丹後の地名

杉末神社
(すぎのすえじんしゃ)
:与謝郡式内社
宮津市宮町

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京都府宮津市宮町

京都府与謝郡宮津町宮町


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杉末神社の概要



《杉末神社の概要》
杉末神社(宮津市宮町)
式内社・杉末神社。
左が日吉神社本殿で、その左脇に摂社としてある。これらの神社の後側は境内続きで如願寺で、日吉神社はそこの鎮守だったともいう。



与謝郡式内社20座(大3・小17)のなかの小社。旧村社。祭神は大物主命。宮津郷内唯一の式内社ともいわれる。
しかし宮津郷は広く、大江山山中には布甲神社があって、ここも宮津郷とも考えられるし、栗田には久理陀神社、田結神社があるので、宮津郷には杉末一社だけだったとは言えまいが、しかし下流沖積平野の近世以降の与謝郡の中心地となった場所、単に宮津と呼ばれる所には、この一社のみであった。
従って、宮津の「宮」とはこの杉末神社のことだといわれる。宮津とは、杉末神社のある「津」=港という意味になる。
「室尾山観音寺神名帳」「与謝郡六十八前」では、「従二位 粉末(スギスエ)明神」かと思われる。杉末神社
「宮津府志」によれば、
敏達天皇元年に大和の三諸山(三輪山)より丹後国余謝郡杉末に降った、今は山王社(日吉神社)の傍らに僅かに摂社としてあるが、元はここが杉末神社を祭った地である。という。
山王社は杉末神社よりも後にここへ来たもので、先輩を出し抜いて、宮津市街地の総鎮守の地位を奪ったものと、考えられる。
鎮座地は松ヶ岡と呼ばれるは眺望のよい場所で、総鎮守を祭るにふさわしい地である。
分宮(和貴宮神社)を東の町の氏神とするに対し、杉末神社は西の町の氏神とされた。
神事として「赤ちゃん相撲」がある。

さて、本来は何の神様を祀ったものであろうか。大和一宮・三輪神社の神様を勧請したと江戸期の文献類は伝える。この伝承が正しければ、杉末神社は三輪神社と呼んでもいいことになるが、古事記によれば、陶津耳(すえつみみ)の娘・活玉依毘売(いくたまよりひめ)に夜な夜な通う男があって身ごもった。父母が男の正体をつきとめるために、糸巻きに巻いた糸を針に通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。翌朝見ると糸は戸のかぎ穴から抜け出ており、糸巻きには3巻きだけ残っていた。そこで糸をたよりに訪ねて行くと美和山の神の社にたどりついた。男は正体が美和山の神であり、生まれた子はその神の子であることがわかった。残った三勾(みわ)の糸にちなんでその地をミワと名づけた。この子が三輪氏の祖の意富多多泥古(おほたたねこ)であり、三輪山の神・大物主神を祭ったという。三輪山の神はこのようにヘビであり、また雷神でもあったとも伝わっている。三輪山型伝説と呼ばれるものの本地で、蛇婿入りなどとも分類されていて、この型の伝説は丹後でもあちこちにある。
この伝説の伝わる所は鉄と見てそう間違いはない。三輪山もその麓に巻向遺跡などがあって、ここが邪馬台国だなとどされるのは、この山の鉄あってのこと、ではなかろうか。何も記録はないが、あるいはここは全国のごく初期の鉱山師鍛冶屋たちの総本山であったかも知れない。
杉末の末は陶津耳命のスエ、すなわち陶器(すえき)(須恵器)のスエではなかろうか。杉は杉山などと同じでスガの転訛、従って鉄と須恵器の神様ではなかろうかと私は考える。
背中合わせの如願寺の本尊は行基作と伝わる薬師様、この地は明治以前まで広く吹屋谷(→万年)と呼ばれたし、近世以前は「かじ」と呼ばれた。今も金屋谷という地名が残るし、カゴの谷(→小川)もある。裏山は花崗岩で金引山に、その北の滝上山の頂はたぬきヶ嶽とも呼ばれる、サヌキ=サナキかも知れない。宮津藩の大砲の鋳造所もこのあたりにあったという。
古代のある時、ここへ移動してきた製鉄や須恵器製作にたずさわっていた大田田根子の子孫が祀ったとも考えられる。


杉末神社の主な歴史記録

《宮津府志》
杉末大明神
祭神 大物主命  在山王社地内
祭日 九月九日
 社記ニ曰人皇三十一代敏達天皇即位元年自リ二和州三諸山一降二在シ丹後国余謝郡杉ノ末ニ一出現鎮座而垂レ跡ヲ號ス二
杉末大明神ト一云云。舊記曰明年四月六日始テ奉リ二官幣一齋祭ル。
 謹按杉末神社載二延喜式神名帳一則チ在リテ二餘謝郡ニ一而與二籠神社久理陀神社等ト一共ニ是古祠存スル者ニシテ而今僅々トシテ在リテ二山王ノ社ノ傍ラニ一如ク二摂社ノ一然リ。或ル人云今ノ山王ノ社地ハ者元是レ祭ユ二杉末明神ヲ一之地也自リ三中古合セ二祭リシ山王ヲ於此ニ一己後星霜幾遷主二祭トシテ山王ヲ一而却テ移スコト二当社ヲ於傍ラニ一猶ホ二府中一宮之例ノ一又云当社ノ元ハ在リ二川向町ノ北ニ一中古祭ル二於此ニ一故ニ于レ今名ケテ二其地ヲ一曰フ二杉末町ト一。

《丹哥府志》
【杉末神社】(延喜式)杉末神社今山王の境内に在り、祭九月十日。

《丹後旧事記》
杉末神社。宮津市場杉末町。祭神=杉末大明神 大物主命。延喜式竝小社。合神=山王大権現。人王卅一代敏達天皇即位元年壬辰従和州三諸山降丹波国与佐郡宮津杉末山下出現鎮座而垂跡玉杉末大明神号。
 旧記曰く明年四月六日始而官幣奉捧斎也合神山王大権現者人皇四十五代聖武天皇天平九年丁丑江州従故本里勧請。
 又人皇卅三代崇峻天皇即位元年戊申九月神告依給江州日吉社移祭此宝殿有山上洪水漸々残棟札以杉末大明神合殿。

『丹後史料叢書五』「丹後国式内神社取調書」

杉末神社
○末当作米出雲国須義禰神社米与禰通
【宮津志】宮津城下杉末町ニアリ杉末大明神山王同所ナリ山王社地ハ本當社鎮座ノ地也中古ヨリ山王ヲ本社トナシ当社ヲ摂社ノ如クナシ来レリ【覈】宮津市場杉末町【明細】宮町祭神大物主相殿大巳貴少彦名祭日九月十日【道】宮津町宮津大明神【式考】宮津町日吉社境内祭ル神ハ大和国三諸山ヨリ降臨ノ由サレバ大物主櫛甕魂命ナルベシト吉岡氏云リ【豊】宮津宮町字松ケ岡大物主神十月十日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)

《宮津市史》
子供相撲
 宮町にある日吉神社の境内社杉末神社では、十月十日の例祭に「赤ちゃんの初土俵入り」と呼ばれる奉納相撲が行われる。
 当日、境内に設けられた受付で化粧まわしをつけてもらった赤ちゃんは、母親に抱かれて杉末神社の拝殿でお祓いを受け、神社正面に設けられた土俵に進む。行司に抱えられた赤ちゃんは、土俵中央に進み出て、神前に向かって四股を踏む。次に行司は、シィーという声を発しながら、赤ちゃんを抱えたまま神前に向かって進み、神を土俵際まで追い詰める動作をする。今度は逆に土俵中央に押し戻されるように後退し、土俵中央で赤ちゃんに尻もちをつかせて神事は終わる。このように、見えない神を相手に相撲を取り、神聖な土俵の砂を身体に付けることによって、子供の成長と健康を祈願するのである。たくましく健康に育つことを願って行われており、神社の古文書によると江戸時代中期に始まったと伝えられる。
 元来は杉末神社の氏子で、一歳以上の赤ちゃんが対象であった。
 なお、赤ちゃんの初土俵入りの後、子供たちの奉納相撲が執り行われる。

現地の案内板
赤ちゃん土俵(杉末神社)
杉末神社
ご祭神 少彦名神 大物主神
ご神徳 無病息災 病気平癒
健康・医薬の神として昔から無病息災が祈られてきました。
子どもの成長を祈る「赤ちゃん初土俵入り」もそうしたご神徳によるものです。
宮津で最も古い神社で、宮津の名が使われ始めた頃に唯一存在し、その地名の由来となった神社です。

案内板(杉末神社)
現地の案内板
赤ちゃん 初土俵入
 十月、体育の日に執り行われます赤ちゃん「初土俵入」は、華麗な化粧回しを付けた幼児が見えない神様を相手に相撲を取ることで健康を授かるという可愛らしい神事です。江戸時代中頃、それまで行われていた地元力士による奉納花相撲の影響を受けて、氏子中の有力な家々が屋号などを元にした化粧回しを作りその子供達を土俵に上げたのが始まりで、以来今日まで城下町宮津の子供たちの大切な儀式として守られてまいりました。
 日本には幾つかの子供の相撲行事が有りますが、初土俵入は全国に例を見ることはないきわめて珍しい神事であり、当日境内は各地から集う沢山の子供達の泣き声、そしてそれを見守る人々の歓声で大いに賑わいます。
赤ちゃん「初土俵入り」

詳しくは赤ちゃん「初土俵入り」」を




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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