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はじめに

加佐郡が消える!


丹後国加佐郡の郡域は現在の京都府舞鶴市と同加佐郡大江町と同宮津市由良であった。大江町だけが加佐郡として残っているが、平成の大合併で、自主的に、大江町が消えると、加佐郡の名も消え去ることになる。明治期に丹後国といったような国名がすべて消え、その後は郡名が次々に消えていく運命のようである。


二一世紀の初頭に消えようとしているのは加佐郡だけではない。丹後の郡名はすべて消えようとしている。「時の流れだし、そんな田舎くさい名は、別に消えてもいいでははないか、それよりも未来だよ未来」のご意見もあろうが、こうした歴史地名の消失は、地域の歴史の消失であり、地名が消える時、同時にその地域が歴史的な意味を失う時であり、地域そのものが歴史から消えることである。
そこに何がしかの歴史が生きていてこそ地域社会であって、歴史なくして、どうして仮にも社会と呼べるような構造物を築けるだろう。過去があってこそ確かな現在と未来が築けるのでなかろうか。地名を失うことは未来への足かがりを失うことである。

 地域という最も身近な社会が崩壊する時、人間すら崩壊しかねない。社会との接触が絶たれ、その一員たる自覚を失えば、自由で楽になれそうだが、それは人間が人間性を失って行く道でもある。その小さな足場・窓口が地域である。

 新しい町づくりの中心事業として、古い忘れられた祭を復活させようと努力する地域をよく見かけるが、これなどは、その端的な表れである。新しいものの創造は、もうとっくの昔に忘れられた古いものの復活から始められる。新しいものとは、未来とはそんなもので、まさに過去から生まれるものである。最近、振り返れば未来などとよくといわれる。新しい町おこしはこんな地道な努力から始まるのであり、大合併などではない。

 地名は過去からの大切な贈り物である、重要な文化財である。過去を忘れる者には現在も未来もない、と断言したい。地名の研究者の一人のつもりの者としても、もうとっくの大昔に忘れられてしまった地名の発掘をしながら、地域というものを考え、今こそ世に問うべきだと思い、このページを立ち上げてみた。

平成16年4月1日、丹後6町が合併し、人口6万4千人の京丹後市が誕生した。与謝郡・加佐郡を除いて、丹後の郡名はすべて消えた。京丹後市
尚、このHPでは、当面は旧名のままで行きます。新市が誕生したからといっても、手元にある資料は何も書き換えられはしない。定着までは、まだかなり時間を要すると思われます。それまでは昔の名前の方が分かりやすいと思います。
京都府加佐郡大江町は平成18年1月1日に福知山市と合併することが決定した。いよいよカサ郡が消える。


何か面倒な議論になってしまったが、しかし特に消そうとして消すのではない、結果的にというか自主的にというか、明確に云ってしまえば、ン百兆円(もう一千兆円)という天文学的数字に登ってしまった膨大な財政赤字と無駄遣いの穴埋めのタシとして地方自治体をリストラし支出を抑えようとのねらいからなのだろうが、とにかく民意ではない理由で、地方人にとっては何も歓迎する事ではないことによって、今まさにカサは私たちの目前で歴史の彼方に消え去ろうとしている。

いかに民意を無視した「自主的」合併であったかは、各地住民の反対運動などによって、合併計画が中途で頓挫しているところに現れている。この合併は民意ではない。
では何の意志によるのであろうか。影の主役は財界ではないのか。さらにバックはアメリカの財界であるが、そんな大金持ちのための合併なのではなかろう。
次があるであろう。都道府県も消されることであろう。自治体全部を消したいのではなかろうか。

古代史上に燦然と輝く丹後にあっては、加佐郡だけは何かパッとしない。何もない。何も出てこない。その手の文献類は加佐郡などは無視する。丹後ではないような扱いである。カサは丹後ですと名乗るのに肩身が狭い。

しかしこのカサの地名は、そんな丹後に羞じない、いかにも丹後の一部ですと密かに主張しているように私には思われる。この地名は途方もない歴史を秘めている。丹波人すべての歴史を秘めていると私は思う。

 実は今さらに文句を言うのも憚られるほどに、カサという地名はずっと以前から忘れられていたのである。少なくとも平安時代には誰もその意味が説明できなくなっていた。

カサなどと言われても何の事だか今ではさっぱりと理解できなくなってしまった、私たちは長い年月の中でその意味を忘れてしまったのだが、地名として現にその地に刻まれていた限り、たぶん何か大切で、かつ明瞭な俗物がなるほどと合点するだけ十分に自然な意味があったのだろう。

できた最初から、意味がない地名とか、意味がわからない地名といったものはない。理由なくしては地名は産まれないのであるが、その意味を思い出す手かがりは今にはほとんど残されてはいないようである。
 何も今に始まったことではない、郡は現在では対応する行政機関もなく風化が進み、単に名を残すのみの象徴的存在となっていた。そしていよいよ私たちの目の前で、カサにも最後のトドメがさされる。

郷土を愛する者の一人としては、やむにやまれず、いよいよ拙いペンを取らざるをえないと思う。意味も解明されないままのカサのためには、一人くらいはそんな者がいてもいいと思う。
 何かずいぶんと前置きの決意が長くなったが、そんな危機感というか焦慮感というのか、そんな意気込みに答えられるほどの力量があるのかどうか、ずいぶんと心配ではあるが、とにかく始めてみたいと思う。


加佐郡の地名:はじめに
カサの歴史


意味もわからない古い地名には驚く歴史が秘められていることが多い。意味がわからないということは、歴史がわからないからである。いまだ解明されていない歴史があるからである。
 カサはどれくらい古い地名なのだろう。『日本書紀』天武五年九月二十一日条、
神官奏曰、爲新嘗卜国郡也。斎忌(斎忌、此云踰既)則尾張国山田郡、次(次、此云須伎也)丹波国訶紗郡、並食卜
の丹波国訶紗郡が文献上の初出(676年)である。

その後の木簡に旦波国加佐評(696年)、丹□国加佐郡(709年)が見える。法隆寺旧蔵の金銅観音菩薩立像の銘文(651年)の「笠評君」もあるいは当郡の豪族かも知れないとされる。笠評なら当地以外には見あたらない。
 こんな事でカサは7世紀中頃には確実に存在していた。カサと呼ばれていた。

 しかしさらにもっと古い地名であるかもわからない。文献ではこれ以上さかのぼれないが、文献にないからといって、その地名もなかったことにはならない。加佐郡にはささやかながらも弥生や古墳の遺跡はあり、その時代すでに存在した地名である可能性が高いと思う。加佐の開発と同時に産まれたもの、弥生の地名と私は考えている。

丹波国加佐郡となっているが、丹後国が成立するのは和銅6年(713)である。奈良時代にはいってすぐの時である。
国に次ぐ地方の行政区画の郡。その郡の前身となるのが評。大化から大宝の時代(645〜701)あたりに評の文字が使われたとされる。そうだとすると天武五年の訶紗郡は元資料には訶紗評と書かれていたであろう。後の修正か。

こほりこほりこほりは古代朝鮮語の大村カフルカフルカフルの事で、古代朝鮮では、日本の後の郡に相当するものに、この漢字・評を使っていたそうである。郡に評をコオリ・コホリと読むのは当時の先進地・朝鮮から入ってきたものあるそうである。

 なお、笠評君の銘文は次のとおり、
『舞鶴市史』(通史編上)に、
法隆寺旧蔵(東京国立博物館蔵)の金銅観音菩薩立像には、白雉二年(651)に笠評君大古臣が逝去したので、遺児の布奈太利古臣とその伯父の建古臣の二人が発願造像した旨の銘文、「辛亥年(白雉二年)七月十日記、笠評君名大古臣、辛丑日崩去辰時故、児在布奈太利古臣、又伯在建古臣二人志願、」(「寧楽遺文」下巻)が同像の台座框にみえるが、…,
これだけで、当地の人物かを判断するのは無理かも知れない。私は当地人だと身びいきで信じている。丹後の、意外にも古代の加佐とはこんな人物を生み出す所でなかったかと思う。

加佐郡の地名:はじめに

カサはどこ

加佐の案内板
今現在カサと呼べば、だいたい由良川筋の旧加佐郡加佐町の範囲を指す行政地名になっている。
舞鶴市役所加佐分室とか加佐公民館(舞鶴市志高)、加佐駐在所(同)とか、JA加佐支店カサブランカ(八田)だとか。そんな風に使われている。しかしかさぶらんかの看板普通の人はカサとは呼ばない、この あたりを一般には「川筋」と呼んでいる。
 旧加佐町(昭和30〜32年)地内ではあるし、それを引き継ぐ意味で現代もカサと呼ぶのであれば、それはそれで確かに正しいだろう。

 しかし旧加佐町は何か特別の根拠があって、カサと名乗ったのではないようである。加佐郡の加佐を単に受け継いだだけのことで、加佐郡の一部であった由良地区が宮津市(与謝郡)に編入されるという、何か危機感のただようなかあわてて成立をみた。町作りの何か高い理想像があってできたとかいうものでもなかったのであろう。ここが本来のカサなのかどうかなどは考える余裕はなかったようである。これでは短命に終わるのも当然だったのかも知れないが、ここのカサはそういった歴史性の薄い、極端にいえば歴史のない、理想なきカサである。上からいうてくるからの行政的においのするカサである。

 理想なき国で理想などという言葉を使うのは恥ずかしくなる。人質事件でのパウエル国務長官の発言を聞くと、かの国はずいぶんと理想主義が強く、それにひきかえ我国には、我国の政治屋さんどもには、それが爪の垢ほどもない。もっともそれはアメリカ的な手前勝手な理想主義あろうが、それでも私はうらやましいと思う。理想無くしては理想像の共有なくしては、地域社会は建設できない。新しい町作りはありえない。合併して人口だけが多くなってもだめである。若い開拓者の国らしい、町作りの基本精神が生きている国であるようだ。これは学ばねばならぬだろう。
理想なき国でこんなことをすれば、バッシングばかりだろうなと思っていたが、悲しいかなやはりその通りであった、国賊よばわりである。しかし私はかの日本青年達の理想を追いかける姿は誇りとしなければならぬと考える。この力が未来作りには欠かせないのである。
ちまたの声 年金も納めないあつらの方が、よっぽど国賊だ(040506採集)
品位が下がるかも知れないような言葉で申し訳ないが、採集できたものを取り上げていきたいと思います。「加佐」(舞鶴市)

どこかでカサ地名が保存されればいいので、何もこれに別に文句をいうのではない。どうか末永く大切に使ってほしいと願うが、ここで私が問題とするのは、はるか古代に最初に発生した本来の場所のカサは本当にここを指していたのかという点である。これをずいぶん疑問に感じていた。

 失礼ながら「加佐」地区とカッコをつけさせてもらうが、その現在の「加佐」地区は郡内唯一の式内大社を有する地区であり、由良川水運を担うまさにその場所である。古来より大切な地区であった事は事実であるが、しかし古代のカサはここを指さないと私には思える。公文名(舞鶴市)

 地名は単独では存在しない。柳田国男だったと思うが、そんな事を書いていた。そうなのである、たいていは地名や神社名のセットで、群としてかなり変形したいくつかの形で、ぼやっとある範囲にひろがってあるようである。
 現代の「加佐」地区にはカサもその関連地名も見あたらない。笠水神社(舞鶴市公文名)


ではどこが本来のカサなのか。
結論から書けば簡単な事で、私は笠水うけみずうけみずうけみず神社(西舞鶴地区の公文名に鎮座。カサミズとは読まず、ウケミズと読む。どうしてもそうは読めないと思う。私はカサミズとかカサノイズミと読むのが本来だと思っている)。この笠水の笠こそが加佐の地だと断じる。笠水神社扁額
笠水神社(舞鶴市公文名)


 この問題は、かつて誰も取り上げたこともないようで、どの文献もこんな事を取り上げたものはない。
本来の位置も考えずに、いきなりカサの意味を理解しようとしたりもしているが、そんに事はできない相談ではないか。
 その地名のある地域と名付けられた時代を考慮に入れるという当然のことをしないと、とんでもない説が生まれてしまうことになる。

加佐郡の地名:はじめに

カサの意味をどう理解してきたか

カサの地名は現在にまでも残っているのだが、その地名の歴史と意味は忘れられてしまった。では、カサの郡名を先人達はどう理解したであろうか。二三紹介してみたい。
 『丹後風土記』残欠はウケのこと。豊宇気とようけとようけとようけ大神のウケである。この女神が田造たつくりたつくりたつくり郷の笶原やはら・やぶやはら・やぶやはら・やぶ山に鎮座あったのでウケ郡といった。そのウケを笠と書いたのだが、事情を知らない者が笠の漢字はカサと読むので、いつの間にかカサとなったとする。
 『丹後旧語集』は豊受大神の神座(カミクラと読むのでなく、カミザと読むのか。カミザ→カサ)のこととする。
 『加佐郡誌』この二つを紹介した上で、異説二として、「本郡は、雨量多く、殊に時雨など甚だよく来る故、雨を防ぐ具の大切な処といふ意で、笠と名付けたといふ。」も書き加えている。

 先人達もカサ地名が理解できないで、ずいぶんと苦労している様子である。いずれもかなり無理なこじつけ説であろう。
先人もわかっていないということ、ただ丹後の豊受大神との関連、『風土記』残欠の田造郷(田辺郷)が、その中心地の笶原山(現在は愛宕山と呼ばれる)の山麓付近がカサの本地だとするのは深く記憶しておきたい。

田造郷は先の『丹後風土記』残欠や国宝の海部氏の「勘注系図」、『和名抄』刊本に見える。高山寺本は田邊たなべたなべたなべ郷とする。
田造郷と田邊郷、同じ所を指しているのだが、どちらが本当なのか、前後関係があるのか、わからないが、中世以降、現在も田邊城とか呼んでいる。
残欠の記事に従えば、田邊史とか氏族名には関係なくて、田というのは豊受大神の神饌用の田、その田を造った所、あるいはその田の邊という意味になる。正確な郷域はわからないが、だいたい西舞鶴地区の西半分を占める地域であり、近世に城が築かれていた点からみても加佐郡のセンターに当たる地域である。
東舞鶴地区の高橋郷(刊本)と椋橋郷(高山寺本)のように、同じ郷なのに同じ『和名抄』に異なる名が書かれている。どちらかが誤写などとは簡単にはいえない。両方の呼び方があったと思っておくより仕方がない。


現代人は単純で、「真実は一つ」などと思い込むが、そういったことはない。中学校数学問題にすら複数の解があるものもある、0÷0のように正解がありすぎる問題もあれば、1÷0のように正解が一つもないものもある。正解の数は問題によるのであって、解きもしない最初から、答えは一つ、従ってどちらかが正しく、他方は誤りなどと簡単に思い込んではなるまい。

「丹後の伝説」の 「加佐郡役所」
加佐郡の地名:はじめに

加佐郡の歴史の概要

 加佐郡は舞鶴市と大江町(現福知山市)と由良地区(現宮津市)をだいたいの範囲としているが、合併なとですべて市域に含まれ 現在は加佐郡を冠する自治体はない。丹後国5郡の1つで、最も東部にある。京都府最大の河川・由良川の下流から河口部、若狭湾支湾舞鶴湾がある地になる。古くは丹波国に属したが、和銅6年4月丹波国から丹後国を分置してより丹後国となった。

現在は加佐郡と書くが、古くは、『日本書紀』の天武天皇5年(676)9月条に訶紗郡とみえるのが早く、次いで藤原宮出土木簡に「丙申年七月旦波国柯佐評口□ 」とみえるのが早い、「丙申年」は持続天皇10(696)年をさすと考えられる。さらに同宮出土木簡に「丹□国加佐郡白薬里大贄久己利魚月+昔一斗五升和銅二年四月」(709)とみえる。
「東寺百合文書」寿永3(1185)年4月平辰清寄進状案には伽佐郡、『延喜式』神名帳・藤原宮跡出土木簡・『和名抄』などには加佐郡と書かれている。

地名の意味については一般に不明とされる。カサという地名や氏族名は全国的にはほかにもあるが、西隣の與謝郡から分かれたの説もあるが、意味もそこと同じような意味をもつ渡来語と思われ。
なお京都白川家に伝来したと称する「丹後風土記」残欠は、カサ地名の由来について、
 
伽佐郡(かさのこほり)
伽佐郡は旧くは、笠郡の字を用いて,、宇気乃己保利(うけのこほり)と読んでいた。宇気(うけ)と称する所以は往昔、豊宇気大神(とようけのおおかみ)が、田造郷笶原山に留まり座して、人民等は其恩頼を受けた、故に宇気(うけ)と曰う。笠は一に伽佐(かさ)と読む。今世に,あやまりて伽佐乃己保利(かさのこほり)と曰う。

カサではなく、本当はウケで,、その「宇気」とは丹後にゆかり深い豊宇気大神のウケだというのである.、しかし「笠」は「かさ」と訓じるので、のちに誤って「加佐」と記すようになったとする。ホントがどうかはわからない、そうした遺称地名もないが、まるっきりの作り話でもないのかも知れない。しかしそのウケにしてもまた渡来語である。
『記紀萬葉の朝鮮語』(金思火+華)に、
「うけ」(宇気)という語は、「食事、食べ物」の意であるが、朝鮮語の「ウケ」は「稲の実、租」の意である。

豊受大神の古い姿とも思われる大宜津(おおげつ)姫命、その神様について、『地名・苗字の起源99の謎』(鈴木武樹)は、
大宜都比売は「オホウケツヒメ」の短縮形で、「オホ」は尊称、「ウケ」は「ウカ」ともいって、朝鮮古代語と倭国語とに共通の「穀物」を意味する単語、「シ」も、同じく朝鮮古代語と倭国語とに共通の「の」を表わす繋辞である。つまり、大宜都比売は、現代日本語に翻訳すれば「大いなる食物の女神」というほどの意味になる。

昔、丹波の保津峡は受田(うけた)峡と呼ばれていて、近くに請田(うけた)神社がある。丹波国立国の開鑿伝説に出てくるところで、今の丹波という地がどうした人々によって開発されていったかがわかる。

神武東征伝説にある、奈良県の莵田県の首長と思われる兄猾(えうかし)弟猾(おとうかし)(兄宇迦斯・弟宇迦斯)のウカシについて、同書は、
【宇賀志】大野晋ほか著『岩波古語辞典』によれば「ウカ」は「ウケ」の古形で『食物』の意味だという。「シ」は「ヒムカシ」「ヒノタタシ(経線)」、「ヒノヨコシ(緯線)」などの「シ」で「場所」を示す言葉か。もしそうだとすれば「ウカ」・「シ」ともに朝鮮古代語系の単語である。
ウダ・ウタというのもウカの転訛かも知れないが、お稲荷さんも宇迦之御魂大神(倉稲魂神)などと言い、たいていどこの社でも末社に加えられて祀られている。意外かも知れないが、この国の立国の秘密が隠されているような朝鮮の地名と神様ばかりの国のようである。

古代の加佐郡

由良川下流域には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多い。丹後でも丹後半島部には古墳時代前期の巨大前方後円墳があるが、加佐郡域で発見されているのは、時代も下り6〜7世紀の円墳が多く、規模は小さい。

『和名抄』の郷名は、高山寺本に志楽〈之良之〉・椋橋・大内・田辺・凡海〈於布之安末〉・志託〈之多加〉・有道〈安里知〉・川守・余戸とし、『和名抄』刊本に椋橋の代わりに高橋、田辺の代わりに田造とし、神戸郷が加わる。風土記残闕は高橋、田造として、三宅郷が加わる。三宅と神戸郷は遺称地がない。
『延喜式』神名帳は加佐郡に大1座・小10座をあげている、阿良須が北有路、奈具が由良にあるが、名神大社大川神社をふくめて小座8社は舞鶴市内にある。
丹後国府は一般には宮津市府中とするが、『和名抄』刊本には丹後国府を加佐郡に在りとし、「上七日、下四日」としている。加佐郡家とも位置は不明である。
平安期以前の創立されたと伝える寺院は、松尾寺・金剛院・多祢寺・円隆寺・観音寺・清園寺・常楽寺などがある。
『日本霊異記』の「嬰児鷲所禽他国得逢父縁」に、皇極天皇時代のこととして鷲にさらわれた娘が丹波国加佐郡で父親と遭遇した話がある。



中世の加佐郡

加佐郡内の古代の郷には12世紀中頃から各々ほぼ郷名を負う荘園が立荘されていったが、有道郷は立荘された様子がみられず、中世にも郷として存続していた。(虫損で郷名不詳が3郷あるが、倉梯・凡海・川守と見られている)。
川守郷には13世紀中ば頃の大江町観音寺文書に河守御庄がみえる。氷上郡に新補地頭として補任された久下氏の一族が、14世紀中頃には河守郷の代官として名をみせて(久下文書)、丹波における同氏の広範な活動がうかがわれる。
倉橋郷における守護代・延永左京亮。彼の倉橋城は竜勝寺裏山か亀岩城。延永氏は永正13〜14年(1516〜17)に、一色氏反主流の一色九郎と若狭武田氏反主流の逸見某と組んで丹後守護一色義清・若狭守護武田元信らの連合軍にあたったが、追いつめられて倉橋城とともに滅んだ。
田辺郷・大内荘には細川讃州・三上江州らの勢力がある。戦国末期になると丹後の水軍の活動は活発となったが、加佐郡はその拠点をなったという。

文化としては、松尾寺阿弥陀如来座像・金剛院の深沙大将立像・執金剛神立像(いずれも国重文)などの快慶の作品が志楽荘に集っている。金剛院の三重塔婆(国重文、室町期)のごとく丹後地方には数の少ない建造物、観音寺(現舞鶴市)・金剛院の鎌倉期梵鐘・絵画には松尾寺の孔雀明王像・同寺法華曼荼羅図(いずれも国重文)、同寺終南山曼荼羅図・伽藍落慶供養図(参詣曼荼羅図)など注目すべきものが多い。文書としては西大寺領志楽荘関係の梅垣西浦文書、同じく志楽荘関係一宮阿良須神社文書・桂林寺文書・堀口家文書・観音寺(現大江町)文書など丹後のうちで最も多く好資料として注目されている。
大江山は、お伽草子「酒呑童子」、謡曲「大江山」などで知られる源頼光鬼退治伝説の舞台とされる。この伝説は丹波国天田郡から丹後国にかけて流布する用明天皇の第三皇子麻呂子親王の鬼城退治伝説と重なって分布する場合が多い。郡内には頼光鬼退治に関する伝承地として、二瀬川(宮川)、南山の鬼ケ城、仏性寺の鬼ケ茶屋などがある。

近世の加佐郡

天正7年(1579)一色義有は細川藤孝・忠興父子、明智光秀らに攻められて降伏した。翌8年に細川氏が丹後を与えられて入国、忠興は宮津城、藤孝は田辺城を築城したという。慶長5年(1600)細川氏は豊前中津に転封、京極高知が丹後全領を与えられて入国、田辺城に任した。同7年検地の京極高知の郷村帳によると加佐郡134ヵ村・3万7.383石であった。
元和8年(1622)高知の死後遺領は長男高広・次男高三・養子高通の宮津藩・田辺藩・峯山藩に3分された。加佐郡134ヵ村のうち121ヵ村、35000石は田辺藩領、残りは宮津藩領。現加佐郡分26ヵ村のうち田辺藩領12ヵ村、宮津藩領31ヵ村、残り1村は両藩の入組となった。

近代の加佐郡

幕末期の郡内の村数は、150ヵ村6ヵ町・3万9,050石余であった。
明治元年(1868)幕府領は新政府直轄地として久美浜県となり、同2年田辺藩が舞鶴藩に、同4年廃藩置県で舞鶴藩が舞鶴県に、宮津藩が宮津県となり、同年11月に3県は豊岡県に編入された。同9年豊岡県が廃されて京都府の管轄となり宮津支庁に属した。同12年郡区町村編制法が実施されて加佐郡役所が舞鶴に置かれた。
明治22年町村制施行によって郡内は舞鶴町・池内村・中筋村・高野村・余内村・与保呂村・倉梯村・志楽村・朝来村・西大浦村・東大浦村・河守下村・河守上村・河西村・河東村・有路上村・有路下村・岡田上村・岡田中村・岡田下村・丸八江村・東雲村・四所村・神崎村・由良村の1町24村となった。
昭和13年(1938)舞鶴市・東舞鶴市が成立して加佐郡より分離。同17年朝来・東大浦・西大浦の3村が東舞鶴市に、同31年由良村が宮津市に、同32年加佐町(同30年岡田上・岡田中・岡田下・八雲・神埼の五村が合併)が舞鶴市に各々編入分離し、加佐郡は大江町一町となったが、平成18年(2006)に同町は福知山市と合併した。



加佐郡の地名:はじめに


参考資料

『日本書紀』天武5年9月21日条
神官奏曰、爲新嘗卜国郡也。斎忌(斎忌、此云踰既)則尾張国山田郡、次(次、此云須伎也)丹波国訶紗郡、並食卜。

神官奏して曰さく、「新嘗の爲に国郡を卜はしむ。斎忌(斎忌、此をば踰既と云ふ。)は尾張国の山田郡、次(次、此をば須伎と云ふ。)は丹後国の訶紗郡、並゙に卜に食へり」とまうす。

『続日本紀』和銅6年4月3日条
丹波国から、加佐、与佐、丹波、竹野、熊野の五郡を割いて、始めて丹後国を設置した。

『地名辞書』
補〔丹後〕○宮津府志、也足軒説曰、旦波国の内加佐・与佐・竹野・熊野の四郡を割き新郡を立て丹波郡と名付く、此五郡を丹後国と云なり、此国分国なるが故に神社の郡違多し、国造以後のことを知らずして撰集なしたる延喜式は大野の神社、多久神社、揆枳神社を竹野郡とし、三重の神社を与佐郡に出せし類なり、是皆丹波郡の神社也、和銅の国造は加佐郡より検地し竹野郡に終る、依て両郡を公庄に定め諾良帝の供領とせしなり、和名抄に国府加佐郡と記す、加佐は神社のかななり、又竹野郡公庄村に元明天皇(天智の女、文武の母)奉崇郡立神社といはひ祭る。
加佐郡。本州の東偏にして、由良川舞鶴湾の二地勢に分る、今面積十万里、二町二十三村に分つ、人口六万。○本郡は和名抄十郷に分つ、天武紀、白鳳五年の条に、丹波国訶紗郡新嘗次の卜に会ふ由見ゆ、即此也、加佐の名は古に聞えず、蓋与謝の分地ならん。

『日鮮同祖論』
次に、丹後国加佐郡のことであるが、丹後国は和銅六年に丹波国の五郡を割いて始めて置かれた国であるから、天武天皇白鳳五年紀には丹波国訶紗郡と見え同国与謝郡も顕宗天皇紀に丹波国余社郡とある。この与謝の地は四年間天照大神の鎮座ましました処で(倭姫世紀)、天椅立は伊射奈芸大神が天に通ふため作り立てたまうものといふ古伝説(丹後国風土記)もあり、此辺は古代史上研究すべき値の多い地方である。天橋立は、嘉祥二年三月興福寺の大法師等の奉賀の長歌にも匏葛天能椅建践歩美、天降利坐志志大八洲と詠み、又釈日本紀にも兼方案之、天浮橋者天橋立是也といっているが、丹後国風土記には(中略)と見えて、二神の故事を語り伝へている。この由緒ある土地に、加佐郡・久志浜・与謝海・阿蘇海など、天孫降臨の筑紫にあると同型の地名を発見することは、偶然の暗合とは考へられない。

『加佐郡誌』
名称の起源。本郡はカサコホリと言ひ、字は加佐郡を用ふるが、古はウケノコホリといひ、字は笠郡と書いたさうである。其の由来は丹後風土記に「ウケといふは、豊受大神(我が蚕桑五穀の神)が田造郷の笶原山に留り居給ふて、此の地方の民其の恩恵を受けたによる」とあるに基づいてゐるものの様であ。其の笠の字を用ひた理由は、作物の成育に必要な雨などを受けたのになぞらへての事であらうかと思はれる。所が笠の字は、物の名としてはカサと訓むが為めに、後には其の起りを知らないで、専らカサと訓み、遂には文字までも全く旧のものを棄てて、伽佐、訶紗等を用ふる様になり、更に中古以後は、又今の字(加佐)を書く習ひとなってしまったのである。抑々此の字を用ゐ初めたのは、何時の頃からであるか全く不明であるが、和名類聚抄等に、此の字を用ゐてあるから見ると、可なり早くから用ひならはれてゐた事が明かである。異説一、丹後旧事記によれば、カサは神座であって、豊受大神の座せし処であるから、斯く名付けたものであるといふ。二、本郡は、雨量多く、殊に時雨など甚だよく来る故、雨を防ぐ具の大切な処といふ意で、笠と名付けたといふ。

加佐郡の地名:はじめに



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