過去を忘れて、戦争へ行こう

舞鶴引揚記念館




満州の丘にたちて」(HP「ようこそ音楽の広場へ」よりDL。「シャトロフ作曲。悲しみがこみ上げてくるような静かなワルツです。1926年頃に作られた日露戦争で倒れた兵士をうたった曲だそうです。知り合いの満州に出兵して敗戦後にソ連に抑留された人が歌ってくれました。また、収容所では重労働の上に、食事はジャガイモが少々入ったスープと黒パンのみの粗末なもの。でも、ソ連兵も同じ食事だったと。」のキャプションがつけられている。
これは本当の話のよう。私の老師もそうおしゃっていましたし、証言集にもしばしば見られます。「ソ連兵も同じだけですよ。ソ連全体に喰い物がなかったんですから。一日分を朝にもらうんですが、それを全部すぐに喰ってしまうソ連兵もおりました、オマエ全部食べてしまったらあとはどうするだ、と問いますと、しゃあない、明日の朝までは喰う物はない、シンボウすると言ってました」。かの展示像の隣に同じように粗末だったソ連兵の食事光景も展示しておかないと公平でないでしょう、ついでに朝鮮や満州の人々、一般日本人の食事の様子も展示しないと戦争の歴史を大きく見誤りはしませんか、舞鶴市さん。誰ためにこんな苦労をさせられたのかをよく考えてみたいもの。

↑ midではもう音が出なくなったのか、これはmp3音源です、二木紘三さんのページより。

舞鶴引揚記念館の概要

−誰がために、何がために、誰が展示するのか−舞鶴引揚記念館設立の本来の趣旨

於:引揚記念館・引揚公園前広場
舞鶴引揚記念館正面:ソ満国境に張り付いていた元関東軍兵士たちが主なメンバーの京滋に住む人達の会。この地に戻れなかった人達の慰霊と親睦のため毎年八重桜が満開のころここに集まる。私たちが一番若かったというが、すでに全員が80歳を越える。来年はみな揃って来られるかどうかと言う。
16名だったが1名見えない、元海軍特攻隊員で、飛行機がなく行けなかったという人が見えないようである。彼は教育と政治がいかに大事かと、私をつかまえて熱く語るのであった。


敗戦直後に海外に(外国に。旧植民地、旧半植民地に)残された日本人の引揚げ(復員とか帰国とかいうことである)、軍人軍属三百二十万人の復員と民間人三百万人、合計六百六十万とも推計される人々の帰国事業、そしてその途中に発生した個人的被害の実相、…といったとてつもなく重く難しいテーマを展示し、世界に向けて何かを主張しようという、公立の博物館、日本では他にはないものである、ドイツでもまだないのではなかろうか、建設するかどうかと問題になっていたと記憶する、しかしここ舞鶴にはすでにあって、地球上ではおそらく希有の建物である。極光の会とか、オーロラが見える場所のラーゲリに織られたのだろうか。
市が発刊しているロシア語の案内にはゴロドスコイ・ムゼイと書かれている、その通りで舞鶴市立引揚歴史博物館である。国立でも府立でもなく市立のものである。文化レベルが問題にされがちな舞鶴である。この館は「舞鶴の奇跡」と私は見ているが、「一度は来てみたかった所です」と言われる方も多い。引揚港・舞鶴が全世界に国や自治体に誇る施設である。世界中で誇れるかはわからないが、日本では絶対に誇れる施設である。
もっともそれはハコがということである、展示内容その他中身は多々問題も指摘されるとおりである。しかしおいおいよいものにしていこうではないか、全世界にさきがけるものである、おおっぴらに「文化の低い舞鶴」と言われる町である、こんなテーマ館がいきなりにいいものが出来るわけは絶対にありえない。舞鶴ではそんようなことは絶対にない。今日言って明日できるというものでは決してない。道路や橋を作るのとは違う、それだって何十年もかかる、文化や平和などといったものはもっともっと長い長いスパンで、何世代にも亘って根気よく考え取り組んでいくべきものである。
「文化が低い舞鶴」というのは褒め言葉ではないヨ、サルでもわかるように言えば「バカ舞鶴」ということ。舞鶴人自身もよく言うようにいえば「舞鶴はアホばっかりじゃナ」ということ。こんなにすばらしい言葉を寄せていただける町は地球上には多くはそうないかも知れない、だから、よ〜くキモに銘じて、すべての舞鶴市民、ならびに将来の市民達に課せられた今後の大きな宿題としてしっかりとやろうてはないか。現在のところは舞鶴市民としても、とても納得のできる物ではまだまだ決してなってはいないのである。
引揚公園(101本の八重桜・引揚者により植樹)
戦争とは国と国との武力交戦を言うのであって、戦争の全責任は国に政府にある。だから引揚記念館などというものは本来は国が率先して建設し、二度とこのような惨禍を生むことのないようにと鎮魂と反省、そして平和の決意を込めて建設するのが筋合いである。政府と全国民のそうした決意の表明としての記念館の建設、それこそがこの大戦で亡くなられた方々への本当の鎮魂ということである。

戦争惨禍の責任者である日本政府はそのようなことはしてこなかったし、抑留や引揚問題についてもその全貌すらも明らかにはしてこなかった。元関東軍兵士たちの語るところによっても国は都合が悪いと隠していることが多々ありそうである。諸外国政府資料などが残らず公開されるまでは明らかにしえない基本問題がいまだ多く残されているという。引揚記念館正面確実とされる資料もいまだそろわない。こちらの方面はあまり研究が進んでいないようなことで、書籍なども少なく、確実な話はまだできない状態である。
「これは忘れてはいけませんね。観光客は来られますか。多いですか。観光コースに組み入れられていますか」などと心配してくれる方も多い。
しかしこんなに都合の悪い過去はことはさっぱりと忘れさせ風化させるのがお国の方針、クソ役人どもの考えのようで、もう戦後は終わった、総決算だとして、忘れてはならない歴史も犠牲もきれいに忘れて、車のバックミラーをはずし、安全ベルトをはずし、自己点検省略して、安全です安全ですのカラ念仏を唱えながら再び破滅への暴走を繰り返したいようにも見えるのである。





こうした根本問題がこの引揚記念館でも根底に横たわっている。政府が政治屋どもが悪いというが、それを戦後一貫して60年以上も選び続けているのは誰でもない日本の有権者である、悪くしたのは、誰でもないあなた自身、私自身なのである。
日本政府と政治屋ども、さらに日本人の心の大きなゆがみ、歴史に、戦争の目を覆いたくなる惨禍に真摯に向き合えない精神がここでも顔を出していそうである。カリヨンの鐘と引揚記念館

こうした歴史博物館は社会の(舞鶴文化や日本社会の)現状を写す鏡でもあって、その実体を無視した魔法の鏡ではない、もっと真実が写る鏡を、などというわけにはいかない。
だから批判すればよくなるとかいう簡単なものではない、今日明日にはよくなるものでない。日本社会や舞鶴の全体がよくならなければよくなれないものである。引揚記念館として考えれば、そうした日本全体を舞鶴文化をよくする為に建設されたものであるし、そうした任務を果たしていかなければ当館自身もよくならないという関係になる。

勘違いでないかと思える意見もあるが、よくしようとする願いをこめた真摯な批判は大いに歓迎するのであるが、しかしこの記念館もそうした具合のなかにあることを理解してもらい根気よく批判を続けてもらうより方法がない。
片田舎のアンナもんらあ、ひどい時代錯誤者らあにいうてもなー、理解されるかなー、ぜんぜんハナからわかっとらへんでー、あれではまあムリやろなー、ムリすぎるわー、
日本中を焼け野原の破滅に、日本も含めて全世界の人々を途端の苦しみに導いた軍部や政治屋ども、バカもバカも大バカ連中だよ、二度と復活させてはならないならない連中だよ、全世界を相手に勝てるわけがない戦争を始めて、最後は防空壕掘ってタケヤリで米兵を突けと訓練させやがった、そんなにもひどいバカだよ、ほんまに頭カラッポのサイテーの連中だよ。いまだにそれにしっかり批判の目が向けられてはいない、これは過去の亡霊に取り付かれたままだね、気の毒なことだね、仮にまともに批判しても理解できるの、
−などとなれば、もう進歩はないので、ぜひ批判を寄せ続けられるよう市民としてお願いをしたいと思う。何も出ませんし、この程度のものにお追従はまったく不要です。引揚記念館ビシバシとやって下さい。

開館20周年、最後の引揚船が着いてから、援護局が閉局になってから今年は50年になる。
市民としても今年はしっかりと見直してみるべき節目の時期にきていると思い、ここにわずかばかり書いてみようとするのである。

引揚記念館は昭和63年4月開館。総工事費2億3千万。そのうち7千万は全国の引揚者や市民などからの寄付である。だから市の負担は1億6千万。
海軍兵器庫をリサイクルした赤煉瓦博物館や赤煉瓦智恵藏などには6億とか7億の大金をつぎ込み、田辺城城門もごっつい億の金。この先にある大浦ハイランドは1億8千万、ふるるファームは7億。五老スカイタワー3億。市民病院はブッ潰してしまい、さらに月々1億円の赤字の垂れ流したまま−の無責任ぶり。。平湾の航空写真(坂根正喜氏)

記念館はその後少し増築しているが、舞鶴市さんも愚かなお国や周辺の自治体とやらに見習ってか、平和に関するこんな大事なものはいかにもケチくさく小出しに渋っている。高い入館料(300円)までとりくさるし、「赤煉瓦博物館へも行かれますか」などとも聞く。舞鶴市はミソクソが一緒くたである。というか平和よりもクソの方がはるかに大事にも見える。
博物館は出来るだけ無料とすべきである、できなければ週の内一日だけでも無料日を設けるべきである、貧乏人には免除するべきである、などなどのユネスコ勧告などはご存知なのだろうか。
舞鶴にはタダのゴルドスコイ・ムゼーは多い、郷土資料館や田辺城も市政記念館も智恵藏もタダである。結構なことではあるが、ではなぜここと赤煉瓦だけが有料なのか。取れる所だけ取ったろという考えか。300円でも何度も足を運ぶ貧乏人にはきつい、無料化へむけてぜひ努力して下さい。


母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

岸壁の母の歌碑(記念公園)
「岸壁の母」の歌で全国知らない人のない有名な町にしては、恥ずかしい話で、何かと言えば観光カンコーと鳴くくせに、その観光資源のない舞鶴では超一番のカンコー資源、超大目玉に対してはこんなことである。
「ここは私の第二のふるさとです、ここから戦後の第二の人生を出発しました。引き揚げてきた日には、毎年欠かさずここへ来ます」という方も少し以前まではたくさんおられた。今は高齢になられてもう無理なのかも知れないが、魂は来ていると私は思うのである。
何をなすべきか何もわかっていない、カンコーカンコーのかけ声ばかりで、何か、も一つシャンとしまへんな、と言われている市政ではあるが、しかしである、何万の戦災犠牲者を出したにもかかわらず、一館たりとも作ろうともしない自治体がほとんどのなかで、舞鶴ですらも引揚記念館建設反対の政党などもあった中で、ハコはいやいやでも作ったのである。偉い、絶対にこれは偉い、少なくともだいぶに偉いと私は思う、まあまあかなりにましな方と考えておこうではないか…。
丹後田辺に過ぎたるものは…と江戸期なら唄われたかもしれないような立派なものと私は思うのである。
しかしまだまだ満足していてはなるまい。まだまだ責任ははたせてはいまい。私たちは、市民はということであるが、まだまだまだまだまだ国中の、そしてアジア中のいたる場所に戦禍の銘板や記念碑、犠牲者の慰霊碑やこうした記念館や博物館を無数に建設し続けねばならない。ここはその第一歩なのである。
そうしてこそ過去の記憶が社会的に引き継がれる。それが戦争を抑止し世界平和を築いていく力に少しはなっていくことであろう。

「ここは、ここだけは、見応えがありますな」などとも言われる方が多いが、バカほどゼニを積んで数多く最近に作られた舞鶴のゴロドスコイ・ムゼーの中ではここだけがまあしっかり展示している方なのである。これでもそうなのである。市民にしてみれば唯一しっかりと市民の生活と歴史に目を向けていてグっと身近なのである。
ほかは案内するのも躊躇しいしい、つまらぬものですが、などといいいい、ご案内させてもらうような所ばかりである。やはりつまらなそうな顔をされているので感想を聞くのも何か心苦しいようなことである。

引揚港空撮(坂根正喜氏)
緑もまぶしい。引揚者達の目に浸みたという。平湾が入り込んでいる。引揚船は橋(舞鶴クレインブリッジ=日本海側では最大の斜張橋とか)のあたりに着いた。煙の出ている工場が昔の引揚援護局。その先のちょっとした山が引揚記念公園。その先の建物のような物が引揚記念館。ここは引揚者達の第二のふるさと。

隣接の先行した引揚公園は府と共同であるが、記念館は何度も言うが市の単独のものである。いやそんな事はありませんやろ、国が金を出してますやろ、などといくら説明しても勝手に思い込んでいる人も多いが、そうした事はない。土地は無番地となっており国有地かと思われる。






良人とも兄とも相談しましたが、引揚記念館は子供を連れては行けませんねぇ
−ある舞鶴市民の声−

ちょっと褒めすぎたかもしれないが、ここからはとりあえず今いろいろと簡単に気の付いた所から書いていこうかと思う。
この館の案内は当館がやられればいいので、市民として書くなら期待されるのはあくまでレビューであろう。批評、批判であろう。それがあってこそ当館も立派に成長できるというものであろう。
Amazonも何か購入すればレビューを書けと言ってくるが、この会社はまだまだ発展途上で何か見所があるわいと思ったりするのである。

さて、当引揚記念館のもっとも充実した展示内容を誇るはずの、シベリア抑留者たち。その元関東軍兵士たちすらも決して満足はしていない。「ワシらは売られた兵隊じゃ」といい、ここの展示などは歴史的にというか戦争を総合的に見て、正しい物などととは、決して評価はしていない様子に見える。引揚記念館内部抑留者の皆さんは多くはそうおっしゃるのである。肩すかしの感じがあるようである。引揚の本当はこんな事ではないよ、ということなのである。

「もう何回も見た、もう見たない」という。私は話が聞きたいので、ぜひ一緒に見てもらいたいと願っているのに、「あんた見てきなされ、私は喫茶室でコーヒーでも飲んでますさかいに」、などとつれなく断られる。
アホくさいあんなもんが、真実を知る体験者に何回も見られますかいな、ということのようだ。私だって同様であるが、体験者の貴重な話が聞きたいから言っているのだが−。そう言えばよかったかも−。


引揚記念館は最も悲惨を極めた満州奥地からの開拓団引揚者の様子などの展示がない、残留孤児がない。
引揚船の中で
風化させたいのかとか、民間引揚者から文句を言われるかの、特別展が開かれる、しかしないといってよいような超貧弱なものである。リックサックと幼児の草履、それも裏向けで展示してあることがある。写真は↑程度。もっと大きく引き延ばせばと思う、小さいものである。迫力がない。

省略なのか、展示資料がないのか、隠しているのか、見せたくないのか、資料を寄せてくれないのか、よくわからないが、最も大事な箇所が欠けていてない。
引揚記念館の目が向いてない、いや向けたくないようにも見える。同胞の犠牲にすらも目が向いていない。腰が引けている。向き合えていない。こんなことで戦争の恐るべき、身も心もガタガタと震える全貌が見えるだろうか。
小学3年の女の子はこのリックを背負い帰ってきた、食糧は入っていなかったがとても重かったという。
最後の引揚船が着き、舞鶴引揚援護局が閉鎖されてから今年(2008)はちょうど50年目となるが、引揚記念館というネーミングから見ても引揚はもう終わってしまったかのようなとらえ方、展示のありようで、中国残留孤児や残留婦人を見てみても現在もまだ未帰国であり、戦争はいまもって終わらず、引揚も未完了であり、こうした日本人だけを見てもまだ平和ではないといったような認識もないように見える。まだ1万とも言われる未帰還者が中国には残されている。彼らはいつになればこの桟橋へ戻れるのだろう。帰りを待つ平引揚桟橋戻す気はあるのだろうか。

舞鶴記念館の中心となる中国やシベリアからの引揚問題は、元々我国の中国侵略がなければ発生しなかったことであり、我々が蒔いた極悪の種がブーメランのように投げた者に帰ってきたものであって、我々自身の巨悪の報いである、戦争の火付けにも、火が大きくなりすぎて、どうにもならなくなり、とうとうその火の粉が降ってきたということである。目には目、剣には剣、の因果が戻ってきた話であり誰にも文句もいいようもない話である。エライ目に遭いたくなかったならはじめからやらねばよかったのである。
もともと平和な日本の村に他国の侵略者が襲いかかったという話ではない。我々が他国を傷付ける侵略者だったからこそその地を追われたという話なのである。加害者の被害的側面で、普通の引揚者自身はだいたいこのように認識しておられる様子なのだが、ここのしっかりした認識がなければ記念館を作ってみても意味が本当はないと思われるが、そうした認識もまた当館には弱いようにも見える。

「戦争が悪い」というのだけれども、戦争は地震のような人間の力ではどうにもならない自然現象ではない、誰か人間が引き起こしたものである。「戦争が悪い」では言葉不足すぎる、戦争を引き起こした者どもが悪いのである。火の粉が自分自身にも降りかかるような事になってきて「火は悲惨だ、火が悪い」というような事である。誰が火付けなのか、誰が火付けに加担したのか、誰が傍観していたのか、誰が火を消してくれたのか、そこが問われねば、またまた繰り返すためのだけの記念館となろう。

「平和だからこそ、優しさが生まれる。極限の状況では、強い者が弱い者を追い込んでしまう。私が一番傷ついたのは、中国人の暴行でも、ソ連兵の略奪でもありません。同じ日本人が発した言葉でした」。

「身ぐるみはがされました。すべてを差し出して、やっと許しを得ました。最後の最後に、われわれを苦しめ、略奪したのは、同胞の日本人でした」。
と『裂かれた大地』は証言する。こうした話はいくらでもある、本当にいくらでもある、同じ日本人としては引用するのも苦しくなってくるようなことであるし、読まれるのも苦しいことであろう。
引揚者を最も苦しめたのもやはりまた日本人だったのである。だから軍部や国や政府だけを責めても解決にはほど遠い。われわれ自身がまたまた大問題なのである。
ここがしっかり認識されるように展示しなければこの記念館は過去の歴史ではなくわれら日本人の未来を展示したものとなろう。

(残留孤児とかいろいろと当時の言葉を当HPでもそのままに使うが、それらは本当は言葉通りのものでは決してない。残留と言えば残り留まったという意味で、何か本人の意志か何かで勝手に残ったかのような言葉であるが、当時小学生以下だった孤児だちが自分で判断してそれを選んだわけでは決してない。本当は一緒に連れて帰って来なかった児ということである。誰が連れて帰らなかったのか、もちろん国がである。国の命令や半強制やだましで連れていたのである。一人残さず連れて帰る、その当り前ができていないのである。最後の引揚船が大陸を離れたのが昭和33年、その時2000とか多い推計では7000名にもなる孤児、それに倍するといわれる残留婦人がまだ中国には残されていた。孤児は引揚船に乗せてももらえなかったという。『裂かれた大地』は、
平安郷開拓団の記録によると、六月から九月にかけて、大薮武子さん(17)と村田省一さん(14)のほか、三人の少年少女が単身で帰国したとある。両親がいない子は、引揚船の乗船名簿から外されたり、後回しになった。仕方なく、見知らぬ一家の善意を頼りに、その家族の息子や娘として名簿に記載してもらった。

建一さんらは帰国を願い出たが、収容所の役員は「水一杯でも高いお金を取られるからな」といい放ち、相談にさえ乗らなかった。居留民が寄せた多額の義援金があったとされる。
 しかし、孤児には、金銭的な支援や情報が伝わらず、出発が遅れ、帰国そのものを阻まれるケースもあった。
残留では決してない。置き去りというか捨て去りというかそうした孤児である。今のアフリカのような、あるいは我国のような姿であろうか、いくら支援しても支援品は途中で誰かがくすねてしまい、本当に必要とする人々にわたらない。
『満州鎮魂』は、
満州に渡ったのは未開拓地で、また未知の世界で、冒険を兼ねて盛んに働くことができる満蒙開拓青少年義勇軍を含めて、若い人が多かったはずである。そのため、満州では数多くの子供が生まれており、終戦当時、妊婦も多かった。満州開拓団の視察のため新潟から連絡船に乗った丸山義二は次のように語っている。「南洋群島へ旅したときの船の三等船室と、めだって、ことなっていると気がつくことは、今、この大陸行の船客のなかに、子供の数がおほいことである。おしめをかへている若い母親も、ごろごろするほど乗っているのであった」とある(『大陸の村つくり』一九四一年七月、興亜日本社)。

「帰国船には子供はほとんどおらず、おとなしか乗っておりませんでした」と体験談で語ったのは、三人の子供を二か月で全部亡くした、〃大陸の花嫁”で満州に渡った中村清さんの言葉である。中村さんの子供たちは、「ハチミツがほしい」と、また、「西瓜が食べたいよ! トマトが食べたいよ!」といいながら、目を閉じたという。
行きの船には子供がぎっしりといたのに引揚船にはその子供の姿はなかった。体験談はたいていこのように語る。この子達はどこへ行ってしまったのだろう。
引揚船はどこか現在の日本丸に似ている。日本丸には子供はいないのに「子は地域の宝」とか「国の宝」とか言いい「子供に国を愛する心を教育する」のだそうである。誰がこんなバカ国家にしたのだ。
 日本政府は中共を認めず台湾政府こそが中国としていたため国交がなかった。赤十字社などを通じて細々と帰国などがすすめられていた。日中国交正常化はニクソンの頭越しの米中正常化の後の昭和47。孤児達の集団訪日調査が始まるのはようやく昭和56年であった。自分らの勝手な考え違いで彼ら孤児を30年間も日本政府ならびに日本国民はほったらかしにしてきたのである。普通程度の親なら自分の子にこんなことをするだろうか。何は置いても飛んでいって探しまわるだろう。まともな国とか国民などとは絶対にいえない、偉そうな事をいってはりますが、ゼニ儲けに本気に呆けてアンサンら何か大事な事をわすれてはりませんか、そんな大問題を突きつけているのである。
また孤児でもないはずである。両親がいない児が孤児であるが、彼らは日本に実親や親族がいる可能性が高いし、敵国の子弟を育ててくれた中国人の養親がある。児がふさわしくないのはテレビなどでご覧の通り。まあどちらかというばもう老に近い様子である。無常迅速、歳月人を待たず。超スローテンポのサボリ抜く厚生省であるが、一日も早い対応が当然にも求められている。
こうしたことで当時の言葉は多くがいやほとんどが、大本営語のような欺瞞語であるが、使わないと仕方がないので、カッコも付けずにここでは使うこととする。)



当館の展示はヘタクソで歴史を知らない展示業者に丸投げで任せたのだろうか、それとも別に変な政治的意図が隠されているのか、右翼政治屋どもの介入があるのでは。あるいは将校クラブとか下士官連中のクラブの介入とかが一般にはいろいろと疑われている。
この展示なら普通は疑われるようなことになっているのだから仕方がない。私は前者を疑うのだが、たいていの市民は後者のように疑っている。
それがただしい疑惑かどうかは別として、いずれにしても決して感心のできる話ではない。自分たちの住む地のものである。そこに住んでいる者が誰よりも詳しいのが当然で、○×諮問委員会とか、×○教授だとか、△□専門家などなどに丸投げで考えて貰うなどいうことは根本的に間違いである。そんなことでは地域は決してよくならない。事大主義者の舞鶴人らしい偶像崇拝である。己以外のものの力によって救われようなどとは考えてはならない。関係のない者が知ったような顔して口出しするな、とまでは言わなくともよいが、市民自身が自分の頭で真剣に考えて考え抜く以外には地域の活性化などあるはずがないのである。この記念館にしても市民自身がもっともっと発言しなければ決してよくはなるまい。そのためにもっともっと努力とゼニを使わねばならない。

10センチもない幼児用ゾウリ、これを履いて帰ってきた。ほとんどが親の背であったと思われる。(→写真は勝手に写してよくないのだろうが、もっともっと民間引揚者の展示を、の全国からの声に応じての特別展用で、普段はなく明日もはない、たいていコレッキリのものなので少々断りもなく写させてもらうことにしたのである)

引揚記念館は歴史を学び明日の郷土を背負う舞鶴市内の小中学生たちも来ない。私はよく足を運ぶ方の舞鶴人と思うのだが、当館内で子供の姿は見たことがない。もし見かけたらカメラを向けている、絶対に記録には残るはずなのであるが、1枚もない。私のバソコンにはここの関係の写真は現在850コマもあるが、1枚も子供はない。もしやって来れば新聞のニュースになる、オイオイ大丈夫か心配になるが、記録によれば、2年間でわずかにのべ3校のみという。たぶん隣の若浦中や大浦小のみか。それはたぶんあるいは正しい判断かも知れないと私は考えたりもする。過去の子供にも今の子供にも、当館が、というか、行政の目が向いてはいないのである。
右傾化を競い合うかのごとく自身の判断力は皆無で上の言うことなら何でもハイハイの舞鶴の学校ですら横を向いているようである。
日の丸を立てましょう、ハーイ。君が代を歌いましょう、ハーイ。黒旗を立てましょう、ハーイ。泣かれると敵に見つかるので皆さんが連れている幼児は全部ここで締め殺しましょう、ハーイ。
上の言うことなら何でも全部ハーイ。こいつらの言うことは大丈夫なのかとは疑わない。こんな狂った連中が教育も含めて官僚社会や大組織では一般に出世しやすい。というのか近代社会の理念からはほど遠い天皇制社会が温存され、近代的な個の確立の弱い我国の社会はどこでもそうした傾向は特に強い。「小天皇」が社会のあちこちにいるし、そうした「天皇」が殺せといえば、周囲の人々が殺せといえば、大事の我が子ですらも疑問を抱くことなく絞め殺す。みんなしとってやもん、というわけであろうか、上の判断や周囲の判断に流されない自己の判断力や倫理観は薄い。人並み横並びにマネして安心する。誰が何をしていようが、私はマネない私の考えで生きるというのが本当は「入欧」の精神と思うが、それはアジアの中でも最も弱いかも知れない。ますます弱まっているように感じているのだが、だいたい天皇制を堅持したまま「脱亜入欧」などはあり得ない話であるが、そんな矛盾にも気も付かない情けなさ、それはさておくとして、そんなカッコだけ見せかけだけのニセ現代人でしかない多くの日本人の個人としての判断力も倫理観も弱い者ですらも、自己チェック機能を欠いたパソコン以下の者ですらも二の足を踏んでいるのであるから事態は深刻である。

現在のような記念館では「18禁」のワイセツ物展示館とさして変わらないと判断されているということであろう。子に引揚を正しく伝えるのはかなり難しいと思われる。戦争の全体から引揚げだけを切り離しては絶対に正しく伝えることができない。戦争、侵略と植民の全体をていねいに教えなければならない、それは時間のかかることであるし「戦争を知らない市教委」や「戦争を知らない先生」には手にあまる、まして「真珠湾は三重県でしたか」「赤紙は共産党の新聞でしょう」の日本社会で育ってきた日本の子たちにどう伝えるか。
逆にいえば、そのためにこそ引揚記念館はあるのである。それがよく正しく理解できるように手助けをする役割を博物館は負っている。本来はここへ来さえすれば大人はもちろんとして、子供でもわかる、そうした教育的役割がある。そうしたものでなければならないのである。

市民達は「あそこは子供は連れては行けませんね」などとウワサし合い腹を立てている。良識の市民は、連れては行きたいが、あれではなあ、と思案している。こしたものがムゼー(博物館)とよべるだろうか。同じ日の帰りに図書館に行けば、子供は一杯いる、舞鶴に子供がいないのではない。こうした図書館は逆に子供しか目が向いていないとか陰口も聞かれるが、少しは見習い、当館も根本的な見直しを進めてはどうか。
子供にこうした悲惨なものを見せるのはいいのかという疑問もあろうし、何のために見せるのかという考えもあろう。子供といっても社会が理解できるほどの年齢の子ということであるが、臭い物にフタ、寝た子を起こすな、ヤブをつつくな、どこかの国の文部省は言うであろうが、そうではないのである。やはり見せなければならないのである。彼らと同年代の子たちも戦時中は軍需工場に動員されていた。立派な加害者でもあったという事になる。一歩間違えればこの子らも加害者となり、そして被害者となる。もうそうした年齢なのである。
論理的な話をすれば、彼ら戦争とはまったく関係のない今の子供達にもやはり重く重く「戦争責任」がある。「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばならない」とドイツの場合はここは厳しい。そんなことは当然の話で、甘い教育はしていないのである。
どこかの国のように「ワシは生まれてもいなかったから知らん、関係ない、責任ない、興味ない」ではないのである。「いまさらあんな悲惨なものを何も子供に見せんでも」ではないのである。
なぜか。「過去をお忘れになるようなお方は、きっと未来もお忘れになりますで」「過去を知らない者に未来などあるわけありまへんな」という当然の理屈からである。私の口癖「過去を忘れる者は未来も忘れる」からである。ましてや我らは加害者であった。被害者が忘れるというのはまあいいとしても、加害者が事件を忘れるというようなことが普通一般に許されるはずはないではないか。
また戦争は過去の話でもなく、舞鶴からも今も出て行っているわけである、貧乏人市民からすれば、石油の一滴は血の一滴であるが、それを気前も良くただでやっているその石油が何につかわれているのか。人殺しではないのか。まさにこの地にも今もあるのである。
過去は未来のためにこそあるものである。未来を背負う子こそが本来ならしっかりと見なければならないものなのである。
よく引かれるヴァィッゼッカー演説がよく答えてくれる。
「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

姉妹都市ナホトカからの訪問者は間違ってもここへは連れてはこない。姉妹を裏切る思いなのか、作った当人どもすらうしろめたい感を持つように思われる。友好都市大連からの客はどうしているのだろうか。諸国民間の相互理解を増進させるというのも博物館の大切な役割なんですが、舞鶴市さんはお忘れですか。
ここにある私のHPはロシア語にも自動翻訳されております、たぶんロシア人が読んでいるのではないでしょうか。ハングル語訳も中国語訳も見ます。時代はそうなってきており、あまりに自分の都合の良いことばかり言い放しで、他国からは見えないだろう、などと思ったら間違い、舞鶴市の信用を落としてしまいます、相手にされなくなるでしょう。

引揚記念館も大きな態度でドデンと構えていないで、相手が来ないのならこちらかに行けばいいのである。学校へも地域へも、全国どこでも、地球上のどこへでも資料を持って出前展示会をして引揚げを平和を語るのが本来の博物館の任務であろう。
ナホトカであろうが、大連であろうが、南京であろうが、ハルピン郊外の731部隊の跡地であろうが、撫順炭鉱であろうが、平頂山であろうが、電話一本で引揚記念館は世界中のどこへでも出かけられるだけの日頃の用意がなければならない。
ワシらは世界に胸はれる正当な展示をしている、ワシらは戦争の真実の語部だと考えているのなら、明日からでもそのようにやったらどうか。
なぜこのような悲惨な惨禍が起きたのか、戦争がなぜ起きたのか、歴史を世に語り伝える語部は、そんなに甘い仕事では決してない。一兵士としての狭い個人的な体験だけを語っても、自分のその体験すらも語ったことにはならないし、ましてや戦争を、引揚を本当に語った語部にはならない。もっともっと体験を越えた広い人間的視野が必要となる。

「語り部」という言葉がよく使われる。「平和の語り部」「戦争の語り部」などど呼ばれて広島や沖縄など体験者が語っているのをテレビなどで見ることがある。どうした意味を持つものなのか、明確ではないようであるが、言葉本来は古代の部民で、『日本古代氏族辞典』は、
宮廷の祭儀に古詞を奏上する部民で、各地に置かれ、伴造の語連に管掌された。『貞観儀式』大嘗祭条に「語部。美濃八人、丹波二人、丹後二人、但馬七人、因幡三人、出雲四人、淡路二人、伴宿禰一人、佐伯宿禰一人、各引語部十五人、……就位奏古詞」、また太政官大嘗会条に「吉野国栖奏古風。悠紀国司引歌人国風。語部奏古詞」と規定されていた。この古詞は大和朝廷に服属した地方豪族が、その服属の確認と誓約を表わし、あわせて天皇の御代を寿ぐ政治的な寿詞で、『北山抄』や『江家次第』は「其音似祝。又渉歌声。出雲、美濃、但馬語部各奏之」と注記する。右の諸国には語部が濃密に分布していたと推定され、天平六年(七三四)の「出雲国計会帳」には意宇郡人語部広麻呂が雇民として名を連ねている。天平勝宝七年(七五五)五月の年紀をもつ平城宮出土木簡には但馬国養父郡遠左郷の村長として語部麻呂の名がみえる。また宝亀四年(七七三)の「因幡国高庭荘検田帳」には語部弘足・弘主・成主の名が散見する。遠江国では「浜名郡輸租帳」に新居郷の人として語部首木がみえ、浜名郡の伊場遺跡からは「語部山麻呂」「語部□支□」「語部三山」「語部□古」「語部小衣」「語部小君」の名を墨書した木簡(二一号木簡)が出土している。阿波国では、延喜二年(九〇二)の「田上郷戸籍」に語部刀自売がみえる。なお「出雲国大税賑給歴名帳」によれば、波如里に語部君瓔・語部君族猪手・語部首などのように、君姓・族姓・首姓の語部氏が存在したが、これらは出雲の語部集団の本宗に当たるものと考えられ、国造と同族関係にある語臣に統率されたのであろう。
丹後や丹波にも語部はいたのであるが、こうした国家行事に取り入れられるだけでなく本来は地方の各地で語っていたと思われる。古代ともなれば実態がよくつかめないので、そうした古代の語部の末裔とも思われる中世世界の語部たち。彼らは比較的よく知られている。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ
琵琶法師の語る平家物語などは、現在の戦争の語り部たちが手本とすべきモデルかと私は思う。
幅広い情報とこれくらいの歴史観・価値観・文芸力を伴わなければ、単なる一方的アジテーターでしかないかも知れない。そんなものは語って貰っても聞きたくもないし語ってもすぐ忘れられることであろう。
アジや体験談や思い出話かたりや「昔はなぁ」の昔話かたりとは語部は違うものである。語り部たちは琵琶法師にひどく見劣りしないよう頑張らなければなるまい。「この忙しいのに昔の話なんかすなや」と横向かれたり、騙り事に近いものとしてとしてその場で忘れられる。聞き捨てられる。そんな「騙り部」になってはなるまい。

子供達の前で語らなければならない。深く深く心打たねばならない。一生の記憶に留まるように語らねばならない。昔の過ぎ去った話ではなく今に生きる話でなければならないのである。
私は鉄砲担いでヨソの国へ行きました。皆さんは行きたいですか。
当時は日本の国内と同じように考えていましたが、満州はヨソの国です。中国です。私は鉄砲持った侵略兵でした、敵は殺してやろうと考えていました。当時の私はまったく気が付きませんでした。お国のためとばかり考えていましたが、しかし私は人殺しの加害者でした、…、
若い皆さんはなぜこのような惨禍が私の身にも同胞にもふりかかったかを考えて下さい。どうすればこうしたことが二度となくなるかを考えて下さい。
語部と簡単そうに言い、わずか数回の講習で養成できるなどと考えているように見えるが、本当の語部とはいかに難しいものかが理解されると思う。広島の被爆者たちだってまず自分たちが加害者だったという自覚から原水爆禁止運動が始まっているという。そうした運動者の強い強い自覚、自責、自省の念に突き動かされるものがなければ何でもそうだが、始まるわけも続くわけもないし、時を超えて人の心打つこともあり得ないであろう。

私のロシア語の師はシベリア抑留者で最後の引揚船で帰国されたそうだが、「あれは記念館というより鬼念館ですな」、歴史をねじ曲げようとする鬼ドモの作ったものと言われていた。
「軍部や政治家でも責任感の強い立派な方はもちろんおられたんですよ、しかしそうした方々は終戦時に皆、自決された。誰から責任を問われるという以前に自ら責任を取って腹を切られてしまった。そうもしなかったような連中だけが生き延びてきて、これ(引揚記念館内の抑留者のコーナーに目をやり)があるんですな。」と、この日の元抑留者も情けなげに語るのであった。敗戦の夏、自ら命を絶った軍人・軍属は568名にのぼるという。

せっかくの引揚記念館だが中身(展示のありかた)の問題をあげればかように深刻にボロボロ、誠に悲しく恥ずかしく、シベリア抑留者にも孤児にも、市民にも子供にも、世界の誰にも胸はってはとてもとても見せられないようなもののように私には思える。特別展展示写真:普段ははない


引揚記念館を作ることは大変に結構なことだが、そんなものホンマにようつくるんかいな、あの舞鶴市が…、別に舞鶴市だけではなかろう、どこの自治体や役所でもそうだろうが、文化や平和などといえばすぐに横向く、中には敵意を見せくさる者もある、もちろん一銭も出しくさらん、いまある予算でもすぐ削る、テメエらが持って帰るの手当を削る前に。
あれほど平和など嫌がってきたものども、あんなモノらあにできるんかい、と私も初めからそう考えていた。引揚記念館と他の市立諸施設と予算額を違いを見ても平和にかける姿勢が格別に弱いのがみえみえ、またのちの市民病院を見てもわかるように、ちゃんとした立派な市民に役立つ不可欠な物があっても、なんがかんだとブッ潰してしまう当市のクソ政治屋や役人どもではないか。
できるわけがない。無理だろう。たいていの市民もそうのように見ていたのではなかろうか。内容(展示)が問題になるだろうと考えられた。予算額に比例した貧弱なもので誤魔化されるだろう。そのように私も予想していた。
私は「団塊の世代」で戦後の生まれ、戦争は知らないのである。私の少し上になればまさに戦争体験者であり、肉親の幾人かは戦争で亡くされている世代になる。一方には2000万人といわれる我々がこの手で殺した人々、そして自分の側には300万人の同胞の犠牲が目の前に累々と横たわっていた。どちらを見ても目も覆いたくなる。悲惨きわまり胸かきむしられる。戦争に対する強い自省の苦しみの中で身もだえしなから生きてこられた(はずの)人達であった。
引揚記念館が建設された当時はそうした戦争世代がだいたいどこの自治体や役所でも幹部であった時代であった。戦争に心ならずも、あるいは進んで協力・加担して、その地獄の結末に心ズタズタに引き裂かれ苦しみぬいた(はずの)人達がトップにいた時代であった。
それでもここに書いているような状態であったのである。その戦争体験者世代がリーダーであってもそんなにも平和は危機的な状態だったのである。
現在はそうした世代はだいたい引退して、団塊未満の「戦争を知らない」者ばかりが幹部になってきているのである。平和はいよいよ大変な時代を迎えている。

あまりの悲惨さと責任の重さに堪えきれない人もある。というかほとんどの日本人は堪えられるだけの精神はなかった。自らが引き起こした事態に目を向けることすら出来なかった。忘れようとした。忘れれば逃れられる。経済に走った。立派なハコをだらけにして過去を記憶から消していく。今がこうなのだから、過去もよかったのだ。問題になれば、いやあれは正当な正義の自存自衛の戦争でした、侵略というものではありません、戦争にどちらが悪いもありませんよ。と反省は絶対にしない。近頃は特にそうである。問題はむしろ中国が攻めてきたからですよ。ソ連が攻めてきたからですよ。1000万の犠牲者の国と2000万の犠牲者の国を悪者にしてきた。私が幼女を殺したのはネズミ男が出てきたからです、特に私が悪いのではありません。という殺人鬼のような話である。多くの日本人は堪えられないで精神が狂い始めているのか。か弱い異常精神の逃避退行現象の現れか。みな精神病院へ入院しなければならないような事態である。

さて舞鶴の場合は、引揚記念館の場合はどうだったのだろうか。だいたいはネズミ男が出て来た的なことのように思われる。
大変な事態を展示するからには大変な大変な覚悟が求められたと思われるが、その後の海軍倉庫のリサイクルしていく姿勢などから判断しても、求められた覚悟からはほど遠かったと見てもよいと思われるのである。
戦争の悲惨な全体像、その戦争責任にふれるような真摯なものは避けてきて、厳しい事を言うような人は近づけなかった。
「あの人らぁは引揚者でありませんでぇ、抑留者でもありまへんなぁ」と私の師は言ったけれども、そうした実体験者でも何でもないような者を選び、なーなーの気の合う者同士で進めてきた。はじめからまじめにやろうという気持ちなどはない、何を建設しなければならぬのかということがわかっていない、予めどこかそうしたしっかりした戦争記念館の見学や研修に行ってきたという話もない。井の中の舞鶴人がそのカワズ舞鶴人のままで恐れ知らずにもやり始めた。ネライがはずれているうえに、ピントぼけしているのてある。
ハナから引揚者の実体験からは離れたものとなっていく。実体験者から見れば、実体験者でもない者が自分で勝手につくりあげたカワズの歴史像をあたかも本当の人間の歴史と思い違いして展示しているように見えるのであるのであろう。ちょっと違うで、の大海を知る人間の言葉には耳を貸そうとはしない。
開館20年。そろそろカワズは卒業して我々は早く真人間にもどろうではないか。そのためには身もだえしつつ己が犯行現場を見なければならないのである。

一般に実際の抑留や引揚体験者が被害者(また加害者)なのだが、彼らが最も冷静で公平に事態を見つめているように思われる。歪めようとする者が周囲には多いのだが、彼らの心を歪めなければだいたいそうのように私には思われる。簡単には心歪められないのは、ガキの頃はさぞや「やんちゃ坊主」だっただろうな、と思えるような人が多いように思うのである。年取ってもヤンチャで正義感が強く、権力など恐れない。権力などに尾を振っても「死期高齢者」だったか、そんな風に呼ばれて、早よ死にくされとばかりに切り捨てられる、絶対に何もいいことはない、利用されるだけである。アホな話である。

ソ連が条約を無視してムチャクチャしやがって…などと言っているのはまず体験者ではない。体験者なら問い返すだろう。それならハワイはどうでした。なにかと国際信義や法を無視してこちらから始めた戦争でなかったですか。日本には国際法など遵守する気運などありましたか。自分は最初から守らなかった者が、ひとには守れなどといえる資格がありますか。
シベリアで7万人も死亡した。抑留者は問い返すだろう。では広島・長崎の原爆死は何人ですか。勝てるはずもないのに、なぜもう少し早く敗戦を決意しなかったのですか。1日の決断遅れで何人がなくなったと考えているのですかと。
ピンボケさんたちはかなり自分勝手な考え方をしているのが多いと思われ、まともに実際に苦労した体験者が語る言葉には返答ができない。だから避ける。だからこんな記念館になる。

こうしたものは、病院も同じであるが、はじめから政治や権力とは完全に切り離して建設・運営すべき筋合いのものである。ハコは役人がつくればいいが、中身は時々の政治権力とは関係のない文化人が進めなければなるまい。時々の政治屋や官僚どもの都合で大事な人選をし、中身まで作らせてしまったのが間違っている。ましてや「過去に学ばない組織」として定評高い日本の官僚組織に引揚館の中身をまかせてはまず致命的である。
舞鶴のクソ役人や取り巻きのなーなー人間どものあらわな魂胆とその無能ぶりくらいは皆が見抜いていて厳しく批判を加え、また実際でもそのような現れて方をしているように見える。

今からでも遅くないから、まず政治屋や役人どもはここから去るべきである。口出しすべきものではない。市議などもイッチョマエに発言しているが、よくてもあくまでも側面援助のみとして、政治とは別の文化・社会面のこととして展示のいっさいを文化人に任すのが筋道である。


特別展資料
特別展の展示資料。漫画家ちばてつや氏のイラスト。キャプションに、
歩けなくなった人たちもいた  画 ちばてつや
ちばてつやさんの一家は駅に近くであったので列車に乗ることができ、胡盧島までたどりつき日本へ引き揚げることができた。
引き揚げ列車の発着する駅まで何週間も何ヶ月も歩き続けた人たちはいっぱいいた。奥地から歩いてきた人たちの中には、食べる物がなくり、歩く気力もなくなって倒れる人たちがいた、歩きつづけることが希望につながるのだが…。
舞鶴までもう一歩でとうとう倒れた方々も多い。多いというか何万人である。シベリア抑留も食糧がひどかったというが、それでもだいたい規定量はもらえたからまだいいかも知れない。
当時のソ連もなかったんです、と私のロシア語の師は語ったが、ソ連は最大の被害国であり、勝ったといえども負けたも同然の状態であった。ドイツの侵略を受けた西部は壊滅状態で2000万人もの犠牲者を出していた、中国は1000万人といわれるからカクが違う被害国であった、300万人の犠牲者の日本と考え合わせても納得のいく話である。このことを知っておかないとシベリア抑留はよくわからなくなる。
それでも彼らは苦労して規定にそって最低限は食糧をくれました、しかしそれは飽食の今のような時代から見れば、決して満足のいくようなことではありません。へーへーとおべんちゃらばかりを言っていたくせに引揚船がナホトカを出たとたんにケツを向けてたたいて「二度と来るかバカタレ」などと怒鳴るようなものもおりましたが、あの国もあの国なりに大変に苦労していたんです、という。

50万の関東軍を撃つには最低2倍以上の兵力がいる。西部ヨーロッパ戦線から100万という兵力を東部へ移動させる。それも約束どおりに3ヶ月の間に。冬が来ると防寒着など装備に手間がかかる。できるだけ温かい間に。まだナチスと戦闘している部隊も移動させる、1万キロを鉄道を使って。ロシア人だけしかできないような途方もない話であるが、遅くとも8月には出てくるということはわかりきったことであった。仮に精鋭でももう戦争に飽いた部隊であり、殺伐とした荒んだ部隊となることであろうし、それでも兵員が足りずに囚人兵なども投入した。質が悪い部隊も多かったといわれる。着ている軍服も履いてる軍靴もボロボロで、ロシア憎しばかしの在満州の日本人ですらもかわいそうに思ったというほどのひどい姿であったという。もし出てくれば目も当てられぬ悲劇が充分すぎるほどに予想されたのである。
兵隊でも一番質が悪かったのはロシア兵、といわれる。しかしもっと悪いのがいた、それは日本兵だったと、私が言うのではないが、司馬遼太郎氏はどこかで書いていた。それはだいたい公平な見方ではなかろうか。
自分のことは棚に上げて人を悪くいうのは自国のことであれ、聞き苦しいものである。それは愛国でも何でもない単なる排外主義でしかない。

満州へ入ってきたロシア兵やソ連を非難する熱意は舞鶴の場合は何かすごい異常がかってさえ見える人も中にはある、それもそれなりには一理はあろうが、そうしてソ連を敵視し、さらに戦争を引き起こし、その挙げ句の果ての敗戦、その時は当然にもそうした事態の発生は予測されることなのである。皆が紳士的に接してくれるはずなどとムシのよすぎる勝手な期待をしてはなるまい。敗戦時のそうした事態の発生を予測して予め対策が立てられてしかるべきものなのである。そうした無策はまるっきり棚にあげてヨソが悪い悪いといっていても仕方がなかろうと私は思うのだが、相手国から言わせれば「当たり前じゃろが文句あるか」といわれそうであるが、僅かな人ではあるが、戦争へ行かなかった、引揚者ではない者なのであるが、それなら公平に日本軍や日本政府はもっともっと非難するかとなると、この連中はこちらは大変に怪しい。たいていは何も非難しない。ご立派な愛国者のように見える。

戦争というものが何かと基本的にわかっとるんかいなと思えるような者どもに展示をまかせたのではないのか、なるほどそうすればどうやらそうした魂胆のようにも見えるのである。誠の批判をそらすための記念館にする。意識ははっきりしていないかも知れないが、実際はそのようになっていった、ここの展示をみていると、そうした者どもが作っていると見てまずまちがいはないようにも思われるが、それは抑留者や引揚者の大方の見方とはいえないものである。また舞鶴市民の大方の見方とも大きく異なるものになる。一般に舞鶴市民はもっと冷静公平に判断している。
歴史は書き換えることはできないものである。いかにやってみた所で所詮は無駄なことである。真実の前には子供じみたウソは消え去るより道はない。我々は歴史の批判に充分に堪えられるまともな本当の物を作る努力をしていこうではないか。
ラーゲリー(収容所)での食事(記念館展示物)
→これくらいあればいい方です、もっと少なかった。このパン一つと、カーシヤ(缶に入れられた薄い吸い物)だけでした。
と、この日も抑留者たちは説明してくれるのであった。
諸書の体験者たちの証言によれば、1日の配給は300グラムの黒パンとカーシャ、あるいは350グラムの黒パンと粥1合、だそうである。350グラムはだいたい1斤だから、1食分は食パンにして2枚くらいだろうか。この展示の2〜4倍くらいになろうか。それで基礎代謝かつかつというレベルか。展示のパンの量が本当ならばこれでは基礎代謝も満たせずまず生きてはいけまい。間違いなくまもなく餓死する。この量が本当かどうか、根拠をよく点検されるとよいであろう。
彼らの食料費は日本政府持ちなので、金は取るが食料はそれに釣り合わない貧困なもの、というわけでなかろうが、しかしこれはあくまで規定上のこと。どこでもくすねるやつがいるのである。少ないと密告すればそいつらに消されることになる。これも同じ。ゼーキンをくすね、食糧をくすねる。何もソ連ばかりではないが、あるいはこんなこともあったかも知れない。
ソ連の場合は規定など守られたためしはないとも、将軍がラーゲリーの見回りにくるたびに食事はよくなって行ったともいう。
戦後だいぶたってからでも、シベリア鉄道経由で輸出した日本メーカーの洋酒を満載した貨車が消えてしまったことがあるそうである、貨車ごとくすねられる、日本では考えられないようなことだが、しかしゼーキンくすねる連中から比べればカワイイ程度かも知れない、そうして食料も消えたことも多かろうと勝手に推測するが、クスねたクソ野郎は下っ端だったかも知れない。しかしそれにもわけがあったのである、彼らも同じように腹を空かせていたのである。なにゆえに彼らも腹を空かせていたのか、それを展示しなければ、わざわざゼーキンかけて展示する意味もなかろう。
『白の残像』は、
この頃、ソ連でもウクライナが飢饉だったらしく、ソ連人の昼食を、よく見たが我々の食べている程の黒パンに、塩鱒一切とお茶で昼食を済ませていた。十五、六才の男が一人いたが、昼食を取らないので、なぜ食べないのかと開くと、一週間分の配給を四日位で食べてしまって後が無いらしい。これでは我々の食糧が横流しされても仕方がなかったのかな。
ソ連将校が見廻りに来る毎に、少しづつよくなった。



腹がへってハンマーが上がらないと言うと、ソ連兵は「スターリングラードをドイツ軍に責められた時は、靴や皮帯を煎じて飲み、数ヶ月も戦ったのだ。お前等も水を飲んで働らけ」と言われた。何處の国でも戦争では辛い思いをしたらしい。
(粟野武治氏)

昭和二十年八月十五日終戦。奉天被服廠の周辺で野宿、八月末武装解除。列車にて北上し黒河より十月一日、水車付きの船で黒竜江渡河、ソ連領に入る。終戦後の満州は駅の周辺に、紙屑・粟などで乱れていたが、ソ連領に入ったとたん紙屑一つ落ちていない状態、いかに物資が不足していたかということを感じた。駅の周辺の婦人連が家庭で作った食物を持ってきて、日本兵の持っている衣類との交換を要求、日の丸の国旗と交換した者がいたが、ソ連のマダムが日の丸の国旗をネッカチーフにしていた。(森脇将光氏)
スターリングラードは今のボルゴグラードである、大変な被害を受けた都市同士ということで広島とは姉妹都市というが、ここもひどかったと聞く、靴をくったはチャップリンの映画を思い出してしまったが、これは本当なのだと思う。建物は9割が廃墟となり、残された人口は1割に満たなかったという。しかしここが大戦の転回点で、ソ連軍はここからナチを一気に追いかえしていく、時あたかも太平洋戦線ではガダルカナル「転進」の時であった。ターニャの日記で知られる900日にわたるレニングラード(サンクトペテルブルグ)封鎖包囲戦もひどかった、零下30度の中で市民に配給されたパンは1日125グラムであったという。それすら遅配欠配で、63万人が餓死したという。
ソ連の食い物が悪いというがそれも当然でソ連の穀倉地帯は日本の同盟国ドイツによって全滅の状態であった。日本兵士はうらめしげだが、自分らで自分らの食糧庫を焼いたそのツケではないのか。勝手な事は決して言えまい。

ソ連の黒パンが悪い、こんな臭いメシでこき使いやがって、これでは奴隷だというが、その時、では日本国内ではどうであったであろうか。シベリアの黒パンの兵隊さんと違って、おいしいケーキを飽食していたのだろうか。
いいやそんなはずはなかったのである。「贅沢は敵!」「ほしがりません勝つまでは」「兵隊さんのことを思えば」であった。食糧はじめ物資はすべて軍が管理していた。
『戦争と子どもたち』はある庶民の日記をひいている。昭16のことらしい。
ある晩、仕事から帰ると、膳の皿の上にコッペがある。珍らしいな、どこからもらったのだい、というと、いまどき、どこでくれるものですか。主食代わりの配給ですと妻君が答えた。……
 しかし、これ一つが一食じゃ、ちょっと足りないな、というと妻君が、無知な良人を憐れむ目つきで、それ一つが一食じゃない。それが二つで一日分なのですよ。もう一つあげときますから、それで明日の晩までがまんなすって下さい。と、もう一つコッペを置いた。むしって食べてみる。もさもさと、味もそっけもないまずいパンだが、何よりも腹が空いてる。
も少し、も少し、とむしっては食べ、一箇は完全に食べつくし、残る一箇の三分の一も食べてしまった。さっきから心配そうに傍で見ていた早百合が、お父ちゃん、あしたどうするの、といった。仕方がない。水でも飲んでがまんしよう。まさか明日の夕方までに飢え死もしまい。もしも、どうしても飢え死するのだったら、今宵このコッペパンを一応腹ふくるるまで食べたことで、以て瞑するとしよう。
ソ連のラーゲリーと低国の一般庶民とどちらがよりよいであろうか。話はビミョーになってくる。さらに同書を引けば、
(昭16)同じ四月から、コメの配給制度は東京など六大都市で実施されたが、一日当りの配給量は年齢、労働状態などによってこまかく決められていた。まず一般人の場合をみよう。
五歳以下−−−  一二〇グラム (〇・八四〇合)
六歳〜一〇歳−  二〇〇グラム (一・四〇五合)
一一歳〜六〇歳− 三三〇グラム (二・三二〇合)
六一歳以上−−− 三〇〇グラム (二・一〇八合)
ほかに筋肉労働者を軽労働の甲種、重労働の乙種と分けて男女差もつけ、三九〇グラム(約二・七合)から最高五七〇グラム(約四合)までとした。どんなにきつい労働にたずさわっていても、一日四合が上限で、その対象とされる男性労働者は少数だった。
米は兵隊さん用にとられ、みな兵隊や軍需産業に男手を取られ米の生産が落ちた。米は姿を消して代用食(イモさんやかぼちゃさま)となり、それも遅配欠配だらけとなっていった。食糧豊富なはずの田舎へ集団疎開した子たちも「骨と皮ばかりに痩せてしまい、もうこれが見納めか」と面会の親たちは度胸をきめねばならないようなことであった。
低国がいつの時代もいかに国民生活を置き去り、捨て去りにするかよ〜くわかるというものである。復活しようともがく低国もそうなのであるが、一般によその国が悪いなどと大げさに言う場合は自国の悪いのを隠すため、フタするためにする場合が多いので比べてみればよくわかる。自国民の目を自国の悪さからそらせるための宣伝に昔からよく使われる手である。
兵隊でも水兵さんは特に美食で知られ、米を作っていながらその米は食えなかった農民の子は、その美食にあこがれ水兵になったという。
舞鶴商人は肉ジャガはじめ、そうした当時の水兵さんの美食を復元して売り出すようなことをしているが、そのためにいかに農民はじめ一般国民は泣いたかもよく考え見なければなるまい。タバコの説明書きのようにそのために誰がどれほどに泣いたかを書いてこそ本当の復元であろう。車の運転でもそうであるが、一方だけを見ていたのでは無事では済まない、前方は当然として右も左も、さらにバックミラーで過去も見ておかねばならない。「文化の低い舞鶴」といわれたくなければ、水兵食の隣に当時の農民食も復元販売したらどうか。スイトンを試食する元特攻隊員氏

毎年開かれる「舞鶴の戦争展」ではスイトンという物を食べさせてくれ。しかしあれは美食すぎて戦争の味ではないと言われる。本当はもっともっとひどいものだったといわれるし、これで超食糧難時代を本当に復元しているかとなるとかなり弱いと思う。スイトンを喰わせるだけで、どこかのサル真似のようなことで、何を展示しようとしているのか当人たちもよくわかっていないのでないのか、などと気になった。明日にも飢え死にするかもの危機感はここも何も涌いてはこないのである。
鹿屋基地から七回も出撃したが奇しくも生き残ることができた学徒出陣の元特攻隊員も試食され当時を思い起こされていた。大正10年生まれ。今は舞鶴に住んでおられる。双発の艦爆機に250キロ爆弾を4発抱いて出撃したのだが、低品質の燃料のため途中でエンジンが停止した。6時間泳いで潜水艦に救助されたという。

さて、戦争が終わり食糧事情はさらに悪くなる。『戦争と子どもたち』は、

食糧不足は、八月一五日を境にして、さらに悪化の一途をたどっていた。主食のコメは、大人一人一日当り基本は二合三勺(三三〇グラム)だったものが、敗戦直前の七月に一割がた減らされて二合一勺(二九七グラム)になった。しかも、実際は代用食だらけである。
たとえば、一カ月分を例にとると、大豆が一三日分、食用粉が六日分、雑穀パンが三日分、干しうどんが二日分、しめて二四日分。残りの六日間が、やっとコメでという具合である。それさえも遅配欠配ときては、最悪の事態だった。大人も子どもも、みな鶏のガラみたいにやせて青白く、日ばかりぎょろぎょろと光らせていた。
神奈川県葉山のある家族は、政府の配給食だけで、全員が夜盲症になった。学童疎開の子どもは、ユリの根を掘ったり、桑の実をかじったり、沢蟹を焼いて食べたり、野草をあさったりして家へ帰れる日を待ったが、栄養不足でオデキになる子が続出した。しかも、ノミとシラミがごってりと増えて、せっかくの栄養分もみな吸い取られてしまう。
焼け残りの町の子どもたちは、蛙からイナゴ、エビガニまで食べた子もいる。蛇も上等な蛋白源ということだったが、さすがにこればかりは相当な勇気が必要だった。
 一一月になると、政府は食糧の見通しについて、「コメは明治四三年以来の凶作であり、約二〇〇〇万石が不足する」と発表した。その結果として、渋沢蔵相の「このままだと、一〇〇〇万人は餓死するだろう」という談話が新聞に報じられるに及んで、世論は騒然となっていく。
 東久邇首相は、国民に対して敗戦という厳粛なる事実の上に、「一億総懺悔せよ」と呼びかけた。宣戦権も陸海軍統帥権も天皇にあったはずなのに、戦争を始めたのは国民だといわんばかりである。
 その首相発言が、火に油を注ぐ結果となった。東京では一一月一日、日比谷公園で餓死対策国民大会が開かれ、政府の責任追求の火ぶたがきられた。誰もが日の色を変えるほどに、食糧は欠乏していた。この頃の各新聞には、全国諸都市の主要駅での行き倒れの実態が、連続して報じられている。栄養失調の餓死者である。「始まっている死の行進、餓死はすでに全国の街に」という記事は、朝日新聞の一一月一八日付けだが、浅草本願寺の収容者からすでに九名が死に、上野地下道での餓死者は多い日で六人、前月の平均は一日二・五人だった。上野、愛宕、四谷の三署管内だけで、一一月一八日現在の餓死者は一五〇人と伝えられている。
 これが東京全域となったら、いったいどれほどの数字になるか、見当もつかない。東京のみならず、神戸、大阪、京都、名古屋、横浜の五大都市で、新聞に報じられただけの餓死は、二月中旬までに七五〇人だった。そのなかに、子どもがどのくらい含まれているかはわからない。含まれているとすれば、おそらく身寄りのない戦災孤児だろう。
終戦記念日が近くなればテレビでもアニメの放送があるが、野坂昭如氏の「火垂の墓」の世界は本当なのである。幼い兄妹の悲劇の死に涙しない者などあっただろうか。これが日本であった。日本ですらこうであったのだから、植民地朝鮮や中国はどうであったかをよく考えてみるといいだろう。
田舎へ買い出しに行くとか、闇の物資もあったのだが、それらは警察に見つかればすべて没収であった。だからこれだけしか本当になかったのである。欠配遅配だらけの297グラムの代用食(イモやカボチャ)と350グラムの黒パンとはどちらがよいであろうか。もちろん身寄りのない孤児などにはその配給すらもない。
兵隊は自分だけが贅沢になりすぎていて一般庶民が見えてないのではないか。引揚記念館もまたそうではないのか。
「丹後の伝説35」

規定によれば、ソ連軍の予備隊と同じ食糧、8時間労働、安全規定もソ連労働者と同じだったという。特に差別はなかったという。という。現在の派遣や管理職とかでサービス残業などのムチャクチャはなかったことのようである。
同様なソ連抑留者はドイツの場合は350万人とか239万人にのぼった。日本は64万人とか言われる。2000万人の犠牲者を出した特別扱いしなければならない戦勝国であったから、賠償金をとればまた次の戦争を準備することとなり、現物で賠償するとして、あるものはトタン一枚でも持って帰れ、労働力の使用も黙認しなければどうしょうもない事であったと思われる。ドイツは攻めたが日本は攻めてない、と言うかもしれないが、あるソ連幹部は、(『沈黙のファイル』)
日本はドイツの同盟国だというところから出発すべきだ。日ソ中立条約があったにもかかわらず日本はドイツと協力した。北太平洋で日本軍は戦争物資や民需品を乗せたソ連の民間輸送船を沈めた。ソ連についてのスパイ情報もドイツに送った。ソ連国境に関東軍を集中した。そのためソ連はソ満国境に四十個師団を配置しなければならず、これらの師団をドイツとの戦争に投入できなかった。直接の敵ではなかったが、敵と同じだった。
ソ連の対日参戦はヤルタ会談で同盟国から参戦を強く求められたからだスターリンはいつ参戦するのかと詰め寄られた。スターリンは『国民はドイツとの戦争で疲れている。私たちの国は貝になってしまった。もう一度、日本との戦争に参加するのは難しい』と言ったが、同盟国を分裂させる恐れがあったので、ドイツ降伏から三カ月後に対日参戦すると答えたのだ。そして八月九日、ソ連軍は国境を越えた。
ソ連の日本人捕虜に対する処遇は適切だった。食料の規則はソ連軍の予備隊と同じだった。捕虜は一日八時間しか働いていなかった。技術安全規則もソ連の労働者と同じだったし、捕虜に対する差別はなかった。暴力もなかった。…
敵と同じようにしてきたではないか、というのである。それはその通りである。ずっと一番の敵として接してきたではなかったか。
そのソ連の食事が悪いというが、幼い兄妹の食器には何がどれほど載っていただろうか、食器を持っていたかもあやしいが、300グラムの黒パンどころか、何もなかった。彼らの死は誰のせいだろう。アメリカかソ連か、中国か朝鮮か、それとも日本の兵隊さんか、誰が殺したんだろう。

引揚記念館建設当時の市長・町井氏は「戦争はあきません」とおっしゃっていたが、次のようにも書いておられる。(『女のつぶやき』に寄せられた序文)
戦争の罪深さは、その累が何の係わりもない民間人に及ぶことに尽きると思う。先の大戦では内地で、又外地で、老若男女多くの人々が非業の死をとげた。戦争さえなければ、平和な家庭生活を営み、天寿を全う出来た人々が、である。
 又、いわゆる銃後にあった国民は戦中から戦後にかけて塗炭の苦しみを味わってきた。この苦しみは中国残留孤児に見られるように今なお続いている。私達往時を知る者の務めは、平和な時代に育った人々に、このような戦争体験を語り継いでいくことである。

その通り、庶民の戦争体験を、庶民の引揚体験を何よりも語り継いでいけるよう、そうのように展示しようではないか。それこそが何よりも戦争世代の勤めなのである。そこを省略しては引揚記念館などとは呼べまい。誰が歪めているのだ。どこのクソ役人どもだ。


→佐藤清氏の絵画
記念館展示のもの。
そのキャプション↓
日の丸をネッカチーフにするロシア娘日の丸をネッカチーフにするロシア娘
シベリアに入った昭和20年から21年にかけて、ソ連の疲弊ぶりはひどかった。永いドイツとの戦いで、民衆の生活はドン底の暮らしぶりであった。女性達は日本軍の軍服を着て、ボロ靴を履き、子供達が着ている服も貧しかった。捕虜の輸送車が着くとどこからともなく群がってきて、捕虜達が持つ僅かな衣類や日用品、万年筆、時計などを目当てに物々交換をせがんだ。昭和22年9月、近くのコルホーズに手伝いに行った時、ロシア娘が武運長久と書いた、寄せ書きのある日の丸の働かざる者食うべからずネッカチーフにしているのを見た。「オーチン・ハラショ」(ベリーグッド)と何度も繰り返し、彼女の笑顔が答えた。


少ないだろうが食糧はあるし、暖房もありそうだし、防寒着もある。これ毛皮をひっくり返して編んであるんですが、結構暖かい物です、これがないと冬は仕事ができません。とのこと。
 民間の引揚者の場合はそれすらもなかった。ヤルタ秘密協定に基づいて、ドイツが降伏(5月8日)した3ヶ月後の8月9日にソ連軍(というか連合軍だが)が満州に入ってきた。50万の無敵の関東軍がいるから大丈夫だ心配せずに生業に精を出してくれなどと言って民間人には何も知らされてはいなかった。しかし1年も前から満州は放棄する、関東軍は南方に転出されて張り子の寅のようなもののうえ指導部は弛緩しきっていた、自分たちが無理に呼んだ武装開拓団、民間人もろともに放棄する、という方針も決定されていたのであった。27万人の民間人が大規模に動くと敵に方針が感知されるので隠していたのであった。8日にソ連の宣戦布告、9日には民間人には寝耳に水の急な避難命令が出された。
だいたいはソ満国境の奥地から徒歩で何百キロと、17才から45才の男は根こそぎ動員で全員軍に取られているので、女と子供、老人ばかりの避難行であった。
避難せよといっただけで、一番先に妻子を連れて逃げた関東軍のクソ幹部どもは橋も鉄橋も爆破していたし、車や鉄道も独占していたので、一般の女子供老人は大八車に何日分かの食糧はじめ荷を山と積み、護衛もなくただ歩くより方法がなかった。
射撃訓練を受ける開拓団の婦女(共同通信社提供)とある。『終わりなき旅』より隊列は女と老人に、開拓団は子だくさんで子供がその倍はいたといわれる。

満州の東部というのか、ナホトカからハバロフスクまではシベリア鉄道が通っている。私はここを通ったことがあるが、線路のすぐ西が昔のソ満国境である。途中には関東軍の難攻不落といわれた虎頭要塞があり、そこの30糎要塞砲の砲弾が届かないようシベリア鉄道は少し東に迂回させているのが衛星写真からもわかる。衛星写真を拡大してよく探せば要塞の残骸が見えるかも知れない。中国側の詳しい地図はないようである。
簡単に言えば800キロ間何もないただ広い広い広い広いポーレ(草原)である。何時間走ってもポーレ。遠くの方に山かげが見えることもある。川の流域にはわすがに木々が見えることがある。満州側もこんな様子なのかと思う。
こんに場所は昼間は空からよく見えて空襲される、特に公道の上、河の上などは危険すぎる、周囲の原住民はこの時が来るのをまっていたもし襲撃をうければどうにもならない場所になる。この時期は雨期になるが、雨降る夜間のみの移動、こちらでは勝手にいかにも平和な満蒙開拓団とか一般邦人などと呼ぶが、向こうというか現地から見れば武装した侵略集団、土地を取り上げた強盗殺人の群れ、軍事訓練を受けて小銃や小機関銃、小砲ももっていた集団であり、国内でも「動くトーチカ」と呼ばれたくらいで北辺防衛の防人と呼ぶか満州侵略の尖兵と呼ぶか、ソ満国境の屯田兵でそうした関東軍の二軍選手の役割が彼らにはあったわけで、立場が正常に戻ってその侵略地のまっただ中に何の保護もなくほっぽり出されたのだから、とてつもなく怖かったのだろう、いつ殺されても文句も言えない情況である。終戦の知らせはだれも届ける者などなく、戦争が終わったということも知らされてはいない。
一番最初に死んだのが幼児であった、飢えてもう死にそうになった幼児はその地に置き去りにされた、幼児は泣くと見つかるというので殺しもした、女子供や老人も手足まといで引率者(自分の安全だけしか考えていない軍関係者などだと)の自由がきかないので自決を迫った。手足まといと悟った老人、「後期高齢者」「末期高齢者」「最終末高齢者」などは自ら川に入り流されて死んでいった、しっかりした引率者を欠く所ではパニックで母親達が殺気だつ、我が子の首を絞め、あるいは銃で撃ってくれと我が子を指した、そして自らは青酸カリで自決、…開拓団は軍が無理に作っているので団長などはなり手がなかったのである。軍には取られるし、もともとなり手がなかったし、引き揚げてくる団は指導者がなく指揮する責任役所はなく、危機状況のなかでいろいろな判断ミスからも多くが命をおとしたといわれる。
それでもまことに幸運にも多くは中心の大都市に命からがらにたどり着き、日本人収容所にはいった。しかしそこでは食糧などの支給はなかった、あるいはないといってよいほどに少なかった。ここではさらに多くが死んだのである。
日用品や衣類と食糧を交換できた間はまだいいが、それもすぐ底をついた、あとは盗みとゴミ箱に捨てられる残飯が命の糧であった、零下40度にもなる暖房もないそこで着の身着のままに一冬を過ごして、その冬をかろうじて生き延びられた者が引揚船に乗ったのである。『「過去の克服」と愛国心』(朝日新聞社2007)に、
45年8月9日、ソ連はヤルタ会談の際の秘密協定に基づき、日ソ中立条約を破棄し、侵攻を開始する。ソ連の参戦と中国人の蜂起により、100万を超える開拓民や居留民は殺戮と暴行、略奪にさらされた。運良く都市に逃げることができても、飢えや病に襲われ、その運命は悲惨を極めたのである。
 厚生労働省などの記録では、移民総数約24万人のうち約7万人が死亡した。開拓団を含む満州在住一般邦人は約155万人で、うち約18万人が死亡した。引き揚げ途中でやむなく親が手放したり、親を失って中国人に助けられたりした子どもたちは中国残留日本人孤児となった。
 脇田一家は奉天市内の神社に避難したが、そこは、国境地帯から着の身着のまま逃れてきた開拓団員らでごった返していた。食べ物に事欠き、病人が続出した。10月ごろ、母が倒れた。兄弟で、ろうそくの火で湯をわかして飲ませたことを覚えている。母は息を引き取った。それからまもなく、すぐ下の7歳の弟が外に遊びにいったまま帰らなかった。10歳の兄は、5歳の末弟を中国人の養父に預け、二人になった。11月ごろ、貧しい大工職人の中国人養父にもらわれた。養父は気性が激しく、反発した兄は家出した。2週間後、後を追った。残飯をあさり、乞食をする流浪の日々。兄は病で「顔が異常に膨れあがった」のち、死んだ。
ごく簡単に現在の水準で典型的に話をまとめればこうしたことである。
あなただったら生き延びられますか。ここが引揚の原点のようなもので、これがわからなかったら引揚げなどは本当は何もわからない。
しかしそれについてはこの記念館は黙して語らないのである。過去に目を向けない、記憶していた者も忘れてしまっている、記憶すらもない者がでっち上げた本当の過去を忘却した記念館。そうしたことではよい記念館とは呼べそうにもない。

もう一度こうした資料をよく見て、現物資料と言葉なき対話を繰り返して、当時をじかに感じ取り、本当にどう展示したらいいのかをよくよく考え直してみるべきであろう。

↓『引揚港・舞鶴の記録』(平2・舞鶴市)より。この書だけでもこうした写真資料があるのだから、もし真実を展示する気持ちがあるのなら、舞鶴市さんは手持ちのものだけででもできるのだ。
引揚の様子

引揚の様子

↑子供が帰ってきた、遺骨が帰ってきた。これらは引揚げとしては、まだまだいいほうなのである。子供もなく遺骨もなく帰られた多くの引揚者が実際はたくさんたくさんあったという。

↓時たま当館でも展示されている飯山達雄氏の写真であるが、いいものがある。大変に有名なものがあるが、なぜかそうしたものは展示しない。展示写真も小さい。もっと大きく引き延ばして展示してはどうか。ちょっと頼めば了承してくれようものだが。

飯山達雄氏の写真

↑氏の上の写真は、私は鮮烈に記憶に焼き付いているものである。
もう何十年も昔の話になる、まだこの引揚記念館などは影も形もなかった、この場所はゴミ捨て場のようになっていた頃であるが、大阪心斎橋の大丸で、読売新聞大阪社会部が「戦争展」を開催していた。何回目になったのか、その展示会場の入り口、一番最初にこの写真が大きく引き伸ばされて展示してあった。私はこの前で震えたのを思い起こす。何か短いキャプションがあったが忘れてしまった。この少女は母の遺骨を抱いて確か帰国されてもう立派な母親になっておられたというような話も書かれていたと記憶する。
国が強要した「愛国心」、愛国者の行き着いた所がこれであった。「国を愛する気持ち」がますますわいてくる話ではないか。隠したがるのはそうした理由があるのかも知れない。
(写真は『終わりなき旅』(井手孫六・91・岩波書店)より)
なお、引揚記念館の同氏の写真展では氏のプロフィールを次のように説明している。
昭和史に残る引揚げの記録
終戦の翌年(1946年)、故飯山達雄氏の単独渡満、潜入の記録
(満州奉天・コロ鳥・引揚げ船白龍丸船内・上陸地博多港)

故飯山達雄氏のプロフィール
本名 浜田達雄、1904年横浜生まれ。
フォトジャーナリスト、探検家、文化人類学研究者。
1946年7月に満州に潜入し引き揚げの実態を取材した。
1993年没。享年88歳。

6歳のときに家族と共に朝鮮に渡り、終戦まで朝鮮で生活、元朝鮮総督府鉄道局職員、敗戦後に編成された特別輸送班で、満洲・朝鮮在住の日本人の引揚げ業務に携わっていた。軍人、軍属の引揚げは早々に行われたのに、一般人の引揚げは遅々として進まない状況の中、「引揚げ者を優先しすぎる」と米軍軍政府に軟禁されるが,逃亡し密かに日本に帰った,終戦直後大陸では日本人の住居が現地人に襲撃され、友人の夫人は坊主頭で男装をして素足で38度線を越えてきた。その足はマメの上にマメが出来てむごたらしく、裂けていた。ご主人は撲殺されたと云う事である、数限りの悲惨な状況をこの眼で見てきた私もその後の状況を想像すると居ても立ってもおれなくなって、今一度北朝鮮か満州に逆上陸して、残留邦人の実態を写真に撮った。
そして、
「GHQにたたきつけてやろう!」
「日本中に壁新聞を回してやろう!」
「そして引揚げ船よこせと訴えてやる!」
と決意して、在外同胞引揚援護会の友人に頼み込み、1946年7日5日に博多から引揚船白龍丸にてコロ島に上降し満州に潜入して、7月13日奉天からヤンチョの本願寺に寄ってみた,そこには19人の孤児が収容されていて、擦り切れた畳の上に栄養失調の子供達が身体を横たえていた。殆どが北満から1ケ月も2ケ月もかかって歩いてきたのだという。15日孤児達と共にコロ島に着き白龍丸に乗船して4日目に博多港に入港した。
(飯山達雄氏の写真集「敗戦・引揚げの慟哭」図書刊行会発行より抜萃)
だから当館はこれらの写真も全部知ってはいるのだ、知っているが展示はしていないということである。
写真家のすごい鬼気迫る渾身の作品。確かにこれなどは現在の記念館の展示内容とはまったく次元の違う引揚げを写し出す。
こうした孤児たちを当館は20年間も無視してきた。知っていながら。この写真を展示会のトップに掲げた読売のものとは根本思想が違っていたようである。少なくとも2000名にもなるこうした同胞の児があった。胸えぐられるこの児らを無視するというのは、人間様の皮を被った者にできることではない。しかし当館は無視し続けている。だから私の師はいみじくも語ったったのである。これは鬼念館ですな、鬼が作ったものですわと。
優秀民族の日本人のこうした連れて帰らなかった孤児達を、侵略国人の子たちを劣等民族の中国人たちは育ててくれた。たいてい大切に、実子と分け隔てること無く育ててくれたといわれる。
立場を変えて逆に日本人ならそうしたことができるだろうか。日本人の私は苦しい汗を流しながら答えなければならない、私は出来そうにもないと。私の心は狭く浅く賤しい、私だけの問題でもない、受け入れるにはまったく自信がもてないです。と。あなたならば中国人孤児を我子同様に育てることができるのでしょうが、私は偉そうに言ってみた所で実際はそんな情けなすぎるレベルの者でしかない。同胞の子であっても30年間もほったらかし、20年間も展示もしない。
それでも母か、それでも岸壁の母の町のすることか、舞鶴は「岸壁の母」の町ですなどと言えるか。「ああ母なる国」の碑(記念公園)


また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない……
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……。
帰れないなら大きな声で……
お願い……
せめて、せめて一言……

この歌の「岸壁の母」のモデルの場合は、子といっても兵隊として行ったのでもう大きいのである、子とは普通は呼ばないような年齢であるが、しかし本当はもっともっと小さかった、帰らぬ子、捨て去ってきた子を問題にしなければと思うのだが、それはきれいにさっぱりと忘れられている。歌すらもないのである。何かないか何かないのか、と探せどもなかなかに見当たらない。
何かどこか「ああ母なる国」は根本的に狂っていないか、おかしいくはないか。満州におさな子をほっておけるような母を母と呼べるのだろうか。 母のもっとも母らしい機能が失われているのでないのか。何がどこが「母なる国」なのであろうか。
「ああ鬼なる国」「ああ鬼なる舞鶴」と捨てられた子たちは思ってはいないか。帰らない子たち(平和の群像の部分)


『ボクの満州』のあとがきで、石子順氏は、
…九人の大人と子どもたちは、日本に帰ってから生かされた生命を燃やしっづけ、才能を磨き、努力をつみ重ねてマンガ家になったのでした。満州=A中国の日々はいつも心の底にこびりついていました。嵐をこえ、悩みをこえ、生命をしぼるようにしてマンガを描いてきました。
 こうして到達した一九九五年に、あの時代の体験、引き揚げの苦労をようやくまとめることができたわけです。
 これはマンガ家でないとできなかった本だといえるでしょう。あの時代の日々を、引き揚げ・敗戦体験を、絵で描いているからです。郷愁、懐かしさといったものではなく、きびしさ、つらさを突きぬけた、あの時代の真実が描かれているのではないかと思われるできばえです。どの画面にも子ども時代の彼らがいます。それは彼らだけではなく、あのころあそこにいた子どもすべての姿にほかなりません。引き揚げの途中で子どもを失って写真一枚もないという老母が、この絵はわが子そっくりだといって抱きしめたそうです。
赤塚不二夫氏のマンガ

→同書の赤塚不二夫氏のマンガ、
ボクら引き揚げるとき、五十人とか百人の班をつくって、鉄砲はだめだから、銃剣っていって、木銃の先を尖らしたのを持った若い男がまわりにずっとついて、奉天駅まで歩いて行った。
ポクら自分の持てる荷物しか持っちゃいけなかった。だからガキがでっかいリュック背負わされて、フラフラしながら歩いた。おふくろが心配になってどなった。
「しっかりつかまるんだよ、離しちゃダメだよ!」って。
おふくろの服にぼくがしっかりつかまって、そのぼくに妹の寿満子がつかまって、綾子を背負った寿満子に宣洋がつかまって歩いたね。
原画展(於舞鶴)
引揚のなかに子供をとらえているものは意外に少ないのである。情けない話で、自分のことで頭がいっぱいだったのだろうか。
これらの原画が記念館だったか舞鶴で展示されたことがあった。デジカメの記録によれば051005であった。
ここでも子供の姿をとらえているものは少なかったと記憶している。
上の赤塚氏のマンガは本当はカラーであった。

敗戦国政府が最初に全力をあげてやらねばならないことは、占領地に残された自国民の安全をはかることであるという。さすがに低国の流れを汲む日本政府、そうしたことはしなかった。
まず国体護持、孤児の誤字ではない、護持、何のことともわかり兼ねるかも知れないが、天皇制を守るということである、そんなことに全力を挙げていた。国民を守ることはほったらかしにしてあほくさいことをやっていた。政府の棄民・棄兵政策といわれても言い訳できない話にある。しかし自称・優秀民族の私も同罪、私も鬼なのである。何も偉そうにのたまうような資格は私もないが、孤児ではなく国体護持のための舞鶴引揚記念館では情けないではないか。チェコのリデェツェ村の記念碑

犠牲となった子供達の像(未完成という。『世界の戦跡めぐり』より)。同じようにナチに家も人も焼き尽くされた村は628箇所もあるそうだが、その一つ白ロシアのハティニ村の場合、この虐殺を見ていたこの村の少年は「頬にあどけなさが残っている年頃だったが、村人たちの虐殺を目にしながらあまりの恐怖に耐えきれず、みるみる深いシワが刻まれ、泣いているような笑っているような老人の顔に変わっていく」記録映画があるという。(『戦争と子どもたち』)。
どこかの国や町にはこうした芸術家はいないのか。皆が忘れているのか。
↓飯山氏のカメラだけが追い続ける。
同じく飯山達雄氏(奉天の孤児収容所にて)


引揚記念館には「語り部の会」というグループがある、すーと忍び寄ってきてうるさくない程度に親切に説明してくれる、なかなかによろしいしよく勉強されている、博物館員はこうでなければならない、あくまで見に来られた方と現物との対話に重点を置いていて現物がじかに語る歴史を学び取ってもらおうとしている、口での押しつけ説明はぐっとひかえめ、ピンボケのうえ口ばかりクソうるさい腹の立つ舞鶴役人の発想では絶対にない大変に結構なシステムだと思うが、私くらいの戦争体験のない世代がボランティアでやっておられる、語り部の二世で、一世はもう語れなくなる年齢に達したための代役である。
記念館にはこうした真面目な人達も加わっているので、何も全体を十把一絡げで批判するのではないが、こうした問題が出て解決しそうにもない、致命的な問題とも見ていない様子なのは、明らかに上部が悪いというか本格的にヌケテいるのである。上部をかばって言うなら、アホほどの金をかけて超立派なハコは出来たが、中身がも一つも二つも、というかカラッポ。いかにも土建クソ国家の端々にどこにでも転がってありそうな話がここでも出てきているのかも知れない。

引揚記念館が建設された当時は、片方には「過去を忘れることは未来も忘れることです、またそうした事態に陥りやすいのです」「能う限り真実を直視しよう」という大統領があったが、もう一方の国では「日本を不沈空母にする」という首相がいて靖国公式参拝、「日本が侵略したと言うが、侵略される方が悪い」といった文相もいた時代であった、侵略でなく進出。大虐殺ではなく多少の犠牲者が出たと教科書が書き換えられた。こちらは「能う限り真実は直視しないでおこう」であった。
同じような敗戦国であって焦土の国土を出発し同じ歳月が流れたわけであるが、ここまで違うのはどうしてかとまともな神経の国民の多くが悩んだ時代であった。

また当時は「戦争展」があちこちで取り組まれ何十万という人々が訪れていた。平和運動に何十万人の人出、ちょっと考えられないような変化が生まれていたのである。戦争を展示するというのはこの時代に生まれた新しい平和運動の形態であった。私はちょうど青年団長だった時代で読売から写真を借りてきて現物資料なども並べて市内の百貨店で「戦争展」を開いた。12000人もの人が集まったのであった。
各地で開かれるようになり、そのなかではいろいろと展示の経験が積み重ねられ、戦争の分析もいっそう深められていった。かなり広く深く戦争が捉え直されていった。
そうした流れに位置づけることもあるいはできる記念館建設であったともいえなくはない。いろいろな流れがここに合流してきていて、一概に誰が何の目的で作っているのか、明確にしえないようなことで、まさに今以て引揚記念館は建設の途上にあると、私は捉えている。

引揚記念館の建設は他国との関係でいえば、加害国が被害者ぶってこうした展示館を造るということ自体がそもそも真の被害国からは反感を買うことだろうし、真の被害国を忘れてしまうことは、わが国にとってもへたすれば2000万人の犠牲を生んだ戦争の本当の加害者と被害者を見誤るということにも成りかねない。
引揚記念館の建設は重要なことである。これはこれとして大変に大切な忘れてはならぬ過去である。しかしそれならばましても重要なのは侵略した国々への加害記録記念館であろう。加害の現場が外国なので日本国内にそうした記念館を国内に建設するのは現地性がなく迫力を欠くかもかも知れないが、しかしマネごとであっても作ろうとするのがスジだろうと思う。これがないと本当は引揚も日本人にもよく理解できないと思われる。しかしそうした物は日本にはないのである。
被害国の視点を忘れることはできないし、他方日本国内の、中国に侵略されて始まった正当な戦争だったなどという論外は別としても、正当な戦争と考える、というか考えたい、私らの父や祖父は侵略兵ではないと願いたい、という思いを合わせるならば、こうした環境のなかで、引揚といったテーマ館を建設することは、舞鶴は引揚港だったから、といったようなことだけでは簡単には引き受けられない超難問であるはずのものである。

戦後の日本には立派な政治家は一人もなく、こうした問題には正確な道筋を出せないで、近隣諸国から反発ばかりを招いている。しかし有り難いことに日本には世界に誇るよい憲法があり、その精神に則れば錦の御旗を得たも同然であり、さらに歴史的に正当な展示も出来ると思われるのである。
本当はせめて関係の近隣諸国ともよく相談して助言を得て展示するべきなのだろうが、まだとてもそこまではいっていないくて、ここに展示されているのは、とりあえずあくまでも日本人の多数派かも知れない、どちらかといえば右派の視点から眺めた、あるいはもう少し言えば戦争遂行者の、かなり上部層の視点に立った引揚の「実相」ということである。今の政府よりの展示であり、下っ端の「売られた兵隊」は横向いているから、「売った」側の者どもの視点に立つ展示内容の強いものとなっている。仮にも公立の博物館といったものは地域の教育・文化の中枢を占めて地域社会すべての住民の知的・文化的生活の向上に奉仕すべきものである。時々の政府筋の見解に沿って作るようなものでは絶対にないはずのものである。自ら博物館であることを否定し政府や役人筋のプロパカンダ館におとしめてはなるまい。

この引揚記念館の設立趣旨のようなものと思われるが、館の入り口に掲げられている。
平和の誓い
平和の誓い
 あの悲惨な戦争が終結して早くも四十年の歳月が流れた。
 舞鶴港は、終戦間もなく引揚港に指定され十三年間の長きに亘り六十六万余人の同胞と一万六千余柱の御霊を迎え入れるという大きな歴史的使命を果たした。
 未だに、わたくしたちの念頭を離れず、折にふれて深く胸を打つのは、異郷の地で言語に絶する抑留生活の苦難に堪えた人々、遠く故国に思いを寄せ心身ともに疲労困憊し帰還した人々、さらに幾年月も肉親の帰りを信じつつ、岸壁にたたずむ母や妻の姿であった。
 この引揚げという悲しく痛ましい出来事は我が国の歴史に深く刻み込まれているのである。
 しかしながら、祖国の土を踏めずに異国で眠った同胞に思いをいたすとき、まことに痛恨のきわみであり、今日の平和と繁栄を分かち得ないことは、返すがえすも残念でならない。
 ここに海外引揚四十周年記念「引揚港まいづるを偲ぶ全国の集い」に当り、わたくしたちはあらためて先の大戦から得た貴重な教訓をよくかみしめ国際緊張の高まる今こそ全世界の人々と相携え、人類永遠の幸せを確立するため、不断の努力を傾注しなければならせないことを固く決意し、もって平和の誓いとする。
昭和六十年十月七日
 海外引揚四十周年
 引揚港まいづるを偲ぶ全国の集い

引揚記念館に先立って、ここには引揚記念公園が設立されていて、「平和の群像」などがつくられていた。その碑文は、引揚記念公園内の「平和の群像」
引揚記念公園「平和の群像」建設趣意書
第2次世界大戦の終戦による外地からの引揚業務処理のため舞鶴引揚援護局が設置されたのは、昭和20年11月24日、以来昭和33年11月15日の閉局まで、664531人の引揚者に、16269柱の遺骨とを受け入れ、32997人を送還した。ここに明暗と哀歓とをおりまぜて、多大な人員と広大な地域的規模においてまだかつて例を見ない引揚業務が終了したのである。
 この地に引き揚げた人々は、敗戦によって、財貨も社会的基盤も信用もときに肉親すら失い、身一つでたどりつき、孤独と貧困のうちに人生の再出発をせねばならなかった。われわれは、二度と再び戦争を容認し、かかる悲惨事を繰り返してはならない。舞鶴市は遂年平和産業港湾都市として発展し、引揚援護局跡は産業施設がこれに代わり、昭和44年7月3日、引き揚げに使用された庁舎の最後の3棟も撤去されて、今や引き揚げの事実を物語り、往時をしのぶよすがもなくなっている。
 この援護局最後の庁舎の撤去を期に、多くの引揚者が母国への第一歩を印した思い出の地、ここ舞鶴に記念公園を建設し、「平和の群像」を設立して、この地に帰りえず異境に倒れたいくたの霊に弔意を表するとともに、世界の平和を願い戦争を永久に放棄する日本国民の悲願をこめて、長く後世に伝えんとするものである。
 昭和45年3月
 京都府知事 蜷川虎三
 舞鶴市長  佐谷 靖

舞鶴引揚記念館のしおりに
ごあいさつ
舞鶴引揚記念館は、再び繰り返してはならない戦争の悲劇、悲惨な引き揚げの史実を後世に伝えるために、市民をはじめ引き揚げられた全国の皆様のご支援・ご協力をいただき、昭和63年(1988年)4月に開館しました。さらに平成6年5月に建物の拡張にともない、コーナーの増設および展示内容の大幅な充実を図り全館を改装いたしました。
昭和20年(1945年)から昭和33年(1958年)までの、13年間の長きにわたり、引き揚げの町として、最後までその使命を果たした足跡と、戦争の悲惨さを永久に語り継ぐ平和の「シンボル」として、建設したものです。
戦争を知らない世代の増加とともに、引き揚げの史実は過去の出来事として、年々遠ざかりつつあります。しかし、その苦しみと悲しみ、平和の尊さを忘れ去ってはなりません。
これからも、国内はもとより全世界へ、「平和の尊さ・平和の祈り」のメッセージを絶えることなく発信しつづけます。そして、一人でも多くの人々の心にその輪が広がることを期待し、念願するものです。


だいたい以上のような趣旨に基づいて建設されたものである。
引き揚げは何も前後の関係もなしにいきなり発生した悲劇ではない、戦争の歴史とは切り離せない。たいていは旧植民地から引き揚げてきているので侵略と植民の歴史とは分けられない関係である。
しかし以上のいずれもが戦争加害者として深い反省の念とか被害国民に対する思いやりなどは見られず、自分たちだけが被害に合いましたといったようなかなり手前勝手な立場にたつ「繰り返してはならないの決意」が語られる。

しかしこれがはたして本当に引揚歴史館、ロシア語案内のいうイストリアなのかどうか、直前の歴史とも周囲の歴史とも何もかも切り離してはとても体系だったまともなイストリアとは呼べないと考える。
こうした立場で戦争があったということすら知らない世代に正しく引揚が伝えられるものかどうか。この展示では「ソ連が悪い、戦争被害者は日本人だ」などとは言い出さないだろうか。
歴史の自分に都合のエエとこだけを、あまりないが…それをつまみ食いするだけではなく、ドイツなどと比べるとき、われわれ日本人はまだまだ長い苦しい粘り強い学習が必要と思われる。隠すものとウソを教えるものがあるなかで、一通りを正しく知るだけでも大変な努力が必要になる。明日の郷土を築くうえでそうした絶対に必要なニーズに応えうるものとなっているだろうか。
また広く引揚者のなまの体験かどうかもかなり怪しいと私は見ている。日本人の目はどこか大事な点を落としてしまう、外国の人の目がいると思われる。

片田舎の「文化の低い舞鶴」が作った三流茶番博物館で終わらせるというのならば別として、引揚の町として全国に知られた舞鶴にふさわしい内容を持ちたいものである。それが舞鶴に課せられた歴史的に使命と思われる。舞鶴人がつくらぬで誰がつくろうか。

ハコはまあいいにしても、中身(展示)に大いに問題がある。−と多くの舞鶴市民はじめ引揚者も見ている。

それでは中に入ってもう少し詳しくみていこう。(次のページへ・まだありません)






さすがに、これでは、とお気づきのようで、真摯で有能な職員さんもいらっしゃる、何もすべてがクソというワケではない。舞鶴市の久々のヒットではなかろうか、ぜひ実施にうつされたい。
記念館のあり方検討委員会というものが設けられていて、その答申が最近提出されたという。
市の広報紙(2011.3.16)に、
引揚記念館 平和の尊さ、後世に継承
あり方検討委員会から答申

 3月3日、「舞鶴引揚記念館あり方検討委員会」(委員長=田久保忠衛・杏林大名誉教授、6人)から同館の施設や展示、運営方法など今後のあり方について示した答申を受けました。
 同委員会では、昨年8月からの5回にわたる会議で、これまでの経緯や現状、課題などを把握するとともに、展示、運営方法などの具体的な方策について協議し、同12月の「中間とりまとめ」を経て、今回の答申をまとめました。
 市では今後、答申を尊重し、平和の尊さを後世に継承していくよう取り組みを進めていきます。
 答申の主な内容は次のとおり。

答申の主な内容
◆目指すべき方向性
 戦争を知らない世代に対し、平和の尊さを訴えていく発信拠点を目指す。
◆施設
 研修や学習のためのセミナールームや絵画展示室、ボランティア団体などが自己研さんや意見交流ができるボランティアルームの設置、収蔵庫の機能充実など増改築を含めた施設の改修。
◆展示
 戦争を知らない世代が理解でき、平和学習や教員研修などに利用できる展示への抜本的な見直し。近・現代史に精通した専門職員の配置。ボランティア団体との連携。
◆運営方法
 指定管理者の管理・運営を市直営へ見直し。
◆国の役割と国に対する働きかけ
 引き揚げやシベリア抑留に関する史実の継承は本来、国の責務として実施すべきであり、施設の整備や展示の充実に対する支援を国へ粘り強く働きかける。
◆交流・連携
 全国の戦争や平和をテーマとした博物館や資料館との交流。近現代史を研究する大学および研究者との連携。
◆市民への働きかけ
 市民の関心を高める事業の実施
閲覧できます
答申の詳しい内容は、企画政策課、情報公開コーナー、西支所、加佐分室、引揚記念館で閲覧できます。市ホームページにも掲載。
詳しくは、企画政策課(рU6・1042)へ。

『舞I市民新聞』(2011.3.8)に、
後世に…平和の発信拠点へ
引揚記念館検討委、市長へ答申

舞鶴引揚記念館あり方検討委員会(田久保忠衛委員長)が三日、多々見良三市長に答申書を提出した。戦争を知らない世代に対し平和の発信拠点として、建物や展示、関係機関との連携などの充実を求めている。
戦後、引き揚げ港としての役割を果たした史実を後世に伝えようと、一九八八年に引揚記念館が開館、多くの抑留体験者から寄贈された資料を展示している。しかし、抑留体験者の高齢化や、入館者も九一年度の約二十万千人をピークに減少傾向にあることから、今後の記念館のあり方について市が有識者ら六人の委員の検討委員会に昨年六月に諮問した。
目指すべき方向性として、子供たちとその親世代、学校関係者などに強くメッセージを発信し、抑留のほか、戦争や引き揚げの背景もわかる展示構成を検討すべきとした。施設については学習できるセミナールームや調査・研究室の設置、収蔵庫の充実、展示は近現代史に精通した学芸員を配置し、語り部のボランティアグループと協力してわかりやすい展示と説明を求める。
 現在の運営は委託方式だが、市の責任で資料の収集・活用などを図る点から直営にすべきとし、国に施設整備などの支援を働きかけることとした。市民に対しても引き揚げへの関心を高めてもらうよう積極的な事業を実施すべきとする。
 多々見市長は「示していただいた具体的な方針を尊重して取り組んでいきたい」と話した。

ポイとハコだけを作って、あとの運営などは地元に丸投げというパターンが当市に限らず見られる。地元はブーブー言ってるが、そんなことは知らん顔。生むだけで育てない超無責任な親のようなクソ自治体。引揚記念館も例には漏れない。直営を賛成する。





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このページの目次

舞鶴引揚記念館:設立の趣旨(このページ)
舞鶴引揚記念館:シベリア抑留
舞鶴引揚記念館:満蒙開拓青少年義勇軍
舞鶴引揚記念館:満州開拓団
満州天田郷・第二天田郷開拓団
第二次大戦の犠牲者数
引揚の歴史
引揚の概要
32隻の引揚船


 引揚の様相
引揚船のリスト
民間人の引揚-1-
民間人の引揚-2-
民間人の引揚-3-
 



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京都府京丹後市
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京都府綾部市



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引用文献参考文献

『終わりなき旅』(91 井出孫六 岩波書店)
『女のつぶやき−戦争とわたしたち−』(昭61 舞鶴虹の会)
『「過去の克服」と愛国心』(07 朝日新聞社)
『裂かれた大地 京都満州開拓民 記録なき歴史』(05 京都新聞社)
『白の残像』(平8 舞鶴語り部の会)
『真相シベリア抑留』(05 松本宏 碧天舎)
『世界の戦跡めぐり 母と子でみる』(96久保崎輯編 草の根出版会)
『戦争と子どもたち』(03 早乙女勝元 河出書房新社)
『ソ連が満州に侵攻した夏』(99 半藤一利 文芸春秋)
『大陸の花嫁』(平13 井筒紀久枝 生涯学習研究舎)
『中国残留日本人孤児 母と子でみる』(86 大場かをり他 草の根出版会)
『沈黙のファイル』(96 共同通信社会部 共同通信社)
『引揚港・舞鶴の記録 引揚四十周年記念誌』(平2 舞鶴市)
『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』(95 中国引揚げ漫画家の会編 亜紀書房)
『満州鎮魂 引き揚げから見える戦前・戦後』(01 梁禮先他 インパクト出版会)
『私の海外引揚』(昭60 引揚港舞鶴を偲ぶ全国の集い実行委編)



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