丹後の地名

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元伊勢内宮:皇大神社
(こうだいじんじゃ)
福知山市大江町内宮宮山



付:岩戸山
付:天の岩戸神社

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京都府福知山市大江町内宮宮山

京都府加佐郡大江町内宮宮山

京都府加佐郡河守上村内宮宮山





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皇大神社
(元伊勢・内宮)の概要



皇大神社拝殿


《元伊勢内宮・皇大神社の概要》
麻呂子杉(表参道)
 旧村社。祭神は天照大神。天手力男命、栲幡干々姫命を配祀する。丹後・丹波一円にかけて、元伊勢神宮内宮として広く尊崇されている。舞鶴あたりでは「元伊勢」といえばここを指している。
宮津街道に沿った大江町内宮集落の北の宮山に鎮座する。

府道脇に広い駐車場があるのでそこへ駐めて、原生林の下をくぐりながら表参道220段の自然石の石段を踏んで登る。



途中に麻呂子親王お手植の杉と称する古本が三本並ぶが、うち二本は台風のため倒れ、切株のみを残している。いまあるのは写真の一本だけ。

元伊勢外宮(皇大神社)の祭日。中央の樹が龍燈の杉
 正面に本殿、両側に脇宮二社が祀られ、境内の周囲に七九社の小祠が並んでいる。
本殿と脇宮(栲機千々姫社)の間に「龍燈の杉」とよばれる神木がある。この神社の歴史の証で樹齢2000年と推定されるという。火災と台風で枯死する寸前だったが、樹勢回復施術を行い、この神木の遺伝子を持つ若木も傍らに根付いている。黒木の鳥居(元伊勢内宮)(枯れているのか死んでいるのか生きているのかよくわからないような樹だが、半分ほどは生きている、若狭姫神社の杉でも1000年とかいわれているくらいだから本当ならすごい話になる)

正面の鳥居は黒木で、皮つきの杉の木、古式といい、黒木の鳥居という、京都嵯峨野の野々宮神社以外には例がないといわれる。
内宮の例祭日:4月26日

(由緒)
古い物は残らないが、当地は崇神天皇39年に遷幸があった丹波与謝宮(但波吉佐官)の旧跡であった。また雄略天皇22年7月7日に伊勢度会の山田原に当社が遷宮されたので、以後元伊勢と称したともいう。用明天皇の皇子麻呂子親王が丹波平定ののちに戦勝記念に社殿を造営し、元伊勢と称したともする。
また元伊勢ではないの否定説もある。
今日は神主氏も大サービスに勤められる

社殿の造営は式年61年目甲子の年にされてきたが、明暦2年4月の年紀をもつ棟札が残り、宮津藩主京極高国による神楽社・御供所・斎蔵などの修造が知れる。その後二年ごとに改修してきたが、当社は氏子がなく仏性寺・毛原・内宮・二俣・天田内・橋谷・関・河守町・蓼原・公庄・小原田・日藤・夏間各村の計1310戸をもって信徒としたという(神社明細帳)。
江戸期には59軒の社家があり、伊勢神宮でいう「御師」の役割を果たし当社の発展に大きく貢献した、明治初期に消滅したという。
御神楽(4月26日)
 例祭(春季例大祭)は現在は4月26日で、神代七代の神々を奉頌して地元の子女により伊勢神楽舞が奉納される。百年以上も続く伝統芸能という。





九月一日の八朔祭に、大名行列の風流を伴う。
袴幡千々姫命と推定される女神像1体、木製狗犬l対などを所蔵する。また当社は大本教教祖の出口なおが「水のご用」を行ったことで知られる(加佐郡誌)。




日浦岳・日室山・岩戸山・城山(みな同じこの△山のこと)(427メートル)

 大変にカッコのよい山で、下の府道からもよく見える。元伊勢内宮参拝のあとは、同じ道を帰らないで、少し回り道をして日浦岳を拝むとよろしい。

写真は広角なので山の姿が小さく迫力に欠けるが、裸眼でみれば、もっとガッと大きく、ガッとせまって見え、小さな人間としては思わずその前にひれ伏して拝みたくなる神々しい威風堂々さがある。
この山はたくさん呼び名があって、日浦(ひうら)嶽・日室(ひむろ)嶽・(じょう)山・岩戸(いわと)山などとも呼ばれる。
亜米利加にもありません、確か埃及で見たような気がする、とか−。そんなピラミッドにも見えるかも。オー・ワンダフル・ジャパニーズ・ピラミット! (ひうらが嶽)
「一願さん」と呼ばれる、この遥拝所から見ると夏至には、この山頂に太陽が沈むという。
この山の陰になり見えないが、ま後ろに、大江山(千丈ケ岳)がある。このラインを逆に東へ伸ばすと、だからこの位置からの冬至の日ノ出のライン上には伊勢神宮があるという。

日室岳に沈む夕陽
夏至の5日前の太陽が沈む様子。
市販の地図で見てみると、どうも夏至のラインと合わないし、ホンマはちょっとずれるという話もある。実際に確かめるしかないが、ツユ時のため太陽がよく隠れる。天気予報と見比べて少し早いが出かけてみた。↓


もう少し南の地点から望むしかない。内宮の参道石段の途中の上のほうあたりから見れば(見えないが)、ピタリだろう。麻呂子杉のあたりになりそうで、あるいはこれら境内の神木類はそれらを示す位置に植えられているのかも…

埃及人が見ても日本人が見てもこうした超安定した、これ以上は壊れそうにもない巨大な姿は死の国とか神々の国とかのイメージがあるのかも知れない。
黄泉比良坂(よみのひらさか)」という言葉があるが、そのヒラかも知れない。ヨミのヒラサカ山で、意外にも黄泉の国とか、あるいは天の神の国とかに通じている急な坂の山、あの世とこの世の境目の山なのかも知れない。

『大江町誌』は、
天の岩戸神社の川向こうの原生林に続く急斜面の山が「日うらが岳」で、日陰ケ岳とも日室岳とも表記され、神の降臨を伝える神体山であり、禁足の神聖が守られている。内宮社境内の遥拝所を一願さんと呼ぶ。日裏岳・城山(じょうやま)(岩戸・日室岳・日浦岳などとも呼ばれている)。

岩戸の渓谷 内宮発電所ダムの下流は岩戸の渓谷である。二○メートル以上にも及ぶ断崖絶壁が両岸にそそり立って、その底を渓流がはしる。この渓流にのぞむ岩上に天ノ岩戸神社が鎮座している。
 渓谷の右岸は、日浦ヶ岳(城山)でカシの自然林である。左岸は宮山で、シイの古木が茂る自然林が皇大神社に続いている。
 岩戸神社本殿上手には、神が天下ったという御坐石があり、本殿左手の川の中に神楽岩と呼ばれるものがある。ここから約五○メートル下流の岩に数個のくぼみがある。甌穴(おうけつ)であろうが、神が産湯を使った「産だらい」といい伝え、神々の伝承がここにも息づいている。

ハイ、チーズ(於:ひうら嶽)
『丹後宮津志』は、日うらか嶽。

『丹哥府志』は、
◎仏性寺村(内宮村の北、是より千歳嶺に登り宮津に出る)
【岩戸社】(出図)
日裏嶽の麓、二瀬川の崖の臨みてあり。

当地の案内板
岩戸山
京都府歴史的自然環境保全地域。
指定地域は、元伊勢三社の一つ天岩戸神社の神域として古くから守られてきた府内でも数少ない原生的な森林です。ウラジロガシ、アラカシ、あかがしなどの常緑カシ林が主体となっていますが、岩戸山頂上付近には、ブナーイヌブナ林も見られます。確認されただけでも380種もの植物が自生しており、なかには貴重な植物も含まれています。また、岩戸渓谷には、天岩戸神社の本殿やいわれのある御座石、神楽岩などが点在し、両岸を覆う森林とともに神秘的な雰囲気をかもし出しています。このすぐれた歴史的な自然環境をわたしたちの子孫に守り伝えていきましょう。特別区域では、土地の形質の変更、土石の採取等の行為は許可なくできません。野生動植物保護地区では貴重な植物の採取はできません。昭和59年3月13日指定 京都府。



宇治橋から岩戸山

 (注意!)
この山も、今私たちがいる谷のこちら側の山(元伊勢内宮の境内地・宮山)も日本有数といわれる照葉樹の原生林で貴重な植物の宝庫です。草本も絶滅危惧植物が渓谷や岩場に多数生育し芦生原生林をふくめ関西でも例をみないほどよく自然が保全され学術的価値の高い場所です。
岩戸山は天の岩戸神社の神体山で、古くから人の立ち入りは禁じられているため、そうした物が残ったと思われますが、周辺面積はわずかに12ヘクタール未満、しかしここには多くの希産種をふくむ約370種が生育しています。ここからは草一本、石ころ一つと雖も決して持ち帰ってはいけません。とってもいいのはただ写真だけ、残しても許されるのはただ足跡だけです。これは私たちの子孫にこのままの姿で引き継がねばならない遺産です。決して荒らしてはなりません。
林内は伐採跡や切り株がなく、倒木もそのままで、人里近くなのに原生の林です。渓谷や岩壁には絶滅危惧植物が多く見られます。ムギラン、クモランなど小型のランが多いのも、埴生が原生的状態のあかしだといいます。



天岩戸神社(大江町仏性寺)

天の岩戸神社
 道に沿ってずっと渓谷を下っていけば、宮川の河原に出るが、そこに天の岩戸神社が鎮座する。
どうしてこうした渓谷が出来たのかと不思議に思われる場所である。途中に社務所がある。坂道も石段も急なので足を踏み外して転げ落ちないようにして下さい。最後は鎖につかまり祠前にたどり着く。
祭神は手力雄命。如来院(高野山真言宗・仏性寺)の鎮守として祀られ、如来院の住職が代々別当として当社を管理したといわれる。本殿の裏側に川をふさぐ形で巨岩があり、岩の上部は平坦で神が座して天降ったといわれ、御座石とよばれる。オッチャンそっちへいけるんか。こっちへ来るな。危ない。
 社務所下の岩に数個のくぼみがあり、神が湯浴みした所として産盥とよぶ。古くからこれを濁すと大荒れになるといわれ、旱天が続くときにはかき回して雨乞をしたという。

『丹後国加佐郡旧語集』は、
天岩戸。岩戸川ヘ生出タル石ニ天照太神ノ産湯入シ盥石トテ丸ク鍋ノ中ヲ見ル如ク穴有テ水溜リテ岩有参宮ノ者散銭洗米ヲ投入テ置雨乞ニ社人共掃除シテ在家ノ者笠サシテ踊レハ雨降ト也。

『大江町誌』は、と言っても効果なし、足元悪く震える
祭神は櫛岩窓戸命、豊岩窓戸命、大宮売命、八意思兼命という。二瀬川が深い峡谷をつくる辺り、東岸の岩壁にはりつくように鎮座し、対岸の「日うらが岳」に向かう。本殿裏側へ廻るとすぐ目の前に川をふさぐ形で巨岩がある。岩の上部は平らになっており、この上に神が坐して天下ったといわれ御坐石という。本殿左手の川の中に神楽岩と呼ばれる岩があり、川はここで岩壁につき当り大きく方向を変える。社務所から見下すあたりの岩に数個のくぼみがある。神が湯浴みをしたところだいって「産だらい」と呼んでいる。古くからここを濁すと大荒れになるといわれ、日照りの時には、かき廻して雨乞いをしたという。一説には、この天の岩戸神社は、如来院の鎮守として祀られ如来院の住職が代々別当として当社を管理したといわれる。
ご神体の天の岩戸(祠の裏側・道はないので河原の岩の上を行く)
案内板
由緒。当天の岩戸神社は、往昔地神の元始神天照大神篭居ましし霊地にして
真名井ケ原・真名井ケ池・楽の堂
産盥・産釜・神楽岩・御座石・鶏鳴岩
鱒池・鮎返りの滝等の地名、旧跡あり、殊に産盥の霊水は平常満水することなく或いは減水することかつてなく此の霊水は旱魃の際其の霊水の少許を水上に注ぐ時は如何なる旱魃時と雖も神雨不思議に降り来り庶民安堵の胸を撫するにより往昔より今に至も尚其の慣例絶へざるなり
 昭和47年九月
 天岩戸大神宮




八朔祭り

『舞鶴史話』は、
元伊勢八朔祭の由来
元伊勢の八朔祭は昔から旧暦の八月一日に行われ、十三ケ村合同の同地方きっての大祭でありますが、それについては次のような伝説が語り伝えられています。今からざっと三百年前明暦四年の夏に未曾有の大かんばつがありました。農夫の憂苦は一しおでしたので時の将軍徳川家綱は江戸奉行明石文右衛門ほか四名の役人を諸国につかわして雨乞いをしましたが、一向きゝめがありませんでした。一同が元伊勢へやって来たのは同年の八月一日で、河守近郷十三ケ村の役人諸共内宮や岩戸へ参って雨乞いの祈願をこめましたが、短気な江戸奉行はその帰途神霊に向って『神は人の崇敬によって威を保つ、人は神の恵を受けて安穏なり、さればすみやかにこの民の苦難を救い給え、若し感応なき時は直ちに多人数を差し向けてこの神木は一切伐採すべし』と激越な事を申しました。その時一天俄かにかき曇って一同が仰ぎ見る一の鳥居の上に世にも恐ろしい大蛇が奉行をめがけてにらんでおります。江戸奉行はゾッとして今の暴言を詑びると共にただ今の願かなえ給わば毎年八月一日十三ケ村打揃い練込みのお祭をいたしますと誓約しました。すると大蛇の姿はかき消すごとく失せてしまって翌日からはしとしとと、田畑をよみがえさせる慈雨が降り出しました。こんなわけがあってこの地方の八朔祭は行われるようになったと申します。

 八朔(はっさく)は八月朔日(ついたち)のことであるが、今は9月の第一日曜に行われている。かつては大賑わいであったというが、いまは寂れている、訪れれば大歓迎される。門前町が寂れてしまった以上はさけられない時の流れかなと思う。いくつかを点描。
↓弓の奉納


↓鳥毛廻し


元伊勢内宮・八朔祭 '12

節分祭

 これが大江山の鬼だ!
節分祭'13

節分祭13

元伊勢内宮・節分祭 '13




内宮皇大神社の門前町


皇大神社の門前町
↑何ともシンプルな鳥居、こうした形式を神明鳥居という。お伊勢さん系の神社に見られる。下に広がるのが門前集落。

皇大神社門前町図
 『大江町誌』(図も)

門前町 (内宮・外宮)
 内宮・外宮という地名が示すように、これらの集落と元伊勢両社のかかわりは密接不可分である。したがって村を語るとき、常に社の存在を顧慮せねばならないが、両社の創始以来の伝承・それにまつわる慣習・古来の地誌等は、既に本町誌で詳説したので、今は近世史料によって門前町のたたずまいを述べる。
 (1)社家・御師・神子 皇大神社奉斎の往古の慣行は審らかでないが、江戸時代初期の「明暦文書」によって、その輪郭を偲ぶことができる。
 「当村里大神社 往古ヨリ天保午年(一八三四)迄 社家三拾六名則チ御師ト申ス者 社地共一切守護シ候處 明暦四年(一六五八)代 河田伊賀(に神主を委嘱した時、神主と社家の間に契約が結ばれた。その)定約写左ニ記載ス」とあって、八か条の契約書を残している。
(註)○神主八月六日御戸ヲ開キ…参詣ノ者十二銅ヲ上候節ハ御祓壱枚宛遣シ候事
   ○祈祷ハ惣社人中立会 御初穂ハ総割着致スヘキ事
   ○賽銭ソノ外不残 総社人ニ相納可申事
   ○御社御普請諸入用 旧格之通リ惣社人中致シ可申候 神主ハ構無御座候事
   ○小神楽御祈祷 拾弐匁以上ハ双方立会相勤可申候事
   ○右何レモ社人神主神子一人相勤候事相ナラズ候事
   明暦四年代十月 日 (以上「区有文書」より抄出)
この書留による限り、社家が祭祀に大きく関与したときがあったことになる。
別文「社人伝書」(奥松家文書・区有文書)ては、佐藤・市瀬・岩田・荒木・奥松・的場・公庄・広瀬の八家を社人としてあげ、
 「慶長十七年近江国河田 八幡社人狼人者… 二又村右衛門太夫ニ足留メ(たのを機会に)社人惣相談の上…御神前ノ御供上ゲおろし頓ミかぎヲ預申シ此時規定ノ一札請取申候」
としている。
 この文書は丸子親王や平井保昌の伝承をからませ、なお疑問は残るが、寛永三年(一六二六)の記年がある。恐らくこの当時の伝習を整理したものであろう。より確かな史料は、文化五年(一八○八)、内外両宮が改建され正遷宮が行われたとき、神殿の棟上げ礼に、二俣村社中三二人内宮村社中三六人、神子朝輝安治郎、神主河田能登、大工木挽三○人の氏名を明記した写しの存在することである。
 これらの社人は、現在本殿を囲繞する八十余社の末社を分けて奉斎し、若狭・但馬・丹波をはじめ遠く山城・摂津まで広く行脚して、神札配布や祈祷布教に従った。太々神楽奉納の献額の一部は後に整理されたものがあるというが、現存のものでも信仰圏の広がりを見ることができる。
 「末社神号並ニ社人」(「区有文書」)は、これらの末社をどの社人が奉斎していたかという往年の区分を明記している。昭和五十八年小野宮司の特志を得て、現に末社に内蔵されている棟札の記名が、前記記録と一致することが確認されたが、この記名は市瀬八太夫・芳賀角太夫などとあって俗名はわからない。記年のある札は寛永〜明和の間が多い。
 以上で社家社人が神威を崇め社を護持するのに大きく寄与した歴史をみたが、奉賛の伝統は地方一円にも極めて強い。神殿改築の用材引きには「用材は馬谷辺にあるのに、引綱の先頭は鳥居下で引いたそうな」とすると、引子の列は延々五○○メートルの長蛇であったことになる。明治三十一年、鳥居建換えには、周六尺の檜が寄付されこの仕事に字全体が三日間家業を休み奉仕したという。
 これらの基底があったからこそ、享保〜文化のころ、内外宮が改築ざれ遷宮の祭りが執行されたときには、近郷あげて幟や錺が奉納され、芝居、踊の奉讃行事がくりひろげられて、「福知山より宮津まで宿詰りてなし」(覚書牒)という大衆の熱狂的なお詣りがあったわけである。
 (註)入手された史料の都合で、内宮社の記事を中心としたが、上述の奉賛行事は、ほとんどすべてが外宮の祭祀行事と共通するものである。

(2)町並み・間取り・職業  宇治橋(この名称は既に文化年代伊能忠敬の手記に見られる)を渡ってゆく参道の両側に櫛比する家々は、ほとんどが特有の「屋号」をもち多彩な職業のひろがりを示している。(図)これらの家は、専業の「旅籠屋」と共に、旅客を応待するにふさわしい特有の間取りになっており、参拝の客を応待し、必要な時は宿泊させて民宿的機能を発揮した。(図参照) 内宮村の名物に小判型焼菓子があった。これは小さく切った餅片を焼型に挟み焼き上げるもので、二枚ずつ紙帯でくるんだもの七箇が一銭。(明治末年)通りの家では板戸をはねおろした屋台に並べて売り、裏町の家は境内へ出て商った。小判売りが年中無休であったのは、参拝客が賑わった証拠であろう。
 門前町内宮村を特徴づける一つは、その多彩な職業分布である。生活の基底に広く農業養蚕が行われたのは当然として、例を明治十八年村が府へ届け出た資料によると、推計戸数七○の内
 (イ)旅宿九(届では神官も宿屋兼業としている)
 (ロ)諸商い一三(呉服・小間物・荒物・火口・米・蝋燭等の商い。届ては医師的場直峯を陸運に含めている。余業に逓送受付でもあったか)
 (ハ)工業六(下駄・大工・木挽・鍛冶・紙すき)
 (ニ)その他九(飲食・酒造・博労等)
計三七戸
右の職種の典拠は新しいが、これらは一朝一夕になったものでなく、次項の宿駅的性格と深くかかわるものであろう。総戸数の半ばが、一方に米を作り作らせつつ、多様な生活を開拓したと思える。職業の中の異色は「火口商い」で、これは火打石で打出した火を、引火して大きな火にするための助燃材で、蒲の穂に硝石末を加えたもの、材料は由良河口の油江、蒲江から俵づめで仕入れた。その商圏は大俣、物部辺へ広がっている。(脇田家文書)
 明治中期以後は製糸・製紙業の機械化が図られ新企画も試みられる。(別項参照)

 (3)伝馬継場内宮村  藩政時代の内宮村は、福知山〜宮津を結ぶ往還の荷継ぎの中心として重要な地歩を占めていた。それを証言する史料が脇田家文書である。
  脇田家文書









モリアオガエル(森青蛙)発見!

本殿の前に変若水(おちみず)の池があるが、そこにいた。
モリアオガエル

モリアオガエルの卵と

はじめはアマガエルかと思ったのだが、それよりは少し大き目で5〜60p、池の上には特徴ある卵があったので、モリアオガエルと推定した。泡の中に卵があって、オタマジャクシになると、泡から出て下の池に落ちる。京都府では要注意目種となっている。いる所は限られている。


皇大神社の主な歴史記録

《丹哥府志》
【内宮天照皇太神宮】(元伊勢太神宮といふ)
境内八幡宮、春日社、権現社、八十末社。
 【付録】(三日月大明神、山神、荒神森)


《丹後与謝海名勝略記》(貝原益軒)
【真井ケ原】一宮の北松の茂りたる所実に比治の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる與佐の社也。しかるを諸社一覧に與佐の社は与謝郡川森に有とて書て河守今内宮を祝は近代の俗なりと云けり。甚誤なり。蓋今の内宮は昔天照太神四年鎮座の跡なるへし。河守の外宮は山も浅く、内宮に比するに遥以後の勧請と見へたり。しかるをよさの社と指てよさの海の古歌ともひけり。河守は海浜より四里余大山を隔て山中なり、是あやまりの証據なり。
或曰今の内宮外宮は往古金丸親王(按帝王系図用明天皇第六の皇子常麻君の祖也)当国凶賊征伐の時勧請し給ふ所なり。内宮外宮の間に公庄金谷といふ在所あり。是すなはち親王の家臣也。親王当国を領しなふゆへ家臣の姓残りて在名となれり。親王の勧請故あるに似たる乎、豊鋤入姫天照太神を戴て、丹後與佐の宮に到りて四年を経といふ。神跡は今の文珠堂也。俗伝へて堂内の四柱を天照太神の建立なりと云、是其証據なり。况真井原と文珠堂と纔三十町を隔て一所なり。是豊受太神自天降同座一所といふものなり。是又一説なり。

《地名辞書》
河守太神宮。河守上村大字天田内に在り、此神戸其太神宮の痔たる由は、古書に明徴なしと雖、神社啓蒙に「与謝宮、在丹後国川森、所祭之神一座、今祠内宮者、近代之俗也」と論ずるに参考して古の外宮の痔たるを想ふ、宮津府志に河守の内外宮は、与謝宮に非ずと述べしは善し、然れども麿子王当国征伐の時、勧請とあるは信義知れず、天田内の北に内宮神社あり、大字も内宮と云ふ。筑紫紀行云、元伊勢の社とて、峻しき坂道を南へ下り行きければ、天の岩戸、拝殿、杉の荒木を以て造れり、鳥集をすぎて川の辺に至てよりは、道とみゆるものなし、ただ岩の鼻に取つきて、三十間計り下けば小宮あり、此あたり谷川の中に岩多く、急瀬の水くだけたばりして、いと清潔に漲流るゝに、両岸には緑の陰蓊蔚として、誠に神さびたる所がらなり、内宮に至り拝し奉る、かやぶきの御有様、伊勢に同じ、此所を出て三丁許ゆけば、内宮町人家五六十軒、町中に宮川あり、町の出口に五十鈴川あり、天田内村人家六七十軒、即外宮の鳥集前なり、石段百四段を北の方に登れば、外宮の御本社、豊受大神宮草ぶきにて、南向に立せ給ふ。
補【大神宮】加佐郡○宮津府志、天橋記曰、今の河守の内外宮は古へ麿子親王当国の凶賊を征伐の時勧請ある処なり、内宮外宮の間に公庄々金谷と云ふ在名あり、是親王の家臣の残りて在名とをれりとぞ、麿子親王は用明帝第二の皇子にて厩戸王の弟也、神社啓蒙等の書、以当社与謝富者非也。


《加佐郡誌》
祭神=天照皇大神
由緒=当社は崇神天皇の御代大和国笠縫の里から当国吉依宮へ御遷幸の砌此の地にも暫く御遷座あらせられ、垂仁天皇の三十六年今の伊勢五十鈴川の川上に御遷座あって以来、世俗に此所を元大神社と称する様に成ったと古老の口碑にあるけれど、何等旧記がなく考証の資料を得る事が出来ない。按ふのに勧進の年月は詳でないが暫時御遷座の後大神を斎祭り年を経るに従って諸人の信仰厚くなり今日の様に社頭興隆する様に成ったものの様である。
 社殿の造営は式年六十一年目甲子に當り改営し来つたもので、明暦年間時の国主の信仰に依って社殿の造営があったものの様である。當時の棟札に見れば、
  明暦三年四月吉辰
   神 薬 社
 奉修補 大神宮本殿 国主四位侍従源朝臣高国、
   御 供 所
 右爲征夷大将軍源家綱疱瘡平癒祝願也
   明暦二年九月
 奉造立 齋藏 国主四位侍従源朝臣高国
 右爲国家安全祝願也  と。
 其の後は二年毎に信徒協力し又は諸方の信仰有志者を以て改営して来たものであるが、當社は氏子が無く本郡佛性寺村毛原村内宮村二俣村天田内村橋谷村関村河守町蓼原村公庄村小原田村日藤村夏間村十四ヶ町村千三百十戸を以て信徒としたのである。との事。
境内社=天手力雄神社(祭神天手力雄神)外八十社省略。

《舞鶴》
皇太神社(こうたいじんじゃ)
 舞鶴町を西に距る五里余河守上村内宮の宮山に鎮座、天照大神を奉祀せる村社で俗に元伊勢と呼んで居る、口碑によると崇神天阜の御宇大和国笠縫の里から當国吉依宮へ御遷幸の砌この地に御鎮座あらせられ垂仁天皇の三十六年今の伊勢五十鈴川上に御鎮座になったといふのでこの俗称がある、併し別に考證すべき材料がないのは遺憾である、境内には老杉古槍蓊鬱として昼もなほ暗く鳥の声幽かに聞かれさながら太古の観がある「五十鈴川」「菟道橋」等何れも伊勢神宮と同じく本廟の左から山中に小径を数町上ると「天の窟戸」がある、巨巌の錯落せる間に深潭の濫碧を堪へる様ものすごくこの水は流れて宮川になる、
 皇太神社の東、宮川の流れに沿ふて一里許り下ると河守上村天田内の舟岡山に豊受大神社がある、皇太神社を内宮と称するに対し本社を外宮と呼び豊受姫命を泰祀せる村社である、口碑によると雄略天皇の二十二年天皇親しく天照大神の神悔を受け丹波国丹波郡比沼の麻奈爲に座す豊受大神を伊勢国度曾の外宮に遷し奉った時暫く河守庄天田内の里舟岡山に鎮座ましまされたといふのである。

《大江町風土記2》
天の岩戸
天の岩戸は内宮さんのうしろにあります。今は内宮から仏性等へいく観光道路の下に見えていますが、前には内宮のお宮を通りぬけ、細い山道を通り、急な坂道をくだっていったものでした。大木がおいしげってひるでもくらいようなところでした。

御座石
岩戸神社の下の谷川に、川をふさいでしまう程の大きな岩があります。これが御座石です。川の水はその岩の下を流れていました。それでこの大きな石はういているのだと言われていました。大昔、神様はこの岩にのって高天原から特りてこられたのだと言われたのです。前にはこの岩の上で舞を舞ったこともあるそうです。
            (俊明小6 福山やよい)

初産だらい
御座石のあるところから三、四十メートルくだったところに、岩の上に直径三十センチメートル位のまるい穴があります。この穴で神がゆあみをされたのだと言われ、これにたまった水は 雨が降ってもにごらず、ひてりがつづいてもりもしない。これょかきまぜたり、物をなげこんだりすると大荒れがすると言われていました、  (俊明小6 福山やよい)

私たちは子供のころ、遠足や写生に岩戸へいったものです。そのときこんなはなしを思い出して、あの大きな岩が向うがわの急な山をすべりおちるときの、ものすごいようすを想像してみたり、うぶだらいというのをみて、神さんはあんな小さなたらいで、行水ができるのかなあとふしぎに思ったりしました。

節分のはだかまいり
 四十二のヤク年の人や、病気の人は、外宮さんや内宮さんに、「とうかヤク年が無事にすぎますように。」といったり、「病気が早くなおりますように。病気をなおしてもらったおれいにはだかまいりをしますから。」と言って、おたのみしました。そして、節分には、そのおれい参りをしたということです。
 節分の朝は、がんをかけた人だけでなく、兄弟や親類の人たちもいっしょになって水で体をきよめ、男はまわし一つ、女の人は夏のゆかた一枚になって、こしにしめなわをしめ、はだしでまだ暗い雪の中をつれだって、「ほい、ほい」と、かけ声いさましく走って外宮さんと内宮さんへお参りしたそうです。
 明治二十年頃から、まるはだかで参る事は警察からとめられ、男もシャシ一枚だけはつけるようになったそうです。
 いまはもう、そんなことする人はありません。さむくて、かぜひきます。いまは、バスにのって参ります。

 昭和になってからは、はだか参りをする人を、だんだんみかけないようになりました。節分のばん、河守のコンピラさんの前と、公庄のイツキさんや、熊野宮社の前には、いまでも火をたいているのを、みなさんは知っているでしょう。はだか参りの人が、あたたまるためにたいたのが、いまものこっているのです。河守上の外宮さんと内宮さんには、和田山や綾部地方からまで、たくさん人がお参りにきたものでした。
 また、「節分あれ」といって、いろいろと参るとちゅうで、いたづらをしたそうです。人の通る道のまん中に、大きな石をおいたり、たんぼの小屋を、道にかつぎだしてみたり、店屋のかんばんを、とりかえっこしたり…。暗いのをいいことに、そんなことをする悪い習慣がながくのこっていたのです。
 いまは、そんな馬鹿なことをして喜ぶ人はなくなりました。


《大江町誌》
皇大神社は、内宮の宮山に鎮座、正面に本殿、両側に脇宮二社が祀られる。本殿の祭神は天照大神、脇宮の祭神は、左殿が天手力雄命、右殿が栲機千々姫命である。そして境内の周囲に末社八四社の小祠が並ぶ。本殿と脇宮の間に龍灯の杉と呼ぶ古木がある。本殿から一段下ったところに鳥居がある。この鳥居は黒木の鳥居である。黒木の鳥居は京都嵯峨野の野々宮神社に建てられているが、他には例がないものである。神楽殿の前から、龍灯の杉をはじめとする大木と背後の自然林に覆われた社域は、神さびて古来から大社であったことを物語っている。
 由緒については、崇神天皇のとき、天照大神の御神体である神鏡を、大和国笠縫邑よりここへ遷し、四年間奉斎した但馬乃吉佐宮の旧跡であるといわれ、「丹後旧語集」にも、「天照大神自此所崇神天皇御宇遷大和国、自夫今ノ伊勢国高間原遷宮奉成」とある。当社の神社明細帳には、崇神天皇の御代天照大神が大和国笠縫の里から当国吉佐宮へ遷幸の途中、この地にしばらく鎮座した。のち伊勢に鎮座したため、ここを元大神宮とと称するようになったとある。一方、「宮津府志」には、「鎮座年暦未詳一説云用明帝時麻呂子親王之所二勧請一也 神社啓蒙等以三河森外宮一爲二吉佐宮一而謂下今祠二内宮一者近代之俗上也者却似 誤也」と麻呂子親王が鬼退治の祈願のため建立したと記し、近代の地誌書「丹後風土記」も同趣旨の縁起をのせる。社殿の造営は、式年六十一年目甲子の年にされてきたが明暦二年(一六五六)四月の年紀をもつ棟札が残り、宮津藩主京極高国による神楽社、御供所、斎蔵などの修造が知られる。

《まいづる田辺 道しるべ》
元伊勢街道
 元伊勢に祀られる内宮(皇大神社)、外宮(豊受大神)は、当地方の象徴的な存在として、昔より萬々神の大元神として崇められてきた神社であり、その由来について記す。

◎内宮(大江町内宮)
 崇神天皇の六年大和の笠縫邑(奈良県桜井市桧原神社)に初祠を立て、天照大神と草薙剣を祀った。崇神天皇の三十九年、丹波(丹後)の吉佐宮に遷座、ここに四年間祀られた。
 吉佐宮は、加佐郡大江町の内宮皇大神であるといわれているが、一説によると吉佐宮趾は、宮津市府中籠神社でないかともいわれている。
 天照大神の奉斎地の遷座は、二十二ケ所にも及んでおり、雄略天皇二十二年七月七日伊勢度会の山田原に遷座され、それ以降大江町の神社を元伊勢と称されるようになる。(倭姫命世紀)
◎外宮(大江町天田内)
 祭神である豊受大神は、女神であり日常の御饌(食事)を配する御饌都の神とされ、豊受大神は丹後に降臨された神であり、雄略天皇の二十二年に天照大神の御託宣により現在地に御宇を建立され、養老五年(七二一)九月初奉宮幣、人王三十三代推古女帝二十一丁巳年、伊勢国に外宮を遷座される。(旧語集)
 元伊勢の伝承について地元では次の様な由来説もある。
 用明天皇の皇子、麻呂子親王が丹後の前丹と後丹の境にある初寿尊(はしすそ)山に住んでいた土賊(天鼓、五月姫、土熊、軽夜丹)を討ち、前丹後丹の山すそに天照大神をはじめ天神地祇をまつり、戦勝を祈ったところを、それ以降元伊勢と称するようになった。(清国寺古縁起)
当社の案内書
由緒
当社は、皇祖(皇室の御先祖)天照皇大神をお祀りする神社で、正式社名は皇大神社であるが一般にその上に元伊勢内宮を冠してお呼びしている。伝承によれば、第十代崇神天皇三十九年に、「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑(現奈良県桜井市三輪)を出御されたという。それはいまを去る二千数十年前のはるかな昔のことであった。そして、まず最初に、はるばると但波(丹波)へ御遷幸、そのご由緒により当社が創建されたと伝えられている。皇大神は、四年ののち、御神蹟をおとどめなされて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、垂仁天皇二十六年(西暦紀元前四年)に、伊勢の五十鈴川上の聖地(いまの伊勢の神宮)に常永遠にお鎮まりになった。しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮内宮の元の宮として、「元伊勢内宮」あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の篤い信仰が続いている。


元伊勢まいりの今昔
(往時)
二千年前には、この地は大江山を中心とする丹後山地の大原生林の一角で、人跡未踏の秘境であったと思われる。庶民の参拝がはじまったのは鎌倉・室町・戦国の頃からと推定されるが、徳川時代には参勤交代の通路になったため、宮津藩主の尊崇を受け、急に広く崇敬の輪をひろげた。明治期まで、年間の参拝者八万人と記されており、麓には宿屋が十軒もあり、茶屋、土産物店が軒を並べていたという。当時は由良川の舟が利用され、船着場から約四キロ歩くだけだったので老若男女を問わず大勢の人が参拝したようだ。その舟便が途絶えた関係もあって、大正から昭和三十年代ころまでは参拝客も激減し、元伊勢も衰退の一途をたどった。
(現況)
元伊勢まいりは、昭和四十年代後半ごろから急に盛んになり、昭和五十年ころからは、ほとんど往時をしのぐ状況になってきた。最大の原因は自動車の普及と道路の整備であろう。又、福知山・宮津間を結ぶ北近畿タンゴ鉄道宮福線が開通したので参拝者はさらに増加の傾向にある。現在の元伊勢参拝者は、地元近郷中心から急に遠隔にひろがってゆき、大阪・神戸・姫路・和歌山・岐阜・愛知・石川方面からの参拝者が目立ってきた。単純な観光客よりも、熱心な崇敬者の参拝が圧倒的に多く、宗教団体や教祖的信仰者のお参りが非常に多いのも特色のひとつである。

枯れた麻呂子杉
榎の御神木
昔元伊勢内宮には、神霊の憑代として崇められた大榎があったという。これにかわり、昭和六十二年三月十五日榎祭りを行って四本の榎の御神木が復活した。御本殿左右の日影榎、水影榎はお伊勢さんよりヘリコプターでお還りになった。広前には、大直日榎(大本教献木)、変若水榎(世界救世教献木)が植えられた。


《図説福知山・綾部の歴史》
謎深き宮 ●元伊勢三社

 大江町内宮の皇大神社と天田内の豊受大神社は古来、「元伊勢」とか「ダイジグさん」と呼ばれ、当地方で広く民間信仰を集めてきた。境内に残る献燈の刻字や古文書からうかがうと、その信仰圏は広く、両丹地方にとどまらず、越前・若狭・但馬・因幡、それに山城・播磨の一部にまで及んでいる。かつては社家や御師もいて、各地に元伊勢講も組織され、代参が盛んであった。
 この元伊勢両宮は、社伝によれば古く崇神天皇のとき、天照大神の神鏡を大和の笠縫邑から移し、四年間奉斎した「旦波吉佐官」の跡という。
「内宮」と呼ばれる皇大神社は、内宮集落の北方、宮山に鎮座する。シイを中心とした原生林に囲まれ深厳な雰囲気を秘めている。主祭神は、むろん天照大神であるが、本殿の両側に脇宮が二社あって、天手力雄命と栲機千々姫命をまつり、素朴な神明造りの本殿を取り囲むように八三の小祠が並ぶ。まさに日本を代表する神々のオンパレード。鳥居は、ここの他には京都市野々宮神社にしか見られない黒木の鳥居である。六〇年ごとの甲子の年が御遷宮の年だが、現在の本殿は、明治元年(一八六八)当時の宮津藩主本庄氏の寄進になるものといわれる。
 古伝承によれば、この内宮は、昔は背後にそびえる日室ケ嶽の頂上にあったという。ピラミッド型をした秀麗なこの山は、古来神体山として崇敬を集め、今も本殿のすぐ横に、一願成就の日室ケ嶽遥拝所がある。またこの日室ケ嶽の頂上には、いまも大きな磐座が残っている。
 なお本殿のすぐ隣に「竜灯の杉」がある。当地方きっての巨木で、節分の夜、竜が梢に灯をともすといい伝えられる御神木である。参道の「麻呂子親王御手植の杉」も巨杉である。
 一方、「外宮さん」と呼ばれる豊受大神社は舟岡山に鎮座する。祭神は豊受大神で天照大神の御饌都神である。ここも本殿を中心に四つの別宮(多賀・月読・土・風の各神社)と三七の境内社が配祀されている。境内社の中に天田神社という謎の宮がある。あるいは、これがこの神社の前身なのかもしれない。ちなみに、ここ舟岡山の周辺には多数の弥生式土器片が出土しており、古墳も多い。現在の本殿は明治七年の建立である。
 この外宮で興味深いのが「舟つなぎ石」である。禁足の聖なる石で、正月には注連縄が張られる。舟岡山をつなぎ止めている石と伝わり、北辰(北極星)信仰にもとづく要石であろう。
 近年、この両宮と共に「元伊勢三社」といわれているのが天岩戸神社である。内宮の宮山と岩戸山の間は、神が天降って座したという「御座岩」や神々が湯浴みをした「産だらい」などの巨岩が並び、これらの間を流れる清例な渓流が美しい。神社はこうした岩壁に祀られており、祭神は櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命である。ここは仏性寺区によって管理され、周辺一帯は、カシとシイの原生林で、京都府歴史的自然環境地域に指定されている。(村上政市)










関連項目

元伊勢外宮・豊受大神社
皇大神社
↓地図


平成23年では、建て替え終わり、ピカピカの社殿になっている。
改修工事中の内宮本殿



《交通》
車でなら府道を来られると道端に駐車場がある。電車なら、「北近畿丹後鉄道」「宮福線」の「大江山口内宮駅」がある、右手の府道を少し下ればよい。
大江山口内宮駅




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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