丹後の地名

元伊勢外宮:豊受大神社
(とゆけだいじんじゃ)
福知山市大江町天田内


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京都府福知山市大江町天田内東平

京都府加佐郡大江町天田内東平

京都府加佐郡河守上村天田内東平


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豊受大神社
(元伊勢外宮)の概要




元伊勢外宮(豊受大神社)天田内舟岡山

豊受大(とゆけだい)神社の概要》
八朔祭(於:外宮参道石段下広場)
宮津街道沿いの小高い舟岡山の頂上の少し広い場所に鎮座ある。普通「元伊勢」さんとか「元伊勢外宮」とか呼ばれている。古くから元伊勢だ、いや間違いだと論議の絶えない所であるが、誰も正解が言えるほどの資料が残されていないのだから、あまりこだわっても仕方があるまいが、…そうした資料も残る以上は私としては否定もできないのである。祭神は豊受姫命。日子番能迩迩芸尊・天児屋根命・天太玉命を相殿に合祀している。
元伊勢外宮(宮司さんのお宅か。サルスベリが美しい)
正面に本殿、左右に脇宮、周りに末社三七社が並び、内宮の皇大神社(内宮)とほぼ同じ配置である。「丹後旧事記」に別宮と記される多賀神社・月読宮・土之神社・風之宮がある。

伊勢神道では、雄略天皇21年倭姫命に天照大神の神教があり、丹後の与佐宮から豊受大神を御饌津神として伊勢の山田原に迎えたのが、伊勢外宮の始まりとしている。あるいは丹波国与謝郡比沼山頂魚井原に座す豊受大神を伊勢国度会へ移す神教があったことが見え、この与佐宮や魚井原を当社とする説がある。だから「元伊勢」と呼ぶのである。有名な伊勢神宮からして何もよくわからないのであるから、「元伊勢」もわからない。加佐郡誌によればもと両大神宮鎮座の跡ともいう。
元伊勢外宮(天田内)舟岡山のこの石段は新しいものかも。右手にも道がある。
当社についての古い資料は何も残されていない。江戸期からのものばかりで、天和2年(1682)の『丹後国寺社帳』に、「神主 外宮 河田備前」とあるのが一番古いと思われ、その次が『田辺府志』の宝永7年(1710)か。
河田氏は内宮・外宮ともに今も神主さんであるが、もともとはあるいは伝説の麻呂子親王の4臣下の1家ではなかろうか。神木「麻呂子杉」などがあるのを見ても、元は麻呂子系の社なのかも知れない。聖徳太子の弟という麻呂子親王というよりも竹野神社の丸子の方ではなかろうかと想像するのだが、竹野神社の川上が伊去奈子嶽だから、豊受大神は丹後の誰が祀っていたものかが問われたこともないが、もともとはあるいは竹野一族(丹波大県主油碁理一族)が祀っていた大神なのかも知れない。彼らは大江山にも大きな拠点を持っていたのであろう。加佐郡ではマルコやマナイのある所はだいたい元伊勢となっている。

近世の地誌「丹後風土記」は
此地を与謝の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受太神宮鎮座初の地にして雄略帝廿一年神託有て翌年勢州山田原ニ連座なし奉ると云。
或曰此神社は式に云丹後国丹波郡比治摩奈為神社なるへしとそ。八十末社其外小宮あり内宮より境内せましされと神さひたるありさまかはらす。
元伊勢外宮(豊受大神社)
「和漢三才図会」は与謝宮を「与謝郡川守」にあるとし、天田内村が江戸時代に河守組二三ヵ村に含まれていたこと、また村内の常光寺鐘銘にこの地を与謝郡としていること、外宮祠宮河田氏所蔵の万治・元禄以降の神道裁許状にもみな与謝郡とあることなどから、近世までこの地が与謝郡と称されていたともいわれる。
千木の銅板が新しいピカピカになって輝く。何柱と呼んだが、棟を支える柱が外にある建て方は古式である。
「加佐郡誌」所載の当社の由緒は、雄略天皇22年、天皇が神誨を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく当地舟岡山に鎮座したのに始まるとする。
「宮津府志」は、用明天皇第三皇子麿子親王が鬼賊退治の報賽として建立したという。
本殿の外削ぎの千木もピカピカ、屋根には草がボウボウ
明暦2年(1656)4月の当社所蔵棟札によると宮津藩主京極高国によって「征夷大将軍源家綱公疱瘡平癒祈願」のために本殿・神楽所・御供所が造営され、同年9月の棟札によると「国家安全祈願」のために斎蔵が造営されて、以後、式年61年目ごとに改営されてきたという(加佐郡誌)。
文化年間の覚書牒(天田内林田家文書)によれば、材木引初めから社殿完成まで3年余りを要し、正遷宮の時には「群集夥しく福知山から宮津まで宿つまりてなし」とある。
クロキの鳥居(この神社はこれしか鳥居がない)
社領は延宝5年永井信濃守が4石6斗4升2合を寄進、以後元禄2年阿部対馬守、正徳3年奥平大膳太夫、享保3年青山大膳亮、延享4年青山大膳亮、明和3年松平豊後守などが保護し明治に至った。
社家37軒の総代は亀井家で、神官河田家とともに世襲。社家は伊勢神宮の御師に相当し、当社の発展に大きく貢献した。
「元和七年七月吉日越前国三国新保村助左衛門寄進」の刻銘をもつ石製狛犬もあり、広い信仰圏をもっていた。
9月1日(9月の第一日曜)には明暦年間以来の由緒をもつ八朔祭が行われる。例祭は4月26日。



豊受大神社の主な歴史記録

《丹哥府志》奴行列の鳥毛廻しの練り込み(八朔祭)
【外宮豊受皇太神宮】
別宮四社、末社卅六社

《田辺府志》
下宮大明神
與謝郡河守下宮大明神は豊受神なり、是すなわち国常立尊の別號なり。むかし豊鋤入姫尊天照太神をおひまいらせ大和国より丹後與謝の河守に四年居給ひてまた帰り給ふ、其時豊受神は其まゝのこれり、雄略帝二十一年に伊勢太神宮の神勅ありて、明年戊午秋九月伊勢山田の神宮に移れり、しかれども神明は圓融妙通無辺の身なりかならず兎のごとく株木を守るべからず、肉眼をすてゝたかく天眼をひらくべし。

《宮津府志》
外宮 在同郡天田内村
    天保食持神
祭神 豊受皇太神  神主  河田加賀
    天児屋根命  
  本社 鳥居 黒木鳥居 別宮四所
  末社 三十七社 神楽所 神供所 宝蔵
 鎮座年歴未詳。一説当社ハ内宮ニ與ト云、是レ麿子親王勧請スル所也。神社啓蒙等ノ書当社ヲ以テ與佐宮ト爲スハ非也トノ説共ニ上段ニ載ス。

鳥毛廻し(本殿前)
《丹後与謝海名勝略記》(貝原益軒)
【真井ケ原】一宮の北松の茂りたる所実に比治の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる與佐の社也。しかるを諸社一覧に與佐の社は与謝郡川森に有とて書て河守今内宮を祝は近代の俗なりと云けり。甚誤なり。蓋今の内宮は昔天照太神四年鎮座の跡なるへし。河守の外宮は山も浅く、内宮に比するに遥以後の勧請と見へたり。しかるをよさの社と指てよさの海の古歌ともひけり。河守は海浜より四里余大山を隔て山中なり、是あやまりの証據なり。
或曰今の内宮外宮は往古金丸親王(按帝王系図用明天皇第六の皇子常麻君の祖也)当国凶賊征伐の時勧請し給ふ所なり。内宮外宮の間に公庄金谷といふ在所あり。是すなはち親王の家臣也。親王当国を領しなふゆへ家臣の姓残りて在名となれり。親王の勧請故あるに似たる乎、豊鋤入姫天照太神を戴て、丹後與佐の宮に到りて四年を経といふ。神跡は今の文珠堂也。俗伝へて堂内の四柱を天照太神の建立なりと云、是其証據なり。况真井原と文珠堂と纔三十町を隔て一所なり。是豊受太神自天降同座一所といふものなり。是又一説なり。


《加佐郡誌》
豊受大神社
祭神=豊受姫命
相殿=日子番能迩迩芸命 天児屋根命 天太玉命
由緒=当社は雄略天皇の二十二年天皇親しく天照大神の神誨を受け丹波国丹波郡比治の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に遷し奉った時暫く河守庄天田内の里である船岡山に鎮座ましましたのに起因する由碑に残ってゐる。
又世俗の説に加佐郡は元与謝郡であって尚古くは丹波丹後一国であった。丹後国与謝郡の隣加佐郡丹波堺川の森の庄(今文字作河守)天田内村に外宮があって元両大神宮鎮座の跡であるとも云ふ。又神社啓蒙に「与謝宮在丹後国与謝郡川森所祭神一座」とある。
勧進年月詳でないが按ふに暫時鎮座の後社頭今日の如く興隆して来たものの様である。社殿造営の儀は式年六十一年目を以て改営して来たか明暦二年国主の信仰によって修補あったものゝ如く左の棟札に残ってゐる。
   明暦二年四月吉旦
    神 楽 所
   奉建営 大神宮本殿 国主四位侍従源朝臣高國
    御 供 所
   右爲征夷大将軍源家綱公疱瘡平癒耐願也
    明暦二年九月吉旦
   奉造立 齋藏 国主四位侍従源朝臣高国
   右爲国家安全祝願也
以後は式年毎に諸国信仰の輩有志相募り改営して来たと云ふ。
  一、境内神社
   土宮神社(祭神大神)外四十一社(省略)



《大江町誌》
豊受大神社は、天田内の舟岡山に鎮座、外宮ともよばれる。祭神は豊受大神、日子番能迩々杵命、天児屋根命、天太王命を相殿に合祀し、廻りに末社三七社が並び、内宮と大体同じ形に祀られている。昔はこの森全体に大木が茂っていたが、たびたびの台風で古木が倒れ、今はややまばらになったとはいうやはり大社の様相を留めている。 天照大神は、吉佐宮において豊受大神から真名井の水による御饌の奉仕をうけられた。伊勢に鎮座ののち雄略天皇の21年、倭姫命に天照大神の神教があり、丹波から豊受大神を御饌津神として伊勢の山田原に迎えたのが伊勢外宮のはじまりであるが、ここ豊受大神社はその元つ宮だと伝えられている。近世の地誌書「丹後風土記」には、「此地を与謝の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受太神宮鎮座初の地にして、雄略帝21年神託有て翌年勢州山田原に遷座なし奉ると云。」と記し、「丹後旧語集」には、「豊受宮ハ国常立尊也 左瓊瓊杵命 右天児屋根命、雄略天皇ノ御宇建立、養老五年九月初奉宮幣 人王三十三代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。神社明細帳には、雄略天皇の二十二年、天皇が神悔を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく舟岡山に鎮座したのに始まるとしている。


豊受大神社社殿
   所在地 大江町字天田内小字東平一七八ノー
   規模形式 本殿、三間社神明造、茅葺き。
        神楽殿、桁行一九・八メートル 梁間五・○メートル 寄棟造、柿葺(こけら)(銅板仮葺)
 当社は、外宮(げくう)ともよばれ、集落にほど近い舟岡山の上にある。鎌倉時代ごろから伊勢神道では伊勢の外宮を丹波与佐宮から移したとしたが、当社の社伝ではこの与佐宮が当社にあたるとする。そこで元伊勢とも称している。境内は、本殿とこれに接する拝殿を中心に、四方に別宮として多賀・月読・士・風の各神社があり、これらを囲むように小さな末社三七社が配される。神楽殿はこの一廓より少し低く、表側参道沿いに建ち、後側に囃子方席、横側には花道や楽屋が付属する。三七の末社は、御師的な役割をはたす三七の社家が祀っており、社家の活動により広い信仰圏がつくられたらしい。
 本殿は、棟札からみると、明暦二年(一六五六)上葺き、寛保二年(一七四二)と文化四年(一八○七)に造替があり、現在のは明治七年(一八七四)の建立になる。外観は神明造の特徴をよく備えているが、平面に外陣側面と内陣境に片扉を設け、外陣機能の発達がみられる。神楽殿は、もとは栗材のくれ板葺きであったと伝え、江戸時代末期ごろの建立かとみられる。境内は全体に旧形が保たれている。


 豊受大神社は、天田内の舟岡山に鎮座、外宮ともよばれる。祭神は豊受大神、日子番能邇々杵命、天児屋根命、天太王命を相殿に合祀し、廻りに末社三七社が並び、内宮と大体同じ形に祀られている。昔はこの森全体に大木が茂っていたが、たびたびの台風で古木が倒れ、今はややまばらになったとはいえやはり大社の様相を留めている。
 天照大神は、吉佐宮において豊受大神から真名井の水による御饌(みけ)の奉仕をうけられた。伊勢に鎮座ののち雄略天皇の二十一年、倭姫命に天照大神の神教があり、丹波から豊受大神を御饌都神として伊勢の山田原に迎えたのが伊勢外宮のはじまりであるが、ここ豊受大神社はその元つ宮だと伝えている。
 近世の地誌書「丹後風土記」には、「此地を与謝の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受大神宮鎮座初の地にして、雄略帝廿一年神託有て翌年勢州山田原に遷座なし奉ると云。」と記し、「丹後旧語集」には、「豊受宮ハ国常立尊也 左瓊々杵命 右天児屋根命、雄略天皇ノ御宇建立、養老五年九月初奉宮幣 人王三十三代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。神社明細帳には、雄略天皇の二十二年、天皇が神誨を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく当国舟岡山に鎮座したのに始まるとしている。

《大江町風土記2》(1959・大江町教育研究会編)
出船入船
外宮さんの山はふねになっているので、ふなおか山といいます。この山は舟のようにういているので、流れないように、たて石というとがった石につないであると言われています。たて石は二俣の田の中にあり、お正月にはおかざりをするそうです。前に若い人たちがその石をほろうとしたが深くてほれなかったそうです。 (俊明小6 加藤道子)
 内宮は入船のかたちをしているといいます。ここにもつなぎ岩というのがあって、その田には牛を入れず、まやごえなどもやらないそうです。

現地の案内板内宮の港石から岩戸山
内宮
港石 水戸神のイハクラ 伝舟つなぎ石

 内宮港石は、二俣港石と共に豊受大神の舟岡山が流れないようにとの舟ツナギ石だと云う伝承がある。前の沢田には、牛を入れることがタブーになっている。
 この港石は、昔の流れに沿って祭られている。真井の水を守る水戸神のイハクラであったと見るべきである。貴重な史跡である。元伊勢保勝会


《大江町風土記第三部過疎のあらし》(1973・大江町教育研究会編)

八朔祭りの復活大名行列の主力

私の家は天田内ですが、近くの元伊勢の例祭には、春秋二回の祭りが行なわれこの地方でも有名です。
 秋の九月一日には練り込みがあり、約三百年前ぐらいから始まったといわれています。お米の収獲を喜び、神に豊作を知らせる祭りとして知られています。伝説では、雨ごいの祭りだともいわれています。
 しかし、五、六年前から、若い人たちが都会へ出られたりして、やっこを振る人、太鼓を打つ人たちがおられなくなり、祭りも急速に衰え始めました。
 ついに、昭和四十五年には、練り込み行列ができなくなってしまいました。もっと小さいのが続く…さらに小さいのもこのあとに続いている
 衰えてしまった八朔祭りを、なんとか復活しようと、保
存会の人たちは、熱心に相談を続けたのです。
 昭和四十六年になって、子供会に頼んで練り込み行列をしてもらうことになりました。子供会の男子の人は、十日間ほど保存会の人々から学んで練習をされました。
 当日の例祭には、見事な練り込み行列もできて、大勢の参拝者が見物されました。今後も、子供会を通じて練り込み行列を残していこうということです。
(大江中3年 林田則子)

「大江町風土記3」の時代はもう35年も昔のことで、10歳ばかり年下の私の知り合いも、まだ高校生や中学生で何人かもここに登場して郷土を考える若い溌剌の心を書き残している。
何を教育するにしても合った年代とというものがあって、こうした年代に郷土へ向ける意識を学校教育でもしっかり基本を鍛えておいてもらうと、そうでなかった者とはずいぶんと違ってくる。青年となった時にはプロとアマ以上に違う者となる。彼らの1割以上も郷土発展に尽くせる人材と成長してきたように思えるから、やってみるネウチは充分すぎるほどにあると、そうした教育を受けなかったためか、己が意識の低さに恥ずかしい目を何度もみてきた私は思うのである。
しかし35年が過ぎても「過疎の嵐」の厳しさは一向に改善される様子でもないように思われる。あと35年すれば、一体どうなるのだろう。







関連項目

元伊勢
元伊勢内宮・皇大神社




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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