丹後の地名

鎌鞍山清園寺
(せいおんじ)
(七仏薬師の寺)
福知山市大江町河守

付:古縁起
付:略縁起


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京都府福知山市大江町河守

京都府加佐郡大江町河守

京都府加佐郡河守町河守


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鎌鞍山清園寺の概要



《鎌鞍山清園寺の概要》
清園寺(河守)
大江町河守にある寺院。大江病院の北側、町並みを見下ろすやや高い山腹にある。高野山真言宗。鎌鞍山と号す。本尊は薬師如来。七仏薬師の伝説を持つ古刹。
田数帳にも「清園寺」が見えるが、寺名か地名かは不詳。
江戸時代には四徳院(旧語集)、または子徳院(丹後国寺社帳)とも称していた。

寺伝では、用明天皇第3皇子・麻呂子親王が大江山の鬼族退治成就の報賽に七仏薬師を本尊として建立した七寺のうちの1といわれる。本尊は親王自作との伝えをもつが平安時代の作とされる。本尊は33年毎に開帳される。清園寺(河守)
寺伝によれば本尊を安置していた堂宇をきんしつ庵といい、康平−治暦頃、維範大徳がこの庵に住んで初めて堂宇伽藍を建てて一寺となし、清園寺と称したとする。(維範は紀州雑賀の人で嘉保2年高野山に登って南院を建てた)。
境内には弘法大師を祀る薬師堂と大師生前の行脚姿の石像があり、また蚕の神馬喰菩薩を祀る。隣に日吉神社(寺の鎮守)
麻呂子親王が勅を受けて鬼賊を討ち寺院を創建するまでを描いた清園寺絵伝(三幅)があり、南北朝時代の作と伝える(京都博物館寄託)。








鎌鞍山清園寺の主な歴史記録

《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
一 清薗寺 川守郷混入 廿二町二百六十歩  大和弥九良
  大□社 十六町九段二百七十歩内
  六町五段百八十歩      延永左京亮
  六町三百五十二歩     公文分 渡辺源左衛門
  九町七段百九十歩      御神領

《丹後国加佐郡旧語集》
青園寺、鎌鞍山、四徳院トモ云。丹後七仏薬師ト云像有。金丸親王御一代御働絵図二巻悉ク書此寺ニ有。大江山岩穴鬼賊楯篭山ノ木ヲ切ラシメ窟ノ口ニ詰テ焼殺シ給フト云。

《丹哥府志》
【鎌鞍山清園寺】(真言宗)
昔麻呂子皇子夷賊征伐の日用ゆる所の鞍及鎌此寺に納まる、依て鎌鞍山と號す、境内に薬師堂あり所謂七仏薬師の一なり、事は成願寺条下に出す。

《宮津府志》
鎌鞍山 清園寺    在同郡河守町
 同宗 同寺末
 本尊 不動明王  開山秀陽法印
  薬師堂 本尊七佛薬師第二見二成願寺ノ下一
 當寺什物中二有一麿子親王所持鎌及鞍一故ヲ以テ號二鎌鞍山一。又皇子有下征二伐スルノ當国鬼賊一之図三幅上不レ知二誰人書ヲ皇子征二伐スル鬼賊一之事載二上段成願寺之下一。


《加佐郡誌》
鎌鞍山清園寺
真言宗であって薬師如来を本尊としている。今から一千三百二十余年前に人皇三十二代の用明天皇の第三皇子であらせられた麻呂子親王が勅を奉じて、当時河守町の西北二里を距れていた三上ケ岳(千丈ケ岳?)に居を構へて近国を却掠していた鬼賊を退治し給ふたが、平定の に国土安穏の祈願として七体の薬師如来を刻まれ、国中の七ケ寺に安置せられたといふ。其の中の一体が此の寺に祀ってあるのである。従って近郷の古寺として名高く本堂、庫裡、方丈、経蔵、鐘楼等の建物は庭前の桜樹と共によく昔を偲ばせている。其の本堂は二百五十年前の建築であって、現時は修繕の際の府費補助の指名をも受けている。仏書数十点の宝物が蔵せられているが、就中馬鞍及鐙は麻呂子親王乗用の御遺物として今尚保存せられ崇敬せられている。是即ち山号の起因である。大師堂は近郷の参詣者が多い為めに例祭には篭堂が甚だ殷盛である。山後には十五年前に設けられた八十八ケ所の大師が樫林を縫って祀られてあって、春秋の好時期になると参詣者が非常に多く来る。

《大江町誌》

清園寺文書
真言宗の古利 鎌鞍山清園寺(高野山正智院末)は、河守下町にあって麻呂子親王の開基と伝え、丹波丹後に広く伝承される七仏薬師を祀る寺院の一つとして有名である。
 草創の由緒は以下に紹介した二つの縁起が物語るとおりであるが、これらはいずれも地方伝承に由来するもので厳密な物証は得られていない。ただ寺伝にちなむ鎌鞍山という山号や、清園寺の別称、竹冠に均慧(インシツ)庵(同寺過去帖所載)や、子徳院(寺の古記録で子徳院、丹後旧語集では四徳院)などが江戸時代中期の記事に見られることは、このころ所伝が広く世間に周知されていたことを示すものである。
 何よりも清園寺の本尊、薬師如来座像(秘仏で三三年ごと開扉)は、中央仏師の手になる町内切っての優品で、定朝に近い十一世紀の作とみられる(中野玄三、宮島新一両氏)ことを考えると、本寺は平安の昔から地方の重鎮として中央にも名の聞こえるような繁栄を示したものと思われる。
 寺伝では寛治二(一○八八)年に示寂の維範大徳によって七堂伽藍が整備されたという。現在も正門石段下には仁王門跡の礎石があって、往時をしのばせる。
 採録した二つの縁起のうち、俗称「古縁起」については、宮津市中嶋利雄氏に特に請うて、解説を得た。この次の「縁起一本について」が、それである。…「縁起一本について」は略…


縁起一本(いわゆる古縁起)
     奉書三一・六m×三九・一p

五水国前丹州千波水里神守
二丹大王并麻呂児親王記
天狐之狐子車木葉天狗記
仁王三拾代ヨリ同三十二代至迄之記
時仁王三拾代欽明天太豊春彦火種秋国尊

欽明天皇三十二年今紀伊国熊野山中雲登理(クモトリ)山
ニ住 天狐(アマコ)之狐子車(コネヤシャ)ト申者アリ
此物神人ノ二道ニアラツ代人之甲ス柴葉天狗(コノハテンク)ノ
ルイニニタリ。此一子天狐丸(テンコマル)ト者(下)申ス(上)アリ。
年十八ノの秋諸人ノ児トモヲイトミテ。此山家
ヲカリ出シ今大和国葛鬼山一言村住ス。広鬼穴
熊ト云者ノ。家来テ。之ト同心ス。右二人トモ
男力自全ナル物ナレバ。里人大ニヲソレ。村ノ
長人。目代所ヱ甲入。右二人トモ所ヲ。ヲイ出
ストミヘタリ。右ハ国郡南面記十一着目ニア
リ。
此後大和国金峰山ノヲク里十津河ノ郷湯ノ原小
来テ?夜車(アルヤシャ)ト申者ノ内ニタヨリ。右三人同心ス
後此里人トモヲ。クルシメ又天狐丸ハヲノレカ
男力(ユウリキ)ニマカシ。牛馬ヲトリテ食スルトキコヘタリ。
又十津河ノ郷比山(キタヤマ)村ト云里ニ。五月姫(サツキヒメ)ト申
 大カノ女鬼トモナイ者アリ此女ト天狐丸ト同心後
各四人ツレニテ何国トモ行方シレツ
此四人物トモ。天風地風水波火産トモニ。自在
ニカケマワル事ハシル。後々北国之方通山
コモリシテ。又里人等ヲ。クルシメ。後四足。
牛馬ヲ食シテ 鬼神ノ如二国々人々。ヲソレ
ヌ者一人モナシトシルベシ 右クワシクハ
右国郡?南面衆三拾七巻アリ
時仁王三十一代天大豊秋津火納太世彦主尊ハ敏
達天皇納十九年酉中国。五記八土五水国ト云
アリ。此五水ハ多気水。氷上水。千波水。里地
水。其赤井池(ソカイチ)水。此五ツナリ 是ヲ名ツケ天。
丹水ト申後丹波トモ云。右丹波之国之山々ヲ生
野止モ申ス此内大山ヲ。各五水ヨリ出テ大池
山。又太口山トモ申ス。天皇廿年?此山々ニ蚕
ヲハナシタモフ事。諸人ヨロコビヲナシテ。我
一ト 皇帝ニミツキヲ奉トシルベシ。
物見サレバ。イカニシテカカルヘキテタテナ
シト。二王申トコロエ。年コロ八十ハカリノ老
翁。出申スニ。貴美二王トモヨクキケ右ノヨ
フクワイヲカルニハ。此地二天照太神并二天神
地祇ノ社政奉拾ニ神之。神事ヲ行ベシ。サア
ラハ。又我日貴明(ヒキメ)祓以右ノ神人カリ出シ申べ
シト云ナガラ右老翁何トモ行方知ツ。二将由メ
ノ如ニシテ。御目ヲサマシ玉ヒテ。イカニ今ノ
老翁ハ何日吉ノ太神ナルベシト。イソキ前丹後
丹国ノ。山寿相(スソ)二。天照皇大神并二天神地祇ノ
宮柱太心久立。猿田彦尊 日吉山王宮御政事大
一ニナシケレバ。右老翁白犬ニノリ。弓矢ヲ以テ
アラワ出。空中ニカケマワリ玉フテ白犬ノナキ
ゴヘアルト云トモノ何オトモ知レス。此麻呂児
親心中二日月星祷天ヲ拝玉ヱハ。空中ヨリ猿田
彦ノ尊白犬ニノリ弓矢ヲ以現玉フ。諸人之拝セ
ザル者ハ。一人モナシ。又二丹大王心二天地神
ヲ祷玉ハ赤雲ノ上二光明ナシテ。天照大 
貴現玉。大小諸人等左右ヲ拝テ。二丹之サカイ
ニ。神守山ト甲所ヨリ此北二情水洗ルトコロア
リ末清洗テ神通河(シンツウカハ)ト申ス。此河上岩山アリ此
ヲクヲ仙夫(センシヨホ)ガタケト甲アリ此末ヲ岩室戸トモ申
此所二清タキアリ。此トコロニ宮柱太シク立。
神梼ヲ奉所ナリ。是ヲナツケテ岩戸ト後申ス右
天照皇大神ヲ政奉地ヲ之神守内宮ト申奉ル天神
地祇ヲ政奉所ノ地ヲ下神守外宮ト申奉ナリ。
白犬ニノリ玉フ猿田彦尊ノ。メグラセ玉フ方
ホシトイデ。ヲク山入見ハ。何トモナク。牛馬
人々其外ノ四足ノホ子アリ。二王トモ此地コ
ソ。タツヌル物等ノ住ム山ナリ斤臣諸人等二下
知シテ。カケメグリ見ニ。アヤシキ岩山ニ物音
シケルヲ犬ニヲソレ人一里ハカリ□リ大王并親
王二王二右ノヲモムキヲツケ奉ケレハ。二王御
色(レ)気有り。スクニ弓矢ヲ以テ入山ス。シカル
所ヱ白犬ニノリタル老翁出テ。二王前二立今此
ニアル天狐ノヨウクワイ。柴葉天狗等カリトル

テタテハ。今コゝ?卜云ヨリ。光ヲハナチ空中
ヨリ何神トモ。シレカタキ。拾二神現出□自
在ヲ。ハタラキ玉フナリ。二王何ナル郡神二又
国神ナルヘシト。拾二神ノ前ニスゝミ申ケレ
ハ。右ノ神々申ス言ノ葉ハ。神ト云神司ハ地神
猿田彦尊日吉山王日光黒神ノ下知ニヨリ。此山
里二住四狐人鬼ヲ祓出テ二王ニ。命ヲウタサン
事ヲ祷ルノ神ナリ。猶又二君ハ斤臣諸人トモヲ。

人物見サレバ。イカニシテカカルヘキテタテナ
シト。二王申トコロエ。年コロ八十ハカリノ老
翁。出申スニ。貴美二王トモヨクキケ右ノヨ
フクワイヲカルニハ。此地二天照太神并二天神
地祇ノ社政奉拾ニ神之。神事ヲ行ベシ。サア
ラハ。又我日貴明(ヒキメ)祓以右ノ神人カリ出シ申べ
シト云ナガラ右老翁何トモ行方知ツ。二将由メ
ノ如ニシテ。御目ヲサマシ玉ヒテ。イカニ今ノ
老翁ハ何日吉ノ太神ナルベシト。イソキ前丹後
丹国ノ。山寿相(スソ)二。天照皇大神并二天神地祇ノ
宮柱太心久立。猿田彦尊 日吉山王宮御政事大
一ニナシケレバ。右老翁白犬ニノリ。弓矢ヲ以テ
アラワ出。空中ニカケマワリ玉フテ白犬ノナキ
ゴヘアルト云トモノ何オトモ知レス。此麻呂児
親心中二日月星祷天ヲ拝玉ヱハ。空中ヨリ猿田
彦ノ尊白犬ニノリ弓矢ヲ以現玉フ。諸人之拝セ
ザル者ハ。一人モナシ。又二丹大王心二天地神
ヲ祷玉ハ赤雲ノ上二光明ナシテ。天照大 
貴現玉。大小諸人等左右ヲ拝テ。二丹之サカイ
ニ。神守山ト甲所ヨリ此北二情水洗ルトコロア
リ末清洗テ神通河(シンツウカハ)ト申ス。此河上岩山アリ此
ヲクヲ仙夫(センシヨホ)ガタケト甲アリ此末ヲ岩室戸トモ申
此所二清タキアリ。此トコロニ宮柱太シク立。
神梼ヲ奉所ナリ。是ヲナツケテ岩戸ト後申ス右
天照皇大神ヲ政奉地ヲ之神守内宮ト申奉ル天神
地祇ヲ政奉所ノ地ヲ下神守外宮ト申奉ナリ。
白犬ニノリ玉フ猿田彦尊ノ。メグラセ玉フ方
ホシトイデ。ヲク山入見ハ。何トモナク。牛馬
人々其外ノ四足ノホ子アリ。二王トモ此地コ
ソ。タツヌル物等ノ住ム山ナリ斤臣諸人等二下
知シテ。カケメグリ見ニ。アヤシキ岩山ニ物音
シケルヲ犬ニヲソレ人一里ハカリ□リ大王并親
王二王二右ノヲモムキヲツケ奉ケレハ。二王御
色(レ)気有り。スクニ弓矢ヲ以テ入山ス。シカル
所ヱ白犬ニノリタル老翁出テ。二王前二立今此
ニアル天狐ノヨウクワイ。柴葉天狗等カリトル

テタテハ。今コゝ?卜云ヨリ。光ヲハナチ空中
ヨリ何神トモ。シレカタキ。拾二神現出□自
在ヲ。ハタラキ玉フナリ。二王何ナル郡神二又
国神ナルヘシト。拾二神ノ前ニスゝミ申ケレ
ハ。右ノ神々申ス言ノ葉ハ。神ト云神司ハ地神
猿田彦尊日吉山王日光黒神ノ下知ニヨリ。此山
里二住四狐人鬼ヲ祓出テ二王ニ。命ヲウタサン
事ヲ祷ルノ神ナリ。猶又二君ハ斤臣諸人トモヲ。
カコイ下知シテ右四狐人鬼。山ゾクラヲ。ウ
チトルベシト言ノ葉ヲ。ノコシテ何トモシレヅ
空中ニ雷ノ光ヲナシテ。雷ノ音ノ猶又。二丹王
御心ノ内御詠ヲ?玉フ於心照?何波之言毛三尊
祇志天。神納直日乃。明久美満太?分
二丹大王御祷ノ歌又麻呂子親王御詠ニ
?圭麻久毛。産納神乃六寿毘満寿。野斤乃和歌
草。詞志胡見津麻?分ト此如ニ二王トモニ御心
詠アリケレバ又白犬ニノリタル老翁現弓矢ヲ以
テ空中地中ヲ。カケマワシ玉フテ。右四狐人

鬼。カリ出シ。二王并斤臣諸人等我ヲトラシ
ト。火花ヲチラシテタゝコタリ。右四狐人鬼
ニ。山ゾクドモ八百人バカリ。加ハリテ。日ハ
ヒメモス夜ハヨモスガラ。イトミヤイケル。ツ
イニ二王ノ矢サキニ四狐人鬼。トモカゝリテ。
手ヲイヌ。命ヲウシナフ者アリ。又山ソクラド
モ。カナハジト後丹ニヲチ。天ノ戸ノ。ハシヨリ
向ニニゲシリゾキタルモアリ。又白犬ニマクガ
ル老翁。イサミスゝミテ。右山ゾクラホ。ヲイ
ユトシルベ。二大将トモ。斤臣諸人ニ至迄毛。
アトヲヲイユク。ツイニ山ゾク四足外足トモマ
テ後丹ナル天戸ニテウタレケル。二大将大昔ニ
御ヨロコビアリ。斤臣諸人等モ時ノコヘヲツ
クリカチ時ヲ。上テヨロコビケル。トコロヘ。
白犬ニマタカル老翁先ニ立天照太神并拾二神現
出玉テユメノ如老翁ヨリ麻ヲ千向ケルナリ。ソ
レヨリ又後丹天ノ戸ヲ。一ノ宮神明宮ト政奉ナ
リ。二大将トモ斤臣并諸人ニ至迄前丹神守ニ来
陳トシルベシ。此後両宮御政ヲ。九月廿四五日
日ト政奉リ御身尊祇アリケル。又国中諸人等世
ヲ去シ菩提トシテ。拾二神ヲ本尊トシテ三佛堂
建立ス。此寺名鎌倉山清園寺上ノ防中ノ防下ノ
防ト申ナリ清園寺上ノ防ニ麻呂子親王ノメシタ
ル馬クヲノコシオクト。シルベシ。中ノ防ニ大王
御ノハタヲノコシヲクトシルベシ。下ノ防鎌倉
清園カモチタ八重鎌ヲノコシヲクトシルベシ。
右清園寺本尊ハニ王ノ御作十二神ノ本地ナリ右
クワシクハ国郡日霊地本記見タリ 右白犬ニマ
タカル老神日吉山王猿田彦尊日光大神トシルベ

丹州千波水神守神通阿未
  神守里
    鎌倉山清園寺仲古記書
清園寺鎮守日山王猿田彦尊日光拾二大神鎮座右
国郡日霊本地記之事

皇都宮中大内記殿於宝蔵ニ六月中ノ土用尓内見
依拝功現者也
月日正三納言前武内殿七十二翁(花押)


當山略縁起
 清園寺略縁起も、清園寺開創の由来を記したもので、文末の記述から天保十二年(一八四一)に抄写されたものであることがわかる。ただし、この略縁起末尾で「猶・縁起本書に委し」としているよりどころは、今のところ確認されていない。(中嶋論考参照)
 その内容の概略は、麻呂子親王が三上ケ獄に住む奠胡、迦樓夜叉 槌熊の三鬼を首領とした鬼どもを、岩田、河田、久手、公庄の四勇士を中心とした一万騎の大軍を率いて討伐した経過、そして討伐の後生き残り、命乞いをした槌熊に、親王は七堂伽藍を建立するべき土地を一夜で開くならば命を助けてやろうということで、槌態は喜び一夜のうちに境内を造った。ここに親王がみずから刻まれた七仏薬師の一仏を安置して創建したものであるという。
 古縁起が難解で複雑な内容を持つのに比し略縁起の表現は平易である。なお、清園寺には創建の由来を絵画で表した三幅の「清園寺縁起絵巻」があり、室町初期の作と考えられているが、略縁起は、この縁起絵巻の詞書ともいうべき性格のものとして書かれたのではないかと考えられている。

 當山略縁起
抑富山は人皇三十二代
用明天皇第三の皇子麻呂子親王の御開基にて
本尊は親王御自作の薬師瑠璃光如来にてましま
す 其由来を尋るに 其頃当国三上ヶ獄に奠
胡 迦樓夜叉 槌熊という三つの悪鬼の首領す
んて百千の眷族をつかい 国中に充満しあまた
の人を害しけるにより 人倫の通路たゞほとん
と魔国とならんとす 此よし都に奏問を遂けれ
帝宸襟をなやまさせたまひ急き公郷をあつめ
御評定のうへ 麻呂子親王智勇兼備なれは
彼悪鬼退治の大将軍として当国に御下向あるへ
しと勅詔を下し絵ひけれは 親王つつしんて
御うけあらせられ 御ともには岩田 河田 公
手 公庄の四人の勇士をはしめ御勢都合一萬騎
にて 橘のミやこを御出馬あらせられて当国
に向はせ給ふ
親王当国に来り給ふ時地中に馬の嘶く声聞へ
けるにより士卒に命してほらしめ給へは栗毛の
龍馬躍り出たり 親王御覧じて これ天の賜な
りと喜ひ給ひて直さま此馬にめさせられけるに
無双の俊足にていかなる鳥道嶮岨といへども
あだかも平地をゆくか如し その馬の出たる地
を嘶きの里と名つく さて手配りを定め三上ケ
獄を囲ミ彼悪鬼を攻給ふに悪鬼本より妖術自在
にて、空を翔り海を渡り岩をくくり雲を起し雨
をよひ 或は顕れ或は隠れ切レともきづつかず
射れともあたらず如何ともせんすべなかりけり
 この時親王これ神明佛陀の加護にあらすんは
人力を以て敵しかたしとおぼしめて 薬師如来
並に 当国大神宮に丹誠をぬきんて 御祈願あ
らせられけれは奇なる哉 一つの犬額に鏡を戴
き忽然として出来り親王の御前に跪きけり
親王これを御覧して これこそ佛神の御加護な
らめとそれよりこの犬を真先にたてて進ミ給ふ
に 悪鬼とも鏡の光りにあたれハ忽チ通力を
失ひ恐れわななき逃走るを ここかしこに追
つめ 奠胡迦樓夜叉の二首領ならひに眷族あ
また安々と計取たまひけり
悪鬼首領の内槌熊一つ残り居けるか 親王の御
前に出て 何卒一命を助け給はれとそ願ひける
 親王聞しめして 汝罪赦しがたしといへと
も 此處に七堂伽藍を建立すへき地を汝よく一
夜の内に開き平らけは 願ひに任せ命を助け得
さすべしとのたまひしかば 槌熊大に喜び岸を
崩し岩を砕き木を伐り土をはこひて 一夜の内
に境内広くひきならしけり親王すなわち彼か命
を助け 当国竹野村斎の宮の巌窟に迫籠め永く
出る事なからしめ さて工匠あまためしよせら
れて七堂伽藍御建立あらせられ 御手つから刻
ませ給ふ七佛薬師の内一佛を安置し給ひ鎌鞍山
清園寺と名付給ひしより今天保十二丑の年まて
千二百六十四年の星霜を経て 佛閣僧坊僅に十
の一を余すといへとも法燈明らけく薬師如来の
霊験日々にあらたなる霊場なり
猶縁起本書に委し ここにはあらましをしるす
のみ。


《大江町誌》
麻呂子親王と大江町
 麻呂子親王伝説は、大江町にも根強く残っている。なかでも清園寺の「略縁起」と「古縁起」は両丹地方における麻呂子親王伝説を記した縁起の中でも異色のものである。ともに江戸時代の記述とされているが、両者の内容は大きく異なり、ほとんど共通点がみられない。
 略縁起の大筋は、冒頭に述べた伝説の概略とほぼ同じである。異なるところは、土熊が槌熊とかかれていること、麻呂子親王に従う四勇士が、岩田・河田・久手・公庄となっていること、それに、悪鬼征討ののち、命乞いをした槌熊に、親王は、ここに七堂伽藍を建立すべき場所を一夜のうちに開くなら願を聞き入れてやろうといわれたので、槌熊は喜んで作業に当たり一夜のうちに広い境内をつくりあげたので、命だけは助けて当国竹野村の斉の宮の岩窟に追いこめたというところである。そして清園寺は、この槌熊の開いた境内に七堂伽藍を建立し、七仏薬師の一つである薬師瑠璃光如来(宝月智厳光音自在王如来)を安置したのがはじまりであり、山号は鎌鞍山と号した。この山号の由来となった麻呂子親王愛用と伝える鞍は現在も寺宝となっている。清園寺には、創建の由胎となったものであることは間違いなさそうである。

来を描いた三幅の「清園寺縁起絵巻」がある。現在京都国立博物館に委託保管されている逸品で、室町時代初期の作といわれる。「略縁起」は、この縁起絵巻の詞書としてまとめられたものであろうといわれている。
 もう一つの縁起は、一般には古縁起といわれているが、表題は、
 五水国前丹州千波水理神守
 二州大王并麻呂児親王記
 天狐之狐子車木葉天狗記
 仁王三拾代ヨリ同三拾二代至迄之記
とある。古縁起については、中嶋利雄が「大江町誌史料編」に詳細な解説を寄せたので、これを借用し抄記してその概要を紹介する。
 欽明天皇の時代に、紀伊国熊野山中に住む天狐之狐子車(あまこのこねやしゃ)(木葉天狗)の子天狐丸(てんこまる)は大和国の葛城へ行き、そこに住む穴熊と手をくんで住民を悩ましたので、村長が目代所へ訴え、村から追い出した。追われた二人は、大和国金峰山の奥十津川郷の湯の原の軽夜叉(かるやしゃ)を頼り、同じ十津川郷の北山村にいた五月姫という大力の女鬼を伴って五水国に来て奥山に住んだ。五水国とは、多気水・氷上水・干波水・里地水・其赤井池(しかいち)水であって、のちに丹水または丹波といった。丹波は前丹と後丹の二つにわかれていた。敏達天皇の第五王がここに入国して二丹(りょうたん)の大王となった。ついで用明天皇の時代に、その第三皇子麻呂子親王(十七歳)を二丹大王の世嗣として丹州にむかえた。大王と親王は、心をあわせて新田開発を企てたが、五月姫・天狐と五月姫の間の子天鼓(てんこ)・穴熊の子土熊・軽夜叉の子軽夜丹(かるやに)らは開発を妨げ人々を苦しめた。二王は都へ上がって、これらを討ちとれという勅命をうけ、天照大神の神鏡を先に立てて天神地祇諸神の御尊書を拝して二丹に帰った。ところが、二王が兵を集めて討伐にかかったが賊は一向に姿を見せない。思案にくれている時に、老翁があらわれて策を授けてくれた。老翁は、「この地に天照大神と天神地祇の社をまつり、十二神の神事を行うベし」と告げた。そこで神守(こうもり)山のかたわらに、「元神守内宮」と「下神守外宮」をまつった。こうして神明のみちびきをうけて賊を見つけ出し、最後は後丹の「天戸(あまのと)」で討ちとった。そこに 「一宮神明宮」を祀った。前丹神守に帰陣した二王は、討伐で世を去った人達の菩提に、十二神を本尊として三仏殿を建立した。これが鎌鞍山清園寺の上ノ坊・中ノ坊・下の坊であり、本尊は二王の作で十二神の本地仏である。
 中嶋利雄は、「略縁起」と「古縁起」の内容を詳細に比較検討し、「略縁起」が通行の麻呂子親王伝承であるのに対し、「古縁起」は大きな変形をみせていることを指摘し、その要因を修験道の影響と考え、修験道との関連で縁起に検討を加えている。(史料編参照)
 ところで、この「古縁起」の中で非常に興味深いのが、鬼賊征討を祈願し、「元神守内宮」・「元神守外宮」を建てたというところである。麻呂子親王伝説と伊勢信仰の結びつきは、麻呂子親王の妹にあたる酢香手姫が、伊勢神宮に仕えた歴史的事実によったのではないかといわれているが、元伊勢を麻呂子親王の勧請によるとするものがいくつかの古記録にみられる。「丹後州宮津府志」はその一つである。 
 内宮  在加佐郡内宮村
 鎮座年歴未詳 一説云用明帝時皇子麻呂子親王之所二勧請一也。神社啓蒙等以二河森外宮一為二與謝宮一而謂下今祠二内宮一者
 近代之俗上者却似レ誤也天橋記曰、今の内外宮は古麻呂子親王當国の凶賊を征伐の時勧請ある所也、内宮外宮の間に公庄
 金屋と云在名あり是親王の家臣の姓残りて在名となれりとぞ
 謹按麿子皇子者用明天皇第二皇子而厩戸王之弟也 国俗称二金麿親王一者是也 皇子征二伐当国凶徒一之事雖レ未し考二之於
 正史一国俗自レ古所二伝称一而其旧蹟丹波丹後両国之間各所有レ之 堂社亦為二皇子勧請一者非レ無レ拠也 又一説以二當社一為二
 天照大神四年鎮座之跡一見レ上

 元伊勢の地元であるだけに、麻呂子親王伝説と元伊勢信仰が融合したものであろう。
 大江山の南麓大江町仏性寺にある如来院も麻呂子親王の開基と伝え、親王が鬼賊征討に当たって祈願した精舎であるという。鎌鞭山の山号は、親王が鞭をとどめられたことに基づく。本尊の薬師如来は、麻呂子親王の護身仏であると伝え、六一年に一度しか開扉されない秘仏である。ここ如来院にも一巻の縁起が伝えられている。その内容の特色は、鬼賊の栖家の様子がくわしく述べてあることである。
 河守庄に日室山という山がある。麻呂子親王はその険しい山に分け入り筒明神を拝されるが、日室山は忝げなくも天照大神の分神の垂迩の地である。谷底に深淵があり、そこに筒明神を祀っている。ここから二里下ると笠脱縄手があり、下馬橋のところから五○町分け入ったところに三重瀧というのがあって、大神は毎日影向(祈願)されるところ、その瀧の辺に鬼共が来り集まって栖家としている。
 この表現をみると、現在の天の岩戸の位置と地形が連想され、「清園寺古縁起」の中で麻呂子親王が、五月姫・天鼓・土熊・軽夜丹を「天戸」で討ってかちどきをあげたとあるのと似通っている。「如来院縁起」の中て、もう一つ他の縁起と違っているところは、鬼賊征討ののち鏡を三上山の麓に祀って犬鏡大明神(かつて大虫神社の境内にあったという)と称したが、河守庄の庭森大明神がそれで、伊勢神宮の鏡宮の変化であるとしているところである。
 以上のほか、大江町内に残る麻呂子親王伝説として、元伊勢内宮の御手植えの杉、鍋塚の伝承、公庄の地
名縁起、それに関の逆竹(さかたけ)神社縁起伝承などがある。鍋塚は、大江山連峰の一つであるが、ここは、鬼賊征討の成就と共に死んだかの駿足の龍馬を葬ったところだといい伝えるものである。
 公庄の伝承は、鬼賊征討からの帰途、麻呂子親王の従者公庄伊豆之進顕忠が、この地に来て脚気を患い、公庄の姓を賜わってここにとどまった。顕忠は病没したが、一族が伊豆姓を名乗って、ここに住みついたというものである。ここ公庄の氏神斎宮神社にも麻呂子親王伝説が残り、「同神社由来記」(安永八年、「氏神由来並屋台寄附名簿」として木板に墨書)によると、同社の祭神は麻呂子親王であると明記されている。この斎宮神社は、一説では竹野郡の斎宮神社をここに遷し祀ったもので、祭神は竹野姫命だとも伝える。竹野郡の斎宮神社は丹後町にある延喜式内社竹野神社のことであるが、大江町の伝承と非常に似通っているので、「丹後町誌」「伝承と麻呂子親王」を抄記しその概要を紹介する。
 竹野の里は、丹波大県主由碁里が国府としたところで、由碁里の女竹野媛は開化天皇のお妃となられたが、のち年 老いて郷里竹野の里に帰り天照大神を斎きまつって奉仕したので、竹野の宮を斎宮と呼ぶようになった。現在本殿に大 神を祀り、かたわらの摂社に竹野媛を祀る。次の崇神天皇の六年天照大神と草薙剣を加佐に移し奉る時、皇女豊鋤入媛 は御神領を捧げまつられた。竹野神社の由来に祭神として天照大神・竹野媛・建豊波豆羅和気君(開化天皇の皇子)・日子坐王・麻呂子親王を祀る。
 となっている。
 また同じ「丹後町史」の「斎宮大明神縁起」には、
 (前略)河守の庄から 三上ヶ岳までせめのぼり遂に平らげることができた。ところが、すばやい一人の鬼の魁土車 (土熊)を討ちもらし、のがれるのを今の竹野まで追いこめ、岩あなに封じこめて討ちとったのである。その岩が今の立岩であったと伝えられている。人々は、この賊どもの平定されたことを喜びあい、これこそ神仏の恵み、親王のおてがらとほめたたえ、親王を敬い、死後北狭の守として大神宮のおそばに塩干、松千三神を合わせて三社の大神として竹野神社の境内、若宮殿に斉き祀ったのである。(後略)
公庄の斎宮神社と竹野郡の斎宮神社はどうかかわるものであろうか。この伝承は相当広い範囲に語られたものとみえ、丹後名所案内にも同様の言伝えを紹介している。
次に、関の逆竹神社の伝承は、麻呂子親王が鬼賊征討の途次、ここに軍をとどめたとき老翁に三上ヶ獄への道や賊のことを問いただした。そして、出発の前日、神を祀り、持っていた竹を逆に植え、鬼賊退治の前兆を占って祈願したところ、翌朝その杖に青葉が茂った。これをみて親王の軍勢は意気大いに上り進発した。戦勝ののち、再びこの地に立ち寄りこの竹をみて、鬼賊の禍がここより皇都に入ることのないように祈った。関というのは関守の意味であるというものである。
 以上のような大江町における麻呂子親王伝説の概略をみるとき、如来院や清園寺などの縁起伝承とは別に、それほど著名ではないが仏教とは無関係な地名縁起伝承が根強く残っていることに気づく。むしろ、こうした地名縁起となっている公庄や関の伝承こそが、麻呂子親王伝説の原型をなすものではなかったのか。
 麻呂子親王の活躍した七世紀のはじめは、蘇我氏と物部氏の対立から大和朝廷内部の混乱がはげしく、各地で朝廷への叛乱が相次いだ時代であった。筑紫国造の反乱は有名であるが、この反乱が朝鮮勢力と結びついていたことはよく知られているところである。この時期、丹後に関係のある出来ごととして、用明天皇の皇后であり聖徳太子の母である穴穂部間人 皇后が、一時竹野郡の間人(網野町)に難をさけたということが「記紀」にみえる。当時の丹後は、朝鮮を通して大陸の先進文化と交流をもち、かなりの勢力をもっていたものと思われ、英胡や土熊など鬼賊と呼ばれた人々は、大和朝廷にまつろわぬ勢力の首領ではなかったのか。麻呂子親王伝説は、大和朝廷の丹後勢力に対する示威懐柔あるいは鎮圧の活動を背景とするものではなかったのか。
 ともあれ、この麻呂子親王伝説は、大江山を中心に根強く伝わり、大江山が酒顛童子物語の舞台となる母胎となったものであることは間違いなさそうである。


清園寺
 寺伝 「創立仁王三十二代用明天皇第三皇子麻呂子親王当国へ三鬼退治ノ為メ下向アツテ無事ニ三鬼退治
アッテ 当国ニ七仏薬師ヲ安置セラレシ 当寺ハ第二番ノ旧刹ニ候 委クハ風土記ニ見へタリ」(明細帳)
 かつて竹冠に均慧庵と称したが、寛治二年六月に遷化した学徳兼備の維範大徳が七堂伽藍を整備して子徳院(四徳院)清園
寺と改め、開山の称号を得た。
 十五世紀中ごろは二十二町余の寺領をもち、領主大和弥九郎の名がみえ中世における権勢がうかがえる。
(「丹後国諸荘園郷保惣田数帳」−成相寺所蔵)
 沿革 大正七年三月二十五日の河守大火によって楼門(正徳五年建立)と共に、ここに安置されていた多聞天王、広目天王の木造仏二体、庚申堂一棟を焼失した。類焼を免れた本堂は寛延二年に建立であり、庫裡は享和元年蜜詮上人の代に、下町角屋が寄進している。持仏堂は昭和十一年の建築である。
 寺宝 縁起二書で麻呂子親王御手つから刻ませ給うとされる本尊薬師如来座像は三三年ごとに開扉の秘仏であり、本寺開創の由来を描いた縁起三幅は、目下京都博物館に寄託されているが、いずれも文化財の項で解説した。

 御詠歌
  きてみれば るりの光ともろともに
   大師の御影 拝むうれしさ
裏山の八十八ヶ所霊場は毎月二十一日が例祭とされ参詣者が多い。
 (註)当寺の過去帳による、七仏薬師が安置されている寺院は次のとおりである。
  一 加 悦  施薬寺  (加悦町)
  二 河 守  清園寺  (大江町)
  三 竹野郡  元興寺  (丹後町、現廃寺)
  四 仝    神宮寺  (丹後町)
  五 溝 谷  等楽寺  (弥栄町)
  六 宿 野  成願寺  (宮津市小田宿野)
  七 白 久  多称寺  (舞鶴市)
その他七仏薬師を本尊とする寺院としては、大江町如来院、丹後町成願寺、久美浜町円頓寺、福知山市無量寺、野田川町福寿寺、市島町清薗寺、福知山市下野条東照寺等がある。(中野玄三)
また当寺には養蚕守護の馬鳴菩薩が祀られている。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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