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元伊勢

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元伊勢と呼ばれてきた社は各地にあるが、丹後にも当然ながら多い、ここではまず加佐郡内のものを取り上げてみます。

式内社・笶原神社(舞鶴市紺屋)

田邊郷には、もう一つ大切な社が鎮座してる。元伊勢ともされる、笶原やはらやはらやはら神社である。加佐郡式内社。残欠の笶原社。「室尾山観音寺神名帳」の正三位笶原明神である。笶原神社(舞鶴市紺屋)

 延喜式には鎮座地は郡しか記載されておらず、どの郷とか祭神はまったくなく、ここに限らず、どの社が式内社かとよく問題になり定まらないままのことがある。
この社もそうであるが、幸い加佐郡は風土記残欠やその他史料も残り、まずここと決めてよかろうと私は考えている。

 「笶」の字を「笑」と見間違えて、地元の2、3軒隣の人でもエバラ神社とかエミハラさんとも呼んでいる。西舞鶴ではもっとも早く夜祭が開かれる(6月15日)社として知られる。
一般に神明さんと呼ばれるのだが、元伊勢さんと呼ばれるのは私は聞いたことはない。元伊勢と伝わる神社であることは地元ですらもあまり知られていない様子である。同社内の案内板にも元伊勢のモも書かれていない。これはまたどうした事であろう。

『舞鶴市内神社資料集』によれば、神社調査書に、

一 神社所在地 京都府加佐郡舞鶴町紺屋小字天香山鎮座
二 社格神社名 無格社 笶原神社
三 祭神 天照皇大神 豊受大神 月夜見神 …
 

とあるそうである。

しかしさすがに『加佐郡誌』は、この社に伝わる棟札を全文掲げている。
由緒 一、由緒 当社の由緒は慶長五年細川忠興社殿再建の際の棟札に詳である。曰くとして、

丹後州紳座郡田邊城外西嶺有笶原神宮焉、
豊受大神神幸之古跡而所謂爲眞名井原與佐宮三處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉、
崇神天皇即位世九壬戊歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙劔月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎭其、
御霊化又遷與謝九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉夫當宮之有霊験者著于世也因記一二以示於後世社記曰、…

由緒書クリックすると大きくなります
大変に長いので、最初の部分だけである。また後に取り上げます。この社の入口に掲げられている案内板にも説明がある。写真をクリックしてもらうと大きくなり、読めるようになります。笶原神社扁額

入口鳥居に掲げられた扁額も写しておいた、読みにくい、神額は清和天皇宸筆ということで、「総社笶原魚居匏宮」とある。
 魚居はマナイ、匏はヨサと読む。匏にヒサゴと訓した書もあるが、それではここが元伊勢とする根拠を失うことになる。ヤハラマナイヨサの宮である。清和天皇は9世紀の人。9歳で即位し30歳くらいで病死している。「清和天皇は病弱で政治をいとい,27歳で9歳の皇子陽成天皇に譲位して仏門に入り,畿内の諸寺院を巡拝するなど信仰は熱烈をきわめた。ついに丹波国の水尾山寺(みのおさんじ)に入ろうとしたが,果たさずに没した。」そうである。

 その神額には総社ともある、時代が合わないような感じもあるが看板に偽りなければここが国府の位置になるわけだが、なぜかそんな看板は完全無視で当社は無格社となっていて、何とも過去の史家達は何を考えていたのであろうか、これにも何かそれなりの歴史がありそうである。
式内社笶原神社の比定には三社あって、それで決まらなかったのであろうか。現在でもここを式内社とするには公認はない。こんなにキチっと文献が残っている社を除いて、どこにこれ以上に有力な社があるのだろうか。
 吉田東伍博士は、大浦半島の野原のはらのはらのはら(若宮神社)に比定し、丹哥府志は与保呂の日尾池姫神社を比定している。
しかし現在に伝わる諸文献をすべて否定するよほどのドグマにでも基づかない限りは、この田辺郷香久山山麓は外せないはずである。

『丹後史料叢書五』所収の「丹後国式内神社取調書」に、

笶原神社  
【考證】在野原村
【覈】矢原村ニマス
【明細】同
【豊】舞鶴町字神明山六月廿八日
【道】野原村
【式考】舞鶴ノ紺屋町神明社ヲ笶原神社ト舊神職ヨリ云出タルニ諸人之レヲ疑フ。僕之ヲ探考スルニ果シテ妄説ナリ斯クシテ笶原神社ハ野原村ニアルベク覚エ延喜式考異ニ案笶ノ俗矢字馴也正又有訓爲箆(竹冠に路)之箆、和名抄讃岐国香川郡笶原乃波良践祚大嘗式織神服具式作箆儀式作笶萬葉集仮名亦爲トミエタリサレバ笶原即チ野原ニシテ野原村ハ笶原村ナルベシサテ此村ニ社三ケ所アリ其内天神社ハ景境モ太古ク老樹今ニ森々タリ社ノ神體五柱マシ何レモ古ク千年以上ノ體トミ奉ル偖当社ニ一月一日(旧正月元旦也)栄柴(サカシバ)ト云フ神事アリ榊ヲ藁ニテタバネ稲ノ如クニシ群家各コレヲ持チ鷄明ニ参発シ柴ノ実ヲ入ト異口同音ニ唱フ殿内ニ祝一人礼服ヲ着シテ奉歌ス一抱苅テハ飯ノ山一抱苅テハ稲城ノ山三抱苅テハ酒造長柄杓テ汲テモ汲テモツキス長者萬束悦込(同音ニ噺)エイヤアエーヤーエーヤーア而シテ各彼ノ栄柴ヲ納メ柏手テ下参トアリ

.(【豊】は豊岡県式内神社取調書・【道】は丹後但馬神社道志留倍・【式考】は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志だそうである。)


『地名辞書』説があってか、野原説への傾斜は強くいようである。吉田東吾も単に野原がヤハラだろうと推測しただけの事であろう、それ以上の大した根拠があったとは思えないのであるが、これに矛盾する文献・記録は何でもでっち上げだ、偽作といっているように私には見える。しかしそれは史家の自殺行為であり、不思議なもので、そのご当人本人がいいかげんな者に見えてくる。野原や与保呂に式内社や元伊勢の言い伝えでも残っていればまだしも、それはない。ついには根拠もなしに郷土の過去をでっち上げる偽作者となければならなくなるであろう。それが物事の弁証法、因果は廻ってくる。どこかの党首のようなもので投げたブーメランで自らが倒れる。偉そうに言ってはいても、所詮は同時代の似た者同士であって、口先は立派だけれども、やることはオソマツな同一の精神を共有している。批判は何よりもまず自己批判で、己自身に向けられるべきものであろう。ひとのことを言うのはそれからでいい。「テロ支援国家」「犯罪国家」などというような勇ましい言葉を聞くとそんな気持ちが涌いてくる。オイオイそんな事を言うお前さんは大丈夫なのかとまず不安になる。手前の属する国家はそんな国家でない、あるいはかつてもそんな国家でなかったのなら、あるいはそう簡単に決めつけてもいいかも知れない。軽薄者でなければ静かに胸に手を当てて振り返ってみようではないか。確か60年ほど前は「戦犯国家・戦争犯罪国家」ではなかったのか。その反省の上にたって物を言おうではないか。そうでなければ必ずその言葉は自分へ戻ってくることだろう。ブーメランのように。

この地は丹後風土記残欠に登場する、

田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥(ヒチ)の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす−引用者注〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食)(原文漢文)

伊去奈子(いさなご)嶽から射た矢が落ちた地であった。矢降る→笶原であろうか。ヤフルというのが本来の地名ではなかろうか。そしてヤフと呼ばれたという。というか笶原はヤハラではなく本来はヤフなのであろうかと思う。天香語山命が放った矢は銅鏃のものであったと思われる、カグ命の矢だから銅矢カグヤカグヤカグヤであったろう、笶原は本来はカグヤフルではなかろうか、そのカグの落ちたものではなかろうかとも私は考えている。北に位置する高野はカグヤとも読めるし、野村寺(路)の野村はヤフルとも読める。合わせると何とカグヤフル。笶原神社の本来の祭祀集団は、現在のように東麓ではなく、北麓の高野の側にいたと思われる。銅矢というのは吉野ケ里などでも見つかっている、先端の尖った所と矢の尻、弓の弦を当てる部分が銅で出来ているともいう。日本では弥生からあるものである。鉄製もあるので、銅製は古式の儀礼的なものと言われる。金メッキしてあるかも知れない。

魚居匏宮でなくて、真名井()匏宮である。このあたりを真名井原と呼んだのであろう。「巽方三里許」(この里は六町=660メートルで、三里は2キロになる)に真名井があるというのだが、これは山頂からドンピシャリである。海部氏系図が言うよりも古い由緒があることがわかる。残欠を素直に解釈すれば笶原神社はここだとしか言いようがない。

『勘注系図』『元初の最高神と大和朝廷の元始』『古代海部氏の系図』などによれば、海部直千成の条に注文があり、笶原神社祝部祖也。従養老五年至于天平八年十五年仕奉とある。養老五年は721年である。前身となる笶原社があったと私は残欠から推定せざるを得ないのだが、正式には、その頃の創立だろうか。これを信じるならばそれほどは古くはないのである。これでは仮にも元伊勢などとは言えないことになる。
千成の兄の千嶋も籠神宮祝部祖也とあって、丹後一宮・籠神社と笶原神社はまさに兄弟として、この時代に再出発したようである。
 ついでに書けば、彼らの父は丹波国造海部直愛志祝とあり、丹後国造であった。名目だけであったようだが、それでも国造と公称したのは彼までであった。彼の時代に丹波国を割いて丹後国が置かれた(和銅6年夏4月・713年)。学校で習う歴史風に書けば、奈良時代の始まりが、710(和銅3)年、その3年後の出来事である。強大な海部氏勢力の分断策が実行されたのであった。もともと忠実なヤマト政権の先兵役を務め玖賀耳や土蜘蛛の丹波を平定した功労者の海部氏だったと思われるが、用が済めば、次はその忠犬が八つ裂きにされることになる。海部氏の憤懣やるかたなし、と思われる。日本の権力というものはそうしたものとよ〜く肝に銘じて、うかうかと甘言に乗せられないことが肝要かと思われる。

奈良時代のはじまり、丹後国の誕生と共に生まれた神社がこの笶原神社であった。彼に児が3人あり、兄の千嶋は先に引いたように与謝郡領となり、籠神社の祝ともなった。弟の千成は加佐郡領となり、笶原神社の祝ともなった。もう一人は千足といい、丹波直等祖也とあり、天照玉神社(福知山市今安)の祝、天田郡領となった。
 この兄弟の後裔が近世、姓を坂根と改めたそうである。西舞鶴には坂根サン・嵯峨根サンが多いが、そうしたことであるかも知れないのである。天照玉命神社(福知山市今安)

 『元初の最高神と大和朝廷の元初』(海部穀定)は、

尚、加佐郡の国造氏人は、籠名神社祝部氏系図に見える海部直千嶋、及び千足の弟千成の後裔と伝えられる。この氏は、近世、姓を坂根と改めたが、歴世相ついで、今尚存続して、同郡にある。
 従って、式内社・笶原神社は加佐郡の中心地で、郡衙に近く、かつ坂根・嵯峨根サンの分布する地であろう。
すべての資料はここ笶原神社を指す。坂根氏は現在は白糸浜神社(舞鶴市浜)の宮司であるが、元はこの笶原神社のご神職だそうで、海部氏とも名乗っていたようである。隣の桂林寺の寺領を寄進したと伝わる佐武ケ岳城の坂根修理亮、坂根氏はやはり元々このあたりの領主であったと思われる。

 この時に再生した笶原神社は普通の村々の神社ではない。人民のイデオロギー面での支配と国家の安泰を祈願するための、新生した中央集権国家のための郡家と並ぶ、あるいはそれ以上のようやく分断したばかりのこの地の支配の拠点としての、国家による国家の国家のための笶原神社である。そうした国家使命を負った戦略的政治的神社である。式内社の笶原神社は加佐郡の心臓であった当地をおいてはない。人もめったには行かないような所に、大事な支配のくさびをなぜおいたりするだろう。私は政治は嫌いだが、もし当時の政治家なら当然ここに置くだろう。

 大宝元年(701年)の丹波に三日続いた大地震があった。残欠に凡海郷が沈んだという記事がある。翌年に日本という国号が初めて使われている。その12年後に丹後国が生まれた。また同年には風土記言上の勅が出ている。笶原神社はその21年後に再出発している。残欠もだいたいこの時期の作成かと思われる。現在の日本国につながるような国の背骨が作られていった時代であった。

さて吉田東伍は、堀の地名はコホリ(郡衙)を意味しているとどこから書いていた。福知山市堀(一宮神社の鎮座地)や、城崎郡日高町堀(国府村役場があった)は、確かにそうである。笶原神社のすぐ下が堀上(堀之上。もしこれが古代地名ならばひょっとして郡の神だろうか)。池内の式内社・倭文神社のすぐ隣が堀である。この堀もあるいは郡衙のことかも知れない。

「坂根情報網」(全国の坂根の姓・地名を調べまくっています。この調べによると、丹後、特に野田川町が坂根姓の中心地のようです、率から言えば島根県)
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ヨサとカサ

式内社の笶原神社を野原に比定する書は『丹後旧事記』『神社旧辞録』『特選神名帳』もそうであるそうである。旧事記以外は私は見たことはない。笶原神社案内板(元伊勢の説明はない)

 何か新しくなければ、インターネットのコンテンツにふさわしくないかのような気分もあるが、そんな事はない。価値がありそうならば、いつの時代のものでもどんなものでもあるほうがいいに決まっている。
図書館に行っても簡単には貸してはくれないような、読む者がいるかどうかわからないような資料もネット上にあると大変に助かるだろう。
人類の未来に向けて情報発信都市に成長したいのなら、というか、ぜひそうならねばならないし、現代舞鶴市民の過去の遺産に対する義務でもあろうが、巨大なサーバ群をおいて、どうかどなたか公開の労をとって頂けないだろうか。地域のIT基盤をしっかり作り上げていく。今の時代に生きる仮にも文化人のハシクレのつもりなら、それは歴史的使命である。何もそんな自覚がないようにも見られるが、それでは永遠に文化的ヘキチであろう。わたしの夢である。意図的でなくとも市民に情報を隠しておくとロクな事はない。情報公開はさけてはならない世の流れである。


天照大神は本来は大和の宮中に祀られていたものであったが、大和地元の「抵抗勢力」のために遷座やむなきにいたる。大和への侵略者が祀る神であり、イラクにおけるブッシュのように嫌われたのであろうか。その遷座の途中に丹波の吉佐宮(与佐宮)にも立ち寄って、ここに4年いたそうである。史実がどうかはあやしいようだが、その時に豊受大神も降臨されたそうである。丹後勢力も大和への侵略者であったのかも知れない。

 伊勢神宮といえば誰もが知っているように皇室のご祖先を祀っているところであって、丹後なんかはぜんぜん関係ないと思っておられる方は実はけっこう多い、というよりもほとんどの人がそうお考えになっている。しかも豊受大神なんかは聞いたこともない、なじみのない名前だ。
 丹後人には常識であまり説明もしなかったが、伊勢の内宮(皇大神宮)はその通りであるが、外宮(豊受大神宮)は丹後の豊受大神を祀る。伊勢神宮は百を超える神社と神々の集合体であるが、主祭神は天皇家の先祖とされる天照大御神、次が丹後の豊受大神である。
 従ってこの吉佐宮はじめ遷座途中の20箇所余りの神社を元伊勢と呼ぶ。伊勢神宮の元はここだという意味である。
一説には倭姫命巡幸の地・元伊勢の地はことごとく産鉄地だともいわれる。確かに丹後はその感があり、豊受大神そのものが本来は鉄神だろうから、あながち否定はできない。天照も鉄と関係が深そうに思われる。

 「丹後元伊勢伝説」(『倭姫命世紀』による「元伊勢」の地)

『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)に、

 倭姫命の巡幸地はいずれも産鉄地に結びつくことは著しい。しかも注意を要するのは、それらの地が多く河流・湖沼の水辺に臨んでおり、「スズ」の採取を行った初期製鉄を想わせる点で、「鉄穴流し」による砂鉄採取よりも一段と古い段階であったことが判明するのである。そのことは神宮の創祁の年代が、帰化系技術者による進歩的な製鉄技術の普及した五・六世紀以後のことではなく、もう一時代古い、原始的製鉄の時代であったことを示すものと云い得る

…銅鐸が姿を消して弥生時代が終焉し、古墳時代がはじまったのは、おそらくは「スズ」を採取するという原始的鉄生産から、砂鉄を採取する方法を会得したことによるものと思われる。そしてよりいっそう大規模な製鉄技術は、天日槍やイタテの神の名で語られる帰化系技術者の渡来によって、飛躍的に増大した。畿内では四世紀後半より五世紀初頭にあたり、大和・河内の大古墳の築造や池溝の開繋にみられる。それが伊勢に及んだのが、外宮の鎮座を伝える雄略天皇の御代のことである。

…外宮の鎮座は同地から新しい製鉄技術が伊勢地方にもたらされたことを意味するのではないかと考えていたが、その証拠となる決め手がないまま経過した。
 ところが比沼真奈為神社のある峰山町の扇谷遺跡から鉄滓の出土したことが報道された。昭和五十九年一月十四日付新聞である。この鉄滓は弥生時代前期末から中期初めの土器片とともに出土したもので、大きさは長径六センチ、短径四センチ、厚さ三センチのこぷし大のもので、分析の結果、木炭で還元する砂鉄精錬に特有なファイヤライト(鋼)と酸化鉄の混合組織で、表面も鍛冶滓にみられる凸凹が多く、砂鉄で作った地金を鍛造する際に生じた鉄滓と判明したという。これによって近畿地方に弥生時代に製鉄の行われていたことが明らかになった。扇谷遺跡からはほかにガラス小塊・管玉・紡錘車・ナイフ型石器、石包丁、鉄斧などが出土しているところから当時の最先端技術が集結していたものとみられる。
 弥生時代の前期にすでにそのような製鉄が行われていたとすれば、鉄の五世紀とも呼ばれた雄略天皇の頃は一段と進歩した製鉄技術がこの方面には行われていたのであろう。

しかしこの吉佐宮というのがどこかわからない。そんな名の神社は、古記録には見られない。与謝郡のどこかにあったのだろうというくらいの推測しかできない。伝としてならばいろいろとたくさんある。
「橋立は与謝宮の故地」

ところがヨサといっても与謝郡とは限らない。与謝郡というものがまだなかった時代のことである。どこがヨサなのか、どこからどこまでがヨサなのか探さなければならない。

 ちょっと脱線するかも知れないが、ついでに書くと、与謝郡加悦町の大江山麓に与謝よざよざよざという地名がある。福井県敦賀市気比神社のすぐ東に余座よざよざよざという地名がある。若狭湾の東と西の端に揃ってヨザがある。ということは若狭湾沿岸部は古くは全部ヨサてはなかったかとも考えられる。
 あとは沖縄に与座という地名がある。沖縄も北から人が入ってきているので、案外に古いこうした地名が残る。河内国丹比郡依羅郷(大阪市東住吉区・松原市)と参河国碧海郡依網郷(安城市・刈谷市あたりといわれる)がある。
依網・依網には「与左美」「与佐美」の訓がある。ヨサミとかヨサビであろうか。与謝郡のヨサもそうであろう、ミかビが脱落したものであろう。もっと復元すればヨサフルであろうか。金沢庄三郎みたいな事を書くが、ついでに彼の説は、ヨサやアソ(橋立の内海・阿蘇海)のサは新羅の民族名ソとしている。
依網氏というこのあたりを拠点にした氏族があるが、彦坐命後裔氏族であり、与謝とは関係ある地名のように思える。

吉田東伍は加佐の名は古に聞えず、蓋与謝の分地ならんとしている。古い文献には名がないから、たぶん与謝から加佐は分かれたのでしょうという意味である。しかしカサは木簡には見える地名で、発見できる限界までには古いのである。
 カサは若狭湾では西からいけば、加佐郡、高浜町笠原・小浜市若狭わかさわかさわかさ・遠敷郡上中町日笠ひがさひがさひがさ・美方郡美方町向笠むかさむかさむかさと現在にまで残る地名は結構ある。若狭沿岸部は、ワカサ湾と呼ぶくらいだから、これまたカサの国ではなかったかと思えるほどである。
若狭湾の弥生の開闢の頃にはヨサともカサとも呼んだ地域なのだろう。ヨもカも接頭辞で大きな意味はなくサが本体であり、ヨサ・カサの二つは意味上では区別できない、同じ意味を持つのである。金沢説では新羅という事であり、たぶんソのフルフルフル・ソフルから派生した地名であろう。
 新羅は日本ではシラギと読んでいるが、正式には漢字の通りにシンラあるいはシラ・シロという国である。ラは奈良のラで国を意味する語である。シの国というのが新羅の意味である。シは金沢庄三郎風に言えば、新羅の民族名ソであろうし、あるいは鉄を意味するのかも知れない、新羅は鉄の国でもある。
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元伊勢はどこ?

『元初の最高神と大和朝廷の元始』は、

現在に於いて、否、江戸時代以降は、与謝郡と丹波郡(中郡)と加佐郡の三郡に亘って、同大神(豊受大神−引用者注)の故地といわれる処が存在していて、甚だ明解を欠くものがある…
ここには竹野郡が落ちている。しかもそれらの郡内に於いてもまた何ケ所かの故地とする神社がある。
 ではどこが本当の元伊勢か、と探すのはたぶん無益であろう。実際の話はどこだかわからないのである。わかるものなら、もうとっくの昔にわかっていただろう。
ざっと大筋を書いてみると、丹波郡が本来の豊受大神の故地であろう。ここから加佐郡の笶原山に移り、その後与謝郡に移動して、与謝郡から伊勢へ遷座したのだろうかと、現在に残る文献から見る限りは考えられると私は考えている。まあしかし私がそう考えるということであるし、事は文献通りとは何も限らない。
だからあるいは元伊勢は与謝郡であり、元元伊勢は加佐郡であり、元元元伊勢が丹波郡であるかも知れない。何も元伊勢は一社とも限らない。まあ要するに全部元伊勢である。ではさらに元元元元伊勢はどこだろうか。そんな事も考えながら、進めていこう。このページのトップへ



豊受大神は何者−羽衣伝説から

さて難しい問題を考えなければならない。逸文風土記の比治の真奈井・奈具の社である。丹後風土記の伝承記事は長い。以下に引くものが日本最古の有名な羽衣伝説の全文である。

比治の真奈井 奈具の社
(丹後の国の風土記に曰ふ)
丹後の国。
丹波の郡。
郡家の西北の隅の方に比治の里あり。
この里の比治の山の頂に井あり。その名を麻奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。
 この井に天つ女八人降り来て浴水む。時に老夫婦あり。その名を和奈佐老夫・和奈佐老婦と曰ふ。この老らこの井に至り、窃かに天つ女一人の衣と裳を取蔵しつ。即ち衣と裳あるは皆天に飛び上がり、ただ衣も裳もなき女娘一人留まりぬ。身を水に隠して独懐愧ぢ居り。
 ここに老夫、天つ女に謂りて曰はく「吾に児なし、請はくは天つ女娘、汝、児とならむや」といふ。天つ女、答へて曰はく「妾独人間に留まりぬ。何か従はずあらむ。請はくは衣と裳を許したまへ」といふ。老夫、曰はく「天つ女娘、何にそ欺く心を存てる」といふ。天つ女、云はく「それ、天つ人の志は信を以ちてもととせり。何そ疑ひの心多くして衣と裳を許さざる」といふ。老夫、答へて曰はく「疑多く信なきは率土の常なり。故、この心を以ちて許さずあり」といひ遂に許せり。即ち相副ひて宅に往き、即ち相住むこと十余歳になりき。
 ここに天つ女、善く酒を醸せり。一坏飲めば吉く万の病除かる。その一坏の直の財、車に積みて送れり。時にその家豊かにして土形も富みき。故、土形の里と云ふ。これ中間より今時に至るまで便ち比治の里と云へり。
 後に老夫婦ら、天つ女に謂りて曰はく「汝は吾が児に非ず、暫く借りて住めり。宜早く出で去きね」といふ。ここに天つ女、天を仰ぎて哭慟き、地に俯して哀吟き、即ち老夫らに謂りて曰はく「妾は私意を以ちて来れるには非らじ。こは老夫らが願へるなり。何にそ厭悪の心を発し忽に出去之痛あらむ」といふ。老夫、増発瞋りて去くことを願ふ。
 天つ女涙を流し微門の外に退きぬ。郷人に謂りて曰はく「久しく人間に沈みしに天にえ還らず。また親もなき故、由る所知らず。吾や何哉、何哉」といふ。涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎて歌ひて曰ふ、
  天の原 振り放け見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも
 遂に退り去きて荒塩の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「老夫老婦の意を思ふに、我が心は荒塩に異なることなし」といふ。仍ち比治の里なる荒塩の村と云ふ。また丹波の里なる哭木の村に至り、槻の木に拠りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。
 また竹野の郡船木の里なる奈具の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「此処に我が心なぐしく成りぬ。古事に平けく善きことを奈具志と曰ふ」といふ。乃ちこの村に留まりつ。こは謂ゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇加能売の命そ。
(原漢文)(よみは小学館版の『風土記』によるもの)

このように風土記に記録されるが、この豊宇加能売命とようかのめのみこととようかのめのみこととようかのめのみことが豊受大神の元来のというか古代姿のようである。(神道によっては、そうでないとするものもある。しかしそれはずっと後の世の、豊受が生まれた時代から1000年も後の神道教義であり、ここでは当面は無視する、というかそうした文献に出会える可能性がないので、無視するより当面は仕方がないのである)

トヨウカとトヨウケである。カとケが違うでないかと思われるかも知れない。『摂津国風土記』逸文にも豊宇可乃売神を丹波国比遅麻奈韋に還せりともあるが、同じ名である。保食神うけもちのかみうけもちのかみうけもちのかみとも倉稲魂神うかのみたまうかのみたまうかのみたまとも呼ぶようなものである。
比治山(磯砂山) (峰山町大呂より)
この祭神が祀られる神社は、丹波郡(中郡)は、式内社八社九座のすべてがこの神を祀る、九座一神の地である。竹野郡式内社では、大宇加神社(網野町郷)・久爾原神社(弥栄町国久)・奈具神社(同町船木)である。

羽衣伝説は、チャイコフスキーの「白鳥の湖」とも同根といわれる伝説で、全世界に分布する。白鳥伝説や七夕伝説とも関係する。さすがにHPも多い。偏見と独断に基づいて、いくらか撰んでおきました。
「羽衣のページ」(丹後の羽衣伝説)
     「羽化登仙」(世界の羽衣伝説の解説)
     「いさなご山」 「磯砂山」(登山記録。天女が降りた山はコンパスも狂う鉄の山)
     「羽衣伝説リンク集」(リンク切れもあるようですが、役に立ちます)
     「朝鮮文化をたずねる会」(羽衣も渡来の伝説か)

クイズを出すわけではないが、右の写真はどこだろう。おわかり頂ける八仙女の舞だろうか。
ある山の頂上で行われる八仙女の舞いだそうである。
日本であるような、ないような不思議な光景である。丹後の比治山の頂であってもさほどおかしくはない風景である。
ここは韓国ソウルの東海上に浮かぶ江華島の摩尼山の頂である。
江華島と言えば歴史に詳しい方は何か思い出されるかも知れない。
この山頂には暫城壇と呼ばれる方形の祭壇がある、10月3日は壇君の古朝鮮建国に定められているそうで、この日は祭天儀式を行い、八仙女の舞が奉納されるという。(『図説韓国の歴史』の写真と説明による)

近江の余呉湖に伝わる天女も八人である。近江国風土記逸文を引いてみよう。息長氏の根拠地に近い所だけあって、ここでは正体が明確である。

伊香小江
古老伝曰。近江国伊香郡与胡郷伊香小江、在郷南也。天之八女、倶為白鳥自天而降。浴於江之南津。于時、伊香刀美、在於西山。遥見白鳥、其形奇異。因疑若是神人乎。往見之、実是神人也。於是伊香刀美、即生感愛、不得還去。窃遣白犬盗劇取天衣。得隠弟衣。天女乃知、其兄七人、飛昇天上。其弟一人、不得飛去、天路永塞。即為地民。天女浴浦、今謂神浦是也。伊香刀美、与天女弟女共為室家、居於此処、遂生男女。男二女二。兄名意美志留、弟名那志等美。女名伊是理比@、次名奈是理比売。此伊香連等之先祖是也。母即捜取天羽衣、着而昇天。伊香刀美、独守空床、?詠不断。

訳するのがヘタなので、「余呉湖に伝わる羽衣伝説」を見て下さい。

「余呉湖 菅山寺」(新羅の森と天日槍を祀る神社)
     「余呉の天女」(湖畔の白木の森と新羅崎神社)
     「天女伝説の謎」(新羅崎神社跡や
鉛練比古えれひこえれひこえれひこ神社)
     「鉛練比古神社」(余呉湖のすぐ北の中之郷には式内社・鉛練比古神社があり、天日槍を祀る)。
 上記それぞれのHPが伝えるように、余呉湖の羽衣伝説は新羅の王子・天日槍がもたらしたものといわれる。


恐らく丹後比治山の天女伝説もそうであったろうし、真名井といった泉名もまた天日槍であろうか。丹後一の神・豊受大神もまた天日槍の祀る神であったろう。ケすなわち食糧の神、農耕の神、酒の神であり、鉄の山へ降りているので、鉄の神でもあったろう。
『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)は、
五穀の神と知られ、伊勢の外宮に祀られている豊受大神などは大陸よりの帰化人らしく思われ、新羅より帰化した天日槍族などは、但馬から熊野‐竹野地方に大きな勢力を張っていた。
と、昭和47年というからかなり早くから指摘する人もあった。

比治山には別名が多くあり、足占あしうらあしうらあしうら山とも磯砂いさなごいさなごいさなご山とも、あるいは真奈井山とも呼ぶ。四つの名を持つ山である、近頃の地図なら磯砂山(661メートル)と書かれいる。
ヒジやアシウラはクシフル系の地名である。磯砂は砂鉄の事であろうか、しかしそんな呼び名は聞いたことがない。たぶんこれは次のようなことと考える。舞鶴の「笶原魚居匏宮」の魚居はマナイと読むが、イサナコとも読める、読めないこともない。マナ井→魚居まないまないまない魚居いさなこいさなこいさなこ磯砂いさなこいさなこいさなこであろう。この山名を解明した書も私は知らないが、磯砂山とは魚居山・マナイ山のことであるかも知れない。
磯砂山は峰山町五箇の真言宗の古刹・笛原寺の山号であるが、この寺は古い、ずいぶんと古くからこのように呼ばれていたと思われる。笛原の地は丹波与謝郡となっている。まだ郡はなかったと思えるが、丹波郡ではなく、与謝郡となっている。
残欠に伊去奈子嶽とあり、すでに風土記以前からの山名である、そんな時代から読み替えが行われていたと考えられる。
 『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)は、
伊去奈子の名称の起源に就いては、これを説く文献としては現在遺存してはいないのである。
として、伊奘諾いざなぎいざなぎいざなぎ命のことではないかと考えておられる。たしかに発音は似ているが、伊奘諾命が降臨した地ではなく、これは当たらないと思う。

奈具神社(弥栄町船木)
『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)は奈具社と哭木里も伊去奈子嶽の語尾であり、同じ伊奘諾命のことと考えておられる。
 魚居はナコとも読める。というかその方が正しい読み方であるが、竹野郡奈具社(弥栄町船木の式内社奈具神社)のナグと哭木村(峰山町内記、内木。式内社名木神社が鎮座するから、ナキギではなくナキが本来の呼び名であろうか)も案外にこんなことかも知れない。魚居をナコと読み、それが転訛してものと考えられる。どちらもマナ井のことであろう。
 哭木里・奈具社(逸文風土記)、伊去奈子嶽(残欠)といずれも風土記の時代の呼び名である。奈良時代には、そのようにマナ井は呼び替えられて久しく、すでにそのことは忘れられていたのだろうか。言い出した当人にも信じられないような話である。
そんな話は信じられないとすれば、佐那具さなぐさなぐさなぐ佐那伎さなきさなきさなきという言葉のサが落ちたのかも知れない。鉄鐸などの鉄製の器具類を指すらしいが、古くは鉄一般を指したという。奈具や哭木・名木はうまく説明ができる。いずれも鉄の神社の意味となる。豊受大神は鉄の神となる。伊去奈子嶽はイサゴ嶽であり、砂鉄嶽のこととなる。比治山とはヒシ山、ヒシとは鉄の古語という。『古代の鉄と神々』は、名木神社(峰山町内記)
京都府竹野郡弥栄町船木に、奈具神社があり、「奈具」は「佐奈具」の「佐」の脱落と思われる。そこが「船木」の地であることはおもしろい。
誠に面白い話である。しかし船木がミソかも知れない。もしこの説のように佐那具の具が脱落したのでなければ、フナキのフが脱落した可能性も考えられる。フナキ神社→ナキ・ナク神社である。平城宮出土木簡に「丹後国竹野郡舟木郷…」とあるのはここだろうとされる。『和名抄』にはないが、一つの郷があったかも知れない。これがまたワキともなったかも知れない。宮津市由良の脇という地区は加佐郡式内社の奈具神社を祀る。
一般にはフナキとは船を作る木だろうと言われているが、氏族名の可能性がある。羽衣伝説は船木氏の伝説かも知れなくなる。フナキの地名は全国にかなり多い。伊勢の船木直は多氏などの同族である。前出の『古代の鉄と神々』は、奈具神社(宮津市由良)
遠祖は大田田命・神田田命というタタラに発祥する名.
としている。『古事記』も引いておく。
神八井耳命は、意富臣,小子部連,坂合部連,火君,大分君,阿蘇君,筑紫の三家連,雀部臣,雀部造,小長谷造,都祁直,伊余国造,科野国造,道奥の石城国造,常道の仲国造,長狭国造,伊勢の船木直,尾張の丹羽臣,島田臣等の祖
誠に面白い問題を持っていて、簡単には話が進まない。どこかで再度とり上げてみたいと思う。

さてつまらぬ話をもう一つ。なぜ八人なのだろうか。天女伝説は各地に伝わるが、古いものは八人のようである。本来は八人だったのだろう。高松塚古墳壁画も八人である。
 HPを探してみたが、見つからなかった。たぶんこれは北斗七星から出ているのだと私は思う。七ッ星なのになぜ八人かと思われるだろうが、北斗七星には有名というか天文学の入門書にも出てくる二重星(ミザルとアルコル。本当は6連星という)が含まれていて、実は八ッ星である。私の腐った目では見えないが、肉眼でも達磨のように見える二つ重なった星がある(そうである)。この八ッ星から出た八天女だろう。そうとしか思い当たるものがない。(私の頭ではこんな事は思いつきそうにもない。かつてどこかでこの話を読んだ事があるのではないかとパソコン中を検索してみたら、これは吉野裕子氏の説だそうである。)
 風土記の浦島伝説にも七童子・八童子が登場する。これは昴・畢星と書いてある。アメフリ星と呼ぶらしい。昴の近くにあって仙境の入口だそうである。
「丹後の伝説」
星は金星や北極星に代表されるし、ツツとも呼ばれる、これらはみな鉄と関係が深い。だいたいそう押さえておいて次へ進もう。比治真奈井というのは、ここ比治山の頂の真奈井が本家本元である。


右の写真はたぶん立命館大学の「平和ミュージアム」で写したきたものと思う。記録はなく、記憶もあやしいがここしか考えられない。いつのものだったかもわからない。

「江華島事件
水宗城を襲う日本軍。1875年江華島付近で挑発をした日本軍艦が砲撃され、それを口実に日本軍は水宗島に上陸し、朝鮮人35人を殺し、放火、略奪を行った。この事件の結果、日本は朝鮮と日朝修好条約を結んだ。
『明治太平記』所収(国会図書館藏)」
の説明がついている。元伊勢のページの上へ



吉佐宮はどこ

伊勢の外宮の神はどこから遷ってきたものなのか、これを伝える資料はそう古いものはない。『倭姫命世紀』が古いのだが、鎌倉初期の成立だろうとされている。それには、但波乃吉佐宮、とある。あるいは丹後乃吉佐宮(『豊受皇大神御鎮座本紀』)と伝えられる。丹波にも丹後にも吉佐神社というものはない。
 『倭人伝』の邪馬台国、あれほどの記事が残っていて、世界中の各分野の大学者が研究しても北九州か大和か、それすらも未だ決定できない。
鎌倉期の文献が伝える「丹波の吉佐宮」だけでは、決定することはできないのである。丹波の吉佐宮=元伊勢宮は決定できない。昔から元伊勢と伝えられている所はすべて元伊勢としてよいのであろう。



笶原神社の棟札を読む

笶原神社に残る慶長五年の棟札の全文は次の通り。白文である。私にはよく読めないので、そのまま揚げておく(『加佐郡誌』より)。

笶原神社の棟札
丹後州紳座郡田邊城外西嶺有笶原神宮焉、豊受大神神幸之古跡而所謂爲眞名井原與佐宮三處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉、崇神天皇即位世九壬戊歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙劔月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎭其、御霊化又遷與謝九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉夫當宮之有霊験者著于世也因記一二以示於後世社記曰、文武天皇慶運三丙午歳夏久旱魃不降一露尋有災火而山悉焚爲之萬民無所置手足也於是、勅阿部朝臣眞君副使中臣朝臣人足等被進種々神宝幣帛於当宮雷聲忽応而火災自滅矣、高岳親王詣当宮依神詫建清光殿于宮地遂奉戒言以自愼矣、花山帝患無子被祈於當宮即有感応而、清仁親王生、後醍醐天皇所於當宮被免蝮蛇之患、邦高親王亦祈此神御脳忽平癒此以下世蒙、神明之威徳者不可勝数、歴帝崇此紳之徳数進幣帛被修理賓殿雖然星移物代而雨露疵其?清宮既古矣于時慶長五年秋八月石田三成方人小野木重勝方囲當城之時父藤孝詠一首歌以奉于此、神而後爲籠城矣歌云、天照神之御坐郡奈禮婆荒振毛能乎屋良比賜邊庸既有感応而、太神夢中以長歌詫、智仁親王親王輒奏之、天子、天子大驚直乃、勅烏九岩廣卿西三條實條卿加茂松下大宮司等下、綸命於小野木因之小野木等速解囲退是故父出戦苦得小治一國也是非我徳也正、神明之妙助也益尊敬、其神徳自奉幣帛愼配吾姓祖、清和天皇之霊爲寄附神領九町七段百九十歩者也又其宮地山林自西馬谷之尾崎接圓隆寺之境南至桂林寺之境分地各正而寄附者如先規茲新営治、宝殿命神主海部真正之令祷當城鎭護國家安全五穀成就武運長久府惟、神明霊徳尚紳愍敬白

  慶長五年庚子冬十一月十四日
  再建願主當國城主
  細川越中守忠興謹誌

この神社も元伊勢であると主張している。元伊勢三箇所の一であるという。(三を二とする書もあるが、どちらが本当かは現物に当たるより手がない。文化財の指定もないようだが、今も現物はあるのであろうか。はっきりと申し上げて、こうした地元に伝わる資料を大切にしないで、どこぞの偉いのかも知れない大先生が申されたようなことの方を信用しているようなことでは、地方の歴史家と呼べるようなものではない。中央亜流の三流以下の田舎歴史家である。ああいやだ所詮はド田舎者の男だのうと陰口をたたかれよう。ウソでもいいからまずは大事にしてはどうか。『加佐郡誌』『与謝郡誌』のほうがまだしもましな根性をしている。)真名井神社の入り口から登れる


 田辺城外の西の嶺に笶原神社がある。豊受大神神幸の古跡である。いわゆる眞名井原與佐宮(=元伊勢)とされる三ヵ所の一をなす。この嶺は天香山あるいは藤岡の別名がある。崇神天皇の9年に豊鋤入姫命を使わせて、天照太神・草薙劔・月夜見神をこの地で1年3ヶ月で奉斎した、その後与謝郡に遷った。当宮の霊験は著しい一二を示す…。
後は自分で読んで下さい。


愛宕山と現在は呼んでいるが、田辺城西嶺の別名を天香山あるいは藤岡とするとしている。
アマノカグ山と同じであろうが、宮津の籠神社の奥宮・真名井神社のある裏山の神体山が天香語山(下写真。右手の山が天香語山。左手が傘松公園のある傘松山。)である。天香語山(宮津市)
藤岡は与謝郡の籠神社周辺の真名井原もそう呼ばれるそうであるし、天香山あまのかごやまあまのかごやまあまのかごやまのカゴはかごかごかご神社そのものの社名に伝わる。ノ神社と読んでいるが、コなんかではありえない、コでは意味をなさない、本来はカゴ神社ではなかろうか。両地は無関係ではない。カグ・カゴは朝鮮語の銅であろうか。

 野田川(倉橋川)の支流に香河かごかごかご川がある。上流の加悦町香河かごかごかごから流れてくる。かぐやはし(嘉久屋橋)(野田川町石川)
野田川には「かぐや橋」が架かるし、大江山の鬼に迦樓夜叉かるやしゃかるやしゃかるやしゃという名も見える、軽矢とか迦具矢と呼ばれる産銅・産鉄の集団であろうか。笶原の本当は迦具矢村やふるやふるやふるかも知れない。
 「かぐや橋」は、宮津旧記の文政五年の一揆の記事に出てくる。疲弊した農民達がこの橋詰に集まり一揆が始まったという。写真は「文政一揆蜂起の地」と書かれた記念柱とかぐや橋。地図によっては国道176号線に架かる橋を嘉久屋橋としているが、国道より一本上流の橋である。かごがわ

 記によれば天孫降臨の折、先導する神々が天真鹿児矢あまのまかごやあまのまかごやあまのまかごやを持って降りてくる。綏靖紀の真カゴ鏃まかごのやさきまかごのやさきまかごのやさき(カゴは鹿の下に弭)などのカゴヤである。これは鹿を射るための鏃だなどと理解されているが、それは漢字を見ての推測で、本当は銅矢かぐやかぐやかぐやのことだと幡井氏はいう。カゴヤはカルヤ(軽矢・刈矢)ともいう。軽箭については『古事記』にも説明がある。「その箭の同(胴)を銅にしたり。かれその矢を軽箭といふ」胴の矢が軽矢であり、カゴヤである。鉄の矢は穴穂矢という(『物部氏の伝承』による)。それならばカグヤがたくさん出土するかといえばそうでもなく、綾部市の久田山古墳群の一画から発見された銅鏃が古墳内からのものとしては、亀岡市以北では8例目だそうである。かくやはしと野田川

 ではカグヤ姫とは何者か。一般に伝えられている昔話とは本来は違ったものであろう

 カゴ山が銅山だということは次のHP参照「秋田加護山鉱山及び鉱業図」
ずいぶん昔の話になるが職場の先輩に鹿児島の人がいた。先輩のトコは金が採れるんでないですかと問うと、「そうだ。お前よく知ってるな。近くの川で採れる。まだうちにはアレ(何と言ったか忘れたが砂金を洗う金属製の桶)があるぞ、今度休みの時に金を採りに来いよ」といっていた。鹿児島ならカゴだからそうだろうと当てずっぽうに言ったのだが当たっていた。その先輩の故郷は川内市の近くだといっていたと記憶しているのだが、その南には鹿籠かごかごかご金山(枕崎市)があった。あの時に行っておけば、今頃は大金持ちだったかも知れない。「鹿籠金山」

天之真鹿児矢(天之加久矢)は天之波波矢とも呼ばれるようで、このハハは蛇、オロチのことである。銅(金属)の霊は蛇とも考えられたそうである。オロチをクラジと朝鮮語では呼ぶそうであるが、海部氏系図によれば天香語山命の子に(熊野)高倉下たかくらじたかくらじたかくらじ命というが、まさにカグ・クラジ命なのである。古語のハハはハブとかヘビとなるわけだが、波美(大江町)、波見(宮津市日置)、波弥神社(式内社・峰山町荒山)にも変化すると思われる。これらの地もたぶんこうした銅山と関係のある名と思われる。また蛇伝説のある地は銅との関係を考えて見なければならない。
丹後海部氏の勘注系図では天香語山命の子が熊野高倉下命となっている。天孫本紀では天香語山命に「天降りての名は栗彦命、亦は云ふ高倉下命」の割注がある。普通は同一神とされている。

香具師はヤシと読んで、怪しげな商品を売る何とかいった建築士みたいな者を呼ぶのであるが、漢字を読めばカグ師で、たぶん本来の意味は銅の生産者・鉱山者ではなかろうか。山師とも呼ばれるが、アルキメデスの昔からかなり怪しげな商売をするカグ師も多かったのではなかろうか。将来は建築士と書いてヤシとか読まれる時がくるであろう。いえいえ決して私どもだけではありませんな、などと言うかも知れない。この建築士などの民間人は何人か有罪となったが、監督省庁がおとがめなしというのはおかしな片手落ちな話である、何を監督して高給を食んでいたのだ。こんな危険な商売を見逃すような馬鹿者にまだ税金を使うのか。なぜ大臣をその他を首にしないのか。官僚とか政治家と書いてヤシと読む日がくるかも知れない。

籠神社はここから与謝郡へ遷ったとする記事は、勘注系図記事とも合う。たぶん由良に一時留まったのちに与謝郡へ移動したのだろう。由良の水門に遷座とあるから、たぶん由良の湊神社(残欠の水戸社・「室尾山観音寺神名帳」の湊明神であろうか)、現在も舞鶴から行くならKTRの下をくぐって抜けたあたりが港と呼ばれる地であり、対岸の神崎には湊十二社がある。この由良川河口辺りに一時いたのであろう。

移った先と移る前の地に同じ内容の記録があれば、その歴史事実はまず疑えないのではなかろうか。まして勘注系図は誰にも知られたものではない。神宝であって宮司を務める海部氏以外はまず知らない未公開のものであった。ちょっと写真に撮らせてくれないかとも言い出しにくい雰囲気であったとここを尋ねた歴史学の大学者先生でも書いているくらいである。二面の伝世鏡や二種の系図が公開され日本全土に衝撃が走ったのは昭和50年代になってからであった。笶原神社の「うさんくさい何やら野心のありげな神職」がそれをすでに読んで知っていて、それを元にニセの棟札を作ったなどは、ありえるとも思えないのである。偶然に同じ内容の記述ができるということはありそうにもない。この棟札を偽書とすることはまずできない。丹後一宮の故地はここである。籠神社(宮津市大垣)

 では西舞鶴へ来る以前はどこにいたのであろうか。もっと東ではなかろうか。高浜町下車持に式内社・香山かぐやまかぐやまかぐやま神社がある。国道から見える。あるいはここかも知れない。
 高浜町は舞鶴の東隣の町ではあるが、丹後ではないので当サイトの範囲からははずれる。しかし此の地は丹後からももう少し注目してもいい所である。たぶん丹後海部氏の故地でなかろうかと、私は想像していたのである。いつか「コラム」欄ででも取り上げたいと思う。

大泉寺に残る細川家の家紋
細川忠興は藤孝の子で、有名なガラシャ夫人の夫君であり、細川護煕元首相のご先祖でもあるが、いいものを残してくれたものである。地元の史家は誰もちっとも大事にしないが、名君と呼んでいいだろう。これでここも確かに元伊勢の伝承があったとわかる。
同じ事が書かれていても一方は即国宝に、他方は偽書だといってほったらかし…、格差があり過ぎる、チト市教委や文化財保護委の怠慢不注意が過ぎる、ブツが残っているのなら、はやく文化財指定をして保護くれないだろうか。全世界が笑うだろう。
大泉寺案内板
忠興の時代になると私の興味の外になるので次のHPなどを参照して下さい。上の写真は忠興創建になる舞鶴市倉谷の大泉寺である。棟の「ウメバチ」が家紋だという。彼の持仏という仏像をご住職にみせてもらったことがある。
「細川忠興の紹介」 「細川忠興」


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皇大神社(元伊勢内宮)(大江町内宮)

現在丹後で元伊勢と言えば、宮津市の丹後一宮・籠神社か、ここ大江町の大江山麓の内宮・外宮を呼ぶ。そのほかは一般には元伊勢では通らない。
鬼退治伝説で有名な大江山の東麓に鎮座する。『大江町誌』は次のように記す。

大江町・皇大神社 皇大神社は、内宮の宮山に鎮座、正面に本殿、両側に脇宮二社が祀られる。本殿の祭神は天照大神、脇宮の祭神は、左殿が天手力雄命、右殿が栲機千々姫命である。そして境内の周囲に末社八四社の小祠が並ぶ。本殿と脇宮の間に龍灯の杉と呼ぶ古木がある。本殿から一段下ったところに鳥居がある。この鳥居は黒木の鳥居である。黒木の鳥居は京都嵯峨野の野々宮神社に建てられているが、他には例がないものである。神楽殿の前から、龍灯の杉をはじめとする大木と背後の自然林に覆われた社域は、神さびて古来から大社であったことを物語っている。大江町・皇大神社

 由緒については、崇神天皇のとき、天照大神の御神体である神鏡を、大和国笠縫邑よりここへ遷し、四年間奉斎した但馬乃吉佐宮の旧跡であるといわれ、「丹後旧語集」にも、「天照大神自此所崇神天皇御宇遷大和国、自夫今ノ伊勢国高間原遷宮奉成」とある。当社の神社明細帳には、崇神天皇の御代天照大神が大和国笠縫の里から当国吉佐宮へ遷幸の途中、この地にしばらく鎮座した。のち伊勢に鎮座したため、ここを元大神宮と称するようになったとある。一方、「宮津府志」には、「鎮座年暦未詳一説云用明帝時麻呂子親王之所勧請也 神社啓蒙等以河森外宮一爲吉佐宮而謂下今祠内宮者近代之俗上也者却似 誤也」と麻呂子親王が鬼退治の祈願のため建立したと記し、近代の地誌書「丹後風土記」も同趣旨の縁起をのせる。社殿の造営は、式年六十一年目甲子の年にされてきたが明暦二年(一六五六)四月の年紀をもつ棟札が残り、宮津藩主京極高国による神楽社、御供所、斎蔵などの修造が知られる。
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皇太神社(大江町内宮)のつづき

江戸期にはたいへん人気のある神社であったと言う、参道の石段の敷石がよくすり減っている、一体何人がこの石をふんだのだろう、内宮も外宮もその麓にたくさんの宿屋を今に残している、ローマは一日にしてならず、一朝一夕にこれだけの参詣者が訪れる大観光地になれたりは絶対にしない。内宮参道石段(このあたりが最もよくすり減っている)

根元に何物かあったのではなかろうか、タネもないところに成熟もない、どこぞの地のようにタネもなく実りもなく、何でも右へならえ、上にならえ式に、突然に私トコも観光地ですヨと売り出そうとしても、どだい無理な話である。
観光地としての住民の品性というのか品格といったものがやはり一番の観光資源ではなかろうかと近頃私は考えている、そんなものは突然には身につくものではない。 何しにきやがったんじゃいといった顔つきで、うさんくさそうに訪問者を見るのは××市である。私の経験ではこの町が一番ひどいように感じる、こんな町はよそにはない。もっともっと見知らぬ訪問者に親切に接している。カメラでも構えてうろうろと不案内げにしていると、家の中から出てきて、わざわざ親切すぎる話をして下さる。舞鶴人でそんなことをした人があるか。観光で売り出す以前の問題が何かありそうである。
確かに今もって軍の町である、侵略兵がスパイを見る目の町である。はやくこんな町の歴史から卒業することが求められよう。よその町ほどになれとは言わないが、もう少し訪問客に対しての心づくしの気持ちがないと観光地などは無理である。われらの町は一面では軍の予算のおこぼれにゴキブリのように集まり、軍に寄生して、ダニのように生きた歴史を持つ。ゴキブリや寄生虫やダニや侵略兵に品格など求めるのは無理である、失礼ながらあるいはそんなことがあるかも知れない。内宮参道に残る宿屋街(一部)

 まあそれは別としてそうした両社の長い歴史と大変な努力なくしてはここまでにはなれない。
しかし古い記録にはこの両社の名はない。残欠になし、延喜式になし、近くの「室尾山観音寺神名帳」にもなし。一体どうしたことであろう。尊敬する山本文顕も次のように書く(「郷土と美術」昭和15年2月号)、

…河守の内外宮を元伊勢と僭称するのも困ったものである、…府中の元伊勢考証は種々あるも、河守の分には僭称に基く以外の文献を知り得ぬ。…

 彼も僭称と決めつける。しかし古文献に記載がないからといっても、元伊勢ではないとは限らないし、仮に記載があったとしてもそのまま信じられるというものでもない、権力側が勝手に記録したものであり、見落としということもよくある。鬼どもの社など記録できるかと意図して書かなかったかも知れない。そうした差別観念がなかったとも言えない、だいたい古い大きな社寺にはたいていそうした被差別集団があるものではあるという、本当の信仰というものはそうした中から「阿片として」産まれ発展してくるのかも知れない。
大金持や大政治屋の「信仰や祈り」などはあまり信用されぬがよろしい、ほかに本当のネライがあるであろう。「阿片」を必要としたどうした集団があったかを今に再現するのは大変な作業である、しかしそれをどこぞの国の教科書のように、あるいは日本は神国である式に見逃してしまっていては両社の本当の歴史も日本の本当の歴史も理解できぬであろう。江戸期の時の支配者の都合に基づくチョンマゲ時代の差別が、恥ずかしくもこの国では21世紀にまで尾を引いているのであるが、江戸期に突然はじまったとかいうものでもなく、それ以前にもあったのである、もっと厳しかったかも知れない、鬼とも呼ばれたずっと古い大きな被差別の群れがここにあったと思われる。こうした事情に触れない古文献は貴重ではあるが決して完璧な記録ではないということを頭に置いておくことも必要であろう。先の布目瓦の寺院にしてもいずれも記録にはない。信頼できる記録にないから、こんな所から布目瓦が出土するのは間違いで、江戸期にだれか暇な者がいて偽作したのであろうか。皇大神社

 伊勢へ遷ったというのは崇神の時代のこととも雄略の頃ともいう。時代すら明確でない古墳時代のころのことであろうとされている。ところが古文献は奈良時代より遡らない。事件と記録の間には500年も1000年もの時差がある。関ヶ原の頃の事や平安時代の事件が文献なしに現在に正しく伝えられているだろうか。きびしい事を言いだせば、すべて否定しなければならなくなる、「丹後に元伊勢はなかった」などと言わねばならなくなるだろう。
 地元に鬼伝説とともに元伊勢と伝えられているのだから、別に否定する根拠もないのである、この鉄の山に伝わる鬼伝説は強いしこれとの関連が究明されなければなるまい。大江山は今でこそ大江山であるが、この山の北麓は与謝郡であり、丹後の屋根を古代は与謝郡側では与佐山と呼んだ可能性は高い、残欠は与佐大山と呼んでいる。この山の北側に加悦町与謝という集落があり、ここへ向ける国道176号線の大江山を越す峠を与謝峠と呼ぶ。 この山塊を与謝山と呼んだ可能性は高いと私は考えている。皇大神宮(大江町内宮)

鉄を生む与佐山にこそ、根元的な与佐宮があったとしても何も不思議ではない、それどころかこの山にこそ求めるべきかも知れない。現在のこの地・外宮(大江町外宮)の地が与佐宮であったかどうかは疑問としても、大江山に与佐宮があって、その流れを汲むかも知れない両社なのである。龍燈杉(皇大神社)

 確かにこの地の現在の内宮・外宮はたぶん江戸期の伊勢信仰に発したものでないかとは、一般には想像はできるが、それはずっと後の世の史家たちの勝手な想像である。いくら大学者だってこんな古い物はわかるわけがない。まったく火の気のないところに煙はたたないかも知れない。右上の画像で言えば中央社殿と左手社殿の間に白く見える杉の巨木がある。これは「竜灯の杉」と呼ばれ、樹齢600年以上、大江町一の巨木である。丹後中探してもこんな古木を持つ社はない。

 残欠神名帳に布留社、「室尾山観音寺神名帳」に正二位布留明神と見える社がある。神階の高い神社だったのだが、それが現在はどこの神社なのかその比定ができない。一説にはそれがこの内宮あるいは外宮だという。布留社は大川神社の次に位置する由良川筋の大社であったようである。元伊勢内宮境内社奉斎図

現在の内宮には末社のホコラにしても82も並んでいて、まるで雑種神社の見本市のようであり、何が本来の祭神なのか見当もつかない様相であるが、本来はあるいは布留社であったのかも知れない。しかし現在の末社にはその名の社はない。内宮にどれだけの神社があるか、たぶんこの辺りにあった古い神社をここに合祀したものでないかと思われる。私が一つ一つ手帳に書き取っていたら、「そんな面倒なことせえでも、ほらこれこれ」といって、「元伊勢内宮境内社奉斎図」というコピーをもってきて下さった。(右図は縮小版)。有り難う。貰っていて文句をいうのではないが、しかしこの図には位置の違うものがありまするぞ。
内宮境内社群(一部)

 以下は私が実際に調べたもの。参考にすべて拾い上げてみよう。本殿に向かって左手から、神額に書かれている通りに書き出してみる。
齊宮・曲玉・三日月・松尾・籠守・玉依姫・浦嶋・出雲・三上・少童・鹿児島・與止日女・八坂・玉祖・大山祗・厳島・田村・三島・鹿島・由良姫・中山・龍田・廣瀬・大国魂・都佐・日吉・鏡作・大神・祓戸・気比・興玉・物部・宇佐・貴船・石上・大原・国御柱・天御柱・日前・瀧原・伊佐奈美・伊佐奈伎・荒祭・月読・伊雑・風之・大鳥・若狭彦・倉稲魂・伊射浪・香取・南宮・気多・箱崎・白山・吉備津・杵築・枚岡・新良・玉前・水無・宇倍・高良・氷川・寒川・敢国・愛宕・洲崎・春日・高瀬・出石・二荒山・住吉・砥鹿・倭文・加茂・大年・浅間・梅宮。
これがぐるっと本殿を取り囲んでいる。本殿の向かって右手に手力雄・左手に栲機千千姫。その手前右手に三女。左手に熊野。右手に外に磐長比売命・その奥に天龍八岐龍。手前に御門。どれを数えて82というのかわからないが、それ以上ある。

由緒は左の案内板を読んで下さい。クリックしてもらうと読める大きさになります。皇太神社案内・クリックして下さい。
 大江町の内宮の祭神は天照大神。向かって右側に天手力雄命が祀られている。この祭神は舞鶴の京田の幸谷神社でみたが、もう一度見ておこう。もっともこの祭神が根元的にこの社に祀られていたものと仮定しての話である。後に述べるように内宮のすぐ下というか、麓には天岩戸神社(祭神・手力雄神)があり、その関連でここにも祀られているだけのことかも知れない。またあるいはその天岩戸神社がここに天照大神を祀るようになってからできた社なのかも知れない。舞台が整いすぎていて、山本文顕ならずとも、うっかりするとハメられるのではないか、何か困ったものナだという気が確かにしてくる。天手力雄神社神額
「幸谷神社」(舞鶴市京田)

 天の岩戸神話で有名な手力雄神は古事記に「手力男神者,坐佐那那県也」の記載があるように、伊勢の佐那神社の祭神である。角川日本地名大辞典に、

さなじんじゃ 佐那神社〈多気町〉
  (三重県)多気郡多気町仁田にある神社。祭神は天手力雄命ほか26柱。「古事記_」に「佐那県」,「太神宮本記」に「手力男神佐那県に坐す」とあり、地名と関係づけ考えられているが詳細は不明。延喜式内社に比定され,享保9年領主により佐那神社の石標が建てられた。大森社とも称し(度会延経:神名帳考証),仁田・五桂両村の産土神で中ノ宮とも称した(伊勢式内神社検録)。 明治4年村社に列格,同39年神饌幣帛料供進社に指定,同41年西山・五佐奈・四神田・油夫・仁田・五桂・前村・神坂・長谷・平谷の諸社を合併。昭和18年県社に昇格。例祭は10月8日。かつてはムラの広場で,天鈿女踊りと称する手踊りが行われていた。

この地が水銀の産地であることは、先の「幸谷神社」の所で見たとおりであるが、またサナはじめサヌ・サニ・シノ・シナなどは鉄の古名でもあるという(「古代の鉄と神々」)。
鉄神社の祭神が手力雄神であり、彼は大江山にもふさわしいのであり、この社が本来の社かも知れない。

向かって左殿の栲機千々姫は、天照大神から見ると息子の嫁さんであり、天孫降臨の瓊々杵尊を生んでいる。その瓊々杵尊の兄ともされ、天皇さんよりも天照大神の正当な後継者ともされる丹後海部氏の祖・火明命の母でもある。
何でまたここに祀られているのかわからないが、一般には古来織物の女神さまと云われる。ここに居た巫女の姿が投影されているのかも知れない。いずれもスゴイ神様が祀られている。
日室山

画像の端正なピラミッドは日室(ひむろ)山(日浦岳・岩戸山・城山とも。427.3m)内宮近くの遥拝所から見ている。宮川を挟んで対岸に見える。
古来より立入禁止の神体山で、大変貴重な原生林となっている、絶滅危惧植物もたくさん見られるという。植物しか書かれていないが、私はこのあたりでヘンな動物も見たことがある。あれはたぶん絶滅種である。恐竜時代に滅んだような動物がいた。

「日室ケ岳」(写真の山の向こう側は登れるそうで、実際に登って調査をされてている)
「伝説の大江山」

200〜300m歩くと、日浦ケ嶽遥拝所につきます。真っ正面のピラミッド型の山が日浦ケ嶽。古来、内宮の神体山として、一願成就(じょうじゅ)の山として信仰を集めてきました。
 山頂には大きな磐座(いわくら=社のなかった頃の神のよりしろ)と、石を規則的に並べた謎の造型物があります。夏至の日、この遥拝所から眺めると、夕陽がとがった山頂に沈みます。神秘の光景です。みなさんも是非、欲張らずに「一願」を祈って下さい。必ず成就することでしょう。


この山の原生状態もこちら側の斜面だけで、向側は人手がはいり植林されているようである。岩戸山案内板・クリックして下さい下の画像をクリックして下さい。案内が読めるようになります。天岩戸神社(内宮)
 内宮も含めて、この辺り全体の山地が原生林的な雰囲気があり、古来からの神社の鎮座地らしく思われるのである。

内宮から宮川へ降りていくと天岩戸神社がある。『大江町誌』は、

祭神は櫛岩窓戸命、豊岩窓戸命、大宮売命、八意思兼命という。二瀬川が深い峡谷をつくる辺り、東岸の岩壁にはりつくように鎮座し、対岸の「日うらが岳」に向かう。本殿裏側へ廻るとすぐ目の前に川をふさぐ形で巨岩がある。岩の上部は平らになっており、この上に神が坐して天下ったといわれ御坐石という。本殿左手の川の中に神楽岩と呼ばれる岩があり、川はここで岩壁につき当り大きく方向を変える。社務所から見下すあたりの岩に数個のくぼみがある。神が湯浴みをしたところだいって「産だらい」と呼んでいる。古くからここを濁すと大荒れになるといわれ、日照りの時には、かき廻して雨乞いをしたという。一説には、この天の岩戸神社は、如来院の鎮守として祀られ如来院の住職が代々別当として当社を管理したといわれる。

天岩戸神社案内・クリックすると拡大
 天岩戸神社の辺りまで降りてくるとこんな風景が見られる。人里すぐ近くに原生林がある。川は宮川(二瀬川)である。ただし石ころ一つ、木葉一枚と雖も持ち出したりしてはならない。まして山菜採りと云って根こそぎ貴重な植物を持ち帰ったりしてはならないので注意して下さい。天岩戸神社の渓谷
 ヘンな動物というのは小さな横穴の中にいて、私を見ていた、スピルバーグのCGの世界に突然迷い込んだような気持ちになり、思わず目をこすったものであった。かなり下等な小型の全長30センチばかりの爬虫類。こんな物はみたことがない。朝早くまだ寒かった霧の中、寒くて動けないのであろうか、一匹だけしか見なかったが、一匹というはずはない。次に来たとき、アイツいるかなと思い、そこへ行ってみると、もうその穴は潰されて消えていた、周囲はきれいに整備されて、穴の上には真新しく祠が建てられていた。この社の管理者も知らない動物だったのだ。オイオイ何をするんだと、辺りを探し回ったがアイツの姿はなかった。『大江町誌』の動物目録にも勿論ない。この動物についてはもうこれ以上は書かずにおこう。こうした物は一度破壊されればもう永久に回復不可能である。ここの城山や宮山の太古からの自然が残る貴重な地では万全の上にも万全の注意を払って工事されたい。できれば工事などは一切しないことであろう。
 ホコラどもはどうでもいいだろうといいたい、古来より自然そのものが信仰対象になっているのだ、ホコラは後の物である、なくてもいいものである。ホコラをどうしても建てたいのなら、周囲の大切な自然を決して毀さないように、万全の注意を払って小さく建てて頂きたい。

元伊勢内宮・皇大神社
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真下飛泉「ここはお国を何百里」歌碑
(大江町関)


現在も、初詣などは大変な参拝者である。舞鶴からだと、河守の関のあたりから車がびっしり並んでいて、先に進まない。
 真下飛泉歌碑(大江町関)真下飛泉の「ここはお国を何百里…」の「戦友」の歌碑のところで、飛泉は非戦なのかな否戦なのか避戦かな、批戦、疲戦、悲戦…。誰もそんな事を言った者はなかったな、などと考え、私はこの神社が大好きなのだが、こんなに多いのなら、さてもう帰ろうかなどと毎年思う。
 鬼伝説もいいが、非戦もしっかり受け継いでもらいたいと願う。飛泉ならずとも植民地のぶんどり合いの帝国主義戦争にかり出されるのは、まっぴらごめん、いかなる協力もごめんである。
 先の23号台風のヘドロでこの碑の辺りも埋まったままである。すぐ左側を宮川(五十鈴川)が流れているが、それが溢れた。
もう半年も過ぎるが10センチ以上は積もっている。天気のいい日ならまだいいが、雨の日なら大変なことになるだろう。
 飛泉は大江町河守の出身、彼の弟さんは舞鶴におられて郷土史研究などに貢献された。
「ここはお国を何百里…」 「戦友」 「戦友」
「真下飛泉」
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河守北遺跡の布目瓦(大江町河守・関)

上の写真の右側の道路は大江町から大江山越えで宮津市に抜ける普甲峠越えの府道(綾部大江宮津線)である。右の車とは反対を向いて走れば内宮や外宮につく。
 写真は北から南を見ている。突き当たりが国道175号線で、右へ行けば福知山、左へ行けば舞鶴になる。回らずにまっすぐに行けば(車では行けないかも知れないが)遺跡がある。国道からもよく見える。河守北遺跡といい、古墳期の住居跡と布目瓦が出土した。下は『両丹日日新聞』の04.10.7の記事(現在はweb上にあるが、なくなるかも知れないのでコピーさせてもらった(写真も)。「両丹日日新聞」10月7日のニュース)、
竪穴式住居跡2棟確認 大江町教委が河守北遺跡の調査で
 大江町教委は6日、河守・関地区で発掘調査を進めていた河守北遺跡から、約1400年前の古墳時代後期のものと見られる竪穴式住居跡2棟と土器などが見つかった−と発表した。
堅穴式住居跡(河守北遺跡) 河守土地区画整理事業に伴い、7月から事前調査をしていた。調査対象は、町の中心地を走る国道175号沿いの約500平方m。
 調査の結果、1辺が約5m四方と6・5m四方の竪穴式住居跡が確認された。過去2回の試掘で古墳時代後期から平安時代初期にかけた土器が出土し、複合遺跡があることは分かっていたが、古代住居跡が見つかったのは同地区では初めて。
 このほか、かまど跡と見られる焼土塊や床底から甕(かめ)、住居の周囲にめぐらす浅い溝、須恵器や土師器の破片が多数見つかった。さらに7世紀後半から8世紀のものと見られる布目瓦の破片が出土した。
 調査に当たった町教委の松本学博さんは「河守地区で住居跡を初めて確認でき、周辺に集落が広がっていた可能性も考えられる。布目瓦は後に瓦を使用した寺か何か公共施設が周辺に存在したことを示すもので、今後の調査でその実体に迫ることが出来るのでは」と期待していた。
 布目瓦が出土する遺跡は加佐郡ではここしかない(和江でも出ているようであるが)。丹後でも丹後国分寺より古いといわれる奈良期の俵野廃寺(網野町)、丹後国府の地といわれる岩滝町男山あたりでしか出土がないのではなかろうか。上流の福知山では和久寺廃寺や多保市廃寺が、綾部なら綾中廃寺、氷上郡市島町上田の三ツ塚廃寺、東西一直線に東塔・金堂・西塔が並ぶというが、これらくらいしかない。布目瓦というのは、『瓦の辞典』(web上)に、
布目瓦(ぬのめがわら)
平安時代までの瓦には、裏側に布の目がついている。これは木型から粘土を剥し易くするために、木型との間に布を挟んだからである。こうした瓦は布目瓦と呼ばれている。室町時代に入ると布目瓦はしだいになくなっていった。明人の一観が布の代わりに雲母粉(きらこ)を使う方法をもたらしたからである
 7世紀後半から8世紀は飛鳥〜奈良時代である。河守に(他の名を挙げた廃寺もいずれもそうである)そんな途方もない時代に瓦を乗せた寺院か官衙があったいう文献記録や伝承は何もない。丹後指折りの超先進地域だったようである、豊かな経済の基盤は金属生産であろうか、いずれもそんな地名の場所である。この瓦は寺院だろうと考えられているようで、「河守廃寺」と呼ばれるそうである。河守廃寺のすぐ近くには丹後国府か加佐郡家があったかも知れない。対岸から韓竈が出土している、時代が少し異なるが、あるいは高い文化をもった金属か河川管理の渡来人の集落があったのかも知れない。

 これだから古代史というのは人気があるのだろう。一枚の瓦の破片の出土でそれまでの通説がひっくりかえる。
これで大江町の内宮も外宮も胸を張り大きな顔で大きな声で、「ここが元伊勢だ!」といえよう。特に外宮は大きな大きな顔をしてよいだろう。吉田東伍も河守太神宮(豊受大神社=天田内の外宮)を「古の外宮の(广に寺)たるを想う」としている。ここが伊勢外宮の跡地なのではと想像している、やはりすごい人だ、現在もこの書の価値は失われない。舟岡山という低い丘陵の頂上に鎮座するが、そこは東平という所である、舟は丹に通じるしタイラは何かタタラを想わせる、そしてここには大入道の一目小僧がいたと伝説はいう。丹と鉄が関係する地かも知れない。河守と地名もたぶんこの社から出たものと思われる、たぶん本当は籠守太神宮と書くと私は考えている。カグすなわち銅山を守護する神社であった。籠をなぜコと読むか、それは知らないが、丹後一宮だってカゴ(籠)神社と書いてコの神社と読んでいるから、そうとも読んだのだろうとしか言えない。あるいは本当は高守、あるいは高森神社と書いてカグモリと読んでいたかも知れない、それがコーモリとなった。似た例は大宮町五十河のあたりにあるので、こちらが正解かも知れない。
東吾のマネするのではないが、こちらが私も気になる。府下最大の鉱山で人口1000名を数えた河守鉱山の主な産出鉱石は黄銅鉱であったそうである。まさに籠守太神宮がピッタリである。
なかなかここまで書く時間がありませんので、とりあえずこれを読んで下さい。
「丹後の伝説3」の外宮の大入道。

 このあたりも丹後ではあるが、丹後というよりもどちらかと言えば丹波に近い所である。丹波の隣の福知山市と合併ときまったそうだが、現在はそうであるし、過去に於いてもそうであったかも知れない、加佐郡全体がどことなくそんな感じのある、丹後といっても何とはなく半端な所である。
 京都府加佐郡大江町は平成18年1月1日に福知山市と合併した。京都府天田郡三和町・京都府天田郡夜久野町も同日に福知山市に合併した。
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鬼の宮と鬼の末裔 
鬼は内。福は外。」「鬼は内。福は内。」

大江山の鬼は有名な話で知らぬ人はないであろう、鬼共多く籠り居て、都に出ては人を喰ひ、金や宝を盗み行く、と歌われる。時の権力から見ると、あたかもそのように写ったということで、ブッシュから見ればイラク人はあたかもオニのように見えるということである。本当に人を喰ひ、財宝を盗んだのはどっちだかは知れたものではない。わざわざ大して人も住まない山里へ、そこに住む村人の「平和と民主主義のために」大金と人命をつぎ込んで討伐軍を派遣したりするであろうか。他の政策と勘案してそんなに慈悲深い権力者だったであろうか。そんな愚にも付かぬ話は鬼どもでなくとも大笑いしそうな話である。
 別にそんな悪者であったという話は地元にはないようである。大江山の鬼の子孫は名門と伝えられる。詳しい資料がいま手元にないので、その名を挙げてまでは書けないが、幾つか知られている。大原神社(三和町大原)
 綾部の城主・九鬼氏、名にある通り、鬼の子孫だと伝えられる。「鬼は内、福は内」と藩主に向けて豆が打ちつけられたという。「九鬼家節分の事」


京都府天田郡三和町大原の旧府社・大原神社(天一社。左写真)、産屋があることで知られているが、ここでは節分に「鬼は内、福は外」と豆を蒔くそうである。
九鬼氏の尊崇篤かったというからその時代からそうなったのかも知れないが、たぶんそうではなく、こんな山中に鎮座するという発生から本来はこのような鬼の神社であったと思われる。『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』(若尾五雄1981)は、

鉱山師がよく言うところだが、山中に社寺があれば、付近にはかならず鉱脈があるという。これはかなり昔から言われていることらしい。

これはこの社の氏子は鬼の子孫ですよと云っているようなものである。こんなことは関係の書籍には書かれていないので不明にも今まで知らなかったのであるが、新聞を読んでいて見つけた。『京都新聞』(2006.1.29)に、(写真も)
気合い入れ鬼の衣裳合わせ・福知山・大原神社・節分を控え赤鬼・青鬼に扮して・竹棒を振り上げる氏子、とキャプションがある

 節分の豆まきで「鬼は内、福は外」と一風変わった掛け声をする福知山市三和町の大原神社(林秀俊宮司)で二十八日、節分の日に鬼に扮する氏子が衣装合わせをして、本番に備えた。
 神社では節分の日の二月三日夜、林宮司や参拝客が神社境内に集まり、前夜に約七十世帯を回って厄を受け取った鬼を、「鬼は内、福は外」と豆をぶつけながら本殿に招き入れ、一年の健康を祈る。この日は、鬼役を務める大槻兄市さん(六〇)ら氏子の男性四人が赤と青に染めた長袖、長ズボン、虎柄のパンツを着けて、サイズを確認。パーマをあてた現代風のかつらでおしゃれに決める鬼もいた。鬼たちは本殿前で、竹棒を地面にたたきつけて「鬼が来たぞ!」と叫び、本番に向けて早速、気合を入れていた。

大原神社についは詳しくは「丹後の伝説」に引いておくので、そちらも見て下さい。
「大原神社」 「鬼の送り」
大原神社(美山町樫原)
天田郡唯一の名社たり、として『天田郡志資料』はその口絵の劈頭に掲げている。天田郡もまた鉄の地だったと思われる。安産の守護神、穀物豊熟の大神といわれるが、どうも怪しいなとは思っていたのだ。ここの産屋の床に敷かれる川砂(産砂)は絶対に砂鉄だとどこかで私は書いたことがあるが、元々は京都府北桑田郡美山町樫原かしわらかしわらかしわらにあった物を勧請したという(左写真)。こうしたクシフル系の名のあるところはだいたい鉄産地のようである。氷上郡市島町徳尾の大原神社はここの社を勧請したもの。一宮神社(福知山市堀)の大原神社

 福知山市堀の一宮神社の境内末社・大原神社(左写真)も同じである。本殿の左脇にある。光秀築城のおり城地よりここへ移したと言う、城地とは福知山城のフクチ山である。私はクシフル系の地名があるところは鉄だと考えているのだが、それならここでも当てはまる。福知山の地名は樫原や大原と同じクシフル系の地名であり、彼らが名付けたものではなかろうか。その名に違わず意外と鉄の地のようである。これらに限らず大原神社はたいていが鉄の神社のように思われる。大原はカハラとも読めるし、タイラとも読めないこともにないが、あるいはクシフルの意味も秘めているようにも思われる。『京都新聞』(2006.2.3)は、

*赤鬼・青鬼*民家訪れ厄払う*大原神社一帯で*

地元の住民がふんした赤鬼と青鬼が民家を訪れ、家庭の厄を払う「鬼迎え」が二日夜、福知山市三和町大原の大原神社一帯で行われた。子どもたちは鬼の訪問にびっくり。大人は家庭内の鬼を引き取ってもらえるとあって、酒を振る舞って歓迎した。
大原神社の追儺式は「鬼は内、福は外」と逆さにいうしきたり。かつてこの地域が綾部九鬼藩の領地だった配慮とされ、本殿へ追いやられた鬼は神様により改心する。十年前に、地元の「大原話し合いの会」が各家の鬼を迎える行事を始めた。
全身を赤鬼と青鬼の衣装にまとった男たち六人は各戸を訪問。「悪い鬼はおらんか」と呼びかけ、おじけづく子どもの頭をなでた。果敢に豆をぶつける子どももいた。鬼はにぎやかに計七十戸を巡り、五色豆を渡して回った。

九鬼氏に遠慮したというのは、近世的な藩お抱えの藩学者先生の城下町史観ではなかろうか。九鬼領にはいくつも神社があり、多くの領民が生活している。もっとほかにも「鬼は内」があってもいいと思われるが、ここしか聞かない。「この社の鬼は内」は九鬼氏とは関係がないと思われる。鬼の子孫だろうなどといえばあるいは怒りだす人もいるかも知れない。ワシは鬼ではないと。そうした配慮かも知れないが、しかしクシフル地名や元伊勢がそうした所ならば、天皇さんも海部さんも鬼(鍜冶王)の子孫ではないのかという疑問は出てくる。勝ち組の鬼なのでなかろうか。あるいは負け組を鬼と呼び、勝ち組は神様と呼んでいるのではなかろうか。もともとは同じ物が二つに分裂した。神と悪魔に。悪魔がなければ神もない。現代でいえばアメリカとテロの関係のようなものかも知れない。テロとテロ対策の関係かも知れない。互いに依存しあい、もたれ合っている。もうどちらがどうなのかその区別もつかないほど両者はよく似ている。
俳句の季語にも「大原指おおはらざしおおはらざしおおはらざし」という言葉が残るくらいに賑わった神社であったという。大原神社は行基が製作したと伝わる薬師像がある。少し北に高野山真言宗の大塔山蓮花寺自性院(三和町台頭)や天台宗のお寺がいくつかある。

大原神社の案内板大原神社は天一社とも呼ばれるが、その「天一」とは何か。案内に書かれるように祭神の位なのだろうか。しかし近世になってからなら知らないが古代の制で正一位とか一品とかの神階をこの神社が授けられたという話は聞かないので天一位は怪しいなと私は思う。そう書かれた小野道風の神額があったといわれている。

 古くは天一鍬田神社(伊勢国鈴鹿郡式内社)があるが、近くには綾部市の高倉神社(高倉町。吉美郷の惣鎮守。祭神は以仁王)もそう呼ばれる。さて『青銅の神の足跡』は、

伊勢で天目一箇神を祀ると考えられるものに鈴鹿郡の天一鍬田(あめのひとくわた)神社と呼ばれる式内社がある。荘内村大字原(現在関町)にあり、俗に天一鍬田八島大明神と称して、イザナギノミコトを祭神とするが、伴信友の『神名帳考証』および『地名辞書』には天一とは天目一箇命であろうかと推定している。

同書は他の所でも兵庫県佐用郡の徳久村の天一神社も天目一箇神を祀り、徳島県山川町の天一神社も天目一箇神を祀るなどと紹介されている。どうやら天一社とは片目の産鉄神である、天目一箇神を祭神としていると思われるのである。天目一箇神の略なのではなかろうか。高倉神社(綾部市高倉町)
 かつて綾部の同人たちに高倉神社の祭神は以仁王というのはおかしい、そんなはずがない、全国の高倉と名のある神社なら以仁王などはあちこちの社で祀られているし、ここは以仁王などよりずっと古いものだと話したら、そんなことはない、ここは以仁王だと総反撃にあったことがある。疑いもせずに深く信仰されているのだと感銘を受けたことを思い起こす。信仰は信仰で何もそれにもの申し上げる気などはないのであるが、郷土史として科学的に見る場合は一社だけの古くからの信仰上の伝えだけでは不十分であろうかと思うのである。あの時と同じようにまたも叱られるかも知れないがやはり言わねばならない。大きな方墳を持つ地域であり、仏南寺という真言宗の古刹、『三代実録』に記録がある。有岡とか多田とか古曾戸明神とか鉄や渡来人、天日槍を想定したくなる地である。ここもやはり鉄なのであろう。聖塚古墳(綾部市多田町・54メートルの方墳)・近くに菖蒲塚(32メートルもある)
大原の大原神社も本来の祭神は天目一箇神であろうとして間違いはなかろうと思われる。産鉄民の神社なのである。だから「鬼は内」なのである。
「仏南寺」


 ほかに天一社は加佐郡名神大社の大川神社(舞鶴市大川)もそう呼ばれる。だいたい名神大社というのは鉄と関係があると私は思っている。ここは天一大川大明神とか天一位大川大明神などと古くから呼ばれ、ここでも「天一」は神階と誤解されているようにも思われる。しかし天一位といった神階はなく、この社も本来は天目一箇神を祀った鉄の鍜冶師の神社であったのかも知れない。現在の祭神は罔象女神、句々廼馳神、埴山媛神、金山彦神、訶遇突智神の五神で、これからだけでも何か鍛冶屋の鉄の神という感じがずいぶんとする社である。金山彦神や訶遇突智神が主神なのかも知れない。神階も何も天一位それほどびっくりするほどには高くはない。大虫神社や籠神社よりも低く、大宮売神社と同じくらいで竹野神社よりも上だったようである。

『日本文徳天皇実録』斉衡二年(八五五)正月  廿五丙午、伊勢国阿耶賀神、丹後国大虫神並加従四位下
『日本三代実録』 貞観元年(八五九)正月 廿七日甲甲、京畿七道諸神進階及新叙、惣二百六十七社(略)丹後国従五位下大川神・大宮売神並従五位上。
『日本三代実録』 貞観六年(八六四)十二月 廿一日甲戌、授丹後国従五位上籠神正五位下
『日本三代実録』 貞観十年(八六八)九月 廿一日辛亥、授丹後国正六位上熊野神、出雲国正六位上智位神、斐伊神、温沼神並従五位下
『日本三代実録』貞観十三年(八七一)六月 八日癸未、授丹後国正五位下籠神従四位下
『日本三代実録』 貞観十三(八七一)年十一月  十一日癸未、授丹後国従五位上大河神正五位下、下総国従五位下茂侶神従五位下。
『日本三代実録』 元慶元年(八七七)十二月 十四日庚辰、授丹後国従四位下籠神従四位上、因幡国正五位下賀露神従四位下、丹後国正六位上村岡神従五位下。
『日本三代実録』 元慶元年(八七七)十二月 廿九日乙未、授因幡国正六位上相尾神、丹後国正六位上竹野神、山伎神並従五位下
『日本三代実録』元慶四年(八八〇)十月  十三日癸巳、山城国正六位上石座神、丹後国正六位上息津嶋神・葛嶋神・坂代神並授従五位下
とあるそうである。

大川神社の南隣に碇山があり、由良川を挟んで対岸の三日市にお寺がある。因福山法心寺(曹洞宗)という。これについて『八雲のれきし』は、現在地の上手に因福谷なる谷があり、そこに真言宗に属していたと思われる小さな寺があったという。山号はこの地に由来しているとしている。因福山法心寺(舞鶴市三日市)因福は伊吹かも知れない。下隣は藤津であり、フジという地名もある。神社の鎮座地を古くは千原と呼んだという。またこのあたりがカサだという伝えもある。若狭高浜下車持の式内社・香山神社やその摂社牛尾神社はどうみても金属の神であるが、それらとの関係が伝わるのはそれなりの故があるのかも知れない。大川だから川だろうではなく、何かこの川にはカハラという意味が本来はあるのではなかろうか、ラが脱落しているのでなかろうかと私は考えている、大河原が大川とも大原ともなるのかも知れない。あるいはここも天日槍の系統ではなかろうかとも私は思っている。
「香山神社」(高浜町下車持) 「養父大明神」(網野町日和田)

 あれもオニ、これもオニというのが私の趣味ではないのだが、しかし忘れら、意味不明となったその社の貴重な記録がそう伝えるのだから、どうしようもないのである。オニがいたから文明が発達したのである。オニのいない鉄のない社会を考えてみればいいだろう。縄文時代へ帰ることになる。支配者どもが手前の支配に都合良いようにつくりあげてきたゆがんだイデオロギーに基づくド偏見をそろそろうちやぶっていこうではないか。


産屋の民俗風習は海人と関係あるとか、朝鮮と関係あるとか言われるが、あるいは金属精錬集団と関係があるのかも知れない。大原族は産屋の風習をもっていたということになる。産屋(三和町大原)
 産屋うぶやうぶやうぶや とか産小屋と呼ばれる、京都府で残っているものはここだけだと思うが、そんなものはまったく知らない人も多いと思う。病院で出産するもので社会とは関係のない個人的な家庭的な出来事とばかり思っているかも知れない。
元伊勢とはあまり関係がないかも知れないが、ついでだから少し書いておこう。

 昔の大貧乏な山中の小さな部落でも村人みんなで出産を用意し、育児や教育も郷土社会が行ってきた。人を育てることは社会の共同責任であった。犯罪少年に重罰を!こうした声が高いということは、そういう自分も共犯者ではないのかの反省が弱いのかも知れない。こうした大事は自己責任ではなく社会責任で行ってきた、「大きな政府」だったようである。産婆は大名行列を横切ってもおとがめなしであったという。
以前は子を産まない家が三軒出てくると村は亡びると言われたという。日本村の滅亡は遠くはないようだ。「それでもいいんじゃないですかぁ」と危機感すらもない。言うのもアホらしくなるほどに危機状態である。せめてユリカゴの関連だけでも消費税だけでもかけないようにしないと何が少子化対策か国は腐った政治屋どもは本気かと疑う。ちょんまげ時代よりまだ墜ちるよう政治屋どものちょんまげ以下の意識をがまんをしていると我国は滅ぶこと間違いない。ユリカゴとハカバくらい税金をとらずともやっていける国力は十分にある。誠に一等国としては恥ずかしい。ド恥ずかしい国民の敵である政治屋どもを何とかできないものか。産屋(三和町大原)
そうぼやく私を慰めるつもりか、「しかしこのごろはどこへ行ってもそうだがロクな政治家がおらんな。ここだけではないで。地方自治体なんかもそうだな。オレらの町でもそうだが、ほんまにもうアホでかなんわいや」という。
アホでかなんわいやと市民が評価するような者が全国的に蔓延してしかも政治を執り行っている。これは名を出さないが、舞鶴の人ではない。このままでは未来はない。滅亡が目前のようだ。まずはしっかりした者を撰ぶことである。どこかの団体の推薦なんぞは決して参考にしてはならない。人物をよく見極めて市民のためにがんばってくれそうな者に一票を投じていくより方法はない。蛙の子は蛙。トンビがタカを生むこともない。有権者がしっかりするより克服の方法はない。

 ウブスナ(産土・産砂)というのはこれのことである。産屋の真ん中に床に敷く砂を集めて山にしてその上に御幣が立てられている、写真では暗くて見えにくいかも知れない。ウブスナのヤシロという言葉が残っているのだから、全国各地にあったものと思われる。遠い上代の民俗の化石がここに残る。産砂

敦賀の立石半島の産小屋はよく知られているが『福井県の地名』は、

近年まで産小屋が各地にあり、縄間・常宮・沓・色浜・浦底・立石・白木の七棟が現存する。このうち白木は現在も使用されているが、他のものも昭和三〇年代頃まで使われていた。色浜の産小屋は同五〇年県有形民俗文化財に指定された。ちなみに県内ではかなり広い地域で出産見舞をコヤミマイ、出産後一週間目をコヤアガリという語が今もなお使われている。こうしたことから、本県では広範囲に産小屋があったことが推測される。
水上勉氏の『若狭路』(昭43・淡交社)は、
…私も、三年ほど前の秋の一日に、気比から二村、繩間、沓、手の浦、色の浜、立石、白木と岬をぐるりと廻った。どの村も千枚田を耕す貧しい孤村なのに魅かれた。産小舎をみたのもこの時である、村の女が、お産をする際に使う小舎で、奥小屋、口小屋の二つにわかれていて、天井の梁に一本の綱がたれていた。力綱であった。床には白砂利が敷かれ、寒々してみえた。使う時に、砂の上はむしろを敷くそうだが、お産を不浄とみたのであろうか。どの家も、自家で産むことはゆるさず、妊婦は産み月がくると、身廻品をつつんでみなこの小舎へきた。奇習というより、若狭独特の仏教的な雰囲気を感じさせる暗い世界である。波さわぐ産小舎で、力綱にすがって女がひとりで子を産むのである。
 私も若狭の子だが、立石の部落に似た同じような所に生まれた。産小舎はなかったけれど、納戸の隅で、産婆もよばず、母は祖母に手つだってもらって、私を産んだと今日も語るのである。

「何もせんでも月40万ほどにはなる。それに交通費や経費は実費支給。議会に顔を出すだけ昼寝していても手当もつく。二重三重に歳費はもらえる。一期やったら市議はやめられまへん言うてな。議員自身がそう言うとる。定員プラス2名ほどしか立候補がないでな。何か組織が一つあったらもう当選確実や。小さな町で年々人口は減っていくのに、そんな事でどこそこ推薦の何もせん役にもクソにも立たん議員だけはやたらに多い。人口当たりでみると亀岡の3倍やそうや。こんなんは削減するなどというたら一番反対しよるしな。」これは隣町市民の話。どこまで本当かは知らないがそうならばまことに結構な商売のようである。こんな天上の商売がほかにあるだろうか。フィリピン女性を妻にした知り合いは実家はこの町であるが「親類に市議をしている者がおるんやがな、それがお前は土人と結婚しやがった言うんやで、土人とは何という言いぐさや。市会議員が言うようなことか」と怒っていた。市議にしてもそのほかの議員にしても3人ほどにしておけばいいだろう。高い税金を無能無力な者にムダにはらうのは御免だ。もし足りなければほかはボランティアでやってもらえ。アメリカは本当に3〜5人ほどだという。議員が多くいれば行政に民意が反映されると考えるのは単純なロマンティシズムである。まず本当に行政の援助、そこまで行かなくとも行政の目が必要な市民層、市民問題、たえず新たに産み出され、いろいろな分野で拡大し続けているのであるが、これを代弁するような団体や組織というものはない、もしあってもそれは小さなもので、まだ市議会議員を送り出せるほどの力はない。既存の議員を送り出せるほどの組織団体は大きなもので、そこそこの地位にある市民が成員で、もはや己が地位にあぐらをかいているもので、己以下や己以外の市民については感心がないかむしろ敵対的でさえあるし、こうした社会の変化についていけるほどの小回りがきかない、もう古くてそうした新しい自分以外の市民が抱えた問題に対処できるほどの感覚も能力ももたない。さらにこうした大団体が議員を推薦する推薦基準はまずないし、あってもいいかげんなもので、市民のために働く人を推薦するということにはなってはいない。そんなチェックもない。そんなものが推薦するような指定席議員をいくら抱えていても税金の無駄遣い以外にはならない。アメリカ議会の10倍も議員がいるがそれなら10倍民意が反映されているだろうか。10倍の無駄遣いをしているだけではなかろうか。議員も職員も10分の1に!極端な話ではあるが、当然出てくる方向であろうかと思う。民意を反映させるためには議員といった頼りないクッションをおかずに、直接に住民投票で早い内に早い内に問えばいいだろう。真剣に耳を傾ける気持ちで問うことである。「いきなり新駅廃止などと言われても承伏できない。その方がもっと無駄遣いだ」などと言わねばならなくなる。「いきなり、突然に」といったことはあろうはずもない。うかつにも片方の声しか聞いてこななかったという片手落ち欠陥官僚の寝言である。私のようにたまにしか滋賀県に行かない人間でもそう思った。もういいかげんにしとけよ、滋賀県よ。もう開発はよいぞと。
もっとも税金の無駄遣いはこれ以外にももっともっともっとあってこの分野は相対的には小さい方であるかも知れない。しかしこうしたムダ人間が、己が存在価値のためだけに民意とは関係のない大無駄遣いをするのである。まずは大本を断つ。税金の無駄遣いの元は無駄な人間にある。現代人は税金である公金でメシを喰うのは恥ずかしいという感覚がない。公のために働いていますが、一銭ももらってはいませんで、こうした市民で運営されなければ、本当は自治体がよくなるはずはない。1000兆円にもなる赤字、消費税を100パーセントにひきあげてもなくなることはない。増税分もすべてムダに使われるだけであろう。さらに2000兆円に3000兆円に、…どんどん膨らむことであろう。仕組みを変えなければならない。

出生率1.1なにがし、大金持ち国家であるはずの「小さな政府」を理想とする現代社会がふりかっえて見るべき過去かも知れない。現代の民俗学はその理解を「忌み」ばかりに集中しているが、そんなことで村が出産を管理したりするだろうか。これはたぶん原始共同体時代の遺制であろうと考える、たぶんといったものでなく絶対にそうであろう。家父長時代にまではなんとか生き残り、資本主義の個人がバラバラにされ身近な共同体がまったく消え、金万能の「小さな政府」時代には人類何万年の伝統民俗はとうとう消滅した、しかし資本主義を越えた将来にはまた復元するだろうと、考えてみるがさていかかであろうか。『世界大百科事典』は次のようにしている、
産屋(うぶや)

出産をする部屋や施設。特別に産小屋を設けるものと自宅で出産するものとの二つがある。産小屋はデベヤ,タヤ,ヒマヤ,カリヤなどとよばれ,月経小屋を兼ねているものもある。いずれも産の忌により,家の火をけがすのをおそれて,別火の生活をするものであった。記紀にみられる豊玉姫の出産のように,古くは出産のための仮小屋を村はずれや山中,海辺などに臨時に建てて,産がすめば燃やすかこわすかするものであった。明治半ばころまでは,村共同の産小屋を設け,産婦が産の忌の間(21〜75日)ここにこもる風が,志摩半島,敦賀半島,若狭湾沿岸,瀬戸内海沿岸,伊豆諸島などに見られ,敦賀半島では1964年ころまで使われていたものもある。自宅で出産する場合には,ニワ(土間)やゲヤ(下屋)を産屋とした。忌の観念がうすれていくとともに,母屋の中の比較的隔離されたナンドなどの寝室で出産をするようになり,この風は1955年ころまで全国の農山漁村で行われた。神事の忌の厳重な所ほど産小屋が使われ,神事で頭屋(とうや)などの神役につく家では出産があれば役を辞退したり,産婦を家から他へ移し,祭りの際は産婦を神社から離れた所に移した。また,自宅の炉辺で出産したり盛んに火を焚いて出産する所もある。         大藤 ゆき
 産屋を通常の住居とは別に設ける習慣は世界の各地に見られる。この習俗は居住空間が狭い場合には妊産婦と新生児の安静や生活の便宜のためだと考えられなくはないが,むしろ,出産というものが日常的な現象とは著しく異なる特別のできごととみなされ,それが日常的な現象と混じり合わないための処置であると考える方が妥当である。また,出産は女性のみに起こる現象であるため,男性と女性を区別する傾向の強い社会では,出産を男性,特に夫が立ち入る空間から離れた所で行わせる場合が多い。産屋が設けられる社会では月経や出産が不浄視されることが多く,男性が産屋に近づくことは危険であると考えられる。同時に,共同体のメンバーにとっては神聖かつ重要な場所でもあるため,よそ者がそれに近づくことは重大なタブーとなる。     波平 恵美子

「大原神社」 「お産の民俗学」 「神話のような島」 「産小屋を訪ねて」

ケガレを極端に嫌うほど我々は清潔で衛生的であっただろうか。多くの人が密集する都市なら病気の防止のために当然に設けるべき下水施設すらなかったではないか。まったくの無策、日本の町は決して都市と呼べるようなものではない。ほんの少し前までは川屋と言って川の上に簡単な小屋を建てて、そこで用を足していた。今でも便所をカワヤと呼ぶのはそのためである。現在はそんな事はしないのだが、下水料金を上げ、上水道料金を上げるとこの時代に戻ることになりかねまい。ゴミは有料化、せっかくの公立病院も民営化、別に××市の事を言うのではないが、これらは都市文明に逆行することである。何も新しい改革と呼べるような立派なものではない。それとは逆の文明の衰退、文化の衰退、都市の、自治の衰退衰亡を象徴するような出来事である。時代が進ほど不便になりますネ、反対やのにネ、これが市民の声である。町の自治の基本に立ち返ってしっかり安全防災衛生対策をすすめられるよう強く望むものである。
雪かき(除雪)一つまともにはできへん、遅いし、ヘタクソ、後手後手で見ててもはがいい、危機管理能力ゼロ、危機意識なんかナンもあらへん、電話したろか、投書したろか、府も市ももっともっとかかなアカン。こんな声も巷に満ちた。雪くらいのことならいい。ほっておいてもいずれ溶けてくれる。公立病院を民営化すれば、市(市当局)にとってはそれは嬉しいばかりであろう。これで長い将来にわたってどれだけの費用と労力が節約・省略できるか、莫大なものだろう。嬉しい嬉しいの歓喜の酒盛で酔い痴れることであろう。しかしである。そんなことで市民としてはいいのかという問題である。市が財政的に困難だからといって市長の乗られる公用車のブレーキを取り外したらどうなるだろう。民営化して運転手の労働時間を無限に伸ばしたらどうなるだろう。未熟なお子ちゃまでも結末はわかろう。問題は目先の財政、儲かる儲からない、だけでは判断できないのである。大事故になれば、かえって百倍も高くつく。整備士が見つからないという、しかしこの病院の労組の話によれば、半分以上は自分が追い出したようなことらしいが、そんなことで整備士が見つからないから、市民の皆さん整備なしで走って下さいというわけにはいかない。医療体制をしっかり作っていくのは社会の責任、国のそして市などの行政の責任である。市民の健康で文化的な生活を保障するのは市町や市議の第一の責務である。行政運営の基本中の基本・イロハのイの字である。しっかり自覚して取り組んでもらいたい。
市民病院があんな事になりましたやろ、それもあって大変ですわ、市民病院は脳の方はよかったんですがね、六つの病院を二人の娘と手分けして探しましてね、ようやく隣町の病院へ入れてもらえることになりました。脳梗塞でまだしゃべることもできないのですが、病院は3ヶ月しか置いてはくれません。出来るだけのことはしました、で終わり、どこかへ移して下さいです。と、これは市民の声。舞鶴にはには四つの公立病院があって、若干の余裕で近隣の市町の住民も受け入れることができた。今後はこの関係は逆転するかも知れない。どこの自治体だって病院経営は大変であるが、廃止民営化などと言わないのはまだ自治の精神、町作り・村作りの精神が失われていないのだろう。福祉国家から戦争国家へ、我が町はその先頭を走っているのか、それとも単に混乱しているだけなのだろうか。
 近くのおっさんが血相変えて茅屋へ飛び込んできた。「ほうけた事をいいだしよってね」と。条例制定の誓願署名をしてくれというのである。彼は障害児を持つ父親である。「痛み」は弱い所へしわ寄せされる。弱い社会層がますます苦しめられ、強い層は痛みの共有から逃れる。そうした不公平にならないように、本来は議会が機能するはずなのだが、私は強き者の味方・市民には背をの舞鶴市議会などは信用もしてないので、成果はないだろうと思いながらも引き受けたようなことであった。舞鶴市民病院(舞鶴市溝尻)
こうした市の一方的な進め方には医療の専門家・舞鶴医師会からも強い危惧が表明されている。われわれ市民の健康に日夜たずさわる専門家の話もまったく聞かずに勝手にやってもらっては責任がもてないという当然のものであった。
 一般市民からは市民病院廃止に反対か賛成かを住民投票しょうという条例を定めようという誓願があった。最近採決が行われ23対6で否決されたのであった。新聞各紙によれば、住民投票は議会制民主主義の否定などと反対したそうである。頭がオーバーヒートしているのかそれとも腐っているのか、市民の声を聞かずに何が民主主義か。舞鶴市議会の民主主義とはそんなものなのか。市議はすでにいろいろ話し合っている、病院経営は専門的な話なので、総合的な判断のできない市民の声は聞かなくともよい。子供が笑いそうな話である。市議は何か特別の専門家なのだろうか。市議のなかに医師がいるか、地域医療の専門家はいるか、誰も一人もいないではないか。何の専門家のつもりでいっているのか。市議は決して専門家ではない。何も特別の訓練や知識が必須な地位ではない。選出母体の主権を付託されただけの代表者である。付託されたといっても市民病院問題では何も付託はされていない。一般市民とはそんなには変わらない程度の御仁ばかりてある。市民の声は聞かず、さりとて専門家の声は聞かず、自分勝手に専門家のつもりでこんな大事を決定できるのか。主権の被付託者としての責任は果たせるのか。市会議員になったら市民よりも上の賢い偉い人にでもなったと勘違いしているようである。市民の声を聞かなければ憲法の改正はできない。市長も市議も選べない。まもなく刑事裁判もできなくなる。そんな判断力と主権を持つものである。すべての大本であり、これに真摯に向き合えないようではその政治生命は終わる。
 メディアがこれには怒った。こんなに怒るメディアを見たのは私は初めてであった。「強い怒り感じる」の大活字が踊った。こん大事に市民の不安に何ら答えられない市と市議会、とうとうメディアからも見放されたように思われる。「コイツら何を考えとるんじゃ」のメディアの声が聞こえてきそうな紙面である。まもなく世論からも完全に見放されるだろう。以上は元伊勢とは何も関係はありません。近隣の市民から舞鶴の市長さんってどんな人なんですか、と問われる。舞鶴だけの問題でもなさそうなので。少し書いてしまいました。
 市議といっても個人的にはいい人で信頼できる人ばかり、私の知っている人は全部そうだが、などと話すと、イヤ、それは談合したんだぜ、と返ってきた。そうなんだろう。丸め込まれてしまったんだろう、何か暗に取引したかも知れない。大金持ちには愛と忠誠を!。貧乏人には憎悪を!というわけらしい。市民の命にかかわることで談合したり、取引したり、偉い立派な話である。人間の一番のクズ以外にはめったにはできないであろう。だいたい中産階級の下層から中層、たまに上層がいるかどうか。これが市議などの社会的階層だろうと思われる。大金持ちは市議なんかするわけがない。己が足元をみればたえず崩れて憎悪の対象層に落ち込んでいく。何でもない市議さんたち、困るのは誰でもない、明日は我が身である。市議が市民を見捨てれば、市民は市議を見捨てる。簡単に計算してみよう。誓願署名は知事選挙と重なるため期間が短かったにもかかわらず、7000名分が集まったという。期間さえあれば20000位は楽にいったのでなかろうかともささやかれている。20000を30で割れば700近くになる。これだけ得票数を減せばどの市議さんもまちがいなく落選するだろう。従ってつぎは落選と覚悟をしておくのもいいだろう。市長さんも20000票も減らして対立候補にいくらかが流れればまず落選である。7000の署名が集まったとき、運命はだいたい決まったようなものだったのある。 6人の市議さんは今後はしっかりと2000以上とも言われる市民の意志をまとめるだけでいい。詰めをしっかりやれば6人が勝つであろう。(リクツ上の話。大勢順応の市民達の多いなかで実際はどうなるであろうか)
 多少は誇りにされてもよかろうが、それが過ぎて慢心して市民の力をみくびるという根拠無しの裸の太様的な選民思想のようなものが市議会にあるし、市民の側は、さすがに、市長サンに反対するなどけしからんの反応はないが、かなりニヒルに構えていて私もそうなのだが、どっちになっても同じだせ、ひどう変わらんぜ。どうでもいいじゃないの。という反応が強いように感じられる。この両方が自治や共同体をめちゃくちゃにしているようである。これを超えないと新しい時代はない。別に市や市議会に同調するわけでもないが、自分から何かしていこうかという積極的な気持ちもないのである。現代の社会病気だと思う。別に人の命なんかどうでもいいじゃないの、どうせ死ぬんだから。私一人でやってみても別に何も変わるわけない。何も骨がない。くらげのように暗い海中を漂うだけである。親がこんなものだから、子の世代はもっとひどい。宿題、そんなものどうでもいいでしょ。言われれば誠にその通りの道理である、我々がそうした生き方を身を以て教えてきたのだ。ちゃんとせんとあかんものも世の中にはあるのだ。という生き方を私たちもしなければなるまい。一歩でも半歩でも踏みだそうではないか。自分が踏み出さずに社会がよくなるハズがないではないか。「ドーセね」とこの頃は自嘲的に発音する市民が多くなったなったように私は感じているのだが、みな同じ気持ちなのかも知れない。
 関係ないことばかりで申し訳もないが、もう一つは行政がファショ化し始めたのではないのかという危惧を何ともぬぐえないのである。
自治体というのは言うまでもなく住民の福祉のために存在するものである。地方自治法にもそう書かれていたと思う(地方自治法第1条の2 1 地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、… )。もっと言えば市民一人ひとりの自由と権利を保障するためである、これが少なくとも建前上は自治体の存在理由であり、その正当性の基本である。住民一人ひとりの福祉の向上のため、というのが、市当局にしろ、市議会にしろあらゆる動きの基本的な目的である。それ意外には緊急措置を除いてはどんな目的もあり得ないのである。
しかし今回の市ならびに大方の市議会議員の動きには、こうした市民一人ひとりの福祉の増進を図るためという正当な基本目的がない。「市の財政難」とか「医師が確保できない」とか、そんなことは何も本来は関係のない話である。財政難なら立て直せ、懸命に医師を探せ、としか言いようがない、それが仕事ではないか。「市」のためとかいう何かわけのわからぬ全体の目的のために、市民一人ひとりの福祉の向上という正当な行政の目的を忘れてもいいと考えたとするなら、これは全体を優先して個の福祉を犠牲にするということであり、やはり全体主義であり、ファシズムと同じであろう。いつの間にかそうした地方自治基本理念上の転換が行われているのではないのか。こうしたファシズムの発想は民主主義とは根幹的に相いれないものである。
 さらには執行権の肥大と議会の省略が気になる。市民病院廃止民営化にしても、外部の民間病院と事後の経営について契約をしたにしても、市が勝手に進めたことであり議会は事後説明だけであったという。議会はどこへ行ったんだ。ヒトラーの授権法でないか。執行権独裁で勝手にやってよろしい、議会は翼賛するだけです。何のために議会はあるのだろうか。そうならないように権力を分散させているのではなかったか。
 市議会は大変に混迷しているのではないか。一方には市政の病院経営に大変な危機が発生し、他方には市民の力のあなどりがたり成長があった。これらを前にして正気を失っているのではないか。どうしていいのかわからない。そしてあってはならない選択をしたかも知れない。そう言われるのは誤解だというのなら、私は納税者であるが、部外者で内部がわからない。納税者・市民にそう誤解されないようにちゃんと説明したらどうか。
市民には生活があるのだ。病人を抱えているのだ。病院は使い捨ての物とはちがうぞ。何をほうけているのか。絶対に納得はできない。市並びに市議会のモラルが深刻に問われる。
私一人で吠えていてもしかたがない。共済病院(舞鶴市浜)の方へ行ってみた。やはり混雑している。立体駐車場の空きを待つ車の列ができている。こんなことは以前はなかった。病人らしいおじいちゃんを連れてレントゲン写真の入ったらしい大きな封筒を持ったおばあちゃんに聞いてみた、80歳くらいでなかったかと思う。西舞鶴のひとだという。市民病院からこちらへ行くように言われて今日はじめてこの病院を訪れたという。「江守さん(市長)はあかん。いらんトコにはいらんモンつくって。市民の病院やのに、こんなことになってしもて。しっかりしてもらわんと。」悲しげに小さな声でそう言うのであった。
誠にその通りと思う。こんなに市民を困らせて、一体どなたが責任を取って下さるのか。莫大な損失も作った。どなたが責任を取られるのか。納得のいく答えを聞きたいものである。しかし市長だけが悪いのではない。べつに市長の味方ではないが、市長一人を責める気持ちはない。沢山のドタヌキどもがここまで悪くしてしまった。市民の税金でメシを食っていながら市民のためには何の役にもたたない。口先だけはありがたいお言葉、涙が出そうになる。しかし実際は市民が何とか病院を維持しようともがいているのを、ヘにもならない理屈をつけて妨害したというだけのものである。ご立派だ、あきれたものだ。そういうマネは私にはできそうにもない。ちいとワル過ぎはしないか。社会正義心のカケラ、良心のハシクレくらいは持っていなかったら人間ではないぞ。23人もの多数の市議は市民によい事をしてくれた人たちとして長くわれが町の歴史に名を残されることだろう、誠におめでとう。
 彼らを世に送り出した我ら、彼らの親である我ら有権者が甘かったようである。有権者・市民の一人一人がしっかりしないといかんと思う。子がこれでは親も笑われる。市民は私よりもすっと詳しい、どうしてそんな事まで知ってるのかとよく思う。私などは別に市政などに興味があるわけでも期待しているわけでもないし仕事で関係があるわけでもない、偉そうに書いているが、別に詳しいわけではない。そうした市民の力を出して貰いたいと願う。私の力ではどうにもならない。
 私の興味のある郷土史や歴史にしてもそうであるが、私が興味を失った政治や行政、自治といったものも、よくその目的や理想を見失う、というのか見失ったものがほとんどすべてである。誰のための何の目的のものか、誰に金を貰っているのかということを絶えず問いながら、自分も市民の一人であり、国民の一人なのだという意識や態度を見失わないように、絶えずきびしく自己批判を加えながら進むことが大事かと思われる。
一般の一人ひとりの市民と遊離した「専門的な立派な学問的な、くだらぬ一般市民や民間とは違う」行政や歴史学などはない。それは堕落した腐敗した、どこか遠くの関係ないからコントロールされたものであって、何でもないエセのオコチャマのオアソビの役にも立たない無用人のものである。
「住民の目から見た…」などとわざわざ書かねばならぬほどに、歴史学や郷土史の研究もすでに住民からは遊離している、きびしく近隣諸国から批判を受ける通りのものと代わり映えしないものになっている。情けない××市政を他山の石にして進んでいくより方法はない。
まさか私が言っているようなことを過激と思われるようなこともないだろうが、市民はもっと過激で、もっと不信を抱いている。私は根っこでは市政は信頼している方である。どこよりも信頼できると根っこでは信じているところがある。信じているからこうして書きもするのであろう。
この前漁師のオッサンと話す機会があった。オッサンといっても私より10歳ばかり若そうであった。市会議員なんぞは一人でよろしいわいな。あーそうでっかいな。そうてすで府会議員も一人でよろしいで。参議院は廃止、衆議院は各県一人。議員年金なんてものはふざけてますで、ソク廃止、普通の国民年金にはいってもろたらよろしい。ワシらは40年かけてようやくですわな。それももらえるかどうかもわからん。なんで議員だけが特別なんでっか。アホかいな。政党助成でナン億円も税金をやるなんてのもほうけてますで。あれも廃止ですな。みな歳費の二重取り三重取りでんがな。あいつらホンマ国賊ですで。財政が赤字や赤字や言うとるときにテメエらだけうまい汁を吸いやがる。国を悪くしたのはコイツでしゃろで。税金をあげる、まあテメエらの歳費を半分以下にしてから言えと思うな。
裁判所も廃止。ソク死刑にしたらよろしいで。何でワシラの税金で長い裁判の間喰わさなあかんのでっか。無駄遣いですわ。ロクな裁判もようしよやへんですがな。あんなもこのページのトップへんなら裁判所はいりまへんで。


元伊勢外宮(=豊受大神社)
(大江町天田内舟岡)

横道にそれてしまって、関係のない人には申し訳もない。本題にもどろう。
 河守の町から大江山に向けて少し行くと、右手に小高い山が見えてくる。これが舟岡山で、ここに外宮が鎮座する。外宮前の旅館街(猫の子もいない)
一説には磯砂山の豊受大神は、此の地に一時留まり、それから伊勢へ遷ったと伝えられている。『京都府の地名』は、

豊受大神社(とようけだいじんじゃ)(現)大江町字天田内東平

 五十鈴川(宮川)の東岸に鎮座。神社の森は南北の舟形に延びる小山をなし舟岡(ふなおか)山という。外宮ともよばれ元伊勢と称する。祭神豊受姫命。日子番能適適芸尊・天児屋根命・天太玉命を相殿に合祀する。旧村社。
 正面に本殿、左右に脇宮、周りに末社三七社が並び、内宮の皇大神社(内宮ともいう)とほぼ同じ配置である。「丹後旧事記」に別宮と記される多賀神社・月読宮・土之(つちの)神社・風之(かぜの)宮がある。
 鎌倉時代に成立した「神道五部書」以来伊勢神道では、雄略天皇二一年倭姫命に天照大神の神教があり、丹波(後)の与佐宮から豊受大神を御饌津神として伊勢の山田原(現三重県伊勢市)に迎えたのが、伊勢外宮の始まりといっている。この与佐(謝)宮を当社とする説があり、近世の地誌「丹後風土記」は豊受大神社(大江町天田内)
 此地を与謝の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受太神宮鎮座初の地にして雄略帝廿一年神託有て翌年勢州山田原ニ連座なし奉ると云。
 或曰此神社は式に云丹後国丹波郡比治摩奈為神社なるへしとそ。八十末社其外小宮あり内宮より境内せましされと神さひたるありさまかはらす。
と記し、旧語集には次のようにみえる。
 豊受宮ハ国常立尊也、左瓊々杵尊右天児屋根命、雄略略天皇ノ御宇建立、養老五年九月初奉宮幣、人王三十三代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国
 「和漢三才図会」は与謝宮を「与謝郡川守」にあるとし、天田内村が江戸時代に河守組二三ヵ村に含まれていたこと、また村内の常光寺鐘銘にこの地を与謝郡としていること、外宮祠宮河田氏所蔵の万治・元禄以降の神道裁許状にもみな与謝郡とあることなどから、近世までこの地が与謝郡と称されていたといわれる。しかし郷村帳には一貫して加佐郡とされている。
 「加佐郡誌」所載の当社の由緒は、雄略天皇二二年、天皇が神誨を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく当地舟岡山に鎮座したのに始まるとする。一方「宮津府志」は「当社与内宮是麿子親王之所勧請、神社啓蒙等書以当社為与佐宮者非也説」とし、用明天皇第三皇子麻呂子親王が鬼賊退治の報賽として建立したという。豊受大神社(外宮)(大江町天田内)
 明暦二年(一六五六)四月、同九月の年紀をもつ棟札によると、宮津藩主京極高国が将軍徳川綱吉の病平癒を祈りその報賽として神楽所・御供所・斎蔵を造立しており、以後六一年に一度の式年ごとに社殿を造営してきたという。文化年間(一八〇四−一八)の覚書牒(天田内林田家文書)によれば、材木引初めから社殿完成まで三年余りを要し、正遷宮の時には「群集夥しく福知山から宮津まで宿つまりてなし」とあり、この地方一帯で崇敬されていたことがうかがわれる。
 四石六斗四升二合の社領があった(天和元年宮津領村高帳)。

本殿をぐるっと取り囲んでいる末社を書き上げておくと、向かって左手から、御幸・天田・蜂須・若宮・榊森・和幣・御劒・大若・鏡作・知恵・月宮・龜原・種木・瀧之・東羅・金刀毘羅・蓬戸・神南・鹿嶋・繁昌・風宮・横河・青榊・保浪・平岡・礒之・甲之・小篠・白鬚・?・南之・榊原・姫若・椿本・祓戸・日吉・酒造・保養・岩崎。本殿の向かって左手に多賀之宮、右手に土之宮がある。

古くは河守太神宮と呼んだようである。『地名辞書』は、

河守太神宮  河守上村大字天田内に在り、此神戸其太神宮の广+寺たる由は、古書に明徴なしと雖、神社啓蒙に「与謝宮、在丹後国川森、所祭之神一座、今祠内宮者、近代之俗也」と論ずるに参考して古の外宮の广+寺たるを想ふ、宮津府志に河守の内外宮は、与謝宮に非ずと述ぺしは善し、然れども麿子王当国征伐の時、勧請とあるは信疑知れず、天田内の北に内宮神社あり、大字をも内宮と云ふ。筑紫紀行云、元伊勢の社とて、峻しき坂道を南へ下り行きければ、天の岩戸、拝殿、杉の荒木を以て造れり、鳥集をすぎて川の辺に至てよりは、道とみゆるものなし、ただ岩の鼻に取つきて、三十間計り下り行けば小宮あり、此あたり谷川の中に岩多く、急瀬の水くだけたばしりて、いと清潔に漲流るゝに、両岸には緑の陰蓊蔚として、誠に神さびたる所がらなり、内宮に至り拝し奉る、かやぶきの御有様、伊勢に同じ、此所を出て三丁許ゆけば、内宮町人家五六十軒、町中に宮川あり、町の出口に五十鈴川あり、天田内村人家六七十軒、即外宮の鳥集前なり、石段百四段を北の方に登れば、外宮の御本社、豊受大神宮草ぶきにて、南向に立せ給ふ。
補【大神宮】加佐郡○宮津府志、天橋記曰、今の河守の内外宮は古へ麿子親王当国の凶賊を征伐の時勧請ある処なり、内宮外宮の間に公庄・金谷と云ふ在名あり、是親王の家臣の残りて在名となれりとぞ、麿子親王は用明帝第二の皇子にて厩戸王の弟也、神社啓蒙等の書、以当社与謝富者非也。

恐らくコウモリ(川守・河守)の地名はこの神社のあたりから生まれたのでないのかと私は考えている。河川の運搬労働者とかいった説もあるが、それは漢字を見ての話ではないのか。漢字の通りなら歴史研究は何の苦労もないだろう。豊受大神社
籠守か或いは香守と書いて、カグ(銅)を守護する神社だったのではないかと思う。それがいつの間にかコーモリと読まれるようになり、川守と書かれるようになったものと思う。蝙蝠と書いたりする所もあるが、たぶんこれらはすべて鉱山地名と思われる。
舟岡山の頂上にあって、鎮座地は東平という所だそうである。ここには古くはタタラがあったのでなかろうか。
出石町片間は氏神として籠守神社を祀り、例祭は10月15日。丹後一宮も籠守神社ともいう。内宮の末社にもこの名がある。そのほかにも少しこの名を書く神社は見られる。住吉三神を祀っている所が多いようである。浦島太郎さんと関係してくる感じがする。
「川守山五十河寺」(コウモリの名と金属が関係ありそうに思われる例。その下の香山神社も参照)

『丹後風土記残欠』に、

川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食)

この辺りは土蜘蛛がワンサカといたと風土記は伝える。大江山の頂上に雲原(古くは与謝郡に属した)という集落があるが、この元伊勢外宮のあたりを大雲原と呼んだそうである。これらの雲は蜘蛛かも知れない。
 河守には金屋(かなや)という集落がある。大江高校のあるあたりである。文字通りの鍛冶屋さんの地である。『宮津府志』(宝暦13)は当国土宜名産のなかに河守鏃を書いている。麻呂子親王の家臣に金谷というのがいてここに住んだから金谷(金屋)というとも言われる。聖権現と八幡宮一宮を祀り、青宝山林泉寺(曹洞宗)がある。ずいぶんと古くから金屋さん・土蜘蛛さんがワンサカといたところではなかろうか。
大江高校の下らへんに大昔の青年団仲間が住んでいる。彼は背が高くて顔のホリが深く、長髄彦(ながすねひこ)を思い起こすが足が長い、日本人よりも西洋人の感じの体型である。私はコイツは絶対に土蜘蛛の子孫だと見ているのだが、はてさてどうじゃろうか。
元伊勢外宮・豊受大神社
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