丹後の地名

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此代(このしろ)
京丹後市丹後町此代


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京都府京丹後市丹後町此代

京都府竹野郡丹後町此代

京都府竹野郡竹野村此代



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此代の概要


《此代の概要》
此代
間人の方向から行くなら、犬ヶ岬を越えた最初の集落である。犬ヶ岬東に鷹巣川の浸食谷があり、その東斜面基部に集落が立地。海岸は礫石浜。住民の一部は採藻磯漁を副業とするが、海の近くだが、どうも漁村とは思えない。枝村として、南の標高140~150mの段丘上に乗原(のんばら)、南西に牧ノ谷がある。古くは海岸部だけに集落が開けたが、農業が盛んになり、また戸数も増えたため枝郷が形成されたと伝える。
村名は安楽寺境内の、大永2年(1522)の年紀をもつ六面石幢の刻銘に「此代村」と見え、「丹後御檀家帳」では「一 このしろの里 家五拾軒斗」と見える。
此代村は、江戸期~明治22年の村名。枝村として「慶長郷村帳」に乗原村、「丹哥府志」に牧の谷が見える。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年竹野村の大字となる。
此代は、明治22年~現在の大字名。はじめ竹野村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《此代の人口・世帯数》 83・35


《主な社寺など》

鬼神塚(牧の谷)
鬼神塚(牧の谷)
麻呂子親王に誅戮された鬼賊の墓と伝える。江戸時代には11月中の丑の日に竹野社によって祭が行われた。集落の入口の橋の袂、神明山古墳の前方部の先の裾くらいにある。
『丹哥府志』
【鬼神塚】(祭十一月中の丑)
昔麻呂子皇子の誅戮せられたる夷賊の墓なり俗に鬼神塚といふ、凡十五六も處々に散乱してあり、昔は四五尺斗りある石の擬法師に似たるものを其墓に建てたり、まづ五輪ともいふべきものなり、今半は地に埋れて壹ツ残る、其損じたるによりて近世新に石を建て鬼神塚と刻す。其祭の次第異風なる事なり、始め竹野村の下社家といふもの卅六人斎戒沐浴して祭の前夜より清浄の家を撰み竹野村に篭る、翌日相與に宮村に来り社司桜井氏と同じく牧の谷へ行き於是呪文をあげる、世の人其祭り與る人に見らるる時は三年の内に命終るとて一人も其祭を見るものなし、其夜の夜半に及ぶ頃社司一人従者一人本社へ参り米を洗ふて飯を焚く、其飯の熱する頃従者本社より退き其跡に於て社司如何する事を知らず、社司も亦如何する事をいはず、よって世間其次第を知る者なし、或は云、飯に砂を半交ぜて背手にて之を神前に供す、既に供して直ちに帰る、其帰る頃其飯を食ふ者ありといふ、其夜奇怪の事ありとて日の暮より家の戸を鎖して一人も戸外に出る者なし、昔凶賊の此辺に徘徊せし時の余風其祭り残りて斯様の次第なりや、如何の謂をしらず。

塚は1個だけが路傍に残り、他は皆壊れ、近世新たに鬼神塚と刻した丸石7個ばかりが新たに橋のたもとに集めたものという。
鬼神塚(牧の谷)
天保八年(1837)とあるから、その頃のものと思われる。
近世になれば有名な伝説に習合してしまい、そういった風に伝えるのだろうが、おそらくは竹野一族の塚であろう。
牧の谷集落
牧の谷は神明山古墳のすぐ南の谷で、此代の枝郷という。手前の橋の左手に鬼神塚がある。このままずっと行けば、乗原、此代へ行ける道なのだが、今は通れないという。しかし犬ヶ岬のトンネルができるまではこの道がメーン街道(伊根街道)でなかったかともいう。そして牧の谷こそが此代の本村でなかったかと。
もっと綺麗にしておきたいんですが、なかなか手が回らなくて。宣伝しといて下さい、村の発展の役に立つかも知れませんから、とのことであった。
非力ゆえに役に立つかどうかはわからないが、こうしたマイナーな箇所は案内も何もない、地元の人しかまったくわからない、こうした隠れた全国的に有名な見所は丹後町などは腐るほどもあるのだが探し出すのに一苦労である。もし運良く見つけ出せたらせいぜい案内させてもらいます。
地元の人達がこうしたものや自然を大事にし誇りに思っていることが一番大事かと思う、どこかのマチなどなら、「こんなもんカナンですわ、開発のジャマです、道もひろげられません、暗い田舎のイメージですわ、ないほうがエエですわ」などとヘッサラで言う。村の中堅どころがこうした頽廃の見本のようなことを当たり前づらして言うのたが、こうなれば過去は死んでしまい、ムラは未来を失う、ヨソのサル真似ばかりの主体性なしのザルどもがカンコーカンコー、ゼーキンあほほどほり込んで道路はできるかも知れないが、過疎高齢化して人はいなくなりサルばかりになる。発展などとは正反対で、子孫に残るは借金の山と他国の軍事基地と放射性物質とサルばかり…


また『丹哥府志』(1841完)や「鬼神塚」(1837)より少しばかり古い記録には次のようにあるという。
野田泉光院の「日本九峰修行日記」。文化11年(1814)7月、配札と修行の途次竹野神社を通り、同月25日条に次のように記す。
当社祭礼毎歳霜月丑の日也。先年来御供へ三斛上り来りしも近年は段々倹約にて白米三升真砂三升を一所にまぶし上げる由。御供へ当社より夜中に持出し、十丁計北、川下に鬼の岩屋と云ふ所あり、海辺大石の内也、此処へ上げる、神主計りにて持参す。即時何者の食するや知らず、皆召上かる由、此夜は斎宮村初夜より戸を閉し、他出を禁じ又旅人一宿を禁ず。若し夜中あやまりて庭前に出づれば行方知れずなるとの事也。其夜の事を聞けば何処ともなく足音の聞ゆると云ふ。
立岩
元々はどうやら此処らしい。鬼退治伝説の岩だ。参道の方向などからも竹野神社の祭神の正体が少し見えてきそうな話である。


熊野神社(此代)
伊奘册神を祀る熊野神社が鎮座し、境内には樹齢700年の大ケヤキがあったという。右手の欅も巨木だが、これではないようで、大ケヤキは枯れていまはない。
熊野神社(此代)

『丹後国竹野郡誌』
熊野神社 村社 字比代小字野町鎮座
  祭神 伊奘冊神
(同社縁起書) 抑吾熊野大神者神倭伊波礼毘古命秋津嶋乎廻幸熊野村爾到麻利世留時大熊従山出失爾爾術附神倭伊波礼毘古命忽爾遠延麻志亦御軍悉遠延伏伎此時爾熊野乃高倉下命一横刀乎齋天神御子乃伏世留地爾到献時爾天津神御子即以下略   寛治六壬申年三月書之
 境内末社 稲荷神社 八柱神社 天満宮
(口碑) 什寶に平家落人の持ち来りし赤旗一流と馬の鞍一具ありしが何人か取出して與謝郡木子に売渡し今尚同地の寺に保存せりといふ

『丹後町史』
熊野神社 此代小字野町
伊奘冊神を祭る、旧村社である。
境内には、稲荷神社、八柱神社、天満宮がある。


曹洞宗海平山安楽寺(此代)
安楽寺の宝篋印塔(此代)

江戸期の本尊阿弥陀如来坐像、模造朝鮮型半鐘、至徳4年銘の宝篋印塔、大永2年銘の八角石幢が現存する。草創はつまびらかでないが、寺伝によればもとは真言宗で上山の上山寺末であったという。改宗の時期は天和2年の丹後国寺社帳に「曹洞宗 此代村 安楽寺」とみえるので天和以前であろう。宝篋印塔がゴロゴロとある。
文化11年(1814)、当寺に立ち寄った野田泉光院は、「日本九峰修行日記」に次のように記す。
コノシロ村と云ふに着く、安楽寺と云ふ曹洞禅寺あり。但馬豊岡の近在より和尚請待して説法あり。因て人家に立寄り笈等頼み置き聴聞せんと云ふ所主人女房言ふ様、今晩は一宿して説法へ参らるべしとの事に付一宿貰ひ、衣体等改め安楽寺へ詣づ。勤行礼拝済み観音霊験の噺、又普門品の内少々講釈あり、夕方相済み旅宿へ帰る。伊三郎と云ふ宅、夕飯は同人方振舞にあふ。

『丹後国竹野郡誌』
安楽寺 曹洞宗 字此代にあり
 (同寺調文書) 元真言宗にして宇川上山寺の末寺なりしが中途より曹洞宗となる、本山は越前永平寺にして本寺を宮津智源寺とす、本尊は阿弥陀佛なり、慶長四年の開創に係り明和八年卯月開山を定山俊豊大和尚とす、檀家は字此代八十七戸なり、
 (丹哥府志) 海平山安楽寺 曹洞宗
 (実地調査) 境内に古塔あり一は至徳二年七月、一は大永ニ年と刻す、

『丹後町史』
海平山 安楽寺 此代 曹洞宗
本尊、阿彌陀仏
元は真言宗であったが明和八年(一七七一)卯月開山を定山俊豊大和尚として曹洞宗となった。
本山は越前永平寺、本寺は宮津智源寺である。檀家は此代・乗原・牧の谷約七〇戸。
境内に宝篋印塔が三つある、一は至徳四年(一三八八)七月、一は大永二年(一五二二)、一は無銘である。

丹後松島
丹後松島
此代あたりから眺めるのがいいとされる。丹後天橋立大江山国定公園になる。本日の日本海は「晴朗なれども波高し」、一番高い山の頂に空自のレーダー・サイト、先の方が袖志で、米軍のXバンド・レーダー基地が置かれて「これを撃滅せんとす」のかまえのよう。次は連合艦隊の砲台を置いたりして、ますます自然美をこわすのか。老人大国の勇猛果敢な腰の曲がった将兵が、突撃を敢行するのか、全世界が笑いころげるアホはやめよう。
ここはあらゆる人類に共用の宝であり、利用にあたっては平和利用のみに限定すべきであろう。
私は陸前松島へ行ったことがなく、本物の松島に似ているのかどうかはわからないが、このように賞される美しい海岸である。


《交通》



《産業》




此代の主な歴史記録


『丹後国御檀家帳』
一 このしろの里   家五拾軒斗
かうおや
 お か と の   まへの太夫殿
 さしの太夫殿    みつくはり殿
 たいとう弥二郎殿  か う し や 殿
 大 西 太 夫 殿   かわとの太夫殿
 つのと三郎治郎殿  さか弥孫三郎殿
 中野うま太夫殿   おかの治郎太夫殿
 衛 門 治 郎 殿   かこや太夫殿
 西の三太夫殿    川田の太夫殿


『丹哥府志』
◎木代村(宇川の庄平村の西、木代村は宇川の庄に似たれども竹野の庄に属す)
【新宮大権現】(祭正月八日)
【海平山安楽寺】(曹洞宗)
 【付録】(水月庵、荒神、山神、愛宕)

『丹哥府志』
◎乗原村(木代村より証據の坂を登りて坂の頂に村あり、犬崎の背に当る、村の内に岐路あり、右を七曲りといふ竹野宮村へ出る、左をかふへい阪といふ筆石村へ出る)
【愛宕権現】
 【付録】(八大荒神)
【犬崎】木代村より筆石村の間に在り。犬崎の前に嶋あり、嶋の上に大石あり犬に似たり。

『丹哥府志』
○牧の谷(乗原、牧の谷の二村は木代村の端郷なり、山を隔てて宮村の南にあり)
【鬼神塚】(祭十一月中の丑)
昔麻呂子皇子の誅戮せられたる夷賊の墓なり俗に鬼神塚といふ、凡十五六も處々に散乱してあり、昔は四五尺斗りある石の擬法師に似たるものを其墓に建てたり、まづ五輪ともいふべきものなり、今半は地に埋れて壹ツ残る、其損じたるによりて近世新に石を建て鬼神塚と刻す。其祭の次第異風なる事なり、始め竹野村の下社家といふもの卅六人斎戒沐浴して祭の前夜より清浄の家を撰み竹野村に篭る、翌日相與に宮村に来り社司桜井氏と同じく牧の谷へ行き於是呪文をあげる、世の人其祭り與る人に見らるる時は三年の内に命終るとて一人も其祭を見るものなし、其夜の夜半に及ぶ頃社司一人従者一人本社へ参り米を洗ふて飯を焚く、其飯の熱する頃従者本社より退き其跡に於て社司如何する事を知らず、社司も亦如何する事をいはず、よって世間其次第を知る者なし、或は云、飯に砂を半交ぜて背手にて之を神前に供す、既に供して直ちに帰る、其帰る頃其飯を食ふ者ありといふ、其夜奇怪の事ありとて日の暮より家の戸を鎖して一人も戸外に出る者なし、昔凶賊の此辺に徘徊せし時の余風其祭り残りて斯様の次第なりや、如何の謂をしらず。


『丹後国竹野郡誌』
(京都府漁業誌)
 此代部落は最初は海岸なる元此代に住居し始め農業を営み戸数の増加するに従ひ年代不明なれど現今の小字乗原及牧の谷に移住し農業を営むもの或は採藻磯漁等を営むものあるに至れるもの、如し氏神熊野神社は天慶三年に紀伊国東牟婁郡熊野座神社より分霊して奉祀したる神社にして其縁記書に当時戸数八十余戸ありしとあるを以て見れば当部落の起源は蓋し古きものなるべし
又熊野詣の記及祭典の古式には斯代(此代の古称ならん)海辺より獲たる鮮魚を献り祭典を行ひ之れを恒例とすと記せり然るに後世至徳年間頃より神仏混淆し神社は一切安楽寺の配下となり仏説に依り祭神を薬師如来なりと称し大祭日を旧暦正月八日と史めたり時常に大寒中にして海上荒く出漁すること困難にして鮮魚を獲る能はず且つ仏説として魚類を献するを忌み海藻類を供献するに至りしものゝ如く今尚ほ正月八日の祭日には神酒花弁餅海苔和布の類を供ふ其の内「あらめ」は是非欠くべからざるものとなれり此等に依りて見るも採藻及磯漁は早くより営み居りしものゝ如し
享保年間に藻魚張綱鰮旋網を使用し寛政二年に至り鰮地曳網を組織し従事したるも失敗し中絶し居りしか其後天保年間に至り再興し種々なる手段を取りしも好果を見る能はざりき筆石部落の起源は何れの頃なるや詳かにせずと雖も部落中旧家の記録により徴するに今を去る大凡三百年前は竹野村に属し戸数僅かに十四戸位にして其当時専ら農業を以て生計を営み居りしものゝ如し今漁業につき古老の口碑等に依り起源の推知せらるゝものを記さんに初め当部落に於て行はれたるものは磯漁にして桐木にて筏を組み海岸岩礁の所に浮べ之れに乗りて海底に繁茂せる若芽海苔等を採捕したるものにして現今に至るも尚ほ其の筏を使用し居れり
宝暦の始め当村久保善治郎、久保喜左衛門、久保善七等漁業の必要を感じ之れが発議し漁夫の組合を組織し鰮地曳網を構造し筆石海岸に於て使用し現今に至るまでこれを継続使用す竹野部落は今を去る二千六十余年前且波大縣主由碁理の女竹野媛年老て旧里竹野の郷に皈り後斎大明神と称するに至れり之に依り推考するに当部落は其以前の創始にして此地方中最も古き部落なりしならん其当時より農業の傍ら製塩魚介海草等の採集をなしたるものゝ如し天明年間大波浪のだめ塩越場と称する所破壊せられ天明二年三月之れが修築をなす
寛文年間以前にありては筆石竹野の両区分れ居らざりしものゝ如しされど寛文六年の肴運上に依れば銀十匁を献上し内二匁二分は筆石分とあるより見れば此の時代より区別されしものならん元禄六年九月廿六日附の古父書此以前若州及與謝郡伊根村の漁業者より漁場料を受け網湯を貸與せし事記され居る
享保十年九月十四日佐渡国腰細村の與市郎なるもの難船し来り此部落の漁夫之れを救助せし事ありしを以て見れば此時代に於ては盛んに沖合へ出漁し居りしものなることを想察するを得るなり


『丹後国竹野郡誌』
庚申塚
(口碑)昔乗原に一人の修験者来り庚申侍の催しを勧誘す村民之に応して或時修験主催の下に集ひ修験の與へし人魚の肉を大久保家の少女食ひたり此少女歳を重ねるも老ひす遂に齢八百歳を重ね人称して八百比丘尼といふ尼一旦家を出でし再び帰郷又去って遂に若狭に死すといふ、大久保家の西一帯の古松並木はこの比丘尼の楠ゑたるものなりといふ、尚若狭に於ては八百姫明紳として祭れりと伝ふ、
大八保家より古松並木に至る旧道路一丁余の間、方一尺余の石を布きて行人の難を免れしめたり、これ八百比丘尼の布きたるものと言伝へ、今この附近一帯の小字を比丘尼石と称す


『丹後の笹ばやし調査報告』(府教委)
此代・踊
 丹後半島の突端、竹野郡丹後町此代の熊野神社の例祭(十月十日)に、太刀振とともに踊が奉納されていた。
 太刀振はいわゆる二人一組で演じる組太刀型である。踊は、太鼓打一名、笛若干名、音頭二、三名の構成で、太刀振役が全員その装束持物のまゝ扇子を持ち踊子となる(ただとり囲むばかりであったらしい)。音頭は一人がうたうきまりで交替した。短冊と桜の造花のハナを立てた傘鉾が出、東に接する花踊圏との親近性を示しているが、太刀振の態様からみて、笹ばやしとの関連をもつもののようであり、良い歌本があるので、調査対象外であるけれどもこゝに紹介する。
 この踊も戦後ずっと休止されたまゝで、現在では歌える者が僅か二、三人ぐらいしかいない状態である。なお、同様の踊がすぐ近くの乗原にも行われ、そこでは太刀振とともに現在も氏神八柱神社の例祭(十月十日)に奉納されている。しかし伝承曲は「名所踊」「盃踊」の二曲である。
 こゝに納めた歌本は、表紙に「明治廿七年・神祭踊音説本・午七月廿四日・木佐一忠蔵」とある。冒頭の曲名註記の上には開扇、ツボメ扇の図を書くが、ここでは開扇を△、ツボメ扇を×印で表記した。


『京都の伝説・丹後を歩く』
乗原の千年比丘 伝承地 竹野郡丹後町乗原
昔、この村に一人の僧がやって来たそうだ。その僧が此代の海から奇妙な魚を拾ってきた。その魚は、普通の魚とは異なり、胸から上は人間のようであるし、腰から下は魚の鱗がいっぱいある魚だったので、庚申侍をして、みなで食べようかと言っても、だれも箸を出さなかった。
 大久保喜兵衛の娘が一口食べてみたところ、その魚のやわらかくて白い身は今までに食べたことのないおいしいものだった。ちょうど石榴のような甘酸っぱい味がしたのだそうだ。
 ところが、それ以来、困ったことに、娘は病気ひとつしないし、体はとても大きくなって、嫁のもらい手がなかった。親も兄弟も隣りの家の者も、さらには村中の者がみな死んでも、福々しい娘のままですこしも年をとらなかったものだから、乗原にいるのがつまらなくなって、但馬の方に行ったそうだ。
 但馬で嫁にいったという話もあったが、また、乗原に舞い戻ってきて、村に役立つことを何かしたいものだと思って、依遅ヶ尾から落ちてきた石を選り分けて、庚申墓の方から植松のあたりまで敷いた。道が固まって村中の者は喜んだという。また、牧の谷に降りる植松の大きな松もその娘が植えたそうだ。
 その娘は八百年余り生きていることから、「千年比丘」といったそうだが、最後には若狭の方へ一人で船に乗って出たということだ。その後どうなったのか、だれも知らないが、何でも、お宮に祀られたとか。 (『丹後の伝説』)
伝承探訪
 九州から青森県にかけて、とりわけ日本海側に色濃く、八百比丘尼の伝説が分布している。八百比丘尼とは、人魚の肉を食べたために、若い頃の姿のまま、八百年も長生きしたという尼の話である。福井県小浜市の空印寺の岩屋に籠もって入定したと伝えることが多い。丹後地方にもこの伝説に関わりのある場所が各所にある。たとえば、宮津市の栗田半島の塔ヶ鼻には八百比丘尼がいた庵の跡というあたりに供養塔が建てられ、そこが出生地だともいう。また、久美浜町葛野の岩船神社の左右にあった松の大木は八百比丘尼が植えたものだという。この八百比丘尼は尾張国の出身であったとされる。さらに、宮津市の山あいの木子・世屋のあたりには八百比丘尼が穴を掘って入定したと伝えるところがあるという。
 ここ丹後町乗原でも、このような伝説によく似た、千年比丘と呼ばれる人の話が伝えられている。乗原は、海辺の此代集落から旧道を二キロ登った峠の上の戸数三十軒の集落である。屹立する依遅ヶ尾山の北山麓にあるため、牧の谷から吹いてくる北西の季節風は激しいものであった。かつては木材業や茶・蜜柑などの生産が盛んであったという。ここは大久保・川戸という二つの姓に分かれているが、このうちの大久保家の本家にあたる大久保喜平治氏のお宅がこの千年比丘の生家であったと伝える。当家は平家の流れをくむとされ、江戸時代初期の元祖からの名を記した位牌を伝えている旧家である。江戸時代から明治時代以降にかけて、造り酒屋や材木屋を営んでおられた。造った酒は宮津の町まで運んでいたものだという。喜平治氏の祖父は千年比丘の命日とされる日には小浜まで参っておられたとのことである。氏も祖母からこの話を聞いておられる。千年比丘は天候をよく当てたので、漁師から乞われて小浜に行った、しかし、あまりに長生きをしたので、世をはかなんで京に行った(死んだこと)、そこには白い椿の花が咲き、清水が湧いた、という。
 八百比丘尼伝説は、まさしく、家の伝承として伝えられてきたのである。


『ふるさとの民話』(丹後町教委)
鬼祭りのおぼこ   枚の谷  川戸 数恵
 昔は、ここら辺はもううすやいうて酒造りに行く。酒造るまでの米つきに行った。伏見や西宮のあたりにまで行ったらしいのう。そのとぎに、酒屋のおかみさん、奥さんとかが病気になって、そして、その大将だったか、どなただったか知らんけど、
「丹後のうすやさん、丹後には鬼祭りいう、あらたかな、他にないお祭りがある。そこのおぼこをいただいたら病気が治るという話を間いとるだが、あんた、とてもそんなもんをお持ちじゃないでしょうな」と問うてしたら、そのうすやが割合とんちのええ男で、来るときに昔の柳ごおりの弁当箱に弁当つめてきて、それをちゃんとそうじせんと、洗わずにおった。そして、その弁当箱についとるそいつを、その、かき落として、
「奥さん、あります」と。「もうあらたかなもんで これはその鬼祭りのとぎのおぼこだ」と。「こうしてそっと持っております」と。「したら、おわけします」と言うて その弁当箱の 弁当ごおりのガラガラになったそいつをその奥さんにやって、
「ああ、とうもありがとうございます」と言うて、それをもって飲ましたち、ほいたら治ったいうて。

『京丹後市の伝承・方言』
…乗原の八百比丘尼は当地では千年比丘尼ともいい、杉を植え道普請などしているが、これは宮津市栗田の八百比丘尼供養塔の由来も同様である。いずれも「各地に杉・椿・松などを植え、道を直し、寺社の信仰と修造、水を探り、橋を架け」(「八百宮略縁起」『伝説資料集八百比丘尼』)の記述と似ている。比丘尼はまるで行基のような社会事業家である。が、この伝承は日常の比丘尼の仕事、例えば供養・祈祷・符呪・お札配り・作占いや漁の天候の占いなどの活躍と信頼があってのことであろう。丹後町袖志の八百比丘尼は漁の天侯の占いに長けていたという(『ふるさとの民話-丹後町の昔話-』)。
 乗原の大きな松並木、網野町に伝わる多数の杉や檜の埋もれ木(『木津の伝説』)が八百比丘尼と連動するのも、八百・千年を生きた比丘尼伝承にふさわしい所産であるからだ。古くは鵜の瀬の椿の大木は、椿を手にする八百比丘尼伝説の遡源となっていると思われる。
 乗原の大久保家の本家にあたる嘉平治氏宅が八百比丘尼の出生地といわれ、今も本家代々の位牌の中に比丘尼の位牌が大切に保存されている。大久保家の祖は陰陽師や修験の家でなく平家の落人で、材木商や造り酒屋の旧家だったと聞く。氏の祖父は比丘尼の命日には小浜の空印寺までお参りを欠かさなかったという。
 乗原の八百比丘尼は村人のために貢献した。村人はその徳を讃えて比丘尼を庚申塚に祀っていたというが今はない(澤潔『丹後半島の旅』中)。比丘尼の位牌のみが大久保家の誇りとして伝わって
いくことだろう。
 なお乗原の八百比丘尼伝説は丹後町筆石、舞鶴市折原の地にも乗原の比丘尼として伝播しており、内容も似ているのが興味深い。


『丹後町史』
乗原古墳
横穴式石室を持った古墳
外形が六角形を呈しているがこれは現在水田化のため削られたものと思う。そしてこの墳形中央部に半壊状態の横穴式石室の存在を確認する。全長九m(玄室五m羨道四m)である。頂部より土師器の口縁部片等を表採した。
牧の谷地区
横穴式石室を発見。かつて太刀が出土したといわれている。


此代の小字一覧


此代(このしろ) 赤山(あかやま) 向田(むかいだ) 成(なる) 柿谷(かきだに) 丸山(まるやま) 茨口(しばらぐち) 山ノ越(やまのこし) カンノミタ 土田(つちだ) ワレハ 土田家ノ後(つちだいえのうしろ) 上新谷(じょうしんだに) 河上(かわかみ) 流尾(ながれお) 横谷(よこだに) 荒神山(こうじんやま) 大向(おおむかい) ヲカンバチ 長者屋敷(ちょうじゃやしき) 六甲(ろっこう) 古山(ふるやま) 新水(しんすい) 植松西側(うえまつにしがわ) 植松(うふまつ) 石ケ成(いしがなる) 小池(こいけ) 尼石(びくいし) コウジワカ カンバク ノンバク ヒジリ谷(ひじりだに) 高平(たかひら) 乗原(のんばら) 沢田(さわだ) イナンバ 大ダラ(おおだら) カンバ坂(かんばざか) 材木屋(ざいもくや) 仏谷(ほとけだに) カンバ 宮ケ谷(みやがだに) カンバ谷(かんばだに) 三月田(みつきだ) 道津(どうつ) 中尾(なかお) 滝ケ下(たきがした) 竹ケ下(たけがした) 河原(かわら) ゴウロ シヨゴ イナクビ 大平(おおびら) 西浜(にしはま) 西ノ谷(にしのたに) 各荒神(かぐこうじん) サソラ 竹ノ内(たけのうち) 岡(おか) 岡浜坂(おかはまさか) 東浜(ひがしはま) コヤケハナ ケン上田(けんじょうだ) 堂の谷(どうのたに) 細谷(ほそだに) 野町(のまち) 上路(かみぢ) 西側(にしがわ) 中筋(なかすじ) 西溝(にしみぞ) 上路ノ成(かみぢのなる) 向(むかい) 下路(しもぢ) 清水ケ谷(しみずがたに) 差ノ谷(さのたに) 平田(ひらた) 向道ノ下(むかいみちのした) サシノ 向道ノ上(むかいみちのうえ) 浜(はま) 滝ケ谷(たきがたに) 漆谷(うるしだに) 俵石(たわらいし) 山水ケ嶽(さんすいがだけ) 大山(おおやま) 大池(おおいけ) 家ノ上(いえのうえ) 大干場(おおほしば) 大太郎(おおたろう) 林ノ上(はやしのうえ) ヤナコゴ 鞍ケ山(くらがやま) 松尾(まつお) 尾坂(おさか) 小戸(こと) アンジヤ 見崎(みさき) 向山(むかいやま) 小戸坂(ことざか) 下松原(しもまつばら)


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京都府福知山市大江町
京都府宮津市
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京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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