丹後の地名  資料編-PR-  



千歳
(ちとせ)
京都府舞鶴市千歳



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千歳の地誌


《千歳の概要》


千歳は江戸期までは「波佐久美(はさくみ)」とも呼んだ。大浦半島の西の端にあり、舞鶴湾口に西面する。対岸は白杉。
地名の由来は、千歳山に文珠菩薩の霊場があったため、天和3年に現地名に改称したという(西大浦村誌)。
南西に地名の由来となった千歳山がある。北西部に飛地がある。
明治31年地内花ケ口の4反余が水雷衛所予定地として買い上げられた。
同32年舞鶴要塞建設のため浦入砲台竣工。当地から北の集落は交通の手段を船運にたよっていたが、昭和39年北部の牛糞鼻から東方の佐波賀にかけた海岸断崖が陸上自衛隊の協力で切り開かれ、道路が開通した。
古来より海上交通上重要な地点であった。中世末期の連歌師紹巴が永禄一二年(一五六九)閏五月京都を発ち、若狭を経て天橋立(現宮津市)に舟で向かう途中ここを通っている。
当村の津田惣右衛門・津田市右衛門は大浦組大庄屋を勤め、また、志楽谷・祖母谷などの開拓に貢献したと伝える。

《人口》134。《世帯数》36。


《主な社寺など、古蹟》
北野神社・大将軍社・小屋橋神社。
田井村海臨寺末臨済宗東福寺派東光山養徳寺
阿弥陀堂には藤原期の地方仏師の作である一木造如来形2体、菩薩形2体、天部形5体を含め136体の仏像が安置されている。
古跡に備後守某の古城跡がある。


《交通》
市道平瀬崎線。

《産業》
漁業地帯、兼業に農業を営む。浦入にミカン園がある。北西部に飛地がある。




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千歳の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
千歳村
海臨寺末寺東向山養徳寺。天神宮。大将軍(ダイジゴ)社。
文珠 ボサツ千年爰にいますと云伝、穴文珠とて海岸にあり此村むかしは波作久美村此因縁にて千年(チトセ)村と改る。

《丹後国加佐郡旧語集》
初波作久美村ト云。…古城、備後。天神、氏神、鍵取 惣右衛門。大将軍、氏神。八幡。稲荷。荒神。一宮。恵比須。弥陀堂。養徳寺、海臨寺末。千歳、南磯部之松也。天照太神。忍耳尊千歳御在位有シ所也ト古書ニ見ヘタリ。岩組見事也。荒磯也。獅子ケ鼻獅子二ツ有カ如ク自然石久志渡ヲ千歳ト云泉水石小嶋石築山ノ如ク鷹岩星ノ如見ユル。猿石犬石二神石是ヲ在家ノ者毘沙門石ト云。二体向合有何レモ自然石ナリ。土モ無キ放レタル岩ニ見事成松有所モ有景色難及筆墨。,

《丹哥府志》
◎千歳村(大丹生村の次)
田辺府志に日本紀を引て云。天武天皇大嘗会を行ひ給ふ時主基方の地を丹波加佐郡に取る、今の千歳村是なりといふ。
【天満宮】
【東光山養徳寺】(臨済宗)
【文珠堂】
堂の前後五、六十間松樹林をなす、其林の下に奇妙の岩あり、獅々岩、泉水石、小島岩、猿岩、犬岩、毘沙門岩、皆見るに足る。
【千歳山】
千歳  千歳山神の代させる榊葉の  栄え増さるは君か為とか (藤原光範)
続後拾遺  真砂より岩根となれる千歳山  こや君か代のためしなるらん (詠人不知)
【城墟】
城主伝詳ならず、備後守といふ人の居城なりとも伝ふ。
【古刀】(農家蔵)
刀の長サ九寸五分行平の作なり、蓋玄旨法印の賜ふ所なり、田辺の城主代々之を見て金百疋を賜ふ、其金子皆刀と同じく家に蔵む、内に古代の一分銀二ケあり。
 【付録】(大将軍宮、浮玉宮、稲荷、荒神、蛭子、地の神、秋葉、阿弥陀堂)


《加佐郡誌》

千歳は霊元天皇の天和年間から今の名を用ひている。旧名は波佐美といって此地に古城があったさうであるが所在が明かでない。,


《大丹生校閉校記念誌》
千歳の伝統行事  堤灯方
 盆節期(上半期の勘定、村の費用、又、個人の勘定等がおこなわれる)には小学校の上級生が寄進帳を作り、勘定集会の場へいって寄附をつのり、一金何拾銭也、何某様と書く、村中の人から寄附を集めて、その金で前年いたんだ堤灯の修理や、ローソクの購入等をする。
 その頃になると、お堂の庭の草ひき、お堂のふき掃除、堤灯を吊るすさおや滑車、ロープの整備をする。それがまた楽しい行事であった。
 ばんたん用意をととのえて、七日盆をはじめに、いよいよ堤灯方本番である。上級生はソクとり(しんが炭化した部分をとりのぞく)またローソクの取り替えである。ソクができると堤灯のあかりがくらくなる。それをみわけて、「堤灯おろせ、ソクとるど」というのが大将の悦にいるときである。低学年はこうろんという孟宗竹を輪切りにして節を底にしたものをもって、上級生にしたがう。中級にくらいするものは、柱に結びつけたロープ(細物)をほどいて、堤灯の連をおろす。ソク取り(ピンセット状のものを自分達で作る)をもった大将(上級生)達はそれぞれしたの子をしたがえてはさみをとった。ソクや短くなったローソクをこうろんにいれる。こうろん持ちはなんとなく、よい気持ちになったものだ。
 ローソクをしかえ長くなったソクを取った堤灯は、再びいきいきと明るさを取りもどす。また天じょう近くまでつりあげてロープを結びつける。これを結びつけるのも結び方があって、へたにぎりぎりまきにしておくと、てまがかかって片方がおりるのに、まだおろせず連がななめになる。そうすると大将は「なにしとるんなら」といっかつする。こうしたことをくりかえすあいだ村の年寄りの人達が、お堂にお参りにきて、ご詠歌などを唱える。それがすむ頃若衆がぼつぼつ盆踊りをはじめる。
 もうユカタをきた子ども大人で一ぱいである。年寄若衆をとわずのど自まんがおんどをとって、盆踊りが深夜まで続く。
 その間、庭が踊りのひきずるげたでホコリッポクなる若衆から「オイ堤灯方、水まいてくれ」と声がかかる。すでにバケツにくんで用意してある水を庭にうつのは堤灯方の役目である。また水がきれると井戸からくんできて庭のすみにおいておく。再び踊りの輪ができ老若男女で踊りはたけなわとなる。
 そんなとき、つい時期をいつしてローソクの取り替えがおくれ、堤灯に火がつくことがある。大将の命令いっか堤灯方全員がわいわい、いいながら堤灯をおろす。火のついた堤灯をすばやく処理するのは、大将達の役目であり腕のみせどころなのである。
 ローソクといってもキバローソクで、芯が太く黄色味のかかったもので日本ローソクとも言った。今の白色の芯の細いものは西洋ローソクと言った。これはソクとりはしなくてもよいのである。当時の模様を再現するには、わたしのような悪筆にはとうてい、かきつくせないけれど、子どもどころに楽しかったものである。お盆もすぎ、いよいよ堤灯方も終りになると堤灯を木箱に収納してつぎの大将にあずけるのである。こうした伝統行事の中に子どもの教育がされたのではないかとおもう。


浦入
 舞鶴で写真展を見に行くと必ず浦入湾を上から撮ったものがあります。
 静かな湾を抱く島、その先端にある風雪に耐えた雄松、その湾内を航るいろいろの船をあしらった写真はまさに自然美です。
 南風こそ強いが三方を山に囲まれた浦入湾はいろいろな面で活用もされて来ました、沢山遺跡が発堀されたりするのは昔からでしょう。最近は養殖などに主として利用されていますが漁港としてはもちろん定期船の母港、航行船舶の避泊地としても有名でした。神崎方面から砂利を運ぶ帆船、日本海で鯨を追う小さな捕鯨船、海女を乗せて漁をする船なども避泊していました。地引網の漁場としても最適地で、盛んに漁が行われ子ども達も網を引く手伝いに行き魚をもらって来たものです。また一時期は陸海軍の基地としても大きな役割をはたしていました。
 さて、住民の変遷ですが、その昔も住民がいたのではないかと想像されますが、近年では舞鶴市民の多くがそうであるように大正期に軍港ができるのにかかわって住むようになり、以来いろいろの家族が転入転出し現在に至っています。
 最も多いときには十戸以上もあって小学生も十数人居たときがありました。その人達にとって豊かで美しい浦入の山や海は忘れ難い故郷であり、どこへ行っても誇りとなるものです。
 しかし一面、学校とのかかわりとしては、どの地方でもそうであるように、ここの小学校でも既存の地域と密接な関係の上に運営されているので、浦入はその範ちゅうに入れず精神的に特別な思いをしたこともありました。
 今回の統合はそんな面からみても大いに有意義に思う次第です。




千歳の小字

《舞鶴市史》より

千歳 川原 アゴ 南ノ脇 村中 大崎 宮ノ奥 堂ノ脇 村奥 寺ノ下 寺ノ奥 桂谷 竹ノ尻 後山 平野 戸口 小谷端 脇地 宮ノ脇 宮ケ谷 ウノ花 峠 小島 小丸山 大松ケ谷 茶ケ奥 石橋 浦入深田 浦入浜 杉元 中島 キヤキバシ 小峠 大久保 池ガナル 花ケ口 クキ 島 トガウロ 鍋クリ エボシグリ 小磯 大磯 細坂 磯千々メグリ 向崎 小谷ケ谷 番川原 竹ノ頭 ワンドウ 浦入小島 浦入日後 浦入日向 磯 バクチ崎

関連項目

佐波賀 大丹生 浦入

阿弥陀堂
経塚
千歳の風景
千歳下遺跡
千歳経塚





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