過去を忘れて、戦争へ行こう

シベリア抑留
 −当館のメーンテーマ−



↑『Журавли』「鶴の群れ」という曲で日本でもよく知られている(下の方にビデオがある)。
空を飛ぶつるの群れの中にあなたはきっといる。 はげしい戦いの日も空に群れて飛ぶ美しいつるの群れ、あなたはそこにいる。
戦争は勝っても負けても悲惨、ソ連は戦勝国だが、この曲などは特にその思いにかられる。「勝利の喜び」などはもうないのである。敗戦国の方がよほどに脳天気でカル〜くメデタイのが気になる、ワレラの頽廃はまことに深刻である、しっかりと当館を見てもらい、残念にもチトメデタイのでさらに当館の外でも学習も深めてもらえたらと願う。メデタイ国はひどい、ぜひ真剣に学んでくれたらと願う。


舞鶴引揚記念館
リニューアルなった舞鶴引揚記念館↑
ユネスコ世界記憶遺産登録もなった

 
 
「引き揚げ」と言っても、敗戦時に海外にいた日本兵や一般市民は660万以上もあり、侵略戦争敗北の結果として現地での生活根拠を失い、彼らはたたき出されたように、悪事がバレて急いで犯行現場から離れるようにして、海外各地から一挙に逃げ帰ってきたもので、諸相実にいろいろであり、途中死亡して帰ってこれなかった者や、いまだに帰ってこれない者も多いが、そのなかでの「シベリア抑留者」の引揚げ(普通には「引揚げ」は一般邦人が現地不穏につき現地での保護がムリと判断し内地へ引揚げるとかを言うのであり、兵隊の場合は復員とよぶ)だけを当館(当市)独自の視点から展示している。
敗戦の結果として、これだけ大量の人間が海外からコジキ同然の姿で一時に帰ってくることは有史以来、「負けるはずがない」の当時の政府のまったく想定外の、過去に経験したことがない大変な困難な引揚の大事業になった。
 
 
シベリアに抑留された元兵士などは約64万人と言われる、舞鶴への引揚者・復員者は66万人で、ナホトカ→舞鶴ルートはシベリアからの復員者のほとんどがたどり、それをほぼ一手で引き受けてきた。
舞鶴は民間引揚者もあったが、全体的にはほぼソ連領からの兵隊の復員であり、引揚記念館というよりは舞鶴のそうした事情からか「シベリア抑留記念館」とした方が展示内容とはよく合致する。
 
本来は戦争の責任者である国か厚生省が建てて「信頼と平和の誓い」とすべきものだが、戦争を引き起こした国はそうした立派なことはしてはいない、戦後の政府与党もまた自分らに都合の悪い過去は忘れさせたいのであろうか、他の戦争被害と同じように「国民が等しく受忍すべき損害」であって別に特にこれと言って分けて特別に考えるようなことはなく謝罪も補償もなかった(恩給には加算されたが、その欠格者へはイヤイヤ10万円の旅行券や、銀杯を配るくらいで幕引きをはかった)。
慰労状と銀杯
←恩給欠格抑留者に送られた銀杯と総理大臣書状(当館展示。受け取るには大変な手続きが必要で、高齢の抑留者たちをウンザリさせたというが、これはまだ書状としてはマシな方であった。次は受取人氏名も総理大臣名も日付もなくなった。こんな無礼な物が受け取れるかと抑留者たちは血相かえて怒ったという。もう票にもならんわいの気持ちがミエミエ)

南方引揚者には捕虜労働の労賃が日本国から支払われているのにシベリア抑留者にはまったく支払いがなかった、ワタシの恩師もシベリア抑留者だが、上の話は聞いたことはなかったのだが、「京滋の会」の皆さんは「別にカネがほしくて言っているのではないですよ、カネなんかイランですよ、不公平な話でないですか、あれはナニだったんですか、ワタシ達だけは好意からのタダ働きだったことになります。南方と同じように平等にやってくれということです」と語っていた。
 
 
ドイツは1000万を超す捕虜があちこちの国に取られていたが、彼らには最高300万円くらいの現金補償、遺族補償もある、就職斡旋なども国家あげて取り組んだという。それにくらべて「シベリア帰りはアカ」だと言って、日本の抑留者は町内会の集会へも入れてもらえず、就職ももちろんできなかった。

「引揚者を温かく迎えました」とか、田舎モンの自己満足なのか無知なのか、偽善者なのか、舞鶴ではそんなことをよく言う。何を基準に言っているのか。メデタイ人がよくやる自分らのタラズは忘れてよかった面だけを誇大に勝手に思い込んでいるだけではないのか。本当はどうか厳しく検討してみよう。
ある引揚者は「故郷へようやく帰れて嬉しかった」、24年9月に舞鶴へ引揚けた舞鶴は「役人どもは、ご苦労様の挨拶もなかった。ずいぶんきたならしいマチだ、中国人街みたいだ」と記している。
クソ役人の態度のせいなのか、マチ全体に悪印象を持たれたようでクソのように言われる、こうした看板があったとは書いているが、「温かく迎えられた」などとは書いてはいない。温ったかいんだから…とした感情をもしや持たれたならば、こうした書き方はなかったと思われる。
当館にはこんなものもあちこちにある→。

特に役人の態度が悪いマチ、今もって改まらずまったくそのとおりで申し訳ない。怒りの対象は主には厚生省などの政府役人でないかと思われるが、地方の役人や市民すらがその態度をすぐにマネして当然と思い込んでいる。たとえ政府がそうであってもワレワレはこうなんだ、というような信念も矜恃もない。同じように特権カサに着て、ワレほどエライモンはオランと思い上がり、さらにその態度を先取りしようかとするようなさもしい限りの者もまた多い。というかほとんどがそんな者ばかりである。
 
引揚者は別に舞鶴へ引揚げてきたのではない、日本へ引揚げてきたので、舞鶴は通過点で別にどうでもいいものかも知れないが、至らずながらも舞鶴としてはそれなりには受入には苦労もしたのだから、お世辞でよいから礼の一言くらいは言っておくべきかと思われる。
舞鶴人としては「舞鶴市民は、調子のよい時に限り一時的には温かく迎えたのですが、すぐ飽きたというのかデマに乗せられたか、みなさんの事情もわからず気持ちも理解できず、われらが戦争を始めたためにこの悲劇が発生したの自己批判もなくエエカゲンになりました、全体で見るなら国もほとんどの国民もミンナ冷淡でした、今も冷淡です。特に役人の態度が悪く感情を害されたこと、まことに深くお詫び申しあげます」とかにするべきであろうか。
 
民間引揚げなどはすっかり忘れている点から見ても、いかにもやりましたで、苦労しましたでを大きく言うと看板倒れかも知れないぞ。引揚者といってもいろいろであって、舞鶴人が事前に想定していた以上に、シベリア復員者は困難で複雑な歴史を経てきていて、ノンキ者が思うほどにはそれほどには単純メデタイ性格ではもうなかったのである。彼らの異常とも見られた行動は、オマエらが思い込んでいるようなメデタイモンとは違うぞ、オマエらほどのメデタイモンとは違うぞ、の地獄を見てきた者の脳天気が過ぎる者へのデモンストレーションだったのかも知れない。
 
そんなことで彼らも過去を語らず前歴を隠してしまい抑留の実態が伝わらなかったのであった。勝手に思い込んでいるだけで聞く耳持たぬ者ばかりのスンバラシイ国ではカレラもアホくさいのか収容所体験などは戦後長く語らずにいた。よい聞く耳あってのよき語部であった。
南京虐殺、それはウソだ、自分は見てもいないクセに言ったりして聞き耳もたないと、彼らは真実を語らなくなる。本当に温かく迎えられたかどうかはこのあたりからも推測はできる。
 
←昭和24年6月、舞鶴市長が市民に向け、引揚者を迎えるにあたって、これまでと変わらぬ気持ちでお迎えするようお願いした「引揚者を迎えるに際して」と題した回覧文(当館展示)という。ガラスを隔てて遠くに展示されていて細かく書かれている内容は読めない。
(その後展示替えされたようで、読めるようになっている)
回覧
引揚者を迎えるに際して
 全国民待望のソ連地区在外同胞を愈々六月二十七日当舞鶴湊へ入港する第一船高砂丸を初めとして次々に迎へる事が出来る様になりましたことは実に本市としても十万市民にとっても限りなき喜びであります。
敗戦後厳冬のシベリアで四星霜「倒れちやならない祖国の土に辿りつくまでその日まで」と悲痛な想を胸に祖国を案じ懐しの父母妻子兄弟を想つて凡ゆる苦難に堪へて帰つて来られる同胞を心から温く迎えませう。永い間杖とも柱とも頼む父を兄を子の一日も早く帰国することを一日千秋の想で待ちこがれて居る引揚者の御家族のことを考へるとじつとして居られぬ気持になすます。
市と致しましても財政窮乏の際ではありますが市民各位の御協力を得て出来る歓迎準備を整へました。然と乍ら同胞を温く迎へる事は御茶の接待や駅頭の挨拶や慰安演芸、打上花火、大歓迎板や歓迎塔だけではありません。市民一人一人の同胞愛の温い心が引揚者に通じなければなりません。
それには市民の一人一人が引揚船を迎へられた時、引揚者が五条桟橋から駅へ行進する時、トラツクで通過する時、引揚列車が通過する時に会はれました際は海上であつても、道路であつても或は田畑で耕作をして居られる時でも手を振り、ハンカチを振り、帽子を振つて頂く事が一番同胞を喜ばせることでありますから御互に実行致したいと思ひます。
殊に引揚は第一船のみで終るものでありませんから第一船は華々しく迎へたが後になる程寂しくなる様では意義がありませんので終始変らぬ気持で御迎へ致しませう。今まで引揚について何かと多大の援助をしい頂きました市民各位に感謝の意を表しますと共に本年最後の引揚歓迎について更に御協力を御願ひ致します。
 昭和二十四年六月二十三日
     舞鶴市長  柳田 秀一
市民各位
市長らしく、丁重な言い回しながら、市民よ、冷たくするなよ、温かく迎えてくれないか、の懇願文書である。実際は温かく迎えていないの証拠、全国民がこうだったし今もそうなのだが、特に引揚港の市民としては痛恨の、猛省せまられる言葉であろう。温かく迎えた人もあるが、そうした人は「温かく迎えました」とかの歯の浮いた言葉ゼッタイに言わない。人のデキの常として、困っている人に何もしなかったクソ野郎に限って、後になって誰も知るまいと思ったか、こうしたことをヘッサラで言うものなので、もし言えばそうとられる。アホは言わぬことがよろしいでしょう。

かの「舞鶴はきたないマチ」引揚者より少し前であった。この時期はシベリアからの復員者の受け入れでも最後の方になるが、シベリア民主運動全盛期の引揚者で、いろいろと官憲の引揚業務でも「トラブル」が発生していた、彼らの反軍反帝闘争の行き過ぎ期と言うのか一部頽廃期で、一旦動き出すと適当な所では止まらず行きすぎてしまう、その気分の高まりを舞鶴まで持ち込んでも、それが理解できるほどには舞鶴人は一般には理解力もないし温かくもない。役人ばかりではなく、それをすぐにマネする「温かい市民」も、あいつらはアカだと、半分アキてきているし、冷たくしていたのではなかろうか。だいぶに後になっての、日本共産党の市会議員選挙などですら、何も関係はないが、そうした思想持ちのアカと勝手に見ればということだが、どうでしたと聞いてみれば、親類でも玄関の戸をちょっとだけ開いて、その隙間から手を振ってくれるくらいのことやった、ダレもオモテに出てきてくれたりするかいな、冷たいとかの程度のもんではなかったで、と言う。冷たいを通り越して敵視の態度であったのだろうか。一般的な市民のレベルはこの程度のものであった。

ナニセ元はと言えば軍港都市の市民で、軍国主義に疑問を持つ者はなく、礼賛するばかり、いまだにその軍国礼賛が克服できたとは言いにくいのに、終戦と同時に「アカの引揚者」の群れを温かく迎えるほどに急変化、急進歩をするワケはない、ぜんぜんありえない。あとになってからごリッパそうなウソを言ってもアカセンだろ。
そうした市民の態度を市長(社会党・後に衆議院議員)は見かねたのでなかろうかと思われる、気づいたのはエライ、ボケではない、たとえそうであってもそれには理由があるのだから、決して冷たくしてはならない、われわれとしては精一杯温かく迎えよう、それがバンザイバンザイとアトサキ考えることもなく無責任にも熱狂をもって送り出したワレラメデタキ市民としてのせめてもの責任ではないか。エライな。配下の役人どもこれ以上にしかり飛ばしてくれたんだろうか。これくらいの認識へは市民全体としても早く到達したいものである。
 

引揚げ体験の歴史的意味の考察
引揚者はソ連や中国などでの命の危機にさらされた苛酷な抑留体験者であり、だからソ連や中国などを恨んでいる、そう勝手にメデタイ人は思い込んでいた、いた、というか、今もそうだいたいはそう思い込んでいるようで、「苛酷な体験を語り継いでソ連などを恨むことが」が重要なことで、そのための当館であり、養成講座なども開いて、それを語り継ごうとしてきた。そうと考えてきたし今もそのように考えている。しかしそれは根本的にオカシイのではなかろうか。
そうではなく引揚者はみな日本を怒っているである、その認識くらいは持ちたいものである。それは他国へのウラミもなくはないだろうが、ソ連や中国を怒っているのではなかった、彼らは日本を日本人を怒っていた。
舞鶴人はほとんどがそれすらも知らない、ダレもそう言う者もない、彼らは中国やソ連を怒っているに決まっている、そう勝手に思い込んでいた、今もほとんどの市民はそう勝手に思い込んでいる、同胞であり「温かく迎えた」ワレラであるなどとはユメ気づいたりはしなかったのである。
もしかしてワレラではなかったのか、と気づき始めているが、いや「温かく迎えました」と信じることにして、自らの非を打ち消そうとしているようにも思われる。
メデタイ人が何を勝手に思おうが、しかし彼らの怒りの対象は本当はワレラなのである。これこそが次の世代に語り継がねばならない真に大切な引揚体験であろうと思われる。
「中国でもソ連でもひどい目にあいましたが、彼らを恨むことはできません、恨むのは日本人です」。そう引揚者が言っているし態度でも示している。
「苛酷な体験」を語るのは亡くなった人々への鎮魂として語っているので、他国を恨むためのものではない、彼らにはそれは重要なことではないのである。南方では米英戦だったが、その戦場での苛酷の体験では、「攻めて来やがって」などいった「米英への怨み」などは語られない。相手も攻めねばならないから攻めてきたのであり、おもしろ半分でメチャクチャしくさった、わけでなく、仕方もない話であるという態度である。それでは何のために体験談など残すのか、ワシらはカッチョよかったんですで、というのは別として真剣に意味を問うているものはあまりないが、やはりこの犠牲の意味をよく考えて今後の日本に生かしてくれ、国際信頼と永遠平和に役立ててくれ、ということかと思われる。
 

「怒りと怨み」の対象は明確にワレラに向けられている。
それも理解せずどこが「引揚げの町」だろうか。где?где?
大事な所だが、いまだに理解している人はごくマレである。それくらいにワレラの理解もエエカゲンである。

「至らずに、大変なご苦労をかけてしまいました」その苦しい自己批判もなく、ワタシらは一生懸命に「温かくむかえとるのにナンヤ」ではトラブルになる。「一生懸命やってあげとるのにナンヤ」は舞鶴市民の一般的態度である。お子ちゃまである。引揚者の本心も理解もできもしない者がどう「温かく迎えた」りできるのであろうか。どう「一生懸命」なのだろう。勝手に自己満足的にそう思っているといっただけのことでなかろうか。


『舞鶴市史』は、
たとえば、引揚者の中には、革命歌を歌い、踊り、スクラムを組んで、歓迎の市民が振る日の丸に顔をそむけ、接待のお茶も飲まず、出迎えの家族にすら笑顔を見せないものもあった。帰郷日にも、見送る沿道の市民にそっぼをむいた態度を見せるなどして、歓送迎の人びとをとまどわせた。さらに、京都駅前の引揚者歓迎人民大会事件を機に、「引揚者の秩序保持に関する政令」が出され、家族以外の送迎者は埠頭や駅構内に立入り禁止、国旗以外の旗、幟の持込み禁止などで、地元舞鶴市の歓送迎態勢は気勢をそがれた。
舞鶴市民は民主化なのやら不良化なのやらクソ役人のためにキレたのやらわかりかねた、 シベリアでの状態がわからず、抑留者が見せるこうした姿勢に、横向いてしまった市民も多かったと思われる。「心からお迎え致します」が市民の本心でそのように行われていたならば、何もわざわざ市長がこんな回覧を出すは必要はなかろう。
抑留者が怒るのは当然であり、今も怒っているが、しかし怒りの矛先を舞鶴市民や出迎えの親族に向けてもどうしようもないのも実際ではある、市民らは何もまったく事情を伝えられてはいないし、ベンキョーもしていない。その溝が多少なりとも埋められていくには長い時間を要した。聞き手もしっかりベンキョーしてかかる必要があったのである。


民主党政権になった平成22年(2010)、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に最高150万円の特別給付金を支給する特別措置法が、衆院本会議で全会一致で可決した。シベリアでの労働の労賃にあたるもので、給付は抑留期間に応じて一人あたり、25万円から150万円を支給し、財源には独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を充てるという。また抑留の実態解明が進んでいない現状を踏まえ、政府に対し死亡者などに関する調査を進めるための基本方針を策定することも義務づけるなどという。(64万の中には1万人ばかりの朝鮮人兵がいたが、彼らはこの措置からは除かれた)
その後自公政権に戻り、過去の「日本を取り戻す」、大声で言うのは「北方領土返還」だけ、それも「歯舞、えーナンだったけー」と「ハボマイ」も読めないような担当大臣を置いている。
抑留が発生した真相は何なのか、戦争の結末なのだが、その戦争を何と考えてどちら側が始めたのか、 実際にどれだけの人数がどこで働かされたのか、死亡者は何人でどこに葬られているのかなどは、いまだ正確には不明である。歴史の真相の解明も、どう次世代に伝えるのかも何もない。

こうしたことが戦後ずっと続いてきたため、それでは困る何とか体験者が健康なうちに、資料などが散逸しないうちに将来に残すために記念館を建てたいとの願いから、引揚・抑留団体や市民などの要請・募金・協力で「岸壁の母」のマチ・舞鶴市が建てたものである(昭和63年)。
これはエライ、アタリマエだが、それもしない自治体ばかりである。しかし当館でも何を語り継ぐべきなのかの真の検討はなされてこなかった。「苛酷な体験」でしょうとしかダレも思ってもいなかった。

国全体としては基本的な見方や方針があるわけではなくウダウダ言って無駄に時間を失うだけ、当時の体験者は鬼籍にはいっていくが、まともに過去を引き継いだ次世代も育つことなく、市民にも市行政にも歴史は忘却の彼方となり関心はすでになかった、また「岸壁の母」ですか、あんな暗いイメージでは舞鶴はよくならんでしょう、明るくいきましょう、どうせやるなら「近代化遺産」ですよ、「赤れんが」ですよ、スンバラシイでしょう。
明治以降懸命になって突き進んできた日本のそのスンバラシく明るい「近代化」が行き着いた先が、その総決算が、悲惨な引揚げであり、日本だけでも300万人以上の犠牲者であり、国土を焼け野原にした、この世の終末像を予見させたハルマゲドンであったことは、まったく意識はされていない。「近代化」礼賛はすなわちハルマゲドン礼賛でもあるわけだが、単にスンバラシイでしょうは舞鶴人の勝手な都合のよい底の浅さを宣伝するだけの「礼賛」であることなどは意識されてはいない。不幸な偶然でそうなったと言うものでなく、必然的に行き着く結果であった。
メデタイ市の官僚とそれに踊らされた一部市民と、舞鶴は市民と呼べるような本物の市民はまず存在しない、官僚と官僚とナニも変わるところがないニセ市民ばかりの町であるが、さらに一部マスゴミの愚かな欲望と頽廃と反動の象徴のような「近代化遺産」とかに税金を惜しげもなく50億とか捨て始めた時代であった。全世界はもちろんとして今の米帝すらコンナモンと横向きそうなものに気が狂い始めていた。正気な者はほとんどいなかった。遊びたいなら自分のゼニで勝手に遊べ、こんなものに公金はビタ一文使うな。
このような頼りないことで、軸足は「近代化」礼賛に移っている中で、さて記念館も建物はできたが、その建立精神や運営方針は極めてテキトーな場当たり的な頼りないものでしかあり得ないのもまた当然であろう。

早くから地元抑留者などは「協力できまへん」「あれはウソですな少なくともヨイカゲンですな」「あんなもんは見たくもありまへん」と当館とは距離を置いている。せめて特措法成立に努力してきた政党に籍を置く市議くらい(舞鶴市会には共産党しかないのだがこの党は当館建設に反対していた)には当地でも発揮してもらいたいと願う。何で反対したかは知らぬが出来た以上はよい方向へ進むよう取り組んでもらいたい、課題は山積の状況である。
 
建設の経緯や市民が積み重ねた多くの努力からも展示内容についても市民や引揚・抑留団体などの声をよく聞いてそれを反映させていくべきだが、カネと労力は取るがアトは知らん顔をしているようである。当市と言っても最近に限ればしっかりした自分の考えを持つようなリッパな者ではない、バンザイバンザイと再オープンを祝い、叱られたり笑われたりしたという者で、フラフラと右ブレ、権力側フレするが、立ち位置(軸足)はまったく定まっていない、「医者の常識、世間の非常識」の好見本とはいえ、チトひどすぎよう、少なくともまともに抑留者側、市民側には立ってはいないように思われる。
「独自の視点」はお世辞で本当のところは視点などはない、ウエ(愚かな国策)に迎合するだけのようだし、問題意識もなく掘り下げなどあるはずもない、どうした経緯で何のために建てて今後どうした責任があるのかも忘れたのではなかろうかと思われ、ましてやシベリア抑留の真相にせまったりするにはまだ遠い。

だいたいは「こんなことをしくさって、ソ連は実にけしからん、スターリンが国際法を破りくさって」史観を引き継いでいる。それは一面は正しいし、のちのロシア大統領などが、その非をわびているとおりである。
しかし他国を責めても実は仕方ない、日本側のオトガメに及んばねば意味はない、なぜ日本政府はわびないんだ、ソ連以上に悪いのは日本政府だろ。心ならずであったかも知れないが、その政府に全面協力してきた地方自治体や国民などは責任がないのか。なぜわびないのだ。
なぜ60万以上もの日本兵が満州など日本の国土でもないソ連近くの外国にいて何をしていたのかは不問である。まさか「帝国自衛のため」ではなさそうなことくらいはサルでもわかりそうなことだが、それは触れない。「ヤルタ協定に基づいてソ連が参戦した」「ヤルタの秘密協定にしたがって」は中学校や高等学校教科書にさえ書かれているが、そうした連合国側の事情にも大きくは触れない、「日ソ中立条約を一方的に破棄して」である、「スターリンの野望」とか言っているが、それ以前の関特演やノモンハンは触れない。ましてやそもそもどの国が国際法違反の大戦争を始めたのかがわからない。どちらが先に国際法違反をしたのかが問われねばならない。日本が戦争を始めたからソ連も連合国の一員として戦争に加わったのでなかったのか。どちらが先になぐりかかったのかはない、ソ連がけしからんのなら、もっともっとけしからんのはどこの国か。あくまでも自分側の根本的な非は棚にあげての手前勝手なスジの通らない思い込み話が基本である。
アホな舞鶴市当局さんは自分らの市立中学校で自分らが中学生に何を教えているのかすら知らないのではないのか。頼りない中学校だが(いやワシらはしっかりしてると言いたいなら、教科書と違う史観での展示は、市さんそれは困る、そんな独自の史観で公の建物などもってのほかだと教育者のハシクレのつもりなら言えよ。おおかたはそんなことが言えるような者ではなかろうが、中学生さんはそうしたことを言わずにしっかり教えてもらって下さい)、中学生を教えると同時にこれらの連中にも出張教育してやってもらわねばならぬかも知れない。

ソ連参戦は派生的なものである、第一原因はワレラにあった、その巨悪を免罪していないか。しかしそうした自分の側の非を自覚する人はマレだし、まして謙虚に反省する人はまずいないのがスンバラシイ国の現状ではなかろうか。何千万の無辜の民を殺した戦争のどこがスンバラシイのか。これがないと記念館は魂がはいらない。仏はできたが魂はまだほとんど入ってはいない。三流である。過去を知ろうとする行為は、過去という鏡に映して我が身の姿を知ろうとする行為である。だいたい家伝の系図などを調べることから始まるのはそうした「自分を知りたい」の動機があるからであろう。単に暇人かマニアが知ったげぇに、過去をつついてみるというのではない。そこに自分の姿が見えて来なければたいした意味はない。みにくい己が姿に愕然として震えなければならないかも知れないが、そこがよく映る鏡でなければ本当はゼーキン投入の意味はないかと思う。過去に向き合うということはそうした作業であり、強い精神が求められる。メデタイうえにヨワイ心で作ると、ソ連が悪い、私たちは温かく迎えましたのヤシ史観に落ちざるを得ない。
要するに市民が真剣になって己が過去の向き合わないことにはいくらハコを立てても「心」が入らない、三流駄作でしかないものになってしまう。死んだ心ではどうして生きた国民の心を捕らえることができようか、脳死した頭と心も石のような者(クソ官僚どものこと)が作っても何も有用なものにはならない。どーせお役所仕事ですやん、と言って貰えればまだましくらいのことで、血税をドブに捨てるだけのものになってしまう。市民の心を捕まえる、市民の頭と心を育てる、そうしたものでなければなるまい。

非を認めたからといって何もネウチは落ちたりはしない。ロシア大統領が過去の非をわびたからと言って何もロシアのネウチが落ちたわけではない、どこかの国のソウリとかダイトウリョウとか言う者よりマシだわい、ワシよりもマシだわい見直した、と思われた方も多かったかも知れない。相手は「いやすまんことをしたな」と男らしくわびている、この時点にいまわれわれは立って居ることになる。それだけで本当にいいのか。

今年(2016年)12月8日には、シベリア引揚げ70周年を迎える、70年前に引揚船「大久丸」と「恵山丸」が、それぞれ2555名、2445名を乗せてナホトカからの第一船として入港した。今度は笑われないように慎重に迎えてくれ。

舞鶴地方引揚援護局は中に復員局を含んでいた。昭和20年11月に開庁で、同33年11月まで続き、最初は倉谷の舞廠工場(日赤病院のあたり)にあり、その後のシベリア時代は平の当館のすぐ北側の元第二海兵団(材木工業団地)に置かれていた。↓
引揚援護局跡(舞鶴市平)
 

 
舞鶴引揚援護局
写真と復元図(当館藏)↑↓(第二海兵団という水兵の学校跡を当てたものである。ワタシが子供の頃にはまだ全部が残っていた、木造ニ階のボロボロの建物で塗装はなかった)

平面図(昭和23年5月現在・『引揚援護の記録』(引揚援護庁・昭和25発行より))

 





最初に置かれた倉谷時代は「上安時代」と呼ばれ、主に民間人引揚者を受け入れたが、これはもうスコーンと忘れてしまって手も出していない。
こちらはスコーンですワ、でも平は一生懸命にやりましたんやデ。そんなことを言われても、どこのアホでも信用はすまい。この建物を所有する会社の専務さんは取り壊す前に市に一応は問い合わせたそうである、答えは「そちらでやっていただけませんか」、ハナより保存を検討する気などはなかった。引揚げにエエかげんですデ、「心」などはありません、と自ら言ってるように思われる。笑えるというか泣けるというのか、それでも口先だけは、引揚者を温かく迎えました、ホコリです、などと恥ずかしくもなく懸命になって叫んでおるようである。「ホコリだと、ゴミのホコリのことか」と笑われるからもうやめておけ。
(最近になるほどエエカゲンな情けない舞鶴市へと大きく退化していくが、以前の舞鶴市もそうだった言っているのではない。「さすがに引揚の町、よくやってはるな」と思ったことは過去には幾度もあった)
上安寮
上安時代の「寮」。引揚者の一時収容所である、今はもうない。↑

当館の展示は昭和21年末からの「平時代」と呼ばれるシベリアからの復員時代にほぼ限られている。
海外にいた日本人は軍人、民間人はほぼ同数(約330万人)であった。「引揚記念館」と自称するなら無視してよい数ではないが、この問題に限らず市民の窮状には目もむけず完全無視して、権力様に従っても、いささかの良心の痛みも感じず、当局だけの思い込みによる勝手な大迷走は舞鶴市のきわだった情けない特徴となっている。それは何もかもすべてにエエかげんであるということである。

舞鶴引揚記念館
↑舞鶴引揚記念館のハンプレットより内部の様子


舞鶴引揚記念館の展示
−シベリア抑留−


8月15日に無条件降伏を受け入れる旨を各国に通告した、日本軍には降伏せよの命令が出た、ソ連の極東軍総司令部があったジャリコーバという所で「停戦協定」が出来たのは8月19日。「停戦協定」などと大本営語や戦争バンザイ政府語のヤシ語では言うが、マッカーサー軍と日本軍の停戦協定などはないのと同様で、対等関係の協定などではなく、勝った軍の指示命令を無条件降伏した軍が受領しに行ったということである。停戦協定(休戦協定)とか降伏文書は政府と政府の間の締結を言うのであり、これはミズーリー号の甲板で9月2日に行われた、日本以外の各国は正式にはこの日をだいたいは「対日戦勝利の日」「終戦の日」としている。政府の行為として行われた戦争なのだから、締めくくりも政府でなければならない、当然のリクツである。
政府無視の暴走関東軍と言えども政府の訓令も受けずには勝手にはできないものだし、相手方のソ連軍にもその権限はなく、停戦協定などを結べる当事者が両国ともに不在なのだから、そうしたカッコよい(日本側に)協定が結ばれるはずもないものである、ノモンハンでも停戦協定は政府と政府の間で結ばれている。ともかくも日ソ軍の戦争状態はこの19日で終わったことになる。
ソ連侵攻からわずか10日目である、70万もいた自称アジア最強精鋭無敵不敗関東軍は信じられないほどに弱かった。わずか10日間で広大な天地・全満州が制圧された。おごれる者久しからず。風の前のチリと同じであった。いまだに自称スンバラシイ日本軍(陸海軍)を舞鶴のホコリと思っているようなファイスト顔負け連中もけっこうあるのだが、誇りではなく、それはゴミのホコリのように吹き飛ばされた。
関東軍の諸部隊は投降した地点で武装解除を受けて、そこでの命令どおりに満州国内の指定集結地へと移動した。集結地へ集まるとそれぞれの部隊を解散して、1千人単位の大隊に再編成された、その大隊の指揮をとるための日本将校や下士官がそのなかに配置された。

そこから列車やトラックに乗せられたり、あるいは徒歩でソ連領に入るが、指揮をとるソ連兵は「トーキョー・ダモイ」と言うので、このまま内地へ送られるものとばかり思い込んでいた。しかしそうではなかった。行き先はソ連領内の収容所であった。

←「入ソの3日目、或る駅に着いたとたん罵声と石礫が列車を包み込んでいた」(『シベリア抑留1450日』(山下静夫)より)
ハバロフスクで敵地の民心を知る
石礫と罵声は氷の窓を持ち
 ここはハバロフスクと人づてに知る

全然予期しなかった洗礼であった。私の車輌は列車のほぼ中間に連結されていた。徐行がはじまって、どうやら大きな街にはいったような気がした矢先、前の車輌が急に騒がしくなった。と思う間もなく、バラバラバラと固いものが車輌にあたる音がして、『ヤポンスキー、サムライ!!』という罵声が取囲んだ。石礫と罵声に棒で叩く音もまじり、激しさを増していった。私は無性に腹が立ってきた。『俺が何をしたというんだ。なぜこんな目に遭わされなければならないんだ

とある。

オレが何をしたというんだ。アレは軍部がやったことだ、ワシは下っ端だ、命令されて拒めなかった、責任はない。1個人として1市民としてなら、そうかも知れない。上のみに責任を負わせて下の自分には責任はないとする。1個人としてなら良き青年、良き夫、良き父親で、ソ連人に恨まれる筋合いはなかったであろう。彼らも1個人として恨んでいるのではない、彼個人には何も怨みはないが、日本軍の兵隊だから恨んでいるのであろう。帝国の一員、ファシストの一員、ナチと手を組んだ国家の兵隊の一員であったのも事実であろう、それだから怒るのも当然ではないか。ウエはウエで、アレは部下や秘書がやったのでワタシは任せていて詳細は知らず、責任はないないないない、シタはシタで、あれはウエの命令で拒否できる立場ではなかった、ワシに責任はないないない。さすがにドスンバラシイ国だ、笑われたくなければアホは言うな。侵略者の手先、加害者であったという自覚も心の痛みもない、まるっきりの当時の、そして今の一般的メデタイ人を代表している無責任な見方である。全体像の一部にだけ焦点を合わせると加害者が被害者のようにも見えてくる。
1個人としてはリッパな者であったとしても日本軍の一員なのだから、それは全体としてはヨイモンなどとは決して思われてはいない、悪の権化であり、恨まれるものであった、それはそれだけの根拠あってのことである、シベリア出兵にしてもソ連が一番苦しんでいる時にチャンス到来と見て手を出したり出そうとしてきた。怨みは本当に深いので、そんな簡単に北方領土を返してくれたりはしない。戦争したらあとが大変だ、他国の弱っている時に手を出そうとしたりすれば、自分らだけでなく子々孫々までも迷惑がふりかかる、それがしっかり身にしみて理解できるまでは帰ってきたりはしないと覚悟しておいた方がよいかも知れない。
赤紙(召集令状)という一枚の紙片によって、天皇の軍隊に拒むことできず組み込まれ、国の為、天皇陛下の御為に戦争に行き、他国の無辜の人々を殺し焼き奪う行為を繰り返してきた。「上官の命は朕が命と心得よ」という軍人勅諭に縛られ、やたらに大義名分をふりかざすクソ上官の命令で、非人道的殺傷を強いられ、その罪を負って戦後処刑される者もあった。その軍隊の一員ではなかったのか、それともそれとは関係なく1私人として戦争に行ったのか、そうしたことなどはありえないハナシではないか。
「ヘイ、トージョー」と米兵は日本兵を呼んだという。ロシア人は何と呼んでいたか知らない、「ヘイ、ヒットラー」と見ていたのかも知れない

←ソ連軍に連れられていく日本兵に現地人の怒りがぶちまけられている。
5年前には当館にはこのイラストがあったが、今はないよう。
ソ連軍の捕虜としてソ連国に連行されたのは、1945年9月18日であった。満州の秋は早かった。白樺の葉が音もなく散っていた。不安な不安な思いで、ソ連兵の言うままに従った。前後には自動小銃を構えたソ連兵がにらみをきかせている道路の脇には、沢山の中国人達がワイワイと騒ぎ「リイペン クイン」(日本人の鬼)と言って小石を投げつける。近寄ってペッと唾を吐きかける者、子ども達までが小石を投げつけていた。敗者捕虜の身となり、無念やるかたなし
のキャプションがあった。
何もソ連人だけが怒っていたのではない。全世界が怒っていた。自称スンバラシイ日本軍は世界の常識からはそう見られていたことにようやく気がつかねばならなくなった。
単に1個人として善良であるだけではこうしたことになるかも、全体としても善良でなければなるまい。
一番の下級兵卒は個人としては被害者であったと思われるが、この最下級兵卒のたいへんな身にゆわれなき労苦にだけ焦点を合わせて、全体の日本軍や国の兵隊であった史実は完全無視して「戦争の被害者は日本の兵隊さんで、兵隊さんは無辜の民、加害者はソ連」と言いたげなヤシ史観は大ウソである、日本が無辜の民に仕掛けた侵略戦争の結果であったことを隠して、やむにやまれない正義の戦争であったとしてしまっている。舞鶴では一部ではそんな話も残っているし、そういいたげなクソ展示も見られるが、それはまったく実態とは反対であった。
被害面ばかりを強調して歴史を公平に見ているのか、と外国からことあるたびに言われるが、メデタイ国内の政治はもとよりテレビも新聞も平和運動とされる内部ですら加害には目をつぶりぱなし、「オレが何をしたと言うのだ」史観である。2000万人も殺したでないのか、ドメデタイのぉ、忘れたのか、上だけに責任を被せて、自分のそれ相応の責任は不問。ヒッヒッヒキョーでないのか、上が上なら、下も下。これでは上の責任など問えるわけもない。加害者としての責任に向き合わねば、どうコロンでも三流田舎者の域は出られまい。ニセ平和主義者であろう。本当の被害者は誰であったのか、本当の加害者は誰であったのか。それも不明では未来は開けまい。


←憎む人もあったが、悲しきヤポンスキー ソルダートにも親切にしてくれる人もまたあったことは確かである。これはどの国でもそうであった。個人としては別に何も怨みを持ってはいないのであろう。当館展示(今はない)
ジャガ芋をくれたお婆さん
「アリヨ ヤポンスキ サルダト。イジスダー ヤアムノウガ カリトウシカ タスカイチ。セイチヤスカマンジル ニエト。ダウイ ブストレ クーシャイ。」
(そこの、日本の兵隊さん。おいで、私はたくさんジャガ芋を持ってきた。今 監督が留守だ。さあ、早く食べて。)私達日本兵が「有り難う。」と言うと、「二チボー 二チボー。」(なんの なんの)と言った。「ヤアカマンゲル ダモイ スマトリチ。ブイストレ クーシャイ。」(私が監督の帰るのを見張っている。早く食べて。)
そのお婆さんは笑っていた。毎日毎日腹を空かせている私達には、其の時のお婆さんは神様の様に思えた。あの恐ろしい戦争がなかったら、人を憎むことも殺し合う事もなかったのに。ロシア人も日本人も人間的には何も変わりはなかったのに。あの時のお婆さんも、現在の私よりはずっと若い女性だったでしょう。
このお婆さんもまたシベリア流刑者であったかも知れない。自身も苦しんできた人ではなかろうか。.流浪の民として生きる白系ロシア人には困っている同胞には手をさしのべるという慣習があった、それがお互いが生き抜くための方法であったという。

スンバラシイは日本国内だけで一部では今もそう勝手に思い込んでいるだけのものでしかない、「世界の常識」はそうでないことをしっかりキモに銘じておかねば、勝手にスンバラシイと思い込んで、グローバルな視点を欠いて、自分だけでリッパな者と思い込み、みんなとの和と信頼を忘れて、過去の軍隊などを、公共機関が先頭立って礼賛していれば、とんでもない、またまた笑われ、この自治体は本当にダメだと思われることになりかねないかと思われる。

ラーゲリ
シベリアに抑留された元兵士などは、厚生省の調査では、総数56万1千人(モンゴル分は除く)、そのうち死亡者は5万3千人と推定されている。
一方ソ連側には約76万人分を記録したデーターがあるという、しかしこのデーターにはダブリ(重複)分がありそうだし、恥じて、あるいは捕虜になった者は帰国したら殺される陸海軍刑法があるとも半ば以上信じられてもいたため、階級は詐称し、偽名で通している者も多かった、宮本武蔵氏や佐々木小次郎氏がくさるほどいた。名簿データーからは正確には実数を割り出せない。一般には約60万人、死亡約8万人とよく言われている。
全体的には正確な数字や埋葬場所など、大事な所がいまだに確定はできていない。
抑留者が収容された収容所(ラーゲリ)はソ連全土にわたり、約2千とか1千2、3百箇所と言われる。↓

「収容所群島」と呼ばれるくらいに全土は収容所だらけ、これはロシアの古く帝政時代からの支配体制や体質を引き継いだ伝統的制度のような特異なもの、悪の権化のように言われているレーニンもスターリンも恐らく多くの彼らのほとんどの同志も過去には幾度も収容所に放り込まれた体験があった。ロシアに関心がある者が集まると「そんなことしとるとシベリア送りになるぞ」などと冗談で言ったものだが、収容所は日常的なもので、ワルをすれば当然だし、密告組織が作られていて彼らにもノルマがあった、何もしてなくとも「密告」されるとシベリア送りになった。
戦後民主国家になったと言っても天皇様がいるようなことで、平和憲法があるといっても地球の裏側まで自衛のためにアメリカのケツから核を持って攻めるぞというようなことで、ちょっとした社会変化くらいでは手のひら返すようにはなくはならないシツコイものである。かなりの大変化を経たがそれでも体質は復活し引き継がれたようである。ロシアによるシベリア開発はだいたいこうして進められた。
アメリカもオーストラリアもそうした囚人などの流刑地であった歴史もある、黒人は奴隷ですよ、とか言ったメデタイ国の国会議員が問題になっていたが、ホンナラお前は奴隷主だったのか、初期のころの北海道開発などと似たような面があり、植民地の人不足を補う手段として同じような悲惨な歴史を近世になっても引きずってきた。今も意識の中に引っ張っている者もある。

←『画文集 シベリア虜囚記』(佐藤清)より
途中の駅で
われわれの停車している向いの引込線に囚人列車が入って来た。
長い列車には囚人たちが蠢めいていた。女の囚人を乗せた車もついている。彼らは日本人捕虜を珍しそうに眺めていた。なかには大きな声で喚いている者もいる。
おそらく、遠くヨーロッパから運ばれて来たのであろう、長旅のようだ。
監視兵は、日本人の捕虜輸送にくらべて、数が多いのも異状であった。
これらのおびただしい囚人は、ヨーロッパ戦線でドイツ軍の捕虜になった者や、勇敢でなかった者、反政府分子らであるらしい。
小さな窓から、じっとこちらをうかがっている人間の顔は、絶望の顔だ。きっとわれわれのことも彼らはそう思って見ているに違いない。
貨車の下を通る監視兵に手まねきしたり、声をかけたりするが、監視兵はまったく無視して通り過ぎていく。
自暴自棄におちいった囚人からなげかけられる言葉は、とうてい聞くにたえないものなのだろう。彼らは表情一つ変えない。馴れたものだ。
 

抑留者はラーゲリと呼ばれる収容所へ収容された。場所や目的に応じていろいろなものがあったようだが、標準タイプの建物のだいたいの様子↓(当館展示)。
ラーゲリ

『シベリア俘虜記』は、バイカル湖の少し西側にあった「タイシェット収容所」の様子が書かれている。
一里おき位にある古ぼけた監獄らしい建物を右左に眺めながら、およそ五つも通り越した頃であろうか。周囲を頑丈な丸太で縦にぎっしりと埋めて柵にしてあるそのなかには、木造建てのかなり古めかしいバラックが十棟ばかり建っている、どうやら監獄らしい営門の前までたどり着いた。高さ四メートル余りもあろうと思われる柵の上には鉄条網が張りめぐらされ、その営門には、大きな厚い木造の扉がいかめしく閉ざされたままである。
「ここかい、おいらのお宿は」
嘆息して、
「あれッ、えらいところへ来てしまったもんだなあ」
「仕方がねえさ、敗けたんだもの……。これも宿命さ。しかしこりゃあまるで監獄よりひでえもんだ」
「ここが、あのロシアの国事犯人の流刑地だそうだよ」


ようやく放免されて指定された宿舎に入る。壁も天井も、すべて丸太を組み合わせて出来ている建物だ。真ん中は通路で、その両側には寝台が二段装置になってつづいている。建物も、部屋のなかも、廃墟のごとくかなり古めかしく荒れている。小さな窓からはうすい光がさしこめて、部屋のなかをわずかにほの暗く照らしている。
文豪ドフトエフスキーもここで過ごしたのであろうか。
『死の家の記録』− まざまざと想い起こすドフトエフスキーの小説は、その臭いから、ただよう空気までも一つのように思えてくる。家は死んでいる。そのなかの何からなにまでも死の香りがただよっている。
ラーゲリラーゲリ

ラーゲリ
いずれも当館展示物。↑

だいたい半地下式で、白樺のログハウスのような建物、真ん中に通路を取り、両サイドに二段のベッドがある、手前の四角い物はペチカ、燃料の白樺は無尽蔵のため、ガンガンと一日中燃やし続けた。抑留者たちは饑餓、重労働、極寒の三重苦の日々が続いた。
彼らが着ている被服は関東軍の被服廠にあったものをソ連が押収し、彼らに支給したもので、まだしも温かい満州仕様で作られた綿入れ服でありちょっと毛皮が付いているのかどうか程度、シベリア用の極寒仕様ではなかった。関東軍の軍服であり、ソ連の被服ではない。ソ連軍の物ならもっと日本人にはダブダフだろうし、たとえば軍靴をひっくり返してみると鉄鋲が打たれている、これは満州仕様でシベリアでは使えない、シベリアの極寒下ではこの鉄鋲を伝って−40℃が足に入ってきて、たちまち凍傷になる。極寒下の服装は鉄鋲などはもってのほかである。こんなことで-30℃になれば野外作業はなかった。この程度の「防寒」服ではムリであった。

日本兵だけがソ連に抑留されたのではない、24ヵ国にものぼり総計400万人、内訳は一番多いのはドイツで239万人が抑留された。これはソ連領内に攻め込んでいるから、仕方がないと言えばそうかも知れないし、またその前にはナチスドイツはソ連から570万もの捕虜を取っていたし、占領下の一般ソ連市民の500万もをドイツ国内に抑留して強制労働をさせていた。合計1千万以上ものロシア人を抑留し多くを死亡させていたのだから、そのわずかな当然の「お返し」であったかも知れない。日本はそうしたことはしていない、しようとはたくらんではいたが、できなかったから、そのドイツとの同盟国ではあったが、そうしたドイツと同じ捕虜扱いでは困るわけである。


ソ連はドイツとの戦争で2700万人の犠牲を出していた。ドイツに抑留されていた捕虜たちが全員無事帰ってきても(軍人捕虜はすでにほとんど死亡していたという)、まだまだその大きな損失は補えなかった。戦後に荒廃から復興しようにも労働力が決定的に不足した。男達はみな戦争に出ていったが、一人も帰らなかった村も多く、男女比は狂ってしまった。戦前1対1であったコルホーズでの男女比は戦争が終わった時点では1対27になっていた。頭数ではそうだが、その男子の多くは手や足を失っていた。400万の働き盛りの各国の男子抑留者を当ててもまだまだ足りなかった。
当館に展示されているスケッチ↓でも農場も女性だらけなのはそうしたことによるのであろうか。
この年はさらに何十年ぶりかの大寒波が襲い作物は不作であった。




←タイシェット176q地点チクシャの農場で、24.6とする(『シベリア抑留1450日』より)
女ばかりだったとは書かれていないが、男の姿がない、みんな戦死してしまったのだろうか。
兵員も不足して、女の戦闘機乗りもいたという、女子消防団員とかの程度の荒っぽさではなく、メッサーシュミットも彼女らの編隊を見れば逃げ出したとか、従軍看護婦とかでなく各種の兵士として軍隊にいたソ連女性は100万人とか言われている、写真では望遠照準スコープ付きの小銃を持った女性狙撃部隊とかもあったよう。タケヤリ婦人部隊はスンバラシイ不敗国だけのようであるが、銃後のことでありまだ恵まれた国であったのかも知れない。
それでも不足しさらに質にはかまってはおれなかったのか懲罰部隊、囚人部隊も加えていたと言われ、これを先頭の一番乗り部隊に立てて突進してきたとも言われている。世界の軍隊の中で、一番質が悪いのは日本兵、その次にソ連兵の質が悪かったとか言われるのはこうした先頭部隊の印象かも知れない。
囚人部隊は最先頭に立たされた弾よけ用部隊で、陽動作戦用オトリの攪乱用ニセの兵隊、その命のかわりに略奪の自由が認められていたと言われる。ドロドロの恐ろしく汚い軍服を着ていて「虱の部隊」と呼ばれていた。ソ連の正規兵や憲兵からもバカにされ、軽蔑されていて、ソ連兵によってささいなことで容赦なく撃ち殺されていたという。敵からも味方からも撃たれるがそのかわり好きなように強盗してよろしい、の部隊であったという。

中舞鶴にЖурка(ジュルカ)という喫茶店があった、あのあたり通らないので今の様子は知らないのだが、これはЖуравлъ(鶴)の卑小形で、ナニとも悲しい曲を思い浮かべた、ソ連も大変だったんだと聞いているだけで思い知らされる。広島原爆ドームの千羽鶴を見て作られた曲というが、軍服で歌っているところなどからも、原体験はやはり対独戦のソ連にあったものと思われる。日本で言えば真下飛泉の「戦友」のような感じか。若い人が歌っているのがスンバラシイ国とはだいぶに違うところか。

 




←配給所でパンの配給を待つ住民(タイシェット58q地点)(『シベリア抑留1450日』より)
昭和21年の風景らしい、同書は
ソ連市民の日常生活をかいま見る
よくここまで物がなくなったものだと思う。紙もなければ靴靴みない。食物は配給制のようだし、街頭で高い黒パンが売られている。収容所のロシア人に聞いたことがある。『なぜ取締らないんだ?』。すると、『あれは政治がうまくいっていないからだ国が食糧政策をうまくやれば、捨てておいても配給価格以下になる。そのうちにそうなる筈だ。それが政治の目標だ』という返事だった。日本の経済警察の無道振りを見てきた私にこの返事は実に新鮮だった。国という権力が信用されている。日本の闇物資の横行、それは政治不信に基礎がおかれている。だから権力は警察力を動員する。



最初の昭和20年からの冬が特にひどい生活になった。本当に食糧すら不足したのである。あとは少しづつよくなったという。

ソ連は余程物資が不足していたのであろうか、兵士の服装はまちまちで、ゴム長を履いた者、運動靴を履いた者等不揃いであった。然し、銃は見たこともない自動小銃で大変精巧なものであったし、戦車は水陸両用の大型車でこれも初めて見るものであった。
(『ああホロンバイル』)


…いま幸運にも九死に一生を得て、いっときも念頭を去らなかったなつかしの祖国日本へ辿り着くことが出来たばかりの私には、現実の日本内地の生活は、あたかも極楽浄土の夢路を辿っているかのように思われてならない。
玉ねぎ生活とか、竹の子生活とか云々するが、しかしそれは物を持っているからこそ言えるのであって、即ちまだまだ生活に余裕があることを意味するのである。捕虜生活はもちろんのこと、ソ連の国民でさえも竹の子生活はしたくても出来ないのだ。彼らはいささかの余裕もなく、ただその日の労働の報酬として一定の、もちろん充分でない生活必需物資の配給を受けるだけである。竹の子生活の出来る日本国民は、まだまだ幸福であるといっても過言ではないと思う。
敗戦国とはいっても、日本のどこの町を歩いてみても、何でも物資のあるのには驚くばかりである。日本が、想像していた以上に余裕のある贅沢な生活をしているということは、ソ連から帰った誰もが痛切に感ずるところであろう。
(『シベリア俘虜記』)


昼には包米(とうもろこし)の黒パンである。包米のパンとははじめてだ。しかし文句も言えない。
ソ連の将校でも、包米のパンをパン工場から受領して、小脇に抱えて家路へと運んでゆく。
民族平等主義は、ある程度は実行されているようだ。彼らの食事を捕虜のわれわれと比べてみても、量的には多少の相違こそあれ、質的にはほとんど同じである。ソ連の将校でも、高粱や粟の粥を食べている。もっともほかに贅沢な食物がないからでもあろう。
しかしながら、過去の日本の対満州政策を思うとき、深く反省させられるものがある。
(『シベリア俘虜記』)

抑留中の死亡者は下層兵に集中した。(「シベリア抑留者総数と死亡者の明細」↓ 1945年にソ連軍が捕獲した旧日本軍捕虜のうち、旧ソ連内務省軍事捕虜・抑留者管理総局(GUPVI)が把握していた人数(全国抑留者補償協議会提供)という(『検証シベリア抑留』より))
民族   日本人 
内訳   将官  163
 上級、下級将校  26,573
 下士官、兵卒  582,712
 軍事捕虜総数   609,448
内訳   将官  31
 上級、下級将校  607
 下士官、兵卒  61,217
 死亡者総数   62,068

抑留者のその下層兵にはさらに苦難が重なった。抑留で死亡したのはほとんどが下層兵だけであった。
(←「将官」というのは元帥・大将・中将・少将であるが、こんなにもいたのあろうか。満州で石を投げると将軍に当たると言ったのはこのことだろうか。彼らの死因は何か別にありそうである。
下士官と兵卒がまとめられているし、兵卒にも階級があり、その最下層が知りたいがこのデーターではわからない。)
最下層が死ぬ、これはどの戦場でも見られた日本軍だけの特徴的な現象で、下へ行くほどに命が粗末にされた日本軍であった。階級差があって、一番の下っ端兵のみが餓死していった。(軍隊だけに限られたものでなく、母体の日本社会がそうである。ラーゲリの内側は日本社会を縮小した典型例であり、そこを展示しないと三流田舎館ぶりを自己宣伝するだけのものになろう)
彼らを死に追いやった軍司令官・師団長・参謀・連隊長などのほとんどはみな無事にノウノウと復員してきた。捕虜になるくらいなら自決せよ、とあれほど強いてきた連中でなかったか、アンサンは捕虜になったんでなかったの、なんで生きてんの、こうしたドクソである、それ以上の者で戦死した者はいなくもないが、ごく僅かの例外的なことになる。
死亡者の多くは、敗戦直前に召集され、満州には最愛の妻子と財産をそっくりそのまま残してきた補充兵たちであった。
(『シベリア俘虜記』)

別に体力がなく死亡したのではない、軍隊での地位が低い者が死んだ。なぜだ。ただでさえ少ない食糧が平等に配分されなかったことが大きな原因のようである。上に厚く下に薄く配分した(日本兵自身が)。まるでどこかの収容所列島ではないか。
『シベリア俘虜記』は、このあたりをよく書いている。まるで文学のよう、まるで日本のソルジェニーツィンのようだ。
分隊長の態度は横暴をきわめていた。毎食ごとに兵隊とは別個に飯盒で飯を炊かせ、分隊に配給になった乏しいわずかの食糧のなかから、二人分、三人分を平げてしまうのである。さらに乾パンや罐詰の類が配給になれば、これらはみな取り上げて私物にしてしまうのであった。少しでも文句を言ったり、陰口をついたりすればすぐに暴力を振るうのである。
つづく古年次兵たちは、みなぼけ茄子同様であった。本年五月入隊の補充兵たちの中にはかなり気骨のある人もいたが、今もなお敗戦前と同様の軍隊組織である。常に頭をおさえられている初年兵たちではどうにもならなかった。またなかには分隊長のご気嫌ばかりうかがって、おすそ分けを頂戴する、小賢しい、いやしい奴もいた。
スンバラシイ日本軍は、特権を笠に来た強欲暴力のファシストトップと、ボケナスで小賢しく卑しくコスイ中間層と、死んでいくより方法もなかった下層兵で成り立っていた。気にくわなければ殴り殺すなどはよくあったことで、当初の収容所では亡びた過去のそうした日本軍が温存されていた。
これはそこまでアクドイとはとソ連側が気が付かなかった面もあるし、全体をまとめ作業ノルマをこなすために当初は利用した面もあった。厳しい規律がないとこれはこなせまいと考えたのものか。
ノルマと言っても身体の大きなロシア人の基準をそのまま小さな日本人にも課したためいくらかんばってもノルマに届かなかった、作業が計画通りに進まず、下級兵には、食糧分配と同じで、逆に過重な作業が割り当てられたということである。上はかわってくれ、などと言って自分がはたすべき労働を下っ端兵に押しつけた。メシは少ない上に労働量は大きいのだから、その限界を越えてしまうと、死亡するしかなかった。

『シベリア抑留1450日』には、
休養幕舎で大隊本部の飽食を知る
(昭和21年)1月 休養中隊、そこは旧軍隊の階級が厳とありながら、ないに等しいような雰囲気があり、作業免除者の休養のための幕舎であった。長と名のつくものがないので、案外自由な空気があって、誰もが遠慮なくしゃべれるので種々の情報がもたらされた。
私がここにまわされたのは1月早くの診断の結果で、部隊の仲間達から離れて休養することは申訳なかったが、極寒期の間を少しでも作業から除外されて休養出来たことは有難かった。
休養中隊での給与は非常に悪く、作業中隊との差は歴然としていた。働かざるものは食うべからずの国だから、こんなものかなァと初めはそう思ったが、それにしてもひどかった。一日中ごろごろと何一つしないのだから、話が勢い食べることに集中する。その挙句、『なんでこんなに悪いんだ?』の疑問が出る。この〈なんで?〉というのは、要するに大隊本部への不信感であった。
暇を持て余しているこの中隊では、懸命に食事情報を集めている奇特な者がいた。
彼ら暇人の情報蒐集によって、憤慨するに足ることがあからさまになった。
大隊本部は毎日、やれスキヤキや、それゼンザイやと鱈腹食っている、というのである。そこへ飯上げ当番が帰ってきて、『お前ら、遊んでいるくせに』と、炊事で気合を入れられたという話。これには一同頭にきて、血の気の多い連中は、『ようし、お前らがそんな気なら』と力んだ。

評価できる休養幕舎 その仲間
ソ連は、要休養者には一般作業者より以上の給与をしていたはずである。〈働かざるものは食うべからず〉はこの国の掟であるが、働く意思を持ちながら病などで休養しなければならなくなった者には、その体力の回復のため充分の給与をするのもこの国の掟である。
敗戦の結果、我々はソ連に戦時捕虜としてこの地に連れてこられた。大隊本部を含め、我々は、日本人捕虜としてそこには差別がないはずである。お互いに助け合わねばならぬ日本人同士で、なぜ弱肉強食にならなければならないのか。
『あいつらは働かないのだから、悪い食事は当然』として、あえて食事ならざる食事を与え、それで浮いた食糧を自分自身の腹におさめている厚顔ぶりは言語同断であった。その上、作業兵の食事すら、かなりの部分が本部連中の胃袋におさまっていたのだから、何をかいわんや、であった。



当館展示の収容所での食糧↑。
これは下層兵のメニューです、もともとの支給が少ないうえに、さらに加えて平等に配分されませんでした。同じ抑留兵でもその上層はその特権を行使して下層兵から食糧を取り上げ 毎日、やれスキヤキや、それゼンザイやと鱈腹食っている との話も聞かれます。平等に配布されるようになったのは、収容所内での反軍民主化闘争を経てからになります。
不敗を自称した日本軍はここに限らず下層兵卒には十分な食糧が配られず、「戦死者」のうちの半数以上が餓死とする研究もあり、その大半は下級兵卒でした。腐敗の軍でもありました。
とか書いておくべきではないか。強い強いとイバリちらした、本当に強い者ならそうしたことはしないが、その実態は食糧すらまともに配れず大半を餓死させた。その腐りきった日本軍上層部の責任を当館は目をつぶるつもりなら別だが…
まともな国の軍隊の上部は兵と同じものを喰いたがる、別にあつらえた上等な食物はイランという、そうでないと自軍の兵の体力がわからないからである、それもわからないでは戦争の指揮ができないからである。ソ連軍だけではない、まともな軍隊ではトップも兵も同じ物を喰うのである。
いかにメデタイ国軍がシンから腐敗し堕落しきっていたか、そのドクソぶりがわかる。兵の食糧を取り上げて上層部が喰うなどは三流国の三流軍隊であってももうチイとましであろう、いかに軍隊といえども人間集団がすることであろうか、サルの軍隊にも劣る、これがスンバラシイ、無敵不敗、日本のホコリ、戦争してくれてアリガトウとかネゴトにもならぬ礼賛やまぬ日本軍のド恥ずかしい実態であった。
貧しき市民が喰う物を喰って行政にも当たってくれよ。メデタイ市の幹部どもよ。上になればなるほど貧乏人どもよりはうまいモンが喰いたいなどとはユメ思うなよ、グルメだとクソどもが、と思えよ、このワシが貧しい者と同じ物が喰えるか、などとはユメ妄想したりするなよ、それが堕落の始まりだ。市全体が堕落してクソになってしまうぞ。

何もシベリアに限られた日本兵の悪徳ではなかったようで、『俘虜記』によれば、フィリピンの俘虜収容所でも同様であった。日本人衛生兵と配膳係りも同様のことをして、食糧の分量が減り日本兵病傷兵を苦しめた。管理する米兵は怒って食糧が少なければすぐに言ってこいと言うが、誰も言ったりはしない、言えばどうした目に会うかわかっていたからである。ピンハネ国家、それが日本国だ。特権とはピンハネ合法権である。
 
シベリアでもフィリピンでも興安丸でも一人一人に食糧を支給するのではなく、グループごとに、この棟、この部屋、このテントには何人いるから、何人分とかためて支給される。満州などの収容所の一般引揚者などもそうであったという。0歳の子供でも1人分が支給されるが、ところがこれをグルーブの上部が取ってしまう、0歳には必要がない、これはみんなの分として何かの時に役立てよう、とか勝手に決めてしまう、そう決めて自分らで喰ってしまう。何も軍隊社会だけではないのである、これがスンバラシイ人社会である。特権は私腹を肥やすためのものとしか考えてはいない、下層民のことなど知ったことではない、今もまったく同じでないか、スンバラシイ人よ。
スンバラシイ、スンバラシイが連発される場合は頭から疑うのが正解である、それは大ウソであると決めてかかるのが正解である。スンバラシイ、スンバラシイ、世界一のスンバラシイ商品です、スンバラシイ価格です、性能スンバラシイ、デザインスンバラシイ、買ってゼッタイまちがいないですよ。そんなモノをあなたは買うか。ダマされるのは世界一メデタイスンバラシイアホだけであろう。
スンバラシイ原発も同じで、一般的な世論調査では再稼働反対が多数派である、だがそれは一部の声だとして市も市議会もロクな説明会も開かず、避難計画もなし、訓練もなしのままであるにも拘わらず、再稼働容認した、アホである。カレラとてそんなことは信じてはいないだろう。ではなぜ容認したのか。カレラに与えられた権力は何のためにあるのだ、舞鶴人ではない外部の利益で動いているではないか、これでカレラの私腹がどう肥えるのかは知らないが、ナニか見返りが期待できたということに決まっているのでないかと疑われるのは当然であろう。背任行為である、説明ない限りはワタシは疑い続ける。また原発交付金は本来は0歳児など弱者こそ最も迷惑をこうむるのだから、一人前以上に受け取る権利があろう(そうした本来あるべき交付基準にはなっていないようだが)、赤れんがなどに使ってよいわけなかろう。クソ「役員さん」だけが全部取ってしまう、こんなクソにだけヨイ目をさせてカレラをまず買収していこうというのだろう。(フツーの下からの団体の役員は何もエエことはない、よほどに役員になった者が個人として悪いのだろうが、上から作られているような団体役員には何か付けられていると見られている)
 
←当館展示
ハカリにかけてさらにくじ引きで決めたという。こうして超平等に分配するのは、先に特権階級に取られたあとの残りを分配しているのか、あるいは後の反軍民主化闘争を経たのちの民主化された収容所内の様子なのか、説明がなくわからないが、ともかくも抑留死亡者は圧倒的多数が下級兵士によって占められていて、将校や下士官はごくわずかであった。という。

8万の死者の責任はかなりこうしたことにもあった。シベリア引揚者にもいろいろある、帰ってきた軍上部特権どもが語ることごときはまことにアホくさ極まる、ええ目をしたファシストどもの言うことごとき勝手無責任なハナシはまったく聞くこともなかろう、中間のボケナスどももアホくさい。帰ってきてもエラそうに言っているのはこうした連中だが、それらはマルマル信じてはならない。
こいつら特権層らに殺されたと言ってよい、帰ってこられなかった下級兵の声にこそワレラは、当館も耳を傾けねばなるまい。

再度スンバラシイ日本軍を見ておこう。『シベリア俘虜記』より
軍国主義の悪習

捕虜となって、ソ連兵の監視下に生きるわれわれも、いまだにその内部は昔の軍隊組織そのものの姿であった。厳然たる軍紀というよりも、階級組織は徹底していたといっても過言ではなかろう。特にわが中隊においては、この階級的存在や、下士官たちの横暴な態度と行動は、昔の軍隊に優るとも劣らぬ過激ぶりであったのである。
毎晩、暗くなって作業から疲れはてて帰ってくる初年兵たちを、下士官や兵長連の激しく罵倒する声や、帯革ビンタの音は絶え間がなかった。同胞相食むにくむべき醜態−地獄にも等しいすがたである。
いったいこの原因は何であったろうか。シベリアの奥地、暗黒の世界に抑留されて、自暴自棄、兵たちの心は荒みに荒んでいたこともあろう。しかしその直接の原因は、下士官が兵たちの階級的弱点につけ込んで、捕虜生活の続く限り、自己の階級的特権をますます増長しようとの陰謀にはかならなかったのである。
兵たちの破廉恥的な行為は、斑長連の暴行の度に比例して増えていった。苦しめられ腹の空き切った彼らは、飯上げの途中で、暗闇に乗じて飯盒から飯を盗む。他人の飯を掻っ払うなどの事件もあとを絶たなかった。運悪く班長連に見つかったが最後、これ幸いとばかり容赦なく、顔がふくれあがるまで殴られて、揚句のはてが一日中も直立不動の姿勢で立たされ、しかも絶食させられるのである。そうしてその余った飯は班長が平げてしまうのであった。
虐待を受けた彼らは、ますます冷たい、愛の恵みのない暗いどん底の世界へと心は打ち沈んでゆく。そうして空腹に堪えかねて、炊事やパン工場の塵捨場へ残飯を拾いにゆく。塵拾場の残飯といっても、ジャガイモの剥いた皮ぐらいで、パン屑や残飯などはもちろん望むべくもない。身体は衰弱して栄養失調になってゆくが、しかし容易に作業を休むわけにはいかない。班長の代わりに員数で作業にかり出されるのである。力尽きはてて、作業場で倒れてしまう者もある。
医務室に運び込まれても、衰弱の果てには飯もろくろくのどを通らない。衛生兵たちの温かな看護もその甲斐なく、ついに死期が迫ってくる。いままで班内で苦しめられていた彼らは、心は恐怖心で緊張しているが、入室して安心したが最後、心の緩みとともにあっけなく息を引きとってゆくのであった。
さてつぎに、下士官や兵長たちの行状にふれなければならない。彼らは、飯やパンの配給量は兵たちの二倍以上と、半ば公然ときまっていたのである。食事当番がそれ以下に分配すると、とたんにこっぴどくやられてしまう。特に横暴な班長といえば、われわれのH延長であった。
班内の食事はいつも私の担当であった。行軍の途中も、またシベリアに着いてからも、食事分配は私が担当していたのであるが、パンの配給も極端に少ないので、皆の見ている前でつとめて公平に、十六分の一ずつに切って分配していた。まず中の一番大きそうなパンを班長に、あとは並べて置いて不公平なく順番に渡すのである。分配のときの皆の目は異様に光っている。少しでも量の多い、目方のついたやつを、という目つきである。
二日目にも私は同じ方法で分配をした。班長は大むくれである。早速に仕返しがきた。
「みな集まれ!穂苅上等兵の分配は不公平極まるものだ。みな、そのとおりだなあ」
一同シーンとして声なしである。一言でも口ごたえしたら、大変なさわざになることはあきらかである。特に補充兵のおっさんたちは、班長の手のうちを見抜いているから何ともいわない。
「そうだ、穂苅はとんでもない野郎だ。こんな不公平な分配をする野郎には、もう食事分配を任せてはおけない。あしたからは班長が公平に分配してやる」
「穂苅は今晩から靴と一緒に床下へ寝ろ。そしてよく反省しろ」
「わかったなあ」
こうなっては私も黙ってはいられない。
「…私はみなの目の前で公平な分配をしました」
「この野郎!上官に向かって口ごたえするかッ」
とっさにビンタがうなった。頭がジーンと鳴り、顔がかっかっとほてってくる。それでも承知しない私をみて、班長は腰の帯革を解きにかかった。軍隊でも一番重い帯革ビンタである。
「ビューン ー 」と空気をふるわして帯革がうなる。一つ、二つ。全身の血は逆流するみなの顔が二重になり、だんだんとすべてが遠去かってゆく。
「これでも文句あるかッー・」
口惜しさに血のたぎる思いも、じっとこらえて、ひき下がるより仕方なかった。誰も後難を恐れて、一言も発するものがない。殺伐な空気がみなぎる無言のなかに、十六の異様な視線のみが、するどくこの場を見据えている。
翌日のこと、食事当番からパンを受け取った班長は、すぐにそのパンを二階へ上げてしまった。人には見えない二階の片隅の壁際である。一個分隊十六名に三キロ六百グラムのパン一つと四分の一があがってきたのであるが、よく見ていると、まず四分の一は自分の雑嚢の中へ隠してしまい、あとの一個を十六名分として切っている。パンを見ても小さいことが分からないように、形を崩して四角に切り、一つ一つ二階から手渡しで下にいるわれわれに分配し出したのである。
「どうだ。班長の分配は公平だろう!こういうように平等に分配しなければいけないよ」
何をぬかしやがる、と思っても、文句をいえばあとの結果は明らかである。心は不満に満ちていても、
「班長殿お世話になりました」
と心にもないことをいってパンを受け取る兵たちであった。
わが班ばかりではなく、中隊の各班とも多かれ少なかれ、このような下士官の横暴をほしいままにさせていたのであった。下士官といっても、敗戦とともに自分勝手に昇進したポツダム伍長で、関特演当時からの程度の悪い兵隊あがりの連中である。
生命を維持するにさえ足りないような少ないパン、わずかな粥を、その二人分三人分も横領してしまう斑長である。これと反対に兵たちは、ほんの微々たる一口にしか過ぎない飯で我慢しなければならなかった。
飯がのどを通るや否や、腹の虫が騒ぎたてるのか、食べると余計に空腹を感じ、腹の虫が納まらない。目が醒めている間、終日飢えに攻められて苦しむのである。身体は疲労しはて、痩せ衰えて、顔色は青白くなり、足や顔がふくれあがってゆく。そして身体の弱い者は、どしどし淘汰されてゆく。まさに生地獄そのものであった。
当時のこの状態に堪えかねて、大革新を起こそうと企てた同志も数名いたのである。
主としてわれわれ候補生(上等兵)たちであった。しかし情勢は不利である。大勢はまだまだわれわれの革新派とは反対の方向に動いている。小を以って大に当たるも成功するはずがない。『いつか好機を』と、ときの到るのをじっと狙っていた。
階級なんか同じ捕虜にあってたまるものか。たとえあるにせよ特権をもって兵隊を食いものにして、自分だけが生きればよいという、鬼畜のような行為は絶対に許せない。
この軍国主義的な悪因を絶ち切って、平等に権利義務を主張できる民主的な組織にしようではないか。ひそかに、これはと思う同志に呼びかけて、一人でも多く同志をつのり、全体の輿論の盛りあがる機会を待っていた。

生きて帰って者には罪悪感というのか、うしろめたさ、悔やみがある。オレは幸い帰れたが、その代わりとしてダレかが死んだ。何か申し訳ない気持ちがしてならない。シベリアばかりでなく、こうした声は復員兵からはよく聞く、助けてやれなかった、知らぬ顔して見てた、詳しくは語らないが何かそうした場面を思い出しているのかも知れない、カレラを殺した責任は上部のドクソどもにあるが、しかし一端はワレにもある、そう良心が痛むのだろうか。
『シベリア抑留−未完の悲劇』(栗原俊雄)に、
   
シベリアの墓参許されて生き残る者鎮魂という演技をするな
 「生きて帰った人たちが、慰霊訪問をしますね。夏に。一番いい季節に行って、シベリアの何が分かるんですか」。
 「生還した戦友に 『シベリアでは何をしてた?』と聞くと、食料係とか医務室とか通訳などですよ。うまく立ち回って、重労働を逃れた。誰かが代わりにその仕事をさせられたんです」
「そうだったとしても、生き残るために、仕方なかったのでは」。私はそう問うた。佐藤は長い間だまったあと、うめくように言った。「我々生き残った者はね、加害者なんですよ」。
正直な人なのだろう。フツーは都合の悪いことはたいていは知らん顔してとぼけるくらいであろう。そして言うみな「ソ連が悪かった」からだと。
「ソ連が悪い」は額面通りには受け止められないのである。自分らのツミをその場にいない彼らに負わせ、スケープゴートにして、加害者であった自分側の責任逃れを言っている卑怯者かも知れないからである。


労働内容実態
森林伐採とバム鉄道敷設工事が有名だが、それだけではない。実にいろいろであった。ウズベキスタンでは劇場や学校、水道などのインフラ建設もしたという、さきほどかの地の方が当館に見えられた。日本人墓地近くに資料館を開き、個人で運営を続けているそうで、「子供のころ、友人の父親から日本人抑留者のことを『遠くの国から連れて来られたにもかかわらず勤勉だった』と聞かされて日本人に興味を持った。また技師として働くようになったときに、日本人の技術の高さにも魅せられた」と話したという。シベリアはこうはいかない、凍土の上に建設しても、どんどん沈んでしまうそうである。

←伐採した丸太をトラックに積む日本人捕虜(『検証 シベリア抑留』より)
低開発国では今でもこれと同じ積み方をしているよう、テレビの画面だが、もう少し細い樹で、密伐採とか。
この写真は当館にも展示されていたが、今はないよう、ケース展示はドギツサを押さえてまともな近づいているよう、大道具がウソくさい大芝居がかって信用する気にはならない。
少し以前まで舞鶴港にはソ連の原木が水揚げされてゴロゴロしていたが、あのなかの太いゴッツイクラスの大木だ、当初は長さもこんなものだった、後には2〜3倍くらいに長くなったようである。
35度以上の焼酎を2、3本下げていけば、礼にキャビアをバケツ一杯くれたとか、当時の日本はキャビアのネウチは知られていなくて、コンナモンくれたけどどうして喰うもんなんじゃいとネコに小判であったという。舞鶴港では大きなフォークリフトで積み込んでいたが、こうして手作業でトラックの荷台へ上げていたのだろうか、ヤバイぞ、誰か一人が少しでも気を抜くと全員が命を落としかねない危険な重労働と思われる。ロシア人の大きな身体が基準の力仕事はきつく、どう頑張ってもノルマは果たせなかったという。(手先は器用なのでそうした分野ならノルマ以上であったという)
捕虜の抑留やその期間の労役は多少ならば国際法でも認められてはいるが、何年にもわたって、超危険な作業をさせることは許されないし、労賃も支払わないなどはあってはならない。

日本側は太平洋戦争当時には捕虜に対して人権意識を持っていなかった、奴隷くらいにしか考えてはいなかった。クワイ河マーチで知られる泰棉鉄道敷設工事では、連合国の捕虜だけでも6万2000人、うち2万5千人が死亡したと言われ、犠牲膨大で「死の鉄道」と英語圏なとでは呼ばれている。バム鉄道と同じように「枕木1本、死者1人」と呼ばれている。正確な数は不明ながら、この鉄道だけでもシベリアで死んだ日本人の数以上は死亡していそうである。シンガポールで捕虜になりこの鉄道工事に使われたオーストラリア兵が幸いにも帰国できたときその体重は27キロしかなかったという。
いや欧米と日本とでは生活の基準が違っていてつい日本式で十分と思っていてとか、あれこれ言い訳にもならんことを言うな、見苦しい恥の上塗りをして責任逃れを言うな、知らんこともなかろうし、国によって違うのはアタリマエだろが、どこでも日本と同じだろうは、アホな妄想でしかない、違っていたなどは言い訳にもならない、国際基準でやらねばならないことは決まっていようが。



己が保身のための捕虜売り渡し疑惑
シベリア抑留はフツーはスターリンがワルモノとされている、スターリンがワルイ、ソ連がワルイ。しかし歴史を検討してみると、単にそうした外国だけがワルイのではなく、本当は日本側も売り渡しを最初に言い出していたのでないかの疑惑が強くかけられている。
まだ班長や世話役などはカワイイ。クソだが、自称スンバラシイ人は今もほとんどがこんなクソであり、こんな小物にいちいち腹を立てていたらキリもない、カワイイの程度のネズミのクソだとして笑うしかないものであるが、実はもっともっとワルがワンサカいたことが浮かび上がってくる。
「京滋の会」の抑留者も、ワレワレは瀬島に売られたんです、日本政府に売られたんですよ、とポロリと言っておられた。当館はもちろんそんなことには知らん顔である。当館にはそうしたことを言った様子ではなかったが、なんで私にそんなことを言うのかはわからない。何物か知らんがコイツは少しはわかるかも、とか見込まれたのかも知れん。恩師の言葉で言えば日本政府の棄民棄兵策によるもの。しゃあないな、ちょっと触れたおくことにしよう。現在の政府もこの後裔なのでこうした運命が民や兵の身にふりかかる、憲法の縛りを失えばそうなるだろう。


近衛特使のソ連派遣計画と「近衛要項」
いよいよ必敗が現実になってきて事態は深刻に陥ってきた、米英との和平交渉の斡旋をソ連に頼もうとした。7月11日、天皇の勅使として近衛元総理をスターリンの元へ派遣し直接依頼してみようということになった。
ソ連は連合国側の一員であるし早くから対日参戦は同意していた、2月のヤルタ会談ではその日取りまで取り決められていた、
戦争が終結した後二箇月又は三箇月を経て、
ということである、各国に放ったスパイはこの情報を入手して本国へ伝えていたといわれるが、どこかで誰かが握りつぶしたようで「伝わらなかった」と言うことになっている。都合の悪い情報は握りつぶされる、これが過去も現在ものスンバラシイ国の実情ようである。
ドイツが無条件降伏したのは5月8日であるが、それよりも1年も前にはソ連領からはドイツは追われていて、ソ連は東欧の解放へ向かっていた。もうソ連軍がこちらへ来るという時期になって、ようやくこんなハナシをしようというのである。さすがにスンハラシイ国であった。敵も知らずのバカ者が、負けるはずがないとほうける。ふざけるな。もう語るもアホらしく情けなくなってくる。ナゼ必敗の戦争を始めたのか?愚問だと思われる何も難しい問題ではない、こんな連中だから戦争が始められたのだろう。
またずっと仮想敵国としてきた国であり、何度もこちらから攻め込んで行ったし、共産党のオヤダマ国であるが、その地元の共産党へは治安維持法でずっと虐殺を繰り返してきた、そんなスンバラシイ国がどのツラ下げてもド厚かましくも、難しい斡旋など頼めた義理はまったくなかった。しかし米英相手の交渉ではこの大国に頼る意外にはほかに国はなかった。
よくもまあそう勝手なことが言えますな、ナニをこれまでなされてきたかまさかお忘れでもありますまい、ずっと敵視してきたでないですか、ドイツに攻められた時も、革命後の苦しい時も攻め込もうとしたでしょう、防共協定なんかも作ったでしょうが、仲の良い国に頼まれればよいでしょう、仮にあればということですが、一国とてありますまいが、それがあなたたちでないですか、ワタシ達もお断りします、ファシストなどに手は貸せませんと言われればそれまでであった。また実際はその四面楚歌のどうにもならない状況であったのだが、それも知らずの記録的にドアホな計画であった。
明治の元勲たちは戦争始めるのは簡単、しかしそれを収めるのは大変である、それをよく考えて、終わるための手をあらかじめ打ってから始めなければならない、としていたが、昭和の元勲たちにはそれは引き継がれなかった。出先の軍隊に引っ張り込まれ、アトサキも考えることもなく、とうとう当然の結果に向き合わねばならなくなった、アトは知りまへんわいな、ソ連さんアメリカさんナニとか頼みますと、後は自分の保身だけがすべてであった。
こうして考えた対ソ和平条件とするものも超大盤振る舞いは避けられなかった。交渉の基本要項がもうけられたが、それによれば、国体護持、要するに天皇制だけは残してくれ、これは絶対条件。領土の海外分は全部取られても仕方ありません(カイロ宣言に沿うものか)、さらに沖縄も小笠原も取ってもらってよろしい。
 
当ページとして、この「要項」で問題になるのは、賠償として労力を提供することに同意する、軍人軍属をソ連が抑留して賠償の一部として労働に服されることを容認するというものである。「同意する」「容認する」といっているがウソばかりの大本営語の修辞作文で自分らの卑怯な振る舞いを美化するためのヤシ言葉であろう、相手側は何も言ってない段階だから「そこに兵隊がおりますからそれを使って、賠償に当てて下さい」と日本側から言い出しているとみなければなるまい。
実際には歴史はそう流れたわけだが、この「近衛要項」はソ連側にすなわち連合国側に渡されたわけではない、近衛特使の派遣までたどりつけないうちにソ連は宣戦布告を突き付けてきてしまった。
しかしこの要項は政府戦後直後処理の最高方針であって、ボツになったわけではない、うまく相手方へは伝わらなかったというだけというかある程度は伝わっただろうが、その後の日本側の基本方針にこれ自体は生きていて、この要項に沿っていく。
天皇制のためならどんなに国民が犠牲になろうとも何らかまいません、国土も昔のままでよろしい、天皇制だけを残してくれ、天皇制国家なら当然な、どこかの原爆保有国のような、棄民当然とするスンバラシイ国の戦後処理方針であった。
「国体」と言っているが、これも大本営語で解説すれば、「国体」とはすなわち天皇制ファシズム国家の特権層の指導層である自分らの今の特権だけはゼッタイに譲れないと言う意味である。
「近衛要項」をわかりやすく翻訳すれば、ワシラの特権だけは今のままにしておいてくれ、これは譲れない、それ以外はどうしてもらってもいい、好きなようにしてくれということである。
すぐのちの「朝枝文書」や「ジャリコーバ密約」(瀬島疑惑)なども関東軍が勝手にやったというものでもなく、こうした政府の方針に沿ったものであった。
兵隊は帰国させずに労働力として使ってもらってもよろしい、は天皇制ファシズム国家の最高戦争指導会議としては当然の方針であった。スンバラシイ国とは実はこうした国であった。

まあそうスンバラシイ国政府が言っても、ソ連側としてはボツタム宣言の「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」に反してシベリア抑留をしてよいわけではない、日本政府はこれに違反して「満州残留引揚げ反対」だったが、あれはイカレているので、大国のソ連様は守って下さいなどととブツブツゴニョゴニョ言うくらいしかない。言うのもワレながらアワレである。
一般国民の引揚げについては何も決められてはいないが、それに準じると理解されている。スンバラシイ国民側もシベリア帰りはアカとして、あるいは民間引揚者に対して、冷たくしたり就職差別したりしてはならなかったのである。帰国後民間引揚者は国内の開拓地に入植していくが、カイタクの子といって周囲の子ですら石を投げたり、いじめたりしたという、親たちがそうであるから子がマネしたのであろう、いずれもポツダム違反である。ソ連はポツダム違反だ、と我が身は棚にあげて、責められる立場ではないようである。
 
シベリア抑留者の引揚げが始まるのは昭和21年11月であった、全員が最低でもまる1年以上はシベリアに抑留されていたことになる。
終戦当初の日本政府は、満州などに残された日本人は「現地に定着させる」方針で、引き揚げさせる気がなかった、引き揚げても内地も大変だし、引揚船も用意できなかった。ほったらかしにした。占領下で外交力がなかったとは言え、エエカゲンな話である。行け行けは言うが帰りたいと言っても知らん顔であった、ナニが「邦人保護のため」の軍隊駐留かアホくさい。葫蘆島からの引揚げですら、マル1年ほったらかしにして21年6月からであった。
早く帰国させろと言ったのはアメリカくらいであって、それに従わざるを得ないし、内地国民も騒ぎ始めた。それでGHQにお願いして、1年もしてようやく引揚げが動き始めたのである。
アメリカ様のおかげで、日本政府にまかせていたら何百年もほったらかしであったことだろう。引揚問題はだいたいのケリがついたが、ケリのついてない問題はまだまだ多く残されていて解決のメドすらいまだについてはいない。これがスンバラシイ国政府のやり方である。


ノモンハンの日本兵捕虜
ま、ま、まさかいくらスンバラシイ国といえども、上部の保身のために味方の捕虜を敵国に売り渡したりはすまい、そ、そ、それはウソだろうデマだろう、と思われることだろう。
それは現代日本人だからそう思われるのであって、現代日本人と言うのか、実の所はアメリカ人、ハンパなアメリカ人の常識からは、そう思うということであって、実際の当時の日本軍や政府や一般国民の捕虜に対する異常な認識や姿勢とは何も関係のない、勝手な思い込みに基づいたものではなかろうか。過去の話ではなくハンパアメリカ国には現在もその残滓はしつこく生きている。
中国兵捕虜は全部「処分」したという証言は多いし、アメリカ兵捕虜も九大では生体解剖した。撃墜したB29からパラシュート降下して来た米兵をみんなで取り囲み殺した「身体はリッパやし皮ジャンパーとるし、こっちはボロ服やな、クワやカマ持ってみんなで取り囲んでな、どこかへ連れて行きよったな、あれ殺してしもたんちゃうかなー、ワシは子供やったで最後は知らんけどな、やりかねんオトロシー雰囲気やったな」とか聞いたことがある。もう日本人はイヤだ、「私は貝になりたい」と叫んだBC級戦犯もいた、国民もあげて捕虜虐待をやっていた、関東大震災時の朝鮮人虐殺とか何も軍部や政府を批判する資格もない似たり寄ったり者だった、何も国民は平和的で、国民には責任はなかったというほどリッパな者ではない。よほど国際常識に明るい者が現場に居合わせて懸命に「捕虜は殺したらアカン」と止めなければ、表向き発表はともかくも敵国捕虜へも実際はムチャクチャをした。
これを思い起こそう、軍港を礼賛することはすなわちこうした国民も礼賛することであろう。何もかも忘れてただ礼賛することである。

では日本兵が捕虜になったときはどうしたか。無敵不敗の皇軍には捕虜はない、とするのがタテマエであったが、勝とうが負けようが戦争すれば多かれ少なかれ捕虜は必ず出来るものである。原発稼働させれば必ず事故が発生し、地震津波も必ず発生するのと同じで否定しようもない話である。ソ連に負けたのは第二次大戦が初めてではなく、昭和12年のノモンハンで負けている。この時には数百名(500名内外)の日本兵捕虜が発生していた。たいていは戦場で人事不省に陥り意識不明のままに敵の手に墜ちたという者たちであった。この時の対処の仕方が参考になりそうである。

ワタシの恩師はシベリア抑留者で一番最後の船で帰って来られた。ある日、いま小説を書いとりますんや、与保呂村の人がノモンハンで捕虜になりましてな、身分を隠して村へ帰ってみると自分の墓があった、それを見てまたソ連へ帰って行ったという話ですんや。与保呂には墓はありますかいな。
と言われる。墓くらいはありますけど、しかし固まってはないようです、だいたいその家々で山の上とか麓かに代々の墓地があるようです。陸軍式の墓は見たことがないです。
とか言っていたのだが、その後『丹波文庫』に発表された(1988.11号)。
木材運搬船の乗組員となって一時入国し、引揚記念館も覗いてみた、彼デルス・ウザーラの後裔、ノモンハンの生きた亡霊が語る。
『シベリヤ抑留者鬼念館』の感じがしますね……
意外に思うのは、兵士たちにとって戦争とは何であったのかについての掘り下げがあそこには見つからなかったことです戦争は誰によって、何の目的で、どういう風に行われたか、その戦争の中で自分はどう行動したか、どんな役割を果したのか、何のために外地に武器を抱いて立っていたのかに就ての考え、批判も自己批判もあそこでは見つかりませんでした。
抑留期間に捕虜を強制労働に従わせたことには確に国際捕虜の取扱い規定にそぐわない点があったと思います。しかしソビエト連邦は日本軍が満洲や中国でやった捕虜の斬首や虐殺、生体実験のようなことは行わなかったと思います。たしかにシベリヤは極寒の地です。厳しい自然の下で日本の捕虜にとっては可成りの苦難であったでしょうし、食糧も充分でなく、ソビエト国民自体が飢えていたのですからとても戦争捕虜をお客様扱いはできなかったでしょう。その上に捕虜の生活では正確な外部からの豊富な情報や状況知識が得られなかったでしょう。その結果己れの体験だけを最も苛酷なものであったと主張する偏向は避けられないと思いますが世の中には同じ日本兵で、同じ満洲で戦場に立たされ重傷のため点識不明のうちにソビエト側の野戦医療部隊によって病院へ収容され捕虜となったが日本軍の指揮系統からは日本中には捕虜となるような卑怯者は居ないと引き取り左折否されたものもあります。現に生きています。即ち生きて捨てられた廃兵であります。これを棄民とも中します。それに比べれば生きて帰国できたことによって己れの苦労をそれほど強調すべきではないのではありませんか。そのように私は思います。そうすることには何かの目的が直接か、間接かにあるのではないでしょうか。確に歴史の証言とか証拠の価値が無いとは云えませんが、そのためにはもう少し原因や経過、その結果をもっと深く見詰めるための編集が必要なのではないかと私は考えます。でないと科学的な証としては感情ばかりが際立って怨念の表現になり終っている感じがします。つまり記念館でなくて鬼念館のようだと言ったのはその点です。
しかし……‥‥‥どうも不思議でならないのはあれを作ったのは舞鶴市だということです。建てる前に何の企画も無く、編集方針もなく、たヾゆき当りばったりに引揚者から提供されたものを総花的に並べたにしては……何か滲み出るものがあります…‥
これが抑留者の感想と思われる。右翼バイアスがかかっている、問題が大きく舞鶴市の実力ではあつかい兼ねている、の感をどなたも持たれるのではなかろうか。これでは見る者は何が何だかわかりかねる、中学教科書の線に戻ってコツコツとやることでなかろうか。
ノモンハン停戦後に捕虜交換が行われ、全数交換ということで、日本へは百名ばかりの捕虜が帰ってきた、帰ってきた者に日本側が尋問してみれば、もっと日本兵捕虜がいそうだし、ソ連側でも全数交換だから全員帰れというのだが、多くは尻込みして帰らない。だいたい500名ばかりは国境侵犯罪で7年くらい服役し、その後はソ連に帰化してしまった。師の小説はその一人が一時帰ってきたというものである。日本側発表では彼らは戦死であり、立派な村葬などがあげられていた。
シベリア抑留の手記などでも、ノモンハンやその前年の張鼓峰事件の日本人捕虜らしい人に声をかけられたという話が見られる。
張鼓峰は朝鮮間島省とソ連沿海州の境になり、国境線の不明確な所であった、従来からソ連領になっていたり朝鮮領になっていたりしていた、別に何もない所だからそこを取ったところで後の警備に困るくらいの土地であった。上は放っておけであったが、現地朝鮮軍(朝鮮駐留の日本軍の十九師団)は師団長の独断で師団主力による攻撃をかけた。ソ連側に3個師団+機械化旅団で反撃され、1500名以上の死者を出した。ソ連軍は自分の言う国境を越えては追撃はしてこないし、その線まで下がれば何も要求はしてこない。エエカッコしようとして逆にコテンパーにやられた不細工なこの事件を何とか隠そうとしたため、この敗北の教訓は生かされることはなかった。この事件はソ連赤軍正規軍との最初の本格的な戦闘経験であったが、1500名が死んだだけのことで終わってしまった。
ノモンハンもホロンバイル草原のどうでもよいような所だが、こちらも現地軍の独断で始められた。いきさつは張鼓峰のようなことだが、さらに規模が大きかった。「無敵関東軍」がコテンパーにやられた、主力の23師団の損耗率は79%にもなった、ガダルカナルですら損耗率は34%だったから、その苛酷さか偲ばれる、これも単にバカがエエカッコしたかっただけの思いつきではじまったのである。鉄砲3発撃てばソ連軍は逃げるくらいの認識が改められることはなかった。関東軍は「北向きの軍隊」で、対ソ戦用の軍隊であったが、かくして敵をロクに知ろうともせずに世界最強の無敵軍隊とひとり誇り続けることになる。フクシマ事故の原因も知らぬままに「世界一の安全基準」を誇る愚と同じである。舞鶴のホコリですなどというクソ市民と同じである。


←タイシェットの製粉工場へメリケン粉の受領に行って、張鼓峰の捕虜だったという男に出会った。出身は長野県下伊那郡といった。彼は8年の刑が終って出所した処だともいい、何とかして日本に帰りたいといったが我々にはどうも出来なかった(タイシェットのラーゲルで、S22.5)『シベリア抑留1450日』(山下静夫)より

彼は太平洋戦争があったことも知らず、日本語も忘れかけていた。スパイ容疑もかけられて長い服役であった、その後彼の身元が山下氏などの努力で判明したと言う。
負けた捕虜になったというがロクな武器もなかったでないか、ソ連の機甲部隊にタケヤリで勝てるワケなかろう、結局責を負うているのは兵卒だけか、と氏は怒る。


 
戦陣訓←『戦陣訓』(当館展示)
本訓(其の二)の第八「名を惜しむ」のベージが開かれている。

第八 名を惜しむ
恥を知るもの強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

とある。

ノモンハン当時はまだ「戦陣訓」はなく(昭和16年の訓令)、「生きて虜囚を受けず」はなかったが、すでにその観念は強く、たとえば、中国戦線で捕虜になり帰ってくればことごとく銃殺になったと言われる。捕虜になっただけでは銃殺にはならないが、敵に尋問などを受けて軍事機密を少しでも漏らしたとしてしまえば、軍法会議ではそれに引っかけて重罰は逃れられず銃殺くらいには簡単にできた。中国側ですらそのウワサは知っていた、オマエらもかわいそうだ、帰してやってもいいが、帰ると銃殺だと言うでないか、それでも帰るか、それよりもこっちにおれよ、日本は負ける、負けてから帰れよ。
中国兵は逃げられないように足は鉄の鎖につながれていたヤバンな軍隊だったとかも言われるが、日本もそれとかわりはなかったのである。
ノモンハンの捕虜は帰ればそうなると知っていたから、帰らなかったのである。それを知りながらも帰った者は、将校なら自決を強要され、下級兵なら銃殺から逃れられても、オマエは戦死したことになっている、満州の奥地の一番危険な開拓団に行って一番早く死ね、名を変えろ、もう墓もできている。一度死んで生まれ変わった者だから、これまでの家族とは死ぬまで一切連絡を取ってはならない、守れないなら銃殺だ。と厳命された。

永年にわたってこうした体質の国だから、それが昭和20年の敗戦と同時に、捕虜に対する態度が急変し改めたとは考えにくい。
日本軍には捕虜はおりません。えっいますか、60万も、そうですか。こちらでは戦死したことになってます。もしいるとしたらそれはそちらで好きなようにして下さい、そちらでも労働力が不足だとか聞き及びますからそれに使ってやってくれませんか。引き取れと言われても困りますよ、こちらも大変です。捕虜なんかのことよりも、私らの身と特権の安全保障をど〜かよろしくお願いしま〜す。
表向きはともかくとして、実の所はそうした勝手極まることくらいでしかなかったと見てよかろう。

日本側の問題としては以上のようなことである、自分らの保身のために兵士をこちらから先に差し出したのでないかと疑われる。
もう一方のなぜソ連は60万もの兵をシベリアへ送り、強制労働に服させたのかが問題になる。ソ連は日本へ侵攻するあたりポツダム宣言に署名をしている。この規定によれば、捕虜は帰国させねばならず、実際に「軍事捕虜をソ連領土へ運ぶことはしない」旨のソ連軍の電報が残されている(8/16付)。
だからこの時点での指令でソ連兵士が「トーキョーダモイ」と言っていたのは正しいのである。最初はそのつもりであったと思われる。
ところが8/23に「国家国防委員会決定No.9898」が発せられた、それは1週間前とは正反対の捕虜の50万のシベリア移送と強制労働使用の命令(「スターリン秘密指令」と呼ばれている)であった。
何で急変したのか、これがナゾである。すべての関係資料が公開されているわけではなく、本当のところは推測しかできないが、米ソ関係に何か急変があり、それがソ連をして捕虜に対する姿勢を急変させたのでないかとも見られている。原爆がまだなかったアメリカは日本本土上陸作戦をすれば、対独戦をはるかに上回って100万の犠牲が出そうだと見ていた。これはかなわん、ソ連さんも加わってくれ、50万ほどの犠牲を引き受けてくれ、そのかわり日本を半分づつ占領しようでないか、密かにはそんなハナシになっていたのでないかと思われ、ソ連軍は北海道上陸作戦も準備万端整えていて8/18に敢行する予定になっていたが、いよいよになってアメリカに拒否された。
アメリカ側に大変化があった。アメリカは大統領が代わり、反共のガリガリとなり、原爆も手に入れた。何もまともなリクツも理念もなかった労働者勢力の台頭を資本家どもが恐れたというハナシである、大資本の戦後処理方針を力で押し通そうということらしい、ソ連に対する態度はガラっと変わった。おいしい所は全部アメリカが取る、ソ連はこっちへ来るな、何もヤランと変化した。日本が支配した地域圏からはソ連勢力は徹底して追い出し、日本軍国主義に代わってその支配地にはアメリカ一国の覇権を確立し、思い通りにするという姿勢になった。今もそのとおりである(満州と北朝鮮はアメリカ覇権の圏外になっている)。
原爆を持つアメリカに刃向かうこともできず、関東軍捕虜をすぐに帰してくれとも言ってこず、日本に至っては内地も大変だからと引揚げは考えていない、そちらでしばらくメシを喰わしてやってくれのような口ぶりである、当時のソ連はタダメシ喰わせられるほどには豊かではなかった。日本は完全にイカレとるわい、日本も大変だろうが、ソ連の方はもっと大変じゃい、何もわかっていない大バカの集まりのようだ、日本の死者は300万でないか、ソ連はその10倍だ、3000万にもなっているんだぞ。何が「内地が大変で」だ、こっちの方がよっぽどに「大変で」だ、アホの相手はしとれんな、そんなことなら、仕方もない捕虜にはしばらく働いてもらうしかないか、になったのかも、とも推測される。
共通の敵が倒れると即刻仲違いして米ソ冷戦がすぐに始まっていく。オイオイオマエら仲良くしてくれよ、自分さえよかったらよいのではあるまいが、それが戦争になったんやろが、オマエらは仲間やろが、喧嘩のとばっちりはワシらに来るんやど、などと言うような者はいない。日本も自分さえよければよく、反共キチガイでもあった。結局日本には棄てられ、その上に米ソ冷戦のとばっちりを喰わされたのは兵たちであったのかもわからない。
ソ連軍が北海道にすぐにでも上陸してきそうだという情報は軍部上層はある程度はつかんでいたと思われる。浮島丸事件が発生するのはこうした中であったと思われる。ここに置いておけばソ連軍と呼応して大暴動になる、彼らは基地の全容を知っていると恐れ、急遽本国送還しようとしたものかかも知れない。


民主化運動
抑留兵は軍隊というものは天皇の軍隊式しか知らなかったのだが、ソ連軍を見ているとずいぶん様子が違っていた、勤務時間中は上は上、下は下だが、勤務が終われば、立場はまったく対等であった。ふんぞり返っていることはなく将軍と兵卒が友達のように話している。食糧の配給もまったく同じであった、将校でもワシら捕虜と同じくらいしかもらってないぞ。
ワシらの軍隊とえらい違う、違いすぎる、ぜんぜん違う、まったく違う、生まれて初めて、異文化のどうしょうもないほどに優れていることに、自分らが劣っていたことに非常なカルチャーショックを受けた、そして日本兵はその「辛く悲しい抑留生活」から、ナンボ軍隊であっても、こうあるべきだ、と気づき始めた。まったくこれまで知らない文化に接すると恐れるか、バカにするか、興味を示すか、どちらかだが、彼らは興味を持った。何か共感するものがあっただろう。

また死亡者が出ては作業に差し支えるし、日本の軍隊の階級組織を残しておけば立派にやるものかと思い込んでいたが、暁に祈る事件とか、リンチもひどく、トンでもない思い違いで日本軍階級制度の何の思いやりのカケラもない非人間的なヒドサさもわかってきて、連邦政府方針で、どの収容所でも兵と上級者を分けて収容し始めた。

こうしてあらゆる収容所内で反帝反軍の民主化運動が日本兵の手で一挙に進められることになる。だいたいは一冬を越した昭和21年からであったと言われる。
←『画文集 シベリア虜囚記』(佐藤清)より
民主教育
地に堕ちた日本軍捕虜部隊の荒廃した秩序を、民主的規律の確立によって立て直し、旧軍隊の悪い面を改め、すこしでも平等で、明朗な俘虜生活ができるようにするためには、どうしても避けられなかったのが、この民主化運動だった。
「日本新聞」が音頭をとったシベリアの民主化運動は、収容所の所在地、ソ連側の理解の程度、その大隊の構成された性格などによって、多様な特色はあったが、全般的には好ましい方向にあったことは事実であった。
しかし指導者の行き過ぎや、暴力沙汰、新特権階級のボス化など、悪い面も多くみられ、捕虜の世界でも、敗戦日本の混沌とした社会と変らない、縮図のようなものであった。
はじめの「友の会」運動が、民主グループ運動へと発展していったのは、たんに将校、兵の対立闘争や、食糧の獲得、演芸会というような、ソ連側としては第二義的な、あまり重要視しなかった面に向けられていた運動から、俘虜の帰還もまじかに迫ってきたこともあって、ソ連側は急激な思想運動の展開を企図したためであった。

民主化運動などというが、ほんの少し前まではそうした考えはアカであって、特高に殺される思想であった。そうした教育は何も受けたこともないし、自分で考えたことも学習したこともない者ばかりであった。だれも触れたことすらなかった。リーダーといってもダレもいない。自分らの頭で一から考えていかなければならなかった。
 
この時期は何もシベリアの兵隊ばかりでなく、国内でも青年団など、多くの戦前からのグルーブは組織あげて取り組んでいる、農村の民主化闘争がメーンになっている。青年団もトップは陸軍などによって牛耳られていて、軍の下請けになっていた、地元の農村は戦前のままの非民主的な社会であり、これではまた戦争が起きる、次はワシらが行くことになる。これを何とかしようとしている。外へ向けては古い支配層に対する闘争であったし、自己闘争でもあった、自分自身を、自分の組織を民主的に変革しなければならなかった。
全国的に自発的に進められたもので、地域によって進んだ所もあれば、たいしたことなかったんじゃないの、の所もある。
舞鶴はどうだったのかと、ご先輩たちに聞いてみるが、自分のテガラ話ばかりで、聞きたいかんじんの話がない。だいたい戦後直後の全国的な民主化や平和運動などの高度水準の活動歴史は興味もないし、あったことも知らない。団員が多かった、スポーツも文化も強かったとかばかりである。
たいしたこともなかったのかのぉ、がワタシの見方である。
舞鶴市の婦人会様はどうであったかは知らないが、ほぼ似たようなことかも知れない。「ご出征を心からおよろび申上げます」であった自分らの過去に対する深刻な反省がないなら、こうした突然手のひら返したようなことを言ってみても、単に上っ面だけの看板の付け替えだけになってしまうかも知れない。
 
←ほんの少し前まではこうしたことをしていた(当館展示。5年前)。それは忘れたか→、
看板を書き替えただけでないのか、中身の変化はあるのか。左は国防婦人会、右は地域婦人会で違うのだが、中身の人はダブっていただろう。
当時は婦人会と言っても、軍部の「国防婦人会」、内務省が上流婦人を組織した「愛国婦人会」、文部省社会教育系の「連合婦人」があったが、いずれも戦争協力組織であった。人はダブっていて、タスキ1本1円だったそうだが、それを全部買って、一人の人間がタスキ付け替えてはあちこちに出かけては目立ちたがった時局便乗ワルノリする頭カラッポ婦人もあったという、絵に描いたような女ファシストの熱狂だ、映画によく出てくるアレだ、ド恥ずかしい。ファシストなど何のことだかわからんという人は今言うテロリストとでも考えてもらうととりあえずよいかも。あれよりももっともっと悪い、テロリストが何千万人とか殺したことはない。
昨日はファシスト、明日は平和主義者、その日その日の出来心。どうせアタイはメデタイ女。新納鶴千代でなくとも、全世界がにが笑い。しているかも知れまい。ド真剣なド真摯な反省があったようだと皆が見てくれるような人格の入れ替わったほどの変化が見られる、とか言うようなものがなければ、タスキの付け替えだけの話でしかない。もしタスキの付け替えでなく、舞鶴市民は本気になって過去を反省したいうことなら、もうちっとらしい当館展示となっていたことであろう。

銃後を守る女性(舞鶴市・昭和18年頃) 兵士慰問や千人針をはじめ「銃後を守れ」という合言葉のもとに、女性たちは大きな役割をはたした。

国防婦人会(宮津市・昭和17年) かっぽう着にたすき掛け姿で、戦時中様々な活動を行った。
(『舞鶴・宮津・丹後の100年』より キャプションも)

しかし一面では日本史上初めて婦人が組織で社会に出てきたという面が評価されたりするが、侵略戦争協力運動で、組織は自主的なものでなく、軍が作ったもの、どうもあんなものが婦人解放運動などと評価するのは苦しすぎる。平和主義者に至る魂の回路が示されることがなく、ただその時その時の世間の風潮に乗っただけのような感じに見えてしまうのである。女ファシスト、女戦争協力者として戦犯に指定されなかっただけまだよかったようなものである。社会に出るのは結構なことではあるが、よく判断して誤らぬようにしなければ、「銃後を守れ」ではないだろう、「平和を守れ」だろが、人殺しどもによいように利用され、自分の夫をなくし、息子を亡くし、家を焼かれ、自分も死ぬことになる。

これが舞鶴人のおおかたの戦後の出発点であったと思われる、見るに見かねた新聞社が渋る婦人会をおだてあげてポスターを貼らせたのかも知れない、ともかくも4本目のタスキをかけてマスコミにヨイショしてもらったのかも知れないとこのポスターからは勘ぐれる(温かく迎える気持ちが本当にあるのなら、ポスターくらいは自分で作れよ、紙がないなら黄色いハンカチでもリボンでもいいでないかと言いたくなるが、当時のそうした資料がなく以上はワタシの勝手なゲスの勘ぐりによるハナシである。平和、民主主義、それに婦人の解放・地位向上の課題があったと思うが私は特には何も聞かない)。
国内はアメリカ占領下でアメリカ式の民主主義を受け入れたような気持ちになっていただけ、我が身の足らずぶりを振り返る余裕もなく、自己批判自己変革はなかった、祭り上げられるほど者かとの自己分析もなかったかも知れない、一皮めくれば元の顔、仮面の看板だけのもの、赤れんがさんなどは何もめくらなくても元の顔。たくさんの人々の悲しみも苦しみも、すべてひとごとであった、戦争だから仕方なかった、ワレは関せず、関係がナイ、別にナンとも思わない、軍部や政府が悪いのであって国民やましてワシが悪いわけがない、あたりで済ませたつもりかも知れない。敗戦後何も変わらなかったのではない、多少は変わったし進歩もしただろう、しかしたいした変化ではなく、すぐに元に戻ってしまいかねない程度のものだった、この自覚を失わないでいたい。変化や進歩は確たるモノとは言えない程度にとどまった。シベリアはもう終わった過去のこととなどではない、今であり、また未来かも知れない。
そう見ないと過去を振り返る意味はない、屁でもこいていた方がましである。なぜあれだけの人が死んだのか、本当に過去のことかと、当館を見終わって外へでてもそれも考え抜かずにずにいるようでは、こうした館にもまた日本社会にも明るい未来などはもあるはずもない。

今の舞鶴を見ていれば、多くはそうであったとしか推測できない。舞鶴にはフクシマはなかった、戦争もなかった、過去はなく、また未来もない、これがワタシの偏見と独断による一方的見方であるが、どうか間違っていてくれと祈る気持ちで一杯である。
女性も竹槍を持って
本土決戦にそなえて、銃後の国民(戦争に参加していない者)がひとりになっても、女性であっても竹槍を取ってアメリカ兵と死ぬまで戦うのだと、村の国防婦人会を駆り出して、在郷軍人が兵隊並みの訓練をしていた。
60年以上昔の事でも頭ではしっかりと覚えていても、絵に描いてみると全部漫画になってしまい、本当に申し訳ありません。実際は、とてもとても大変な時代でした。
食糧は皆配給制で、1個のパンを買うにも長蛇の列で、何時間も待って買いました。タオル1本買うにも、衣料切符が必要でした。皆が必死で生きた時代を、こんな漫画で、本当に御免なさい。
のキャプションがあった。過去に真剣に向き合うこともなく、反省もなくては何も新しい時代は生まれたりはしない。一皮むけば元のままである。


←『画文集 シベリア抑留1450日』(山下静夫)
無責任な中隊長に憤慨した仲間達の発意で、真夜中の突然の中隊会議となり、私が中隊長に選出された22.6

この40ラーゲリでの各中隊長は旧軍隊の階級序列によって構成されていたが、この第5中隊が天幕の破損という一小事件によって、はからずもそれは、打破られることになり、選挙による、初めての中隊長が誕生した。そしてこの日を境にして第5中隊は中隊としてのまとまりを見せはじめていて、私自身も、第8ラーゲリでなし得なかった私の理想を、死の一歩手前まで追い込まれた苦難の後、ようやく実現し得た思いであった。
タイシェト204km地点第40ラーゲリは、編成された時、すでに一つの特徴があったそれは旧軍隊の階級の制度から脱却したものを持っていて、比較的自由な発言がなされていた。しかしそれでも各中隊では、心情的には階級の上位者に対し一応の遠慮があって、それが原因で、中隊長は矢張り上位の者がなっていた。が、それが原因の全部ではなかった。というのは、中隊を指揮し統制していくには、長年、兵を指揮してきた経験が物をいっていた、そのことが最も大きな原因であった。
しかし、まだ一般には意識されていないが、その実態はやはり旧態依然たるものであることは確かで、今後更に長く続くとは考えられない。すでにその限界は見えつつあった。
ではその見えつつあった限界とは。
@として、階級がただ上位であるだけのことで、背景としての軍隊の権威がなくなっているため、集団を統率する能力が権威から技術へ変化しつつあった。
Aに、権威とか旧権力によって得ていた役得的なものが、絶対量の不足(兵員の補給がない、食糧が充分でない)からくる、末端の不満を助長していて、下級者の自己防衛的気分を醸成していた。
最後に@及びAの点にからんで、国家とは何か?人間とは何か? という疑問が口には出さないが、下級者の間で考えはじめられていた。上位のものは旧権力の維持を試み、それに縋りつく気持を一層強くし、行動することによって、それが下級者にとって反面教師となり、下級者が見失っていた自己を認識させることとなっていたこの皮肉な成行の陰で、上級者は一部の者を除いて益々自己の殻に閉じこもる結果を招いていた。

選挙すれば民主的とかではない、どこかの町の議会でも見ればすぐわかろう。上の言うことをただ無批判に受け入れるだけであった者が、国家とは何か、人間とは何か、と問い深く考え始めていた。引揚者はそんな問いを深く考えた人であることが多いのは、ワタシの経験からも確かなことである。
こうした選挙人に選ばれるとまあまともな人であろう。どこかの市議会などはそんなことなど生まれてこのかたたったの一度も考えてみたこともない者ばかりが選んだ者だから、クソばかりになるのもやむを得ない。
「国家とは何か」「人間とは何か」そんな問題は生まれたこのかた自慢でないが、たった一度も考えてみたこともないわいやの脳天気が「温かく迎えました」などはホントーはあり得ない話になる。

天皇の軍隊で選挙で隊長が選ばれる。奪われていて「自己」を兵達が取り戻した。天皇の軍隊はこの時に真に崩れ去ったのである。同時にまったく新しい組織に生まれ変わった。
今の会社で「社長」「課長」などを選挙で選ぶようなことで、大変革なのである。よほどに意識の変革がない限りはここまでは行かない、そのよほどの辛い体験があり、皆の意識に深く刻ませていたことになる。
これは反軍民主化を越えて社会主義的な変革かも知れない。民主化闘争から社会主義的な変革まで一挙に行っているような感じもするが、収容所での自治組織がつくり変えられた。今の日本の自治会と同じやり方で、それを社会主義的とは言わないが、その方式が国家権力中枢の軍隊内まで及んだとみればやはり社会主義的な面があると言えるかも知れない。
今の自衛隊は文民統制で一応は選挙で選ばれた(ヤシ的なものだが)者の指揮下に置かれてはいるが、これすら制服組(軍部)はハズしたいようだと報道されている。こちらは逆コースを驀進中で「天皇の軍隊」に戻りたいよう。メデタイことである。


おおかたの舞鶴人や日本人よりは、シベリア抑留者の方がまともであった。
少なくとも天皇の軍隊とはまともに向き合った、戦争を見つめ、人間を見つめ、世界を見つめて、支配層に奪われてきた過去の自分のない生き方とは別の生き方をしたいと模索し始めてていた。人間解放を求めていた、殺されていた階級意識も戻り始めていた。
といっても収容所内には本があるわけでも、新聞があるわけでもなく、何も外からの知識を得るものはなかった。
青年団などの戦後の民主化運動なども何も別に学問的に分析されているわけではないように、シベリアでの民主化運動もそれほど興味が持たれたわけでも研究も定説も評価もない。彼らの帰国とともに消えていったようである。
あれは一体何だったのか、そうしたムナシイものにスンバラシイ国の「近代化」も行き着いた。その終着駅のもう一つの忘れられた駅として見て、ここではおこう。

←『日本新聞』(当館展示)
収容所内ではただ『日本新聞』だけしかなかった。ロクでもない情報氾濫国民から見るとソ連は情報がない、少し遅い、コッチとアッチを比べて見るなどは出来ない、一紙だけである。
隣りの収容所はどうしているのかもさっぱり分からなかったが、一紙だけでも収容所同士の横の情報が伝わることになった、また現人神と思い込んでいた天皇が人間宣言したことや、聖戦と思い込んでいた大東亜戦争が実は侵略戦争であり、首脳が捕虜を大量虐殺していたことなどで絞首刑になったことなどもこの新聞で知った。いずれも天地がひっくり返る情報であった。天皇の軍隊の根本が音立てて崩れた。さらに侵略戦争を導いた財閥の解体、軍国主義者やその追従者などの公職追放、農地改革、教育改革、団結権、男女同権、新憲法、戦前には考えることも出来なかった超重要ニュースもこの新聞で知り、過去の価値観は根本的に崩れた。
『日本新聞』は、昭和20年9月15日より昭和24年の末まで662号が発行された。発行はハバロフスク、編集長はソ連極東軍最高司令部付きの日本語翻訳官。スタッフはロシア人15名と日本人50名。週3回の定期発行、無料ですべての収容所に配布された。
ソ連軍はほかの資本主義国の軍隊とは違って「政治将校」という者がいた、軍人なのか知らないが、共産党の出先のようなものか、これが軍の活動のすべてを指導監督するという制度であった。
旧日本軍に対してもこれに似たようなやり方でしかやり方はなかろう。アメリカはアメリカ式に、ソ連はソ連式に、中国は中国式に、フィリピンはフィリピン式に、それぞれ旧日本軍を平和と民主主義に導こうとしたわけになる。ソ連がアメリカ式にやることはなかろうし、アメリカがソ連式にやることもなかろう。その国に応じたやりかたしかできまいだろうが、それは戦勝国の責任であったと思われる。日本政府にも国民にもその責任があり、平和と民主主義に向けて努力をかたむけた所もあったし、たいていはそんなこともすることなく、中にはアカだなどと言って反対する者もあった。
『検証シベリア抑留』に、
「日本は戦争に敗れたといっても、われわれは陛下の命によって武装解除されたに過ぎない。帰国して陸軍省に復員報告するまでは、あくまでも日本の軍隊である。陸軍刑法は、われわれが復員するまで生きている」と、厳粛に訓示した指揮官もいたという。戦後まもなくして、陸軍省も海軍省も解体され、陸・海軍刑法も廃止された。日本からシベリアの奥地までこういう情報は伝わってこなかったから、やむを得ないかもしれないが、時代錯誤も甚だしい妄言と言えよう。
そんな認識だから、将校は旧軍時代と同様に、兵隊に対して宮城(皇居)遥拝、軍人勅諭の奉唱、軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを強要、配給食料のピンハネを行ない、些細なことで私的制裁の雨を降らした。あげくの果ては帯剣の代わりに棍棒を持って、作業現場で兵隊にノルマの超過達成を求める、鬼のような現場監督と化したのであった。人
権を無視した強制労働の毎日‥‥
元来、将校は国際法によって捕虜労働を免除されているので、そのこと自体は不都合ではない。問題はむしろ、同じ捕虜の身分でありながら、将校が旧軍制度下に確立された既存の「特権」の上にあぐらをかき、差別待遇を受ける下級兵士にたいして、何ら人間的な思いやりの心を持たない者が多かったことであろう。入ソ一年目から二年目にかけては、とくに食料事情が悪かったこともあって、過酷な収容所生活にうまく適応できなかった下級兵士がばたばた死んでいった。
このまま放っておくわけにも行くまいし、ソ連としてはソ連式のやり方で臨んだ。
単に情報紙ではなく、社会科学の知識も載せられていたし、組織活動の勧めもあった。
アカの宣伝みたいなノウガキ記事もあり、当初は反感や無視であったというが、だが、天皇は万世一系の神様の裔とか神国不敗などというスジの通らない少し前の日本軍内の話しよりは、インテリ系兵士には好意的にみる者たちがいた。こっちの方がよっぽどハナシが見えるやないか。
『シベリア抑留』(栗原俊雄)に、
「民主主義とはいかなるものか、資本主義、天皇制の問題点など説得力があった。軍国主義教育のもとではまったく教えられなかったことばかりだし、そもそも若いから知識欲があった活字に飢えていたし、むさぼるように読みましたよ」。

「軍国主義教育しか受けていなかったからか、科学的社会主義の教育は新鮮だった」
ちょっとインテリでないと理解は難しいのではないかと思うのだが、インテリ系がやっているうちはまだよくて、彼らに収容所内の実権が移り、それをソ連が大事にして親ソ派親共産派にそれなりの「特権」(早く帰国させるくらい)を与えるようになると、今度はその「特権」を目当てにロクでもない者もドンドン加わってくる。彼らには平和だの民主主義だの社会主義だのなどはどうでもよく、ただ特権だけが欲しいのである。初期の活動家たちが目指した努力方針は砂に書いた文字のように消えて失せた。進歩的な人が先駆的な努力を積み上げたとしてもそれが次の代に引き継がれることは日本ではマレ、一代目が築いたものを二代目がつぶし、三代目で倒産、はよくある。二代目三代目はアホが多いとか、三代以上も続くようなことは本当にマレ。だいたいは一代限り、跡取りなし、かと思われる。売り家と唐様で書く三代目。どっかの国の政治屋さんなどはどうか。舵取りまかせたら日本倒産かも。戦後も三代目になってきた、ニッポン三代目だから本当にヤバイ。



民主化運動の汚点
看板だけの付け替えで旧軍時代の悪癖が復活
当初は旧軍体制に対する民主化闘争であったものが、次第にソ連式民主主義に同意できない者たちを「反動分子」として探し出し、攻撃する運動へ代わっていった。上が天皇の軍隊からソ連の軍隊に代わっただけでないのか。アクチブと呼ばれた活動家たちが実権を握った。日本人捕虜同士での「監視、密告、吊し上げ」が行われるようになった。
こうしたことはシベリアで行われたために内地では知られていなかったのであるが、舞鶴へ引き揚げてきた時に何か異様なことになっていそうなことがわかってきた。
『シベリア抑留−未完の悲劇』に、
「赤い帰還者」
一九四八年から四九年にかけて、ソ連の洗脳思想教育の効果はピークを迎えていたようだ。帰国したのは、その効果を具現化する人々であった。『引揚げと援護三十年の歩み』を見てみよう。
「これらの引揚げ人員はこれまでのソ連からの引揚者とは全くその様相を異にしていた。すなわち引揚船中において船長や船員、行動をともにしない同僚をつるしあげるなどの騒乱事件をおこし、舞鶴入港後も船内に居座り上陸を拒否し、中には滞船一一六時間に及ぶものもあった。上陸にあたっては 『天皇島敵前上陸』などと叫び、革命歌を合唱し、上陸後引揚援護局内においては合唱、引揚げ振り等を行い、まったく引揚業務に協力しなかった」。
一九四九年六月二七日から一二月二日まで舞鶴に入港した四四隻のうち、三三隻で騒動があった。四九年七月二三日に入港した「信洋丸」には二〇〇〇人の引揚げ者が乗っていた。航海中、配給の乾パンに虫が入っていたことや、副食が規定量の五〇グラム配られなかったことに腹を立てた者たちが、船長らをシベリア仕込みの方法で吊し上げた。「信濃丸」では、引揚げ者同士が対立、「反動」を処分しょうとした者らが、航海中は船長に与えられている司法権を渡すよう求めた。船長が拒否すると「第一級戦犯」として攻撃した。
ソ連は抑留の実情を伝えなかった。日本政府にとって、帰還者から得る情報はそれを推察するための重要な手段だった。ところが「赤い帰還者」たちは、引揚げ事務の担当官の質問に対し「忘れた」「分からない」と答え、あるいは沈黙を守った。
混乱は引揚げ列車によって全国に広まった。なかでも大規模だったのが、いわゆる「京都事件」である。七月四日午前、舞鶴港から特別列車三本で一八九二人が京都駅に到着した。北海道や東北方面に向かう列車に乗り継ぐ予定だった。そこで出迎えた共産党員や労働組合員と、混乱を防ぐため配置された警官隊が衝突、共産党員ら二人が拘束された。引揚げ者たちは「釈放しなければ帰郷しない」と抵抗した。さらに「引揚げ者が拘束された」という誤報が伝わり、混乱は拡大。引揚げ者と労組関係者、警官が入り乱れての乱闘となり、四六人が逮捕された。
予定されていた引揚げ特別列車六本のうち二本が空車で運行され、四本は運行中止となった。
結局、警官隊や家族らの説得で、引揚げ者は追加運行された臨時列車で帰郷の途についたものの 「市民、労働者を混えた引揚者対警官隊の衝突という過去四ヶ年の引揚記録に末だみない事態」(「毎日]新聞」)として記録された。
同じような記録は『舞鶴地方援護局史』にもある。
「平に引き揚げて来たんやったが、駅までは歩けといいよるもんやで、船を出して五条桟橋まで送らんかえ、とみんなでガッサガッサやったでな、不親切な話や、船があるのに送らへんのや、黙っとれるかいな」とか言う話も聞いた覚えがある。
いつ引き揚げられてこられたのか知らないが満鉄関係の人でなかろうか、それまでは大波街道をみな歩いたようである。舞鶴の人なので地理熟知していたのでこうした要求ができたものと思われる、知らなければ終わるまでテクのままの不親切なことであったろう。「温かく迎えました」の一面は彼らの残した正の遺産だったのかも知れない。官僚の作文ばかりが残されていて、彼らは自らの足りずは書かない、彼らに見られる日本政府の姿勢にキレた面もあろう、50%以上は割り引いて読む必要がありそうである。
しかし生きて帰れた兵士はまだよかった。戦没者240万とか、戦後70年にもなるが、どれだけの遺骨がまだ帰っていないかご存じだろうか。113万柱がまだ残されているそうである。戦死者の半数がまだ残されたままである、コッパ役人どもクソどもは言わぬとしても、国民も含めて何がどこが「温かく迎えました」などとネゴトにもならぬアホげなたわごとを言えるのだろう。せめて遺骨がすべて迎えられるまでは「温かく迎えました」などとは決して口にしてはなるまい。まだ半分が海外にほったらかしになってます、とゴニョゴニョ言っているしかあるまい。土人国の土人でももう少しマシ、戦後の奇跡の繁栄だ復興だもあまり自慢げに言えば、鬼でもふるえるぞ。「こいつら鬼以下のバチアタリのイカレだわい」と。
70年以上も戦地にほったらかしにしたままでもそれは見えず、都合の良いごく一部だけを取り上げて勝手に大満足したものか、ぜひとも「先輩市民の活動は市民の誇りとして次の世代に伝え、世界と共有したい」そうである、いかにもどこかの町の自分が知っている範囲が全てだと信じているチャランポランらしい話だが、子供たちににまだ遺骨すらほったらかし、舞鶴へ引き揚げて来た人の2倍もがまだほったらかしだし、孤児もほっからかしではないか、引揚はまだまだこれからでないか、これまでの2倍が残っているでないか、と問い詰められたら何と答えるのだろう、まともな人々の共感は得られまい、全体像が見えない、見ようとしない、都合の良い面の誇大化したものしか見えない、都合の悪い真実には目を閉じる、これは戦争前夜の自分で勝手にテッチ上げた神話陶酔思想でなかったか、,笑えるというのか泣けるというのか。
上の引用に共産党とか労組とかが出てくるが、それはあくまでも当時のもので、名は同じでも今のものではない。

『京都新聞』(2016.12.24)より↓


戦没者遺骨収集事業
政府は第2次大戦中に海外などで死亡した戦没者の遺骨収集を1952年度から実施している。厚生労働省によると、国内外の戦地での戦没者は約240万人。2016年10月末現在の未収容遺骨は112万6千柱に上る。推計ではフィリピンに約36万9千柱、ノモンハンを含む中国東北部に約20万6千柱、中部太平洋には約17万3千柱、硫黄島には約1万1千柱が残存している。


「温かく迎えました」などがいかにネゴトであるかがわかろう。
テマエが勝手にバンザイバンザイで仕掛けた大戦争で、その結果が当然にも記録的な大敗戦、そして自国兵士の遺骨ですら、70年経てもこのザマでないか。これも人類史の記録に残る超エエカゲンぶりで、ド恥ずかしいの極地である。完全な敗戦で、魂までいまだに壊れて果てている。
これが私たちの国の、私たち日本国民の本当の姿である。これに目を閉じていてマトモな戦争の総括などがあろうはずもない。どこが「誇りに思う」であろう、努力しがんばったと、その人は思ってはいるのかも知れないが、しかし戦争を始めた戦犯の一員どもとしては当然やらねばならぬ責任が果たせていないではないか、本当に心ならず引き込まれたかどうか、戦争記念館すらつくろうとはしなかったではないか、引揚展すらやらなかったではないか、戦後十何年やらなかったのだ、いまもってマトモに引揚の過去に向き合っている者が町にいるか、いかに田舎のシロートのネゴトであってもアホは言うまい、情けない。子供がそばで聞いている。それでももしや、どうしても、心得違いした連中どもと同じようにバンザイバンザイして誇りたいのなら、せめて満州に残されている20万余の遺骨を温かく迎えてからでよかろう。その努力もせずに口にすれば、「舞鶴いうトコは…」と町全体がクソと思われる。



 昭和20年8月15日太平洋戦争の終結に伴い、海外におられた邦人約629万人が日本に引揚げ、このうち佐世保港のこの浦頭の地に、昭和20年10月14日米軍の上陸用舟艇(LST)で、韓国の済州島から旧陸軍軍人9,997人が揚陸したのをはじめ、以後昭和25年4月までに、主に中国大陸や南方諸島から引揚船1,216隻により、一般邦人・軍人・軍属合わせて1,396,468人の多くの人々が、引揚げの第一歩を印されました。ここ浦頭に佐世保引揚援護局検疫所があったからです。
 引揚者の多くは、栄養失調や下痢・皮膚病、敗戦の失意と迫害のために疲労困憊の極限にありました。さらには、無言の帰国をされた人、船内で病に倒れ上陸直後に不帰の客となられた人々がありました。しかしながら、これらの皆さんは一様に夢にみた故国日本の土を踏みしめられた安堵感も併せ噛みしめておられ、その哀歓は筆舌につくしがたいものでありました。
 このような状況の中で引揚者は、上陸と同時に消毒のためDDTの散布を全身に浴び、検疫の後、収容先となっ、た佐世保引揚援護局(元針尾海兵団)までの約7キロメートルの山道を、一歩一歩踏みしめながら歩かれました。そしてたどりついた援護局宿舎で、引揚手続を終えると衣服、日用品等の支給を受け、二泊ないし三泊の後、南風崎駅からそれぞれの郷里へ向かわれました。
 一方、受入側の引揚援護局は「引揚げる人の身になれ、この援護」を合言葉として、夜を徹し業務にあたり、特に昭和21年の引揚最盛期には、一日の最高引揚滞在者数は、22,931人にも及び、文字どおり不眠不休の活動でした。
 このようなことで夫々故国へ落着かれましたものの、引揚げの方々は爾来、戦後の混乱の中に引揚げ時の苦労を胸に秘め、祖国復興に邁進し、今日我が国の繁栄を築かれるのであります。
この文書↑は長崎県佐世保市の引揚記念平和公園のパンフであるが、「引揚者の身」になっている感じある。
我々は、この一年有半本、来る日も来る日も、この博多の港に、こうした疲労困憊の人々を、数千 時には一万以上も迎え続けて来たのである。この事実をありのまま後世に伝えて、このような過誤を 帯び繰り返すことのないよう深く相戒しめることは、直接この仕草に携わって来た我々の大きな責任であり、義務でもある、と考える。
「前書き」『博多港援護局史』より抜粋
この文書↑は博多港の資料。自らの過誤を認め再び繰り返してはならなと、そのためにありのままに伝えよう、それが責任だ義務だとしている。

残念にも舞鶴はこうした姿勢が弱い、『舞鶴地方援護局史』にも見あたらない、平和を願うとは言うがそこへ至った思考の回路が示されず、ヨソから借りてきただけの不調和な口先だけの感じになっているように思われる。自らの過誤には気も付かず、それどころか全体に何か引揚者を敵視してるような感じがつきまとうのである。「温かく迎えた」どころか「帰ってくるな」と本心では思っているだろがと、自分らか送り出したことは忘れたような調子である。これは文章力がないのではなく、心がないのではと勘ぐれる所によくぶつかるのである。舞鶴ほど有名な引揚港はない、昭和25年以降は唯一の引揚港であった、せめてこれらヨソの引揚港よりはチとは立派な覚悟を持たないとカッコがつかない。


それで言う。これはソ連が悪いからだ、ソ連はコワイ、と日本では、とくにどこかの町では今も言われるわけである。
しかしこの現象はソ連が悪いからであろうか。それとも日本人が悪いからであろうか。アメリカ民主主義をはき違えて日本人が行きすぎた「自由行動」をしたからと言ってもそれはアメリカの罪ではない。何でもないそれは日本人の罪である。日本式民主主義をはき違えた中国人が勝手な行動をしたならそれは日本の罪だろうか。ダレもそんなことは言わない、はき違えた中国人の罪であって、本家は知らないハナシである。
行きすぎのマコトの問題は本家ではなく、ここでもやはり問われるのはワレラの側である、すなわち日本人とは何かである。ワレラ日本人はマトモなのか、の問題である。

危機に面した時にその人の真価が現れる、と言われる。
よく取り上げられるのは「ドイツ軍捕虜との比較」である。同じように捕虜になっていたドイツ人たちとの比較である。『シベリア抑留−未完の悲劇』に、
 「堂々たる捕虜ぶり」
帰還者の手記の中には、ドイツ人捕虜たちの様子がしばしば記されている。多くは称賛と驚嘆である。いわくソ連におもねることなく毅然としていた。日本人捕虜のようにノルマ以上に働いてノルマを引き上げ、自らの首をしめるようなことはしなかった。最低限の仕事をして、ソ連の監視兵の目を盗んでさぼる。国際法の規定で、将校は労働を免除されている。日本人捕虜は半ば強制されて「自主的労働」を申し出るが、ドイツ人はそんなことはしない。赤旗は掲げないし、労働歌も歌わない。個人は別として、日本人のように集団で「民主化」されることはない。末端の兵までが国際法を熟知し、主張すべきことはきちんと主張する。そもそも、文化的に自分たちのほうが優れていると確信しており、ソ連人を見下していた--といったものだ。
そうした「堂々たる捕虜ぶり」を伝える証言は極めて多い。国民性の違いか、あるいは対ソ連の歴史、関係性の違いか。いずれにせよ、日本人捕虜との違いは鮮明である。
ワタシの恩師もこれは言われていた。ああした「民主化運動」の行きすぎ面は日本人だけの話です、ドイツ人の捕虜はそうしたことはありませんでした。しっかりしてますよ、捕虜でも日本人みたいな卑屈な態度はとりません、みな堂々としてました、自分の考え方を持ってましたし国際条約なども知ってましたし、そうしたニュースも日本人より早くつかんでました。どこの国の捕虜も日本人とは違いました。
何も日本人捕虜に対してだけにソ連は「洗脳」教育をしたのではない、どの国の捕虜にも同じように行ったのだが、その結果は大きく違っていた。
要するに日本人には「自分を見失う」と言うより「自分がない」のであろう。確たる自己が作られていないため、周囲の影響を大きく受ける。大きく受けるが自己はないために、自己変革はない、変革させるに足る自己はない、何も将来までも生きつづけさせる土壌になる自己はない、ムナシイ存在しない「自己」がその時その時に周囲にあわせて上っ面だけが看板を付け替えるように大きく代わるだけ。昨日は悪魔、今日は神、その看板を付け替えるだけ、しかし本当の心のシンまで替わったのだろうか。カワッタとそう自分で勝手に信じたというだけかも知れない、悪魔は隠れたというだけのことかも知れない、明日はまた替わってはしないか。
自分で自分のクビを締めるようなアホばかりをする、下層兵だけではなく、上も同じく、「自己」を持たないアホ、市幹部や市議会の原発再稼働容認などによく見られる。何も持たないカラッポであることが全世界に知らされた。こんなのがスンバラシイ、スンバラシイと言っているマンガの国。日本人は本当はとても弱い、打たれ弱い、自由に弱い、孤立に弱い、気の合う者でムレていなくては気が休まらない、誰かが助けてくれると勝手に思っているが、自分は助けない、だいたい自分の思い通りにならないとパニックになる、ひどく落ち込んでしまう。
カルっの存在感薄き生きた亡霊の群れ、それが日本人であった、アッチ向けと言われればアッチを向いた、自分の良心に於いて反対する骨もなかったクラゲの群れ。しっかりした自己を持って、上の言うがままなに引っ張られなければ、そもそも戦争そのものもなかったことだろう。これが日本の「近代化」なるものが行き着いた姿であった。しかし本当の近代化とは、クルマやテレビが溢れる社会ということではない、しっかりした自己を持つ近代的「個」、近代的市民が作られてこそはじめて成り立つものである。半封建的天皇制国家軍国主義の元で建設が進められた赤れんがなどはマコトの意味では何も近代化建設物とか呼べるようなものではない。
かくして戦争はまだ終わってはいない。マコトの主体的自己をすべての国民がとりもどし確立できるまでは…


帰国
ナホトカ→舞鶴への引揚げは昭和25年4月22日の信濃丸を最後に一旦途切れる、一般的な引揚げはだいたいこの時までには完了した。再開されるのは昭和28年12月1日の興安丸からであるが、引揚者はガクンと少なくなってくる。また軍人の復員もあるが一般人の引揚げになっていく。一般引揚者というのが何なのかわからないのだが軍人よりも多い、軍人について言えばタス通信が伝えた「戦争犯罪人1487人と病気療養中9人」に近いようである(陸軍・海軍と分類された引揚者の数)。昭和24年日本政府は47万人が未帰還だと発表していたが、それはGHQに言われた数値で反ソ宣伝用のもので根拠あるものではなかったようである。米ソ対立に反共キチガイのアメリカ、さらに独立なったはがりの日本政府の国益がからみ、引揚げの話が3年半もまとまらなかった。まだ残っていたのはソ連が言う「戦犯」や病人であった。また本人の意志で帰国を望まない者も数千人いた。

命からがらの帰国を果たしても、ご苦労様でしたとは言われなかった。
官憲が言わなかったのは上の方で書いたが、故郷の人々も言わなかった。
『シベリア抑留』(栗原俊雄)に、
「シベリア帰りはアカ」
帰還者のなかには、故郷に帰ってから警察官につきまとわれた者が少なくない。
○○(1924年生まれ・京都府)は四九年九月、舞鶴港に帰還した。すぐ郷里に帰ることができると思っていたが、警察に二四時間拘束された。シベリアでは、どこで何をしていたか。民主化活動に加わったか。根掘り葉掘り開かれた。帰郷後も、過に一度は警察官が家にやってきて、就職したかどうか、政治的な活動をしているかどうか、調べていった。一年以上そうした状況が続いたという。「何も悪いことをしていない。こちらはむしろ被害者なのに、なんでそんな目にあうのか」。当然の怒りだろう。
警察だけでなく、市民の目も厳しかった。□□(一九二五年生まれ・京都府)は四八年一一月に帰郷した。しばらくして、私服警官が付近の住民に、□□の生活ぶりを聞いて回っているのを知った。住民も冷たかった。「『よく帰ってきたね。ご苦労様でした』と歓迎してくれると思っていた」が、地区の寄り合いに出席すると「アカが来ている。今日は大事な話をするのは止めよう」と、あからさまに差別された。
日本官憲だけでなくCIAなども取調べたという。当館に高い入館料を払って入ると、安物のパンフをくれる。
舞鶴では、引揚船が入港するたびに市民こぞって引き揚げて来られた方々を心から歓迎し、慰問し、勇気づけました。
安易にこうした言葉を持ち出しても、白々しい、ウソだと思われよう、ホントにそうならば、実際にどうしたのか具体的にその内実を示さねばなるまい。内容如何であって、本当にそうであったかどうかは当館が手柄話のように言うようなことでなく、それが本当なら引揚者が言ってくれるかも知れないというスジのものである。


サンフランシスコ講和条約と日本の独立回復は昭和27年、全面講和でなく片面で、一応の独立というものであり、同時に日米安保条約が結ばれ、米軍基地がいまなお あるという半植民地にされているが、この時から引揚げは日本政府の責任で行われることになる。ソ連との講和は昭和31年で、その年末に「総ざらい引揚げ」となった。 ワタシの恩師もこの船で帰国された。

このあとは樺太の真岡や中国(中共)の天津、塘沽からの引揚げが続くがこれらは別途取り上げる予定。







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関連項目



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このページの目次

舞鶴引揚記念館:趣旨
舞鶴引揚記念館2(このページ)
舞鶴引揚記念館3:満蒙開拓青少年義勇軍
舞鶴引揚記念館4満州開拓団
満州天田郷・第二天田郷開拓団
−引揚の歴史−
引揚の概要
引揚の概要2:援護局開設までの時期
引揚の概要3:「上安時代」
32隻の引揚船



 引揚の様相
引揚船のリスト
民間人の引揚-1-
民間人の引揚-2-
民間人の引揚-3-
 



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引用文献

『終わりなき旅』(91 井出孫六 岩波書店)
『女のつぶやき−戦争とわたしたち−』(昭61 舞鶴虹の会)
『「過去の克服」と愛国心』(07 朝日新聞社)
『裂かれた大地 京都満州開拓民 記録なき歴史』(05 京都新聞社)
『白の残像』(平8 舞鶴語り部の会)
『真相シベリア抑留』(05 松本宏 碧天舎)
『世界の戦跡めぐり 母と子でみる』(96久保崎輯編 草の根出版会)
『戦争と子どもたち』(03 早乙女勝元 河出書房新社)
『ソ連が満州に侵攻した夏』(99 半藤一利 文芸春秋)
『大陸の花嫁』(平13 井筒紀久枝 生涯学習研究舎)
『中国残留日本人孤児 母と子でみる』(86 大場かをり他 草の根出版会)
『沈黙のファイル』(96 共同通信社会部 共同通信社)
『引揚港・舞鶴の記録 引揚四十周年記念誌』(平2 舞鶴市)
『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』(95 中国引揚げ漫画家の会編 亜紀書房)
『満州鎮魂 引き揚げから見える戦前・戦後』(01 梁禮先他 インパクト出版会)
『私の海外引揚』(昭60 引揚港舞鶴を偲ぶ全国の集い実行委編)
『シベリア抑留−未完の悲劇−』(栗原俊雄・岩波新書)
『検証シベリア抑留』(白井久也・平凡社新書)



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