丹後の地名プラス

丹波の

上延(うわのぶ)
京都府綾部市上延町





京都府綾部市上延町

京都府何鹿郡中筋村上延








上延の概要



《上延の概要》

鳥ヶ坪の交差点から南へ府道三俣綾部線(522号)を少し入った所。新しい住宅がたくさんある。
上延町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市延の一部。


《上延の人口・世帯数》 1326・488


《主な社寺など》

新庄遺跡

鳥ヶ坪交差点から府道三俣綾部線(522号)を上延町に入ったところが新庄で、新しくなった府道や宅地整備の調査で発見された。その碑がが道路脇にある。


『丹波綾部の中筋歴史散歩』
新庄遺跡
府道三俣綾部線を鳥ケ坪交差点から約200m入ると、右の緑地帯に遺跡調査碑が建っていて遺跡の概要が記されている。
この新府道沿いの岩鼻、大薮から雑面に至る一帯は、かつて水田が広がる沖積地で、ここに新庄遺跡が広がっている。
平成5年から同6年に綾部市教育委員会が、区画整備の事前調査として発掘調査を実施し、弥生時代末期から古墳時代の集落跡などの遺跡が確認された。その報告書によれば、特に注目されたのは6基の円形周溝墓で直径8~13m、周囲を幅13mほどの溝が円く囲んでいて、方形のものは市内でも見つかっているが円形は府北部で初めてとされ貴重である。その他10棟の円形や方形の竪穴式住居跡、川跡や大溝と考えられる落ち込み、古墳時代の完形に近い壺などが出土した。なお新庄集落がある台地上で、かつて縄文時代と考えられる遺物の石器類が発見されているが遺跡としては未調査である。

『ふるさと中筋』
新庄遺跡 新庄遺跡は、由良川の支流安場川の左岸に位置していて、地形は西方より伸びる丘陵と水田の拡がる沖積低地で形成されている。かってこの地では、丘陵端部において縄文時代の石器(石鏃、剥片など)が発見され、市内では数少ない縄文時代遺跡として知られている。
平成5年度本格的な調査が実施され、新庄遺跡は、弥生時代から古墳時代に変わる時代の変革期に営まれていた遺跡だということが明らかになった。今回の調査で検出された主な遺構には、竪穴式住居跡、溝状遺構、土坑などがあり、また、遺構に伴ってたくさんの土器が出土している。完形に近い壷が多いのが特徴である。
竪穴式住居11棟には、円形のものと方形のものとがあり、円形住居3基が方形住居8基より古いことがわかった。
円形周講墓6基が検出され、墳丘の直径は、1号墳が13mと大きく、他は8m前後であった。これらの、「円形」周溝墓については、今回が京都府北部における初例であり、貴重な成果といえる。詳しくは「新庄遺跡」綾部市教育委員会の調査のまとめを参照されたい。

新庄遺跡発掘調査・現説

今の墓地はたいていが方形だが、これは分譲墓地とかで、方形にしないと区画しにくいとかの理由であろうか。しかし舞鶴あたりでも田舎の方の古い墓地は円形というか、土葬なので、墓地の円周にぐるっと回って順番に埋めていくので、上から見れば円形に近いのでなかろうか。地形に影響されるので円とも方とも呼びにくい自然のままものもけっこうあるが、隣とくっついて区画されている墓地であるわけでもないので、方形とか人工的な形では決してない。たまたま人口の集中地、遺跡の集中する所ばかりを発掘しているので方形が目につくということかも知れない、当時のすべての墓を調査することもできないので、片田舎にポツンとあるような墓などは誰も気もつかず発掘もしないので「ない」というだけ、あってもきわめてまれということかも知れない。方形周溝墓は丹波や丹後や大和など、全国的に主流で、円形周溝墓は播磨や四国徳島、香川あたりなどに多いというが、それでも方形と比べるとわずかだという。当遺跡では6基も円形周溝墓があったという、全国的にもたいへん珍しい遺跡のようである。

陶窯跡

『丹波綾部の中筋歴史散歩』
東光院入口から林道を南に行くと山の神池があり、その奥の亀ヶ尾山地と東光院裏山あたりに数カ所の窯跡があったといわれる。『中筋村誌』は、陶窯跡は少なくとも古墳時代より平安時代初期と思われるとし、同地の池は陶土を取った跡とも考えられ、古代には陶器業を中心とする集落があったと推定している。なお、菅は「陶」、亀ヶ尾の亀は壷の「甕」とも考えられるとしている。

東光院の方の谷ヘ入って、東光院はその谷と直交するの支谷へ入るが、本谷をそのまま進めば窯趾があるという。写真はその分かれ道。まっすぐ行けば窯趾があるという。
「延」という地名もあるいはこの陶窯の登窯のノボリと関係するものかも知れない。。


山添神社

向かって右が山添神社。左は蛭子神社。
『丹波志』
山添大明神   延村 南ノ山根ニ 岡村ト二ケノ産神
 祭ル神 本地薬師如来 祭礼 九月廿六日
 二間ニ三間半ノ舞堂 鳥居有 境内凡十五間ニ四十間  宮本ハ岡村ナリ 境内ヲ船山ト云 往古ドロノ海ノ節 船ニ乗リ的レ来ル大将ヲ木祖殿卜号 境内船形ナリ 船ノ宮トモ云 是ヨリ一町斗辰巳田ノ中ニ三ッ塚有

『中筋村誌』
山添神社
祭神 草野比売神
由緒沿革
藩記に、中ノ貝に立、社弐間に参間、拝殿弐間に三間とある。江戸時代は延の氏神としては木祖殿神社になっている。天明二年神社の長床を焼く。

『丹波綾部の中筋歴史散歩』
山添神社
旧府道沿いの菅・宮ノ谷に建つ鳥居をくぐると、右に手水鉢がある。天保14年(1843)坪屋源兵衛の銘があり再建当時の寄進と思われる。境内には綾部市古木名木100選に選ばれた神木の大杉(高さ約15m)がそびえ立つ。社は更に10数段の石段を上がると2つの社があり、向かって右正面が山添神社で本殿に草野此売神(カヤノヒメノカミ)が祭神として祀られている。
創立年代は不詳だが、「元禄9年(1696)大破建替、その後天保11年(1840)社殿大破建替」と『神社明細帳』にある。また、本殿は棟札によれば天保12年の再建で、大工は延の桑原兵右衛門・直右衛門父子である。
本殿右手に、境内社である天満宮、天照皇大神宮、若宮宮の三社が覆い屋に祀られている。本殿前の石灯寵は寛政11年(1799)7月吉祥日と銘記され、並んで狛犬があり大正12年(1923)新庄吉右衛門他の銘が刻まれている。
神事は、元旦祭から春夏秋の大祭並びに神渡式を年中行事とし、自治会の総代会が執行している。特に秋祭は、子供御輿が町内を巡行祈願する最大行事で太鼓や奉納旗を持つ小学生親子と自治会役員の一行100人を越える大行列である。

「綾部藩寺社要記」には「添」にソビのルビがある。ヤマソビ神社と読むようである。ソビはゾンビでなく、サビだろう。サビは銹のことだが、元々は鉄のことで、元々は鉄の神社と思われる。本来は山の鉱石を祀る社かも…


蛭子神社
『丹波綾部の中筋歴史散歩』
蛭子神社
山添神社の左に並んで建つのが蛭子神社で、祭神は蛭児神である。古くは旦寺地区の蛭子山に祀られていたが明治3年(1870)山添神社境内に遷座した。春の集札は「菅のえべっさん」として知られ、古くは露店も出て各地から多くの参拝者で賑わったが今では全くその面影はない。
当社に伝わる『蛭児神社縁起』は享保8年(1723)に書かれているが、当時宮関係の専門家に依頼し一般的な蛭子神の由来を神話などから説明・整理したものである。その中で注目されるのは、当社は古くから大嶋村福太(田)神社の摂社だったとしている。 護持は菅地区の氏子が2班編成で行っている。



高野山真言宗菅谷山東光院


二王門に案内板がある。

東光院
東光院は高野山真言宗に所属する古刹で、菅谷山法隆寺東光院と号し、本尊は薬師如来をまつる。
寺伝によると、天武天皇の白鳳二年(六七三)理趣仙人によって開創され、七堂伽藍を備えた寺院であった。寛弘二年(一〇〇五)聖楽上人が中興し、坊舎二十一坊を備えて隆昌したが、応仁の乱につづく延徳の兵乱(位田の乱)の兵火で焼亡し、更に明暦年間にも火災にあって炎上した。
当寺に残されている大般若経は、平安時代から室町時代に書写された大般若経の残巻で約三十巻あり、最古のものは仁平二年(一一五二)奥書があり、又他にも志万庄法隆寺(巻第五〇)と奥書のあるものもあって、当時は法隆寺と呼んでいたことがわかる。
この写経は丹波における平安時代の写経事業を伝える数少ない遺巻であり貴重である。又、経櫃懸子は杉板製漆塗で長方形、底は桟板張りで、内面と底面に漆書、墨書があって、延徳二年(一四九〇)頃の位田の乱に岡町木曾殿神社の焼失の事が記録されている。
指定文化財
市指定文化財 大般若写経 三〇巻
       経櫃懸子   一組
昭和六十三年十二月
綾部の文化財を守る会



鎮守社、薬師堂、本堂

『丹波志』
管谷山宝隆寺東光院  延村菅谷
大同元丙戌年開山聖楽上人也 真言宗高野山安城院末 別ニ薬師堂三間四面 鎮守山王権現社 二王門二王ハ雲ケイ作 院号東光院 右上人近辺十二ケ寺開基 当山往古ハ六坊アリ 七堂伽藍ノ所 塔ノ古跡塔屋敷ト云 此本尊大日如来雲慶ノ作也 天和年中ニ高野山エ入仏 今当寺本尊大日如来ハ高野ヨリ替仏也
古跡字ニ閼伽井宝蔵跡鐘撞堂屋敷向ノ坊上ノ坊 二王門ノ口ニ惣門古跡惣門屋敷ト云 田ノ字ニ火打田心経田ハ古燈明田ナリ

『中筋村誌』
東光院
本尊 大日如来
由緒沿革
菅谷山東光院は宝隆寺とも云い、真言宗に属している。寺伝によれば平城天皇の大同二年(八〇七)の創立で、七堂伽藍完備の大寺院であったと伝えている。安場川をはさんで段寺に東の伽藍が並んでいて、恐らく志方庄(大島、延、岡、安場)一円を知行していた時代があると推定される。
中興開山は綾部の正暦寺と同様聖楽上人で、正暦の年号を寺号に許された程の名僧で、東光院仁王門附近に聖楽谷の名が残っている様にこの地で入寂したと伝えられている。記録によると本尊大日如来は元雲慶の作であったが、延宝天和の頃本山である高野山宝城院の仏像と交換したものとある。又当寺は室町時代以前までは法隆寺と云い、東に流れる安場川を富緒川と呼んで、大和の法隆寺と類似している点があることを発見したのは、大正十五年当寺の薬師堂下より発見された大般若経の研究以来のことである。何れにしても或る時代には百石の知行と六坊及び東の伽藍を有する有力寺院で、現存する仁王像などを見ても往時の隆昌が想像される。
尚寺宝として「仁平二年八月十一日丹波国何鹿郡矢田郷東中村奉書之僧興鑿生年七十一」の奥書あるものや、戦国時代の郷土史料として貴重な記録のある経巻多数がある。

『丹波綾部の中筋歴史散歩』
東光院
菅の集落を南端まで行くと富緒(とみのお)橋があり、右へ入ると川沿いに参詣道が続き山門が見えてくる。この菅谷一帯が高野山真言宗の東光院である。初夏には多くのアジサイが咲きアジサイ寺として知られる。
【由緒沿革】開創は、『丹波志』は大同元年(806)とし、『中筋村誌』は寺伝の大同2年とする。その後、寛弘2年(1005)聖楽上人が中興し、寺の形態が整備されたといわれる。『中筋村誌』は仁王門付近に聖楽谷の名が残り、この地で聖楽上人が入寂したと伝わるといい、また、盛時には東光院付近を西の伽藍と呼び、安場川東の旦寺の台地にも東の伽藍が並び、大島から岡、延、安場まで志万庄に広く勢力を広げていたのではないかと推定している。
平安時代から鎌倉時代に当寺は法隆寺と呼ばれていた。長和元年(1021)三条天皇の大嘗会(天皇即位後初めての新嘗祭)の歌に「天の下富緒川の末なれば いずれの秋かうるはざるべき」とあり、富緒川が何鹿郡の名所として京の都でも知られていたという。
『何鹿郡誌』は所在不明とし、この富緒川は長らく不明であったが、村上佑二の研究で「東光院が古名法隆寺であったことから、大和(奈良県)の有名な法隆寺に、何鹿が大和の斑鳩の里に、法隆寺を建立した聖徳太子が上宮(太子)と呼ばれていたが当地の菅も古くは宮村と呼んでいたなど多くの類似点がみられ、大和の富の小川・富緒川(現富雄川)に対し、ここの菅谷川・上延川・安場川を富緒川として名所とされた」と考えて明らかにした。
『丹波志』は、江戸時代の当寺は菅谷山宝隆寺東光院と呼び、本堂の他薬師堂、鎮守山王権現社、仁王門が建つとしていて、現在の伽藍とほぼ同じである。
本堂の開山堂に大日如来を祀り、薬師堂には秘仏の薬師如来を安置しており、改修された堂で平成25年秋に33年ぶりに開扉された。このお薬師さんは「耳薬師」と呼ばれ耳病に霊験があるといわれる。また、その堂前に鎮座する鎮守堂に祀られた山王社も平成24年に改築された。
江戸時代の明暦年間(1655~58)や宝暦年間(1751~63)には大火で焼失し、その都度再建されてきた。二王門及び左右の金剛力士像は室町時代の造立といわれるが、寛永年閥(1624~44)の大雪や明治29年(1896)の台風で像とともに破損し、いずれも後に修復された。市内でも仁王像を安置した二王門は数少なく、当寺の風格をものがたり貴重である。

東光というのは薬師のことだから、薬師堂の薬師如来が本来の、真言宗(大日如来)改宗以前の本尊と思われ、平安以前にさかのぼる当地の産鉄系豪族の寺院かと思われる。

『中筋村誌』
段寺は東光院記録から見ると「当所壇寺に末寺三ケ寺有之仍而地名を且寺と称する由各寺及廃時年月不詳」とあるように、ここには東光院の東の伽藍が段丘に建ち並んでいたので段寺の名が生れたと伝えられている。又段寺は古来竹細工を家業とする部落で、天慶の昔、平将門が乱を起して破れ朝敵の汚名を受けた一族郎党は天下に身の置き所もない有様であったのを、空也上人が仏弟子として救いの手をさしのべ、全国各地にこ住まわせて茶せんの製造を以て生計を立てさせたと云はれるが、段寺部落はその由来を持つ人々の子孫であると伝えられている。


現在の旦寺↑安場川本流の西側の少し高い台地上で、住宅が建ち並んでいる。空也とか茶筌とか、将門系+念仏踊系なのか、どちらにしてもずいぶんと古い古代から中世にさかのぼる由緒ありすぎる化石のような文化財のような集落かと思われる。資料が散逸いないうちに是非とも詳しく学術調査されることを願う。
平将門の裔とする当寺のある谷の出口東の集落↑、「別所」の名は残っていないが、福知山のあたりの伝説では茨木童子が将門の裔ともしていて、東北から拉致されてきた蝦夷の「別所=俘囚」説がまんざらのウソでもなさそうな気配がする。「天慶の乱」は将門の乱だが、彼らなのか、それとも蝦夷なのか、エビス神社は元は当地にあったという、その彼らは一般には鉄の生産に当てられたとする、あるいは竹とはササで鉄を言っているのかも。。
東光院というワケありげな院号を持つ寺院周辺のこうした歴史は白紙みたいなもので、もどかしい限りだが、まだまだだいぶに研究が残されていそうである。


東光院はあじさい寺↑としても有名で、2500株ばかりが植えられている。風鈴も有名↓




曹洞宗松巌山慈音寺

『丹波志』
松岳山慈音寺 禅宗  右同村 南ノ山根
開山福知山久昌寺十世大和尚也 同寺末 別ニ観音二間四面 郡九番札所 鐘楼堂アリ

『中筋村誌』
慈音寺
本尊 釈迦如来
由緒沿革
松岳山慈音寺は曹洞宗に属しているが、貞享二年に鋳造した梵鐘の銘によって僅かにその由緒を知ることが出来る。即ち昔ここに一禅僧が草庵を結んで修行の場としていたが、その後を継ぐものがなかった。然るに寛永年中僧正栄なるものがここに小庵を建てて病を養い善人庵と名づけたが、明暦年中時の庵主某が久昌寺(福知山)の第四世実岩和尚の徳を慕い、永く末流たらんことを願い、松岳山慈音寺と名づけられるようになったという。
今の本堂は明治三十八年全焼し大正六年再建したものである、尚境内観音堂の本尊千手観音の体内仏は安寿姫の守本尊と伝えられ、観音堂は郡西国の九番の札所となっている。
御詠歌
 もろもろの苦をものがれてつく鐘の
   慈悲の音きくこの寺のかど

『丹波綾部の中筋歴史散歩』
慈音寺
新庄の旧府道沿いに参道があり両側がサツキの生垣に続き、約100段の石段を上った高台に位置している。昭和中期に北参道と駐車場が完成し今では自動車での参拝も容易である。
当寺は、宗派は曹洞宗、山号は松嶽山で、本尊は聖観音菩薩である。
山門を入って右手に鐘楼が建っている。そこには貞享2年(1685)に鋳造された梵鐘が吊るされていて、その鐘楼の銘に次のように当寺の由緒が刻まれている。
「昔ここにある禅僧が草庵を結んで修行していたが後を継ぐ者はいなかった。その後、寛永年間(1624~58)に正栄という僧が善入庵と呼ぶ小庵を建て病を養っていた。明暦年間(1655~58)に庵主が久昌寺第4世実岩和尚の徳を慕ってその末流になるべく願い、松嶽山慈音寺と命名された」すなわち、由緒となる最初の草庵が建った時期は不明であるが、江戸時代前期の明暦年間に福知山市の久昌寺末となり曹洞宗寺院となったことが分る。その後の沿革は不明であるが、明治38年(1905)に全焼し、大正6年(1917)に再建された。平成11年には老巧化した本堂の修理と庫裡の改築を行っている。なお、檀家は地元上延町のほか、大島・岡・延・安場の各町に多い。
境内には、鐘楼の隣に旧中筋小学校から移設された殉国英霊碑が建ち、表題の文字は京都清水寺元貫主大西良慶の揮毫である。その碑に向かって両側、本堂前に大理石造りで高さ3.5mの白衣観音像が、平和を祈念して平成23年に建立された。その後ろに平成22年改築の観音堂がある。
なお、山門脇に小さな瓦茸の稲荷堂があり数本の赤い鳥居が立っている。同社の神事は地元新庄地区の住民が毎年春に行っている。
本尊の聖観音菩薩は綾部西国観音霊場第10番札所で、御詠歌は次のように詠まれている。
 「もろもろの 苦をものがれて つく鐘の
         慈悲の声聞く この寺のかど」


急な参道を登って山門にたどりつく、明六一揆の折に叩かれた鐘はこの鐘なのだろうか。


安場川(=富緒川?)↓

旦寺地区↑安場川は整備されて直線に流れる。意外に水がある。

東光院の参道。二王門と本堂の間にある。「とみのお なかはし」とある。

『何鹿郡誌』
原撰時代不詳なるも、此の時代の著といわれる主基所風土記何鹿郡の名所に吉見の里、富緒川、長宮山、藤浪社、篠杜、若槻等の名あり。
吉見の里 今の吉見村字里ならん。幾見村を里村と呼ぶに至りしは享和の頃なり。
富緒川 所在不明。一説今の犀川の前名と。
長宮山 綾部町字田野より天田郡へ通ずる所に永宮峠あり、即ちこれなるべし。
藤浪社 志賀郷村字西方鎮座村社藤波神社。
篠杜 東八田村字高槻鎮座村社篠神社か。
若槻 不詳なれど、高槻ならんといはる。

三条天皇の前後には名所の和歌に詠まれたるもの多からず。
天の下富緒川の末なれば
  いづれの秋かうるはざるべき。栄華物語に長和大嘗祭の歌として出て

富緒川(現今所在不明)平安時代に成れる栄華物語にも、主基所風土記にも此の川の本郷に在ることを載せたり。大和の斑鳩寺(法隆寺)の傍を流るる川を富の小川といひ、多く和歌によまれて其の名高し。かかる関係によりて、此の時代に富の緒川と名づけられしならんか。

『中筋村誌』
富緒川
三条天皇長和大嘗祭の歌として栄華物語に
  天の下富緒川の末なれば
     何れの秋かうるはざるべき
と載せられ、主基方風土記に何鹿部の名所として挙げられている富緒川は、今の安場川である。即ち安場川は平安時代の昔から郷土の歌どころとして中央にまで知られていたもので、これは恐らく東光院の隆盛と、志万庄の中央貴族との所領関係等によるものであろう。
富緒川は元来大和国法隆寺の近傍を流れる川で、聖徳太子のいかるがの里にある法隆寺と富緒川の関係が、この地にそのままあることは特に注意すべきことで、郡名のいかるが、東光院の寺号法隆寺、その上所在地の菅が昔宮村といったこと、即ち聖徳太子を一名上宮太子とも云うなどから、安場川が富緒川の別名を持つことは思いあたることであり、何かの因縁があるのではないかと思はれる。(富緒川の研究村上佑二参照)
尚仁孝天皇文政元年、大嘗会主基方何鹿部富緒川、松根有納涼之人として
   ゆく水をむすばぬさきに涼しきは
     富緒川の松の下風
       従四位下行待侍従兼文章博士
                 藤原朝臣為定
の歌がある。

今のどの川が富緒川か不明とするしか今のところはなさそう。何鹿にトミという地名があったとすれば、何鹿の郡名や物部氏とともにきわめて重要な場所であろう。
登美能那賀須泥毘古(記)、長髄彦(紀)、登美毘古で、最初の神武東征の際、神武とその兄の五瀬命が白肩の津に停泊した時、戦ってきた人物。五瀬命は登美毘古の痛矢串を負い死ぬ。
『先代旧事記』によれば、物部の祖・饒速日尊は、天神御祖より「端宝十種を授けられ、三十二人の武将と二十五部の軍団其の他を引連れて、天磐船に乗り、河内国河上の哮峯(いかるがのみね)に天降り、更に、大倭国鳥見白庭山(現・奈良県桜井市三輪山付近)に遷り住む。当時、鳥見(三輪山付近の旧地名)の豪族であった長髄彦の妹御炊屋姫を妃として、大和(当時・トミ或いは秀真国)を統治した、という。
大和の三輪山のあたりがトミ、トミという所は大和のあちこちにあるが、大和の元々からの人々の地であり、そこへ物部やあるいは天皇の祖がやってきて、そこの首長の娘を娶り、統治するようになったというのである。
あるいは当地あたりがイカルガや物部の発祥の地なのかも知れない。


遵義館跡
『丹波綾部の中筋歴史散歩』
遵義館跡
安場川西側で、綾部用水路沿いの鳥ケ坪児童公国の片隅に遵義館跡と記した標柱が立っている。明治6年(1873)に旧延村八反36番地に「何鹿郡第3区遵義館」と名付けて開設したもので、中筋小学校発祥地の一つである。
『中筋村誌』は、開設当初の校舎は棟瓦の茅葺きで、北の用水にかかった狭い橋を渡って通学した就学児童数は、開設時に20名未満であった。明治8年には99人(男88女11)と記されている。その頃の就学率は3割前後と少なく、明治5年(1872)の学制発布によるすべて国民が学校教育を受ける理念からは程遠い状態であったことが伺る。
その後、明治35年(1902)に大島町二反田へ新校舎を建築して移転、昭和40年代に至り、中筋地域の人口が急増したため昭和52年には大島町外山田に鉄筋コンクリート造りの校舎を新築移転した。



《交通》



《産業》


《姓氏・人物》
新庄健吾
『ふるさと中筋』
新庄健吾(1897~1941)上延町
 陸軍主計大佐 正五位旭日中綬章
(略歴)
明治30年9月30日 上延、新庄、新庄竹蔵の三男として出生。
府立第三中学校(福中)を経て、陸軍経理学校に進み、首席で卒業。
大正9年9月、第11師団経理部員として、シベリヤ出兵、同11年、陸軍から東京帝国大学経済学部に入学。
昭和6年、陸軍省経理局員、後予算班長。
昭和12年、ヨーロッパ諸国を視察、14年9月、支那派遣軍経理部、15年3月、陸軍主計大佐、16年4月、米国へ出張、8月より大使館付武官、同年12月4日、米国で客死。
「はるかに顧みれば春3月、風雲急を告ぐる米国に出張を命ぜられ、駐在員として緊迫せる状勢の中にあってニューヨーク事務所に勤務し、日本大使館(ワシントン)との間を往復し、就寝は多く夜行列車を利用していたときいている前年迄支那派遣軍総司令部にあって、反対の多い軍需工作を強行して帰国した時は大変やせていたがつづいて米国に派遣された。11月頃風邪にかかり、それが膿胸に進行し、米国ジョージタウン病院で治療をうけたが12月4日、遂に力尽きてたおれた。齢45歳、太く短い一生であった。内地では太平洋戦争勃発の昭和16年12月8日の朝、巷に号外の鈴音がけたたましく急を告げている時、突如として陸軍省より兄新庄清一氏を通じて訃報がもたらされ、驚きのあまりなすべきを知らず。時が時だけに日本の開戦を憎む暴徒の手で不慮の死を遂げたのではないかと案じたものである」(新庄範子未亡人の 「思い出の記」より)
新庄健吉は、陸軍省主計局の総予算班長をした優秀な人で、企画院からアメリカに駐在となり、太平洋戦争前、アメリカの生産力を分析し、日本は対米戦に勝利なしとの結論をまとめた。そして対米交渉でアメリカにきていた岩畔軍事課長にこれを伝え、岩畔も帰国してからこの見地にたって対米不戦を一部に説いたが、まったく無視されたという。
昭和38年10月、靖国神社に合祀された。京都護国神社には戦後間もなく祀られ、その後建立された霊山観音には遺髪がおさめられている。

日米開戦に反対した反戦陸軍武人。
「同郷とはいっても、雲の上の人ですから、会ったことも話したこともない人の伝記を書くといっても、大変で」とか、机の上は広げられた資料が山になっていた、そうして書いておられたが、それは『丹波文庫』93年10月号に納められている。
正気の人もいたのだが、そんな意見が通るようなスバラシイ国ではなかった。この当時も、今や将来はどうだろう。その狂気の結果がどこかの国を生み、今ではその水爆ミサイルが日本に向けられては今はいないようだが、向けられることのないように慎重に、ノーもないもんらに限って好戦的なことカッチョイイことを言いたがるが、間違ってもそうしたことのないよう、大人の慎重な姿勢を保ちたいものである。
「そうとばかり思い込んでいたんです、ところが思い出しましてね。ニイショウというてはりましたわ、近衛さんがね、それで繋がらなかったんです。」
と、興味深い話をしてもらったのだが、それはほとんど忘れてしまった。幸い文庫に残っているのでそれを下に引かせてもらう。

上延の主な歴史記録



『中筋村誌』
沿革
上延は延と共に中世志万庄の一部で江戸時代大島村の枝郷で延村といったが、昭和十八年四月新庄、菅、段寺を以て上延区が分立した。
戸数は天保十一年両延区で九十三軒、明治八年には百十六軒であった。昭和二十五年には上延の戸数は七十一戸となっている。小字名には西谷、細ケ谷、小屋谷、地遊谷、登尾西谷、登尾東谷、弥次郎谷、亀尾、登尾板岩、小枝、大枝、大谷、片平、山ノ神、堂奥、菅、菅口、上雑面、中貝、蛭子、下雑面、苅屋田、沢、新庄、前田、九反、八反、岩鼻がある。
上延は昔は菅が中心であったらしく、少くとも古墳時代より平安時代初期に及ぶと思はれる陶窯趾が、東光院の谷や菅の奥の山の神から亀ケ尾の山地にかけて存在していることからも、古代の集落があったことが推定される。嘗て打越峠から石室を有する古墳が発掘されている。
菅の地名は菅谷山東光院の菅から来たもので、古来宮村といっていたのを江戸時代九鬼領内に宮村が二ケ村あったので菅村と改名した。菅はスエ(陶)から来たものであり、亀ケ尾も甕ケ尾ではないかとの説もある。附近に池があるが、陶土を取った跡とも考えられ古代の陶器業を中心とする村落であったと思はれる。そうして平安初期の創立と伝えられる真言宗の東光院が存在していることが偶然でないことを知ることが出来る。
段寺は東光院記録から見ると「当所壇寺に末寺三ケ寺有之仍而地名を且寺と称する由各寺及廃時年月不詳」とあるように、ここには東光院の東の伽藍が段丘に建ち並んでいたので段寺の名が生れたと伝えられている。又段寺は古来竹細工を家業とする部落で、天慶の昔、平将門が乱を起して破れ朝敵の汚名を受けた一族郎党は天下に身の置き所もない有様であったのを、空也上人が仏弟子として救いの手をさしのべ、全国各地にこ住まわせて茶せんの製造を以て生計を立てさせたと云はれるが、段寺部落はその由来を持つ人々の子孫であると伝えられている。その後空也上人が皇室の尊崇を受けるようになってから、代々皇室の御大葬の儀式に参列することとなり、全国の将門一門の部落から今に至るまで代表が御供する例となっているという。(由緒に関する古文書は何鹿郡誌に載せてある)


『何鹿郡誌』
竹細工
本郡に於とは竹細工を営む戸数卅一、之に従事する男工四十七女工十九を算し、其の製品は主に籠、笊等にして総産額約壹万九百参拾円に及べるが、之が最も盛なるは中筋村字段寺なり。
中筋村字延小字段寺は民家十七軒中十五軒は竹細工を専業とし、(男三四女一八)其産額も年々八千円近くに達し技術亦頗る巧妙にして一時は海外輸出品迄も製造したりしが、其手続及輸出先の事情により目下中止の状態にあり。
而して筆者の探り得し之が起源は大略次の如くにして、一は似て該竹細工の由来を物語り、一は以て之が従業者(檀寺区民)の歴史を證明するものなりと信ずるが故に、敢て此の一節をなさんとはするものなり。
現在檀寺に於ける十八軒の先祖はもと平将門の一族或は其部下として武事に従へるものなるが、将門天威を憚らずして関東に拠り不忠の乱を起すや之に組して朝敵となり、平の貞盛に討伐せられてよりは一門族党広き天下も身を置くに所なき有様にて生き甲斐もなき生活を送りけるを、彼の空也上人に救はれて仏門に入り諸国を修業巡歴せり、而して其の一味は三萬四千人許りありきといふ。
上人は人も知る人皇第六十代醍醐天皇第二の皇子にして一代の大徳なるが、常に鉢を扣き念仏を唱へて市中を巡り、遍く庶人に仏果を得しめん事を力め給ひしに、其の鉢を扣きて歩く所より世人之を鉢上人と云ひ、又常に庶人に接して道を説かん為め市中に出づる所より市上人とも云へり。而して其下に参じて法を修する者即ち将門の残党の如きは之を鉢屋又は鉢と称へたり。
天暦五年の夏、都に疫病流行ける時、上人は勅命を受けて祇園の社に一七日の祈願をこめ、仏の告げ給ひし王服茶の効により流石の疫病を終熄せしめし人にして、爾来此の茶を立てんが為め其部下には茶筌を作らしめられたり。今檀寺の人を鉢と云ひ茶筌といふは皆こゝより起れるものなるが、将門に従へる所より不識して不忠の人となりたるを悔ひて身は仏門に入り廣く世人の済度に盡せるものにして、悔ひての後の其人は決していやしむべきに非ずしで寧ろ感ずべき尊ぶべきの士なり。然るに此の理を弁へずして鉢と云ひ茶筌と称へて之を蔑視し、久しく異様の感を以て接し居たるは洵に遺憾の極みり。今正に筆者の探り得し古文書を写して廣く世人にも此由緒を告げ、檀寺区民には一入の自重と奮励とを望んで已ます。

 写
皇都四条坊門堀川東より入所紫雲出光勝寺生極楽院空也堂者鉢扣念仏宗?本山にして則御本尊空也上人と奉称人皇第六十代の帝醍醐天皇第二?宮にして天慶天禄の?ろ世?聞名念仏を御弘通被為在諸国御修行ありしことは世に知る所なり。む?し人々死して骸を野山?拾日?晒し雨にうたせ?りし?空也上人御覧してあはれに思召し
   をしめとも一度は野辺に捨る身?
      あはれと?なき人のはてかな
と御廻向ありて是を埋て土葬とし墓所三昧?国々所々に営み玉ふ、是を世?空也墓といふて穿ち掘る?とを猿狐??なりといふ。
天暦五年の夏都に疫病流行して空也上人勅命によって祇園?社え一七ケ日御参籠?し?して御祈念ありしに天王告曰く、十一面観音の像を彫刻して車奉乗自市中を引廻り茶を煎じ大士にも奉供諸人にも与へ玉ふて信仰なさしめ玉ふべしとあわし?ば上人直ちに祇園?南林に於で掛鑵子?茶を煎し茶筌でふ物を造り筌にて振立大士にも奉供諸人にも与へ玉ふに、病苦たちまち平癒して萬民喜悦?眉?開く 村上天皇此?を?聞し召空也の茶筌ニ而茶?振立服し玉ふよりして王服茶といふて上一人より下万民に至るまで毎歳元旦に空也の茶筌ニ而茶?たてる事にすれば一年中疫病を除くといふて四方に空也の弟子茶筌?造りもて弘め与へしよりして茶筌々々といふて茶筌なくても茶筌といふ是皆世の化口といのふ??し。
爰前将軍良将の男滝口小治郎相馬の将門奉傾 朝廷?其一味純友乃徒党賊党西国九州四国其類及千萬人皆悉く山野??く?船中にして歳月?送然るに桓武天皇の曾孫常陸の大掾国香?男平貞盛朝敵将門追討の蒙勅命?禁裏代々乃重器唐草の鎧??御剱を賜ふ貞盛?面目争心を励さ??む天下の敵其身?父の仇なれば田原藤太秀郷をかたらい速に誅戮して治国泰平の後空也上人の法徳に頓入して仏門に入有髪俗體にして心を出家発心して御弟子と成未来の事を御尋問ありて敵の?と?も御尋ねありしに上人敵と何?と?僅?浮世の敵を捨てゝ永き未来の敵をうてよと御教化ありし?ば、貞盛泪を押上??御教化ありかたし将門純友の残党諸国山々浦々に朝敵の名をかくし緑林白波と身をやつし妻子其身の命?保ちか?たる者とも助希たく上人え貞盛より歎願あ?は上人も不ひんと思召時?帝に歎秦ありて諸国違勅の武士御貰助命?相成其の上御弟子となりし?は、我も我もと山海の野武士寄集り兜をぬぎ甲の鉢をたゝき上人と同念仏修行てありしよりして鉢たゝき、鉢家、鉢扣、市上人といふ是鉢扣鉢家といふ、初号なり天下普通合類節用には鉢扣は空也上人の末弟?りと板行也
文化三年七月針家茶筌之儀ニ付則本山役人森田達之丞と役者正徳庵空梁江戸表に参向寺社御奉行阿部備中守殿え願出同六年四月五日御同役松平和泉守殿御役宅え被召出左之通被仰渡 諸国ニ在之候鉢家茶筌之類中御調へ有之候處空也堂極楽院由緒之者ニ相違無之候間是迄の振合を以勝手ニ順行可致候軍右之通被仰渡候拳故追々諸国?鉢家茶筌取調之事に候元来鉢家とも心得違之者も間々有之候而本山へ登山も不致其本を失ひ候故其身も難立く下賤之者ニ相成候義皆其身より成業ニ候粟田青蓬院宮尊證親王御真翰?被為染日本第一念仏の行者也と讃し玉ふとは三代将軍家光公様より当山御寄附?御縁起?有之候尤も此巻物わ文わ宮御門跡?奉始公卿殿上人?御方々御筆を染させられて図書は海北友雪仕まつる物にしてすべ而三巻と成て本山?宝蔵にあり。御当代様に至而は神君様の御孫姫君後水尾法王様后宮東福門院様空也上人の法徳を御伝聞被為在御信仰?仍而新影堂御造立被成御堂内ニ?東照大権現様御尊牌等御安置被為在葵御紋附並境内等被下置春秋の無限御廻向無怠転毎歳御順見御改ありし事ハ厳ニして人々のしる處なり鉢家ともこの身上之儀わ大内の御記ニも本山?記録ニも空也上人御在世より今?至る禁裏御所仙洞御所崩御之砌わ必本山より御焼香参向其節諸国の鉢家とも順番当番も有之候而素袍着帯刀ニ而供奉?徒に交り?法事堂の庭上に列座して御法事相済候後御斎被下置義先例ニ而身元慥成ものに候而則天保十二年丑正月八日当番伊勢国尾張近江丹後但馬の五ヶ国よりして登山相勤し事近例なり恐多くも鉢家とも義は八百五十余歳のむ?し朝敵一味の逆縁に仍而上人の御弟子と成一天萬乗の君事御焼香?御会に奉向?と身分に取てよろこはし事ら?や。上人の報恩山海にもたとへかたし朝暮此事を忘却なくむかしの身の成立承り今の身の上を相弁へ御国法を奉恐入其身の業を専一にして無事長久を祈る?し空也上人御弟子となり八百五十余歳連綿と血脈相続し子孫長久鉢家相続する事何?他方ニ向て恥屋からず。上人の御恩徳報しても難報可力可慎空也上人?御詠?
極楽わはるけき程と聞しかと
   つと?で到る處なりけり

本山
 紫雲山光勝寺極楽院
   客也堂   印
右弘化三年午二月役者       西厳庵免之 也
今般往古よも天保度々之例ニよって仁孝天皇様崩御御四十九院御焼香之供奉?召連依之由緒之巻物さし免し候者也
                  空也堂八十二世
 当弘化 三午       紫賜 春翁上人
     二月廿五日焼香
             以上
囚に言ふ。我郡に於ては空也上人の開基にかゝると伝ふるもの六ヶ寺あり。(福性寺、惣持院、宝満寺、興隆寺、岩王寺、覚応寺)されば上人当地方巡錫の砌其部下の一部をして檀寺に留らしめしものならんか。而しで区民中の古老は其の何が故なるやを知らずして自ら平家村と唱へ居たりきといへば彼是相符合して、一層の興味を覚ゆ。尚丹後にては由良、府中等に此の一族あり、此一節又之等の人の為にもがな。(空也党現副住職の曰く三丹に此の茶筌の徒-空也上人御弟子の末流-約一千戸ありと)


 附
 播州須磨寺に蔵する敦盛の青葉の笛の説明に曰く「丹後国安場村の産なり」と。而して今中筋村字安場に小字鳴竹なる地名ありてそこには加藤孫太夫氏の所有にかゝる古き薮あり。前記の竹細工と共に研究の価値あらんも今に只聞くがまゝを記して後日の研究に待つ事とせん。

『丹波文庫15』(93・10)
誠実無比の反戦武人 陸軍主計大佐 新庄健吉伝

 新庄大佐に就いて実弟の芦田完氏の述懐から推察すれば知的、感情的、意志的大佐の側面が充分に語られている。しかし何かが語り残されている。しかもその何かは大佐の識見、経験から生み出されたものである筈だ………。と筆者はその何かに相当呻吟したが、しかし遂に遭遇することができたのである。それは大佐に対し一面識も無い筆者と年令的にも大きな開きがある先覚者との対面無き触れ合いが、筆者自身の忘却の底に永い間蔵いこまれていたものである。その対面なき触れ合いから実に今日まで四十年近い歳月が流れている。
 昭和三十一年(一九五六年)七月、筆者は有名なソビエト連邦の政治犯監獄ウラジーミル刑務所からアムネスティーされ、モスクワ北方のイワノーボオ将官ラーゲリ(収容所)に移されていた。筆者に当てがわれた居室の隣室に偶然にも故近衛文麿首相の長男近衛文隆大尉が居住していた。当時近衛大尉は宿痾の腎臓病による高血圧の症状に在った。この収容所にはすでに高齢の域に近い将官をはじめ高級軍人の多くが収容されていた。これらの人々は日ソ間の外交進捗状況からして近くすべて日本国へ送還されるだろうという見通しの日々をこの収容所で送っていた。四十才、五十才代の比較的健康なものは収容所周辺の清掃等に自発的な形で運動を兼ねた軽い労役で時間つぶしを行なっていた。その中で近衛大尉は医者(ソ連側)のすすめでそうした労役には従わず収容所周辺の林の中を時間を決めて運動のため散歩するのが日課であった。筆者はその時まだ四十五才であったから自発的な清掃作業や収容所構内の野菜畑の世話などで日を送っていた。野菜畑には苺も植えられていて虫を除外したり雑草除去で苺を護るような作業で可成り退屈せず時を過していた。
その苺畑へ近衛大尉は散歩の道すがら立ち寄っては筆者にしばらくの休憩をともにするように求め、臨室に住む隣人として筆者たちは何のこだわりも無く誼を通じ、作業が終わり入浴し食事が終わると近衛大尉は毎夜消燈(十時)近くまで筆者を訪れ多くの質問を放つのであった。近衛大尉は筆者が文字どおりの極貧に成長したこと、そうした場合の具体的な貧乏のあれこれについて根堀り葉掘り聞くのであった。貧とは何であるかを知らずにおとなになっている貴族にとって手近なところにいるこの貧乏の証人の話がいとも珍しいものであったらしい。そのうち筆者の方も交換教授のようにこの貴公子から中々直かには知り得ない貴族たちの日常生活について聞き諮すのであった。話題は発展した。この貴公子の父君が近衛文麿公で、一九三九年(昭和十二年)以来三次にわたって内閣を組織し首相を勤めた人であり、その子息の文隆氏は首相秘書官として非常時内閣中枢の凡ゆる人脈や事件の経過に触れる立場にあった歴史の証人であることに気付き当時民間の知り得なかったっことを聞き出す絶好の機会に恵まれたのである。しかしながら私の日本政治に就いての認識はまことに貧弱なもので、特に政治の中枢に携わる人々の消息や目まぐるしく変化し推移した日本の軍事的政治的話題の数々に就いては記憶が曖昧であり、従ってその複雑な内容を知ることに就いては特に積極的な意欲は無かったので、近衛文隆氏からはそう複雑多岐にわたって詳細を尋ねたことはない。しかし私の聞きたいことに単純ながらそう愚問であったと思わないことが幾つかある。そのうちの一つに今ここにこうして誠実にして気骨一徹の反戦軍人新庄健吉大佐にかかわる事柄を伝記として記述するに当たり、大佐に就いての最も明確な人物像を描き出すのに極めて必要な行動の実証について近衛文隆氏から聞いておりながら、そのとき私にはより詳細に確かめておくべき必要がなかったのでただ一片の記憶として私の脳底に蔵いこんでいたまま四十年の歳月が流れたのである。しかしその一片の記憶が今まことに重要な役割を以て脳底から浮上してきたのである。
 一片の記憶とは次のような近衛氏と筆者の会話である。
 稲垣 『近衛さん。私は一兵卒から四年もかかって軍曹になりましたがどうも軍隊ちゅうとこはどことなく間抜けな人間の集まりやと思えてなりまへん。軍律ゆうもんだけで阿呆が阿呆を束ねておるとこだんなあ、てっとりばよう言うと。』
 近衛 『具体的に言ってください。』
 稲垣 『一兵卒ではまともな理屈を言いましても通用せんゆうことです。どれほど阿呆らしい指図でも命令でもどうやこうや言うて批判がましいこと言うたらびんたですわなあ。その阿呆らしい命令や指図は一番末端だけのこととちがうんでっしゃろ。軍ちゅうとこは一番上からしてそういう気風のとこやったんとちがいますか。第一満州事変から支那事変・大東亜戦争と、戦争ばっかしに明け暮れたこと自体があんまり賢いやり方と思えまへん。早うゆうたら智恵足らずみたいな将軍たちの遊びごっこと同なじとちがいますか。近衛さんは何ゆうたかて総理大臣の秘書官やったんたでそこらへんのことどう見ておいやすのどす。例えばでっせ。このラーゲリに居た山田乙三大将は中風で一足先へ帰らはったんでどんなお方やったのかはっきりは知りまへんけど、あのお方やかて、戦争やめてソ連に降参せえいうてお上から言われたら、あそうどすか、ほんならそうしますわ言うて、関東軍が満州に居ってこそ邦人が安心して頼りにしとったんでっしゃろ。ほれがあんさん一番先へ兵器手渡して丸腰になってさっさと後は野となれ山となれで手挙げはった。後に残った女・子供・老人・病人の日本人がどんな目に逢うたか、わたしは朝鮮平壌に居て、命からがら逃げて来はった避難民を日本へ返すために苦労しました。このいきさつは詳しゅうは言いまへんけど、その人等の引揚促進の先頭に立ってソ連進駐軍と金日成政権とに体当たりの運動を続けましたんや。その運動で仰山日本の避難民を三十八度線越えて南へ逃がしました。その人等は南鮮経由で日本に帰りましたけえど、私は一寸した勇み足で進駐軍法規に触れることやりまして泣く子もだまるゲペウにとっ捕まり裁判なしの判決で二十五年の禁錮刑を言い渡されウラジーミルの政治犯監獄で八年間刑期を過ごしました。これはまあ一寸話の筋道でお話ししましたんで別に今になってどうこう言う訳ではありまへんけーど。ほれにしてもこのラーゲルに来て偉いさん方、将官、佐官の上級職が話してはること、やってはることとを見ておって阿呆らしなりましたわ。こんな将軍さんたちやで負けるのは当たり前やったんやなと思います。近衛さんは政治の中枢にお居はって矢っ張りここらの将軍さんみたいなのが大臣や参謀長や、大本営や何やとやってはったん知っとおいやすのとちがいますか。あんまり変わり無かったんとちがいまっか。』
 近衛 『まあね。大体似たよりのことでした。』
 稲垣 『へーえ。やっぱしね、そうどすか。それにし ても将軍では無い人、下士官ぐらいの人でも私の知った限りの軍人の中でこんな阿呆らしい方々ばつかしやなしに、これはまともな軍人やと思うたお方が三、四人はありました。どうどすか。殆ど軍の偉いさん方たちというのはどの人も大体みーんなこんな方々やったわけどすか。』
 近衛 『いいや、そうでも無かったようです。私の開いた中では一人だけですけど自分の保身を考えずに勇気を出して本質的な戦争の解析を数理の上で証明して徹底して対中国政策を改め徴兵するように、また対英米の和平を主張した軍人があったことを父近衛文麿から開いておりました。父が三次にわたる内閣の首班であった頃です。その軍人は陸軍の主計大佐で、えーと、えーと、その軍人の姓氏を忘れてしまいました。覚えていたのですが、余りその人の真剣な、そうです私は、いや父も、その軍人をこれこそ真実の軍人だ、愛国者だと感銘していました。覚えていたのですがーえーと。そのうちに憶いだします。ああああそうです。その大佐は京都府の出身だと聞きましたが、あなたも京都府の生まれだと言っておられるが、そういう軍人のことを聞いたことはありませんか。』
 稲垣 『前にも申しましたように、水飲み百姓の、貧農の子がそんなおえらいお方はんのこと知りまっかいな。』
 近衛 『このラーゲリに居る将軍の中に牡丹江方面軍司令官であった後宮という大将がおられるが、その将軍も京都の出身だと聞いています。ひょっとしてその大佐のことを御存じかも知れませんね。』
 稲垣 『はあ、そうかも知れまへんなあ。お名前はとに角として近衛さんが真実の軍人やと思われたその大佐のことの経緯を聞かしていただきまへんか。』
 近衛 『いいでしょう。こういうことなのです。』
と次に述べる相当混み入った話を近衛氏は語ってくれた訳であるが、話はラーゲリの消灯時間までには終わらず次の日の夕食後、筆者の居室を早々に訪ねてくれての話となったのだがその冒頭に
 近衛 『昨夜消灯後不意にあの大佐の姓氏を憶い出しましたよ。何でもに・い・し・ょ・う・という人で字で書くと新と往時の、それ児島高徳の児嶋の庄、楠木正茂の千早の庄、その庄とで新庄という人だと憶えています。』
続いて近衛氏の語った新庄大佐の事蹟。(出生、学歴等に就いては本稿冒頭部に掲出を参照)その最終的な職歴は在アメリカ大使館付駐在武官であったが(昭和十六年三月三十日--同十二月四日)日米開戦前夜の十二月四日、それまで在任中の日米開戦阻止のための日夜を間わぬ奔走による過労のため急性肺炎にてワシントン市の病院で他界した。在アメリカ大使館付に任命されるまでの経歴を辿ると、古く大正七年シベリア出兵に出征し、先ず朔北においての苛酷なる戦斗の実相を体験している。続いてソビエト連邦視察の後ソビエト連邦駐在武官(中佐)として世界初の社会主義国の実態、事情の調査を通じ誕生後間もないソビエトの国民が体験した階級戦争(国内戦)の仔細を知る。続いて満州事変突発の前後事情、特に在満日本軍による謀略の実相を知らざるを得なかった陸軍省経理局の予算課長。満州国と中華民国の視察に続くポーランド大使館の駐在武官に併せて独・伊・英・仏等西欧諸国の実態調査。帰国後企画院調査官。支那派遣軍経理部付の後参謀本部付兼大本営陸軍部付・直ちに在アメリカ大使館の駐在武官となる。この経歴を通して戦争なるものと軍の存在価値を徹底的に研究せざるを得なかった。と同時にそれによる結論としての日米相戦うことの意義を突きとめる理知の要求…………それは両国、特にその国民にとって必要なのかどうか、戦争による勝利と敗北、両国民にもたらす利害の実相と真の勝利は必ず勝者にあり得るか、あるとすればその実相。そこまで突きとめるとき到達するのは戦争とは戦う双方のとり返しのつかない悲劇の体験、それだけか、否戦争によって捲き添えを喰う無辜の人々の悲劇をどう見るのか、その倫理上の責任は誰がどのように償うのか……
 新庄大佐は彼の生涯に於てその眼で確かめてきた戦争の本質、それは人間の悲劇以外の何ものでも無いという結論の上に立って、日米相戦わばの想定をするとき、この両国が戦うことは何としても避けさせなければならないと己れの利害に一切かかわらぬ苛酷な肉体的精神的活動に投身せざるを得なかったのである。
 先ず知己でもあり同僚でもある岩畔軍事課長(資料には度々出てくるが何省の所属か不明だが当時新庄大佐と同様の中米大使館付武官であったことは事実)は本国参謀本部、大本営、政府首脳へ来栖、野村両大使の報告を持参して手渡の為帰国する度、新庄大佐自身の調査によるアメリカ経済の実状、通常及び軍事生産力と資源確保の実態、輸送の実力、戦力の源泉である資源と兵力の関連等つぶさに報告し日本に勝利の見通し無しを結論として和平結実のための交渉を専一に続けられたしと建言した。この建言はコピーとして栗栖・野村両大使の外交官としての対米交渉は続けられたが新庄大佐の対アメリカ交渉は両大使の活動範囲の外にあるアメリカ民間団体の首脳、特に宗教関係に対しての絶え間無き和平活動であった。即ちアメリカ民間、国民の意識の中に人間にとり最大の罪業である戦争が日米間の差し迫った問題として巨大な選択を迫られていることは両国のみならず世界の悲劇に発展する脅威として、何としてもこれを避けるべく反戦の感情を拡大するべき活動が必要だ。そのため出先の日本各商社の社員も動員することは勿論、文化関係にも自ら訪れで説得した。日本の末端の国民は戦うことを欲していない。戦争好みは世界各国の軍人の普辺的性格である。今はそれを通常として見逃すときではない、若し日米戦わば世界の悲劇に拡大する可能性が充分にある。私は日本の軍人であるが主計として戦争がどれ程無駄な人間の選択であるかを知り過ぎている。私は本国に対して数理の上から戦争によって人類の蒙る損失、特に生命の喪失の実相を訴え日米開戦の阻止に奔走している。アメリカ国民は最も理性と智性に優れた国民であることを疑わぬ故、共に戦争防止に協力しょうでは無いか………。この訴えは相当大きな反響を呼び大新聞などにも報道するものがあったという。
 新庄大佐は同時に宗教界、特に昭和十五年、前記岩畔大佐が近衛内閣による日米交渉開始の機運をアメリカに於て拡げるためカトリック系の説得に当った経緯を知っていたので、具体的な下交渉のため来日した右カトリック僧のウォルシユ神父とドラウト神父に対しても岩畔大佐同道にて再び活動するため要請した。何となればこの両僧の来日による日米交渉は外相であった松岡洋右によって猛烈な反撃を受け不成功に終っていることを知っていたからである。この両神父も新庄大佐に満全の協力を約して、大佐の運動はアメリカに於ては可成りの成果を拡げたのである。もう一人宗教界で新庄大佐に格別の好意を以て交友した牧師があった。それは意外や宗教と政治、外交の繋がりにかかわることの他に、文学を通じて新庄大佐の友人となったのである。新庄大佐の語学的才能による自作の英文詩にこの牧師は心服したのである。これについては新庄大佐の悲劇的な急死の際大使館での告別式(追悼)で二時間近くにわたって新庄大佐自作の英詩を朗読し感激に落涙しつつ文学を通しての大佐の人柄を讃美したこの牧師の弔辞の内容を列席の高官の中で国連日本大便松平康東氏はその職責に背かぬ語学力とすばらしい記憶力で近衛首相(当時は退任)に語り聞かせたのである。その席に居合わせた首相の長男近衛文隆氏が更に筆者に語り継いだものながら、残念にも松平大使、近衛元首相、近衛文隆氏の記憶以外世上に残っている文書による証拠は日本には何一つ無い。松平大使は日本帰国後カトリック神父の手嶋氏とのインタビューでも具体的にはそれを話していない。そして松平大使も近衛首相も、文隆氏も皆故人となってしまった。今筆者はこの愛国の軍人にして詩人主計大佐新庄健吉氏、しかも偶然にも同郷丹波綾部出身の無名文士でありながら軍国日本に不出世の反戦武人生涯の真髄を文字を以て世に伝える栄誉を保有するものである。
 近衛文隆氏談
 『私も英文学は少したしなみましたけれど会話による英詩の訳読は苦手ですから松平大使が父近衛文麿に対し新庄大佐自作の英文詩を原文でその要点を話されました後日本語に訳文されたので、その日本訳の概要は理解できて今でもざっと覚えています。私の記憶では次のようなものでした。』
 新庄大佐の英作詩は十章一連の長編物語詩であったということである。新庄大佐の詩にはその冒頭に詩についての自分の理念を述べていたという。簡略すると
一、すべてのものには形のある無しにか、わらず生命がある。詩とはその生命を感得して肯定する生命の賛歌である。それは時に激流の如く語られ或はひそかに忍び寄る風の如く歌われる。その意味では詩は祝詞(ほぎうた)とも言える。
二、詩とは言葉を持つものには言葉によって顕示されるが、音によって顕すものもある。風・水・更に音の無き雲にさえ生命の顕示はある。黙示もある。
三、或るとき生命が否定されるときの悲しみ、恐怖の訴えの詩は呪詞(のりと)に変化する。
四、詩は世界(地理の上だけでなく)にもの在るところ何処にも存在する。その意味では世界は詩である。
五、私は軍人として生命の尊さを讃め、或は生命の喪失に哭きつつ己の生涯を流れる詩の命題を『いのち』と名づける……………。
 この詩理念のもとに大佐の詩はその第一章から第十章まで日本の往古から近代までに展開された戦争を敵味方何れもへだてず生命の冒涜と捉えて激しく人間の業を悲しみ責めている。それは万葉の昔の防人とその妻の別離の悲しみに始まり、戦国武将の荒々しい咆哮や雄叫びの後の静寂の中でつぶやかれた望郷の詩、歌舞伎狂言に表現された主君の子の身代りに最愛の吾子を立てねばならなかった武士が入居らぬところで天を仰いで慟哭号泣する武士道の生命軽視の惨たらしさ、赤穂浪士の元録事件に点在する死と生の狭間に泣く男、女、子どもの嘆きを通し忠節という日本特有の生命観のむなしさ、日清戦役で国民の間に、特に学童らによって歌唱された黄海大海戦の水兵の歌、安城川渡河作戦の木口小平ラッパ卒の戦死の軍歌や日露戦争に於ける南山血染めの連隊旗と橘中佐の壮烈な戦死、旅順港攻略に於ける乃木将軍の断腸の詩『山川草木轉荒涼……』『爾霊山の険』等、また詩人真下飛泉作詞の『ここはお国を何百里』に籠められた戦友の死に対する生き残り兵の慟哭……‥等々を大佐独特の流麗な詩表現で描写しつつ更にそれらの戦争に捲き込まれた戦争現地の住民の悲惨な運命とやり場の無い憤り、無力者の戦争に対する嫌悪と憎しみのリアルな表現。
 新庄大佐は十章一連の長編物語詩の中で流麗な詩表現の特長を失わず、戦争実態の惨酷性を極めて巧妙に表現しつつ読むものをして、また聴くものをして戦争を仕組む為政者の功利打算の蔭に泣く無力の人々に対する同情を自然に喚起し、戦争そのものの勝敗よりもその本質の愚妄と犯罪性、非論理性を強調し、日米両国の国家と国民に対し神意に背く人間の増長慢として戦争を鋭く批判したのである。しかも数理を専門とする主計大佐が、極めて実証性のある戦争による環境破壊と資源の喪失を併せて訴える戦争否定の説得がアメリカの報道関係や知識層だけでなく宗教社会にも支持を受けるに至ったのは、この大佐の宗教界に呼びかける戦争防止に呼応し積極的に反戦活動をするに至った某教会の一牧師の切実な訴えがあったからだということである。この牧師は大佐の英作詩に当たっての原文に目を通し、語彙の正しい解釈や適語、適訳の真剣な協力を示したのであった。この牧師が新庄大佐の早逝を最も悲しみ、肉親を失ったもののように嘆き、葬儀に際して日本大使館に対し司祭の執り行ないを要請したのである。牧師の司祭は完壁に高潔な私心なき大佐の人柄を仔細に述懐しつつ流麗な大佐の英作詩の内容に触れ、宗教者としての立場から大佐がキリスト者で無いも不拘、旧約新約とも聖書の内容に精通し、特にイザヤ書に示された戦争否定の第二章第四節の件を暗記し英語で常に暗称していたことを述べ延々二時間近い時間の弔辞を時に落涙しつつ大佐の活動を荒野の石を踏んで神と平和を説いたキリストに例を索き、まことに両国にとっての至宝を失ったと絶唱したということである。この弔辞の最中にそこに列席した栗栖、野村両大佐に宛てた本国政府からの訓電としてハル米国務長官に対し日本による対米宣戦布告を通告せよの命令が到着し、本来なれば直ちにアメリカ側に通達すべきところ、牧師の弔辞があまりにも真に迫りアメリカ側からも多数の列席者があったにも拘わらず誰一人として退席者の無い中を中座退席することができず遂に歴史に有名な宣戦布告の通達の二時間遅滞となったのである。
 松平康東国連大使は近衛元首相にこう私見を述べたそうである。
 松平 『閣下。右に述べた新庄大佐の実践について、特に英作詩の内容は公にしないことを列席していた両大使、岩畔大佐・小生とも黙約したわけであります。何となれば目下のような軍閥による専政下では大佐の思想はどれ程深い哲学的根拠をもった人間観・世界観であったとしてもその世界観は利敵行為につながるものとして、目下では特に右翼皇道信奉筋から国賊の汚名を以て糾断されかねないと判断するからであります。それは過去近衛閣下が常に戦争を避けようとなさったことに対する軍部からの酬いは閣下の御退陣を余儀なくさせられたのと同様になるのであります。それは大佐の御家族に対しても考慮すべきことと存じます。ただ私が閣下に今日何故新庄大佐の事蹟の真相についてお報らせしたかったのかと申しますと、日本のみならず、しかし、ここでは特に日本の軍人としておきましょう。あの人達は総じて短絡な観念論者であることの特例として、一人ぐらいは日米戦争を阻止しょうとした正気の軍人があったことを申しあげたかったのです。新庄大佐の正気はやがて歴史が証明することになることを恐れます………………。』
 近衛文隆氏はこの話の後で筆者に対しこうつけ加えた。
  『この話を聞いたとき父は深くうなずきました。しばらく顔を両掌で覆っていました。涙を見せることが好きでなかった父の癖がわかっていたので私はそっとしておきました。松平大使の危惧は誰にも破られずにおきたいと思います。この危惧は戦争がその結果になった今日でもまだ誰にも話さないでほしいと思います。まだまだ単純な愛国思想はしばらく日本国民の脳底から消えないでしょうから。』
 筆者は新庄勝一氏から健吉大佐の伝記を反戦軍人の伝記として『丹波文庫』の戦争を考える特集号に掲載してほしいと多数の資料を持参してお話に見えた後で大部の資料を反読すること幾度がであったが、大佐が反戦の軍人であったことに就いての具体的な実証が見つからないことに不審を抱き、新庄大佐が誠実にして明析な頭脳の持ち主であったことは大佐の上司の将軍や知己、実弟であられる芦田完氏の『日米開戦に反対した故兄新庄健吉』資料(一)(二)の証言で疑う余地が無いのだが、その反対が日本の敗北によって正気の見通しであったことが厳然として歴史的に証明されているにも不拘、昭和二十年八月十五日終戦後、昭和五十二年五月三日神戸新聞によってスクープされるまで何故秘匿のうちに置かれていたのか。但し昭和四十八年五月十八日、両丹日々新聞の記事に大きく日米開戦の秘話として両国の開戦に反対した大佐の葬儀の模様が実弟の芦田完氏による大佐の伝記と共に掲載されているが、中央の大新聞は何故この真相を大きく採り上げなかったのか。新庄大佐が日米開戦を阻止しょうとして努力し、その専門的調査による資料を以て政府並に大本営、参謀本部に数回にわたって日米戦うとも日本に勝利なしとの正論を建言したがこれを無視して開戦に踏み切った軍閥の正体とその実践的戦略論戦術論の幼稚さによってどれほどの悲劇が日本国民ならず外国の国土ならびに国民の上に災害を与えたかに対する解剖が行なわれる大きな証左となる大事件を何故マスコミは採り上げなかったのか。秘匿しておく必要は何にあったのかに就いて筆者は不審に思って、このままこの資料で『丹波文庫』が記事として採り上げる必要はどこに在るのか、これまで発表された大佐の事蹟は地方新聞や身内の追憶記だけで充分ではないか……と色々思考を巡らすうち、最も大切な大佐の事蹟、その悲壮な死に伴なう葬儀に際し、アメリカ側の牧師の司祭が大佐の開戦阻止行動を評価し、隠された大佐の文学的才能である作詩を以て大佐の人格の高さを賞讃していること、これが大佐の真実の人間価値評価になっていること、それをアメリカの牧師が声涙を以て弔辞の中で述べていること等は単に日本敗戦を科学的に予見した事実だけでは評価にならない筈ではないか。アメリカが勝とうと負けようと、その何れがどちらであろうと戦争という愚妄な行為を厳しく戒めたキリストを奉ずる宗教者としての牧師の信念が反戦という厭戦の消極性を上廻る終局的人間観を以て真実の意味に於ける大佐の人徳への追慕となったのではないか。そう考えるときそれを証明する何かがありそうだが無いのに歯ぎしりしながら寝に就けぬ夜を筆者は幾度か数えた揚句、老齢の脳のどん底に埋もっていたその証左が蘇ったのでる。正に奇縁というか奇蹟というか。
 新庄大佐の伝記を『丹波文庫』に掲載することの依頼をうけたとき、戦争生き残りの老兵士として、反戦を以て余生の唯一の信条とする以上、今この大佐の壮烈な死に報いるためにも、どうしても書くべしと老骨に鞭打った次第である。
 因に筆者が六ケ月を過したソ連イワノーヴオ将軍ラーゲリで近衛大尉のすすめで京都市出身であるという後宮将軍に新庄大佐のことにつき御存じないかと質問したが、この老将軍は『知らんなあ』と仰言っただけであったことを附記しておく。




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『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
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