してきたのかも知れない。「海臨寺」

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大浦半島は若狭か丹後か

少なくとも田井浦と川辺里は若狭の青郷に含まれていたかも知れないという問題。先にも書いたが『大飯郡誌』の取り上げた問題である。その後木簡が発掘され過去が明るみに出始めるようになったのであるが、『丹後地域史へのいざない』(07思文閣上田純一編)は、
一般に若狭と丹後との国境は、現在の福井県と京都府との境界と大きく変わることはなく、大浦半島の大半は丹後国に属していたと考えられている。しかし、奈良時代前期には大浦半島の多くは若狭国に属していた可能性があることが舘野和己氏の研究によって明らかにされている。平城京二条大路木簡には、次のような木簡がある。
・青郷御贅鯛月+昔(きたい)五升
・田結五戸
(『平城宮発掘調査出土木簡概報』二二、三四頁)
「田結五戸」というのは五戸を単位とする組織であるが、それが若狭国(遠敷郡)青郷に属していたことを示している。この田結は、大浦半島の西側の現舞鶴市田井のあたりと考えられるが、そうであればこの付近は当時若狭国に属していたことになる。また次の木簡にも注目したい。
・安遠郷川辺里 秦□
        調□
・天平二年八月
(同二一二、一九頁)
これにみえる安遠郷(=青郷)川辺里も、大浦半島の河辺中、河辺由里、河辺原などに比定できるとすれば、大浦半島のかなりの部分が若狭国に属していたことになる。
『高浜町誌』に、平城宮跡出土木簡として、
 □敷郡青郷川辺里庸米六斗□
 天平二年十一月
とある。
先の『丹後地域史へのいざない』はつづけて
一方JR線などが通っている志楽谷は「志楽郷」として丹後国加佐郡に属しており、藤原宮出土木簡にみえる「白薬里」(『藤原宮木簡』一、四五二号)がそれに当たるとすれば、その木簡に記す年紀の和銅二年(七〇九)までさかのぼることになる。つまり大浦半島の付け根部分は、少なくともその時期以降は後世と同じく丹波(丹後)国に属していたのである。
 それでは、大浦半島の大部分が丹後国に変化したのは、いつ、どのような事情によるのであろうか。このことを考える上で参考になるのは、文永二年(一二六五)の「若狭国惣田数帳案」(『福井県史』資料編二)の青郷の項に「除田井浦二丁八反四歩定」とあり、別の箇所では、
 田井浦二町八反四歩 丹後国志楽庄に押領せられおわんぬ
という記述があることである。これから、田井浦はもと若狭国の青郷に含まれており、志楽庄に押領されたことによって若狭国から離れたと考えられている。また、鎌倉時代の大田文をもとに室町時代に成立した「丹後国諸庄園郷保惣田数帳目録」(『舞鶴市史』史料編)には、志楽庄の項に「河部村」がみえる。このように、田井や河辺のあたりが若狭から丹後に編入される背景として、志楽庄の動向が関係すると考えられる。
いいや、この田結・田井や川辺は今の舞鶴市の田井や河辺ではないのだ、という見方もあろうが、説得力はない。
この問題でいえば多禰寺と阿良須神社の線くらいからが丹後と私は見ていたのであるが、しかし弥加宜神社などがあるように、日子坐王の子が丹波道主というのだから丹後は大きくいえば近江。天日槍・新羅の系統が支配したと思われる。

『まほろば逍遙』(06高橋聡子著)に、(地図も)
大般若経の移動
近江からきたお経
…河辺中の八幡神社は、貞治三年(一三六四)銘の石灯籠があり、若狭の影響をうけた祭礼芸能が宮講によって今に伝えられています。この神社は棟札や鰐口で明らかなように鎌倉時代から江戸末期まで「岩津森」と称しており、神社の常住経として文亀元年(一五○一)に大般若経を買取っています。
 経巻の巻末などに書写した者・年代・奉納した場所・願主などを書き込んでいることがあり、そういった「識語」や筆跡・料紙などからお経の来歴を知ることができます。河辺八幡経も一九九四年からの調査で、大半が平安時代鎌倉時代の書写経であり、いくつかの一具経を寄せ集め補修し六○○巻とした取り合せ経であることがわかりました。
 中世には、新しい木版刷の経と取替えて不用になったり衰頽した寺社に残された経を取り集め補修し一具にして商う人たちが現れて、新品は高価で無理だが何とか功徳のある経を求める村びとに応えたのでした。中古の経とて効力は変わることはなく、六箱の経櫃に納められた大般若経の到来は河辺谷の安泰と五穀豊穣、村びとの無病息災を約束したのでした。
 ところで、識語と経紙に押されている印から、河辺八幡経の中に湖東の中主町矢放神社所蔵の大般若経(滋賀県指定文化財)とかつて一具であったものが含まれていることがわかりました。わずかながら志賀町小野神社、野洲町大笹原神社、土田町地福寺の経との同具経も見付かっています。「嘉暦二年(一三二七)今津若宮社」と記されたものもありました。岩津森の別当観音寺は大般若経購入やその後の補修補巻などに大きく関わったと考えられますが、この寺には今津町酒波寺のものであった経が入っています。つまり近江の琵琶湖周辺にあった大般若経が取り合わされて、一五○○年頃若狭を経て河辺谷へやってきたのでした。
 大般若経が移動することはままあることのようですが、同じ大浦地区の多禰寺へは丹波国で書写された古経が入っています。何に因るのか大変興味深いことです。大浦の各地には「村祈梼」、「お経さん回し」など大般若経と関わる行事が今も続けられています。
有名な引揚桟橋を間にして河辺八幡と多禰寺は直線距離で2キロばかりしか離れていないのだが、これくらい違っていた。
同じ大浦半島でも東は若狭・近江系で三上神社のすぐ近くから。西は丹波・播磨系で、荒田神社のすく近くから。何故か天日槍の拠点ばかりであるが、いずれもスゴイ所。すごすぎる所から来ている。私はもう震えてくる。
「はりま踊り(舞鶴市小橋)」
「田楽舞い(河辺八幡神社)」

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水ケ浦の祭礼60.10.11
『海といのり』(舞鶴市郷土資料館10周年記念特別展誌)より
水ケ浦の天照皇大神社の祭礼


佐波賀(舞鶴市上佐波賀・下佐波賀)

下佐波賀(舞鶴市西大浦)

舞鶴市佐波賀
平の西側に佐波賀さばかさばかさばかという所がある。私事に渉って申し訳ないが、私のおばあちゃんはこの佐波賀の出である。私が生まれたときにはすでになくなられていて、顔も何も知らないし実家がどの家なのかも知らないのだが、四分の一は私も佐波賀の人間・大浦の人間である。この村の沖合で浮島丸が沈没した話はすでに書いた通りで、そうしたことで全国的によく知られた村である。
上佐波賀の東側に鬼ケ城という小地名があり、そこに鬼ケ城古墳と呼ばれる古墳がある。これもすでに書いた。何も調査されていないようで詳しくは何もわからない。
鬼ケ城というのだから、鬼がいたのであろう。大江町の茨木童子が住んだという鬼ケ城はすでに書いたが、丹後やその周辺にはもう少し鬼ケ城ほか鬼のつく地名がある。峰山町荒山に鬼ケ城、福知山市安井にも鬼ケ城、三和町大原にオニガサコ、舞鶴市布敷に尾ニガ谷、舞鶴市田井に鬼栗、宮津市上司に鬼谷、宮津市日ヶ谷にオニバリエ、宮津市奥波見に鬼屋敷、宮津市大島に鬼山、野田川町石川にも鬼山。福知山市上佐々木は古くは鬼原といったという。鬼は鉱山者とする説から押せば、こうした所はやはり私には予想通りに金属の産地と思われる。宮谷神社(舞鶴市上佐波賀)何じゃ鬼と土蜘蛛ばかりじゃワイと思われるかも知れないが、彼らこそがお気づきの通りに、私たちの祖先である。権力側が勝手にそんに名前をつけただけの話である。自分たちは聖なる者で、何かそんなものではないかの如くに。しかし彼らもまた同類であった。あるいはそれ以下のものでしかなかった。
人を貶して卑しめ賤民などと呼び、自らは聖なる高貴なものであるとする。どこぞの国のエライさんやその追従者のような話であるが、こうした心賤しき者を誠の意味では賤民と呼ぶのである。

佐波賀という地名はサバがどうも怪しい、ササバと同じで、ササは鉄のことである。朝来谷の奥、ゴルフ場の所には笹部という集落もあったが、同じ意味と思われる。
現在でも鉄がサビるとかクサビとかいうが、このサビは鉄のことである。西舞鶴には佐武ケ岳という山があるが、このサブも同じと思われる。この語は広く世界的に分布するらしくサーベルもそうだという。ヒッタイトなどといわれると私などはこのあたりが鉄の語源でなかろうかと考えたりもするが、さてどうだろう。
早く福士考次郎が指摘している。『原日本考』に、
サビ語類
一 世界的に流布
 わが民族にとって鉄といふものが、如何に世界的に古いかといふ事について、前にもザットと説明した所の、素戔鳴尊が八岐大蛇退治に使用せら奴た御剣の名、即ち韓鋤剣(カラサビノツルギ)のサザ等の言葉に関し、こゝに改めて詳説して見よう。
 この言葉は此の御剣の場合の様に「鋤」といふ農具に関係のある文字を宛てられてあるが、これは武器の剣、太刀、或は刀子(短剣)等を指すものであることは、記紀両書にはっきりと明白な使用例があって、何等問題のないことである。疑問は寧ろそれ程刀剣の方の意味が明瞭なのに、どうして記紀及び萬葉等でも此のサビ或はサヒに「鋤」或は「金+且」の文字を宛てるかと云ふことである。
 この問題はわが国内のことを深査する前に、国外にもこれと同一語源と見倣される言葉が、廣く流布してゐる模様のあるのを見る事によって、注意が甚だ高められる。例へば朝鮮語ではサルブ(金+且)、支那古語ではサフ(?)、馬来語ではサビット(鎌)があって、わが日本列島近隣に類似の一昔で農具関係の語が、相當に呼応して存在してぬることが見出だされる。我々こそ今すっかり忘れてしまったに違ひないが、我等の祖先はこれを農具として使ったことがあるに違ひない。
 一方との言葉は草に我々の国外の近隣のみではない。世界に廣く分布した言葉だと見えて、ドイツ語を根源として武器の方でサーベル(剣)があり、トルコ語のサパン(剣)がある。農具ではフランス語に特に多く、その代表的なものはセルブ(鎌の一種)である。単にこれだけのことで言へば偶然の一致の様だが、金属関係の言語は単に此のサビ或はサヒに限らず、世界的に意外に近似したものが多く、古代に於て相互の交流開係の差し覗かれる点があるのは注目に値ひする。こゝの問題のサビ、サヒなぞは、我々から全く忘れ去られてゐるものであるに拘らず、かういふ風に国外に廣い分布が見られるので、古い頃外来語として国内に入って来たものではないかとの疑問も掛るかも知れないので、注意して国内に残ってゐるものを尋ねると、その範囲や程度は単に多方面にわたって存在してゐるばかりでなく、非常に古い形跡も示してゐるのであるから、さういふ断定の下に葬り去るわけには行かぬ。例へば、此の言葉に関聯する鋤持神(さびもちのかみ)といふ様な、今ではすっかり忘れ去られたる、併し古代に於ては仲々重要な信仰がある如きことも其の一つである。

若狭の遠敷郡上中町に元禄の頃には裟婆賀(さばか)という村があった。この村は現在の堤で、1900年に高さ40センチの銅鐸が出土している。サバとツツやはり何か関係がありそうに思う。また舞鶴の上佐波賀は蔵王権現を祀る(現・宮谷神社)。『ふるさとのやしろ』は、
 上佐波賀の集落にかかる手前の山すそに朱の鳥居が見える。「宮谷神社」の額がかかり、筆者は海軍舞鶴鎮守府二代目指令長官、日高壮之丞大将である。
 京都府地誌(明治十一)には「佐波賀上村ノ東方字宮ノ谷ニアリ、祭神歓請詳カナラズ」とあるが、江戸中期の「丹後加佐郡寺社町在旧記」や『丹哥府志』には「蔵王権現」とあり、現に社殿の横には「蔵王権現」と書いた古い額も保存されている。蔵王権現は奈良県吉野の金峰山蔵王堂の本尊で、昔、役の行者が千日行の間に感得したという降魔の恐ろしい表情をした菩薩像。全国各地に「金峰山寺」または「金峰神社」として歓請されたのではないかという。
 明治初年の神仏分離のさい、小字名を冠して「宮谷神社」と改称、祭神もなぜか「彦火火出見尊(ニニギノミコトの子)」に改められている。(白糸浜神社保存の宗教法人登録台帳)。
 福来西にも「宮谷神社」と同名の神社があるが、ここも「午頭天王」をまつった社を、明治以降、小字名を冠した神社に改称、祭神をスサノオノミコトとしてものであろう。 額の筆者、日高壮之丞は、明治三十六年十月、常備艦隊指令長官から、初代舞鎮長官・東郷平八郎と交替して舞鶴に赴任、以来明治四十一年八月まで、約五年間舞鶴に在任した。金剛院にも桜を寄進し「日高桜」の名が残っている。

上佐波賀より蛇島(右)と烏島(左)
蔵王は舞鶴では白杉神社がそうであるし、建部山を下福井から由良川へ越す峠を蔵王峠と呼んだという(旧語集)。
佐波賀が金属と関係していることはまず間違いないと思われる。なお、最近の発掘調査によれば、縄文土器や製塩土器も出土したそうである。佐波賀は猫の額の耕地しかないが、蛇島・烏島は佐波賀である、枯木浦水運ののど仏を押さえていたと思われる。『舞鶴市史』の伝説・民話は、ここが子ナギ谷

蛇島
 蛇島には大昔、大蛇が住んでいて、前の佐波賀村の人々を苦しめて仕方がなかった。佐波賀上、下の中間に「子ナギ」という谷があり、昔は両字の人たちはこの谷に住んでいたが、蛇島の大蛇がねらって痛めるので、上、下に分かれたという。
 この大蛇を退治したのは、雲門寺の開山普明国師であるといわれ、また大蛇は雄島へ逃げたともいわれるが、とにかく蛇が住んでいたから蛇島と名付けられたといわれている。

「子ナギ」はあるいは「小ナギ」で、本当は「()なぎ」と呼んだかもしれないなどと考えてみるのである。

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裟婆賀(上中町堤)と波古神社

大蛇伝説が残りやはり鉱山地と思われる地である。裟婆賀(上中町)
ナギという地名はサナギのサが落ちたものかも知れない。サナギは(さなぎ)のことで、サナミとかサヌキといった地名もまたこれの転訛といわれる。上中町の裟婆賀(さばか)からは銅鐸が出土している。
裟婆賀には式内社の波古(はこ)神社が鎮座している。これは箱形製鉄炉でないかと、箱形製鉄炉をそのまま神体にしているのではなかろうか。さっそく行ってみた。
裟婆賀はずいぶんと立派な家が建ち並ぶ所で、農村といった感じがしない。特に白壁の藏がすごい。写真の好きな人は是非に行って写されてはいかがか。そこに波古神社がある。
「現地の案内板」には、

式内 村社 波古神社
上中町堤第十八号森脇十六番地
一、祭神
本殿波古神社(上中町堤)
神明宮 天照大御神
大将宮 伊奘冊ノ尊
社主宮 波邇夜須毘古ノ命
境内神社
祇園社(広峯神社)牛頭天王(須佐之男命)
天満宮 菅原道真公
奥ノ院 波邇夜須毘売ノ神
田中権現社 六所大明神
山神社 大山津見ノ神
不動宮 不動明王尊


一、由緒沿革
・創立は西暦七二九−七四九(天平年間)と言われている。
・明治元年六月祭神が波邇夜須毘古ノ命である事から従三位の箱神社から波古神社に改称される。
・大正四年一月十六日付け福井県告示第六号により式内村社になる。
・延宝三年(一六七五)の由緒書に口伝えとして
「伊屋の谷の峯より夜、光が指していた。この光は一つの箱の中より指していたので、これを御神霊の御降臨給いしとして、この山を箱ヶ嶽と名付け社を里人の鎮守(箱明神社)として山麓にたて奉った。
・社殿が完成の時、周囲の茂った樹木が一夜のうちに生じたので、「一夜の森と称する」とある。
・境内の敷地は椿の木が多い事から椿の森とも言われている。
・波邇夜須毘古ノ神は山野田園の土壌を司る神とされ。
一、祭日
例祭 四月第一日曜日
祇園祭 七月下旬
大将宮祭 七月二十四日
不動宮祭 七月二十八日
山神宮祭 一月九日
神社の向かって左手の山が箱ヶ嶽だそうである。口伝えは製鉄炉を言っているのではなかろうか。一夜(ひとよ)孕みの伝説の変形かも知れない。鉄生産の一サイクルを一代(ひとよ)と呼ぶそうで、産鉄民の伝説だと思われる。
本殿の前には巨大な銀杏の樹があって、それを掃除されていたのが、ちょうどこの案内を書かれた人であった。
近頃は神社などは誰も感心がないもので、子供向けに書いてみたんです。ということであった。誠にありがたい。こんな話は普通一般の案内書では見られない。あんなパンフや書を読んでも何もわからない。まったくわからず途方に暮れるより道がない。
この境内は珍しいことにカタクリの花が咲きます。三十三間山や近江の高島郡でも咲きます。10万本に1本咲くという白いカタクリの花が咲かないかと待ってますが、まだここでは見たことがありません、ということであった。

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酒波寺(滋賀県高島郡今津町酒波)

今津町酒波高島郡だって…。そういえばあそこには箱館(はこだて)山があった。たぶん箱起(はこたて)で、箱形炉を起てたところ、たぶんここと同じ意味に違いなかろう。
その麓には酒波(さなみ)寺があった。サナミはサナギ。箱館山(今津町)スキー場
酒波寺は舞鶴ではよく知られている。河辺八幡宮の大般若経にこのお寺のものが含まれていたからである。ずっと上の方に地図がある。
この酒波とはサナギ(鉄鐸)のことだとは舞鶴では誰も言わないようだが、これも福士考次郎が早く指摘した所である。佐波賀の「佐波」と書いてサナミと読む所もある(石川県鹿島郡能登島町佐波(さなみ))。何か関係があるのかも知れない。
『原日本考』に、石川県鹿島郡能登島町佐波
高島都川上村酒波寺
 この酒波はナナミと読む。琵琶湖の西北沿岸今津の町から海津に往く往還を一里ばかり北行し、境川の上流に又、一里ばかり入ると山間に美しい高原があって、北の縁辺に日置神社と、この社名を名乗る一部落がある。この背後から若狭境の険しい山が続き、境川の小さい渓谷が山を割って奥に入る、酒波寺はこの渓谷の入り口右方の小高い丘の上にある。
 寺は例によって開基に行基菩薩の説を唱へ、大蛇の傳説や太湖中の竹生島との縁起を語り、由緒は佛寺としては、慥に古いものではあるけれども、鐸の祭祀には何の徴表はない。それから見ると日置神社の方は何がなしに、我等の古代追跡の精神を潤ほしてくれるものがある。酒波寺
 社前の前面に拡がる高原地を一望すると、方一里にも足らない平坦部であるが、古代人棲息には全国各地でも見られるけれども、まことに誂ひ向きの適地と見做される環境である。近江の中島郡一僻は古くから開けた徴表のある地域で、山城との国境から安曇川が流れ、また若狭との国境から石田川が流れ、この間に万葉集その他に有名な饗庭野の高原地帯があるが、この川上村の小環境は更に今一つ北に位置した高原地で、わが古代農業の特徴たる山間農業が相呼応して行はれ、古代の富みと勢力とを作る適地に見える。
 かういふ地点では砂鉄の産地たる河川の水源地に、鐸祭祀の祭場を設け神聖の地域とする。或はその附近の山地の高所の奥まった處に設けることもある。これは今まで説述した猿投、散吉、或は伊賀の佐那具に於て共通である。近江高島郡の川上村では此の地点は、今の日置神社の舊趾であったといふ所の裏の境川の水源地、即ち前述の若挟に続く山を割った谿を奥へ入り、平池と称する地点がさうであるらしい。日置神社(今津町酒波)
 日置神社の神官古屋氏の記憶に拠ると、現在の宮は大昔との池の辺にあったといふ正傳がある。現在そこは剱神社といふことになって居り、池の周辺は赤土だと云ふ。まさしくソブの地であり、丹生の場所である。神官古屋氏の家系に依ると、播磨方面からの血統も交ってゐて、微かながら系図の附記の語句中に鍛冶冶金の関係も仄見える。この他附近の大邑今津の町の地名と言ひ、酒波寺の大蛇傳説と云ひ、裏山続るの赤坂山の所在と云ひ、昔砂鉄の産出のあった徴表はかなり確実である。鐸祭祀の場所と見てよいだらう。

福士考次郎の推測通りであって、この辺りの山々は製鉄遺跡ばかりである。(ついでに書けば丹後久美浜の函石浜(はこいしはま)遺跡、これも地名から判断すれば箱鋳師(はこいし)であって、箱形炉をつかった産鉄場の遺跡だと思われる。別名をマサカリ浜、夕日長者の伝説が残る場所である。隣の売布神社とも絡んで田道間守の伝説もある。貨泉ばかりが有名で製鉄遺跡の話は聞かないが、広大な遺跡で、ほとんどほったらかしになっている。今少し調査をすれば必ず出土すると推測する)
 継体即位1500年祭とかなるそうで、そんなポスターが目に付く高島の地であるが、ここはその継体の出身地である。今の天皇さんの直接のご先祖の地になる。高島郡三尾の地には継体の父の別業(なりどころ)があったという。応神の5世の孫といわれるが、応神自体が実在したかどうかも怪しいので、以前の大和の大王家と本当に繋がるかどうかはかなり怪しい話になる。新しい王朝であったかも知れないが、何か天日槍と繋がる人物と思われる。継体が強いのはやはりここの鉄だったと思われる。
近江の鉄穴



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