丹後の地名

桂林寺
(けいりんじ)
舞鶴市紺屋


 松平夏奈さんはここから↓
  当山開山忌の松平夏奈さん

松平夏奈さんの2010.7.19の"Summer time Concert"



京都府舞鶴市紺屋

京都府加佐郡舞鶴町紺屋


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天香山桂林寺の概要

《桂林寺の概要》


桂林寺は舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の西にある愛宕山の東麓、紺屋町にある。
曹洞宗。山号は天香山(あめのかぐやま)、すごい山号を持つ、この裏山の愛宕山を古代にはそう呼んだ。本尊は阿弥陀如来、薬師如来。曹洞宗中本山で、末寺は34ヶ寺(36ともするが今は30とも)を数え、壮大な伽藍を有する大寺である。
桂林寺山門なかなかに、この地の謎を秘めたお寺である。
寺伝によれば、欽明天皇の26年に勅願で創建された薬師寺(本尊・麻呂子親王作の薬師如来)を前身とするという。それは貞和4年正月13日付の惟宗保音山林畠等寄進状案に「薬師寺分是者八幡宮の分」、「慈音寺為薬師寺領之内」などと見え、八幡宮は桂林寺鎮守で、慈音寺は塔頭となる寺であり、その関係が知られる。という。八幡神社の幟(1/30)
この鎮守・八幡神社はいまも境内にある。桂林寺に通じる参道は八幡通り、高野川に架かる橋は八幡橋と呼ばれ、鎌倉期の石灯籠が残り、こちらの方が桂林寺より古そうだとわかる。この神社は「天香山八幡神社」の幟を立てる。裏山の今の愛宕山をアマノカグヤマと呼ぶのも薬師寺に遡る古い名と思われるのである。

曹洞宗に改めたのは丹波村雲部(篠山市)の洞光寺第4世竺翁雄山(ちくおうゆうせん)で、応永8年のことという。
この時寺号は洞林寺(とうりんじ)と称し、最初は七日市の付近にあったという。宝徳3年8月16日付の直覚田畠寄進状に「洞林寺免田畠等目録封裏事為桂林院殿追善」と見え、この頃まで洞林寺と称していた。八幡神社の石灯籠(重要美術品)

洞林寺から桂林寺への寺号改称の時期や理由、現在地への移転は明確でない。細川讃州成之(田数帳に名の見える舞鶴外の支配者・大きな大きな領域の守護)の父の院号=桂林院殿傑峰宗俊大居士に由来し、その追善のための田畑寄進が関係した。と今では普通大勢としては考えられているように受け取れる。
しかしまた当寺所蔵「嵯峨根(坂根)系図抜粋」によると、桂林院殿は宝徳元年8月15日没の坂根綱光(長門守修理亮)に付された法名で、桂林寺創建は、孫の綱寛(延徳2年11月18日没、青松院殿寒山暁雲大居士)が開基で、祖父の菩提寺としている。ともされる。これは江戸期からごく最近までの地元の文献がとる説で、こちらは舞鶴の坂根氏=土着の(たぶん海部氏系そしてたぶん笠氏系)の支配者である。
どちらにもそれなりの根拠とする文書が残っており、私の知識くらいではどちらとも判断しかねるのである。名目的な支配者は細川氏であったろうし、もともと洞林寺は細川氏の系統の寺のようであるが、この地の実質の支配者は坂根氏と思われる、それが同じ桂林院の院号を持っていたとなると…。二つの見方があって、誰もしっかりと解いた人はない。
桂林寺本堂
桂林寺は近世初期に田辺城を築いた細川藤孝の保護を受けた、田辺府志は「寺領三拾石天正十一末年八月四日寄付有之其証書を給り古鐘一口を付せらる」と記す。この古鐘は、現梵鐘で、「椎鐘 丹後国縁城寺 頼舜 観舜 実貞 長享二年戌申十月廿三日 大願主 周林 妙祐 敬白 大工 佐野主計」の銘をもつ。峰山町橋木の縁城寺の梵鐘がなぜここにあるのかわかっていない。
桂林寺の中国風に総門
慶長5年の細川藤孝(幽斎)の田辺籠城に際しては、住持六世・大渓(たいけい)禅師が藤孝を助けて弟子十数人を率いて城に入り支援している。桂林寺衆徒の働きは大きかったという。これは大変有名なお話。
ついで、子の細川忠興も慶長5年11月2日に30石を安堵した。その後江戸期を通じて京極氏、牧野氏歴代藩主がそれを継承した。
「丹後国加佐郡旧語集」によると、桂林寺は寺領30石、境内1,700坪、末寺34か寺を数え、寺観は、客殿・方丈・庫裡・衆寮・禅室・鐘楼・山門・経蔵・総門の諸堂宇を有した。現在、本堂以下伽藍完備し、総門は中国風である。

桂林寺の文化財としては、細川幽斎書状(天正11年8月3日)などの文書、細川忠興寄進「涅槃図」(室町期)、仏足石(江戸期)、梵鐘(室町期、長享2年銘)、石灯篭(鎌倉期)などが現存。
「涅槃図」は舞鶴市内では最大(275.7p・247.5p)。裏面に大永2年10月9日、慶安2年8月、寛保4年2月、文化10年3月の修理年次および表具師名、修理費を奉仕した人の交名を記載。幽斎寄進前は宮津珠光庵常什。
宝永6年の『田辺府志』はこの地の地誌としてはもっとも古いものであるが、桂林寺九世の住持・華梁霊重和尚の著になる。


−細川忠興寄進「仏涅槃図」(室町期)。ちょっとだけ紹介−
左の大きな掛軸がその「涅槃図」。府文化財で、1600万円かけて最近修復されたという。ふだんは宝物庫入で見ることができないが、この日は特別、熊本藩主細川家の19代目当主・護光氏ら旧藩関係者が見えられていた(護光氏は「北洋鎖鑰」と書かれた李鴻章の光諸壬午二月(明治15・1882)の書がうしろにかかっているが、その「北」の文字の下に見える人)(図の説明はこのページ下にある)

2018.9.29「全国藩校サミット舞鶴大会」が催され、徳川宗家などの全国各藩の当主ら29名ほか旧藩関係者、市民などが集まり、藩校の人作り精神を引き継ごうと誓い合ったという。台風接近で警報が出ているため大幅に日程などは縮小されたようだが、その翌朝に丹後3藩関係者の懇親会が桂林寺で持たれた。当寺は田辺籠城とか、その折りには大活躍あったお寺で、細川家との繋がりが強く、その論功行賞の意味か、細川家当主からの贈り物が残されている。縁城寺銘のある梵鐘もあるが、それは狭い所に置かれていて見えないそうで、この涅槃図が皆に特別に披露されたという。細川家はその後は小倉藩から熊本藩へと加増栄転され、家臣団も君主についていくのだが、荒木氏だけは田辺に残られた、そのご子孫の、私の命の恩人、巨木スダジイの根本で熱中症から救っていただいた邦雄氏、確か文化財保護委員会長などなされていたが、刀や鎗、鎖がまなど持参で見えられていた。
そのお世話をなされた峰山丹波の相光寺のご住職(一番左の方)から、オマエも来い、の誘いをいただき、ありがたいことだけれども、水呑百姓の末裔だろう者がこうした人達の集まりに行ってもいいものかと、ビビリながら、寄せてもらったものである。相光寺ご住職は金閣寺ででも修業されたそうで、足利将軍家ともつながりをお持ちである。



私の興味としては、天香山の山号と古く桂林寺の地には薬師寺があったというのが話が面白い、しかも麻呂子親王のお手製の薬師如来と伝わる。これはもう一つの七仏薬師ではないか。
薬師如来は南の円隆寺にも開山当初の仏像が残る。愛宕山は薬師の霊地であったのではなかろうか。薬師と八幡神社は舞鶴あたりではよくセットになって顔を出す。どこかでも書いたが、薬師さんは、目が悪いとか、片目だとかいい、目の疾病に霊験があるといった伝承を残す地がけっこうある。薬師さん自身が目が悪いのである。
「目の薬師」新井薬師さん
一畑薬師
つくばのむかし話
ひょうごの伝説紀行
片目の魚
 そのほかたくさんあります。

舞鶴だと白杉の「たたり薬師」さんは目耳に御利益があるという。白杉に「たたり薬師」・青井に「湯やくし」・吉田に「瑠璃寺」、てんてんと桂林寺の末寺のある所であるが、このあたりもまた薬師ばかり。桂林寺よりもこちらの方が古いのだご説も充分に頷ける。
 また広く丹後丹波でも薬師仏は最古の仏教信仰の対象であった、有名な七仏薬師伝説は鬼や土蜘蛛と結びついて語られる。
薬師はおそらくは天目一箇神として古い産鉄民の祀った仏ではなかろうか。





『舞鶴の文化財』
市指定文化財
絹本着色 仏涅槃図 一幅
指定年月日 昭和40年5月31日
寸   法 縦275.7cm横247.5cm
制作年代  室町時代
作   者 窪田統泰
所有者・管理者 桂林寺(字紺屋)

釈尊の入滅を描いた涅槃図は、多くの寺院に残されている。
この涅槃図は、絵絹七幅を−舗とした、市内では最大のものであり、沙羅双樹のもと、頭北面西して右脇を下に身を横たえ、多くの弟子や動物など一切有情の悲しみの中に涅槃に入る様子を、精細に極彩色で描いたものである。動物の中には、麝香猫など稀なものも加わり、時代の趣を示している。成立とその後の歴史的経過は、紙背の墨書によって明らかであるため、史料としての価値も高い。
これによれば、大永2年(1522)に国富右京亮信真が施主となって、丹後国分寺のために造ったもので、絵師は城州(山城)窪田又次郎統泰、表具師は式部卿周芳であったことがわかる。
以後、慶安2年(1649)8月には「絵師木村清順公」、寛保4年(1744)には「表具師田辺住中岡右衛門尉」、文化10年(1813)には「田辺住表具師吉兵衛」によって修理され、そのつど多数の人たちの寄進によったことを記している。
室町時代の制作時期と作者がわかる遺例として、また、当時の京都画壇の作風を知る上でも極めて貴重な涅槃図である。

『宮津市史(史料編五)』
仏涅槃図  一幅  舞鶴市紺屋 桂林寺
絹本著色 縦二七四・〇 横二四七・五a
室町時代 大永二年(一五二二)京都府指定文化財
 七副一鋪の大画面に、中央に涅槃に入る釈迦を描き、そのまわりを悲嘆にくれる諸菩薩諸天が取り囲み、上方から摩耶夫人が雲に乗って降下する様子を措く通例の図様になる涅槃図であるが、一般に宝台の四周を取り囲む形、もしくは三方に配される四対の沙羅双樹が、この図では右端の一本を宝台から立ち昇る瑞雲に覆われる形にして画面に変化をもたせるとともに、人物を中心に画面を構成しようとする意図がみられる。個々のモチーフの描き方についてみると、線描は堅実で、賦彩にも優れ、会衆のポーズや表情に誇張が少なく、全体に調和の取れた保守的で穏雅な画風を示している。
本図の表背には数次にわたる修理の際の記録が写し取られており、それらによると、この図は大永二年、国富右京亮信真が興行主となって丹後国分寺のために制作したもので、絵師は城州窪田又次郎統泰、表具師は式部卿周芳であったことがわかる。窪田は十五世紀頃からの事績が知られる大和絵の家系で、統泰はその三代目に当たる。統泰の生没年は明らかでないが、この涅槃図を最も早い画跡として、天文五年(一五三六)の日蓮聖人註画讃(京都本圀寺蔵)など数点の制作が知られている。画風についてみると、この図は、特に窪田特有のものが指摘できるわけではないが、伝統的な仏画の手法に則り、細密に措かれており、川岸の土坡に緑青と群青を用いるあたりには、十六世紀前期の大和絵と共通する雰囲気がある。 この仏涅槃図制作の奉行尊呈、表具師式部卿周芳について他に知るところがないが、興行した国富右京亮信真については成相寺蔵『丹後国諸庄郷保惣田数帳』の奥書に見える「国富修理亮」の一族と考えられる。この国富修理亮は長禄三年(一四五九)ころ三重郷(大宮町)に所領を持ち、丹後守護代延永氏の代官であった。少し時代は降るが、当時国富右京亮信真もまたその地位を保っていたものであろう。
この涅槃図は、その後米津満福寺(不明)に移り、さらに慶長五年(一六〇〇)細川幽斎の田辺籠城に際し、細川忠興によって桂林寺に納められたものである。





開山忌の松平夏奈さん



09.04.29に行われた桂林寺の開山忌コンサートの様子。坂根正喜氏の写真と動画を編集したもの。 歌っている人は松平夏奈さん。若いけど偉い事を言う子、あんな話は普通の子で無理。自慢げな事は言わんし、偉そうにはせんし、あれくらいの年頃であれくらいのベッピンならまずおらんデ、本気で感服するな、感動もの、と坂根氏は言う。
そんな事なら私めも感服させてほしいものと出かけて、私が写したのも最後の方の部分にあります。戦争体験にまともに学ぼうという人には高慢ちきはいないと思われが、本物の教育を受けて音楽の基本に立ち返えろうの本格的な芸能精神を持つ人かもしれない。新聞なども取り上げている将来ある注目の新人。期待しております。





ずいぶんと情熱的な歌を歌う人です。燃える心をお持ちのようで、「いい女」ですね、じっくりと聞いて下さい。我らの心も石ではないのだから、死ぬまでかく燃え続けなくちゃ。−と思ったりする。
この時録音したCDより変換しています。曲名がわからず、目下問い合わせ中。


「   」 松平夏奈 1′51″32    2,327KB


「愛の賛歌」 松平夏奈 3′23″20  4,325KB



「吉兆」にて:松平夏奈嬢
オンステージの状態とオフステージの状態がこれほどに違う人はめずらしいのではなかろうか。オフの状態がものすごくいい。
テレビなどに出演している女優さんでも舞台女優さんでも舞台を降りてきても、その人とわかるが、夏奈さんはわからない。まったくわからない、絶対にわからない。
こうした写真だとまだわかるが、この人の雰囲気に包まれるとさっぱりわからなくなる。あれー、そうなん、へえー、そうなん、あれー。ひょっとしてあなたは魔女なの、何、その静けさは、何、その神秘さは、とでもいいだして、いよいよアタマが狂ってくる。
「夏奈さんはあそこ」などと教えられても、「えっ誰どの人」ともう一度確認しなければならない、えらい美女だから、目にはついて、ひょっとしてこの人ではとは思うのだけれども、えっ、それはウソでしょう、絶対ウソでしょう、松平夏奈さんはこの人ではないでしょう、ウソでしょう、と、かなりかなりとまどわされる。
戦跡でも尋ねようかという女性に共通した人間性のようで、どこまで心深いの、どこまで悲しんだの、と思わさせられる、地獄を見てきた人、火の玉の谷間をさまよった人、可愛い笑顔からは信じられないが、そんな人の様子にも見える。
ここはお母さんの「吉鳥」というお店の中。隣でくっついているのは坂根正喜氏。(よろしいですね)

「ナ、わからんやろ。隣に座っとったてわからんって」
と笑うのである。
像が完全に二つある。オフが実像だと思われる。オンは演じられた虚像だったのか。お手本に写った鏡像だったのだろうか。せっかく実像がいいのだから、オンでもどうかこれを前面に出していただきたいと切に切に願うのであった。

 歌の練習は教室の始まる前30分だけ、人前でよく歌えるものだとあきれる聞くのも苦しい五流以下の腕前。しかし思い上がりだけは超一流。私は世界の大スターよ、私ほどの女はいないのよ、ナニよあなたなんか、クズでしょ、アッチ行ってよ、とでも勝手に舞い上がっている。坂根氏同様にそんなのばかり見てきた身には本当に嬉しい。がんばってね。
お店は相生橋のたもとです、一度尋ねてみたら。

世界に求む:松平夏奈さんのコンサート



桂林寺の主な歴史記録

《田辺府志》
田辺軍之事

後陽成院慶長五年、江州石田治部少輔三成逆心を発するゆへ家康公御馬を向はるよし、それにつき越中守忠興も壮士勇夫、魁師趣馬、渠卒歩卒のこらず召連られ、七月上旬に田辺を発馬せられ濃州へ赴かれしに、丹波福知山城主小野木縫殿助、石田三成が方人となり、同舟波谷羽州、藤懸三州、但馬出石小出和州、同豊岡杉原伯州、因幡伯耆の両国より高田豊州、生駒左近、別所豊州、丹後宮津朱光庵の住侶に廻文を遺し田辺に会陳して八月二日城郭を責落すべしと議定せし事幽霜玄旨聞給ひ,宮津の城に隠居して居ませしが、此事かくれなければ、扨ては田辺に逆心の敵徒を禦ぐべしとて、軽舟に早艪をおさせ浪を截て帰られ、四壁の要害を険固にし食料積薪を蓄儲し、敵徒の巣宿にならぬためとて町屋を焼はらひ、城中の諸士老幼剛柔をまじへ、四方惣郭の圭トウに配合し、寺井佐介入道中村七良衛門貞勝に下司ありしは、先東表若狭口の一門を第一禦ぐべきこゝろして、強兵を撰びて備べし、いかんとなれば、小野木を始めとし、いづれもたゞ陽を戴きて陰を前にする事、漢和両朝ともに軍法とする事なれば.さだめて今度も是にはすぐべからず、よくよく戦略をつくすべしとありしに、桂林寺六代大溪和尚小野木逆旗を建事を聞き給ひ、是はいかなる国の屯難ぞや、我出家たれども争か此事を聞ていたづらに身鼠すべきにあらず、第一には幽斎忠興の日比の懇慮を謝し、第二には国家を鎮護するの大理なり、薬師十二神将、般若会十六善神,皆是生善滅悪の護神なればいそぎ籠城すべしとて、丹後五郡の中曹洞の禅舎百餘寺に廻文を遣し、古聚共外近里の久檀円満寺党加勢して、弓矢をそらへ織金の袈裟を大旗に製し、大般若五百七十八巻めの要句、降伏一切、大魔最勝成就といへる一句書着、幢とし、先願書を認て鎮守八幡宮におさめり、その詞に曰く、…略…共後城中に籠られければ、幽斎限りなく悦び感じ給ひ、しからば居處といひ禦やすき大手の門を護せらるべしとありし程に、僧侶一處に居てかためしに案のごとく大内門を初責して破れがたきゆへ、さらば大手にまわすべしと相むかひしが、待えたりとヒキしをる数百の弓、其矢雨よりもおびたゞしく放ちし程に、責あぐみし時、此小野木が逆心前方に洛陽大内に聞へ主上後陽成院より烏丸大納言光広を勅使として其綸命にいわく今度逆心を渡し長岡玄旨居城へ押寄のよし、玄旨は天下無双の歌人、剰今世一人古今傳受の人なり、公家の中歌人おほしといへども、いまだ古今傳受の者なし、田辺城を責落べき計略のよし、玄旨生害におよぼさせば、日本開闢神代このかたの和歌の道たへはつるなり、国責むべからず、もし勅命をそむきなば朝敵たるべきよし、小野木方へ勅宣ありしゆへ同類諸卒共に震?霹易せし事なれば其日限を公文八丁畷新壁の中に打くらせしに、濃州において家康公たやすく石田三成を誅伐し給ひしゆへに、忠興も帰陣のよし聞へければ、逆徒蜘蛛を散して遁去ぬ、玄旨天助をゑて屯難をまぬかれり、大溪和尚も弓矢を擲ち柱杖を執て一卓して凱歌に曰、
…略…
かくのごとく微吟して諸徒をつれ帰寺し給へり。しかるに濃州に居陣の忠興は、かねて田辺のよしを聞給ふゆへ、家康公へ帰国のねがひありしに、家康公上意にいわく、今度天下の大敵をほろぼし、最早四海安静の事なれば、大形は宥恕あるべきよしの給へり、忠興御請ありて直路に丹波福知山の城に押寄、密敷責たてられし程に、いまは小野木もたまりかね、冑をぬぎ降参し、先城を渡せしゆへ速に請取しに、小野木今は一命ばかりをたすかるべく匿路に足を寄、井伊兵部を頼まんと伊勢をさして落去遁れしを忠興追懸首をうち鬱懐を一時にひらかる、将軍家康公此事を聞給ひ、あまり忠興は勇気のつよき者なりといひ給ひしよし、しかれども石田が方人なれば尤なりと思召たるよし。

        古今集傳受之事

和歌の道天地開けて神代にはじまりたれども、上古の歌はいづれも文字さだまらず、日本紀におほく見へたるがごとし。素戔鳴の歌に、八雲たついづも八重垣つまごめに八重垣作るその八重垣を、此の歌より三十一字とさだまれり。しかれども古風つきがたきゆへに、素戔鳴の息女下照姫の歌に、あもなるやおとたなばたのうながせる玉のみすまるのあなたまはやみ谷ふたわたしす味すき高彦根これなり、万葉集歌此類おほし。しかれば素戔鳴尊の三十一文字の歌は浮世によめる和歌の極本たれども、素戔鳴尊を和歌三神のうちにはいれず。其後、醍醐帝にいたり諸臣の中、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑等におほせ付られ、古今集を編集せり、延喜五年四月十八日に捧献る、それより相続二十一代集とて代々に歌集あれども華実のそなわりたるなし、唯古今一集のみ賞愛せり、きた物語りにては源氏にすぐる事なし。このゆへに古今一集、基俊俊成、定家より傳受となり.爲家.東野州、宗祇、逍遙院、称名院、三光院幽斎玄旨と相続あり、後水尾院よりこのかたは禁内の秘事となり他方に傳受を許されず、唯箱傳受といひて箱をしたゝめてたがひに傳受して口受をゆるさず、禁門にては古今傳受なき人は我歌を詠ぜしとて他人に見せ世に出しがたし、又他人読たる歌に點する事なりがたし。しかれば歌道の人とならば古今集を傳受し、源氏物語をひろく見て万葉集の古言葉をあきらむべし、和歌の書おほしといへども堀川院より後の歌の言葉をば取事なし、和歌の神秘二條家にことさら秘奥として外にかるく出す事なし、しかるゆへに印版なき書おほし、近代古語源秘といひて拾巻ある書を板行せり、秘蔵抄、莫傳抄、定家和歌式、和歌庭訓、家隆口伝、八雲口傳、桂明抄、和歌用意を集たる物なり、まことに歌林の細助たるべし、古今傳受の事秘事なるゆへ略して出せり。

         田地什物附二桂林寺一事

桂林寺は後小松院応永八辛巳年竺翁雄仙和尚開創ありて洞林寺といひて其時の地頭より寺領三十石寄附ありしに、後花園院宝徳三辛未年八月十五日地頭坂根修理亮先祖寳光院、心華院、父桂林院のためにあらたに三十石寄附ありしなり。其後長岡幽斎田辺に入り給ひて坂根家の寄附をばおとされて開山このかたありし寺領三十石天正十一癸未八月四日に寄附ありて其證書を給り古鐘一口を附せらる、そのゝち越中守忠輿慶長五庚子年十月二日に先規のとおり三十石の黒印、三體一斧の本尊、大幅の涅槃像、宮津にありし珠光庵、おなじく諸什のこらす引取寄附ありしなり。越中守忠輿西国豊前小倉に移り給ひ其跡に京極丹後守高知移り給ふ、京極修理太夫高三父の跡を続ぎ居せられしなり、先證にしたがひて折紙を給なり。…


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
本寺丹波 (竹冠に也)山洞光寺天香山桂林寺
曹洞の禅 竺翁雄仙 称光院御宇応永年中
開発 本尊阿弥陀脇士観音 勢至唐仏なり 衆寮禅堂
八幡社 貞和三年これを建つ
白山権現は当山の鎮守 鐘楼、山門、惣門あり
末寺三十六ケ寺これあり


《丹後国加佐郡旧語集》
桂林寺 天香山  丹波洞光寺末
丹後一国惣禄寺領三拾石福井村ニ有之門前拾四五軒有
 境内千七百坪 門前屋敷二百八拾坪〆千九百八拾坪其外山林有
 末寺三十四ヶ寺 内和尚寺四ヶ寺
本尊 阿弥陀 唐仏
脇立 観音 勢至
客殿 拾壱間ニ七間半
方丈 三間半四方
庫裏 九間ニ四間半
衆寮 六間ニ三間半
禅室 五間四方
鐘楼
山門 享保二酉年香邦和尚代新造
   四間半ニ弐間半
経蔵 三間四方
惣門 一間半ニ一間
後小松院応永八辛巳年竺翁雄仙和尚開創号洞林寺 其時之地頭より寺領三拾石寄附在之其後後花園院宝徳三辛未年八月十五日地頭坂根修理亮先祖宝光院心華院父桂林院の為に新に三拾石寄附在之 其後細川幽斎卿田辺江入給ひて坂根之寄附を落されて開山時の寺領三拾石天正十一未年八月四日寄附有之其証書を給り古鐘一口を附せらる其後忠興卿慶長五庚子年十月二日先規之通三拾石の黒印三鉢一斧之本尊大幅の涅槃宮津に在し珠光庵同諸什不残引取寄附在しなり 忠興卿豊前小倉に移り給ひ京極高三侯父の跡を継居せられし先証に従ひ折紙を給ると云々 小野木兵乱之節六代目大溪和尚末寺共龍当住香邦和尚享保元丙申年能州総持寺輪番勤紫衣の袈裟を免さる同十四年二王門造立両像安鎮同十九甲寅年七月供養八月廿三日より千部読経三月給願慶長五年石田治部少輔三成依叛逆田辺の城を七月廿日ヨリ九月十二日迄攻る 城中防之此節廻状写
 田井成生之者共此節之儀ニ候間随分可奉公候於望之段者任本意次第加扶持可褒美候此分其方相心得可申聞候也 已上
      七月廿七日
                   玄旨
  岡本新兵衛殿
此書之写平野屋町五郎左衛門家に在写之参河後風土記ニ云石田治部少輔兵乱に付大阪ヨリ依下知田辺江押寄軍勢
 谷出羽守 丹波ニ而一万石
 小野木縫殿介 丹波福知山拾万八千石
 藤掛三河守 高不知
 高田豊前守 高不知
 小出大和守 但馬出石五万八千石
 杉原伯耆守 但馬豊岡
 別所豊後守
 生駒左近太夫 後讃岐守高松丸亀共拾七万石
 木村左兵衛 異本ニ才兵衛二万二千石
此時幽斎卿源氏物語二十一代集相伝し此度籠城にて討死セは城中炎上此本永滅んとする事を惜みて三条大納言迄二部の書を献一首
 古へも今もかはらぬ世の中に
         心のたれを残す言の葉
右之外但馬丹後に領知ある輩ハ悉向ふ都合其勢五千余人慶長五年七月廿日卯の刻より攻
後陽成院御救三条大納言九月廿二日御下向和睦囲を解と云々


《丹哥府志》
【天香山桂林寺】(見樹寺の次、曹洞宗)
天香山桂林寺は後小松院応永八辛巳年竺翁和尚の開山なり、元洞林寺といふ、宝徳三年辛未八月十五日佐武ケ嶽の城主坂根修理亮考桂林院のため洞林寺領卅石を与ふ、是時寺號を改め桂林寺といふ。天正年中細川藤孝田辺在城の日寺領没収せらる、蓋一色に嫌ひあればなり。慶長五年の秋小野木縫殿介田辺を襲ふの日、其住持大渓和尚丹後五郡に飛檄を遣はし曹洞一派の僧徒悉く之を呼集め、織金の袈裟に大般若経第五百七十八巻の要句降伏一切大魔最勝成就といふ一句を題し、弓矢を取りて出て立ちたり、玄旨法印之を大手に置く、同年の冬十月二日其賞として寺領故の如く卅石を与ふといふ。鎮守八幡の社あり、貞和三年の勧請なり、寺に先つ事凡五十年余。



『舞鶴』(大正12年)
天香山桂林寺
 舞鶴山の半腹に宏壮な伽藍が聳立して居のが曹洞宗の中本山桂林寺である、応永八年竺翁雄仙禅師の創建したもので当時洞林寺と称したのを宝徳三年八月十五日地頭坂根修理亮が父桂林院のために三十石を寄附し増築寄進したので今の寺號に改められた、座主には歴代名僧が多く六世大溪禅師の如きは関が原役に於ける田辺城包囲中に城主細川幽斎を助けて殊勲があった、当時幽斎の子忠興は関か原から凱旋して
 今度之御籠城誠奇特千萬存候就者宮津殊光院之先住悪逆無是非儀候則此寺之山林竹木共可有住持者也 恐惶謹言
  羽越中 忠興(華押)
   侍 衣 輝 師
といふ感状を贈り今に藏せられて居る「田辺府志」は九世の座主霊重禅師の著である、美術参考品として鑑査状を下付されたものに
  阿禰陀佛 脇士共 木像丈三尺一寸 三體
  涅槃像  伝窪田又次都筆
    絹本着色(竪一尺 横八尺一寸) 一幅
がある、境内に本町唯一の古神社と伝へられて居る、八幡宮がある、本山はもと八幡宮の領地であったといはれる。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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