丹後の地名

円隆寺(えんりゅうじ)
舞鶴市引土

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京都府舞鶴市引土

京都府加佐郡舞鶴町引土


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円隆寺の概要

《円隆寺の概要》


舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の西にある愛宕山の東麓にある。西舞鶴駅から西へまっすぐの所で、北に境内を接して朝代神社がある。通称「本堂さん」と呼ばれている。
山号は茲慧山。西舞鶴第一の真言宗巨利、現在は御室派に属す。
円隆寺本堂(天明6年)再建(府文化財)
本尊は阿弥陀・薬師・釈迦如来。阿弥陀如来は木造坐像(像高二二七センチ)、左脇侍の薬師如来は木造坐像(同一五六センチ)、右脇侍の釈迦如来は木造坐像(同一五三センチ)で、いずれも平安−鎌倉の作とされ、重要文化財に指定されている。
円隆寺・多宝塔(宝暦元年再建)(府文化財)
 草創は、茲慧山記(寺蔵)に「丹後州加佐都田辺茲恵山円隆寺者密教嗣続之道場也、往古一条院御宇長徳年中有皇慶上人者密林之?楚也、留錫於茲而開創円隆之広刹矣」とあり、谷の阿闍梨とも呼ばれた皇慶上人の再興になるとされる。
その後この地の豪族・田辺小太夫が、講堂宇を整備して、院坊七〇を数え、八幡大菩薩を講じて鎮守としたという。
円隆寺総門(宝暦3年再建)(府文化財)
文禄四年(1595)八月、大雨による山崩れのためそのほとんどを失い、わずか四坊を残すのみとなった。四坊は智恩院・成就院・理正院・吉祥院と伝える。
 万治二年(1659)火災に遭ったのち、藩主牧野氏の保護を受けて復興に向かったが、享保一七年(1732)九月、引土新町からの出火で再び類焼、寺院堂閣の大半は焼失した。
円隆寺・鎮守堂(元文2年再建)(府文化財)
その後は旧語集に、
 「本堂・八幡大神宮・塔・薬師堂・観音堂・鐘楼・客殿・庫裏・護摩堂・聖天堂」が記される。また塔頭三ヵ所として「理性院(西谷坊)・成就院(二王坊)・吉祥院(池ノ坊)」があげられるが、「類焼後未建立無之」という状態であった。

 永禄頃の、女布の森脇宗坡が建立したと伝える、裏山・愛宕山山頂の愛宕権現社も当寺が所轄する、メーン参道はこのお寺の境内、多宝塔の前から続く。旧語集には「円隆寺持、元来理性院持也、後円隆寺江移、五月壱ケ月斗理性院持也」とある。
 度々の火災にもかかわらず、当寺には本尊三躯のほか、重要文化財指定の不動明王立像(木造、鎌倉時代)・毘沙門天立像(木造、鎌倉時代)、および市指定文化財の薬師如来坐像(木造、藤原時代)などが伝わる。この薬師仏は府北部ではもっとも古い平安仏とされ、ちょうど皇慶上人の時代といわれ、このお寺当初の仏像だといわれる。このお寺のしもの桂林寺の伝えも元は薬師寺とあるが、愛宕山は薬師信仰の地ではなかったかとも思われる。
また、旧語集によれば、「丹後田辺比丘尼恵阿暦応二己卯年八月十五日」という銘のある鰐口があったとされる。
写真のように江戸期のものだが、建築物群もなかなかのものぞろい。四季を通じて花が美しい。

円隆寺の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
慈恵山円隆寺は
真言宗 皇慶上人 一条院御宇長徳年中
本堂五間四面 本尊阿弥陀 釈迦 薬師不動 毘沙門 行基の作 三重の塔
本尊大日 作者知らず 鐘楼 護摩堂これあり
 愛宕山大権現惣門より山上まで九町有り本社五間四方 太郎坊二間四方なり
開発因縁は円隆寺塔頭西谷坊今は理性院と云ふそのころの住持当寺において石の地蔵を掘出し愛宕山権現柴の菴を結び山上に勧請す
 貴賎参詣夥しく女布村の山城に森脇宗坡これを聞き西谷坊謀を以て諸人を集める事甚しその科トガ軽からず屹度女布の館え来るべしとて使いを立てる 住持違背に及ばず罷出る矢田峠まで往ける所に森脇居宅出火したりければ正しく愛宕の咎トガならんと住持途中にて火消の加治すべし 愛宕取立の事赦免のむね使立て西谷坊愛宕へ火除を祈れば忽ち消ゆ その後段々造立して今の愛宕山これなり 本坊智恩院 塔頭理性院 成就院 吉祥院 古へ惣門二王門ありと雖も焼失す


《丹後国加佐郡旧語集》
真言宗
 円隆寺 慈慧山 智恩院 無本寺
  寺領地方三十五石
     内引土村高之内二拾六石
      大野辺分之内九石
開基人王六十六代一条院御宇長徳年中
              皇慶法印
理性院伝来記
文禄四乙丑年八月十日大雨崩什物縁記等失ス
本堂 五間四面 住持良弁代以自力本堂
寺院破損修理訖
本尊 阿弥陀 薬師釈迦 不動毘沙門 不知作行基トモ云
鰐口 丹後国田辺比丘尼恵阿
   暦応二己卯年八月十五日 彫付有由
八幡大神宮 三間ニ二間 類焼迄は一丈五尺
             今は五尺
塔     二間四方三重 本尊 大日如来
薬師堂 行基作 二間四方 理性院持
観音堂 不知作 二間四面
鐘楼  二間四面
客殿  五間ニ三間半
庫裏  東西四間南北九間
    四間ニ三間ノ廊下有

護摩堂 三間半ニ弐間
聖天堂
    塔頭三ヶ所
    理性院   西谷坊
    成就院   二王坊
    吉祥院   池ノ坊
     類焼後未建立無之
門前町家 二十軒 但南北三十五間五尺
惣境内  四千二百九拾六坪
    但門前町家トモ其外山林有
惣門 三間ニ二間 多門天 持国天
         増長天 広目天
         四天ヲ内外ニ勧請ス
 末寺五ヶ所
万願寺村 不動院 万願寺
女布村  法光院 菩提寺
観音寺村 花蔵院 観音寺
別所村  安養院 真久山
丹波梅迫 威徳院

愛宕山権現社 本社五間四方 客殿三尺四方 円隆寺持元来理性院持也 後円隆寺江移 五月壱ヶ月斗理性院持也
麓ヨリ八丁惣門ヨリ九丁山上ニ有テ中程ニ休堂有本堂棟札モ無之縁記モなし 飛騨内匠連タル由云伝なり
峠より下西ノ方福井村江下ル道モあり
 六月廿三日祭也夜祭御家中札多翌朝愛宕ノ宵祭也 翌廿四日参詣多し
 太郎坊社 二間四方 宮殿 六尺
 拝殿   九間三間
  右愛宕ハ京極飛騨守高直侯御再興
昔女布村に山脇宗把卜云武士住居此節本堂も塔も建之由伝説不慥 二王門或時焼失二王を除安久村 後に至てみれハ吉原町より下也 北の浜に置夫ヨリ其辺を二王崎と云由 其後類焼難除焼失其以後門無しと云先御代門と用水の所被仰付堂の西の方本尊の後堂のはめ板に放駒の絵有巨勢金岡筆の由 此馬夜々出て田畑を荒し東ノ方若狭道白鳥峠ヨリ東土橋迄行て帰ると依之此橋後の世迄も駒返の橋と云伝 其後是を繋駒とす夫ヨリは不出此絵六十年斗
以前迄薄く見へたりし次第に消て見へかたし其頃の理性院住持秀円と云し僧絵を好右之図をよく覚へ脇に書たるよし
円隆寺の奥ノ方山脇に稲荷あり奥の堂の才蔵卜て霊狐之由云伝ふ先御代由良村磯にて大綱御覧之節大亀一シ掛れり小船に乗せ船着迄廻り葉山信水被仰付画之其絵馬を愛宕山へ被為掛也 高橋助之進蒙仰亀の記を作り亀ハ沖江放し給ふ亀の記別に有宝永五戊子年九月町中年寄発記山の麓に石の鳥居建立す 在町貨物寄進其後石壇を造九月十五日場所鍬初十月十九日花表棟上廿一日供養
手水鉢  久美屋理右衛門 寄進
廻り石場 勇屋和右衛門
     苧屋四郎三郎
     丹波屋勘介
    時ノ住職 良泰法印
    寺僧 成就院 快弁
       理性院 良印
       橋本坊 良遍
造料銀壱貫九百九匁二分之由
石壇之石弐百弐拾玉本半 代銀六百七拾六匁五分之由


《丹哥府志》
【慈恵山円隆寺】(引土町、朝代の次、真言宗、寺領卅五石、塔頭三院末寺五ケ寺)
慈恵山円隆寺は長徳年中皇慶上人の開基なり、後の世に田辺小太夫といふものあり上人の徳を慕ひ伽藍を再建して諸堂尽く備はれり。文禄四年八月十日山崩れに逢ふて堂宇傾頽す、幸に京極侯の荷担あるによって伽藍を再建す、万治二年四月七日又火ありて一切烏有となる、今の堂宇は牧野侯の再建なり、昔に比すれば十分の一なりといへども、本堂の傍に護摩堂あり薬師堂あり、観音堂あり、鐘楼あり、山門あり、山門の上に四天王を安置す、其門の傍に又多宝塔あり、三重の塔なり、塔の傍に客殿庫裡軒を並べ、塔頭三院相連る(成就院、理正院、吉祥院)、其仏像は蓋皆古の存する所なりといふ。
【八幡宮】(円隆寺境内)
【愛宕権現】(円隆寺境内に華表あり、是より山に登る)


《加佐郡誌》
郡内第一の真言宗の巨刹であって一条院の御宗の長徳年中に大徳皇慶上人が開山せられたものである。往時は本堂、智恩院、成就院、理正院、吉祥院を併有して頗る大規模であったが、文禄四年八月十日に大雨が後山を崩壊して堂院を毀ち智成両院を留めたが成就院も亦近年廃滅に帰して智恩院ばかり名残をとどめることとなり、什宝も数次祝融氏の見舞ふ所となった為め、現時国宝としては帝室博物館に寄託したもの左の二品に過ぎないのである。不動明王書 智証大師筆 一幅。十二天像 筆者不詳 十二幅。堂塔の建築は最も奔構を弄し奈良朝風の精細を極めている。境内には八幡、稲荷等の小祠及び有名な芭蕉塚がある。


『舞鶴』(大正12年)
慈惠山 円隆寺
舞鶴駅を下りて西へ数町行くと其処に巍然たる山門があつて堂宇の山を負ふて建てられたのを見るであらう、これが圓隆寺で加佐郡内第一の眞言宗の巨刹で一條院の長徳年中に皇慶(こうけい)上人といふ大徳の開山仁かゝるところである、往昔は本堂、知恩院、成就院、理正院、吉詳院等を併有する大規模の寺院であったが文神四年八月大雨のために山崩れがあって堂院を毀ち、知成両院だけが残ったがその成就院も近年廃没し今は知恩院のみとなった什宝もしばしば社融氏に見舞はれ今は不動明王像(絵画)=筆者不詳、十二天像(絵画)=筆者不詳の二点だけが国宝として帝室博物館に寄託されて居る、境内には有名な芭蕉塚があって古木鬱然と天に聳へその堂塔は奈良朝の遺風を窺ふことが出来る。


『舞鶴史話』(昭和29年
慈恵山圓隆寺(舞鶴市字引士)
 長徳年中皇慶上人の開山といわれています。昔は本堂のほかに智恩院、成就院、理正院、吉祥院などがならんでいて随分大規模であったらしいですが、文禄四年八月十日の雨で山崩れがあり、智恩院、成勅院を残して他は廃滅に帰してしまいました。
 その後成就院もつぶれてしまってただ智恩院だけが名残をとぎめることになりました。現存国宝として同寺に保存している仏画、仏像は
  不動明王画   智証大師筆   一幅
  十二天像    筆者不詳    十二幅
等であります。


『市史編纂だより』(53.2)
円隆寺墓地古墳
 引土の円隆寺南方丘陵端に広がる墓地内には、松林寺墓地内と同様の板状の石材が数枚散在する。いずれも道端に置かれたり、段石に用いられている。古墳の位置は、代々住職の墓標のある所と推定され、稜上に一段高い墳丘面が削平されている。


『舞鶴市史』
放れ駒の絵 (引土)
 円隆寺本堂の本尊後ろの羽目板に、巨勢金岡の筆といわれる放れ駒の絵があった。ところが、この馬が夜ごとに脱げ出しては、あちらこちらの田畑を荒らし回った。そこでとうとうこれを繋ぎ駒にしたところ、それからはまったく出て行かなくなったという。
 また、東の方、若狭街道を白鳥峠から東の土橋まで行って帰るというので、この橋を駒返しの橋というと伝えている。


『舞鶴の民話2』
放れ駒 (引土)
 西舞鶴駅前に立つとずーと道が続く、山手の方に足を向ける。
さとうスーパーに多くの人が出入りする。むかし広いと思っていた道も、人と自動車でしばらく立どまらねばならぬ。高野川の円隆寺橋を渡ると、大きな杉がみえる。石段が十段ほど、山門が見える。見上げると伴団エ門の筆が力強く「慈恵山」とかかれた額がかけてある。
 寺の名は円隆寺という、門をくぐれば広い庭だ、三十米もある木々が立ち並んでいる。本堂の板は黒光りして手入れがいきとどいている。
 ここには木造金箔塗の三体本尊(平安時代中期大仏師定朝の若い頃の作品)があり、三体本尊には阿弥陀如来(未来千仏)、薬師如来(過去千仏)、釈迦如来(現在千仏)とがあり、過去千仏で今までのおかした罪を、現在千仏で今犯している罪を消してもらい、未来千仏で未来(極楽)へ連れていってもらうということです。ここには市の重要文化財に指定されている黄不勤王は三井寺の国宝黄不動明王画像を木彫した唯一の明王立像であり、昆沙門天王は永仁六年に仏師幸祐が作ったもの、地蔵菩薩は室町時代につくられたものであり、国の重要文化財に指定されています。この外に市重要文化財建造物の第一号に指定された多宝塔がある。
 近くの八十過ぎの古老がお参りにくるのに出会った。この寺は奈良時代に聖武天皇から大僧正の位をいただいた行基僧正が建てたもので、七堂伽藍と七十あまりの僧坊があったそうで、文緑四年(一五九五年)九月の台風による山くずれ、山津波で四ヶ寺をのこして埋没しました。

又享保十七年(一七三二年)九月、引土の桶屋より出火した火が寺におよび金伽藍が類焼した。
 その後五十三年目に本堂伽藍が再興されました。ここには放駒の伝説がある。
 享保の大火で本堂は焼けたが、この本堂には巨勢金岡の筆になる壁画の馬がかけてあった。本当の名馬のようであった。ところがこの馬が夜になるとかけ出しては、あちらこちらの田畑を荒らした。遠くは白鳥峠までいっていた、農家の作物の被害が多かった。
 村の者たちは夜のあいだに荒らされるので交代で番をすることになった。今夜は出てこないだろうと安心して仮眠していると、ヒヅメの音がし遠のいていく。起きて畑をみると作物が食い荒らされている。西といわず、束も南の畑と荒している馬の姿をみたものはなく、去り行く馬のかげをみたものはあった。
 村の者たちは相集まって毎日のように相談した。その中にある信心深い男がいて、馬鹿正直で、貧乏だった。会合でも隅の方に坐っていた。馬の話が出るたびに、いつも参るお寺の本尊のうらにかかっている壁画の馬が気になって仕方ない。朝早くお寺に参り、この壁画の馬を見た。水玉がついているし、足のところに泥のようなものがついていた。この話を会合の時したが誰もあいてにしてくれなかった。男は和尚さんにこの馬の絵をかいた人の名をきいた。金岡という人だ。男はその人をたずねた。
困った農民の声を聞いた金岡は、この尋ねてきた男の話をきき、額につなを書きつなぎ駒にした。それからは馬が田畑を荒すことがなくなったという。また若狭街道の白鳥峠をこえて東の土橋までいって帰ったというので、この橋を駒がえしの橋という。


『舞鶴文化懇話会会報6』(52.10)
秋の円隆寺探訪  松本宗雄
 秋ようやく深まった11月5日、引土の円隆寺に於いて11月月例会がもたれました。本年の異常暖秋は木々の紅葉を遅らせ、誰かの句「全山の紅葉あつめし古刹かな」にはほど遠いもので、「錦秋の円隆寺」を予想していた私にとっても残念でした。
 例会は庫裡で開かれ、室寺法印師の寺の概略説明は仏像を主として話されました。次に武内氏が、今回自費出版の冊子『舞鶴の句碑』により、円隆寺内六基を中心に解説されました。もとより苔むす句碑と云うものは、難読なものだけに氏の解明・博学に深く敬意を表するものであります。終って、法印師の案内で諸堂を見学して、日程を終りました。暮れるに早い晩秋は古刹を暮色の中に包み、逝く秋の淋しさをひしひしと感じさせられました………。
 さて、慈恵山円隆寺は真言宗で、本山は仁和寺であります。創基は長徳年間皇慶上人とされています。堂宇七十坊を有していたと伝承されています。現在寺領4ha(4町歩)を思えば、七十坊保有の証左ともなるでしょう。しかし、惜しくも文禄年間の山崩れと、享保17年(1732)朝代大火で類焼等、数度の災厄に遭遇して、堂宇の殆どを失ってしまったのです。ここで、自然演出は上手に出来て、良貞上人の登場となるわけであります。上人は、檀下引土の森谷家(小生近親)に生を享け、幼少にしてその才能非凡を見込まれて離俗、円隆寺中興七世法印として迎えられたのです。上人となるや円隆寺再興の大願望を胸に、これが建築資金調達の為、諸国行脚実に45年の長きに亘ったとされています。かくて現在の寺は、天明6年(1788)春盛大なる落慶法要が厳修され、爾来二百余年の星霜を経て今日に至っています。
ここで、本稿の許す範囲で直接の技術者についてふれてみたいと思います。棟梁はこれも同じ引土町の人で林田伝之丞さんであります。職人気質丸出しだったそうです。その腕の確かさは、早くから名工と高く評価されて、良貞上人がこれを見逃す筈がなく、林田棟梁も亦之に応えて建立されたものであります。
余談ですが、両人ともに碁が非常に好きで、対局の都度建築打合せがなされた事は容易に想像されます。
 先年、良貞上人入寂二百年忌法要を契機として、私は絵筆をもって寺の華麗な美しさを表現すべく、50号画布に2年有半堂宇数点を描き続けてきました。絵画としての価値はともかく、写実的美的探求に忠実模写を彩り、縮尺百分の一として全部を透視技法で作成しましたが、所詮は未熟な素人画家、不本意な拙作となりました。然し、描く事によって、カメラでは顕せない細部、巧妙な彫刻が当時寺院建築の基本法則であったにせよ夫々の彫りが、力学的に重ねられ量的の支えとなって居り、しかも、寸分の狂いもなく、只驚嘆の連続でありました。歴史の重みを感じさせられたのです。
 災害の都度身をもって仏像を搬出したのも門前町の檀家の人々であり、円隆寺再建の人達もすべて郷土の人であったことに想いを致す時、その底辺を流れるものは、法悦、信仰以前の熱烈たる郷土愛精神の発露ではなかったかと、当時の時代背景をこう思考して……。
 何れにしましても、此の尊い文化遺産は、寺でも檀家のものでもなく、一般市民共有の貴重な財産であることは云うまでもありません。これが保全のための考慮を払わなければならないのは勿論であります。市の重要文化財指定を希望するや切なるものがあります。


『中筋のむかしと今』
仏教がいつごろ舞鶴に入ってきたのか、古いことはよく分かりません。火災や興廃をくりかえしてきたからです。平安時代には真言宗と天台宗が盛んでした。なかでも今でこそ一ケ寺になってしまいましたが、舞鶴の古い寺院の多くを興こしたのは天台宗です。
 慈慧山円隆寺を開いたのは皇慶上人と伝えられます。平安時代中期に、天台宗密教の一流を起こしたほどの高僧で、天台座主に就任しており、八木町池上に住んだことがあるので、丹波阿闍梨と呼ばれました。
 十一世紀の前半に、実際にはその弟子が円隆寺を作ったのでしょう。本堂に祭られている阿弥陀・薬師・釈迦三体本尊は、国の重要文化財に指定されたほど優美な仏像です。いずれも大きく、中でも阿弥陀像は丈六=立ったときの高さが一丈六尺=座っているので二二七センチもあります。大きさが国分寺に祭られたものと同じなので、田辺に丹後の国の首府が置かれた証拠ともされています。保存状態はたいへん良好で美しく、千年の時を越えて幾多の災害から、僧と民衆の手で守られてきました。江戸時代の中期に本堂が焼失した時には、町衆が本堂講を作り、五十余年の間広く浄財を集めて再建しました。それで今なお本堂さんと呼ばれています。
 同じく本堂に祭られている重文の不動明王像は、密教の主尊大日如来の権現で、当初から密教寺院として作られたことを物語っています。
 近世初期に真言宗に変わりましたが、密教系の祈梼寺院たる性格は一貫しており、幕末にも藩主や町衆からの依頼で、雨乞い・五穀豊饒などの祈祷をしています。
 火伏せの神として知られた愛宕権現は、勝軍地蔵をお祭りしてあり、今でも愛宕さんと広く親しまれています。中世の門前は湊としてにぎわったと思われます。
 幕末に御室仁和寺から如法上人が登山し、同寺派に変わりました。


関連項目






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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