丹後の地名

須津(すづ)
宮津市

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京都府宮津市須津

京都府与謝郡吉津村須津


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須津の概要


《須津の概要》
須津(野田川町側から)
天橋立の内海・阿蘇海に面した一番奥まったところにある聚落。↑その奥側より倉椅山ごしに須津。
野田川の河口部、倉梯山の南麓、日本冶金工場や、KTR「岩滝口駅」がある。野田川を北に越せば与謝野町の旧岩滝町、西は旧野田川町。


須津村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。
慶応2年の洪水による半壊2軒・全壊1軒という。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属した、同22年吉津村の大字となる。
須津は、明治22年〜現在の大字名で。はじめ吉津村、昭和29年からは宮津市の大字。
今はバイパスができているが、以前はこの須津峠を越えて東南の宮津城下に通じた。

《須津の人口・世帯数》1062・337

《主な社寺など》須津彦神社(宮津市須津)

倉梯山一号墳・二号墳(いずれも円墳)、一号墳からは須恵器・直刀片・勾玉などが出土した。霧ヶ鼻一〜四号墳(いずれも円墳)
柿ノ木古墳、才ノ木古墳(須恵器出土)、吉祥古墳(円墳。土師器・須恵器・玉類など出土)、八幡一〜四号墳(いずれも円墳)など多数の古墳。多くは破壊され完存するものは少ない。その出土品の一部は大江山ニツケル工場・吉津小学校などに保管されているという。

須津彦神社・須津姫神社

与謝郡式内社の阿知江イソ部神社、あるいは吾野神社に比定する説もある。また億計・弘計二皇子が難を避けた余社郡はこの地をさすという伝説もある。

臨済宗妙心寺派大寂山江西寺
蕪村の寺として知られ、蕪村筆という風竹図屏風を所蔵する。案内板には、江西寺(宮津市須津)
江西寺
宮津市字須津
大寂山江西寺は、現在は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は釈迦如来。創立の経緯や年代については詳らかではないが、寺伝によると、もと江栖庵と称し天台宗に属していたが、慶安三年(一六五〇)現在地に移転したとき、中国の江西のように風光の優れた地に伽藍を構えたことから、江西寺と改められたという。確かにこの地は須津地区において阿蘇海、天橋立を見下ろすことができる景勝の地である。
 当寺は、多くの貴重な文化財を所蔵している。近世絵画では、丹後逗留時代の与謝蕪村が描いた風竹図屏風(府指定丈化財)がある。十六羅漢像、地蔵菩薩二童子像(いずれも市指定文化財)も中世の優れた絵画資料として価値が高い。また、本堂後背の庭園(府指定名勝)は、石組により滝や屹立する崖を表現した、江戸時代中ごろの枯山水庭園である。座敷から観る春の新緑、秋の紅葉の眺めは素晴らしい。江西寺の案内板
宮津市教育委員会


枯木浦・倉橋山・倉橋川などの名勝。
↓中央が倉椅山、手前の海が枯木浦。倉椅川は今の野田川ののことで、下の写真の手前を流れる川。
倉椅山

倉椅山
↑倉椅山はこんな小さな山である。クラハシというのは倉、高床式の倉に立てかけた梯子のような屹立した山の意味であり、垂直に近いような嶮しい山であろう、はたして本来の倉椅山とはこれであったのかと疑ってしまうのである。
枯木浦の背後の倉椅山、これは東舞鶴と同じ構図で、あるいは祖母谷の奥の三国岳が元の倉椅山で、ここに移動してきたかも知れない。
『丹後風土記残欠』には、
大内郷。大内と号くる所以は、往昔、穴穂天皇の御宇、市辺王子等億計王と弘計王此国に来ます。丹波国造稲種命等安宮を潜かに作り、以て奉仕した。故に其旧地を崇め以て大内と号つくる也。然る後に亦、与佐郡真鈴宮に移し奉る。(以下三行虫食)。
とある。その真鈴宮が須津彦神社と伝える。またここに館を構えた田辺小太夫は西舞鶴の引土城にいたと言われる。
両地には深い関係がありそうに思われる。


穴憂の里

今でいえば文珠に入るかも知れないが、「二本松」の出っ張りから文珠側のあたりを「穴憂の里」と呼んだという。人家もないようだが、ホテル「北野屋」さんがあるあたりだろうか。『宮津府志』に、
穴憂ノ里   今輪の崎といふ所のよし。
  宮津記に云ふ。内海和野崎の辺なり、三角五輪くずは崎など云も此辺なり。
   おとに聞くあなふの里やこれならん
      人のこゝろの名にこそありけれ  頼圓法師

『丹哥府志』には、
【穴憂の里】(菩薩岩の西、今輪の崎といふ)
音にきく穴憂の里やこれならん 人の心の名こそありけれ (頼円法師)

文珠堂の西に穴憂の里といふ處あり、穴憂の里より須津村へ出る、是をとんこ廻りといふ須津村より弓木、岩滝、男山、溝尻などの数村内海にそふて相通る。

穴憂は穴生、穴太、阿納とか書く地名と同じ意味で、鉱山のことであるが、江戸期にはすでに地名も意味も失われて、ワノと呼ばれていたようである。『郷土と美術37』(昭和17・九月号)には、
「海辺の地名」菅谷泰昌 わの ・あなう
 阿蘇内海の中に一岬端がある。和野崎と称し其の山嘴を和野と云ひ文字は輪野吾野とも書かれてゐるが吾野は近来書き初めたものらしゐ。物の書に依ると古は穴憂の里とも云はれてゐたらしゐが渚このニッの地名を考へるにアナウアナフがワノと転訛しワノがアナウ・アナフともぢりて称せられる事は有り得ぬことでは無い。此處のワノは果してその何れの経過を辿ったものであらうか。先づ最初にアナフと云ふ地名を捉へて見るに、之れは穴夫或は穴生から出たもので坑内で働く丈夫、坑内生活者と云ふ意味であって古代に在っては鉱山採掘の事業を為した所或は夫れに関係した土地に多く名づけられてあるが文字は色々に充てられてゐる。然し普通には穴生と云ふのが尤も多く穴憂なる雅字を充てゝゐるのも此處許りではない様に記憶する。
 桃山時代あたり盛んに全国に捗って鑛山を採掘した頃には未だアナフと去ふ語はマブ−−間府即ち坑謹のこと−−なる語と共に鉱山業者間のテクニックでゞもあったが、江戸時代に及んでは「穴生の者」と云ふと築城工事に従事する下役人や其の配下の専門業者を指すことに転意して了った。余談ではあるがマブなる語は現今では近畿、川陰、北陸、東海の一部の地方に捗ってマンプ或はマンブと転訛して専らトンネルを指す方言として分布されてゐる。
 偖かく考へると和野は嘗って鑛山でなければならなくなる。私は此處の測量を遣ったり二本松トンネルを掘ったりした経験があるから其の地形や地質を知悉してゐる。然し今夫れを詳述することは憚らねばならぬが其の結果からすれば遺憾ながら其の事あった處とは想像し難いのである。仍って此處はワノであって決してアナフから訛ったものでない。雅人がワノから上手にアナウと、もぢったものであると云ふことになる。
 或はもぢったのでは無く偶合であったのかも知れぬ。私は曩年、上野に開催された名宝展覧会で雪舟の天橋図を見たことがある。之れに依ると男山や府中あたりの北岸方面が當時−−室町末期−−に於てすら非常に殷盛であっにことが窺はれる。官道浴ひの然も国衙所在の方面とて、さもあるべき事であったが之に反し須津の如き南岸方面は寧しろ北岸に対し隷属的地位にあったらしゐ。
 須津の小字八幡にあった社が嘗って男山の板列神社へ引取られて行った如きは其の一例と云へぬでもなからう。又和野崎の東方に小字袴田、彼岸寺−−ヒンガンヂと呼び彼岸地とも書かれてゐる。−−なる地が和野に相接してあるが或時代には男山方面の火葬地であったらしゐ。隷属的関係にあったればこそ斯る事もあり得ることであらう。成程それで彼岸と云ふ名も肯がはれるし、斯る場所柄なりしに依って穴憂の里と名づけられたことであらう。此の場合アナウはワノと全然別個な関係から生じたことである。然しワノと云ふ先入観念からアナウと、もぢり穴憂の字が当てられたものでは無いかと見られぬ事はない。
 和野はワノであると云ふことになると式内吾野神社の問題が提起される。即ち吾野神社は和野に鎮座ましましたと云ふ説である。元来吾野はアノとかアガノとか訓むべき字であって之れをワノと訓んでゐる例は余り聞かぬ。去れど屡々云ふが如く転訛と云ふことがあるし殊にアとワの混同は已に古代に於てすらある例である。
 然し私の知ってゐる現地の地形からしても往古に社地があった所とは思へぬ。即ち式内吾野神社の地では無いと考へられるのである。畢竟私のワノの詮策はあな憂きことに帰着して了った。


《交通》
国道178号線

《産業》

須津の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎須津村(穴憂の里の西南、是道をとんこ廻りといふ)
犬堂の西須津嶺の下に岐路あり、右は文珠道なり、左に分れて嶺にかかる、是を須津嶺といふ。嶺の下に村あり、須津村といふ。宮津より一里。
【阿知江山+石部神社】(式内、祭九月朔日)
 阿知江山+石部神社、今須津彦須津姫大明神と称す。神社口実記に、丹後国吉佐倉橋山に所祭の神二座隼総別命女鳥王なりといふ。即須津彦須津姫大明神是なり。隼総別命女鳥王は応神天皇の皇子にして仁徳天皇の異母兄弟なり。日本史云。仁徳天皇四十年三月帝欲納異母妹雌鳥以爲妃使隼総別通命隼総別與雌鳥通久之不復命帝末之知親臨雌鳥室時雌鳥織機侍女歌曰。比佐箇多能阿梅箇儺?多謎廼利餓於瑠筒儺?多波?歩佐和気能己?於須?我泥。帝乃知隼総別私通意食之(日本記按古事記曰。天皇使速総別為謀女鳥主謂速総別王曰天皇難皇后之始不能納八田若郎女故吾不欸事願爲君妾即相姦同不復奏天皇偶女鳥王室女主上機而織天皇歌云女鳥王答歌)然帝素友憂且憚皇后隠忍不罪一日隼総別枕雌鳥王膝而以謂曰鷓鶺與隼?捷曰隼哉日是我所以先也帝聴而悪之隼総別舎人等歌曰。破夜歩佐波阿梅?能朋利等?箇?梨伊菟岐餓宇倍能裟奘岐等羅佐泥、帝聴而大怒曰朕不欲以私怨滅親然彼反欲社禝乎乃欲殺之(日本記按古事記曰。雌鳥王見速総別王来歌昆婆理波阿来邇迦気流多迦日玖夜波夜不佐和気佐那岐登良佐泥帝聞之欲殺速総別王)隼総別與雌鳥逃哉伊勢神宮帝勅吉備品遅部雄?播磨佐伯阿俄能胡追之曰所及即殺之雄?等追及伊勢蒔代野殺之(日本記按古事記曰。速総別王與雌鳥王逃入倉椅山行到宇陀蘇邇爲官兵所殺)
 愚按ずるに日本史に載する所は隼総別王女鳥王共に伊勢に逃れて藤代野といふ所に於て雄?等に殺さるといふ。古事記には隼総別命女烏主苫に遁れて丹波與佐の倉椅山にかくれ後に宇陀蘇邇に於て殺さるといふ。二書の説く所各異なりいまだ孰が是なるを知らず、ざれ共古事記にいふ所今丹後の口碑に存する所及神社口実記にある所と合するに似たり。具に録して参考に備ふ。
【大寂山江西寺】(臨済宗)
【枯木の浦】(村の西)
 懐中抄 枝もなく枯木の浦も風吹けは
       波の花にそ散乱るらめ      玄旨法印
     冬見れは梢に曇る夜半もなし
       枯木の島に写る月かけ      顕朝朝臣
【乳母の懐】(村の西南是より加悦撹の庄、石川、山田の二村へ道あり)
 乳母の懐といふ處は倉椅山の麓にありて四方皆山なり。昔隼総別王女鳥王と同じく丹波吉佐に遁て倉椅山に隠るといふは蓋是處なり、元より人の得て知る所にあらざれぱ乳母の懐の如しといふよって此名あり。後に大内嶺の下に移る、今異王城の跡あり。

【倉椅山】(枯木浦の西)
 日本古事記曰。速総別命女烏王苦走丹波吉佐隠于倉椅山於是速総別命歌曰。波斯多泥能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波加伎加禰?和賀泥登良鎮母。又歌曰。波斯多泥能久良波斯夜麻波差佐賀斯久母伊毛登能煩禮波佐賀斯玖母阿良受
  寓葉集旋頭歌 橋立倉椅山立白雲見欲我爲苗立白雲
       五月雨くらはし山の杜鵑
           おほつかなくも鳴渡るなり
       白雲のたな引いたる倉椅の
          山の松とも君はしらすや      貫之
       霧はれぬくらはし山の秋風の
         音にや月を鳴き渡るらん       慈鎮
       倉椅の山のかひより春霞
          としをみつゝやなり渡るらん    朝忠
【不歌の宮】(倉椅山末考)
【倉椅川】(倉椅山の西、今野田川といふ)
続古今集 橋立の倉椅川にかる螢
        永き日くらし涼む頃かな     後鳥羽院
     飛螢もへこそ渡れ橋立の
        倉椅川のくらき波間に      頓阿法師
寓葉集旋頭歌  橋立倉橋川石走者裳壮子時我度爲石走者裳
 愚按ずるに、古哥に倉椅山、倉橋川とあるは大和の十市郡にある倉橋山倉橋川なるよし。さもあらん
か、なれ共古事記に吉佐の倉椅山とあれば唯口碑に傳ふるのみならず吉佐にも倉椅山あるなり。今古
哥をみて此は丹後の倉椅山なり、彼は大和の倉椅山なりとはよく見分けがたし。よってみだりに録し
て参考に備ふと云爾。
【付録】(愛宕社、若宮八幡、大西荒神、奥山荒神、田辺小太夫館跡)

『丹後旧事記』
速総別尊。品陀和気尊の記に曰く(応神天皇也)娶桜井田部連島垂根女糸井比売の御子速総別尊島垂根の尊は当国與謝の郡筒川の庄日量里浦島太郎が祖也風土記に見えたり、日本古事記に曰く品陀和気尊の記に曰く娶丸迩比布礼能意富美女名は矢河枝比売生御子宇遅和気郎子次妹八田若郎子女次女鳥王(以上三柱)。古事記に曰く女鳥王大鷦鷯尊(仁徳天皇)仕るを速総別尊盗出て旦波の国與佐の倉梯山に隠る。同書に曰く大鷦鷯尊女鳥王寵愛深き故皇后妬み強く姉弟連て旦波に走る與佐の倉梯山に隠れ軍して後死也霊王谿の城王落峠も此古跡也。…神社口実記に曰く丹波国與佐霊王谿城倉椅の須津彦の須津比売と奉る二神所謂隼別女鳥王なり。或は阿知江・部の神社と云。

『丹後の宮津』
古墳の多い須津
 この「あまのはしだて」の内海に流れそゝぐ野田川が遠いむかしには想像以上に大きい歴史的役割をはたしていることが、その流域にちらばる古墳の多いこと、なかには姪子山古墳のような大古墳さえあることからも、十分知ることができる。そしていまここ須津の古墳をたずね、その様式出土副葬品などから考えられる時代をみるとき、しぜんこの野田川の流域が倉梯川時代においてすでにかなりの集落であったことが知られるのである。すなわち六世紀から七世紀にはじまり、八世紀にいたって古墳時代をおはっていること、須津ばかりでなく、加悦谷全体がおおむね同じ時代ではなかろうか。
 須津では多く倉梯山を中心に、小字からいうと−
   須津小字吉祥  一個(すでに破損)
   〃 〃小路山  一個
   〃 〃 舘   一個
   〃 〃 オーバコ 一個
   〃 〃 大谷 四、五個
   〃 〃 大下 二、三個
といった状体にちらばり、多く加悦谷寄り、石川堂谷境などである。このように一地域に古墳を多くみられるところは、わが宮津市には他にないのではなかろうか。この点、市民として大いに注意すべきであり、由良の石浦附近とともに、今後さらに調査研究されねばならない。志ある人々、一日をついやして、以上の古墳あるところを探査することも、また郷土を知り、地方の歴史的根拠を知るうえに、その利益は少なくないであろう。

大寂山・江西寺
 鉄道「岩滝ロ駅」のプラットホームにたって、山の方をみるといやでも目にうつるのがこの江西寺である。踏切りをこえて旧須津部落の中央を、まっすぐに寺への道を境内にあがると、まったくびっくりするほどの景観で、よくもまあこの地所を占有したものだと、感心させられる風光である。寺伝によると浜の枯木浦に創建されたのが大同年間(八○六−八○九)で、現在の地所へあがったのは慶長三年(一五九八)といわれる。おそらく、はじめは天台宗で、現在地へ移るときに禅宗となったのではなかろうか、やはり細川の真言倒しにつながりがありそうに思える。以来、寺を焼くこと二回、古い資料は求められないが、この寺に見るべきものが三点ある。すなわち一は無名の草花屏風一双と、与謝蕪村えがくところの屏風半双である。ことに前者は無名ではあるが、光琳派のきわめて現代的な感覚で、見るものに美しいもののよさを感じさせる。蕪村の屏風は、保存上の関係からか、かなりいたんでいる。そのほか仏画に小野篁や兆殿司の筆と伝えるものもあるが、それよりか山門上に安置される「木像地蔵尊」一体は、みごとな手法で、あるいは室町初期までものぼりうる作ではなかろうか。伝、仏工定朝の作だとされている。やがて境内をさるべく、堂外にたっとき、またしても見とれるこの景観、江西寺とは中国の揚子江辺になぞらえてつけられたとのこと、まことに阿蘇の海−−枯木浦をのぞむこの風光は、いかにもと感じさせる場所である。
 寺をおりて、足を須津彦神社にむけるもよいし、古老にきいて地内の名所旧蹟をたづねるもよい。しかし、ここ旧式内・須津彦・須津姫神社は、もと「阿知江岩部神社」であるというのは丹哥府志などである。祭神は履仲天皇(去来穂別命)とその皇后(久呂比売命)であるといゝ、例の億計・弘計が丹波与佐の倉梯山にのがれてきたという伝説につながっている。いずれにしても、この土地の古さを物語り、とくに前記の倉梯山周辺にちらばる古墳地域は、宮津市内におけるもっとも重要な対象として、観光客や研究者にも便利なように施設する必要があるのではなかろうか。




須津の小字

『角川日本地名大辞典』より、
須津
大谷奥 宮ケ谷 大谷 大谷口 大谷小外 池ケ尾 北谷 北谷奥 柿ノ木谷 釣鐘 ツリガネ小外 堂明 一本松 芋谷 松木谷 ハリノ木 榿 松ノ木谷 鍛冶屋口 鍛冶屋 大下 湊 竹原田 ミナト 下川切 庚申田 下川切庚申田 アクビ ワカナ アクヒ 牛谷 塚穴 枯木鼻 一丁町 枯木一丁町 丸反町 枯木 山峠 下宝山 流レ川 宝山 大久保 ナガサミ オノ木 油田 長ザミ ジイ田 山田 本場 タノキヲ 鍋山 谷口 反田口 反田 日ケ久保 岡 下山田 杉ケ坪 タラノ木 板ケ坪 西ノ立 家ノ奥 荒神鼻 沖田 辻寺後 フケ町 大道筋 浜垣 髪屋敷 家堂ノ立 小和田 家ノ堂 宮ノ後 館 石小谷 石小谷川原 原谷 由振谷 ?《龍のしたに石》臼 梁谷 的場 西谷 西谷口 笹ケ谷 和田ケ谷 大年 大箱 半小 川原 馬場谷 馬場ケ谷 赤坂口 赤坂谷口 赤坂谷 山ノ神 古家 谷陰 寄穴 寺砂蛾 吉詳 向小路 宮ノ前 吉里 黍 五反田浜 五反田 与謝里 椎ノ木谷 岡田 幽浦 箕井ノ手 岡田ハマ 赤道? 赤道 大石谷 大薮 大薮浜 金得浜 金得 御所内 霧山 二反田 二反田登り 小谷屋敷 中川原 小松原 犬ノ爪 溝ノ谷 溝谷口 溝谷 カセダニ 水呑場 蝮谷 蜂山 馬乗 大土 二ノ谷口 二ノ谷 トシコ 小路山 ?町 八幡谷 八幡 蟻山 ?売 ?売 八反田 一ツ山 一ソ山浜 番屋 次郎屋敷 霞口 霞 小霞 柳原 湫谷 湫 茶ヱン 田尻 中舟屋頭 神田 平 宮ノ谷 小外 柿木谷 鐘釣 向山 宝山口 山田 タラノキ 板ノ坪 権ノ堀 上岡 中西立 中西 中西谷 寺ノ下 札場川尻 寺ノ後 寺ノ尾 中舟屋 東浜 家谷 地現谷 荒神下 家堂 宮阪 宮ノ上 梨ケ岡 明ケ谷 井根口 谷陰 砂峨 吉祥 黍浜 赤通 大平 三町田 トンコ 小路ヤマ 八反段 番屋 赤崎 秋ノ谷 小谷小外口 小峠 大久保 上宝山 流レ川東側 西浜 道分レ 杉ノ坪 西ノ立 家奥 仲舟屋 家ノ堂上 荒神下 宮ノ土 梨ノ岡 井根 大薮ハマ 芋谷奥 枯木山 ジイダ ?谷 地獄谷 椎木谷 八反圃 鞦 シリカイ 倉梯山 奥山 東禅寺 須津山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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