陸耳御笠伝説 |
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![]() 地名説話として描かれる、このままが実話であるとか史実とかいったものではないが、一般には加佐の地の先住民と、その地へ侵入する大和系勢力の戦いが実話を背景に描かれているのであろうかと考えられるが、もっと深い歴史が隠されているかも知れない。ねじ曲げられた断片の幾つかから、歴史の真実は見つけられるだろうか。自信はないがやってみよう。 陸耳御笠(玖賀耳之御笠)は海岸と由良川筋にだけ顔を見せるから、渡来海人系のミミ族と呼ばれる人びとであろうか。 そもそも天皇氏だって、丹後海部氏だって、その始祖にはミミ族が含まれている、陸耳御笠を土蜘と呼ぶなら、そう呼ぶ当人らも土蜘であろう。 御笠は本当は土蜘といったものではなく丹後王国(旦波王国・但馬王国・若狭王国も含まれたかも知れない)の国王一族なのかも知れないし、仏教以前の宗教集団かも知れないし、金属とかかわりある集団かも知れない、御笠とカサがつく名であり、加佐の地とは由縁深い集団であったかも知れない。 征丹後軍最高指揮官の日子坐王の大軍団をもってしても征服することできなかった強力な集団であり、後の麻呂子親王の鬼退治伝説・七仏薬師信仰・源頼光らの大江山の鬼退治伝説へとつながる、退治しきれない集団である。 現在もこの子孫は加佐の地に生きているであろう。記録を追いながら少し探りを入れてみようかと思う。 もっともこれは伝説の地名説話である、古代人のロマンに付き合って私たちも空想の場で遊んでみようかと思う。 ![]() |
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甲岩。 ![]() ![]() 「其の状、人民を賊ふ」ことのない、立派なものなら誰も血を流して戦ったりはしない。たぶん加佐人民を景気・年金・イラク等々で苦しめたのであろう。何時の世も同じようなことらしい。 ![]() 基本的には陸耳御笠は加佐の英雄であり支配者である。残欠は基本的には官僚が手元の資料を寄せ集めて切り貼りしたもので、伝わったものをそのままに書いていると思われる、しかしどこでもそれが出来たわけではない。残欠は陸耳御笠については逆に書いている。ブさんやその目下の追従者コさんのように白を黒と言っている。 しかしそうは書いてはいるが、それを後世に残している。風土記は天皇への自己上申書であるから、いくら過去から伝わったものであったとしても、そのままの好き放題が上申できたわけではない、改変したり、修正したり、潤色したり、しなければならないこともあろう。 残欠の編まれた時代よりも何百年も昔のことではあるが、古老伝曰として、責任逃れの予防線を張ってから当地の伝説として残してくれている。誠に有り難いことである。 陸耳という、ミミあるいはミという名であるが、これは記紀などの編まれた時代よりも古い渡来の海人系の人びと、記紀の英雄たちから見れば先住民、によく着いている名であり、彼らが住んだ場所の地名にもなって現在にまで残っている。地名とは誠に有り難いものである。 青葉山の周辺の地名で探れば、 ここを若狭側から侵入した日子坐軍がまず叩いている。ここで大戦争があった。甲岩が鳴動したのはちょうど地震があったのではなかったかという話もある。 青葉山は陸耳御笠の拠点と伝説は伝える、この山は別名・ また御笠のカサで言えば、二つのピークには共にカサの付く神、即ち笠津彦・笠津姫を祀る六所神社(舞鶴市松尾)と、若狭姫・若狭彦を祀る青葉神社があり、地名では笠原(高浜町)がある。 下の写真は六所神社(舞鶴市松尾)、西国29番札所の真言宗の名刹・松尾寺の境内にある。松尾寺よりもずっと古い歴史ある神社ではあるが、現在は忘れられたように、本堂の右側にひっそりと鎮座している。本堂の前庭あたりは巡礼姿の参詣者でけっこう賑わっていても、すぐ隣のここへは誰一人として姿を見ることはない。 ![]() 残欠の青葉社、「室尾山観音寺神名帳」の従二位加佐比売明神・従二位加佐比古明神であろう。本来は青葉山の西の頂上にあったものである。 『丹後風土記残欠』本文にも記事がある。 青葉山は一山にして東西二峯有り、名神在します、共に青葉神と号つくる。其東に祭る所の神は、若狭彦神、若狭姫神、二座也。其西に祭る所の神は、笠津彦神、笠津姫神、二座也。是れ若狭国と丹後国の分境にて、其笠津彦神笠津姫神は丹後国造海部直等の祖也。ときに二峯同じく松柏多し、秋に至りて色を変えない。(以下一行虫食)若狭にもミの付く地名はたくさんある。国道27号線を走ると、福井県三方郡美浜町の耳川とミばかりの所もある、同じミミ一派であろうが、抵抗しなかったのであろうか。懐柔されてしまったのだろうか。征服されたのだろうか。陸耳御笠の側には内乱か分裂か腐敗か暴政か何かスキがあったのだろうか、そこに巧妙な分断各個撃破作戦が取られたようである。 分断して各個撃破して、傀儡政権を建て、侵略をごまかす。何かイラクにおける××軍のようだが、何時の世も同じ手口、やられる側も同じ手口でやられる。やられないためには、武力ではなく、文化の力にかかっている。ウソを見抜く文化力がその社会にあるかどうかである。人類発祥の地・人間文化発祥の地のイラクであるから、それくらいの力はある。問わけているのは、むしろ侵略する側にそれだけの文化力があるかどうかであろう。 ![]() 若狭富士といわれる京都府と福井県にまたがる青葉山は、かつて活火山として、煙をはいていたが、若狭の島々は陸つづきであり、人も住んでいた。対馬海流に乗って百済の方から来たのか、現地に住んでいた原住民が勢力をはっていた。ある説によると出雲から北へ来た人たちともいう。 ![]() 水ケ浦の沖に浮かぶ馬立島の伝説であるが、もう一つこれは馬立島沈島伝説ではないか、何か冠島の伝説と関係がありそうにも思える。古くは若狭湾全体の沈下伝説があったのかも知れない。上の写真の島が馬立島、背後のかすんでいる山は青葉山である。 大和勢力も日子坐王の「丹後制圧」あたりから、ようやく全国統一国家の卵に成長していける。それ以前は数ある地方勢力の有望株の一に過ぎない。 人道的動機で陸耳御笠の討伐に来たのではない、イラクと同じである、侵略者は普通はまずは自衛のためという、大量破壊兵器が隠されている、自衛のためにイラクへ攻撃をかける。 そもそも大量破壊兵器を一番多く持つ国はアメリカではないか、イラクの近くならイスラエルが大量破壊兵器を隠し持っている国であろう、その数は数百発といわれ西側世界第二位といわれる。どこかの国、あるいはどこかの「テロ集団」が自衛のためにアメリカやイスラエルに攻撃をしかけても文句は言えないわけである。 そんな軍事力のある国は地球上にはないからいいようなもので、アメリカ風の手前勝手な二重基準で攻撃されてはかなわない。 正当性なしとされるこの侵略戦争をまっ最初に支持したのは、いずこの国であっただろうか。この戦争ですでに一万のイラク民衆が殺されたという、ますます正当性は怪しくなる。「どっちがテロかわからんな」とは ![]() すこし分析されて自衛がいえないとなれば、次は人民の保護のためという。1万もの罪無き民を殺す侵略者が、よくこんな事が言えたものとあきれるが、人民から見放されて人民の敵となっている政権はすぐに倒せるが、侵略者がその真のネライ通りにその国の人民大衆を敵にすると、もうどうにもならない。 日本帝国主義も負けたし、アメリカもベトナムで経験した通りである。武力で制圧をしようとすればするほどに相手は強くなっていく。それが今のイラクであろう。武力で何とかなるほど今の世界は甘くはない。しかし、イラクは置いておこう。大和勢力は丹後で鉄と大陸への交易路を手にいれたのだろう。 ![]() ![]() いずれも陸側からは近づけない場所であり、水軍を繰り出した戦いであったであろう。田のつくれるような地ではない、ネライはここの鉄資源と思われる。 ![]() ![]() |
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爾保崎。爾保ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王勅ヲ奉リ土蜘ヲ遂ス時ニ、其採持所ノ裸劒ハ潮水ニ触テ以テ銕精ヲ生ツ。即チにほ鳥忽チ雙ビ飛来テ、其劒ノ為ニ貫キ徹サレ死ス。之ニ依テ銕精ハ消テ故ニ復ル。故其地ヲ爾保ト曰フ也。(以下五行虫食) ![]() ![]() ![]() 日子坐王は舞鶴湾内へ侵入してくる。日子坐王の別働隊であったかも知れない。主力は由良川へ入っただろう。 ![]() この周辺でミの付く地名は、 下安久には 御笠のカサでいえば、私が加佐郡のカサの地はここだという女布の辺りはこの湾の奥である。笠水彦を祀る笠水神社がある。三角崎は海からの玄関口にあたる要衝であった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 左の写真は3号墳、木棺直葬墳、舟底形の木棺の痕跡が残る、男の人が写っているがその人の下側の棺の縁から小さな鉄斧が出土した。舞鶴湾を見下ろす絶景の海を意識した位置である。写真でいえば、山が中央で切れた所が舞鶴湾の入口である。2号墳はこの西側60メートルくらいの尾根上にある。いずれも5世紀頃の10メートルそこそこの円墳である。同じ位置から平安期の経塚も4基発掘されている。この尾根にはもう少し古墳があるともいうが今回は調査されていない。 右側の写真は4号墳で、上の写真でいえば、山を向側へ少し下ったやせ尾根上に築かれている。海は見えないが二尾の集落や邇保崎が見下ろせる位置である。2トンもある天上石やその他の石がここまで運び揚げられている。6世紀末のものという。すでにかなり破壊されていたそうだが、方墳かも知れないと現地では説明していた。下には広い平地はなく、これらは海と関わる古墳であろうかと。 ![]() 平地がないと海と関連と、××市教育委員会はすぐ言うが、そうとは限らない。悪い口癖だと思う。もちろん海もあろうが、邇保という地名から考えてみろよ、と言おう。もっともっともっと豊かな発想を持ってもらいたい。そうでないと大事な過去を見落とすことだろう。成生のあたりにしろ、ここにしろネライが金属資源にあると見てよいと思われる。ブさんがネライもなしに大軍率いて来るわけはない。世に戦争ほどゼニのかかるものはない。大軍を派遣してペイするだけのネウチのあるものがここにあるのだ。 ![]() ![]() (この辺りも軍用地だらけである、実際はどこを取り囲んだ鉄条網なのかは正確にはわからない。このすぐ山下にも下の写真のような石柱が残る。 匂ケ崎も軍用地で、現在は公園になっている所には、「ちっちゃな要塞があって、四角いしっかりしたコンクリが残っていた」という練習砲台があったし、この南側の平地(現在トンネル工事が進んでいる)には舞鶴要塞の火薬庫本庫があった。その海辺には「兵隊桟橋」(右写真。左手の岬が匂ケ崎)と呼ばれる石の桟橋が今も残り魚釣りの名所となっている。由良石と呼ばれるたぶん奈具海岸あたりで切り出された花崗岩で立派にできている。この写真の尾根も調べてみると小さな軍用地となっている。「補助観測所・交通路」となっている所のようである。 ![]() 砲台の話をしていると時たまに、私この前中国へ行ってきました、ひどい事してますね、日本人は…と203高地あたりを見てこられた方があった。 また昔の私の若いときにこの辺りへ徴兵されて来たのですが、うろ覚えなのですが、この辺りに確か砲台があったのですが、心当たりは御座いませんでしょうか…などと尋ねられることがある。 私は戦後生まれでそんな事は知らない。機銃でしたか、それとも本当の砲台ですか、舞鶴にはたくさんあったと聞いていますが、この辺りなら、たぶんあそこではないかと思いますが、などといいかげんな事を教えるのである。舞鶴人は戦争は知りませんでは済まないようである。) ![]() ![]() |
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志託郷、本字荒蕪。 ![]() ![]() 対岸に 陸耳は空中を飛ぶらしい、人民側からの見方であろうか、正義の味方・スーパーマンが描かれる。神と見られていた。人民側からはこのようにも見られている、しかしまた一面では圧政者であったかも知れない、人心が離れるデキの悪い人物でもあったかも知れない、それは単に大和側からのみの手前勝手な見方ではなかろうと思う、そうでなければ日子坐王に負けたりはしなかったかと思われる、古代といえども人心が離れる時が政権の終わる時である。 ![]() シタカ・シッタカ・シリタカといった地名は全国あちこちに僅かに残っている。この前亡くなられた網野善彦氏が小浜市の遠敷あたりにも同じ志高・尻高という小地名があるらしく、これは開墾地の意味だろうと、書かれていたと記憶している。その書は今は本棚のどこにあるかわからないが、この記憶に間違いはない。 ![]() 府内なら、船井郡八木町氷所尻高があるが、どんな所か私は知らない。 当時の地形は今はもう残ってはいないだろうが、志高は由良川の氾濫原、水害の常襲地であり、河原の大石・小石の散乱する、危険でどうにもならない土地もあったことであろう。たぶん自動詞の方で、荒地の事をいうのではないかと私は考えている。その地は僅かずつでも開墾されるだろうから、開墾地でもあろう。またこうして戦場ともなった。 ![]() こんな事は何十年に一度くらい、とっくに呑気者が忘れた頃にやってくる程度の割合だろうが、いわば由良川筋の低いところの避けられない宿命のようなものである。 台風が通過している時に、こんな所は走ってはならない、どうしても走らなければならないのなら、遠くの安全なトイレのある場所にまずは避難していて、安全が確認されてから通行すべきだろうと、これは何度もそんな目に遭ってきたこの川筋の人が実際に実行していることである。 現在の情報などは、「情報化社会」などと叫ばれて、いかにも発達したようにいわれているだけで、実際は役に立つようなレベルではぜんぜんない、ロクでもない下らぬものばかりが多くて、命にかかわる肝心の大切な情報はない。ましてやそんなものは絶対に過信してはならない、自然の猛威は誰にも予想できないことがあるからである。 台風の翌日ハンドルを握っていて、どのラジオ番組もいかに下らぬものか身にしみて感じた。テレビもまた同じであろう。どこか関係のない国の番組であった。クタバレこのろくでなしが!と思わず叫んだものだ。 木立が見えるが、これが175号線の並木道である。志高の一番北側の下境と呼ばれる辺りである。 ![]() ![]() 実は由良川筋は洪水との戦いの歴史であった。現在でもそうであるが、偉そうに宣う支配者どもは何もさしたる洪水対策はとってはくれない、現に洪水になるまで、洪水になることすら知らない、水没した大江町役場などはその典型例であろうか、司令塔を水没させるようなご神経である。過去の経験は三歩歩くと忘れるのである、おごれる人間とはアホな動物である。自分がそんな目に遭っていてもそうである。 小さな家はキリキリと回転しながら流れていった、長屋のような建物はそのままスーと流れて行く、中には屋根に人が乗っている、「助けてくれ、助けてくれ」と叫んでいるが、どうしようもなかった、そうした家の上に鶏が乗っていることもあった、一生懸命に鳴いていたと過去を語る。 これらの被害からの復旧は、被害を受けたその村社会が全部背負わなければならなかった。たいへんな負担である。洪水で流されてきて積もったドロの深さは長靴を越す、流れてきた流木などの山とドロなどを取り除いて、田畑を復旧させなければ、一家飢死ぬより道はない。 重機のある現在でも「もう廃業や、もう復旧でけん、重たいドロ運びで体のあちこちが痛い」という声を聞く。わずかばかりの義捐金を出しただけの身としては、偉そうにいう資格もないが、これがどんな大変なものであったかは少しくらいは想像できる。村社会のきびしい規制も生まれることになる。 私の経験から書いておけば、今回の台風の雨は、それほども強いとは思わなかった、不断の雨とそれほどのちがいは無いと思っていた。あんな被害が出ようとは、あの雨からは予想もしていなかった。雨の量というものは体感的にはわからないものであるようである。ただ川が不断には見られないほどに増水していた、山から大量の水が流れ出て、道路に土砂を流し込んでいた、こんなことから、へえーよく降ったんだなあとくらいに感じていた。たぶん皆そうであったことであろう。雨からは被害が甚大だとは予想できなかったのである。自然とのつきあいを絶ってしまった文明人の盲点であろうか、己が命にかかわるような大変な天候の変化に気が付かないのである。こんに時こそ野獣にもどって、ろくでもない時にもどってないで、ご先祖様から受け継いだ全動物的感覚を総動員して自然が織りなす危機を感知するよう勤めるべきであろう。「そうだそうだオレは動物だったワイ」と頭脳を動物モードを切り替えて対処したい。 川の水はいつもの台風よりも急激に増水したそうである。道路を走っていて、前の車が立ち往生した、自分の車も進めなくなる。えっと思ったらドアの半分くらいの所に水が来ていた。これで車の屋根に登った者は助かったし、体力に自信があって泳いで逃げようとした者は死んだ。軽い車は水に浮く、浮いて車ごと道路から深みへと流されていく。これくらいなら大丈夫と冠水した道路へ車を入れた者は死んだ。 ![]() ![]() ![]() その下は新たに設けられた、洪水の水位を記録したモニュメントのようなもの。国土交通省が作っていた。バスの現場より、上流300メートルくらいの所にある。 青い水位が昭和28年の13号台風の水位、その右側の赤色が今回の23号台風の水位である(はずであるが、これはその逆に書いている。平成15年8月とあるが、10月の間違いか。ここだけでなく51年前の方が水位は高かった。ここだけは逆ということはないと思われるが、ここでは51年前は+7.92m。今回は+8.24mとなっいる。桑飼下も23号が少し高い)。 ![]() 水位も少し怪しいかも知れない。後の白い民家は理容店で、ここではニ階まで水か来た、道路通行中の車の人々がここへ避難してきたのであるが、水位上昇で危険になって皆三階まで避難したという。その話と少し合わないのである。 道路上に取り残された車の人たち30何名ばかりもこの民家へ避難してきたそうである。床が抜けねばと心配したほどの人がここに逃れたという。 そのまま十日ばかりを避難させてもらったいたという人もあったそうである。 ![]() その後またここを通りかかった時にもう一度確認してみたら10月と書き直っていた。青と赤はそのまま。普通には13号台風の方が高かったといわれている。 13号台風の時はまだ大野ダムがありませんでしたから、あんなもん(23号台風の洪水)くらいではありませんでしたデ。と一般には言われる。たとえば鉄道の被害の大きさを較べても、あの家のどこまで水が来たという話を較べても、13号台風の方が水位は高かったと思われる。 ![]() 右の画像は、西側からバス事故の道路を見ている。小さくて見えないが、中央あたりが現場である。現場からは300メートルばかり西によった山の麓にあたる。この辺りの民家は洪水に備えてみなタンボ面より150センチばかりは高い所に石垣を組んで、その上に家を建てている。それが昔からの知恵であるが、それでも今回は床上ギリギリまで水が来たという。避難命令はそこまで水が来てから出たそうである。そこまで水が出ると避難はかえって危険である。指定避難場所の保育園はすでに水に飲み込まれていた。行政などは、頼りない、クソの役にも立たない、惚けたようなものだということをよくよく理解されよ、人の命も守れない、私がそういうのではない、この地の人が言うのである。そんなことはこのあたりに長年住んでいる人はよくよく知っていることだが、たまたま事情を知らないよその人が通りかかった時がヤバイわけである。 ![]() この辺りは洪水の常襲地である。その地でそんなことであった。経験のない未曾有の出来事でしたので、十分な対応が取れずにとか反省を言うのであろうが、過去に何度でも何度でもいやというほどに経験をしたことなのである。経験はしているが、行政にはどうでもいいことだったのでそれが経験として蓄積されなかったということなのである。今回も同じことであろう。50年後にまたも同じことを書くHPが、今度は何百とあることだろう。 道路の遮断機が作られた。トラックの方向へもう2分も走ればバスの水没現場に着く場所である。由良川の信じられないほどの猛威や阪神大震災以降ものすごく増加した高速並のスピードで走り抜ける大型トラックのハイパワーに較べると何とも可愛らしい申し訳のおもちゃのような物に見える。この道は田舎道ではない、あちらでもし何かある時には日本経済を死から救う大動脈であるが、それにふさわしそうなものに見える。 ![]() この遮断機はあちこちに作られているが、これはおかしいのではないかと思われる低い場所にも作られている所がある。この遮断機がまず最初に水に浸かるだろうと思われる場所、たぶん無線指令で遮断棒が降りるのだろうが、下の四角い配電盤がまず水に浸かる、それでも機能するのだろうか。こんな低い最初に水に浸かる場所で道路を遮断されたら、車や人はどこへ避難すればいいのだろう、ここで死ねということかと頭をひねるような所もある。設置場所をもう一度点検されてはいかがか。 ![]() ![]() この辺りカサとも呼ぶ、現在の舞鶴でカサと言えば、この辺りを指す。私はこれはそんな古い地名ではないと考えてはいる、それは先に書いた通りである。 由良川筋がカサだとする論考はあることはある。どうも論拠がはっきりしないので引かない。 カサは瘡であって、天然痘などで出来るカサブタのことである、さらに古くはクサであって、それは恐るべきもの、忌むべきものの総称であったと、柳田は書いている(『国語史』)。 ![]() ![]() |
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川守郷。 ![]() ![]() ![]() 勘注系図の注文には何が書かれているのだろう。『古代海部氏の系図・新版』(金久与市著)に、引かれている部分があった。 日本得魂命何ともわからないが、大和と名が付くのだから、大和系の人なのだろうか。娘の日女命は箸墓の被葬者・夜麻登登母母曾毘売命、また卑弥呼だともいわれる人物であるが、三輪山祭祀と関わりがあると思われる。 結局大和では祀られることがなかった天照と豊受であるが、この陸耳御笠の時代から何か関係がありそうにも思われる。 大和得玉命については舞鶴市朝来の田口神社にところで見てみたい。 ![]() ![]() |
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![]() ![]() アワピ (舞鶴市志楽)大変な話である。この阿良須神社は舞鶴市小倉フル山に鎮座する神社で、一宮さんと呼ばれる、志楽小学校の向かい、国道27号線に面している。青葉山の西麓である。 ![]() 下の写真の右奥が布留山神社、左手が阿良須神社である。 この神社の案内板にも、 由緒『加佐郡誌』によれば、神座府という地名もここから出たと伝わるそうである。加佐郡のカサの発祥地とするという。アサカというのだからまんざらのいいかげんな話でもないと思われる。 なぜアラスと呼ぶのかよくわからないが、同名の加佐郡式内社の阿良須神社は加佐郡大江町有路で、ここではないと思われる。ここも以前は式内社・阿良須神社と書いてあったと記憶するが、現在はもうそれはない。郷社・阿良須神社の石柱だけが建っていた。阿良須とか有路とか有栖とか嵐山とか全部同じ意味を持つようだが、アリラン峠のアリ・アラであり、五千年の歴史ある名だという、太陽・太陽神のことだといわれる。 残欠の大倉木神社は、一説にこの神社の末社・布留山神社だともいわれる。正確には陸耳御笠の伝説はこの社に伝わるようである。「室尾山観音寺神名帳」の正三位神並明神と正三位大倉明神がこれらにあたろうか。阿良須神社は豊受大神と宗像三女神を祀る。大倉木社は大倉岐命という海部氏の祖を祀るのであるが、現在の布留山神社は須佐之男、経津主命、武御雷神を祀っている。 ![]() 『ふるさと岡田中』に、 ![]() 日子座王伝説後日談(下見谷)源蔵という小字がある。入道という小字もある、23号台風で一番大きな被害が出た谷といわれる、「これからどうして生活したらいいのかわかりません」という老人を送って入道下橋のある所まで行ってきたのだが、これは丹生土下橋であろうか、水銀か鉄が出るのだろうか。 黄金埋蔵伝説がある地である。赤岩山登り口の下見谷神社は金山彦を祀る。上見谷はないそうであるが、下見谷はあるいは下丹谷ではなかろうか。赤岩山(669M)は大江山の続の山で、大江山超塩基性岩類から構成されているらしい、鉱物は多かろうと思われる。 ![]() 左写真の中央が赤岩山、下見谷から見ている、先の台風23号のため、田畑だった所が川原になっている。ひどい所がたくさんある、気の毒でカメラも向けられない。 ![]() ![]() かつては伝説は真実の歴史と信じられていたものである。近頃は丹後近辺でも『○○の伝説』として発刊されるものが多くなったように感じているのであるが、伝説が意味を失った地でそれを掘り起こそうとすることの意味というのは何だろう。それはやはり地域の崩壊を食い止めようとすることであろうと思われる。危機感がそうさせているのだと思われる。 社会性の崩壊・人間性の崩壊に直面する社会、手前さえよければいい、強い者が一人勝ちすればいいという風潮のなかで、伝説に再び意味を与えることで、地域社会とそこに生きる人びとに再び意味を取り戻し、確たる存在を与えようとするものだろうと思われる。 どうでもいいような物と感じられるかも知れないが、伝説というものはそんなに意味の無い物ではない。 ![]() 歴史はいろいろある、何も大和の歴史観だけが歴史ではない。『但馬故事記』から見れば、記紀こそ偽書である。学校で教える政府公認の日本歴史が正しいと思っては絶対にならない、皇国史観・神国史観・侵略史観をついさっきまで教えていた所である。パソコンを再起動するようなわけにはいかない、人間の脳味噌は侵略戦争に負けましたから、正しいものに切り替えますという簡単にものではない。十分な反省ができていない連中もたくさんいるのである、というかほとんど全員がそうなのである。もしまともなら何も隣国からあれほどの抗議はこない。 戦前のそうした連中の貼った偽書のレッテルでもある。最も大切な書かれている内容を自分の頭で分析作業もしない初めから、誰が貼ったかも知れぬレッテルを信用してしまうというのは大変に愚かなことである。書物の値打ちはそこに書かれている内容如何で決まる。官撰風土記であるかどうかなどは実はどうでもいいことであり、そんなことで書の値打ちは決まらない。現代に至っても政府発行の書にまともな代物があるかどうか考えてみればわかるだろう。しっかりと読むこと、理解することから始めよう。 そんな事を思いながら、偽書とされる残欠を読んでいこう。 ![]() |
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![]() ミがつく名は天皇系譜だけではない。実に多く見られて、古くはたぶんミミの国であったとも思われる。 ミおよびミミの名のつく人名は神武帝を中心として四代前にさかのぼり、四代後までおよんでいる。これはいったいどうしたわけだろうか。と谷川健一氏は書いている(『青銅の神の足跡』)。 ![]() ![]() 元々この辺りのこんな地名の所に居たのなら、神武はミミ族であろう。このミミ族が大和を征服して建てたのが大和朝廷ということであろうか。負けていたら日向の土蜘・彦火火出見というのが侵略してきたが、撃退したと書かれたであろう。 ![]() 「美々津立磐神社」 「ミミ分布表」 ![]() これがいい見本で、戦前・戦中はたいへんによい教育をしたものであるらしい。そんなよい教育の伝統は今も残っているらしく、国旗を立てろ、国歌を歌えと強制する。そのうちに諡号を全部覚えろとほざくことであろう。おぼっちゃまの言う「美しい国づくり」とは実際はそうした程度の国づくりのことのように思われる。 そんなことは強制するものではない。隣国では決して歌えなく、その国々へ集団売春旅行に出かけるような、ここに書くのも恥ずかしいチョー立派な国ではないか、そのようなものは強制するものではない、そんなに歌いたければ、人に強制してないで己が重慶あたりで大声だして歌えばよかろう。そんなアホな奴らが教育界にのさばらない、まともな誠に誇れる国と思うようになれば、強制なくとも歌うかもわからない。 ![]() |
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![]() (越前) |
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![]() 『天田郡志資料』(昭11年・山口?(加の下に米)之助)のその部分をひけば、 …玖賀耳之御笠は恐らく桑田県(後に郡)の土豪であらう。此人の居つた地については丹後といふ説もあるし、また私も前にはさう考へたが、それは御笠のかさが加佐なる地名を帯びたのであらうといふ仮定から来たに過ぎない。けれどもよく此地名を考へると玖賀は他の例から推すと地名であって、耳は私が原始的のかばねと名づけたもの、つまり彦や公または建と同様に古代豪族の称号である。さうすると氏族制度で延べたやうに此等の称号が地名と重なる時には其地の豪族を意味するのであろうから、此人は玖賀の酋長で名が御笠であつたことが別る。,
玖賀耳之御笠
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このページの索引
青葉山(=馬耳山)(丹後・若狭国境)
阿良須神社・布留山神社(=大倉岐社。舞鶴市小倉)
馬立島伝説(舞鶴市水ケ浦)
玖賀耳御笠(古事記)
川守郷(大江町河守)
志託(舞鶴市志高)
下見谷の伝説
台風23号の被害(H16.10)
投馬国
匹女
松尾寺(西国29番札所)
三角古墳群(舞鶴市下安久三角)
ミミ族(ミ族)
ミミ地名
日本得魂命
六所神社(=青葉社・加佐比古・加佐比売明神。舞鶴市松尾)
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加佐郡の地名
加佐郡の地名・総目次
はじめに
朝代神社と朝禰神社
九社明神と九重神社
水銀地名−女布
水銀地名−邇保・二尾
水銀地名−大浦半島
大浦半島2
朝来・志楽
朝来の古代
志楽つづき
元伊勢宮
元伊勢宮・つづき
有道郷
与保呂の里
祖母谷と高橋郷
鉄の弥加宜神社1
鉄の弥加宜神社2
その他
Column(ひと休み)
丹後の伝説・目次
陸耳御笠の伝説
丹後に残るクシフル地名
七仏薬師信仰
丹後の神社
写真館
資料集・舞鶴市分
本の上等店
陸耳御笠の伝説