丹後の地名

河辺(こうべ)
京丹後市大宮町河辺



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京都府京丹後市大宮町河辺

京都府中郡大宮町河辺

京都府中郡河辺村





河辺の概要


《河辺の概要》

周枳の一つ北の集落。河部とも書いて、「和名抄」丹波郡神戸郷(高山寺本にはない)の遺名と伝え、大宮売神社の社領であったといわれる。
中世には、「かうべ」とあって、「丹後御檀家帳」に「一 かうべにて …」と見える。
近世の河部村は、江戸期〜明治22年の村名。宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。端郷に新町・大谷がある。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市制町村制により単独で自治体を形成した。
河辺村は、明治22年〜昭和26年の自治体。昭和26年大宮町の大字となる。平成16年から京丹後市の大字。

『和名抄』刊本に見える(高山寺本にはない)丹波郡神戸郷は、河辺の地だったかは不明である。明神大社の隣で「こうべ」の地名が残るため、この地だとする説もある、どうしても比定をするとれば、私もここだろうと考える。

《河辺の人口・世帯数》 1703・601

《主な社寺など》
今市墳墓群・古墳群
松田遺跡

河辺城・河辺別城

小字本城(ほんしろ)の河辺城跡は、今は皇大神社が鎮座する低い丘である↓。城主を三宅美作守と伝えるが、丹後国御檀家帳にいう「かうべ」の城主、一宮殿のおとな民部殿もまたここの城主とも考えられる。
小字黌野(こうの)にある河辺別城は低い丘陵状の山地の上にあって井戸も残っている。城主は小谷太郎とも三宅美作守ともいわれるが、確かなことはわからない。
皇大神社(河辺)

『大宮町誌』
河辺本城   河辺小字本城(ほんしろ)(皇大神社)
 皇大神社の境内で本丸・二の丸からなっている。本丸は縦三二m、横三○m余の丘阜になっており、中程に高さ一mの段差がある。本丸の上に神社の本殿を奉祀している。二の丸は平地になっているが、城の周囲を大谷川と溝川が流れていて平城の趣きがある。本丸と二の丸との段差はおよそ一○mの高さであり、本丸の周囲は切崖で囲まれている。
 城主は三宅美作守である。天正八年頃から日置城の日置弾正の客金山周防守が来て三宅美作守と同居していたが、天正一○年細川勢のために滅ぼされたという。
 (丹哥府志) 河辺村三宅美作城墟、三宅美作は一色松丸義昭公に従いて越路の敦賀へまかりし頃是に従ふ。新田義貞の末なり。黌野権現は英霊を祭る也といふ。
 (丹後旧事記) 河辺村 三宅美作守、日置落城の後金山周防守同居す。
 (村誌) 村の艮方字本城と称する丘に三宅美作守城嘘あり。
 三宅美作守は黌野山城と本城とともに城主となっているが、これは本城を屋敷として居住し、黌野城は有事の際の防備のために造営していたものと思われる。本城という名はそのことを物語って本(もと)の城の意であろう。

黌野城  河辺黌野山
 城趾は河辺の東南黌野山に在る。城は四段の台地よりなり東北より本丸・二の丸・三の丸と南西に延びている。本丸の北端には二○mの切り崖が認められる。本丸は縦二六m、横一九mの広さで、二の丸はその南西に続き縦一四m、横一七mの台地であり本丸との段差は二mある。三の丸はさらにその南西に延び縦一七m、横一九mの台地で二の丸との段差は同じく高さ二mである。二の丸・三の丸の西側に接して一段低く縦三四m、横一一mの台地があり、その中央に井戸がある。その直径は一mほどで深さは約八mある。城の南の端は高さ一五mの切り崖をなし、城の周囲は急傾斜の絶壁で囲まれている。昭和初年古井戸を浚った時小型の仏像が出て、それに「三光天子像」という銘があったという。なお、城の入口の傍に黌野神社跡があり石柱が立っている。
 城主は三宅美作守と伝える。

小谷城   河辺お城が谷(通称)
 城趾は大谷に通ずる道の西側に沿う後の谷と卒都婆谷との間の山の上に在る。山頂の本丸は広さ南北六○m、東西二七mあり中程に一mほどの段差がある。二の丸はその北に連なり六mに一○mほどの小さい台地をなし、本丸との間は高さ四mの切り崖になっている。二の丸はさらに北方に延びて南北二○m、東西八mの細長い山の鼻である。二の丸と三の九との段差は二mある。周囲は急斜面の山に囲まれているが、とくに東側の道路に沿う山は絶壁である。城の南端は高さ五m余の掘り割りになっており、その下は谷になっていて要害の城である。
 城主は小谷若狭守である。
 (峰山旧記) 河辺村小谷城趾、同村大谷に通ずる辺り御城が谷にあり。天正の頃小谷若狭守居すといふも終りを詳にせず。森本村左坂より右坂への中間山鼻、永禄七甲子二月建つる所の小谷対馬守念仏衆二十九人の供養塔あり。若狭守の先代、先々代なりや知らず。
 なお、橋木の縁城寺の過去帳に「妙春河辺小谷若狭守後室」とあり、この人は河辺小谷城主若狭守の後室に擬せられている。また、森本石の峠にある一大供養塔に小谷対馬守の銘があるので、河辺の小谷城主であろうという。詳細は不明であるが、この小谷一族は恐らく小谷城主であったと思われる。なお、この城跡から以前村人が五輪石塔を持ち帰って祟をうけたという話も伝えられている。

『中郡誌槁』
(丹後旧事記)神戸山城(一本には河部村) 三宅美作守
此三宅美作守は一色松丸義昭公を奉供りて越路の朝倉へまかりし頃随身したり新田義貞の末孫なり義道神戸城主と成し給ふ又日置(与謝郡なり)落城の後金山周防守(一本に一説浜五郎と有)同居す
(丹哥府志)河辺村、三宅美作城墟、……(前同文)黌野権現は其霊を祭るなりといふ
(村誌)村の艮方字本城ホンシロと称する丘に三宅美作守城墟あり東西四十五間南北三十間回字形をなす石壁遺濠等之れなく干支不詳但し井戸のみ存す
(実地聞書)荒田氏の談に黌野城の東南隣地に小杉城兵部谷等の字あり小杉某の居城兵部といふ者の住せし所と言伝ふと(小杉城は周枳村に属し同村にも異説あり参考すべし)又村の北方大谷に通する所かはらけ谷近地にお城ケ谷といふ所あり此所にも古城あり古き墓ありといひ甞て村民五輪石塔を此所より取り来りしに祟ありたりとて今は砕きて駐在所の燈台石となれり云々
 按、橋木縁城寺過去帖に妙春河辺小谷若狭後室とあり若しくは河辺村大谷城主なりしか

皇大神社
元は河辺城があった場所で、一等地ではなかろうか。村の各地にあった神社をここにすべて合祀したという。
皇大神社(河辺)

『大宮町誌』
皇大神社(元村社) 河辺小字本城
祭神 天照大日霊女命・大宮比売命
祭神の天照大日霊女命は天照大神であり、皇大神である。延徳年間(一四八九−一四九一)に、当村白葛(しらかずら)山の頂上に皇大神の小祠を建立して祀り、その後に白石を産する名山白石山に移し、その地の白石大明神とともに祀った。元禄二年(一六八九)に破損したので同九年八月に再建したと伝えられる。
 「峰山旧記」には、白石大明神の祭神を白石明神・太神宮・愛宕権現・大峰権現とし、「いずれも勧請年暦詳ならず祭九月二六日」とある。
 白石山の皇大神宮を天保元年(一八三○)に、小字千丈敷の地に遷座して、この地の小祠大宮比売命を併せ祀った。同地は「丹後旧事記」にいわれる大宮売神社の祭典の際の神供(しんぐ)宮でもあり、また、熊野新宮権現を祀っていたので、しんぐさんと呼ばれていた。
 神職 島谷旻夫(兼)(周枳大宮売神社神職)
 明治維新に皇大神社と称し、明治六年二月一○日村社となる。例祭は九月二六日であったが、その後一○月一○日となる。
 昭和二年秋、村の神社の総てを小字船山の地に合祀して皇大神社とした。合祀した神社は
 皇大神社 前記の千丈敷に鎮座の神社。
 熊野神社 前記の千丈敷の熊野新宮、例祭一○月一八日。
 白石神社 前一記の白石山に鎮座の白石神社・境内社の大峰神社・愛宕神社・大金神社。
  境内社の祭神は、大峰神社(勾大兄命・金山彦命)・愛宕神社(軻具土命)・大金神社(雄金命)
 黌野(こうの)神社 小守松田に鎮座して、豊受大神を祭神とする。「丹哥府志」に城主三宅美作守の霊を祀るというとある。白鬚大明神ともいう。例祭一一月九日。
 大木神社 小字松田谷、黌野神社の奥殿、例祭同前。
 その後間もなく、合祀した神社を、それぞれのもと地に戻し、皇大神社も千丈敷の地に遷座した。
 千丈敷の地が昭和一四年海軍用地となり峰山飛行場(その一部は現在丹後織物工業組合中央加工場の敷地)となったので、同年本城の現地に仮遷宮し、同時に前記の各神社も合祀した。その後社地を拡張し整備して、一九年一○月に壮大な社殿を新築落成した。
 当社境内の、「大神宮」の標柱は、千丈敷の旧地の鳥居を利用したもので、裏面に「宝暦一三年三月吉日」とあるのは、鳥居の建立の年月日であろう。境内入口南側の灯籠一基(明治二八年の銘)と社前の灯籠一対(安政四年の銘)はともに、千丈敷より移された。
 狛犬の一対(明治二七年の銘)と、東よりの参道の灯籠一対(元治元年の銘)は、松田の黌野神社の旧地のものである。
 境内入口の北側の「大神宮」灯籠(安政五年の銘)は、町道田古地線と府道間人大宮線の交叉点(小字市場路町)に設置していた常夜灯であったのを、移し据えたものである。
例祭一○月一○日の神事の太刀振りは勇壮である。

『中郡誌槁』
(村誌)皇大神社、無格社、社地、東西 間南北 間面積百七十一坪 本村の坤形にあり天照大日霊命大宮比売命を祀る祭日九月二十六日也
(実地調査)村民荒田氏曰河辺村高野神社は豊受大神にて大木神社は其奥院なりと言伝ふと大木の社は高野の北山手にあり又周枳の宮の氏子は余程西の方までなりしと見へ今河辺村の南田の字に太鼓田といふは其祭礼の式をなせし所ならんと言伝ふ前条旧事記の神戸里及周枳村参考すべし

『大宮町誌』
黌野(こうの)神社跡  河辺小字松田一二三二番地
 神社の跡は小字松田にあり昔は幸宮あるいは行宮とも書いた。昭和一四年本城の皇大神社に合祀される前は、西隣の松田一二三三番地の一の水田の所も境内で、その中に堀を作り橋をかけて参道が通じていた。
「峰山明細記」には「黌野明神上屋二間四面境内長二十一間、幅十九間程」とある。跡地は台帳では二○坪とあるが、実測すると南北二七m、東西七m程の二段に分れた屋敷である。祭神は白髭大明神である。昔は周枳大宮売神社の御旅所で、祭礼の時には物売が近在から集まり市が開かれたので附近を“今市”いっている。社跡には高さ約一mの石柱が建てられ「黌野神社旧蹟」とある。なお、小字松田の奥(松田一五六八番地)に大木神社があった。この社は黌野神社の奥の院と云い伝える。

新宮神社跡  河辺小字千丈敷四四六番地
 祭神は天照大神と大宮比売命および紀州熊野新宮大権現と伝え、天保年間白石山より遷座しその趾地は小字千丈敷で、以前は野中の森を形成していた。「峰山旧記」に「新宮権現同村田圃中にあり祭神紀州熊野新宮大権現」とある。戦時中の飛行場建設に伴い、大谷川が改修され整地が行われたので地形が変化し、その跡地は明らかではないが、現在の大宮バイパス十字路附近である。.

白石明神跡 河辺白石山
 神社跡は東風(こち)ヶ奥の白石山の頂に在り、白石明神・大神宮・愛宕権現・大峰権現が山上の道に並んで祀られていた。(峰山旧記)社殿はいずれも 「一間半四面」と「峰山明細記」に記している。


臨済宗天竜寺派全性寺末霊松山万休院
万休院(河辺)

旧境内地と伝える所は現在地から東北の山の尾で、その北に小字カワラケ谷がある。伝承ではもとの本尊は薬師仏で、祈願すれば耳疾に効験があるといわれ、土器に穴をうがち祈願したという。この習俗は現存いてして薬師仏は今も万休院にある。江戸時代には鎮守多羅(たら)明神社があった(峯山明細記)という。もと天台宗であったが曹洞宗に改宗し、再度臨済宗に改宗したという。

『大宮町誌』
霊松山万休院 臨済宗(天竜寺)  河辺小字茂手谷
 本尊 釈迦如来
 本院はもと天台宗であり長命山万休院と号し、茂手尾(もとお)山にあったといわれている。同山の尾根の通称寺屋敷という所はその旧跡であろう。
 延徳元年(一四八九)玉堂宝輪和尚が、廃寺になっていた同院を小字三郎右衛門に移し、寺院名を改めず曹洞宗に改宗して大いに復興に努めたので、同師を開山とする。
 三坂の菩提寺浄福寺は古くから曹洞宗として当院の末寺であったが、維持が困難であったので、本寺の近くに移りさらに合併したといわれる。この浄福寺の跡は本院の西側小字浄福寺の地である。なお、高泉寺という末寺があったと伝えられ、小字高泉寺の地名に名を残しているが年代などすべて明らかでない。
 八世黙雲和尚の明暦(一六五五−一六五七)のころ火災により焼失したので、九世崙山和尚は寛文八年(一六六八)に、現在の多羅の谷に仏殿を再建して移り、鎮守の修多羅(現修多羅堂)を勧請し、善王寺の三要寺を再興するなど中興開山と称される。
 峰山藩主三代京極高明は、元禄八年(一六九五)藩内のすべての曹洞宗の寺院を臨済宗に改宗させたので、本院は山号を霊松山と改め、臨済宗天竜寺派となる。それは一一世孔巌禅師の代であり、同師を同宗の始祖とする。前記の浄福寺は本寺の改宗の際に、本院を離れて周枳の曹洞宗周徳寺末となった。
 一四世湛水和尚本堂を再建し、一六世嵋山禅師庫裡を再建し現在にいたる。
 現住職 関谷大通
 境内に三界万霊塔(元禄一○年(一六九七))、供養塔(天保六年(一八三五))が建立されている。供養塔は天保の飢饉で、飢死や疫病死のこどもの供養のために建立されたという。
 当院に古瀬戸の茶壷(享禄四月(年)(一五三一)祖母懐)がある。
 〔境内仏堂〕
  秋葉堂
  鎮火の三尺坊権現を祭り四月一八日が祭日である。
  薬師堂
 もと当院の本尊であったと伝える薬師如来を、昭和一四年薬師堂を建立して祀る。
 なお、昭和一四年村社皇大神社を本城に遷座するに際して、その地の大師堂の弘法大師の像をも祀る。四月二一日の大師祭の当日はにぎやかである。
 修多羅堂
 本尊修多羅
 万休院が寛文八年(一六六八)現在の多羅の谷に、移転した際に地主神を鎮守として祭る。多羅谷大明神とも称していた。

『中郡誌槁』
(実地調査)本村にて家古きは寺は霊松山万休院にて火災にかかり什宝物を失ひたれども過去帳あり現今は村落の北にあれども其旧迹地と伝ふるものはそれより東北の山の尾にして其北に字「カハラケ谷」あり村民荒田嘉左衛門氏の話に元当寺の本尊は薬師にして祈願すれば耳疾に効験ありとて土器(かはらけ)に孔を穿ち祈請す此風今も伝はる蓋しかはらけ谷の地名は此土器より得たるならんと薬師仏は今猶寺に在り
万休院過去帳(文化二年写)
    当院歴代略記
前総持当院開山玉宝輪大和尚
夫レ当院起由ハ天台宗ニテ山上ニ有リ星霜頽廃而無人住于時師遊箇于此地少留錫廃院道俗帰焉遂援于村内古城山下?延徳元(巳酉)年也号長命山万休院者不改古号改宗旨為曹洞宗大震於道永正元(甲子)年九月十有三ニシテ八月十五日中夜示寂
当寺為開山矣又古伝に高泉寺蒸馥寺等有末寺云々(今も「ジョウフクジ」等の小字あり)(中略)前永平当院九世中興崙山祖崑大和尚
貞享元(甲子)年十月八日示寂也此師以寛文八年(戊申)新開墾此多羅之谷再建仏殿庫裡厨銭成梵鐘一口以充於上棟千僧供養之宿願亦側勒請地主号多羅谷神社永世為当山鎮守水木倶足境致亦広大実当山中興也(師亦再興三要寺)(多羅谷神社寺側にあり一品多羅谷大明神と称したりしを維新後「シタラ王」と改称すと云)(中略)
前住当山十一世孔巌昌碩大和尚(寛永五戊子年八月十五日)
師本州之人事崙山高弟蓋当院従開山玉堂大和尚至此師曹洞宗而則通玄禅師之派石屋和尚之末裔也転運先于此領主依願改臨済宗即于天竜寺故此師臨済宗始祖也然師本師於当山有大功故追尊本師崙山大和尚為本山大中興始祖以十月八日修開山忌亦追憶本師之所毎言改於山号霊?爾云
 按、峰山藩には曹洞宗なし是藩の干渉に據れりと此条の如き其例也
当院に備前焼の如き茶壷形の一瓷あり四耳を有し底銘銘ふり左の如し、古雅なり
景延上也 祖母懐 享禄四月下旬
荒田嘉左衛門氏の談に村の東北小字松田なる今白山社のある谷間には昔は松田千軒と称して千ケ寺ありしと言伝へ高泉寺泰知院法寿庵等の字ありて大寺存せしが如しと

日蓮宗本圀寺末宝林山妙徳寺
妙徳寺(河辺)

『大宮町誌』
宝林山妙徳寺 日蓮宗(身延久遠寺)  河辺小字三郎右衛門
 本尊 久遠の釈迦牟尼仏
 庵寺妙徳庵と称して創始されたと伝えられているが年代等不詳である。
 天正二年(一五七四)二月日詮上人が日蓮宗妙徳寺として開基する。一二世日巡師が福知山常照寺より来住、八五俵の田地を寄進するなど教権の確立と教化に努めたので、当山の中興の祖と称される。
 二二世日孝師の天保一四年(一八四三)より本堂の再建に着手し、二四世日真師の文久二作(一八六二)一一月二八日に落成、本山本圀寺四○世日妙上人より曼荼羅を授与された。
 昭和二年三月七日の丹後地震で本堂・庫裡が倒壊したので、翌三年同村滝野徳右衛門の浄財を基にし、現本堂・庫裡を再建した。現住職の同四九年に位牌堂の新築と本堂の大改修をする。
 後陽成天皇の筆と伝えられる「妙法蓮華経」の書がある。
 現住職 上田要祥
 〔境内仏堂〕
 番神堂
 日蓮宗守護神の三十番神の外、堂内に加藤清正・鬼子母神・妙見大士・七面天女・大黒天を祭る。
 昭和八年三月再建され、清正公祭として、七月二四日(現在は七月二○日過ぎの日曜日)の夜祭はにぎやかである。

浄土真宗本願寺派道樹山正覚寺
正覚寺(河辺)

『大宮町誌』
道樹山正覚寺 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 河辺小字寺坂
 本尊 阿弥陀如来
 寺伝によれば、江州高嶋郡に正覚寺と称して、近江源氏の末裔である佐々木近江守が開基し、比叡山の恵心僧都の作阿弥陀如来を本尊としたといわれる。
 寛永五年(一六二八)この正覚寺を、佐々木氏の末流の中西氏一族と共に、河辺村西ヶ鼻に移し草庵を創立した。この際当寺の守護神として、江州高島の白鬚明神も移し黌野山麓に奉祀したと伝えられる。江川の白鬚神社は長寿の神として、猿田彦命を祭神としている。
 寛永七年(一六三○)に西本願寺末として元の正覚寺の寺号を許され、道樹山正覚寺と称した。当寺の由来によると「開基 信明天文年中」とあり、「峰山旧事記」は釈正導を開山としている。
 元禄三年(一六九○)三月八日隣接の中西家と共に全焼し、相伝の仏具・武具・馬具・古記録等を残らず焼失した。再建の工を起し寺を現在の地に定め、元禄一五年(一七○三)一一月二八日に上棟した。寛永五年河辺村に移り再建までの経緯については、峰山町長岡の中西正善家の古文書にも詳記されている。
 十四世正因師の文政七年(一八二四)に、更に堂舎を再建し同九年四月上棟、一五世薩性師の嘉永五年(一八五二)正門を再建した。昭和二年三月七日丹後地震に、本堂が倒壊したので庫裡に内陣を設けて現在に至る。
 現住職 野川大卓
 半鐘に元文六年(一七四一)三月の銘がある。


松田千軒
村の東北小字松田に昔「松田千軒」があったと伝える。高泉寺・泰知院・法寿庵などの字名が伝承される(中郡誌稿)。
『大宮町誌』
松田谷の金の茶釜
 河辺の松田団地の奥の谷を松田の谷という。昔はこの辺一帯にたくさんの寺や民家があったといわれ「松田千軒」などと呼ばれた口碑がある。
 昔この谷間に庭園の一部らしい池があり「金の茶釜」と「金の鶏」が埋められているといわれていた。ある日、村の若衆十数人がこの宝物を掘り当てようと池のあたりを掘り起してみたが、それらしいものはなくその晩全員が発熱腹痛を訴え寝込んでしまったという。(河辺の口碑より)


河辺には大谷という端郷があったが、昭和40年集団離村した。

『大宮町誌』
大谷地区
 大谷は河辺の集落から北へ約五q離れた山里であるが歴史的なことについては詳らかでない。
「峰山明細記(中郡誌稿)によると
 「河辺村端郷二ヶ所 新町・大谷
  河辺村御高札場より峰山御高札場迄道法四十町二間、大谷御高札場より峰山御高札場迄三里十一町五十間」と誌されている。
 この辺境の地に集落ができたのは、河辺耕地のほとんどを潤す大谷川上流地域における山林の保護管理と新田開拓のためで、当時の長百姓・地侍級の数人が抽籤し、そのうちの「孫左衛門」という人が責任者と決められ、一族郎党を引きつれ入植したのが大谷の起源と伝えられている。
 なお、この事業については特に藩からのお墨付きもあって、その内容は入植の目的と、この地において如何に努力を払ってもなお生計に難渋した場合には新宮縄手(現在の三つ橋線府道沿い)の上田二○俵成りをつかわすとの捕償の字句がしたためられていたと伝えられている。
 明治二二年町村制施行当時の村の墓碑の戒名を集録した「墓籍簿」によると「宝永三年(一七○六)七月係左衛門死亡」とあり、また、檀那寺万休院の過去帳にも宝永三年の所に「大谷 孫左衛門」と記されている。これにより開拓された時期は孫左衛門の壮年の頃すなわち一六○○年代後半(万治、寛文)頃と推定される。
 なお、大谷地区の所属については明治初年豊岡県に属していた頃、大谷は山道を越せば新町(峰山町新町)に近く、当然新町に属した方がよいと新町側からのよびかけがあり紛争が起った。その時地区の代表が前述の藩からのお墨付を県当局に示した結果、従来通り大谷は河辺であると決着したいきさつもあった。
 次に開拓した長百姓の子孫について考えてみたい。
 河辺の慶長検地帳(慶長七年(一六○二)七月)には大谷およびその附近と思われる地名はないので当時大谷地区は未開発と思われる。その検地帳の田畑の所有者名はほとんど名前で書かれている中で、苗字とみられる石橋・はし・竹原の三姓がある。
 この三家の中竹原姓はその後河辺では廃絶しているが、石橋・はしの両姓はなお存続している。口碑によれば現在の橋姓のそのほとんどが大谷に関係ある家系といわれており、また、もとの府会議貝・河辺村長の職にあった石橋六兵衛は生前「先々代の頃まで大谷に居住していた。」と語ったということである。 右のことから大谷地区を開拓したのは石橋およびその一族とみられる「はし」(橋)と名のる大百姓であろうと推定される。
 なお、明治二二年町村制施行当時の台帳による大谷地区の所有者および耕作面積は次表の通りであった。…
   信  仰
 (イ) 山伏堂 大峰行者の山伏がこの地にその修験の道場をもったものか、あるいはここに居を定め近郷の村々を廻り呪法をもちいて加持祈待をしていたものかわからないが、山伏堂の祠はその墓所と伝えている。八月二二日はその忌日で毎年作業を休み河辺から神子を迎え祭の行事を行い、行者に感謝の念をささげ村人の健康を祈ったのである。神子を迎えての祭は昭和一○年頃まで続けられた。
 (ロ) 大聖不動明王 文政年間この地に信六という人があり、生来病弱であったので谷内の不動尊に月参りをし厚く信仰していた。ある日たまたま持病の発作で苦しむうち夢の中に不動尊が現われ、われを信仰すれば健康と安全が護られ、この地区の発展が得られるであろうとのお告げを受け、自分の持ち山に約一○mほどの滝のあるのを幸いと思い、この地に小祠を建て不動尊を勧請して祀った。天保元年(一八三○)五月八日は信六の忌日である。
 その他不動尊に登る途中に庚申塔があり霊験あらたかという。
   自 然 環 境
積雪 少ない年で一m、多い年で三m余。
産業 米作・畑作および養蚕、その他薪の販売等。
通信 電話はついに導入されなかった。
電灯 橋徳造方では大正一四年裏を流れる川を利用して水力による自家発電機を設置し弱いながらも点灯に成功、この家だけは電灯がともりラジオがきけた。昭和二○年には電気が導入され、一二月三一日にはその点灯式が行われた。
 大谷地区の状況は以上のようであるが、慶応元年(一八六五)治左衛門方から出火し下の地区五、六軒の余戸を焼いたが、その後間もなく地区の人々の協力により再建された。
 明治維新とともに戸数は漸減の一途をたどり、昭和三八年の豪雪はついに地区民に離村を決意させることとなり、昭和四○年には全部の世帯が離村した。
 昔の宅地や農地は現在植林されたり砂防ダムになったりしている以外は潅木や雑草が生い茂っている。
 大谷地区の歴史は一六○○年代の半頃に開拓され昭和四○年離村までの約三○○年間であった。


ウラン鉱石・河辺石。
白石山で白珪石(ウラン含有)が発見されている。ここらにもしかして転がってないかときょろきょろとしてみたが、それらしき物は発見出来ないフツーの野山である(涙)。

『大宮町誌』
河辺石(世界で最初に発見された放射性鉱物)
 昭和二四年一一月、京都大学田久保教授らの府下鉱物資源の調査中、河辺白石山で学生の採取した針状電気石様の鉱物が、ユークセン石、ポリクラース石系の鉱物に似ているが、チタン鉄鉱が極て多いところから新鉱物として河辺石(kobe‐ite)と名づけられた。一〜二oの小さい結晶が放射状に集合し、表面は分解して白くなっているが、新鮮なものは黒色の強い樹脂光沢を帯びている。成分は表に示す通りで(NbTa)2O3:TiO2が極端に少ない。

 これら希元素鉱物はパーサイトと共生し、まれに煙色石英中にもある。周囲のパーサイトを濃紅色に着色し(放射線により)、粘土化を与えているため周囲は非常にもろくなっている。
 河辺石はその後、ニュージランドでParinga Riverで発見されたが、第三番目のものは奥大野潮鉱山で発見されている。(「日本稀元素鉱物」による)昭和三○年にはその埋蔵量と工業化のための調査が白石山を中心に行われ“大宮よいとこウランの町“として、地元民の大きな期待をあつめた。
河辺石

当時弥栄町の等楽寺や芋野でも線量異常の地が見られ、鉱石がないかと調査されようとしたという。
「鉄腕アトム」や「ウランちゃん」のように以前は人類の夢をかなえる元素・エネルギー源と見られていた、というのか、そうしたウソ宣伝を、言っている者も言われている者も未経験ゆえに鵜呑みにし信じ込んでいた。しかし「うまい話にはうらがある」のことわり通りに、一旦事故があれば超危険物だけに手の出しようがなくどうにもならないいまだ解決策もない、福島などで人命や安全を無視し危機管理も欠いた超危険な稼働実態がいよいよバレてき、途方もないゼニ食い虫であることもわかり、どうもおかしい、このまま行けばヤバイぞと全世界から拒否されるようになっている。同じものの評価がかくも深刻に二分される、時代により立場により神とも悪魔ともされる、いずれも人類史を大きく変えるという、それなりのリクツがある、これが「原子の火」である。市民とすれば自分の頭でよ〜く深く考えることからはじめるより始まらない、フツーの人々を本当にトータルとして幸せにするものだろうかと、推進派は富と知と技術と権力の史上最強の強大な秘密のかたまりであり、兆といったカネなどは何でもない、どんなことでもできる、それをさらに強め永遠化しようとここが天下分け目となりふりかまわぬ必死の姿勢である、城下の地方自治体などはすでに完全に呑み込まれていて、どこが自治かとそのかけらも見えないほどに破壊されずみで国や原発のお先棒を先頭で担うようになっいる、絶対に安全です、とでも考えているかのように、しかし絶対などはこの世には存在しない。
物理学的にも社会的にも相手が相手だけに超難問が山積する、ゼニなく権力なく武力なき者の群れとしては一人前以上の科学者・思想家・歴史家・政治家へと不断に地球史規模で成長していくことのみでしか解決の道はなさそうである。あまりに大きくなりすぎた、人にも人が作ったコンピューター・プログラムにも全体を管理できないほどになった、仮に安全対策安全対策とすすめ、それらの完全作動を保障するための予備回路を組み込む、さらに予備も組み込む、それだけでも複雑なものがさらに複雑巨大になるが本当に安全かどうかは誰にもわからない、最新技術だけに過去の例がなく、実証実験しているのと同じで、最新のもつ宿命のようなもの、爆発寸前の極限状態にまで原子炉を持って行き、そこで何が起き、どう回避するかなどは実際には実験もできないわけで、実際にそうした状況に陥ったときの経験がないのである、自動車ならぶつけたりひっくり返したり、40メートルの津波に呑まれたら、の実験ができるが、運転中の原子炉はそうした危険きわまりないことは地上ではできない、従って何が起こるかは誰にもわからない、コンピューター・シミレーションになるわけだが、根本の実証データーがないわけだから、それが正しい像を描くとは考えられない、実際の事故ではあまりに多くのデーターが自動的にインプットされるために、コンピューターの能力上、処理しきれなくなり、結果が出てくるまでに時間がかかり過ぎて実際の事故の速い進行についていけず、1時間以上も遅れるのだか、巨大コンピューターでも役には立たない。また大事故を想定したプログラムがそもそも組み込まれてはいない、そうしたことはありえない、となっているのだから、実際に発生すればコンピューターも対処できるわけがないのである。大津波が来たとかいったまれな不幸によって引き起こされるだけではない、ごく日常的とも思われる小さなミスや故障でも、それが引き金となり、連鎖的に大事故になる場合もあるあやうい装置である。故障もよくあり原発の稼働率は50%くらいであるから、半分は故障で停止していることになる。ミスするなどは人間なら誰でもすることである、それをゼロにすることは不可能である、ミスしたことがない人はなかろう、人間とはそうした生き物である。しかしその小さなミスが大事故に進行していくという恐ろしさを持っている装置で、私などが動かしたりすれば大爆発まちがいなかろう。それをある程度は見込んで装置はますますいよいよどんどん人の手に負えない、人の社会からは疎外された彼岸の機械の超複雑なかたまりとなっていく、こうしたどうにもならない巨大な物の内的矛盾、こうしたことはこれら何も原発だけではないが、最新巨大科学技術のかたまりの致命的自滅的欠陥で、鉄鋼で作れる構造物の大きさの限度は鉄鋼の強度である程度決まっていて、それ以上に大きなものは作ることはできない、豆腐に作れる構造物はしれたものである、何物にもその分というものがある、人の能力にできることもある程度は決まっていて、何事もそこそこにしかできないのである。巨大システムを実際に動かしている者は、自分の受け持ちの細分された部分については専門家以上であるが、その部分しか見えない、全体としてどうなのかは見えないし考えない、戦線の兵士のようなもので狭い目先の範囲で精一杯の失敗の許されないロボットのようなもので、戦争そのものを考えたりすることはない非人間的なものである。大破局に至るまでに、市民の武器は小さな人間としてのトータルな繊細な感覚である、センスである、直感である、人としての小さな行動人としての能力である、それで戦い抜こうではないか。巨大なものを相手には小さいのが有利かも知れない。どんどん際限もなくどこまでも消費エネルギーを増やしていくことなどはいずれできなくなる、電気を使えば使うほど幸せになれるものでもない、放射性廃棄物という超難物もいよいよ人の技術や地球が許容できる量以上になりつつある。地球に住む者としてそこそこで辛抱しなくてはならないレベルに到達したのかも知れない。

ウランは意外とどこにでもあるもののようで、花崗岩にもわずかに含まれていが、それが何らかの作用で自然濃縮し「河辺石」となったものではなかろうか。
ほんのわずかでも巨大なエネルギーを秘められている。もしうまく使いこなせれば夢の物質にもなるかも知れないが、それができなければ全生物を絶滅させる悪魔の物質にもなる。
1999年の「東海村臨界事故」で臨界を起こしたウランは千分の1グラムであった、目にも見えない量だった、パシっという音と青白い光が見えた、これだけでで作業員2名が致死量の中性子を浴びて亡くなり、近くの住民31万人も屋内避難したという。
遺伝子が破壊され二度と細胞は分裂しなくなる、細胞分裂の激しい箇所からまず症状が出始める、髪の毛ができない、白血球ができない(免疫ゼロとなる)、皮膚や粘膜ができない(血液や体液が垂れ流し)、もう現在の医学では手の打ちようがない。
自分のところの作業員の命すらも守れない被爆医療もないという原子力産業の超ずさんな作業実態や、それを推進する国などにどうして住民の安全などが守れたりできようや、当時からそう指摘されていたが,その教訓は活かされることはなく福島となった。
都合の悪い過去はさっぱりと忘れるという日本式の幼稚な無責任思考で、原子力を使いこなす能力がトータルにあるのかはどうも決定的に怪しい。もしや偶然の幸運に恵まれれば一時的には何とか使えるという幼児段階のように思われる。大量人殺しの核兵器なら作れるというレベルだろうか、しかし人殺しではない電気はどうだろうか。電気を作るではないかと言うが、そのゴミの処理法がない、万一の備えがない、逃げ道はなく、医療もない、重大なら何千万にもなろうかと思われる被爆者など備えなとがあろうはずがない、核兵器にもなる物質も作るがその安全管理はヤバイ。何とかなるだろうと、深刻な問題を先送りしているだけであるが、それもいよいよ限界を迎えつつある。


海軍航空基地
原子力が今の国家戦略なら、過去の国家戦略は富国強兵、それもここには残されている。
今の国道312号バイパスの直線部分は一部は海軍飛行場滑走路であった。河辺の大谷川から峰山のマイン(エール)前の駐車場あたりまでの約1q、東側へ80m幅であった。滑走路だでなく、周辺には格納庫や火薬庫、兵舎や銃座、酒保などが設けられた。その一部は今も残っている。昭和20年7月30日には空襲を受け死者が3名でた。


『大宮町誌』
河辺飛行場(峰山航空隊)
 支那事変の戦線が拡がるにつれて日本海側とくに舞鶴軍港を中心とする飛行基地の必要を認めた軍部は、中郡平野の中心部の河辺附近の事前調査をすすめていた。昭和一三年夏ごろから地元で河辺・新町を中心にして飛行場ができるという噂がひろがった。その噂は現実のものとなり同年秋土地買収が始まり翌年春までに土地買収が完了した。当時栗田には水上機の航空基地が開設されており、陸上機の航空基地としてこの地を求めたものであろう。
 昭和一四年四月二二日第一期工事に着手したが、その内容は次のようなものであった。
一、飛行場の敷地造成(南北約一q、東西約五○○m)
二、大谷川の改修
三、工事担当  舞鶴海軍建築部(後に施設部)
        監督官 前田・長崎・大河内技師
        請負 元請間組 現地担当米子市菊池組
四、工事期間  二年間
五、工  費  五○○万円
 第一期工事は急ピッチで進められ期日内(昭和一六年)に完了したが引き続き第二期工事に着手した。その内容は次の通りであった。
一、滑走路の新設 計画では幅一二○mであったが変更されて幅八○m、長さ一qの滑走路となる。
二、格納庫 (北側から)九○○u 木造 一棟(第四号格納庫)
      広さはほぼ同じ    鉄骨 二棟(第二、三号格納庫)
      同じく        木造 一棟(第一号格納庫)
三、誘導路 五○m幅員 アスファルト舗装
      (更に滑走路と格納庫を結ぶ舗装)
 第二第三格納庫は練習機を一棟に十数機ほど収容ができた。第一および第四格納庫は木造で鉄骨造りにくらて大きかったが、飛行機の部品等を収納していたので大体一五機くらいが収容できた。(第四格納庫は現在も残り吉村機業の織物工場として使用されている)
 昭和一九年には滑走路の延長工事が行われ南北を五○○m延長して一、五○○mの滑走路となった。その頃には他の施設も次第に整備されたが、その主なものは次の通りである。
 通信基地 新山保育所南の農道を入った山中にあり送信を行った。将校以下約二○名。
 機関銃座 飛行場の四隅、善王寺の青年川・城山・河辺舟山に設けられ七、七o機銃一機ずつが配置されていた。
 本部庁舎 丹工の口大野精練工場を接収して設けられた。
 兵  舎 善玉寺平又工場を接収して設けられた。
 酒  保 丹工中郡支部の事務所があてられた。
 昭和一九年三月一五日、峰山航空隊は第二美保海軍航空隊峰山分遣隊として発足した。当時の任務は陸上練習機による操縦訓練とされたが、当時同様のものは内地に六ヶ所、外地に二ヶ所あり、峰山のそれは筑城航空隊(福岡)第二郡山航空隊(鹿児島)の三ヶ所が同時に開設された。
 三月に飛行練習生(三七期生)一四一人が入隊し直ちに訓練を開始したが五月には六○人(同期生)が合流、七月には第三九期生一二○人が入隊、九月には第四一期生九○人が入隊した。発足当時の分遣隊長は久保少佐であったが一○月に異動があり後任として菅原中佐が着任した。
 昭和二○年二月一日所管替えがあり姫路海軍航空隊峰山分遣隊となった。兵員は飛行練習生を加えて初めは六○○人くらいであったが、この時には第四二期生四六人が入隊したこともあって総兵員一、二○○人ほどになった。昭和二○年三月一日独立して峰山航空隊となり、航空司令官には小関大佐が着任しこの当時の練習機は一○○機あまりとなっていた。
 昭和二○年五月五日作戦航空部隊第三航空隊(木更津基地)第一三航空隊(大井隊)の指揮下に入り、当時一、五○○名の隊員のほか他部隊よりの訓練要員戦闘作業要員を含めて三千名となり特攻部隊も編成されたが、直接ここから出撃するにいたらず終戦を迎えた。
 空襲
 昭和一九年七月サイパン島が陥落してから、この島に米軍がB-29の基地をもつこととなり、本土空襲が日を追って激しくなった。同年一一月になると東京空襲を始め各都市の爆撃が続き昭和二○年に入ると京都府下の各地に空襲が続いた。
 このような状況の中で二○年一月当地方最初の空襲警報が発令され、ついで三月には宮津上空に飛行雲が見え四月にはB-29の偵察があるなど次第に緊張感が高まっていった。
 六月二○日夜には舞鶴宮津湾に機雷投下、七月二七日夜には舞鶴海軍工廠が空襲され、工員学徒など死者九七名負傷者一五○名、同三○日の舞鶴湾内艦船空襲では死者八三名、負傷者二四七名の多数にのぼり多数の艦船がほとんど撃沈された。
 河辺飛行場附辺の空襲は七月三○日行われ、午前四時三○分B-29機が河辺飛行場上空を偵察通過、ついで五時四五分頃グラマン戦闘機七機編隊が高度一、○○○m上空を舞鶴方面に通過した。五時五八分空襲警報が発令され七時二○分米軍機の機銃掃射をうけた。ついで九時四五分空襲警報が発令ざれ爆撃は九時五○分ごろから始まった。米軍機の主力はグラマンF6等であったが約五五機の前後三回にわたる銃爆撃であった。飛行場関係の被害は死者三、負傷者六、九三式陸軍中型練習機二機炎上、一機大破、二式中練習機一機小破、木造格納庫小破、滑走路に二五○s爆弾一発、誘導路に一発、ロケット弾六個、火薬庫大破、建造物に弾痕無数という被害であった。特に滑走路は直経約三○m、深さ一○mの大穴があき使用不可能となったためその晩はトラック一五台を使い土石を運び夜を徹して復旧工事を行った。
 米軍機数に比し練習機の被害が少なかったのは新町・河辺・周枳の山に誘導路により練習機を隠したり、長善国民学校横の道路その他に立木を利用して隠したりしていたためであった。また、飛行場内に木・竹・むしろ等により作った模型機が多数置いてあったので敵がこれを目標にしたためといわれている。
 第二回目爆撃の時飛行場に近い河辺国民学校も機銃掃射とロケット弾投下により南校舎の一部が爆破された。この他飛行場付近一帯の河辺新町の民家多数も機銃弾および爆風で被害をうけ住民一人が右足に負傷した。三重では農耕中の住民に機銃弾があたり軽傷をうけた。




《交通》



《産業》




河辺の主な歴史記録



『丹後国御檀家帳』
一 すきにふ
かうおや      かうおや
 田中兵衛殿     杉山殿
一 かうへにて
城主也一宮のおとな也  御そうしや
 民  部  殿        毛呂孫左衛門殿
  〆


『丹哥府志』
◎河辺村(新町村の次、古名神戸、今河辺に作る)
【白石大明神】(祭八月廿六日)
【三宅美作城墟】
三宅美作は一色松丸昭公に従ふて越路の敦賀へまかれし頃是に従ふ新田義貞の末なり、?野権現は其霊を祭る也といふ。

『京丹後市の考古資料』
今市墳墓群・古墳群・経塚
(いまちふんぼぐん・こふんでん・きょうづか)
所在地:大宮町河辺小字堺抗ほか
立 地:竹野川中流域右岸丘陵上
時 代:弥生時代後期(墳墓)、古墳時代後期
    (古墳)、鎌倉時代(経塚)
調査年次:2000年(大宮町教委)
現  状:調査範囲は消滅
遣物保管:市教委
文  献:B098
遺構
 今市古墳群は、東西方向に伸びる丘陵上に分布する14基の古墳群である。丘陵先端部に位置する1〜3号墳の調査が行われ、鎌倉時代の経塚と弥生時代後期前半〜中葉の墳墓が重複していたことが判明した。
 今市墳墓群は、丘陵先端部の尾根上に位置する2号墓と、北西側に派生する尾根に階段状の平坦面を造成した1号墓からなる。1号墓は、箱形木棺を直葬する4基の埋葬施設が検出されている。2号墓は、尾根上に位置する5基の埋葬施設群と一段下がったテラス上の埋葬施設群に分けられる。前者は、最も規模の大きい第5主体部の造成が契機となって築造されたものと思われる。後者は、北西側に4基、南側に21基、東側に3基の埋葬施設が検出されている。南側に土器棺が1基あるほかは、大部分が箱形木棺を直葬するものである。大半の埋葬施設は、墓壙内破砕土器供献を行っており、南側のS−11主体部のみ墓壙上にも土器供献が見られる。
 今市2号墳は、墳墓の上層に盛土して造成された径16m、高1.5mを測る古墳時代後期中葉の円墳である。3基の埋葬施設が検出されている。西側の第1主体部は、箱形木棺と推定される。南北両側に須恵器転用枕が2点ずつ見られ、被葬者は向かいあわせに南枕と北枕に葬られたと思われる。東側の第3主体部は、転用枕が南側のみに見られるが、同様に向かいあわせに葬られたと推定される。第2主体部は平底の木棺である。
 今市経塚は、2号墳墳丘上に重複して単独で築造されたものである。土壙に土師製筒形容器を埋納したのちに、上面に須恵器甕と土師器蓋のセットが置かれる。
遺物
 今市墳墓群の各埋葬施設からは、墓壙内破砕土器供献された弥生土器甕、壺、鉢、高杯、台付鉢が出土しているほか、一部の埋葬施設のみに刀子、ヤリガンナなどの鉄製品やガラス小玉を副葬する今市2号墳は、須恵器杯、高杯、土師器椀のほか、鉄鏃、刀子、鉄刀などを副葬する。また須恵器杯の一部は、転用枕として使用されている。3号墳は、墳頭部のみの調査を行い、須恵器杯、高杯、器台、土師器高杯が出土している。今市経塚は、土師製筒形容器のほか、須恵器甕、土師器蓋のセットが出土している。
意義
 今市墳墓群は、左坂墳島群(55)や三坂神社墳墓群(54)に併行する時期の弥生墳墓である。2号墓の中心埋葬施設である第5主体部は、三坂神社墳墓群と同様に墓壙規模が卓越しているが、副葬品の内容は際立ったものではない。周辺の埋葬施設は、家族墓の形態をとり、墓壙内破砕土器供献が例外なく行われている。しかしガラス玉類、鉄製品の副葬量は、三坂神社、左坂墳墓群に比して少なく、格差が見られる点に特徴がある。
 今市2号墳は、墳丘盛土を行い、木棺内に転用枕をもつ。6世紀前葉〜中葉の丹後地域にしばしば見られる特徴である。眼下に存在したと思われる集落の有力者を葬ったと推定される。
 今市経塚は、須恵器甕が在地産と思われ、伴出遺物が見られない点から詳細な時期は不明である。容器の配置が水戸谷遺跡(98)の経塚と類似しており、鎌倉時代後期に近い時期のものと思われる。

『京丹後市の考古資料』
松田遺跡(まつだいせき)

所在地:大宮町河辺小字松田ほか
立 地:竹野川中流域右岸谷底平野
時 代:飛鳥時代〜室町時代
調査年次:1992年(府教委)
現 状:調査範囲は消滅(ほ場整備)
遺物保管:丹後郷土資料館 文献:C088
遺構
 松田遺跡は、竹野川中流域右岸の谷底平野に立地する。地元では「松田千軒」の伝承が残り、大規模な集落があったと伝えている。面的調査を行った第6トレンチからは、掘立柱建物跡2棟、溝1条のほか、長辺3.4m、短辺1.7mを測る14世紀代の木棺墓SK601が検出された。位置から見て、集落内に営まれた屋敷墓と推定されている。第7トレンチからは、掘立柱建物4棟と谷状地形が検出されている。
遺物
 第6トレンチ木棺墓からは、14世紀の青磁盤、鉄釘2点が、溝状遺構からは13〜16世紀の土師器皿、耳皿、瓦質土器鉢が出土している。第7トレンチ谷状地形からは、7〜13世紀の須恵器、土師器、緑釉陶器、青磁盤が出土している。このほか包含層より糸巻、曲物、容器などの木製品が出土している。
意義
 14世紀を中心とする遺構が検出された。掘立柱建物跡に伴って屋敷墓と思われる木棺墓が検出されており、当該期の有力者の存在がうかがえる。また谷状地形からは、7〜13世紀の遺物が出土しており、特に9世紀後葉〜10世紀には京都産緑釉陶器を伴う。古代から中世の在地有力者の存在が推定できる遺跡である。
松田千軒




河辺の小字一覧

『大宮町誌』より小字一覧
西ケ鼻 大道通り(だいどうどおり) 上ノ端 杉池 馬場 山ケ鼻 三良右衛門 縄手 裏町 大道(だいどう) 寺坂 桧田 城下 本城(ほんしろ) 川原 田古地(たこじ) P戸川 中ノ町(なかのちょう) 清水町(しみずちょう) 市場路町(いちばじちょう) 荘厳庵 川下 大橋 千丈敷(せんじょうじき) 裏窪(うらくご) 御前ケ渕 下八反畑(しもはただ) 塚手尻 塚手(つかて) 神田々(じんだだ) 松田 スゴ 大屋分 八反畑 東風ケ奥(こちがおく) 茂手谷(もてだに) 浄福寺 構際(かまえぎわ) 内籠(うちがもり) 柳ケ坪(やながつぼ) 下構際 船山 壱丁田 三升(さんじょう) 日森屋(ひもりや) 高瀬 花の木 墓の窪(くご) 大土手 島巡り(しまめぐり) 新宮ノ岡 後ケ谷 大杉 萌荷谷(みょうがだに) 大谷 堺杭(さかえぐい) 栗屋谷(くりやだに) 片倉 黌野城(こうのしろ) 中ノ谷 近江谷 横竹 法寿庵 堀 小中田(こちゅうだ) 鞠場(まりば) 南谷 小杉(こぞ)ケ谷 籠分(かごぶん) 兵谷(ひょうだに) 浄山(じょうやま) ホラヤガ谷 大谷口 滝ノ谷 馬場ケ谷 孝泉寺 寺屋敷 坂尻 エボシケ谷 堤谷 高休場 石原 池ノ谷 大林 泰知院(たいちいん) 城ケ谷 鎌坂 ヲギン山 蝙蝠ケ谷 東ケ谷 三角(さんかく) 西ケ谷 芦原 八ケ岡 中ガイ 石ケ谷 稗谷 扇畑(おおぎばたけ) 名無谷(ななしだに) 栗木谷 小笛吹 大笛吹(おおふえふき) 畑ケ谷 ダンガメケ谷 藪谷 白石山(しらいしやま) 白石 三ツ嶺上ル口 源三ケ谷 滝谷 滝谷口 壱つ町向 白葛(しろかずら) 蛇谷口(じゃだにぐち) 本蛇谷 小蛇谷 滝ノ小屋 通り谷 コドンド 東風ケ奥大杉 卒塔婆ケ谷 奥手畑 桐谷 壱つ町 鹿ノ谷(かのたに) 石ケ休場 梨谷 ユブレ谷 大ベラ 寺谷 たにがき 姥ケ谷 本御膳谷 奥上ノ越 口上ノ越 元林 桜谷(さくらや) 寺ケ谷 北谷 岡ケ谷 棚林 蕨ケ谷 尾尻ケ谷 奥菖蒲ケ谷 仏坂 菖蒲谷 スダケ 細谷 ツル谷


関連情報






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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