丹後の地名

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竹野神社(たかのじんじゃ)
斎宮神社(いつきのみやじんじゃ)
竹野神社
京丹後市丹後町宮

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京都府京丹後市丹後町宮

京都府竹野郡丹後町宮

京都府竹野郡竹野村宮



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竹野神社の概要


《竹野神社の概要》
竹野神社
「丹後古代の里資料館」の向かいである。↑「三の鳥居」をくぐって参拝する。本殿の真後ろに依遅ヶ尾山のピークがくる、見えるかな。
初午祭の1コマ。これがよく見える↓
本殿背後の依遅ヶ尾山

振り返ってみると、参道が延々と続いている。↓
参道
二の鳥居はここにある↑↓。これはいったいどこへ続くのか。先には御旅所がありそうに思われる。
↓左手にあるのは「丹後古代の里資料館」
二の鳥居
どこまでも続く参道。
国道178号から「参道」を見る↓(左右の水田面より1メートルばかり高い、いつの時代かに盛り土したものか。水田は元は潟湖であったと考えられる。)
参道
国道178号を横切り、まだ続く。この方はオート・キャンプ場の入口道にもなっている。道路の先に一の鳥居が↓少し見える。
参道
これが一の鳥居、「御旅所」で↓右手にあるのが末社「矢崎神社」↓(祭神:宇賀能魂神、稚産霊神、保食神)。少しだけ写っている建物。
参道とは「御旅所」への道である。
一の鳥居
一角にこんな石組がある↓これが降臨石でなかろうか。祭りの日ここに神が天から降臨されるのだろうか。
降臨石?
一の鳥居から竹野川河口と立岩をのぞむ↓参道の向きからは少しはずれた位置になる。
立岩
このあたりは弥生の竹野遺跡の中である。ここが御旅所なら、ここが竹野神社の元の鎮座地で、もしかすると弥生時代からここにあった神社かも知れない。竹野の元の意味はar=光明で、太陽を祀る社であったかも知れない、今は皇祖神・天照大御神となっているが、ここに鎮座していたころはアラーの太陽神を祀るものであったかも知れない。
御旅所の東側は畑や荒地になっているが石棺が3つも出土している、ここには王家の館もあったかもわからない、さらに福蓮寺の地名があり、これは竹野神社の神宮寺だろうか。吹く練寺か、金属を吹き、鍛錬した所の意味かも知れない。前は海、後は山だが、冬期など漁がてきない季節は山で金属を作ったのであろうか。


三の鳥居
もう一度「三の鳥居」までもどる。
右手には、末社「厳島神社」(祭神:市杵島姫神)がある。↓
厳島神社
末社・野々宮神社(祭神:野槌神)↓神明山古墳へ続く道の途中にある。この場所は境外と思えるが、今はボロボロになっていて、これは少し古い写真である。
野々宮

一の鳥居(御旅所)が竹野弥生遺跡地にあることを見れば、はるか竹野神社以前から元・竹野神社はあったとも考えられ、太陽神や地母神や宗像の海神などが祀られていたのかも知れない。
野々宮神社の野槌神というのはヘビと思う、ノヅチは俗にツチノコの親だそうだが、ツチとかツツというのは蛇のことと思われる、軻偶突智というのも銅のヘビという意味と思われるが、溶けた銅が流れる様を軻偶突智と呼んだものか、今の当社の真後ろに依遅ヶ尾山の山頂がくるように、その依遅ヶ尾山大蛇を祀る社が元々この地にあったかも知れない。それを押しのけて当社は建てられたのかもわからない。ヘビ神は水神とされるが、軻偶突智に見られるように金属とも結びついている。



斎女と大蛇
大まかには当社に伝わるものも三輪山型伝説に含まれると思うが、神体山・依遅ヶ尾山の大蛇(神)と当社神女(人間)との関係が語り継がれている。
『京都の伝説・丹後を歩く』
依遅ヶ尾の大蛇 伝承地 竹野郡丹後町矢畑
 昔むかし、何千年も前のこと、依遅ケ尾に大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見ることがあった。
 この大蛇が、ある日、斎神社の神姫を見て、一目惚れをしてしまった。それからは、寝てもさめてもその神姫のことを思って、食事もろくろくとれぬほどになった。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれてどうしても神社の森に入ることができない。
 斎神社の神はその大蛇の心情をかわいそうに思って、雪が二メートルも積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう」と告げた。
 やがて、依遅ヶ尾にも春が来て雪が解け、夏が過ぎて待望の秋が来た。不思議なことに、斎神社の神姫も夢のなかで、「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と天照大神のお告げがあった。
 二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、バケツから移したような大雨が竹野川に降ってきた。みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から炭のような真黒い雲が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、何とかして姫に近寄ろうとしたけれども、斎神社の威光に打たれ、もんどりうって立岩の沖の海に落ちた。その嵐のなかでキラリと光った二つの目は姫を吸いつけるようににらみ、竹野の人も間人の人も、海を見ていた人はみな、この大蛇の目を見ることができた。この嵐のためについに大蛇の恋は遂げられずに終わった。
 それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。大蛇はだいぶん年をとったのか、二百十日を間違えて二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。  (『丹後の民話』第三集)
【伝承探訪】
 丹後町を流れる竹野川に注ぐ支流吉永川のほとりの吉永集落から尾根道を上って行くと、長く点在する矢畑集落に出る。このあたりもかなりの高さだ。そのもっとも上にある家のところから改修中の道をさらに奥に歩くこと、十数分。岩肌を露出させ、厳しく屹立する依遅ヶ尾の山容が眼前に見えるところへ出る。高さ五百四十メートル。海岸近くにあってひときわ目立つ姿のこの山は、金剛童子山・磯砂山などとともに、当地方の漁師たちの目印とする山であった。山の頂には祠が設けられ、四月・十月には近在の村人たちが登って祭りが行なわれていた。この山の水は南へは吉永川となって流れ出し、また東は遠下から宇川へ注ぎ、西は牧の谷の方へと流れ出る。しかし、この矢畑へは豊かに流れてくることはない。旱魃になると、山頂では雨乞いが行なわれたものであった。このように、この山には、大蛇の姿として観ぜられる水の神の信仰を窺うことができるのである。
 一方かつて、竹野神社には神に仕える斎女が選ばれた。斎女は市場村(現熊野郡久美浜町)から出た。神の子が生まれると、その家に白羽の矢が立ったと伝える。今、市場には斎宮大明神と呼ばれる小祠が祀られている。斎女は神の妻とも観ぜられた女性である。
このような女性に神が通うというものには、大和国三輪山の蛇神(三輪大物主神)が通ったという『日本書紀』の伝説の例がある。竹野の伝説はこのような神と巫女との聖なる結婚という発想に依るものである。そして、これに依拠しつつも、斎女は竹野神社の神を祀る者ゆえ、依遅ヶ尾の山の神の結婚を認めないとされている。この伝説は、二百十日頃の空模様の異様さという自然現象をこの山の神の結婚の不成立への怒りという点において説こうとしたものではなかったか。
 ともあれ、依遅ヶ尾の山から西、竹野神社の方へと流れ出る水脈は、この伝説にみえる、大蛇が通う恋の道だったのである。)

『田辺府志』
斎大明神
齋大明神といふ事は同国熊野郡市場村の中に神につかふる家あり、女子を生る時神箭飛ゆきて彼家の棟に立たり、四五歳の時宮におくり奉る山中たれども獣もやぶる事なし、成長して交接の心生する時大蛇出て眼を瞋らかす、其時郷に帰る、是を齋女といふなり、此斎女ある宮ゆへに世人齋大明神といふなり。

『宮津府志』
…又斎宮ト號スルハ熊野郡市場村ニ斎官之人有女子を生メバ則チ飛箭屋上ニ立ツ也。其ノ子四五歳之時当宮ニ奉リ斎女ト為也。山中深林之中ニ獨リ禽獣ト同居シテ敢テ畏怖スルコト無シ。若シ長シテ天癸(月経)至リ或ハ交接之情生スルニ及テハ即チ大蛇出現シテキキトシテ(雷鳴のとどろくがごとく)眼ヲ瞋ラス是時ニ及テ官ヲ致シテ郷里ニ還ル(以上神社啓蒙)…

『丹哥府志』
【斎女】神啓蒙云。熊野郡市場村に斎宮の者あり、女子生るる時は飛箭来りて屋上に立つ其子四五歳の頃より斎の宮に奉る、これを斎女と称す、既にして高山深谷の中に独り禽獣と居る敢て畏るる事なし、其天癸を見るに及ぶ頃大蛇出でて眼を瞋らす、是時宮を致して故郷に還る。

三輪山神話だと、大蛇(神・大物主神)の子が生まれて、神格を得た子が斎主となるが、当社では子はできない。近くの民話には蛇婿入り型も見られるが、当社はそうなっていない。今は末社・稲荷神社に大国主命も祀る。
依遅ヶ尾山は見る位置からは山稜が傾いて見えて、「ダイヤモンドヘッド」などとも俗称されるが、玄武岩(安山岩)の山で、鉄分は花崗岩より多いかも知れない、ここもコンパスが狂う鉄の山だそう。
東史郎氏がおられたころ、そのお家の窓からは真正面に見えた、「依遅ヶ尾がよく見えるんですね」「ながめがいいですよ、いっぺんのぼりましょか」ということだったのだが、はたせずじまいになってしまった。
竹野神社↓       ↓神明山古墳 中央の高峰が依遅ヶ尾山
依遅ヶ尾山
金銅装双龍環頭太刀(湯舟坂2号墳出土)
熊野郡市場は今の須田の一部で、河上摩須郎女の屋敷跡というものがある、ここの湯舟坂2号墳から金銅装双龍環頭太刀が出土している→、
丹波道主命のヨメさんの河上摩須郎女の里といわれていれる。当社は河上摩須郎女と丹波道主命が祀った神社であろう。依遅ヶ尾の神は祀るがその子孫ではない。
丹波道主命一族が勢力盛んな渡来系とみれば、その姻族はミミと名乗る海人系先住民の場合が多いのだが、河上摩須郎女一族はどうもそうではないように思われる。河上は今でもこの谷を川上谷というその地名で、この地名は単に川の上流というのではなく、金属と関係のある地名でげんにここにはカンナ流し跡がある。摩須は摩須良ともあって、衆良神社の社名や現在の須田の地名に名を残しているようである。マスラというのがフルネームのようだが、最初のマも最後のラも落ちやすいようで、どうでもいいような語のよう、要するにスかたぶんスエで、鉄あるいは砂鉄という意味か、あるいは渡来氏族を示したソであろう。道主系はもともとは銅系の氏族のようだが、摩須族は鉄系と思われる、目と耳の結婚時代ののちの銅と鉄の結婚時代であったかも知れない。以後は新技術を持った鉄氏族が強くなってきて、彼らのマゴたちがその技術で全国をまたにかけて活躍するが、その当時創建の神社なのかも知れない、絶対年代でいえば、「鉄の5世紀」その少し前ころだろうか。「鉄の5世紀」は丹後勢力によって築かれたのかも知れない。
片目の鍜冶王・大和の垂仁大王の后となった、道主命と摩須郎女の娘・比婆須比売は摩須郎女の須田の砂鉄王国を受け継いだ女王かと思われる、比は卑弥呼のヒであり、婆須は摩須であろうか、BとMはどこの言語でもよく互転するが、姫真ス御子とかではなかろうか。ヒハスはおかしい、摩須郎女の娘だから、マスを引き継がねばまるまい、ヒメマス、あるいはヒマスが本当の名ではなかろうか。

社頭の案内板↓
社頭の案内板
以前はこんなことが書かれていた。
竹野神社は、竹野郡内の延喜式内社14座のうち大一座の社格を有し、開化天皇の妃、竹野姫をはじめ用明天皇第三皇子の麿呂子親王などにゆかりの古社であり、また記録によれば隠岐よりの神馬献納をはじめとして丹後はもとより若狭・但馬などの各地から厚い信仰が寄せられ、今なお斎宮と呼びしたしまれている。本社は享禄3年(1530)社殿ことごとく焼失し、現社殿は文政13年(1830)再建のものであるが、永い歴史や伝承とともに数多くの文化財が保存されていることでも高名である。とりわけ、本殿をはじめとする建造物及び古文書は京都府登録文化財に、参道を含む自然環境保全地区として、さらに桃山時代の縁起絵巻及び平安時代とみられる経塚出土品等の町指定文化財など、優れた文化財が多い。(昭和61年9月 丹後町・丹後町教育委員会)

さて、三の鳥居をくぐり、いよいよ本殿へ進んでみる。
両側に巨木の参道。いくら掃いても落ち葉が大変↓
竹野神社
写した時代はバラバラだが、ここが中門
竹野神社
竹野神社拝殿が中央に、右側に見えるのが↓斎宮神社である。
竹野神社
この日は拝殿前に御輿が2基あった。神様がおられるようである。
神額
中門の神額には「斎宮神社」とある。
竹野神社(↓祭神:天照大神)。隣に斎宮神社(祭神:日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命)が鎮座する↓
オニ退治されてしまい本殿は大和王権に譲り渡したのだろう、かたわらに退いた摂社の齋の宮こそが、当社の本来の本殿と思われる。
竹野神社

初午祭14

竹野神社は、竹野川河口東岸の神明山古墳の傍ら、「丹後古代の里資料館」の向かいに鎮座している。背後に依遅ヶ尾山のピークを、前面には立岩を意識したような位置のようである。なかに多くの社を含みこんだ全体としての大きな神社である。
「延喜式」神名帳に竹野郡「竹野神社 大」とみえる。竹野郡唯一の名神大社である。しかし平安の『延喜式』などはあほくさいような、それよりもすっと大昔からここにあった悠久の古社である。
長い時代の中で、古今東西いろいろな要素が習合しているし、大和王権の干渉が何度もあったろうから、現在から見ればかなりややこしくて何か何やらさっぱりわからないが、ワタクシ風の怪説をつけながら案内してみたい。

竹野神社祭神は天照大神。旧府社。竹野神社を通称・斎宮(いつきのみや)というが、斎宮は本殿左横に、境内摂社として斎宮神社が別にあり、日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命を祀っている。
                斎宮神社(右側)↓いずれも文政13(1830)の再建になるものという。
斎宮神社(右側)

初午祭14

摂社というのは元々の本社のようなものであり、本来はこちらを祀る社であったと思われる、大和の強権と諸般の事情から天照大神を祀る竹野神社を本社という形にしたものと思われる。海人族としては元々太陽神(海照神)(ヒルコ神・天道神・娘媽神とかバリエーションはある、今も悠久の倭人の末裔はおテント様を拝む風習がある)を祭っていた太古からの伝統もあり、それを皇祖神とかぬかす天照大神として祀っておけば誰にもクソ大和もクソ追従者どももよもや文句はあるまい、祭り上げておこうと。
斎(いつ)くというのは先祖神を祀るということで、今でも火葬場を「斎場」とよぶのはそうした意味である。「斎」は略字で正式には「齋」と書くが、中の「示」は本来は「女」と書いたそうで、一族の女斎主がこうした髪型の正装をして先祖神を祀るという意味という。漢字は中国のもので彼の地の風習だろうが、日本でもそうだったのかも知れない。沖縄のように、耶馬台国のように主に祭事は女性が執り行っていたかも知れない。
竹野媛
社記によれば、垂仁天皇妃の丹波大県主由碁理の女・竹野媛が、年老いて郷里竹野の地に帰り天照大神を奉斎したのに始まると伝えるが、その竹野姫かは別としても一族の女主人(たぶん代々竹野姫を世襲した)が天照大神ではなく、一族古来の太陽神と一族の祖神を祀っていたものかと思われる。
(『まんが丹後王国物語』より→)

一族の祖として、日子坐王を祀っているのだが、丹波道主命の父だからということだろうか、しかし肝腎の丹波道主命は祀っていない。ということは日子坐王=丹波道主命としているのかも知れない。日子坐王はヒルコ(太陽神)王という意味だろうから、海人族としては自らを太陽の子と信じていたのであろうかと思われる。天皇さんはそうした出自ではなさそうだが、これはこれで自らを太陽神の子=最高神と信じていたようである。
建豊波豆良和気命(武豊葉列別命)は、『古事記』『姓氏録』しか見えないが、開化と葛城の垂水宿禰の娘・ワシ比売との子で、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖とされている。何か渡来系のような感じの氏族の祖ともされるし、「別」とされるのはカバネではなかろうか、これは渡来系と考えられていて、「丹波竹野別」が当社の祖に当たるものかは不明である、当社は丹波王家の流れをくむと思われ、竹野別は関係がないのではなかろうか。
竹野姫は何代にもわたる世襲名と思われ、何代にもわたった当社の斎主名かと思われる。本来は祀る側の人であろうが、祀られる側にもなったものか。丹波道主命の娘であったかはわからないが、中には当社の竹野姫には大和大王(開化)妃となる者もあった。交換で大和大王家の娘もここに嫁いでいたと思われ、両者には深い関係があったと思われる、もともとが何か親類縁者的なつながりがあるのかもわからない、元の北九州あたりでは同じであったものが一方は大和へ他方は丹後へ移ったものなどともよくいわれる、現在の天皇家に繋がる家系になるのか、当否のほども別としてそう考えるとわかりやすくなるようなことも多い、わからなくなることも多い。王家の社なら豊受大神を祀りそうに思うのだが、それがまったくない、どこかへの遠慮か不明なのか祭神はぼかしてあるのではなかろうか、本命ズバリの納得の名はない。

「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」に、「正四位下 齋國主明神」が見える。斎という名は他にはないので、当社の斎宮神社を言ったものでないかと思われるが、その名から判断すれば国主というのは、大和国主ではなく、丹波国主のことで、丹波道主命のこと、この名なら本来は丹波道主命を祀る社ではなかったかと思われる。
また斎宮には麻呂子親王も祀るという。その額面通りなら何も当社とは血縁的にはつながらない。聖徳太子の弟と同名異人の麻呂子あるいは金麿というの名の祖先が当社の祖にもいたのではなかろうか。

伊豆神社と稲荷神社
伊豆神社と稲荷神社
本殿に向い合って鎮座している。右が↑稲荷神社(祭神:宇賀能魂神・大国主命)。左が↑伊豆神社(祭神:天児屋根命・社司桜井氏の祖)、丹哥府志が「丸田の社」としているのはこの社であろう。丸田はマラのことで、金属の精錬集団のオサらしい名で、麻呂子もまたその意味であろう。マロコは大和の人ではなく当社の主の代々の名かも知れない。

門斎神社
門斎神社
この西側に門斎神社(祭神:櫛磐間戸神)がある。そこの横手の道から神明山古墳へ行くのだが、そんなとこまで足を運ぶのはかなわんといった人むけに、ここでお参りしてもらうための社ではなかろうか。
櫛磐間戸神というのは手力雄命の別名のようなもので、鉱山神と考えられている、ここは天照との関係があるのか、それとも神明山古墳の被葬者は実は鉱山神ということなののだろうか。
その道の途中に野々宮神社がある。


麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師の分置の伝説
当社には二巻の縁起が伝わる。
紙本着色等楽寺縁起一巻↓
等楽寺縁起
紙本着色斎明神縁起一巻↓(いずれも部分)
斎明神縁起
隣の「丹後古代の里資料館」の『丹後王国の世界』に、
等楽寺縁起絵巻と斎宮大明神縁起絵巻
 竹野神社(京丹後市丹後町竹野)に存在する麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師伝説にかかわる絵巻です。
 等楽寺縁起は、前半部を欠失して原題は分かりません。ただ、寛印供奉による再興を伝えており等楽寺縁起と推定されます。大和絵の伝統的な描き方の中に漢画の影響が見られる室町時代後期から桃山時代の絵図です。
 斎宮大明神縁起は、伊勢参籠の物語など伊勢神との関係が強調され、酒呑童子の伝説の影響が見られます。絵画としても山岳の表現、色彩など優れたもので制作年代は江戸時代に入っていると推定されます。このほかにこの伝説を伝える絵画に清園寺(福知山市大江町)の縁起が存在します。この縁起は、等楽寺縁起よりもさらに古くなります。これらの絵画は麻呂子伝説の中世における伝承を伝えると同時に美術的にもすぐれた作品です。


鬼退治伝説
 推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊(土車)の3匹の鬼が首領となり、人々を苦しめていました。朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせました。その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出しました。
 やがて鬼との合戦が始まりました。『斎宮大明神縁起絵巻』には鬼に斬りかかる親王の姿や、鬼に噛みつく犬の姿が描かれています。山の奥深くに逃げ込む鬼。しかし、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出し、英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、末代の証拠として丹後の岩に封じ込められました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。
 親王は鬼の平定は神仏のご加護によるものだと深く感謝し、七体の薬師如来像を彫刻し、七つの寺に納めたということです。


七つの寺院だけでなく、丹後・丹波には「麻呂子親王と七仏薬師」ゆかりと伝える古刹はたくさん分布している。のちの大江山酒呑童子伝説はどちらかと言えば丹波のものだが、七仏薬師は丹後が中心で、特に当社周辺が中心地のようである。
それそれ書かれた時代も違いスジも多少は異なっている、当社の斎宮大明神縁起でもそうだが、麻呂子ではなく、金麿親王となっている。
そのまま信じていい伝説かとなるとそれは疑問で、薬師信仰の最初の寺院とされる大和薬師寺でも天平の頃(729~49)であり(厳密には平城京遷都とともに移転していて、最初の薬師寺は680発願となっている)、丹後国建国(和銅6・713)だから、早く見てもだいたいその頃である、 ところが聖徳太子は、574年~622年の人で、麻呂子親王も実在するならその頃の人であろう。従ってこの話はどう考えても100年くらいは早すぎるのである。聖徳太子像
中国の玄奘(孫悟空の三蔵法師)が『薬師経』を翻訳したのは650年、義浄が『七仏薬師経』を訳したというか、中国版に焼き直したのは、日本では天平の頃であった。薬師経も七仏薬師経もインドにも原典はないというから、チョクにインドから入るものでもない。
用明天皇第三皇子の麻呂子親王による丹後の鬼退治は仮に認めても、七仏薬師分置という話は実際にはありえない。ずっと後世になって、聖徳太子信仰も加わり加上された物語であろうか。
しかし無から突然にまったくの根も葉もない空想物語ができるわけではなく、仏教が最初に民間に入ってくる時期に、病気を治してくれて、世の病気も治してくれる現世利益的薬師信仰は受けがよかろうし、特に眼病に効き、昔は夜叉だったというならば金属関係者にはもってこいの仏であろうと思われるが、当地方にあったそうしたなにがしかの実情を多少は反映したものと思われる。
立岩を見つめてこの像が建っているが、何か聖母子のようにも見える、聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれたようにキリスト的で、仏教だけでなく、キリスト教も混じって入っていたのではなかろうか。(厳密には物部氏対蘇我氏の戦いには厩戸皇子も加わり活躍しているので、当地に間人皇后と一緒に乱を避けていたことはなかろうと思われる)





神明山古墳や産土山古墳などと当社の関係
神明山古墳
社頭から見える産土山古墳。ずうと右へ伸びている尾根がそう↑
参道から産土山古墳。(2つのカーブミラーの下の尾根がそう↓)
神明山古墳
↓産土山古墳。同じ位置から。写真の一番左の全部が写っていない小山がそう。
産土山古墳
当社の一帯は日本海側最大級の神明山古墳ばかりでなく、長大な横穴式石室古墳や王者の棺と呼ばれる長持形石棺を納めた古墳も3つある。「王者の石棺」は、丹後にはここばかりでなく、ゴロゴロ発掘されているが、「千年の都」の府下でほかには久津川車塚しかない。たいへんな所が丹後であり、ここにゴロゴロあるのは竹野神社を祭祀した当地の一族の古墳であろうと思われる。る。
竹野川流域社会の中心はこの時代はこの地にあったと思われ、そうした氏族の古墳祭祀を引き継いだのが当社かと思われる。古墳に祀る時代もすぎて、ある程度の宗教理論が入ってきてからのことではなかろうか。
麻呂子親王の弟を祀るとされる志布比神社(大山)や同様の弟を祀るとする松枝神社(是安)も近くにあり、麻呂子親王の墓とされるものもある。

竹野潟湖との関係
復元想定図(『丹後王国の世界』より)↓
竹野潟湖
この地が中心になり得たのはここに潟湖があり、海上交易の基地であったからだといわれる。その通りだと考えるが、ではなぜ竪穴の古墳がないのかだろう(なくはないが、分布の中心はもっと上流になる)、青龍三年鏡は出ないのだろう。
この潟湖はフツーは上図↑のように想定されていて、成願寺あたりまでを範囲としたかわいらしいものだったと想定されている。しかしそうした規模のものではなかったとした伝承もある。
『丹後町史』
竹野川口のむかし
谷源蔵翁の文献によると、竹野川口は今の成願寺の清水と徳光橋本の中間にあって、その下流一帯の平地は、竹野オチ浜(立岩の東)から、宮・願興寺・岩木・三宅・大下・平井・大山・川尻の広瀬にかけて、日本海の内浜入江で湖沼であり、その浅瀬には芦や荻が生い茂って、由良川の川口に似ていたであろう……と言われている。
この説にしたがって考えると、色々な事がらに継びつく。
※三宅附近で近年丸味のある浜辺の小石と砂の層が出たこと。
※昭和のはじめ斎宮前の田圃の工事で砂の層を発見した。
※平井の塩干神社境内に明治初年まで談水と塩水の二つの神池があったことが記憶にあると言う古老の話。
※成願寺に大きな沼があったという言い居伝え。
これらを綜合すると、太古において間人・岩木・竹野・宮一帯の田圃は、長年月の間に竹野川の砂土の累積した平野であると結論づけられる。
明治初年は竹野川は今よりずっと水深く、流れも速く船のゆききは自由にでき、間人村の百姓は川尻から間人田圃まで船で下肥を運んでおり、また江戸時代の金比羅詣りは舟で矢田橋上の多久神社の所まで行けたといわれている。

『丹後国竹野郡誌』深田部神社(黒部)
(同社調文書) 
社名原由深田部の名義社記に曰當地の近辺往古海原なりしが漸々潮水引き其跡深き沼田となる、其時の状況自然土地の地名となり此近辺総て深田と云ふ此地に創立せしを以て深田部神社と称するなり

『京都府の地名』志布比神社(大山)
 この神社には次のような伝承がある。
 大昔この付近の村々はみな高い山中にあり、竹野川の流域は海の底であったという。その頃大山(志布比神社の裏山)に神様がいて、海水を飲み干し田圃をつくろうと考え、一口飲むと中郡の、二口目に現弥栄町の、三口目に現丹後町の田圃が開かれた。しかし海水があまりに塩辛かったので飲み干すことがでさず、水溜りが残ってしまった。里の人々は神に感謝し、飲み残された水溜りの傍らに宮を建てた。この社がのちに式内志布比神社となり、里人たちは「しおほっさん」と称し崇敬した。水溜りは小さくなり、今では境内の一部にその跡が残るだけになったが、明治の初年頃までは水が溜っていて塩辛かったという。
人類史以前にさかのぼれば
『京都五億年の旅』
黒部に貝の化石
今から二十年ほど前、弥栄町黒部の農協の前庭を広げるため崖を切り取っていますと、粘土層からたくさんの貝がちがでてきました。ここは海岸から七キロメートルも上流なのです。
こんなところから海にすむ貝がらが見つかったことは珍らしく不思議なことでした。近所の小・中学校の生徒は盛んに貝化石の採取をしました。丹後の小・中学校の理科担当の先生方で作っていた奥丹後地質鉱物研究会は野外調査をし、ここの貝化石のことをはじめておおやけにしました。
 崖は高さが八メートルで貝がらは一番下の一・五メートルぐらいの粘土層に含まれていました。この中からは、マガキ、サルボウ、アサリなど四十五種の貝やクロマツの毬菜などがみつかっています。この地層は溝谷(みぞたに)あたりまで続いています。かつて弥栄盆地には湾口の狭い久美浜湾のような海が入りこんでいたのです。
 カモノアシガキという貝もたくさん見つかっています。この貝は台湾やフィリピンなど暖かい海にすむものですので、この海は今よりもっと暖かかったことでしょう。そして海は地層の厚さからして、かなり長い期間続いていたようですが、やがて竹野川が運んでくる土砂で埋められてしまいました。
古竹野潟湖
氷河期と間氷河期の海進と海退だけでは説明できないのではなかろうか。50メートル以上も海面を押し上げるほども地球規模の温暖化があったとも考えられず、やはり当地に隆起があったと思われる。

そこで、もし40メートル沈下したならば、こうなるの海岸線である。日本海側海岸のテラスの隆起量はもっとある場所もあり、もし丹後半島が一様に隆起していたなら、その隆起以前はこうした状態ではにかったか→
(緑色は50メートル)

ここまでであったかはどうかとして、古くはずっと奥まで入り込んでいて、大田南古墳群の時代は、その直下までは潟湖でなかったかと考えられる、青龍三年鏡の頃はあのあたりに港があったのではなかろうか。
何かの巨大な地殻の力で丹後半島が裂けて生まれたと思われる巨大な谷で、この延長線は加悦谷になるのだが、それもどんどん埋まり横穴の時代になると当社一帯だけの潟湖に縮小していたのではなかろうか。
これを川と見るか海と見るか、それで河岸段丘としたり、海岸段丘と見たりするのだろうが、この入り江の周囲は段丘が残されている。
詳しくはボーリングして調べてもらいたい。


潟湖があったというだけではこれだけの発展はない、海運業と右から左への卸問屋業だけで、この地産の高価な交換商品がなければ、豊かな富は手に入らない。農産物や海産物はカサは大きいが金額がはらない。水晶玉や金属ではなかっただろうか。
私はこの時代は金属生産と見る。海の鬼も山の鬼も悪者ではなく、実はこの地の発展と富を築いてくれたものではなかっただろうか。
舞鶴のオニも大江山のオニも最後は当社へ逃れる、当社こそが丹後のオニの本拠地でなかっただろうか。
富は額に汗し手にタコして働く者からのみ得られるもので、資本や国や親王とやらが生み出したりはしない。かつて当社祭礼は霜月丑の日に行われ、鬼神塚(牧ノ谷)に詣でて鬼神たちに感謝した。オニが滅びたとき丹後もまた滅びたのであった。アメさんやテッポーやゼニやらカジノやらアホらしいものの崇拝はもうええかげんでやめよう、そうしたものはいくらあっても国が豊かになったりはしない、まじめに働く者に対するまじめな手当をまじめにやろう、国を滅ぼしたくなくば、国を豊かにしたければそれしかない、現在でも忘れてはなるまい塚である。
鬼神塚
竹野神社には支社がないようである、しかし斎神社というのはあちこちに見られて、舞鶴にもあるし若狭にも結構見られる、綾部にもあるが、はたして当社の支社かは不明である。
桜井サンは舞鶴にもあるが、当社家の別れかも不明である。

こうしたことで古くは確かな史料がない。
「三代実録」元慶元年十二月廿九日乙未条に、「授丹後国正六位上竹野山伎神従五位下」とあり、これが当社のことという。
「延喜式」に、丹後国竹野郡  竹野(タカノノ)神社(大)

以後の主な史料は下段に引いたので参照して下さい。
江戸時代には宮津・出石両藩の歴代藩主の崇敬も受けたといわれるが、とくに漁師などから丹後の明神として崇信された。遠く隠岐国から神馬が当社に奉納され、神馬が倒れるごとに奉納は繰り返されたという。海のすぐ近く社だからもちろん漁師の神社でもある。社家の桜井家は現在58代目という。



テンキテンキ
「道の駅てんきてんき」「てんきてんき村」とか河口には「てんきてんき橋」があるが、そのテンキテンキとは、この伝統民俗芸能のかけ声から採られたものである。
コエカケ、コエカケ、ハジメヨウ。テンキテンキ、ヒヨリヨイサ
てんきてんき
(坂根正喜写真集『心のふるさと丹後Ⅱ』より↑)
漁師の村らしい予祝のかけ声のようだが、黒部や船木の踊子と同じ流れに立つ中世的な囃子物で、風流踊の古態を示すものといわれる。太鼓1とササラ4で囃しながら小学生の子達が踊ってくれるものだが、大山や遠下にも同様なものは伝わるというが私はまだ見たことがない。中郡や竹野郡の神社の祭礼は、みな同じ日(今は10月の第2日曜日)で、同じ時間帯だから、見たくても都合がつかないのである。
当社の栞に、
竹野テンキテンキとは、竹野区に伝えられる郷土芸能で、10月10日の竹野神社の祭礼に演じられるもので、テンキテンキの名称は、子供たちが掛ける声、『コエカケ、コエカケハジメヨウ。テンキテンキ、ヒヨリヨイサ』に由来するものです。
 この芸能は、竹野集落の子供たちによって伝承されており、構成は太鼓持ち1人、太鼓打ち1人、ササラ4人の合計6人で演じられます。きわめて素朴なものですが、風流囃子物の古い形をのこす芸能として、資料的な価値の高いもので、京都府登録文化財に指定されています。
テンキテンキは竹野区のもので、少子化の中で近頃ではこの6名の小学生の確保が難しい。
竹野区は70戸ばかりありますが、小学生は3名だけです、中学生を入れたりしてやってきましたが、もうダメですわ、できなくなって3年ばかりになります。
とにかく結婚してもらわないことにはどうにもなりません。この村にもそうした年頃のもんは何人もおるんです、40ナンボとか、そんなのがけっこうおるんです。うごきません、どういうのか積極性がない、ナニからナニまでこちらで段取りしないことには自分からは動きません。それに以前は世話焼きのデシャバリばぁーさんとかいましたが、この頃はなにやかにやと難しい、すぐ離婚したりしますんで、世話焼く人もなくなりました。ここから丹後が始まったなどと言われる歴史ある村ですが、それがそうなんです。
地方は土壇場へ来た。それを象徴するような話である、別に結婚しようと積極的に動かない未婚者が悪いわけではない、そうさせてしまっている政治や社会こそが問題なのであるが、これは政府やそれにベッタリの自治体やエライさんなどにまかせていてどうなるものでもない、彼らにやらせていたのではますます悪くなるだけであろう。このオッちゃんもそう言っていた。
あきらめたら終わる、自分の村なのだからそこの村人自らでやるより確かな手がない、ひとつひとつ自信を取り戻していくより手がない。
そうしたことで、漁船で海の案内をされているとか、そこでカップルを作るのだそうである。ネットを見て来られるようで、なかなか若い人達に人気があるとのことであった。
ずっと昔だが、たぶんここからだったと思うが釣り船に乗せてもらいイカを釣った記憶があるが、このごろはイカやタコではなく、釣り上げようとするエモノが違うようである。いいエモノを釣れよ。





《交通》



竹野神社の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
一 近沢保  三町二段二百七十歩内
  二段百四十四歩    竹野社御神領
  一町四段百卅六歩     近沢
  八段百八十歩       伊佐次郎
  五段百八十歩       楠田肥前
  四段           脇田八郎

一 竹野社  二町三段二百四十歩    御神領

「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」
正二位 竹野明神

『丹哥府志』
【竹野神社】(延喜式)
本社二間四面、社の右に小社あり麻呂子皇子を祭る、本社の正面に石灯篭一対、石階十級を下りて拝殿あり、拝殿の左右に回廊あり(右に神輿を納め左に絵馬をかける)回廊より起りて社の左右前後に塀を廻らす、塀の左右に門あり、回廊の前に石灯篭一対、末社三座、末社の前に石階九級を下りて狛犬一対、石灯篭一対、右より末社一座、左に手水鉢並に石灯篭あり、其正面に華表及反橋あり、橋の右に下馬札あり、下馬札の傍に石灯篭一基、石灯篭の左に社司桜井氏の宅あり(末社の内に丸田の社といふあり、是桜井氏大祖なり昔麻呂子皇子に随従して夷賊を誅戮す、今桜井氏は其子孫なり)桜井氏の宅の前より道を挟みて松樹左右に連る凡五丁余、其間に華表二基あり。社記曰。推古天皇の御宇加佐郡三上の嶽に?古、軽足、土車といふ三人のもの多く凶徒を集め人民を害す、於是天皇麻呂子皇子に命じて是を征伐せしむ(麻呂子皇子は用明天皇第三の皇子、母は葛城直磐村の女なり、異母兄を厩戸皇子といふ所謂聖徳太子なり、母を穴穂部間人皇后といふ竹野村の西間人村に由緒あり)其弟塩子、松枝の二皇子(皇子の弟に来目皇子殖栗皇子田目皇子茨田皇子の四皇子あり、今塩干松枝といふは何れをさしていふや詳ならず)と同じく三上ケ嶽に向ふ、三上ケ嶽の凶徒遁れて竹野郡に走る、麻呂子皇子これを遂ふて遂に尽く殺す、蓋海賊なり俗に鬼と称す、国人これが為に窘めらる年久し、よって麻呂子皇子を斎宮(倭姫の斎き祭る天照太神の宮是なり)に合せ祭り北狄守護神と崇め奉る、今斎大明神といふ、祭二月初午九月十日。其祭の日神輿三体を舁ぎ出し、右先を争ふて並木の間を行く、其先に御旅所あり、還る時には各列を正し静に歌ふて云、斎宮祭り、トテ、ヤヨカエリソーロ、ケイニモソーロ、ヒルニモソーロ、其太鼓の拍子テンキテンキテンキヒヨリヒヨリサツサ
愚按ずるに、麻呂子皇子三上ケ嶽の夷賊征伐の事国史に載せず、然れども皇子は征新羅将軍なり、推古帝卅四年春三月より雨降らず、秋七月に至りて天下大に飢へ盗賊蜂起すといふ(日本史)是を以て考ふれば国俗の伝ふる所未だ據るべきにあらず。
【斎女】神啓蒙云。熊野郡市場村に斎宮の者あり、女子生るる時は飛箭来りて屋上に立つ其子四五歳の頃より斎の宮に奉る、これを斎女と称す、既にして高山深谷の中に独り禽獣と居る敢て畏るる事なし、其天癸を見るに及ぶ頃大蛇出でて眼を瞋らす、是時宮を致して故郷に還る。
【神馬】隠岐の国島前といふ所に渡辺助蔵といふ若者あり此守より神馬を奉る、神馬斃るる時は又重ねて神馬を奉る、古より今に相続して始終如此なり、始め神馬を奉る時奉丹後国竹野郡斎宮といふ札を馬に付けて先づ伯耆の国へ渡す、夫より宿々相送りて斎宮に至る。
【幟竿】丹波天田郡野花に小田孫八郎といふ者あり、祭礼に用ゆる幟竿の竿其者より年々奉る。
蔵宝
一、鎧 二領(出図)。一、横笛 二管。
【奥院】斎宮の後山を中か尾といふ、其上に小祠あり斎宮の奥院といふ、土人畏れて妄に登らず独り斎女のみのぼるといふ何の事なりや。

『丹哥府志』
【鬼神塚】(祭十一月中の丑)
昔麻呂子皇子の誅戮せられたる夷賊の墓なり俗に鬼神塚といふ、凡十五六も處々に散乱してあり、昔は四五尺斗りある石の擬法師に似たるものを其墓に建てたり、まづ五輪ともいふべきものなり、今半は地に埋れて壹ツ残る、其損じたるによりて近世新に石を建て鬼神塚と刻す。其祭の次第異風なる事なり、始め竹野村の下社家といふもの卅六人斎戒沐浴して祭の前夜より清浄の家を撰み竹野村に篭る、翌日相與に宮村に来り社司桜井氏と同じく牧の谷へ行き於是呪文をあげる、世の人其祭り與る人に見らるる時は三年の内に命終るとて一人も其祭を見るものなし、其夜の夜半に及ぶ頃社司一人従者一人本社へ参り米を洗ふて飯を焚く、其飯の熱する頃従者本社より退き其跡に於て社司如何する事を知らず、社司も亦如何する事をいはず、よって世間其次第を知る者なし、或は云、飯に砂を半交ぜて背手にて之を神前に供す、既に供して直ちに帰る、其帰る頃其飯を食ふ者ありといふ、其夜奇怪の事ありとて日の暮より家の戸を鎖して一人も戸外に出る者なし、昔凶賊の此辺に徘徊せし時の余風其祭り残りて斯様の次第なりや、如何の謂をしらず。

『田辺府志』
斎大明神
斎大明神の由来前段麻呂子親王鬼賊退治の處につぶさに記せり。齋大明神といふ事は同国熊野郡市場村の中に神につかふる家あり、女子を生る時神箭飛ゆきて彼家の棟に立たり、四五歳の時宮におくり奉る山中たれども獣もやぶる事なし、成長して交接の心生する時大蛇出て眼を瞋らかす、其時郷に帰る、是を齋女といふなり、此斎女ある宮ゆへに世人齋大明神といふなり。

『宮津府志』
今曰斎宮大明神。祭神二座伊勢両宮と同。社人・桜井内匠頭
…又斎宮ト號スルハ熊野郡市場村ニ斎官之人有女子を生メバ則チ飛箭屋上ニ立ツ也。其ノ子四五歳之時当宮ニ奉リ斎女ト為也。山中深林之中ニ獨リ禽獣ト同居シテ敢テ畏怖スルコト無シ。若シ長シテ天癸(月経)至リ或ハ交接之情生スルニ及テハ即チ大蛇出現シテキキトシテ(雷鳴のとどろくがごとく)眼ヲ瞋ラス是時ニ及テ官ヲ致シテ郷里ニ還ル 以上神社啓蒙)…田辺府志曰、麿子親王当国の凶賊を平治し、天照太神の宝殿を造営勧請し伊勢の斎女に相准し熊野郡の中より士姓を撰び少女を斎女に奉る、側に別宮あり是麿子親王の社也。
 按に麿子親王今俗に金丸親王と云、人皇三十二代用明天皇第三の皇子(一曰第二)母は葛城直磐村の女広子厩戸皇子別腹の弟也、親王は当麻氏の祖也和州当麻寺を再興せし当麻国見直人は此親王の孫也、親王の当国凶賊を征伐せし事田辺府志に載たり然共未だ国史を詳にせず。又親王の本祠は熊野郡市場村にありとぞ、今本社の左の方にある社是亦親王を祭るなり。又社人曰古代の神箭中古迄傳りしが百七八十年前当社回禄の災あり神箭宝器武具等悉く焼亡し今僅に鎧二領武器一二残れりとぞ。又当社の神馬は隠岐の国より献ずとなり、荷来る神馬死すれば隠岐の国より神馬を仕立て出雲の国へ渡し、夫れより散銭箱を附て放ち遣すに必滞る事なく当社に来るとなり。又祭禮に用ゆる旗竿丹波国天田郡野花村孫八郎と云者の方より送り遣す、六七寸周りの竹を根と共に掘たるもの也、古来は福知山川へ流し夫れより数十里海上を経て竹野浦へ漂ひ着くとなり、此野花村孫八郎家に故ありて麿子親王の武器を持傳ふ毎年六月丑の日に是を諸人に観せしむるとなり。

『丹後旧事記』
日本古事記に曰く若倭根子日子大毘毘尊(開化天皇)聚旦波大県主油碁理女竹野媛生御子此子由牟須美尊(一柱)旧事記に曰く竹野媛は垂仁天皇の御代迄も有仕遂年老形姿醜返於本土葛野地到の時輿より堕ちて身失ぬ玄旨法印説に曰く是を城州葛野の事に記せしは旧事記の誤り勅諚により随つて送来有当国葛野の地より返し静に竹野里の身失しなり此媛旧里に帰り大神宮を祭る、所謂竹野郡竹野里に竹野宮是也又此媛斎女となりけるに依て斎の宮とも云なり大県主油碁理は竹野里を国府となし館造し人也。

『大日本地名辞書』
【竹野(タカノノ)郷】和名抄、竹野郡竹野郷。○今竹野村八木゙村是なり、鳥取郷の北、竹野川の東畔なり。竹野神社は今竹野村大字宮に在り、斎宮と云ふ、竹野別の祖を祭る、開化紀に、皇子彦湯産隅命の生母を竹野媛と為し、其子を彦坐王とす、古事記には彦湯産隅命の異母弟、建豊波豆羅和気を以て「丹波之竹野別之祖也」と注す、国造本紀には、但遅麻国造は竹野君同祖彦坐王五世孫とありて、古事記の註と符合せず、此なる社は建波豆羅命にあらずして、彦湯産隅命なるべし、神社啓蒙宮津府志等に、竹野宮は麿子王の天照大神を祭れる所と為すは古義に合はず。
補【竹野宮】○宮津府志、神社啓蒙曰、所祭之神二座也、里民所謂斎宮是也、蓋有斎宮女子之故也、田辺府志曰、麻呂子親王当国之凶賊ほ平治して天照太神の宝殿を造営勧請し、伊勢の斎女に相准じ熊野郡の中より少女を斎女に奉る、側に別宮あり、是麻呂子親王の社也、又親王の本祠は熊野郡市場村にありとぞ、又当社の神馬は隠岐国より献ずとなり、有来る神馬死れば神の告あるにや、ほどなく隠岐の国より神馬を仕立て出雲の国へ渡し、夫より散銭箱を付て放ちつかはすに、必滞ことなく当社に来るとなり。○三代実録、元慶元年授位。

「丹後国式内神社取調書」
竹野神社
○今在竹野村称大齋大明神 諸社一覧同 ○【古事記】開化天皇娶葛城之垂見宿禰之女?比売生御子建豊波豆羅和気云々丹波之竹野別等之祖
【三実】元慶元年十二月廿九日乙未授丹後国正六位上竹野山伎神従五位下【和爾雅】竹野村所祭二座与伊勢両宮同【宮津志】斎宮神社在竹野郡竹野村称竹野神社【三才】同和爾雅又云当国熊野郡市場村人如産女則?四五歳爲斎宮以奉仕於神雖深夜獨坐無敢怖畏徐成長至見月水忽大蛇出遂之因不得居自此還已家与新女相交代也【覈】竹野村ニマス今齋宮ト称ス【明紳】宮村祭日九月十日【道】竹野宮村齋宮大明神ト云【豊】宮村字宮谷九月十日【式考】竹野宮村竹野神社ハ祭神建豊波豆羅別命ニテ齋宮ハ天照大神ヲ祭リタルナリ其ハ古事記ニ豊波豆羅和気命者着道守臣海部造御名部造稲羽忍海部丹波之竹野別依網之阿毘古等之祖トアリ其外俗民ニアル雑類ニ此命トアリテ疑ナキコト也斎宮ハ竹野媛ヲ主ト祭リシナラント 吉岡氏ノ考 云レタルハ非ニテ竹野媛ノ私ニ天照大神ヲ祭リ玉ヘルナラン【道】竹野宮村鎮座齋大明神ト云古事記開化天皇條ニ娶且波之大縣主由碁理之女竹野比売生御子比古由牟須美命マタ建豊波豆羅和気王者丹波竹野別祖也トアリ此地名始メテコゝニ出タリ扨テ社後ノ山ニ鬼穴トモ鬼トモ云アリ毎年十月丑日鬼祭アリ神官櫻井氏齋戒シテ神供ヲ櫃ニ盛リ家僕ト二人荷ヒ背口退キニ穴ニ入リ其マゝ背口ヲ見ズシテ出ルナリ其夜ハ鬼出ルヨトアリトテ婦人小児又穢レ有ルモノハ他村ヘ行一宿シテ帰ルナリ他人ヲ宿スルコト能ハズ其故ハ摩利子親王鬼神退治シ玉シトキ一鬼ヲ此穴ニ封ジコノ一年一度ノ祭リヲ許シ玉フ是レヲ鬼祭ト云トゾ池臣考フルニ摩利子親王トハ彦坐王ノコトナリ古事記ニ日子坐王者遣旦波国人之殺玖賀耳御笠トモヱタリ鬼ハ玖賀耳之御笠霊ナリ日本紀ニハ丹波道主命遣丹波国以詔之曰若有不受敢乃挙兵伐之トアリ世ニ云四道将軍ノ一人ナリ然レドモ此国ヘ降リ玉ヒシハ道主命ニハアラズ彦坐王ナルニ紛レナシ如何トナレバ丹波ニ住坐ス故ニ云フコトナリ郡ニテ生レ都ニ住シ玉テ丹波某トハ云ベキヨシナシ始メテ下リ玉ヒシハ道主命ニ疑ヒナシ扨テ摩利子親王ヲ用明天皇第三皇子母ハ葛城眞磐村ノ女広子厩戸皇子別腹ノ弟ナリ親王ハ当麻氏祖ナリ云々ナド云ハ取ニ足ラヌ作説ナリ又親王廟熊野郡市場村ニアルト云ヘルハ妙見ト云社カ又坂井村ニ御陵明神ト云アリ若シクハ是カ考フベシ。又神社啓蒙マタ和訓栞等ニ熊野郡市場村齋宮ノ人アリ、女子ヲ産メパ則チ飛箭来テ屋上ニ立ナリ其子四五歳ノ時当社ニ奉ル呼テ斎女トナス。山中深林ノ中ニ於テ獨禽獣ト同居ス敢テ恐怖ナシ若シ及長或ハ交接ノ情生レバ大蛇出現シテ爬々トシテ瞑目是時ニ致官郷里ニ帰ルトアリ巳其事トモ知人ナシ按ルニ此社ヲ齋大明神ト云ニヨリテノ作説ナルベシ。又何時ヨリト云コト不知隠岐国ヨリ駒一匹奉ルナリ此ハ今ニ不絶)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)

『丹後国竹野郡誌』
竹野神社 郷社  字宮小字宮谷鎮座
 (延喜式) 丹後国竹野郡  竹野(タカノノ)神社(大)
 (社 記)  祭神  天照皇太神
 (丹後舊事記)
  竹野神社  神主嶋左京  竹野村
          長官櫻井甲斐守  従五位下六代
   祭神  天照皇太神宮
      末社 齋大明神
 此所ハ開化天皇治メタマフ天下御代、丹波大縣主由碁理之府跡也、天照皇太神宮奉祝事ハ崇神天皇六年乙丑秋九月豊鋤入姫天照太神及ヒ草薙剣ヲ加佐郡奉移シ、大縣主由碁理奉神供領貢ぐ奉捧皇太神宮ニ六年ヲ経テ国ヲ移替ヘ給フ 此時豊鋤入姫有テ詫宣而此神供領以分宮與奉神也
 摂社  齋宮神社
  祭 神  日子坐王命 建豊波豆良和気命 竹野媛命
(神記) 齊女(イツキノオニ)者、大縣主由碁理ノ女、竹野比売始トス、此比売垂仁天皇宮仕年老テ皈本土ニ天照皇太神奉祭、此比売以奉齋大明神崇
(三代実録) 元慶元年十二月二十九日乙未授丹後国正六位上竹野神山岐神従五位下
 (考按) 竹野神は竹野神社にして山伎神は摂社なる齋宮神社を出伎と害し出の字を誤りて山伎と書きしならん、然らされば延喜式其他にも社名及地名なきを以て考ふればなり、然れども竹野神社は祭神天照皇太神、齋宮神社は齋女竹野媛を祀りたりとすれば、所謂主従の神に仝位階を授けらるゝこと如何、要するにいつきの宮祭神は猶豊鋤入姫などなるべきか国史に徴証なければ確ならざれど斯く仝位階を授けられ或は摂社に奉祀せらるゝなど高貴の御方なるべし
(古事記) 若倭根子大毘々命由春曰之伊邪河宮治天下也、此天皇娶丹波之大縣主由基理女竹野比売 生御子比古田牟須美命云々
(大八洲記、神名帳考証、古事記)
 開化天皇娶葛城之垂見宿蒲之女ワシ比売生御子建豊波豆羅和気王ヲ王者丹波ノ竹野別之租也、今在竹野村齋宮大明神と称す
(丹後風土記) 當国青葉山中に有土蜘曰陸耳之御笠と者而、状無人民故日子坐王勅来りて伐之云々以来国人挙りて治平の神と称し崇敬し奉る
(丹哥府志) 竹野神社 延喜式
 本社二間四面本社の右に小社あり麻呂子皇子を祭る、本社の正面に石燈籠一対石階十級を下りて拝殿あり、拝殿の左右に回廊あり(右に神輿を納め左に絵馬をかける)回廊より起りて社の左右前後に塀を環らす、塀の左右に門あり回廊の前に石燈籠一対末社三座末社の前に石階九級を下りて駒犬一封石燈籠一封右より末社一座左に手水鉢并に石燈籠あり、其正面に華表及石橋あり、橋の右に下馬札あり下馬札の傍に石燈篭一基石燈籠の左に社司櫻井氏の宅あり、(末社の内に丸田の社といふあり虚櫻井氏大祖なり、昔麻呂子皇子に随従して夷賊を誅戮す今桜井氏は其子孫なり)櫻井氏の宅の前より道を挟みて松樹左右に連る凡五丁餘其間に華表二基あり、社記曰推古天皇の御宇加佐郡三上の嶽に?《私注・魚編に覃》古(ルビ・エノコ)軽足土車といふ三人のもの多く凶徒を集め人民を害す、於是天息麻呂子皇子に命してこれを征伐せしむ(麻呂子皇子は用明天皇第三の皇子母は葛城直磐村の女なり、異母兄を厩戸皇子といふ所謂聖徳太子なり、母を穴穂部間人皇后といふ竹野郡の西間人村に由緒あり)其弟塩干松枝の二皇子(皇子の弟に来日皇子殖栗皇子田目皇子茨田皇子の四子あり今塩干松枝といふは何れを指していふや詳ならず)と同しく三上か嶽に向ふ、三上か嶽の凶徒遁れて竹野郡に走る麻呂子皇子これを逐ふて遂に盡く段す蓋海賊なり俗に鬼と称す、国人これか爲に窘らる年既に久しよって麻呂子皇子を齊宮(倭姫の齊祭る天照太神の宮是なり)に合せ祭り北狄守護神と崇め奉る今齋大明神といふ、(祭二月初午九月十日)其祭の日神輿三体を舁き出し右先を争ふて並木の間を行く其先に御旅所あり(還る時には各列を正し静かに歌ふて云齊宮祭リトテ、ヤヨカエリソーロ、ケイ モソーロ、ヒルニモソーロ。其太鼓の拍子、テンキ、テンキテンキヒヨリヒヨリ、サツサ愚按するに麻呂子皇子三上か嶽の夷賊を征伐する事国史に載せす然共皇子は征新羅将軍なり推古帝三十四年春三月より爾降らす秋七月に至り天下大に飢へ盗賊蜂起すといふ(日本史)是を以て考ふれば国俗の伝ふる處根依なきにあらず
齋 女
神社啓蒙云熊野郡市場村に齋宮の者あり女子生るゝ時は飛箭来り屋上に立其子四五歳の頃より齋ノ宮に奉る、これを齋女と称す既にして高山深谷の中に獨り禽獣と居る敢て畏るゝ事なし其天癸智見るに及ふ項大蛇出てゝ眼を瞋らす、是時宮を致して郷里に還る
神 馬
隠岐国鳥前(トリゼン)といふ處に渡辺助蔵といふものあり此者より神馬を奉る、神馬斃るゝ時は又重て神馬を奉る、古より今に相続して始終如此なり、始め神馬を奉る時奉納丹後国竹野郡齋宮といふ札を馬に付けてまづ伯耆の園江渡す夫より宿々相送りて齋宮に至る
(神職櫻井氏寄書) 竹野神社と隠岐国渡辺氏との関係
 隠岐は魚獲物に富み魚類海草類を各地に輸出し殊に間人村漁民の隠岐へ出漁せるもの多く間人港との船舶往来繁く交通早くより開けたり、竹野神社は丹後ノ明神と称す航海者の崇敬厚く、渡辺氏は牧場を多く有する富豪なれば隠岐島民の崇敬社として自然崇敬上の関係ならん、現在にても隠岐船舶の間人へ入港するもの参拝せさるはなし
    神馬を献せられたる寄附状の写
 寄附状は桐箱入にして神馬に負はしめ献せられたるも今其寄附状保存発見せす左に寄附状入箱を記す
     隠州鴫前崎村  渡 辺 助 蔵
御 神 馬 寄 附 書 入
  文政二卯六月十三日

幟竿
丹波天田郡野花村に小田孫八郎といふものあり、祭礼に用ゆる幟竿の竿其者より年々奉る
  蔵  寶
一鐙   二領  出図略之
一横 笛 ニ管
 奥 院
 齊宮の後山を中か尾といふ其上に小祠あり齊宮の奥院といふ、土人畏れで敢て登らず獨り齋女のみのほるといふ、何の事なりや
(同社調沿革) 當社は国史に明かなる社にして延喜式、神明帳に大の社に列し遠近の崇拝者多く殊に武将の保護又は宮津出石舊藩主の崇敬ありて寄進物現存せり、又代官等も均しく崇敬せられし著名の社なり、然るに規模広大なる本社摂末社寶蔵諸建物及社司の宅をも享禄三年十月二日夜火災に罹り爲に悉く焼失せしを以て仮普請宮なりしが、文政十三年三月現今の社殿を建造せり、依て當社の古文書は漸く寛文以後のものを保存せり、明治四年五月郷社に列し、明治四十年三月一日京都府告示第八十四號を以て、明治三十九年四月勅命第九十六號に依り神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せられ、往古より陰暦九月十日の例祭日を制規の手続を経て陽暦十月十日に改定す
 境内神社
  門齋神社   祭神  櫛磐間戸神
  伊豆神社   仝   社司桜井氏の組
  稲荷神社   仝   宇賀能魂神
  十二神社   仝   伊奘冊神
  厳嶋神社   仝   市杵島姫神
  上神明神社  仝   天照皇大神
  下神明神社  仝   豊受姫神
  大社      仝   大国主神
  野々宮神社  仝   野槌神
  愛宕神社   仝   火産霊神
  矢崎神社   仝   宇賀能魂神
               稚御産霊神
               保食神

境内反別一町二反四畝四歩
 内訳  本社 竹野神社境内 六反七畝二六歩
     末社 矢崎神社境内 五反六畝八歩
沿 革
 舊境内は拾町三反八畝二十九歩なりしが明治維新廃藩置県地券改正の際に元豊岡県より舊境内の調査あり其後明治九年京都府の所管となり仝府より舊境内を実測せし結果左の如く
定められたり
  竹野郡竹野村  竹野神社
  境内外区別実測図 但縮尺二千四百分ノ一
  舊境内反別拾町三反八畝二十九歩
  此内訳現境内反別一町二反四畝四歩
    上地反別九町一反四畝二十五歩
 此内上地道敷反別二反四畝十八歩右は明治十八年五月京都府より実測し、現境内と上地との区別を確認せる実測図を當社へ下附せられたり
基本財産山林反別八町十七歩
沿 革
 舊境内は拾町三反八畝二十九歩なりしが明治維新廃藩置県地券改正の際に元豊岡県より舊境内の調査あり其後明治九年京都府の所管となり仝府より舊境内を実測せし結果左の如く
定められたり
  竹野郡竹野村  竹野神社
  境内外区別実測図 但縮尺二千四百分ノ一
  舊境内反別拾町三反八畝二十九歩
  此内訳現境内反別一町二反四畝四歩
    上地反別九町一反四畝二十五歩
 此内上地道敷反別二反四畝十八歩右は明治十八年五月京都府より実測し、現境内と上地との区別を確認せる実測図を當社へ下附せられたり
基本財産山林反別八町十七歩
沿 革
 該山林は古来竹野神社所有の舊境内にして中古の変遷を経て、明治三年廃藩置県の際太政官の公布により現境内を除くの外一般上地被仰出、則地券改正の前舊豊岡県より調査あり、明治九年京都府へ管轄移り仝府より実測の結果明治十八半五月仝府地埋係より実測図面下附ありて、上地国有林に編入せられたり、其後法律第九十九號を以て国有上地森林原野払戻法発布せられ、明治三十三年一月廿五日付を以て社司桜井家広及氏子総代より該法律により払戻の申請をなせしに、明治三十五年十二月八日付農商務大臣より社司櫻井信治外氏子総代三名宛明治三十三年一月廿五日付申請国有森林下戻の件聞届け難き旨を指令せられたり、然るに明治三十二年八月農商務省令第廿六號国有林野及産物売払規則及仝省令第二十七號不要存置国有林野売払規則並に特買心得発布あり、仝三十四年十二月大阪大林区署員宮部氏及郡書記出張の上実測せしを以て、社司氏子総代及隣地主立会ひたり、明治三十六年十一月十四日付大阪大林区署節廿七回不要存置国有林野特売掲示中福第二三五號丹後国竹野郡竹野村大字宮字宮ノ谷二四七番国有林上地林実測面積八町十七歩及産物共特売の旨ありたり、依て仝三十六年十二月一日付を社司氏子総代より大阪大林区署長宛払下出願をなし、仝三十七年二月二十六日付払下願聞届られ仝年三月二十四日代金納付四月二十日土地並産物引譲を受く、此時代金支出の方法に困難を来したるを以て神職氏子総代協議をなし、総代たる坂根時太郎氏の斡旋により中郡峰山町吉村伊助氏より払受代金の全部金額五百圓の寄付を清け茲に竹野神社の基本財産となる田反別四反五畝三歩
成立及沿革
 宝暦六年公儀より取調を受けたる際に答申せし社司櫻井家の控書に慶長七年九月五日羽柴修理大夫御代検地の上竹野の大明神へ寄進せらると、寛文八年代官猪飼治良兵衛殿宮村免状村高之内高四石九斗八升五合社付引寄進状あり、爾来代々城主及代官より寄進状ありて、明治三年に至る迄前記租税石高寄進ありしが、地券改正の當時より當社所有田反別四反五畝三歩と確定す


神職櫻井氏
 (丹哥府志)(上略)社司櫻井氏の宅あり、末社の内に丸田の社といふあり是櫻井氏の大祖なり
  昔麿子皇子に随従して夷威を誅戮す、今櫻井氏は其子孫なり、
 (丹後旧事記) 竹野神社  神主 嶋 左 京
               長官 櫻井甲斐守 徒五位下六代
(系譜)
略)

『丹後町史』
竹野神社 竹野字宮
天照皇大神を祭る。
摂社 斎宮神社には日子坐王命、建豊波豆良和気命、竹野媛を祭る。
この里は古代から朝廷に関係深く、人皇九代開化天皇(前一五八)の御宇、丹波大県主由碁理の府跡であり、由碁理の女竹野姫は開化天皇のお妃であったが、年老いて郷里竹野に帰り、天照大神を斎き祀ったことから斎宮神社として知られている。
延喜式内社竹野郡十四座の中、大一座の社格をもち、社記によれば第三十一代用明天皇(五八七)の第三皇子麻呂子親王が推古天皇の御宇に勅命を受けて加佐郡三上山の賊を亡ぼし北狭の守護神として崇められ、此の社に祀られている。建豊波豆羅和気王、日子坐王お二方は開化天阜の皇子であり、日子坐王は丹波道主命(四道将軍)の父君にあたる。
祭は二月初午・十月十日に行われ、秋祭には神輿三体がかつぎ出され、テンキテンキ等の行事が行われる。室町時代は武将の保護あつく、江戸時代も歴代の宮津・出石藩主と久美浜代官の武士の崇敬厚く寄進物もあった。また「丹後明神」として遠近の崇拝者多く隠岐の国の渡辺助蔵の神馬の献納、丹波野花村孫八郎の幟竿奉納のことなど記録されている。
丹後国諸庄郷保惣田数帳によると社領二反百四十四歩とあり、宝暦六年(一七六五)四反五畝となっている。
本社、摂社、末社、宝蔵諸建物及社司の宅は享禄三年(一五三〇)十月二日夜火災に罹り悉く焼失した。
文政十三年(一八三〇)三月現在の社殿を再建した。明治四年(一八七一)五月郷社に列し明治四十年(一九〇七)神饌幣帛料を供進する神社に指定され、さらに、昭和六年九月十六府社に昇格した。
境内には門斎神社(祭神 櫛磐間戸神)、伊豆神社(祭神 大国主命、社司櫻井氏の祖)、稲荷神社(祭神 宇賀能魂神)、十二神社(祭神 伊奘冊神)、厳嶋神社(祭神 市杵島姫神)、上神明神社(祭神 天照皇大神)、下神明神社(祭神 豊受姫神)、大社(祭神 大国主命)、野々宮神社(祭神 野槌神)、愛宕神社(祭神 火産霊神()、矢崎神社(祭神 宇賀能魂神 稚産令神 保食神)の十一社がある。
境内に丸田社があり、麻呂子親王従軍した、桜井氏の体操祭る。今の桜井氏はその子孫である。現在の宮司、桜井利通氏は、桜井家神職五十八代目の当主である。
初午祭。竹馬レースがメーンイベントとか↓
初午祭14
初午祭14
2月の初午と言えば、伏見稲荷の伝承に、秦公伊呂具が稲荷の神を初めて祀った日と伝えられ、この日は各地の稲荷神社でも祭が行なわれているという。京都府警の騎馬隊も来ているが、その馬はともかくも、馬(午)はマのこと、マの本当の意味はどこかに書いたのでここでは触れないが、ここでは溶鉱炉(の溶けた鉄が出てくる穴)を意味している。三日三晩火を焚き続けて炉内には鉄が出来、マのフタを開くと初めてマから溶けた鉄が流れ出る日という意味と思われ、竹野神が製鉄鍜冶神だった名残の祭礼と思われる。稲荷神も製鉄神の性格をもっていて、能には三条小鍜冶宗近が稲荷明神の力に助けられ、宝刀・小狐丸を鍛えたというストーリの曲もあるそう。


『丹後路の史跡めぐり』
竹野の里
竹野は竹野郡の語源ともなり、但馬にも竹野があるが、ここは「たかの」とよむ。しかしその昔は「たかぬ」であったらしい。
 丹波大県主由碁理(ゆごり)の娘竹野媛は開化天皇の妃となったが、年老いて郷里へ帰り天照大神を祀ったのが竹野神社だという。この時開化天皇の皇子建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)が共に帰って竹野を治めており、これが竹野別(たけのわけ)の祖である。竹野別は大和朝廷の忠実な協力者であった。
 竹野神社は斉宮(いつきのみや)ともいい、近在の崇敬篤い社で土地の人は「いっつきさん」とよんでいる。熊野郡市場村より斉女を入れ、神馬は隠岐国から入れるという。 国難の際は、境内から白羽の矢が飛び出すと言い伝えられている。社宝に麿古親王の具足二領、用明天皇の草笛一巻があり、宮司桜井氏は親王の従者であったという。社殿の右には麿古親王の別宮がある。
 竹野神社の後には前方後円二段造りの神明山の大古墳がある。全長一五一メートル、前方部径六五メートル、高さ十三メートルで、その形式内様とも奈良平城にある日葉酢媛と陵と同じといわれる。したがって丹波道主命か建豊波豆羅和気王の墓ではないかといわれている。このあたりを国主というが、なにかわけがありそうである。全墳葺石(ふきいし)でおおわれ、弥生式土器、香盒、坩形石製品、枕形石製品、円筒埴輪(へらで舟の絵が画いてある)、家形埴輪、銅器、鏡、経筒などが出ている。大正十二年三月七日史跡に指定された。
 近くの竹野小学校の校庭の隅に発見された土産山(うぶすなやま)古墳からは、大正十三年六月、鏡、玉類、鉄製武具、工具、木弓、毛髪の残る埴輪製の枕、長持形石棺が発掘されており、昭和三二年史跡に指定され、また道をへだてた大成台地からは十数基の石室が発見されていて、この地方の古さを物語っている。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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