丹後の地名

口大野(くちおおの)
京丹後市大宮町口大野


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京都府京丹後市大宮町口大野

京都府中郡大宮町口大野

京都府中郡口大野村





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口大野の概要


《口大野の概要》



「丹後大宮駅」がある地区で、以前の中郡大宮町役場もあった町の中心地である。
丹後大宮駅
「和名抄」や「丹後国田数帳」に見える丹波郡大野郷の地で、嘉吉・文安の頃、天変によって口大野・奥大野に分かれたといわれる。「丹後国御檀家帳」には「大野御城 成吉藤重郎殿城主也」と記される。間人街道などの幾つかの重要街道が当地を通り、郡内一の交通の要衝であった。中世後期には大野城・大野別城に成吉氏が陣居し、また、大野神社の地は豊臣秀吉に取り立てられた大野道犬(修理亮)の城跡という。
近世の口大野村は、江戸期〜明治22年の村名。大野村ともいう。
はじめ宮津藩領、元和8年以降、一部が峰山藩領の越石となって、宮津・峰山両藩に分属し、宮津藩領分高679石余・戸数約200、峰山藩領分高107石余・戸数42。この間、寛文6〜9年と延宝8年〜天和元年の両度、全村幕府領の期間がある。明治4年、宮津藩領分は宮津県、豊岡県を経て、峰山藩領分は峰山県、豊岡県を経て、同9年いずれも京都府に所属。同22年大野村の一部となるが、同25年分離して旧に復し、単独で自治体を形成した。
近代の口大野村は、明治25年〜昭和26年の自治体。大正14年宮津線丹後山田〜峰山間の運輸営業開始に伴い、口大野駅(昭和38年丹後大宮駅と改称)設置。同26年大宮町の大字となる。
口大野は、昭和26年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《口大野の人口・世帯数》 2467・849



《主な社寺など》

小池墳墓群・古墳群
通り古墳群・経塚
清漬墳墓群・古墳群
裾谷遺跡

大野神社
大野神社(口大野)
大野城をそのまま境内にしているため、ずいぶんと広い。
式内社大野神社は竹野郡の項に記されていて、以前の竹野郡丹後町中浜に「大野神社」があるため、ここ中郡口大野の大野神社とは論社になっている。また「丹哥府志」は、「【大野神社】(延喜式)大野神社今若一王子権現と称す、祭七月廿日」と記して奥大野の若宮神社を比定している。丹波は古い丹波王国の中心と見られていて、丹波郡は何か古くからのものと見られているが、そうでもないとする見方もあるようで、そもそも丹波郡の成立や範囲の確定がややこしいようである。
『丹後旧事記』は、「此国分国なるが故に神社の郡違い多し国造以後の事を不知して撰集なしたる延喜式の誤なり或は大野の神社多久の神社揆枳の神社を竹野郡とし三重の神社を與謝郡に出せし也是皆丹波国の神なり。」
また宮津府志は、「也足軒説曰、旦波国の内加佐・与佐・竹野・熊野の四郡を割き新郡を立て丹波郡と名付く、此五郡を丹後国と云なり、此国分国なるが故に神社の郡違多し、国造以後のことを知らずして撰集なしたる延喜式は大野の神社、多久神社、揆枳神社を竹野郡とし、三重の神社を与佐郡に出せし類なり、是皆丹波郡の神社也」とする。
しかし加佐郡はここまでは広くはなかったろうし多久神社は丹波郡に記されている。丹波道主命とか丹波河上摩須郎女や旦波大県主などに見える「丹波」はどうなのか。これらはずいぶんと古く広い範囲を呼ぶ地名だったと思われ後の新郡の名ではなかろうと思われ、後に加上されたとも見えないのである。
三重やあるいは木積、それに癸枳は郡界の移動があったものと見ていいと思うが、大野神社はそうとは思えない位置にあって、竹野郡に記載された神社を名が同じだからといって、その式内社に比定しようというのは牽強付会的ヤバイ説と私には思える、そうしたことを言い出せばどこのどんな神社でも、郡違いです、国違いです、名の書き違いですと、すべてが式内社だと言えることになってしまうと考えるのだが…。

『大宮町誌』
大野神社(元村社)口大野小字城山
祭神 保食神・大荒田別神・熊野十二神・野槌神
 式内社であり、延喜式には大野神社を竹野郡一四座の中に記されているが郡の誤りである。上記の祭神は明治一七年三月の「中郡神社明細帳」によると、熊野十二神は、小字十二社に鎮座していた十二社権現であり、古来法華経勧請の権現である。野槌の神は、野の神で小字岡野宮に鎮座の岡明神の祭神で、この二神を土地の神として併せ祀ったものである。大荒田別神は大野朝臣の祖であり、丹後町中浜の大野神社もこの神を祭神としている。中郡の式内社は豊受大神一神を祀るので、当社もまた保食神(豊受大神)を祀っている。
 当地は、古くから日蓮宗の信仰の厚いところで、同宗の守護神の三十番神を尊崇し、出生・冠婚などのすべてを旦那寺でおこなってきたので、明治の初めまで、産土神が荒廃したままになっていた。口大野村の発生の地は、小字谷川の地でありここに荒廃のままになっていた「岡野宮」が、大野神社の本地であることが明らかになった。この谷川の地は、古くから「谷川千軒」と呼ばれていた所で、水利、地形、出土品、古墳群などにより大きな集落のあったことが知られる。この地が荒廃したのは、嘉吉三年(一四四三)の大洪水であるといわれ、同社が衰微したのは天正七年(一五七九)(七月−一○月)の細川・一色両氏の争乱によるといわれている。鎮守跡地にある、大正一一年三月建立「大野神社旧跡」の碑文がそれを伝えている。
 寛文九年(一六六九)岡野宮を再建、明治五年(一八七二)に村の中央の由緒のある城山の現境内の地を開いて移し、同六年二月一○日村社に指定され、例祭は八月一六日である。同一二年一○月現本殿に遷座、同一八年八月拝殿を新築した。昭和二年三月七日丹後大地震に、当地は激震地であったが社殿は損傷のみであった。紀元二六○○年(昭和一五年、西暦一九四○年)記念事業として、本殿周囲玉垣・祝詞舎・拝殿・神饌所・社務所・楽舎を新築し、同一五年一○月九日落成式を挙行、同四三年九月本殿の修理、続いて同四六年一○月に、遷座百年記念事業として境内の整備を行った。
 神職 島谷旻夫(兼)(周枳大宮売神社神職)
 例祭は中郡内統一している一○月一○日となり、神輿・太刀振りとこどもの楽打ちが、区内を練り歩いて
盛大である。
 明治三八年(一九○五)から中郡一円、一○月一○日を秋の例祭に統一したという。(峰山郷土史丹波村記録)


大野神社跡 口大野小字谷川岡の宮大野神社
 跡は谷川の入口の丘の上に位置し二三坪の境内に記念碑が建てられ、碑の高さは二m四○p、幅三○pで次のように刻まれている。

 大野神社旧蹟  大正十一年三月
    大社教管長出雲宿弥千家尊愛敬書
 大野神社は原大野村字岡の宮に鎮座せしが天正年間一色氏の兵燹に罹り社頭荒廃し為に叢祠も湮滅し去らむとす。依って氏子相計り地を城山に相し神殿を造営し明治十二年十月遷座を請ひ敬神の意を表す。記念の為此に建碑す。
 口大野は中古より日蓮宗が中心となり神社は次第に忘れられ、子供の出生や結婚などにも旦那寺の常徳寺において事をすませ、神社は次第に荒廃した。明治初頭、新政府の命によって村には必ず村社を有し、これに信仰を帰一させる方策が取られたため、神霊を迎えて大野神社を建立したのである。明治五年三月四日岡の宮より城山に遷座し、同六年村社として認可を得、ついで右の碑文のように明治一二年一○月正式に城山に遷座を請い今日に至っている。

『中郡誌槁』
大野神社
(延喜式)竹野郡 大野神社
(丹後旧事記)大野神社 祭神宇気持神 延喜式小社
神伝日本紀神代巻宇気持神伝に大野原に向ひしかはとあるを以て神名を定む此社は丹波郡大野村なり延喜式の相違なり(延喜式竹野郡にかくる以てかく云ふなり)往昔丹波郡与謝郡竹野郡の二郡なる故式に此違多く見へたり
(村誌)大野神社社地(東西二十間南北十間)面積二百坪、延喜式神名社なり本村中央にあり、祭神大荒田別命祭日陰暦八月十六日
(実地聞書)此社祭神以前は宇気持神なりしを維新後宮津の大原実氏の説によりて今の祭神としたるなりと云又今の社地は古城山にして村の西北に当り字岡の宮と称する地当社の元地なりと言伝ふ、延喜式は大野神社を竹野郡に置き丹哥府志は奥大野村若一王子を大野社とす何れにしても延喜式の誤とすべき歟但し旧事記末段の説の如き隣接の地には郡界の変更あるたる如なれども大野村にまでも及びしとは信じがたし
(丹波丹後式内神社取調書)竹野郡大野神社、(姓録)大野朝臣豊城入彦四世孫大荒田別命之後也○(和名抄)丹波郡に大野あり
 頭注(?)中郡峯山(覈)丹波郡奥大野村口大野村尋ぬべし(明細)中浜村又峯山町(考案記)郡違ひにはあれど丹波郡口大野村十二神社境内岡野社に相違なし(道)大野村(丹波郡)(式考)同上さて此村の人民中古より日蓮宗となりて神社には少も心掛けず故に児生るとまつ旦那寺へ初参りも正月元日最初に寺参り其他娶聲の悦びごと等総て旦那寺にて事を済し神社はあるのみ祭りも名ばかりにて無きが如し既に御復古来人民に守礼を渡すときに此村人民は氏神はなしとまで答ひし程の事なり故に大野神社は衰廃しめ字を岡野と云処に小祠と也て存するのみ中古来法華勧請の十二所大権現を土地の氏神と称せしはいとものの畏き事にて悲しき事の極みなりされども村老の口伝には尊ま古き社のよし申伝またまれには古帳などに大野大明神とあるは尊き事なりけり(豊)口大野村(今丹波郡)祭神大荒田別命(九月二十五日)


大野城。今の大野神社の地(小字城山)にあったという。↓
城主は卸檀家帳では成吉藤重郎となっている。その後「大野村大野修理亮」(丹後旧事記)が居城し、「丹哥府志」は大野の地について、豊臣秀吉に仕えた大野修理亮(治長)の本貫地であったと記す。
大野神社参道入口

現地の案内板
大野城址
 当地は、豊臣家の部将大野治長、父道犬ら、大野一族の出生地である。
 天正一七年(一五八九)豊臣秀吉は大野道犬の武功と、その妻大蔵局が淀君の乳母であった労に報い、和泉佐野と当大野で壱万石余を与え、当地に居城を築き、文禄元年征韓の役に出陣し勇名を轟かした。
 元和元年大坂夏の陣において、道犬の子、治長、治房らは豊臣秀頼、淀君母子を守り、家康との大軍と戦ったが、武運つたなく一族すべて豊臣家に殉じた。  大宮町

『大宮町誌』
大野城   口野小字城山
 城趾は城山の村社大野神社の境内である。およそ三段の台地から成り、最も高い本丸の台地は東西四二m南北二五mの阜丘で大野神社本殿を奉祀する。本丸と次の二の丸との段差は高さ一○〜一三mあり、三方崖をなし西側は全面切りたった十数mの崖である。二の丸の広場は東西三三m、南北四七mあり、三の丸との段差は約一○m、西北の隅に稲荷神社を祀っている。三の丸にあたる所は二段の小台地をなし、いずれも高さ二mの段差があり、東側の平地に続いている。三方に道を造るなどして相当に変ってはいるが、古城の原型は残されている。井戸の趾は大井(だいじょう)稲荷の北側の麓にあったという。城主は天文年中(一五四〇)までは成吉藤重一郎等成吉氏であったが、滅亡後慶長(一六○○)の頃は大野修理等大野一族の館であったと考えられる。
 (御檀家帳) (天文年中著) 大野御城 成吉藤重郎殿城主也
 (丹後旧事記)(天明〜文化著)大野城大野修理亮
 宮津府志に曰く大阪に仕へし大野が父なりといふ。又慶長の頃まで大野が領地なりといふ。今も宮津領巡見あれば右の由申上る。一説大野が父は此村の土民なりけるが、当国の海賊に組し有けるを強勇の聞え有とて太閣秀吉未だ筑前守なりける時呼出し家士になし玉ふと伝ふ。又天文年中此城に藤十郎居せりと勢州福井が檀家帳に見えたり。
 なお、「丹後旧事記」に「大野村別城成吉加賀守」とあり、その別城は山崎という説があるが、山崎には城墟と見られる所はなく、経塚および古墳の跡のみ存在している。したがって大野城主は天文頃は成吉氏、ついで大野氏であったと思われる。「宮津府志」によればその後京極侯の代に大野館に山荘が設けられたという。

『中郡誌槁』
(御檀家帳)
一大野御城  成吉藤重郎殿城主也
(村誌)成吉三右衛門城跡字山崎本村北の方にあり馬場の跡と云所もあり一色氏の麾下にして天正中細川の為めに亡滅す当今小前持林に属す
(丹後旧事記)大野村別城  成吉加賀守
 按、成吉の姓は田数帳三重郷大野郷倉垣庄等に散見す郡内の一名族なりしなり
(丹後旧事記)大野村  大野修理亮
宮津府志曰大坂に有し大野が父なりと云又慶長の頃迄大野が領地なりと云伝ふ当代将軍家の巡見に宮津領主右の由書上一説に大野が父は此村の土民なりしが強勇の余り浅茂川の海賊にくみしける頃秀吉公未だ羽柴筑前守といふ頃召抱へられ家士となり後朝鮮国の戦に軍功人に勝れけるは世に鬼修理と呼れけるとなり(丹哥府志同文)
(村誌)大野道犬の城跡字城山本村の中央にあり此地を鑿つもの兵具を得るもありしと云天正の頃迄一色の幕下にして本村の守護なりしに細川氏一色を攻亡せしとき道犬逃去り後ち関白豊臣秀吉公に仕へしと云
(実地聞書)此大野氏の城趾は即ち今大野神社のある所なりと云

大野城


日蓮宗京要法寺末薬王山常徳寺
大野神社の裏側にある。天和2年の丹後国寺社帳に名がみえる。明治6年には本堂の一部を教場として小学校が開設されたといい、また同8年創設の天橋義塾の影響で同13年9月択善(たくぜん)会が結成され、このお寺が自由民権運動の一拠点にもなっていたといわれる。
常徳寺(口大野)

『大宮町誌』
薬王山常徳寺 日蓮本宗(京都要法寺) 口大野小字谷間
 本尊 大曼荼羅
 美濃国(岐阜県)斉藤家の家臣小牧頼秀の長子義秀は、慶長元年(一五九六)に奥大野長福寺九世日悟師に仕え、出家得道して修業の後一○世を継承して日来と称した。この日来上人が元和五年(一六一九)に、口大野の城の腰(現西地大池付近)に庵室を築いて移ったのが当山の開創である。
 寛永一九年(一六四三)二世日通師の代、日来上人の一子小牧助太夫の次男助左衛門が薬師谷の地(現敷地)を提供したので、伽藍を建立し薬王山常徳寺と称した。元文五年(一七四○)三月、一○世日円師が寺院の形を整えて本堂、庫裡、正門(今日に残るものではない)を造営して面目を一新した。
 二一世日然帥の天保七年(一八三六)晩秋、正門・三十番神堂を残して本堂・庫裡等を火災で失い、本尊は難を免れたが、古文書、古記録等ことごとくが焼失した。同一二年(一八四一)八月、本堂・庫裡を新築完成し寺運を興隆した。
 昭和二年三月九日の丹後大地震には、堂舎すべてが倒壊したが山門のみが残った。同年八月に庫裡を、同三年に宝蔵を新築、五年九月三十番神堂、九年四月一四日本堂を再建落成、二八代日証師の代である。同五五年八月本堂の大改修(屋根茸替)を行い、同年九月書院を新築した。
 当寺は日蓮本宗の名刹として、一六代日立上人を始め、四人の師が本山要法寺の血脈を継承している。常徳寺は創建の際より一村一ヶ寺として、深い信仰を受け、「常徳寺復興誌」によると、「昔、口大野村には神社を有しなかったが、明治初年政府の命令に依って(中略)村社「大野神社」を建立した(中略)それ以前は、神は常徳寺の三十番神を仰いで毎年一一月一五日には盛大な式典を挙げ(後略)」とある。
 現住職 原 智功
 山門 文政三年(一八二○)七月二六日建立、天保七年の火災を免れ昭和八年一○月修理をする。
 梵鐘 正徳六年(一七一六)鋳造、宝暦一四年(一七六四)改鋳 昭和一八年三月大東亜戦争に供出、同二二年一一月二三日再鋳した。
 寺宝 日蓮上人曼陀羅二・日蓮上人消息二・日興上人曼荼羅二・日蓮上人画像(堀江友声筆)

『中郡誌槁』
常徳寺
(丹哥府志)薬王山常徳寺(日蓮宗)
(峯山明細記)一日蓮宗但宮津御領(京要法寺末寺)薬王山常徳寺
境内居舗長三十間幅十五間 寺 客殿四間に七間半 堂七間に六間 鐘二尺三寸
(村誌)常徳寺(東西四十間南北十五間)面積六百七十三坪(日蓮宗勝劣興門派西京)要法寺末
本村の西の方にあり僧実行院日来開基元和五(巳未)三月創立
寺跡
(実地聞書)村の中央より稍北によりたる高地字山崎に寺跡あり村老伝へて「コウゾウ」寺といふ寺ありたりと云「コゾウ」谷といふ字もあり又南の方に字寺谷としふあり是も亦寺跡なりと云



《交通》



《産業》




口大野の主な歴史記録


『丹後国諸荘郷保惣田数帳』
丹波郡大野郷
一 大野郷  廿四町一段内
  一町一段         一宮御経料所
  六町九十歩        慈徳院殿
  六町九十歩        斎藤三良左衛門
  六町九十歩        菊阿弥
  四町九段百廿六歩     羽太兵庫助

『丹後国御檀家帳』
一大野御城  成吉藤重郎殿 城主也

『丹哥府志』
◎大野村(善王寺村の次、是より姫御前村を経て峰山へ出る、是處に岐路あり、左は宮津街道右は加悦谷道なり)
【十二所権現】
【薬王山常徳寺】(日蓮宗)
【おふの河原】河多能大野といふは大和の国なり。丹後の大野は神代の巻に、宇気持神の月読尊に教る言葉に大野に向ひしかばとあるにならひ、大宮売の神領を大野といふ。
新古今 五月雨に大野河原の真菰草  かくてや波の下の朽らん (入道前太政大臣)
【大野修理亮之城墟】
大野修理亮父を大野修理といふ、豊臣秀吉公の羽柴筑前守なりし頃召されて大阪に仕ふ、朝鮮征伐の時鬼修理と呼ばるるは蓋し此卿也。

『中郡誌稿』
(村誌)現今の村位より西北に当り大野谷川と申所に一千有余の人戸ありて本村の元郷なりと云其後変更し方今の地位となる

(村誌)大野河原本村の北方にあり往古人戸一千有余ありし所嘉吉年中大地震ありて山抜し人戸悉く破却し今の本村へ移りしと云此地まこも草の産ありて云々

『京丹後市の考古資料』(図も)
小池古墳群・墳墓(こいけこふんぐん・ふんぼ)

所在地:大宮町口大野小字余部、善王寺小字赤坂
立 地:竹野川中流域左岸丘陵上
時代:弥生時代中期(墳墓)、
   古墳時代前期〜後期(古墳)
調査年次:1983年(大宮町教委)
現 状:調査範囲は消滅(老人福祉施設)
遣物保管:市教委
文  献:B025
遺構
 小池古墳群は、標高50〜60mの丘陵上に分布する。眼下には、縄文〜室町時代の管外遺跡(193)が展開する。古墳群は、立地からA〜F支群に細分され、87基が数えられている。発掘調査が実施されたのは、B支群の13基であり、うち2基は弥生時代中期の貼石墓であることが判明している。
 B支群は、溝で区画された地山整形の方墳(1〜3、10号墳)、丘陵高所側を半円状の溝で区画する円墳または階段状の古墳(4〜9、11号墳)が見られる。規模は、いずれも一辺10m前後の小をなものである。埋葬施設は、1、3、4号墳が2基、ほかは1基検出されている。11号墳北西側の丘陵には、丘陵高所側を長楕円形に削平した平坦面上に埋葬施設を設ける土坑墓群が展開する。また11号墳南西側の丘陵斜面では、同様に平坦面を造成した土器棺墓が検出されている。
 小池墳墓(12、13号墓)は、11号墳から北西側へ派生する斜面側のみに貼石をもつ方形貼石墓である。13号墓からは、組合式木棺2基が検出されている。
遺物
 古墳群からは、須虚器杯、甕、壷、ハソウ、土師器小型丸底壺、器台、杯、高杯、椀、壷、甕、甑、竈形土製品、鉄刀、銑鏃、刀子、鉄鎌、鉄斧が出土している。2、7号墳出土の須恵器ハソウは、TK208型式に属するものであり、当地域でも古い部類に属するもので、陶邑窯からの搬入品とされる。また8号墳出土の皮袋入刀子は、蕨手刀子の系譜に属すると報告される。墳墓からは弥生土器壷が出土している。
意義
 小池古墳群B支群は、出土遣物から見て、古墳時代前期末葉〜中期前葉に位置付けられる北西側丘陵の土坑墓群、土器棺墓の造営を契機として、中期前葉〜中葉の2〜4、6、7号墳が続き、5世紀後葉〜6世紀前葉に造墓を終了する。土壙墓群は、小規模な平坦面に埋葬施設を設けるものであり、丹後地域の墓制の中では末端に位置づけられる。当該期の墓制のあり方を見る上で貴重なものと言える。また古墳群は、小規模な首長基でありながら陶邑窯からの搬入品を出土している点が特筆できる。
 12、13号墓は、弥生時代中期の丹後地域に見られる貼石墓である。貼石墓は、集落に近接して営まれることが多いが、奈具岡墳墓とともに集落から離れた丘陵上に立地する小型墳墓の事例として評価できる また当古墳群の発掘調査は、丹後地域における古式群集墳の本格的な最初の調査事例として特記できるものである。

『京丹後市の考古資料』(図も)
清漬古墳群・墳墓(せいつけこふんぐん・ふんぼ)

所在地:大宮町口大野小字清漬
親 地:竹野川中流域左岸丘陵上
時 代:古墳時代中期(古墳)、弥生時代後期(墳墓)
調査年次:1998年(大宮町教委)現状:消滅(土取)
遣物保管:市教委 文献:B089
遺構
 清漬古墳群は、独立丘陵上に分布する26基からなる古墳群である。丘陵先端部に位置する5〜8号墳の発塀調査が行われている。
 5号墳は、溝により区画された径7mを測る円墳である。埋葬施設は確認できなかった。7号墳は、径19m、高2.5mを測る円墳である。墳丘は、盛土により造成されている。盗掘坑のたの、埋葬施設は確認できなかった。8号墳は、7号墳の南西に位置し、溝により区画された円墳である。墳丘南側では埴輪列が確認されている。中央部には、組合式木棺直葬と思われる埋葬施設を1基検出している。清漬6号墓は、5号墳と7号墳の間の鞍部に面する階段状の弥生墳墓である場 6基の埋葬施設があり、出土遣物から弥生時代後期後葉のものと考えられる。
遣物
 5号墳は、区画溝より須恵器ハソウ、土師器が出土している。7号墳は、墳丘上より須恵器杯、無蓋高杯、ハソウ、甕のほか、型式不明の鋲留甲冑、鉄地金銅張方形金具、三環鈴が出土している。8号墳は、埋葬施設上面より須恵器ハソウ、区画溝より須恵器杯、墳丘南側より円筒埴輪、朝顔形埴輪が出土している。円筒埴輪は無黒斑のものである。また朝顔形埴輪は、丹後地域で初めて確認された須恵質のものである。
 6号墓では、墓壙内破砕土器供献または墓壙上破砕の弥生土器甕、台付鉢のほか5号墳と61号墓間の丘陵鞍部より台付壷が出土している。
意義
 清漬古墳群は、出土遣物から、離湖古墳(111)に併行または若干後出する5世紀中葉〜後葉の有力古墳群である。7号墳は埋葬施設の構造が不明なものの鋲留甲冑や三環鈴を副葬しており、8号墳は南側のみで確認されているが埴輪列を有する。いずれも径20m前後の小規模古墳ではあるが、副葬品の内容や埴輪を有する点に特徴が見られ、当該期の首長墓の一形態を知る上で貴重なものと評価できる。

『京丹後市の考古資料』(図も)
通り古墳群・経塚(とおりこふんぐん・きょうづか)
所在地:大宮町口大野小字通り
立 地:竹野川中流域左岸丘陵上
時 代:古墳時代前期(古墳)、鎌倉時代(経塚)
調査年次:1991年(府センター)
現  状:消滅(国営農地)
遺物保管;府センター
文  献:C087
遺構
 通り古墳群は、標高約90mの丘陵上に立地する古墳時代前期末に築造された3基の古墳群である。1号墳は径28m、高3.5mを測る地山整形の円墳である。組合式箱形木棺を直葬する埋葬施設が1基検出されている。2号墳は、径20m、高2mを測る地山整形の円墳である。組合式箱形木棺を直葬する埋葬施設2基、土器棺墓1基が検出された。3号墳は、14×8mを測る階段状の古墳である。組合式箱形木棺およびU字底の木棺を直葬する埋葬施設2基が検出された。
 通り経塚は、1号墳墳頂部に重複して鎌倉時代に築造された2基の経塚である。いずれも上面の集石下層には楕円形の土壙が掘られ、土壙壁の一角に横穴を掘り、SX01に2点、SX02に3点の土師製筒形容器を埋納する(巻頭図版31 2)。横穴は石で塞がれている。また古墳群は、1927年に北丹後地震を起こした郷村断層に近接しており、地震に伴う地滑り痕が確認されている。
遺物
 1号墳では、木棺内より鉄製刀子、枕に転用された土師器鼓形器台が、墳丘より土師器器台、高杯、壷が出土している。2号墳では、第2主体部より土師器高林、ガラス勾玉、小玉、鉄製刀子が、第3主体部より枕に転用された土師器高杯、甕が出土している。3号墳では、第1主体部より土師器高杯、ガラス小玉、碧玉製管玉が、第2主体部より土師器壺、高杯が出土している。
意義
 本古墳群は、出土土器から見て4世紀後葉に築造されたものと思われる。丘陵最頂都の眺望がよい場所に立地する点や、地山整形ではあるものの径20mを測る規模の円墳である点から見て、集落内の有力者を葬った古墳群であると推定される。

『京丹後市の考古資料』
裾谷遺跡(すそだにいせき)

所在地:大宮町口大野小字裾谷
立 地:竹野川中流域左岸丘陵斜面
時 代:弥生時代後期〜奈良時代
調査年次:1993年(府教委)、1994年(府センター)
現 状:消滅(国営農地)
遺物保管:丹後郷士資料館、府センター
文 献:C099、C103
遺構
 裾谷追跡は、谷あいの丘陵斜面に営まれた集落遺構および埋葬遺構からなる遺跡である。弥生時代後期、古墳時代後期の住居跡などの遺構も検出されているが、多くの遺構は、7世紀から8世紀前半にかけてのものである。ここでは、この時期に限定して記す。
 遺跡は、現在の口大野集落の山側の谷部、丘陵裾に位置する。南東向きのゆるやかに内湾する丘陵斜面の3か所(B〜D地区)に平坦面を造り出し、竪穴住居跡や掘立柱建物跡などの住居に関する遺構と火葬骨を収める横穴や土壙を検出している。
 最も谷の出口に近いB地区では、丘陵斜面に張り付く3棟の竪穴住居跡を検出した。
 C地区は、調査前から、全長40m、奥行15mの三日月状の人工的な平坦面が観察された地点である。調査の結果、その平地面の上下にも帯状の平坦面を検出し、各平坦面から遺構を検出した。検出した遺構は、7基の竪穴住居跡、7棟の掘立柱建物跡および2基の横穴である(右上図参照)。遺構の分布した範囲は幅40m、奥行40mの範囲になる。下段で検出した古墳時代前期の竪穴住居跡1棟以外は、7世紀前半を前後する遺構と考えられている。
 最も谷奥のD地区では、全長20m、奥行2mの三日月状の平坦面から5棟の竪穴住居跡と2棟の掘立柱建物を検出した。火葬骨を埋葬する土壙も検出している。7世紀後半から8世紀前半の遺構が多い。
遺物
 土師器、須恵器および土製品が出土している。多くは、杯、椀、甕、壷、甑などの一般的な容器類である。左坂横穴墓など当該期の横穴墓出土資料と対比できる良好な資料である。なお、容器以外に動物形の土製品が出土している。猪形の土製品(5)以外に1号横穴から牛形土製品も出土している。
意義
 裾谷遺跡は、丹後地域の7〜8世紀の集落の一様相を知る貴重な資料である。当該期の墓制である横穴墓と同様な丘陵斜面に居住域を営んでいることが特徴的である。なお、同様な遺構群は近接するエノボ横穴(遺跡)でも検出されている。



現地の案内板


口大野(くちおおの)
□大野区はどんなところ?
 この看板ある建物は、大宮町になる前の口大野村役場の庁舎です。この地区は、昭和2年の丹後大震災のときに大きな被害を受けました。この旧口大野村役場庁舎は、震災後の昭和4年に建てられた洋風建築として国登録文化財となっています。付近には、昔の口大野郵便局や口大野小学校の体育館などの建物が残るほか、日本を代表するシュールレアリズム画家である小牧源太郎画伯の生家が残っています。この建物の背後を流れる水路は、江戸時代に用水路として造られた「新溝」と呼ばれるものです。
 「口大野」という地名は、平安時代こ編纂された『和名類従抄』という書物に記された「大野郷」がもとになっています。この地区視、管外遺跡(すげがいいせき)において縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。
 寺は、常徳寺(法華宗)があります。江戸時代後期の山門がある常徳寺には、正安2(1300)年の紙本墨書日興筆本尊曼荼羅と文安元(1444)年の紙本墨書日親筆本尊曼荼羅を所蔵しており、ともに大宮町指定書跡に指定されています。
 神社は、大野神社があります。大野神社は、もともと地区北部の通称「岡の宮」の地に鎮座していたと伝えており、明治時代に現地に遷座しています。なお現在の大野神社は、大野城跡に造られています。大野城は、豊臣秀頼に仕え大坂冬の陣・夏の陣で活躍した大野治長の父親または弟と伝える大野道犬居城と伝えています。

こんな伝説も
大入道
谷川千軒

口大野の小字一覧

『大宮町誌』より小字一覧
上河原 根久(ねっきゅう) 堂ノ窪 中河原 廻り田(かわりだ) 沖田 新溝ケ尻 溝ケ尻 四十田(しじゅうでん) 孫市(まごいち) 元り(もとり) 鯨(くじら) 家下(やした) 大道筋(だいどうすじ) 畑ケ田 三本木 大門(だいもん) 余ル部(あまるべ) 地蔵元 宅後田(たくごだ) 野添(のぞえ) 岡ノ堂 中村 小砂子(こさこ) 竪町(たてまち) 北垣 国城地(くにきじ) 錦 芋谷(いもだに) 西地 谷間 城山 杉ノ谷 岡 裾谷 戸ノ谷 寺ノ谷 古土井 小森山 通り 小通り 溝元(みぞさき) フカタ 山先 菅外(すげがい) 城山岸 十二社 御堀口(みほりぐち) 大野新田 清所(きよどころ) 谷川 比丘尼 砥石場 松原 大野谷 赤岸 太郎ケ谷 大野ケ首 池田 口池田 岡ノ宮 油谷(あぶらだに) 清漬(せいつけ) 大成典(おおなるでん) 奥堤 和田ノ谷 墓ケ鼻 ヱノボ 鯉首 尉ケ谷(じょうがたに) 南谷 長尾 岡ケ谷 ヱバシ 湯舟 北谷 山崎 荒神谷


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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