丹後の地名

雄島事件
(おしまじけん)
舞鶴市


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京都府舞鶴市


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雄島事件と山本文顕

雄島(おしま)というのは若狭湾に浮かぶ冠島(かんむりじま)のことである。冠島には異称が多くあり、雄島もその一つである。はるか古代から若狭湾沿岸の主に漁民たちの島であったが、ずっとずっと後にできた日本海軍がこの島を勝手に占拠して、ワシの島だから、漁民たちは立ち入ることならん、島に緊急避難する場合も事前に軍に連絡せよなどと呆れた話を言い出したのであった。これではアメリカに負けるわけである。
 軍港の町・鎮守府の町・舞鶴で、泣く子も黙るその大海軍当局と舞鶴市民がガンと頭からぶつかる事件になった。

 海軍は亡びてからもすでに60年以上も過ぎている。『大海軍を想う』の伊籐正徳氏だったか、大海軍を愛してやまなかった彼が「大海軍を滅ぼしたのは誰でもなく大海軍自身だ」と言っていたと記憶するが、日本海海戦大勝利の奢りだろうか、そのあまりの没義道・無軌道ぶりに自らで自らを滅ぼしたのである。旧海軍の倉庫と舞鶴市役所
 そうした旧海軍へ無批判に阿諛追従することしか能のないかに見え、何億円もの市税を無駄につぎ込む、夕張もさぞや大笑するであろうが、誠に情けなく正気かと疑いたくなる現今の市当局や舞鶴市民を見ていると、あの軍国主義真っ盛りの当時に、舞鶴市民のどこにそんなにまともな、まとも過ぎる神経の批判根性があったのかと、まったく信じられないような話になる、どこかのよその星から落ちてきた舞鶴人社会とは無縁な人でないのかとも思えたりもするだが、信じられないが本当の事件であった。
 誠に当市民には名誉な、あまりに名誉すぎて理解もできないほどの輝ける歴史で「雄島事件」と呼ばれているのだが、実のところは舞鶴市民すらあまりよく知られていないのではないかと思われる。
ネットを探しても先に私の書いた物以外はないようである。旧海軍兵器庫をリサイクルした市政記念館なるものにも何一つ展示されていない。きれいさっぱりと忘れている、ここは一体何の記念館なのだ。バカほどの税金をつぎ込んでいるのだ、中に何を記念するかくらいはよ〜く考えて展示したらどうか。せっかく全国に大自慢のできる大人物がいたのである。もちいとらしい品位の高い展示をされるよう強く望むものである。このままでは税金のバカ使いである。
 彼の地元舞鶴ではそうした情けないことであるが、全国的には案外に有名な話なのである。さて『宮津市史』は、
雄島事件
 昭和八年、舞鶴の軍港司令部が許可なく冠島へ上陸することを禁止した。これにより老人島神社への自由な参拝ができなくなり、緊急避難するにも事前の許可が必要となった。東舞鶴の郷土史家山本文顕はこれに反対して、布令廃止を求める論説を「新舞鶴時報」に連載し、「雄島事件」といわれる騒動が起こった。この布令は昭和二十年の終戦まで変わらず、軍による砲台設営などで島が荒らされた。

先だって与保呂小学校の学校図書館を覗く機会があった。『冠島とオオミズナキドリ』(岡本文良1972小峰書店)という「少年少女ノンフィクションシリーズ」があった。私らが小学生の頃にはなかった書であるが、だから現在45歳以下くらいの人なら全国的にこの書を読まれた方も多く、あるいはこの事件を知る方も多いのでなかろうかと思うのである。
当の舞鶴市民以上に全国的にはよく知られていると思われるのであるが、その書には雄島事件が正確に書かれてあった。同書に、(イラストも)

日本海軍は、自然によってきずかれたこの要害の地に目をつけ、明治三十四(一九○一)年、神奈川県横須賀、広島県呉、長崎県佐世保とならんで、この舞鶴にも、鎮守府(軍港司令部)をおいて軍の要港としました。以後舞鶴は、軍港都市として急速に発展の途をたどっていきます。
 国の内外に、ぶきみな戦雲がたちこめるにつれて、軍部の権力はしだいに強大なものにふくらんでいきました。同時に横暴なふるまいも目につきはじめます。
 昭和八(一九三三)年八月、舞鶴の軍港司令部は、
「以後、許可なく冠島への上陸を禁止する。」
という布令をだしました。冠島は海軍の所有地だから、学術的な目的以外の上陸は、いっさい許可しないというのです。
 地元民たちは、このぬきうちの暴挙にあぜんとなりました。冠島は、古い祖先のむかしから、自分たちが魂のよりどころとしてあがめたてまつってきたところです。土地の無事繁栄も、すべて老人島大明神の守護によるものと信じてきました。また事実、そこに奉納してある米・塩によって、なん人の漁師が助けられたかわかりません。その管理も、長いあいだのしきたりによって、野原、小橋、三浜の三か村にまかされてきました。そこへあとからのりこんできた海軍が、かってに所有権を主張して上陸を禁止するというのは、だれが考えても無謀な話です。みんなは、いちばんたいせつなものを横取りされたようないきどおりを感じました。しかし海軍の威光をおそれて、長いものにまかれたように口をつぐんでいます。
 そのとき、舞鶴にすむ山本文顕さんという人が、敢然と海軍にたちむかいました。
「没義道(道にはずれた)な海軍の上陸禁止令!」
という文章を、どうどうと新聞にのせて、冠島の歴史や土地の人との深い関係を説明しました。
でも山本さんは、ただがむしゃらに、海軍の処置に反対したわけではありません。
「国防上、冠島がどうしても必要だというのなら、むりに反対はしない。しかしその場合でも、地元民の熱い信仰心をきずつけぬために、老人島大明神を、どこかほかの場所にうつしかえてからでも、おそくはないはずだ。」
と、海軍に反省をもとめたのです。しかし海軍は、一市民の声に耳をかたむけては威信にかかわると思ったらしく、山本さんの発言をまったく無視し、ただ、
「冠島へ避難しようとするときは、その願いをだせば、特別の考慮をする方針である。」
と、ごくわずかな配慮を発表しました。
 じょうだんではありません。あらかじめ冠島へ避難したいなどと思っている者はひとりもおりません。
遭難は、予期せぬ悪天候などにわざわいされて、一瞬のうちにやってきます。そのとき、たまたま冠島の近くにほうりだされた者のみが、必死の思いで島にはいあがるのです。特別の考慮をするから願いをだせといわれても、その余裕があるかないかぐらいは、だれが考えてもわかることです。
 山本さんはまたくいついて、その非をはげしくなじりました。すると海軍から、軍港司令部の軍人を侮辱したという理由で、裁判所に告訴されました。

 裁判所の法廷でも、山本さんは自分の信念をまげずに、思うところを主張しました。つめかけた傍聴人も、うなずかぬ者はありません。しかし時代は、たとえ正しい論でも、軍部にたてつくことをゆるさぬような風潮にかわっていました。
「被告人を、科料十円に処す。」
 これが山本さんに下された判決です。科料というのは、軽微な犯罪に科せられる財産刑で、当時、犯罪の軽重によって、十銭以上二十円未満と定められていました。十円といえば、かなり重い判決
ということができます。
 むろん山本さんは、判決を不服として、さらに上級の裁判所に上告しました。しかし結果は同じでした。
 こうして正義はやぶれ、地元民は信仰の島を強奪されました。海軍は冠島に砲台をきずき、数十人の警備兵を配置しました。

子供にもわかるように書けばこんな事件であった。なるほど伊籐正徳が言うのも誠だなと思える話である。

山本文顕氏の娘さんの婿さんが有名なオオミズナギドリ研究家・吉田直敏氏になるが、その彼の書『樹に登る海鳥』(1981汐文社)には、

雄島事件
 一九三三(昭和八)年八月二日、舞鶴要港部は、若狭湾に浮かぶ孤島、冠島に関する次の要港部法令第二四号を発布した。

    舞鶴港外冠島(大島)に関し、左の通り定む。
  一、冠島南端平地(約四町一反歩−−約四・一ヘクタール)は海軍用地に付き、海軍軍人、軍属の外、濫りに本用地へ立入るを禁ず。
    学術研究その他已むを得ず立入る場合は、事前に当部の許可を受くべし。
  一、本島に棲息する「おおみずなぎどり(俗称さばどり)」は天然記念物にせられあるに付き、鳥および卵を捕獲し、巣穴の破壊その他繁殖に影響を及ぼす行為をなすものは、法律により処分せらるるに付き注意すべし。

 いうまでもなく冠島は沿岸漁民たちの努力によって保護され、天然記念物指定を受けた島である。島の老人嶋神社は、大漁祈願、海上安全を祈り近隣の漁民たちが例年参詣する、親しみ深い神社である。また、何よりも実際に若狭湾内で操業する漁船は、海が荒れた時には冠島に避難することが多く、一八八七(明治二○)年に島内に避難小屋がつくられ、多くの漁民が救われた経緯があった。
 このようななかで、舞鶴要港部が、オオミズナギドリの保護を口実に、一方的に冠島上陸禁止を押しつけてきたのである。これによって、若狭湾で安心して操業できなくなり、老人鳩神社への自由な参詣すらままならぬこととなるのは、何としても沿岸漁民にとって承服しかねるものであったにちがいない。しかしながら漁民にとっては、相手が絶対的な力をもつ海軍であること、加えて当時の「戦意昂揚」の〃世論〃のなかで、表立って反対もできず困り切っていた。
 この時、舞鶴市に住んでいた山本文顕は、漁民の立場に立って、当局を相手に、勇気ある。ペンをふるったのである。彼は、冠島をめぐる従来からの慣行を明らかにし、老人嶋神社と漁民との古くからの深いつながりをもとに、住民無視の悪法令の非を、地方新聞を通じて訴えたのだった。
 実は、この法令の発布にあたって軍部は小橋区長を通じ、島に関する報告書を求めていた。これには山本文顕が作成にあたったのだが、これを軍部に提出する二日前に、軍部はこの法令を発布してしまったのだった。要請していた報告も待たず法令発布したことが地元漁民と山本を硬化させ、この事件の発端をつくったのである。
 法令発布後、山本は地方新聞に、冠島に関する記事、「雄島の景観」「雄島の呼称」「雄島の地籍」「雄島の地誌」「雄島の地震」「凡海郷の章中」「雄島の神秘」「雄島の祭事」「雄島の生物」「雄島の植物」「雄島の伝説」を次々に発表した。これに対し舞鶴要港部は、この記事のなかで、同要港部の発した「冠島上陸禁止令」に強く抵抗したことをもって、山本を「侮辱罪」で告訴したのであった。舞鶴区裁判所(現、舞鶴地方裁判所)、京都地方裁判所(現、京都高等裁判所)を経て、大審院(現、最高裁判所)で結着をつけられた事件となったのだが、当時の権力者は、「科料一○円に処す」とし、山本を裁いたのだった。
 これが「雄島事件」として伝えられるてんまつである。敗戦によってこの法令は効力を失ったが、当時を知る地元漁民、関係者の心に、今もなお傷あとを残している。

海軍兵器庫を「赤レンガ倉庫群」などと名付けて、新しい観光名所として売り出したいのが舞鶴市などであるが、よく考えてもみるがいいであろう。たとえば西舞鶴の田辺城址なら少なくとも250年間くらいの平和を保ってきた歴史があり、そういうものとしてなら評価もできる。「赤レンガ倉庫」はどうか。何年間平和を保ってきただろう。数えるのも恥ずかしいようなことでしかない。
どこの生徒たちか(06.10.4)
莫大な金をつぎ込み、やったことは千万という単位で数えられる犠牲者であり、最後は原爆被爆であった。馬鹿馬鹿しいを通り超えた歴史の遺産であり、観光名所などにはなろうはずもない話である。心得もない日本人相手だけならあるいは名所となるかも知れないが、どこの国の人も相手にしてくれるような代物ではあるまい。そんな当たり前も心得ないのが現代に於いてすらも舞鶴人には多いのである。そうした舞鶴文化と比べるとき山本氏が一人いかに優れていたかが理解できよう。
 ↑どこの小学校か知らないが、あるいは地元の市教委最右翼とささやかれる私の母校かも知れない、何を教えているのであろうか。ちょっと興味があったが授業の邪魔をしてはなるまい。
これらは戦争遺産です。この前の戦争では二千万人ともいわれる犠牲者が出ました。次の戦争では人類は滅亡するでしょう。世の中では平和が一番尊いものです。こんなモノは二度と作ってはなりません。悲しい過去の負の遺産に学び今日をどう生きるかをようく考えてください。皆さんはそれが出来る年代になりました。これからも過去にも目を向けながら、しっかり勉強して大きくなったら世界平和のためにがんばって下さい。戦争は過去のすでに終わった歴史ではありません。今日もそしてたぶん明日も世界から銃声が消えません。今日を明日をどう生きるかの問題なのです。皆さんはその責任を負う先代となっています。などと、教えていたのだろうか。
そんなことが出来るワケがない。そのように教えられる教師は舞鶴には一人もいない。何も教員だけではない、市の役人にも市の政治屋にも一人もない。父兄の中には何人いるだろう。ほぼゼロに近いと思われる。そのほかの分野の舞鶴のリーダー層の中にどれくらいいるだろうか。ゼロとは言わないがゼロに限りなく近いと断言していいだろう。舞鶴が全世界に誇る我らの郷土文化の悲しい情況である。全然ないというのではない、そんな者ばかりでもないのだが多少はあるのだけれども、まずまずないと言ってもいいようなことである。(そんな町ではないぞとおっしゃるなら実例をあげてメールを下さい。いつでも大よろこびして訂正させていただきます)
何もポリシィーがなく信念がなく本気で郷土をよくいたい等とは夢にも思ってもいないので、時々の権力に無批判に迎合する、進んで追従する、自分さえよれば郷土や子供の教育などはどうでもいい、そんなご立派な小物のニセ教育者とニセ政治屋とニセリーダーばかりがあって本物は一人もいないのである。これが舞鶴である。
子供は何もわからない。教育次第で、あるいは「これは舞鶴の宝物」などととんでもない思い違いをする子が出てくるかも知れない。出てきて当たり前である。そんな大人どもに追従する小物の子供がまず出てくる。
私のヨメさんばかりでなく子供のようなお嬢チャマ先生ばかりでこれくらいの年代の生徒は先生の機嫌をとっている。とっているというかそうしないと教室が回らないのでそうせざるを得ないような先生なのである。生徒の追従が悪いとはいえないようなひどい情況を目にする。
 治に居て乱を忘れず、治に慣れっこになり愚かにも忘れると再び乱を繰り返す、バイツゼッカーの言う通り、せっかくいい本が学校図書館にあるのだから、まずは戦争を知らない先生がよく読んで下さい。頼んますわ。文部省か府教委かの指示かそれとも勝手に市教委か学校がやっているのかわからないが、戦争バージン世代に何のまともな事前教育もないままに、こんなに重い戦争遺産に対面させるのはよくないと私は判断する。私が三笠小学生の頃は教師はここへは連れはこなかった。戦争とはカッコいいものではない映画みたいに天皇陛下万歳などといって死んだりはしないんです、若者達はオッカー、オッカーと叫んで泣きながらみんな死んでいくんです。彼らは体験者だからそれは迫力があった。教師はオッカー、オッカーと教室割れんばかりに叫び泣いた、生徒たちのまえに本当の戦場を再現した。私のようなバカでもよくわかった。これが私が子供の頃の舞鶴市教委の教育であった。おかげで今の私のようなものもできたわけであるが、そのハナクソほどの真似も今の市教委ではできまい。それくらい教育力はない。絶望的なものである。戦争とは人類の極悪のものなのかそれとも世界に誇る文化なのかもわからないものばかりである。自分勝手な「教育」をしてひとり舞い上がっている。
この写真の年頃になればある程度は社会というものに対しての感心を示し始めるし理解もできる能力を持ち始める。この大事な年頃に一つ間違えると一生間違え続ける。できそこないはそれらしく先輩先生たちに見習うのが懸命だ。
コイズミさんも言っていたそうであるが、その真意と実際の行動は別としても、泰平の世にあっても、乱世のときのことは忘れない。というのは大切なことである。『易経』に、
君子は、安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず、これで身を安んじ国家を保ちうるのだ。

スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』という映画があった、アカデミー賞では12部門にノミネート、そのうち作品賞などの7部門で受賞したそうである。先の大戦時のナチス・ドイツによるユダヤ人の虐殺の中で、企業家でナチス党員でもあったオスカー・シンドラーは1,100人以上ものユダヤ人の命を救ったという。実話であるという話を映画にしたものである。
確かフランスのシンクロナイズドスイミングのオリンピツクチームがこの映画のアカデミー賞のテーマ音楽を主題曲に選んだ話があった。現在確認できないので確かでないかも知れないが、だいたいは当たっていると記憶している。
愚妻にそんな話をすると、彼女は蒼ざめた。
「何で。何でそんなに違うんやろ」
日本に住む我らと、同じ地球上とはいえ他の世界の認識水準のあまりの違いに愕然としたようである。
彼女はあるコーラスグループに加わっていて、毎週どころか毎日のように歌っているのであるが、もちろん「シンドラーのリスト」というような曲などは知らないし、そんな歴史があったということも知らなかった。しかも彼女が加わっているのは平和と民主主義の歌声を標榜して憚らないグルーブであった。全国的な組織なのであるが、全国とおしてでもどこかのグループがそうした曲をとりあげていることもなかった。自他共にというか他は知らないか少なくともそう自認してやまない先進グルーブのつもりでいて実のところはそのくらいのものであった。ところがフランスでは水泳選手でも(失礼)この曲をテーマにしていた。
彼我にはこれ位の差がある。井戸蛙を深く反省してさっそく『夜と霧』など買ってくるのはいいのだが、にわか仕込みの付けヤイバに刃がたたない、まあ3ページばかり読むともう飽きてしまうのであった。
 この差は年々開いている。まともな大人と幼児ほどにも開いてしまった。私が20代くらいの時は、舞鶴でも20人に一人くらいはよくそうした本でも読む人がいて、「レニングラードの闘いで戦死したソ連の学徒の遺書を読んだことがありますか」いって、何度も読み返したのか一説を暗唱しているような人があったものだが、今はそんな人はない。20万人に一人もないであろう。
大変に立派な国民ができたものである。腐りきった政治屋・官僚どもや極悪センセどもにはこれほど都合のいい話はなかろう。

ソ連の学徒などは知らなくともまあいいかも知れないけれども、舞鶴人の歴史くらいは知らないと舞鶴人のはしくれとしては誠に恥ずかしい話になるし、こんな時代だからこそ思い出してみるべき事件と思う。


雄島事件の資料

『舞鶴市史』
…ところが、昭和八年になると、海軍は、突然雄島の規制を強化しはじめた。まず、雄島の着船場所は海軍用地内に編入されていたため、舞鶴要港部は上陸希望者に事前の許可申請をさせることとし、そして、たとえば同年七月に加佐郡在郷軍人各町村分会長らの遊覧を不許可としたごとく、同島上陸に制限を加えていった。それらの模様を地元新聞は次のように報じている。
     雄嶋巡りの遊覧に  上陸は許可せぬ
        舞鶴要港部の今後の取締方針  雄島神社の移転要望説起る
   丹後海の孤島冠島雄島は上陸すべき低地が海軍地帯につき要港部の許可なき限り上陸は不可能となってゐるが最近加佐郡神崎村民二百名の海上安全祈願を始め各方面からの雄島神社参拝ありその神社は海軍用地内にあるので自由に参拝する為には神社を移転するより致し方なしとの声が若丹の漁民の間に高くなって居る、各漁村で年一回海上安全豊漁祈願のため参拝する事は重大な行事の一つとして幾百年来の伝習であるが廿九日は加佐郡在郷軍人分会の各町村分会長を始め幹部達が舞鶴署保安丸に便乗して遊覧の為め雄島上陸願ひ出をした処要港部では「学術研究」でないからと許可の指令を与へぬので己むなく中止となった、夏期は宮津、由良、高浜、小浜其他からも雄島遊覧希望者が多いが遊覧は不許可であり古来から海上荒天の場合に若丹漁民の唯一の避難所である雄島もいよいよ上陸至難の状態となった
             (昭和八・八・一 新舞鶴時報)
 さらに、同年八月二日、左の舞鶴要港部法令第二十四号を同部公報に発表、上陸制限の法制化をした。舞鶴港外冠島(大島)に関し左の通り定む
   一、冠島南端平地(約四丁一反歩)は海軍用地に付海軍軍人軍属の外濫りに本用地に立入るを禁ず学術研究其他己むを得ず立入る場合は事前当部の許可を受くべし
   一、本島に棲息する「おほみづなぎどり」(俗称「さば鳥」)は天然記念物に指定せられあるに付該鳥及卵を捕獲し巣穴の破壊其他蕃殖に影響を及ぼす行為を為すものは法律により処分せらるゝに付注意すべし
 この法令が発せられるや、市民の中には、これを冠島への上陸禁止令とうけとめて、もはや旧来からの習俗である雄島参りや、この島における漁業は不可能になったとして、舞鶴海軍当局を非難する声もあがった。そこで、要港部は老人嶋神社およびその参道は海軍用地に含まれていないから参拝は自由であること、漁民が同島に休憩あるいは避難する場合は嘆願があれば考慮することや、また、個人であれば自由参拝できても、狭い参道やその地先の着船場には、数隻を連ねた多人数の上陸・参拝は困難とする批判に対して、集団参拝はその都度嘆願すれば好意を示す旨を、新聞投稿や談話で表明した(昭和八・八・ 新舞鶴時報)。
 一方、雄島に所有地があり、この島に最も関係の深い東・西大浦村では、西大浦村小橋区長が要港部の依頼によって提出した同島の調査報告「雄島の記(昭和八年七月三十日)」の末尾を次のとおり結んでいるように、海軍の遊覧規制には賛成であり、これによって、この島が往時のごとく信仰と漁業の島になることを希望していた。
    此の島を遊覧島視して事を弁へざるものゝ渡島するもの近時その数を増し、海軍用地として制裁を加へられてゐるやうであるが、それでも渡島して樹や草を荒し保護鳥の卵をとり社殿を汚損し供物を持ち帰りなどしてこの島を愛し神聖地視するものをして慨嘆せしむること頗ぶる多し、地方行政の監督及ばざる離島のことゝて止むを得ざるとするも幸海軍用地とされてゐることであるから制裁を今一層徹底して戴き神社参拝、学術研究、漁民など小数の者の渡島をのみ認められ多数遊覧者のために俗悪化せしめざる様願ひたきものである。  (「雄島の記」小橋区有文書)
 けれども、公表された上記の法令は、海軍用地への立ち入りを学術研究その他やむを得ない者のみに許可するとしており、このことは、民有地内に着船適地を持たない両村は、つまりは雄島へ上陸できないということになるから、漁民は俄然先鋭化した。
 そこで、八月五日、野原・小橋・三浜の各区長および各漁業組合長の六名は、要港司令部に出頭していろいろ陳情したが得心のいく返答が得られず、一部では漁民大会開催の主張も起こった。さらに、同月九日には三
字の区役員・漁業組合役員全員が集会して、長時間にわたり協議したが、この結果、海軍が指示している用地使用願いの提出には応じないことと、海軍用地設定の経過を究明することになり、漁民の態度はますます硬化していった。その様子を当時の新聞は次のとおり報じている。
  関係村民遂に蹶起 雄島問題尖鋭化 海軍側の諭告に態度は強硬 近く代表者が府に救援求む
 雄島上陸禁止問題については地許である加佐郡東西大浦村の野原、小橋、三浜の漁民が蹶起し舞鶴要港司令部に各団体代表が連袂出頭して陳情するところがあったことは既報の通りであるが、去る九日これが報告対策協議会を小橋で開き各部落各漁業組合全役員集合したが午前九時より午後六時半にまで討議ざれその結果、当局が折れて出て、使用願を出せば好意を示して与へやうといふ海軍側の諭告に対し、之に応じて願書を提出せば海軍の不合理を承認することになるから断じて応ぜずといふ強硬な態度になり、遂には三部落の共有地にかさる雄島が曽て何の告知もなくまた一文の買上金も貰ったことのないのにどうして海軍用地になったのかといふ根本問題を農林省に究明することゝなり近く右代表者が出府し京都府庁の救援を求むることになった           (昭和八・八・一四 新舞鶴時報)
 こうした地元の動きと相前後して、新舞鶴町で薬局経営のかたわら郷土史研究をしていた山本文顕は、新舞鶴時報に「丹後の海の詩 名勝雄島考」および「神より人より鳥が大事か」と題して二三回にわたり寄稿し、前記要港部法令は、老人嶋神社への参拝を禁ずるという神祇の軽視と漁撈を妨害して漁民生活を脅威する暴挙であると、鋭く舞鶴海軍当局を論難した。当時、満州事変、上海事変、五・一五事件の勃発によって台頭し、軍国主義の推進を志向していた軍部は、山本の言論は法令を曲解して海軍を誹謗し、反軍思想を煽動するものとして重視し、舞鶴防備隊司令、要港部副官、中舞鶴憲兵分隊に加えて新舞鶴・中舞鶴両町在住の海軍出身者団体である桜水会・三桜会までが、こもごも反駁を行ったので、この壮烈な一民間人対軍部の論争は一般市民の耳目を集めた。当時の市民は山本の行為を快挙として声援する者、ほほえみながら黙視する者、けしからいと激高する者、海軍当局の感情を害しては地方の不利益を招くと憂慮する者などさまざまであった(昭和八・九・一二 昭和日報)。
 ところが、同年十月、防備隊司令らは山本の新聞寄稿中に海軍に対する侮辱的言語があるとして、舞鶴区裁判所検事局に侮辱罪で告訴したので、この言論戦は法廷で争われることとなったが、これに対して、丹後地方の関係沿岸漁村は、終始山本を支援して裁判の推移を見守っていた。その一端を新聞記事から見てみることにする。
 既報−かねて関係地方民の注目の焦点にある雄島問題に関する事件の公判は愈々来る二十二日に延期開廷されることになったが、これに先立って舞鶴方面に於ける関係者はこの問題に多大の関心を持ち同町吉原漁業組合並に汽船組合が主催となり該問題の中心人物たる新舞鶴町山本文顕氏を招待し昨十七日午後二時から吉原集会所に於て雄島問題批判座談会を開催した、出席者は地方漁民並に関係者約百名にて山本氏を中心に問題の経過並に内容に就いて意見交換をなす処があった、なお関係沿岸漁村である西大浦村三浜、与謝郡伊根、宮津の方面に於ても同様の催しを開くべく目下準備を進めてゐる模様である       (昭和八・二・一八 新舞鶴時報)
 また、舞鶴区裁判所における三回の公判(十一月二十二日、同三十日、十二月六日)には、関係各漁業組合代表者らがその傍聴に詰めかけて廷外にあふれ、私服の官憲も交わって裁判所は非常に緊張した。
 右のような広範にわたる関係漁民の関心の高揚には、治安当局も危倶をいだきはじめた模様で、舞鶴検事局はすでに起訴されている雄鳥事件被告人を支持することは違法のおそれありとし、殊に被告が公判前に漁民を集めてなんらかの行動に出たことを注視していると、当時の新聞は報道している(昭和八・二・二四 山陰民報)。 なお被告は第三回公判で科料一○円を申し渡された。
 雄島問題は、京都府会でも取り上げられることとなった。すなわち、この問題で困窮している漁民の実情に接していた与謝郡選出の議員は、同年十二月の通常府会に「冠島立入禁止解除ニ関スル意見書」を提出したが、これは採択可決されて政府当局へ伝達されることになった。ただし、その後の経緯については明らかでないが、当時の新聞は観測として、海軍当局は、軍用地への立ち入り禁止は国防上の必要から実施したものであって、その取り消しなどは思いもよらぬことであるとしていると報じている(昭和八・一二・二八 山陰民報)。 なお、意見書が冠島は全島民有地であって、海軍用地でないとしている点には府会に誤認があったようである。
        冠島立入禁止解除二関スル意見書
  本府丹後海沖合ノ無人島(大島)ハ加佐郡東大浦村及西大浦村々社老人島神社鎮座シ丹後ノ国祖神天火明神祭祀サレ古来若丹両国ノ漁民ノ崇敬篤ク神明ノ加護ヲ以テ、救助サレタル人命幾千タルヲ知ラス又学術研究上得難キ島嶼ナリ実二丹後海唯一ノ避難島ニシテ前記両村中ノ野原、小橋、三浜、三部落ノ氏神ナルノミナラス其共有地ニシテ海軍用地ニアラサルコトハ土地台帳ニ依り明カナリ然ルニ本年八月二日舞鶴要港司令部ハ舞要法令第二十四号ヲ以テ一般庶民ニ対シ冠島へノ立入ヲ禁シタリ右立入禁止ハ往時ヨリ一般民衆ノ自由参拝並若丹両国漁民ノ自由上陸ヲ禁止スルモノニシテ古来ヨリノ善良ナル慣行ヲ禁遏スルモノト謂ハサルヘカラス則チ舞鶴要港部カ地方ノ実情ヲ願ミス幾千年ノ美風良俗ヲ破壊スルカ如キ立入禁止ノ法令ヲ発布セラレタルハ甚夕遺憾二堪ヘサルナリ希クハ当局二於テ速カニ此ノ事実ヲ調査シ人心ノ帰趨ヲ察セラレ地方ノ風教卜産業ノ為メ直チニ該法令ヲ廃止セシメヲレンコトヲ望ム
  右府県制第四十四条ニ依リ意見書提出候也
    昭和八年十二月二十日
           京都府会議長 池本 甚四郎


     京都 府 知 事 斎 藤 宗 宜 殿
     海 軍 大 巨 大 角 岑 生 殿
     内務大臣 男爵 山 本 達 雄 殿
                         右提出者  岡 田 啓治郎
                                   外三名
                         賛 成 者  大西 太郎兵衛
                                  外二十名
        (昭和八年 通常府会決議録)
以上見てきた激動的な雄島問題の進展とは次元を異にして、東・西大浦村当局は、同村内漁民の明日の生活にかかわるこの問題の速やかな解決をはかるため、現実的・妥協的な決着方法を求めざるを得なかった。すなわち、両村はいつごろからか舞鶴要港部との折衝に入り、冠島海軍用地立ち入り使用許可願いを両村共同で提出した。これに対し、同要港部は八年十二月に左の許可指令を出した。
  舞要第一三号ノ一二七三ノ五
                  加佐郡東大浦村長 上 野 晴 望
                  同 郡西大浦村長 吉 田 幸太郎
        冠島海軍用地立入使用許可指令
  甲第二四三号ヲ以テ出願ノ本件左記ニ依り許可ス
      記
  一、目 的  漁撈作業
  二、使用者  加佐郡東大浦村字野原
                 野原漁業組合員 七十六名
         同 郡西大浦村字小橋
                    小橋漁業組合員 六十九名
        同 郡同 村字三浜
                    三浜漁業組合員 百十四名
 三、期 間  自 昭和八年十二月二十一日
       至 同 十三年十二月二十日 ノ五ヶ年間トス
 四、条 件
   (一) 網干ノ為竹木ヲ仮設スル外特別ノ施設ヲ為スベカラズ
   (二) 権利者ノ名義ヲ以テ冠島観光等ヲ主催スベカラズ
   (三)地表変更、樹木、草奔等ノ伐採ヲ為スベカラズ
   (四)海軍用地以外卜雖モ前号ノ行為ヲ為サントスルトキハ予メ要港部ノ承認ヲ受クルコト
   (五)天然記念物「おほみづなぎどり」及雛卵ヲ捕獲スル等並ニ其ノ蕃殖ニ影響ヲ及ボス行為ヲ為スベカラズ
   (六)海軍二於テ必要アル際ハ何時タリトモ立入ヲ中止シ又ハ許可ヲ取消スコトアルベシ
      昭和八年十二月二十一日
            舞 鶴 要 港 部 印
          (小橋漁業協同組合文書)
 これによって、野原・小橋・三浜は向こう五か年間、軍用地の使用が認められ、雄島での漁撈が可能となったわけであるが、しかし、その許可条件は網干場の仮設以外の施設と草木の伐採を禁止し、また、許可期間中といえども、海軍の恣意によって立ち入りの中止や、許可の取り消しがあり得るとするなど非常に厳しいものであった。また注目すべきは、海軍は同島民有地の規制をも始めたことである。もちろん、冠島は、明治三十二年七月、要塞地帯、同三十六年二月、保安林に編入されて、それぞれ所定の規制を受けてはいたが、右の許可指令は、海軍用地以外といえども「地表変更、樹木・草莽等ノ伐採」が要港部の事前承認を要するとした。
 ここに、往古より野原・小橋・三浜漁民の入会地とし、若丹地方住民の霊地として自由に渡島することのできた雄島は、軍用地だけでなく全島が海軍の統制下に置かれることになったのである。中国との武力衝突、国際連盟の脱退など、わが国の国際関係が悪化して国難、非常時が声高に叫ばれる秋、舞鶴要港部当局は冠島海軍用地の保全と全島の管理を徹底して、将来の〃国防上の必要〃に備えんことを意図したのであろう。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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